瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
藤井聡太七段、棋聖戦決勝T進出ならず 年度勝率の記録更新も難しい状況に ―― 将棋の最年少棋士・藤井聡太七段(16)が11日、大阪市の関西将棋会館で指された棋聖戦2次予選決勝で久保利明九段(43)に127手で敗れ、決勝トーナメント進出を逃した。

 
どちらに形勢が傾いているのか両対局者ともわからないほどの大接戦。振り飛車党の旗手・久保が繰り出した竜2枚使いの激しい攻めに最後は屈した。
https://www.youtube.com/watch?v=62jII_SU46g
 
局後は、中盤で久保の飛車が竜に成った手を軽視し、時間も使わされたことを猛省。「終盤はチャンスのある局面もあったが、わからなかった」と、背中を丸めながら盤上を見つめ、悔しさを隠さなかった。
 
来年度に史上最年少でのタイトル挑戦・獲得を目指す上で、最も早いのが、タイトルをかけた五番勝負が6〜8月にある棋聖戦だった。過去の最年少記録はいずれも屋敷伸之九段(47)が持つ前者が17歳10カ月、後者が18歳6カ月。記録更新をかけた戦いの舞台は他のタイトルに切り替えることになる。
 
また、「そのことは余り意識していない」と、これまで同様の発言を繰り返した勝率の51年ぶり記録更新の可能性も難しくなった。
 
この日の敗戦で・840042勝8敗。未放送のテレビ対局除く)となり、歴代1位・中原誠十六世名人の持つ・854547勝8敗、1967年度)を下回った。正式な年度内の残り対局数は日本将棋連盟から未発表だが、3局までの見込み。この場合、再び中原の数字を上回ることはできない。  [Sponichi Annex 2019311 18:04 ]


 


 中学横綱・吉井、プロ1勝を喜ぶ「嘉風関のようにうまい相撲が取りたい」はてなブックマーク ―― 前相撲が始まり、昨年の中学横綱の吉井(15=中川部屋)は梶野改め大飛翔(15=追手風部屋)を寄り切りで破った。

 
「アマチュアとは緊張感が違った。前日は緊張しなかったが、来たら雰囲気が違った」。初めてのプロの土俵で最初の立ち合いは突っかけてしまったが、2度目はすぐに胸を合わせ、右上手を引きつけて勝負を決めた。
 
静岡・燒津市立港中では、昨年の全国中学校選手権で個人、団体の2冠となった。昨年12月に都内で扁桃腺の手術を受けた際、中川親方(元幕内・旭里)が病院まで足を運んでくれたことで中川部屋入りを決断した。前日の10日には中川親方から新弟子検査の合格証を受け取り、「これが夢の第一歩」とプロになったことを実感。「早くプロの舞台に立ちたかったから、楽しかった」とプロ1勝を喜んだ。
 
この日は左四つでの勝利だったが、本来は「右四つで起こしてから前に出る相撲が得意」という「嘉風関のようにうまい相撲が取りたい。20歳ぐらいまでに関取になって、応援してくれる人への恩返しをしたい」と青写真を描いていた。
 
昨年の高校横綱で国体少年の個人も制した埼玉栄高出身の斎藤改め北の若(18=八角部屋)は、力強い突っ張り5発で大山改め岡ノ城(15=出羽海部屋)を突き出した。「いつも通りの相撲が取れて良かった。不安もあったけどしっかりやれた」と淡々と振り返った。

 
しこ名は師匠の八角親方(元横綱・北勝海)につけてもらった。「まだ自分の名前という感覚はないけど、慣れていこうと思う」。目標とする力士は大関・豪栄道、関脇・貴景勝ら埼玉栄高のOB全て。「一つでも1秒でも早く関取になれるように、師匠の言うことを聞いて頑張るだけ。早く追いつけるように頑張りたい」とスピード出世を目指していく。   (3月11日(月)1058分 スポーツニッポン)


大相撲春場所 2日目 貴景勝が2連勝 ―― 平成最後の大相撲春場所は2日目、大関昇進のかかる関脇 貴景勝は、平幕の錦木に押し出しで勝って2連勝です。
中入り後の勝敗
▼千代翔馬に新入幕の大翔鵬の初顔合わせの一番は、千代翔馬が上手出し投げで勝ちました。
▼豊山に十両の千代丸は、豊山が押し出し。
▼石浦に新入幕の照強の初顔合わせの一番は、石浦がはたき込み。
▼豊ノ島に琴恵光の初顔合わせの一番は、琴恵光が突き落とし。
▼嘉風に輝は、輝が押し出しで勝ちました。
▼明生に新入幕の友風の初顔合わせの一番は、明生が押し倒し。
▼竜電に松鳳山は、竜電が寄り切り。
▼勢に矢後は、矢後がはたき込み。
▼佐田の海に朝乃山は、朝乃山がはたき込みで勝ちました。
▼宝富士に琴奨菊は、琴奨菊が寄り切り。
▼碧山に隠岐の海は、碧山が押し出し。
▼阿武咲に阿炎は、阿武咲が押し出し。
▼千代大龍に栃煌山は、千代大龍がはたき込みで勝ちました。
▼正代に逸ノ城は、逸ノ城が寄り切り。
▼錦木に大関昇進がかかる貴景勝は、貴景勝が押し出しで勝って2連勝。貴景勝は持ち味の低く鋭い当たりで、一気に押し出しました。
 
▼関脇の玉鷲に大栄翔は、大栄翔が押し倒し。
https://www.youtube.com/watch?v=RjfSA2ICTxk
▼小結 御嶽海に大関 高安は、高安が押し出し。高安は2分近い相撲を制しました。
 
▼妙義龍に大関 栃ノ心は妙義龍が押し出し。
https://www.youtube.com/watch?v=OyuWHc5lV_0
▼大関 豪栄道に新小結 北勝富士は、豪栄道が押し出し。
 
▼遠藤に横綱 白鵬は、白鵬が押し出し。

    横綱 鶴竜に魁聖は、鶴竜が寄り切り。10日の初日に敗れた鶴竜は、今場所初白星です。
   (NHK WEB NEWS 2019311 1856分)


 

ウェブニュースより
 
元大関・照ノ富士 序二段で354日ぶり白星「1年間を見てみようという気持ち」 ―― 元大関・照ノ富士が再出発を白星で飾った。史上初めて元大関として序二段の土俵に上がり、若野口をはたき込みで下した。

 
「久しぶりの土俵だったので緊張はありました。不思議な気持ち。(こういう感情は)初めて感じた」と十両だった昨年春場所11日目以来、354日ぶりの白星に感慨深げ。
 
17年夏場所で優勝次点の12勝を挙げたが、その後は両膝のケガの影響で10場所連続負け越し。昨年6月には膝の手術も受けた。コンディションもまだ手探りの状態で、稽古も若手に胸を出す程度。今場所の出場の決断も大阪入りしてからと急だった。「(伊勢ケ浜)親方の言う通り、今の感じの稽古では(結果を出すのは)無理なので。今場所で終わりではなく、1年間を見てみようという気持ちがあります」と控えめ。45場所ぶりの序二段での勝ち越しについても「全く考えていない」と慎重だった。   [Spinichi Annex 2019311 05:30 ]

 
初まげ効果!納谷白星スタート 「眠そうな顔」からキュッと変身 ―― 初めてまげ姿で本場所の土俵に上がった幕下の納谷(19=大嶽部屋)が、押し出しで深海山を下し白星スタートを切った。 立ち合いから前に出て相手のいなしにもうまく反応し、危なげのない相撲内容だった。

 
「気持ちが入って良かったです。まげ?これでお相撲さんになったので、しっかりやらなきゃと思いました」と初まげ効果に表情を緩めた。
 
場所前は連合稽古や出稽古にも積極的に出向いた。「いろんな人と(稽古が)できました。馬力で勝てるようになった。そこは進歩したかなと思います」。体も引き締まったそうで「まわしが短くなった気がします。(体重も)今は170キロを切るくらい。これくらいがちょうどいい。体も動きます」と手応えを口にする。
 
まげは先場所の千秋楽のパーティーで初めて結った。「ザンバラの時より生活しやすい。前は眠そうな顔をしていると言われてたんですけど(髪を引っ張ることで目尻が上がり)キッとしたと言われました。(埼玉栄高の)山田監督にも“似合っている”“頑張れ”と言われました」と笑顔で話していた。   [Spinichi Annex 2019310 13:43 ]


 大相撲春場所初日 休場明けの鶴竜が黒星 貴景勝は白星 ―― 平成最後の大相撲春場所が初日を迎え、休場明けの横綱 鶴竜が小結 御嶽海に送り出しで敗れ、黒星を喫しました。一方、大関昇進のかかる関脇 貴景勝は、平幕の妙義龍に押し出しで勝って白星スタートです。
 
中入り後の勝敗です。
▼千代翔馬に十両の志摩ノ海は、千代翔馬が上手投げで勝ちました。
▼新入幕の大翔鵬に豊山の初顔合わせの一番は、豊山が押し出し。
▼石浦に琴恵光は、石浦がとったり。
▼新入幕の照強に豊ノ島の初顔合わせの一番は、豊ノ島がはたき込み。
▼新入幕の友風に輝の初顔合わせの一番は、友風がはたき込みで幕内で初白星を挙げました。
▼嘉風に明生は、嘉風がはたき込み。
▼竜電に矢後の初顔合わせの一番は、竜電が下手投げ。

▼松鳳山に勢は、勢が押し出しで勝ちました。
▼佐田の海に琴奨菊は、琴奨菊が押し出し。
▼朝乃山に宝富士は、朝乃山がすくい投げ。

▼碧山に阿炎は碧山が突き落とし。
▼隠岐の海に阿武咲は阿武咲が押し出し。
▼千代大龍に逸ノ城は逸ノ城が突き落としで勝ちました。
▼栃煌山に正代は、栃煌山が肩透かし。
▼錦木に関脇 玉鷲は、玉鷲が押し出し。

▼大関昇進のかかる貴景勝に妙義龍は、貴景勝が盤石の相撲で押し出しで勝ちました。

▼角番の大関 栃ノ心に大栄翔は、栃ノ心が突き落とし。

▼遠藤に大関 豪栄道は、豪栄道が押し出し。
▼大関 高安に魁聖は、高安が寄り切り。
▼御嶽海に横綱 鶴竜は、御嶽海が送り出し。休場明けの鶴竜は初日黒星です。

▼横綱 白鵬に新小結 北勝富士は、白鵬が突き落としで勝ちました。
40歳安美錦「前みつを取ることだけ考えた」
 
現役の関取最年長、40歳の安美錦は「しっかり当たって前みつを取ることだけを考えていた。足がついていかないのは今に始まったことじゃない。その分、前みつを取ろうと思いいい所が取れたんだけどね」と話していました。
 
新入幕の大翔鵬は初日黒星に「難しいですね。むだに緊張して立ち合いで当たれていなかった。棒立ちだった。相撲に集中できていなかった感じがする。あすからだ」と切り替えていました。
 
幕内でおよそ3年ぶりに白星を挙げた豊ノ島は「けがをしてから体をよく動かすようにしている。幕内の雰囲気は最高で華やかだ。今あるのは家族の支えで、まだまだ活躍できる自信がある」と終始笑顔を見せていました。
 
一方、敗れた新入幕の照強は「出だしとしては悪くない。立ち合いで踏み込みが足りず前みつを取れなかった。緊張しなかったので、またあすから落ち着いていい相撲を取りたい」と話していました。
 
新入幕の友風は初白星に「緊張はしたがだいぶ落ち着いてやれた。雰囲気も環境もこれまでと全く違う。満員御礼で土俵に上がったのは初めてなので楽しかった。相手はずっとここでやってきていて強いので自分の相撲を取りたい。立ち合いで当たっての押し相撲、弱気な引きをしない。きょうは勝つことができたが、簡単に連勝できる場所ではない」と気を引き締めていました。
 
ご当地の勢は厳しい相撲での初白星に「反応がよくいい相撲だった。足は痛めていて40度の熱もあり、ふらふらの状態です」と話していました。
 
大関昇進がかかる関脇貴景勝も白星スタートに「自分の持っている力を出し切ろうと思ってやった。内容は普通だ。いつもと同じで今場所にかぎって大事とかではない。気持ちの変化はない。まわしを取ったら自分の相撲を取れないので、徹底しようと思った。こういう状況でなかなか相撲を取ることはできないので、感謝しながら気持ちを入れて、15日間、その繰り返しでやっていきたい」といつもどおり淡々と話していました。
 
地元関西での場所で、会場から大きな声援が送られたことについては「いろいろな声をもらって期待に応えたいというよりは、がっかりさせたくない。恥ずかしい相撲を取れないという気持ちで、相手に向かっていきたい」と話していました。
 
初日に敗れた横綱 鶴竜は「前に出ればよいのだが、そういう時に引く悪い癖が出る。引きも中途半端だった。動き自体はよかったが、きょうは引きが…。前向きにあすから取り組む」と切り替えていました。
 
鶴竜を破った御嶽海は「よかった。相手が引いてくれたので、ついていくだけだった。立ち合いで遅れて押し込まれたが、姿勢を低くしてついていった。立ち合いでもっと下から当たらないとね。修正するところはたくさんある」と話していました。
 
横綱 白鵬は「受け止めての突き落としは、最初から全く頭になく流れでね。しっかりやらないといけないというのはあった。ひざの感覚は先場所よりはいいかな。またあしたという感じだね」と話していました。   (NHK NEWS WEB 2019310 1853分)


 

『オリンピアのゼウス像』(オリンピアのゼウスぞう)は、紀元前435年に古代の高名な彫刻家ペイディアスによって建造された、天空神ゼウスの彫像です。古典古代における世界の七不思議の一つです。

 
主に古代オリンピックにおける奉納競技の本尊とされていたとみなされています。

構造
 
紀元前5世紀頃、オリンピアにゼウス神殿が建造されました。ゼウス像はこの神殿の奥に収められ、その全幅は神殿の通路の幅とほぼ同じでした。座像でありながら、全長は約12メートル(約40フィート)もありました。紀元前1世紀頃の地理学者ストラボンは「もし、ゼウス像が立ち上がったら、屋根を突き抜けてしまうだろう」と記述しています。

 
本体は杉で作られ、表面を象牙で覆っていた。表面の乾燥を防ぐために、常にオリーブ油を塗布していたといいます。座席は金、象牙、黒檀、宝石で飾られていました。右手には勝利の女神ニケの彫像を持ち、左手には鷲が止まった錫杖を持っていました。

後年
 
紀元前2世紀頃のローマの将軍ルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクスは、マケドニアを征服した際にこの像を見物し、あまりの神々しさに強い畏敬の念を感じたといいます。

 
建造から800年後の394年、ゼウス像はオリンピアからビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルに移された。その後の消息は不明ですが、おそらく焼失したものと考えられています。

 
1958年、ゼウス像の建造に使用されたと考えられる工房が発見されました。この発見によってゼウス像の全容の解明が進められましました。


 

③エフェソスのアルテミス神殿
 
 
アルテミス神殿 (Artemisium)は、紀元前7世紀から紀元3世紀にかけてエフェソス(現在のトルコ)に存在した、アルテミスを奉った総大理石の神殿です。世界の七不思議のひとつに挙げられていますが、現在は原形をとどめていません。
 
最初の神殿は、紀元前700年頃の物で、キンメリア人によって破壊され、その後、紀元前550年頃にリディアのクロイソス王によって再建されました。

 
その後、紀元前356年に放火で再び失われ、紀元前323年に三度建てられたといいます。世界の七不思議のリストの編纂者である、紀元前2世紀後半のシドンのアンティパトレスは次のように表現しています。
 
「私は戦車が通りうるほど広いバビロンの城壁を見、アルペイオス河畔のゼウス像を見た。空中庭園も、ヘリオスの巨像も、多くの人々の労働の結集たる大ピラミッドも、はたまたマウソロスの巨大な霊廟も見た。しかし、アルテミスの宮がはるか雲を突いてそびえているのを見たとき、その他の驚きはすっかり霞んでしまった。私は言った、「見よ、オリンポスを別にすれば、かつて日の下にこれほどのものはなかった。」  ――アンティパトレス、『パラティン詩選集』958
 
同じく世界の七不思議のリストの編纂者であるビザンチウムのフィロンもまた次のように表現しています。
 
「エフェソスのアルテミス神殿は、神々のただひとつの家である。一目見れば、ここがただの場所ではないことがわかるだろう。ここでは、不死なる神の天上世界が地上に置かれているのである。巨人たち、すなわちアロエウスの子らは、天に登ろうとして山々を積み上げ、神殿ではなくオリンポスを築いたのだから。  ――フィロン
 
エフェソスのアルテミス神殿を発見したのは、イギリス人技師ジョン・ウッド率いる、大英博物館の考古学探検隊です。彼らは、1863年から7年にわたりエフェソスの発掘を続け、186912月についに深さ4m半の泥の中から神殿跡を発見しました。これは、ハインリヒ・シュリーマンがトロイアやミケーネを発掘する以前のことで、東方の古代遺跡発掘のさきがけとなりました。彼らが発見した円柱の断片などは、現在大英博物館に所蔵されています。
 
その後の調査で、神殿は3つあり、古い神殿の跡に新しい神殿を建てていたことがわかった。その最も古い物は、紀元前700年頃と推定されています。
 
アルテミス神殿は、現在のトルコ共和国の港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていました。
 
他の世界の七不思議と同様、アンティパトレスがこの神殿をリストに入れた理由は、その美しさや大きさのためではなく、むしろ、ギリシア世界の境界近くにあったためでした。その所在地から、ギリシア人に神秘と畏怖の念を与え、アレキサンダー大王の帝国の巨大さを強調したのです。

エフェソスのアルテミス
 
アルテミスはギリシアの女神です。アポローンと双子で、清純な女狩人として知られ、また、ティーターンやセレーネーに代わる月の女神です。アテネでは、クレタ島の地母神の性格を受け継いだオリンピアの女神の中で、アテーナーがアルテミスよりもあがめられていました。
 
一方、エフェソスでは、アルテミスは非常に敬われていました。例えば、月の1つはアルテミスの名前を冠しており、その月には丸1ヶ月祝祭が催されました。信仰の対象はギリシア文化以前の古い偶像でした。その元となる偶像は木製で、ギリシアのアルテミスに見られる処女性とは対照的に、豊穣多産を象徴する多数の乳房を持っていました。そして、この女神の象徴は蜂でした。
 
この偶像の複製や縮小したものが古代には出回り、現在も残っています。また、その偶像は、ギリシア本土のものとは違い、エジプトや近東に見られるように、体と足が先細りの柱のようになっており、そこから足首が出ています。

 
また、エフェソスで鋳造されたコインでは、その多数の乳房を持った女神が、キュベレーの特徴として見られるように、城壁冠(胸壁形の金冠)をつけています。そして、蛇が絡み合ってできた柱、またはウロボロス(自分の尾を自分の口に入れている蛇)を積み上げたものに手を置いています。
 
このような習合の慣習は、オリンピアの神々をはじめとする国外の神々を吸収したもので、イオニア人の居住者たちが、エフェソスの女性とアルテミスを重ねたと考えるのは根拠が薄いのは明らかです。
 
エフェソスの聖なる場所は、アルテミス神殿よりずっと古くにあり  ました。ギリシア人旅行家パウサニアスは、アルテミスの社はとても古くからあったと考えました。彼は、それはイオニア人の移住より何年も前にできており、アポロンの神託神殿よりも古いと確信を持って主張しています。また彼によれば、イオニア人以前のエフェソスの住人はリディア人などであったといいます。

 
この神殿は紀元前550年頃にクレタの建築家ケルシプロンと彼の息子メタゲネスによって設計され、裕福なリディア王クロイソスの負担で建築されました。
  プリニウスによれば、将来起こる地震を警戒して、建設地に湿地が選ばれたといいます。このような場所に巨大な基礎を築くことはできないので、まず地下に踏み潰した木炭を敷き、さらに羊毛を敷きこみました。
 
こうして完成した神殿は旅行者の注目の的となり、商人・王・観光客が訪れ、彼らの多くは宝石や様々な品物を奉納してアルテミスに敬意を表しました。そして、その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成したのです。
 この神殿は、避難所としても知られ、犯罪者を含め、多くの人々が身の安全のために逃げ込んだといいます。彼らは、アルテミスの保護下にあるとみなされ、決して捕まりませんでした。また、アマゾネスがヘラクレスとディオニュソスから逃げて避難したという神話もあります。
 エフェソスのアルテミス神殿は、紀元前356721日に、ヘロストラトスによる放火で破壊されました。言い伝えによれば彼の動機は、どんな犠牲を払っても名声を得たかったということです。このことから、「ヘロストラトスの名誉」という言葉まで生まれました。これは、つまらないことや犯罪行為によって、自分の名前を有名にしようとする人のことを表します。
「ある男が、最も美しい建造物を破壊することで自分の名前を世界中に広めようと、エフェソスのアルテミス神殿に放火する計画を考えた」 出典: Valerius Maximus, VIII.14.ext.5
 事件に憤慨したエフェソスの人々は、ヘロストラトスの名前を決して残さないことを共同決定した(ストラボンが後にこの名を書きとめたため、現在我々がその名を知ることとなりました)。そして、彼らは、以前よりもはるかに立派な神殿を造ろうと考えたといいます。
 まさにこの放火事件と同じ夜、アレクサンドロス3世(大王)は生まれたといいます。プルタルコスは、アルテミスはアレクサンドロスの出産のことで頭がいっぱいで、燃えている神殿を救えなかったと表現しています。アレクサンドロスは後に神殿の再建費用を支払うと申し出ますが、エフェソスの人々がこれを拒否しました。神が別の神を称えるのは適当ではないという返事だったと伝えられています。結局、アレクサンドロスの死後の紀元前323年に神殿は再建されました。
 ローマ皇帝ガリエヌスの治世の262年、再建された神殿は、ゴート人の襲撃の中で略奪・破壊された。「ゴート人の指導者たちは、船を操り、ヘレスポント海峡(現在のダーダネルス海峡)を越えてアジアにやってきた。多くの都市が破壊され、有名なアルテミス神殿に火をつけた」(Jordanes in Gtica:xx.107)と伝えられています。
 それから200年の間に、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失いました。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまったのです。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建ったのです。
建築と美術
 異なる記述も様々あるが、プリニウスによれば、神殿は、広さが縦115メートル、横55メートルで、高さ18メートルのイオニア式の柱127本からなっていた。神殿の内部は大理石の板石で飾られ、大きな入り口プロナオス・主要な広間ツェル・後方の小部屋オピトドムから構成された。ツェルには高さ15メートルのアルテミス像が置かれました。その像は木製で、顔と手足の先以外は黄金や宝石で飾られていたといいます。
 アルテミス神殿は多くのすばらしい芸術品を所蔵していた。絵画や、金銀に彩られた柱、そしてフェイディアスなど高名な彫刻家たちの作品が神殿を飾っていました。彫刻家たちはしばしば優れた彫刻を作ることで競争したといいます。彼らの作った彫刻の多くは、エフェソスを築いたといわれているアマゾネスを表すものでした。

 
また、プリニウスは、マウソロスの霊廟を手がけたスコパスが神殿の柱に浮き彫りを施したと述べています。

信仰と影響
 アルテミス神殿は、小アジア中の商人や旅人が見られる、経済的に活発な地域に位置していた。このため、この神殿は様々な文化の影響を受け、文化の異なるあらゆる人々が信仰の象徴とみなした。エフェソスの人々はキュベレを崇拝し、様々な文化をアルテミス崇拝に融合していった。こうしてアルテミスに融合したキュベレは、ローマの神で相当するディアナとは対照的な女神であった。アルテミス信仰は、はるか遠方の地からも大量の崇拝者をひきつけた。彼らは皆、神殿に集まり、アルテミスを崇拝したのでした。


 

ウェブニュースより
 
自身は昇級、藤井聡太七段は逃し…「師匠としては複雑」 ―― 第77期将棋名人戦・C級1組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)最終11回戦が5日、東京と大阪の将棋会館で一斉に指され、高校生棋士の藤井聡太(そうた)七段(16)と師匠の杉本昌隆八段(50)がともに勝ったが、藤井七段は一つ上のB級2組への昇級を順位の差で逃した。杉本八段は自力で昇級を決めた。藤井七段の順位戦での連続昇級は実現せず、名人への道の途中で足踏みとなった。

 
今期C級1組には39人が参加。それぞれ10局指し、上位2人が昇級できる。最終戦を前に、藤井七段や杉本八段ら5人に昇級の可能性があった。ただ、順位戦のルールでは勝ち星が同じ場合、今期の順位が上の棋士が優先されるため、杉本八段は勝てば昇級が決まるが、C級1組に昇ったばかりの藤井七段は順位が低いため、自分が勝つとともに、上位の競争相手3人のうちの2人が負けないと昇級できない状況だった。



 この日、藤井七段は大阪市福島区の関西将棋会館で都成竜馬(となり・りゅうま)五段(29)に、杉本八段は東京都渋谷区の将棋会館で千葉幸生(さきお)七段(40)にそれぞれ勝った。
https://www.youtube.com/watch?v=yXqNa6hQ-gE


https://www.youtube.com/watch?v=WE5ud_mG8fU


 昇級争いで二番手だった杉本八段に続き、トップを走っていた近藤誠也五段(22)も増田康宏六段(21)に勝ち、昇級者2人は近藤五段と杉本八段に決定。近藤五段はB級2組へ昇級したことで5日付で六段に昇段した。藤井七段は同じ勝ち星ながら順位の差で涙をのんだ。

 
順位戦の同じクラスで師弟がそろって昇級すれば、1986年度の第45期B級2組順位戦で師匠の大内延介(のぶゆき)九段(故人)と弟子の塚田泰明(つかだ・やすあき)九段(54)がそろってB級1組に昇級して以来、32年ぶりだった。
 
終局後、藤井七段は「前回(の10回戦の近藤誠也五段戦で)敗れてしまったので(昇級できなかったのは)仕方が無かったかなと思います。また来期も一局一局積み重ねていければ」と淡々と話した。昇級を決めた杉本八段は「藤井七段と一緒に昇級するのが夢だった。自分だけ上がってしまって申し訳ない。今回は藤井七段と昇級争いをするのが目標で、昇級は幸運だった。順位戦は実力のある人が上がるべきだと思う。自分にその資格があるのか、という葛藤を抱えながらの対局だった。今期の対局は失ったものを取り返すための対局。昇級を諦めかけた時期もあったが、諦めなければそれなりの結果が出せるということが証明できて良かった。棋士としては最高の気持ちだが、師匠としては非常に複雑な思いがある。ただ、藤井七段は必ず近いうちに昇級してくるので、もう一度ともに戦える日を待っている」と語った。   (朝日新聞DIGITAL 2019360212分)


 

ウェブニュースより
 
[東京マラソン2019]五輪見据え 2万人警備…きょう東京マラソン ―― 約38000人が参加する「東京マラソン2019」(読売新聞社など共催)が3日、開催される。警視庁は車両突入テロに備え、主要交差点で車両約200台による「防護壁」を築き、沿道の路地も封鎖。上空はドローン部隊で警戒し、来年の東京五輪・パラリンピックを見据え、民間警備員を合わせて総勢約2万人態勢で警備にあたる。

危機対応バイクも導入
 
車いすマラソンは午前9時5分、マラソンは同10分にスタートする。沿道に約130万人の観客が集まる見込みだが、警視庁が最も警戒しているのが、車両突入テロだ。今年元日には、東京・原宿の竹下通りで暴走車に8人がはねられる事件が起きており、「現実的な脅威」(警視庁幹部)とされる。
 
東京マラソンでは、機動隊バスなど計約200台で防護壁を築くほか、スタート地点の都庁前(新宿区)や浅草(台東区)、銀座(中央区)、東京駅前周辺(千代田区)には、イスラエル製の鉄柵(高さ70センチ、重さ22キロ)を組み合わせた「車両突入防止用バリア」を設置。コースに通じる路地も鉄柵や車止めで封鎖する。上空は、訓練を受けた「ドローン部隊」が警戒にあたる。

 スタートとゴール地点付近30か所には、「さすまた」の上部に看板を取りつけた案内標識を東京マラソン財団が設置。有事の際には看板を外して、制圧に使うことができる。テロリストを銃撃する「緊急時対応部隊」(ERT)も前年より増強する。

 
ランナーと並走しながらテロリストを警戒する「ランニングポリス」に加え、今回は新たに、自動体外式除細動器(AED)とカメラ付きの「危機対応バイク」を導入。テロや事故の際には現場に急行し、避難誘導や負傷者の手当てを行う。

 
東京マラソンのコースは、来年8月に行われる東京五輪と一部が重複しており、警視庁の重久真毅警備1課長は「東京五輪に向けた試金石になる。安全な五輪開催につなげたい」と話した。   (読売新聞 2019/03/03 05:00


 


中大の堀尾、MGC切符に驚き 東京マラソン5位 ―― スタート前から冷たい雨が降る悪条件。寒さに耐えかねて棄権した大迫やオーバーペースもたたって30キロから急激に失速した実力者の姿に、その過酷さが表れていた。一方、飛ばしすぎの先頭集団に付き合わなかった後続の日本勢は、中盤まで淡々とレースを進める。初マラソンの堀尾はその中に紛れていた。
 
前方から落ちてきた走者を次々に拾って順位を上げたのは30キロあたりから。25キロで給水に失敗し、隣の藤川に声を掛けて分けてもらったドリンクも力水となった。「ダメならダメでいい。ある程度余裕もあって、どんどん行こうと思った」
 
失うものはない大学生の存在感は徐々に増し、37キロ付近で佐藤をとらえて日本人トップに躍り出る。さすがに終盤は体が動かなくなったが、追っ手も状況は同じ。堂々の5位でのフィニッシュに、学生では初めてのMGCMarathon Grand Championship2019年9月15日に開催される予定のマラソン大会)出場権獲得もついてきて「これは現実かな」と驚きを隠せなかった。

 
兵庫・須磨学園高から中大に進学し、今年の箱根駅伝2区では区間5位。他の部員より5キロ長く距離走を行うなどしてマラソンの土台をつくってきたという。指導する藤原正和監督はその適性を見抜き「トラックよりマラソンで通用する。アキレスけんも長いので持っている能力は非常に高い」と太鼓判を押す。

 
183センチと長身で黒縁の眼鏡が印象的な22歳は大学卒業後、服部勇馬が所属するトヨタ自動車に進む。「東京五輪に挑む権利をもらった。全力で目指したい」。将来が楽しみな選手がまた一人現れた。
   (日本経済新聞 2019/3/3 20:07


 

②バビロンの空中庭園

 
超古代文明の話をする時に必ず出てくるのがこのバビロンの空中庭園です。
 
大昔に哲学者フィロンの制定した世界の七不思議の一つでもあり、話を聞いた感じでは確かに当時としては相当な技術を用いて作られた事が分かります。
 
ちなみに空中庭園と言うネーミングが非常に秀逸で、何も前知識が無い状態で聞くと宙に浮かんだ煌びやかな庭園をイメージするかと思いますが、実際は高層建築物の上層に設置されたためにこう呼ばれます。
 
現在のイラクあたりにバビロンの空中庭園の名残を見る事が出来ます。作られたのはおよそ紀元前600年前後、当時のバビロンの王様でもあるネブカドネザル2世が建立しました。

 
意図としてはメディアと言う遠方よりバビロンに嫁いだ王妃アミュティスのために作らせたと言う事ですが、この王妃当時大変なホームシックにかかったと言う伝承が残っています。
 
バビロンは基本的に砂漠地帯ですから、緑がそこかしこにあるわけではなく、逆に当時のメディアは青々した都市だったと言う記録も残っています。
 
少しでもホームシックを紛らわせるためにネブカドネザル2世が考えたのが砂漠地帯に荘厳な庭園を造る事でした。
 
こうしてバビロンの空中庭園は造られ有名になったのです。

 
驚くべきはその庭園のスケールです。
 
宮殿の外側に高さ25メートルにも及ぶ階層を5段上に積み重ねたと言う事ですから、砂漠を歩いている人から見たら確かに庭園が空中にあるかのように見えたはずです。

 
現在とは違いこれほどの規模の庭園にはそれなりの灌漑装置が必要になると思いますが、一体どのような技術で水を上層までまんべんなく運んだのでしょうか。
 
ここに関しては現在でも研究が進んでいます。
 
そして明確な答えは出ていない状態で幾つか有力な説はありますが、あくまで説ですね。
 
一番唱えられているのが、らせん状に水をくみ上げるために専用の装置を作り、更に緩やかな傾斜でもってらせん状に水を運ぶ水路を作ったと言う説です。
 
物理的には恐らく可能だと思います。
 
ユーフラテス川等から水さえ引いてしまえば上層の庭園まで水を運ぶことは出来ると思いますが、これが現実にあった方法だとすると当時のバビロンの技術は超古代文明と言っても差し支えないと思います。
 
もう一つの説は、ロバなどの動物による運動エネルギーで水を上層まで運んだ説です。
 
中世の水車の様なイメージで、何頭かの動物に大きな歯車を回させ、その時生じるエネルギーで水を上層まで運んだと言う説ですね。
 
上記と同じくこの説も十分可能だと思いますが、当時のバビロンにはどう言う動物が存在していたのでしょうか。
 
それこそロバ?馬?ラクダ?
 
この辺も更に研究が進まないと何とも言えませんがどちらにしろ高度に発達した建築技術が紀元前には存在していたと言う事です。
栄華の終焉と消えた空中庭園
 
記録に残っているのは紀元前538年にペルシア軍の侵攻により破壊されたとありますが、もったいないですね。
 
フィロンの七不思議で現在も残っているのはギザのピラミッドだけですが、この時破壊されなければもっと空中庭園の名残は残っていたかもしれません。
 
一応当時の書物に登場するのは「プリニウスの博物誌」と言う有名な歴史書のほか、何人もの人が記録に残しています。

 
古い建築物ですから多少の尾びれは付いていたとしても荘厳な空中庭園があったのはほぼ確定でしょう。
 
当時のバビロンは現在から見たら超古代文明と言えるような技術がもっと沢山あったのかもしれません。


 

ウェブニュースより
 
米朝首脳会談 非核化の進め方で合意に至らず ―― アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長の2回目の首脳会談は、非核化の進め方をめぐる両者の隔たりが浮き彫りになり、合意に至りませんでした。トランプ大統領は北朝鮮が制裁の完全な解除を求める一方、非核化の措置は一部にとどまったことが原因だと主張しました。

 
トランプ大統領とキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長による2回目の首脳会談は、27日に続いて28日もベトナムの首都ハノイのホテルで行われました。
 
両首脳は1対1で会談したあと、側近を加えた拡大会合を開きましたが、その後、予定されていた昼食会や合意文書の署名をとりやめて、そのまま会場をあとにしました。
 
トランプ大統領はこのあと記者会見し「非常に建設的な2日間だったが席を立たなければならない時もある。今回がそれだった」と述べ、会談は有意義だったとする一方、合意には至らなかったことを明らかにしました。
 
その理由についてトランプ大統領は「北朝鮮は制裁の完全な解除を求めたが、われわれはそれには応じられなかった」として、アメリカとして非核化が実現するまで解除しないとしている制裁の全面解除を北朝鮮が求めたからだと説明しました。
 
またトランプ大統領は「制裁は多くの国と協力してやっていることを忘れてはいけない」と述べ、制裁について妥協すれば各国からの信頼や協力体制を損ないかねないという認識も示しました。
 
そのうえで最大の焦点となっている非核化の措置については、キム委員長がニョンビョン(寧辺)の核施設などを廃棄する意思を示す一方、そのほかのウラン濃縮施設を含むほかの核施設の廃棄の要求には応じず、折り合えなかったとしています。
 
ただトランプ大統領は「キム・ジョンウン委員長との関係は良好だ」として決裂ではないと強調し、引き続き交渉を進めていく考えを示しました。
 
両首脳は今回、トップ交渉で去年6月の首脳会談以降、こう着状態に陥っていた非核化の協議の前進をはかりましたが、両者の溝は深く非核化の措置と見返りをめぐる大きな隔たりがかえって浮き彫りになる結果となりました。
北朝鮮 反応なし
 
ベトナムの首都ハノイで行われた2回目の米朝首脳会談の結果について、北朝鮮は、これまでのところ反応を示していません。
 
北朝鮮国営の朝鮮中央テレビは28日午後5時からの放送でも、27日行われたキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長とトランプ大統領の会談初日の様子を伝えるにとどまっています。
韓国「活発な対話継続に期待」
 
韓国大統領府の報道官は28日午後、会見を開き、「トランプ大統領とキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長が完全な合意に至らなかった点は残念に思う」と述べました。
 
一方で、成果もあったと強調し、「両首脳が互いの理解を深めたことを評価する。特にトランプ大統領が明らかにした、持続的な対話の意志と楽観的な見解は、次の会談に向けて明るい展望をもたらした」と述べました。
 
そのうえで、「今回の結果をもとに、今後も活発な対話が持続することを期待する。韓国政府は双方が緊密な協力と対話の流れを維持していくよう、あらゆる努力を尽くす」と述べ米朝の仲介役として積極的な役割を果たす考えを改めて示しました。
中国「対話と協議で問題解決を堅持していく必要」
 
米朝首脳会談で非核化などで合意に至らなかったことについて中国外務省の陸慷報道官は28日の記者会見で「朝鮮半島の問題解決は簡単に成功することはない」としたうえで、「双方は誠意を示して互いに歩み寄り、対話と協議を通じた問題解決を堅持していく必要がある」と強調しました。
 
そのうえで、「双方は対話を続けて互いの懸念に配慮し、アメリカと北朝鮮だけでなく、世界が望む前向きな成果を達成することを望む」と述べ、アメリカと北朝鮮が対話を継続し、問題解決に取り組むことに期待を示しました。
 
また今後の中国の役割について陸報道官は「中国は引き続き和解を促し、朝鮮半島の非核化と平和体制の構築を同時に進めていくことや、双方が互いに歩み寄ることを提起していく」と述べて、双方の対話を促すため、積極的な役割を果たしていく考えを示しました。
ロシア「交渉途絶えていないことを前向きにとらえている」
 
米朝首脳会談の結果についてロシア大統領府のペスコフ報道官は28日、「明確な合意には至らなかったようだが、交渉のプロセスが途絶えていないことを前向きにとらえている」と評価しました。
 
そしてこのような難しい問題は一気に解決できるものではないとしたうえで「双方が柔軟性や譲歩を示し、少しずつ合意にたどりつく必要がある」と述べ、アメリカと北朝鮮の双方が歩み寄る必要があるという考えを示しました。   (NHK NEWS WEB 2019228 2154分)


 

クフ王のピラミッド

 
ピラミッドの大きさは、完成時の高さは146m(現在は138m)、底辺は230m、勾配は51.5度で、誤差が非常に少なく正確です。ピラミッド建築の中でも最も優れており、いちばん大きなものです。2.5tの石灰岩を270万~280万個も積み上げて作られており、当時の石積みの技術の高さもうかがい知ることができます。
 
14世紀にイングランドのリンカン大聖堂が建てられるまでは、世界でいちばん大きな建造物でした。
 
クフ王のピラミッドは、紀元前2560年ごろに約20年の歳月を費やして作られました。クフ王は、エジプト古王朝時代の第4王朝のファラオで、彼の墳墓がこのピラミッドになります。しかしクフ王のミイラ自体は、ここから発見されていません。

 
クフ王のピラミッドは、1839年にイギリス軍人のハワード・ヴァイスによって発見されました。彼は、ピラミッド内部にあり、王の間にかかる重量を軽減するために造られたとする「重量軽減の間」にクフ王の名前を見つけ、ここがクフ王のピラミッドであると結論づけたのです。

クフ王の船(通称「太陽の船」)

 
1954年および1987年にギザの大ピラミッドの付近で発見された2隻の船です。クフ王の船は紀元前2500年頃、古代エジプト・古王国時代第4王朝のファラオであったクフのために造られたとされています。
 
クフ王第一の船は全長42.32m、全幅5.66mもの大きさで、古代の、最も古く、大きく、保存状態の良い船の1つです。主に杉板で作られていました。
 
クフ王第一の船は649の断片に分解された状態で、ギーザの台地に掘られた石坑に封をされていたため、船は発見されるまで全く乱されていませんでした。現在では、エジプト考古庁によって28年の歳月を掛けて発掘・復原が行われ、ピラミッド脇の博物館に展示されています。
 
1987年には第一の船が発見された竪坑の西隣から早稲田大学エジプト学研究所が電磁波レーダーを用いた地中探査を行い木材反応を確認、翌1988年アメリカ隊が石坑内部を小型機器で視認、もう1隻の別の船体が発見されました。こちらは「クフ王第二の船」と呼ばれ、発掘・保存・復元はエジプト考古庁と早稲田大学エジプト学研究所が共同で行うこととなり、2011年6月23日より約5年間の予定で発掘が進められています。2012年2月20日より埋設現場から木製部材の採取を開始しており、600以上の木片を回収し木造船を復元する予定です。
 
198710月にはアメリカ隊がファイバースコープを石蓋に開けた穴から挿入することにより船内の様子を撮影することに成功、6年後の1993年1月にはアメリカ隊が開けた穴に早稲田隊がマジックハンドを挿入し、木片を採取することに成功しています。さらに第一の船には無かったマストなどが見つかっています。
 
クフ王の船は何のために造られていたかはわかっていません。太陽の神ラーの元、復活する王を運ぶ儀式の船に似ていたため「太陽の船」と呼ばれています。しかし、実際は水で使用されたと見られる跡がありました。現在の研究では、クフ王が死んだ際、メンフィスからギーザまで王の防腐処置を施した死体を運ぶために使用されたか、クフ王自身が巡礼地を訪問するのに「巡礼の旅船」として使用されたのではないかとされています。また、クフ王が来世で使用するために埋められたのではないかという説もあります。


 

カフラー王のピラミッド
 
 
カフラー王はエジプト古王国の第4王朝ファラオで、クフ王の息子です。クフ王の後を継いだのがジェドエフラー王ですが、その統治は短く、後を異母兄弟であるカフラーが継ぎました。その墳墓として、このピラミッドが建てられたのです。

 
このピラミッドの高さは143(現在は136)、底辺は215m、勾配は53度。クフ王のピラミッドに次いで2番目の大きさになります。見た目にはクフ王のものより高く見えますが、これは、高い台地に建てられているためです。
 
頂上部にのみ、化粧石が残っています。ピラミッド全面を覆っていたはずの化粧板は、カイロ市街の造営に使用するためにすべてはぎ取られてしまいました。
 
ピラミッド内部はクフ王のものよりシンプルで、石棺が置かれた玄室のみです。ミイラは発見されませんでした。


スフィンクスとカフラー王のピラミッド

 
ギザの大スフィンクスは、第2ピラミッドを建造したカフラー王が作ったとされていました。スフィンクスの顔もカフラー王の顔で、ピラミッドを守っている存在とされてきたのです。
 
ネメスという頭巾をかぶったファラオ(王)の顔を持ち、体はライオンの形をしています。王者のシンボルでもある顎髭をたくわえ、神聖なものとされてきました。
 
スフィンクスは長い間砂漠の砂に埋もれていました。全貌が明らかになったのは100年前にも満たない近年になってからです。ナポレオンがエジプト遠征でギザを訪れたときも、砂に埋もれていました。その顔は恐らく元々違う顔をしていたと考えられています。
 
エジプトにある他のスフィンクスは、体はライオンですが顔(頭)は山羊の形をしています。恐らくギザの大スフィンクスもそうだったと考えられます。後に、カフラー王の顔に掘り変えられたと考えていいでしょう。大きさは高さ20m、長さは73mです。
 
スフィンクスは違う場所で作られたものを運んできたのではなく、元々そこにあった岩山を削って作られました。ピラミッドを作るために石を切り出した岩山を利用して作られたとするのが定説となっています。
 
カフラー王の第2ピラミッドの参道が、スフィンクスを避けるように作られているのですが、これは石を切り出したあとの岩山を崩す事が出来なかったため、やむをえずに参道を横にそらしたと言われています。
 
岩山をそのままにしていくのは景観上あまりよくないということでスフィンクスを作ったのです。そう考えられてきました。しかし、調査が進むにつれて明らかになってきたことがあります。岩山の残骸からスフィンクスを作ったのではなく、最初から岩山をスフィンクスとして作り上げる計画だったのではないかという説です。
 
違う方向からの研究では、カフラー王がピラミッドの守護神として作ったとされているスフィンクスですが、ピラミッドが作られるより以前に、すでにスフィンクスは作られていたという研究結果が出ています。現在ではこの説が定説となっていますが、本当のことはまだ誰にもわかりません。
 
現在、スフィンクスはピラミッドが作られるより以前にすでにそこに存在していたとする説が強くなってきていますが、スフィンクスは何故そこに作られたのでしょうか。
 
スフィンクスの元々の名前は「シェプスアンク」といいます。これがなまってスフィンクスになりました。「シェプス」は姿という意味を持ち、「アンク」は復活や再生の神様という意味です。スフィンクスは太陽神を表わしていたのです。
 
その後ピラミッドや神殿が作られ、それらを守る守護神となっていくのです。最初から守護神だったわけではないようです。
 
スフィンクスは風雨にさらされて浸食が進み、これまでにも何度か修復されてきました。ファラオの象徴である髭は砂の中から発見され、現在は大英博物館に保管されています。
 
鼻が崩れてなくなっているのは、ナポレオンらが試射の的にしたためだと言われてきましたが、それ以前から鼻はなくなっていたようです。異教徒達によって崩されたとする説の方が強くなっています。
 
鼻がなくなってからも、気が遠くなるほど長い時代をスフィンクスは見つめ続けてきたのです。


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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