イタリアの名所の一つで、世界遺産にも登録されているピサの斜塔は、建物全体が約4度の角度で傾いて立つという世界でもまれに見る建造物です。建設途中から徐々に傾きはじめ、1372年の完成から現在までに少なくとも4度の大きな地震を経験してきたにもかかわらず、600年以上も倒れずに立ち続けてきたピサの斜塔の強さの秘密が、最新の土木工学による研究から明らかにされています。
この研究はローマ第三大学のカミロ・ヌッティ教授の主導のもと、16人の科学者による研究チームが進めてきたものです。メンバーにはブリストル大学土木工学科のジョージ・ミロナキス教授が招かれています。
ピサの斜塔は建設開始から完成までおよそ200年という長い時間がかかった建物で、その建設段階は大きく3つの工期に分かれています。建設開始直後はまっすぐ鉛直に建てられていた塔ですが、第1工期が終わった頃から徐々に傾きが見られるようになりました。その後、傾きの修正を試みながらの建設が進められてきましたが、ついに傾きが戻らないまま1372年の完成を迎えました。この時、塔の高さは約58メートルに達しました。
完成後も数度の傾き修正が試みられましたが、工法に問題があったことでさらに傾きがひどくなった経緯もあり、塔の傾きは最大で約5.5度に達していました。その後、1990年代から2001年にかけて実施された工事によって傾きは修正され、約3.99度に傾きが戻された状態で現在も立ち続けています。
ピサの斜塔が傾いてきた理由は、塔が立っている地盤の土質が不均質であることとされています。塔の直径は基底部分で約15メートルと小さなものですが、この範囲の中で土壌の性質が均一ではなく柔らかい部分が存在するために、塔の重みで地盤が沈下して建物が傾いているというわけです。
このような軟弱な地盤に立っているにもかかわらず、ピサの斜塔は一定の角度から傾きを増す様子が見られないどころか、この地域を襲った過去4度の大きな地震にも倒れずに生き延びてきました。その理由を解明すべく研究チームが地震学や地質工学、建物の構造情報などの要素をもとにした調査を行ったところ、秘密は地盤の特性と建物の構造的特徴の組み合わせが絶妙のバランスで成り立っている事実にあるという結論に達しました。
これは、「Dynamic Soil-Structure Interaction(DSSI:土壌と構造の動的相互作用)」と呼ばれるもので、建物が建っている土壌の柔らかさと、その上に乗っている建物の高さと丈夫さ(堅牢度)によって建物の振動特性が影響を受ける現象です。地震で建物が壊れる時は、地面の揺れに対して建物が共振を起こすことでエネルギーが増大し、耐えきれなくなった構造が破壊されるのですが、不安定で軟らかい地盤の上に一定の高さと丈夫さを持つ構造物が乗っている時には、この共振が相殺される現象が起こります。ピサの斜塔は、このバランスが偶然にも絶妙なところで成り立っていることで、大きな地震に襲われても建物が崩壊または倒壊せずに済んできたというわけです。
このように、ピサの斜塔は通常の建物よりも絶妙なバランスの上に成り立っていることがわかっています。ミロナキス氏はこの結果について「皮肉なことに、塔を傾けて崩壊の瀬戸際にまで追いやったその地盤が、塔が倒れないようにするためにも役立っています」と述べています。
ガリレオが重い鉄の玉も軽い鉄の玉も同じ時間で落ちることを証明したという、あまりにも有名な斜塔があるピサ(Pisa)は、イタリアのトスカーナ州にあります。フィレンツェから電車で1時間。どこにでもあるような穏やかな丘陵に広がる小麦畑を抜ければピサに到着します。この街は斜塔ばかりがクローズアップされますが、ローマ時代の浴場跡があるなど歴史的な建造物が多く、特にドゥオーモ(Duomo 大聖堂)はロマネスク様式の最高傑作といわれています。
斜塔はこのドゥオーモの付属鐘楼として1173年に着工されましたが(当然ながら当時は垂直)、現在は北側の高さが55.22m、南側が54.52mとその差が70cmあり、傾斜角度は約3.97度で傾いています。
長期にわたって倒壊を防ぐ工事が行われ、これ以上傾く心配はなくなりました。現在ドゥオーモと斜塔のある広場は世界遺産に認定されており、芝生の緑と大理石の建築群は大変美しい風景です。
ところで、ガリレオが斜塔で行ったという「落体の法則」実験ですが、これは後生の創作らしいのです。
この実験は、ガリレオが76歳のときに住み込みで付き添った助手のビビアーニが書いた「ガリレオ伝」に書かれているものですが、ビビアーニがガリレオ伝を書いたのはずっと後のことだからです。ガリレオの偉大さを伝えたくて、少々手を加えすぎたのかもしれません。
これとは別に、ガリレオはドゥオーモの天井につり下げられたブロンズのランプが振れる様子を見て「振り子の等時性」を発見したとも言われています。
ある日、ピサの大聖堂に入ったガリレオは、天井から吊した大きなランプに何気なく目がとまります。ランプは、大きく揺れたり小さく揺れたりしますが、ランプが行って戻ってくるまでの距離に関係なく、1回の運動にかかる時間は変わりません。この時代に時計はないので、ガリレオは手首の脈を取り、時間を計ってみたそうです。ランプの揺れが小さくなっても大きくなっても脈の数はほぼ同じでした。つまり振り子が揺れて往復する時間は、振り子が揺れる幅で違うのではなく、おもりの重さでもありません。振り子の長さによるものなのだということを確信しました。
こうしてガリレオによって「振り子の等時性」は発見された――というような内容ですが、実はこの逸話も創作らしいのです。ガリレオが何らかの観察によって、振り子の等時性に気づいていたのは間違いないでしょうが、どうもランプができるよりも前に法則は発見されていたらしいのです。やはりこの話もビビアーニの伝記に基づいています。
イギリス南部ソールズベリー平野のほぼ中央にある巨石記念物です。世界各地にあるストーン・サークルのうちもっとも著名な遺跡で、20世紀に入ってからの数次にわたる調査の結果、年代や構築状況が解明されてきました。1986年に巨石記念物であるエーブベリー、関連する遺跡群とともに世界遺産の文化遺産として登録されています(世界文化遺産)。
ストーンヘンジは、中心から、トリリトン、サーセン円、Z穴、Y穴、オーブレー穴、周溝が同心円状に配列され、北東部にはヒル・ストーンが建ち、そこに至る通路がつくられている。これらの構成は一時期につくられたのではなく、~期に段階的に建造、使用されたことが判明し、その実年代は紀元前2800~前1100年ごろと推定されています。
Ⅰ期には主として外周部がつくられました。Ⅱ期にはブルー・ストーンとよばれる石が搬入され、サーセン円とトリリトンの中間に二重の環状に建てられました。Ⅲ期はさらにa~c期に細分されていますが、ストーンヘンジ最大の構築物であるトリリトンとサーセン円がつくられました。サーセン石のうち最大のものは50トンを超えます。またこの時期にはブルー・ストーンの建て替えを行っています。
G・S・ホーキンズはこれらの石の配列をさまざまな角度から考察し、「ストーン・サークル=天文台」説を提唱しましたが、ストーンヘンジの中心と、ヒル・ストーンを結ぶ線が夏至の日の出の方向を示す以外は一般には認められていません。また墓壙(ぼこう)を伴うことから埋葬との関連も考えられます。
中国本部の北側に築かれた防御用の城壁です。この城壁は1987年に世界遺産の文化遺産として登録されています(世界文化遺産)。その延長は地図の上からは約2700キロメートルであるが、重複している部分を加えるとその倍以上になります(2009年の発表では、現存する明代の長城の総延長は8851.8キロメートル)。
春秋時代の斉(せい)が領土防衛のため国境に築いたのが長城の起源で、戦国時代の諸国もこれに倣いました。秦(しん)の始皇帝は中国統一(前221年)後、匈奴(きょうど)の侵入を防ぐため、甘粛(かんしゅく/カンスー)省南部から北へ、黄河(こうが/ホワンホー)大屈曲部の北を巡って東に延び、東北地区の遼河(りょうが/リヤオホー)下流に至る長城を築きましたが、なかば以上、戦国時代の燕(えん)、趙(ちょう)などの長城を利用したものでした。この長城の東部の遺址(いし)が東北地区で発見されています。
前漢の武帝(在位前141~前87年)のころ、河西(かせい/ホーシー)回廊を匈奴から守るため、長城を蘭州(らんしゅう/ランチョウ)北方から西に、敦煌(とんこう/トゥンホワン)の西の玉門関まで延長しました。南北朝時代には北方民族の活動で長城の位置は南下し、6世紀中ごろ、北斉(ほくせい)は大同の北西から居庸関(きょようかん)を経て山海関に至る長城を築き、隋(ずい)は突厥(とっけつ)、契丹(きったん)に備えてオルドス南辺に長城を築きました。長城が現在の規模になったのは明(みん)代で、モンゴルの侵入を防ぐためでした。ほぼ北斉以来の線に沿ったもので、15世紀の前半には河北(かほく/ホワペイ)、山西(さんせい/シャンシー)の北部の長城が強化され、内長城もつくられてこの付近の長城は二重となり、後半にはオルドス南部から蘭州を経て嘉峪関(かよくかん)までの長城が修築され、16世紀中ごろには大同北西から山海関までが堅固に改修されました。
長城の構造は、古くは版築で、楊柳(ようりゅう)(ヤナギ)やアシなどを束ねて土と交互に重ね、突き固めてある。日干しれんがも一部に用いられていたが、山西方面より東方は明代以後、焼いたれんがで被覆されるようになりました。首都北京(ペキン)防衛のためもありますが、モンゴルの侵攻がこの方面で激しかったことを示しています。現在観光の対象となっている八達嶺(はったつれい/パーターリン)付近の長城は、高さ8.5メートル、厚さは底部6.5メートル、頂部5.7メートル。頂部上には高さ1.7メートルの連続した凸字状の垣である女牆(じょしょう)を築き、銃眼が開きます。また120メートル間隔で台(とんだい)(一種の見張り所)が設けられ、軍の駐留と監視に役だてました。
長城が交通路と交差する要地には堅固な城壁で囲んだ関城が設けられていました。山海関、古北口、張家口、雁門関(がんもんかん)、殺虎口(さっここう)、嘉峪関などがそれです。清(しん)代に入ると長城は軍事的意味を失い、中国本部とモンゴルとの間の政治的境界にすぎなくなりました。なお歴史的事実のうえからみると、外敵防御という長城構築の目的はほとんど達成されておらず、単に威圧感を与えた程度といってよかったといえます。
アレクサンドリアの町は紀元前332年、最も有名なギリシャの王であるアレキサンダー大王によって建設され、ほどなくして地中海地域の文化と商業の中心になりました。
言い伝えによると、アレクサンドリアで石を積んだ荷車を引いていたロバが、地面にできた穴に誤って落ちたということです。これが本当なら、このロバは歴史上最も素晴らしい場所の1つを発見するという栄誉に恵まれたことになります。というのも、その穴こそ古代の世界において他に類を見ないカタコンベ(地下墓地)であるコム・エル・シュカファだからです。
考古学者によると、コム・エル・シュカファのカタコンベはグレコ・ローマン時代の最大規模の墓地に似ているということです。古代の都市でも特に興味深いアレクサンドリアで発見されたコム・エル・シュカファの埋葬トンネルに数世紀もの間隠されていたのが、さまざまな古代芸術と文化が織り交ぜられたものであるというのも不思議ではありません。
「コム・エル・シュカファ」という名前は古代ギリシャ語で「かけらの山」を意味し、この地域ではかつて、砕けた陶器が山積みにされていました。
これらのカタコンベがエジプトでこれまでに発見された中で最も大きな古代ローマの墓地を形成し、古代エジプトの宗教に捧げられた最後の主要な建造物となりました。設計者は、古代エジプト王とギリシャの様式が融合したアレクサンドリアらしさを活かし、グレコ・ローマン方式を採用しました。このカタコンベは基盤岩を35mの深さまでくり抜き、墓と部屋から成る3階構造になっています。
このカタコンベ(「地下トンネル」という意味)は、アレクサンドリアの東に位置するカルムーズ地域にあります。この地域はコム・エル・シュカファ、すなわち「かけらの山」と呼ばれていました。
この墓地は西暦1世紀に造られ、4世紀まで使用されていました。
アレクサンドリアのカタコンベは、その設計がローマのキリスト教カタコンベに非常に似ていることからそう呼ばれるようになりました。
アレクサンドリアのカタコンベは私的な墓が後に公共の墓地となった可能性が高く、基盤岩をくり抜いた3階構造の中には階段、円形の広間、トリクリニウム(宴会場)、玄関、控えの間、そして3つの収納部がある墓室があり、それぞれの収納部に石棺が置かれています。
カタコンベには岩をくり抜いたくぼみも多数存在し、このくぼみには棺が納められています。
ウェブニュースより
藤井七段が竜王戦で勝利 決勝T進出まであと1勝 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(16)が24日、第32期竜王戦(読売新聞社主催)の4組ランキング戦で高見泰地叡王(えいおう、25)に勝ち、決勝に進んだ。挑戦権を争う決勝トーナメント進出まで、あと1勝となった。
東京都渋谷区の将棋会館での対局。振り駒で先手になった藤井七段は、得意とする「角換わり」でタイトル保持者を破った。「中盤で形勢を損ね、苦しい展開が続いた。決勝でいい将棋が指せるようにしたい」と話した。4組の決勝進出に伴い、3組への昇級も決めた。竜王戦昇級は3期連続となる。
https://www.youtube.com/watch?v=m5IN8qk2Ydo
タイトル挑戦権に向けた戦いでは、王座戦の挑戦者決定トーナメントの1回戦で、佐々木大地五段(23)との対戦が決まっている。 (朝日新聞DIGITAL 2019年4月24日23時12分)
ローマ帝国の時代、80年のティトウス帝の時に完成した円形闘技場です。剣闘士奴隷の試合などの見世物が演じられました。ローマ文化を代表する建造物です。
古代ローマのコロッセウムは、暴君として倒された皇帝ネロが、ローマの大火の後に建てた宮殿の巨大な銅像(コロッスス)があったところに、75年にウェスパシアヌス帝が建造を開始し、その子のティトウス帝のときの80年に完成しました。当時はウェスパシアヌスとティトウスの氏族名からフラウィウス円形闘技場と呼ばれましたが、ネロの巨大な銅像をコロッススといっていたことから、中世以降はコロッセウムというようになった。
従って、コロッセウムは固有の名称であったが、現在は、そこから生まれたコロシアムという語が円形競技場(ラテン語ではアンフィテアトル)を示すようになっています。なお、ローマ時代にはローマ以外の都市にも円形闘技場が造られており、その数は全部で250にも上るといいます。現在も地中海各地に古代遺跡として残されています。
※コロッセウムの完成年 コロッセウムは、ウェスパシアヌス帝の時に着工、およそ5年を要し、ウェスパシアヌス帝存命中の79年に最初の(仮の?)奉献式が行われましたが、翌80年に同帝の息子ティトウス帝によって一部未完成のままで本格的な奉献式が挙行されました。
コロッセウムは、帝政前期のローマ市に新たに出現した巨大建造物でした。共和政時代にはローマの中心部のフォルムは公共広場として民会や裁判とともに剣闘士試合などの市民に向けての娯楽の興業が行われていましたが、内乱の1世紀を収束したアウグストゥスの頃から、フォルムに神殿や公共浴場などの建造物がつくられたため、広場としての機能が失われた(同時にそれはローマの民主政の形骸化に繋がった)ため、帝政時代になると広場に変わる市民が一堂に集まり、政治的に一体になるとともに娯楽を楽しむ場としてコロッセウムが建造されることとなりました。
コロッセウムでは、民衆が皇帝に対して要求した「パンと見せ物」のうち、見世物にあたる娯楽がまず提供されました。それには、剣闘士奴隷の競技、動物と動物または動物と剣闘士奴隷、あるいは模擬海戦などが繰り広げられました。キリスト教徒に対する迫害が強くなると、信者をライオンの犠牲にするなどの処刑も、「見世物」として興行されました。
この巨大な建築物は、古来、ローマの象徴とされており、“コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう。コロッセウムが倒れるとき、ローマも倒れるであろう。ローマが倒れるとき、世界も倒れるであろう。”とうたわれてきました。その観客席に五万の観衆をのんだ、この闘技場で、いったいなにがおこなわれていたのでしょうか。紀元80年、コロッセウムの落成式がおこなわれたとき、時のローマ皇帝ティトウスは百日間にわたって各種の競技をおこなったといいます。剣闘士奴隷どうしのちなまぐさい競技もあったし、たった一日のあいだに人間と猛獣の格闘のなかで、あらゆる種類の5千頭もの猛獣が殺されるということもありました。この闘技場を水でみたして人工の湖をつくり、三千人もの剣闘士を動員する模擬海戦もおこなわれたといいます。ローマ帝国の各地からやってきた大観衆を前にして、このような人間と猛獣の数知れない死によって血ぬられたコロッセウムは、その後、404年の剣闘士試合の中止、523年の猛獣演技の廃止にいたるまで、毎年のように残酷な死のゲームを、熱狂した観客に提供し続ける場となったのです。
「コロッセウムが立つ限り、ローマも立つであろう」と言われたコロッセウム(コロッセオ)が、崩落の危機にあるといいます。2012年1月14日付朝日新聞によれば、コロッセオは大気汚染で汚れ、石組みの崩落が起きるなど、痛みがひどくなっており、真下を走る地下鉄の振動の影響も指摘され、早急な修復作業が必要とされてきたといいます。ところが、財政危機によってベルルスコーニ前政権が文化予算を減らす中、高級靴ブランドのトッズが約24億円の修復費用を全額を負担すると表明したといいます。
契約ではトッズがコロッセオの画像を15年間、商業利用できる内容が含まれています。それに対して、消費者団体などがかみついたといいます。また遺跡修復専門家も経費節減で壊れやすい部分が普通の建築業者に任される恐れがあると異議を申し立てたそうです。それに対して市当局は、官民挙げての文化財保護の新し試みとして、トッズ社との契約を続けると言っています。ローマ市長によると2012年3月には修復工事に入る予定であるといいます。はたしてコロッセオは、いやローマは立ち続けることができるのでしょうか。
ウェブニュースより
仲邑菫初段、デビュー戦敗れる 史上最年少プロ棋士 ―― 4月に囲碁の史上最年少プロ棋士となった仲邑菫(なかむらすみれ)初段(10)の公式戦初対局が22日、大阪・梅田の日本棋院関西総本部であった。同じく今春棋士となった大森らん初段(16)に敗れ、ほろ苦い黒星デビューとなった。
対局は考慮時間の短い早碁棋戦「竜星戦」の予選。通常なら大部屋で打って記録係もつかないが、大部屋を特別対局室に模様替えし、記録係もつけて対局者を迎えた。押し寄せた報道陣は約40社100人。ドイツのテレビ局など海外メディアの姿もあり、日本棋院の広報担当者は「経験のない盛り上がり」と言う。
午後2時半、身長126センチの仲邑初段と159.5センチの大森初段が向かい合い、対局開始。先手番の仲邑初段が第1着を打ち下ろすと、ぐるりと囲んだカメラの放列から一斉にシャッターの連写音が鳴り響いた。
与えられた考慮時間は各1時間あったが、仲邑初段は序盤から相手が打つと即座に打ち返す。しかし中盤に逆襲されて劣勢に立たされると、残り時間はみるみる減って、最後は秒読みに追われた。逆転のチャンスは訪れず、174手で投了した。
対局後、仲邑初段は硬い表情で会見室に現れた。「どんな対局でしたか?」の質問には「緊張してうまくいかなかった」。「いまのお気持ちは?」には「悔しい」。しかし目標を聞かれると、これまでの取材と同じく「女流タイトルを取って、世界で戦いたい」と、きっぱり言い切った。
仲邑初段は現在10歳1カ月で、これまで藤沢里菜女流三冠(20)が持っていた最年少対局記録(11歳8カ月)を、9年ぶりに更新した。 (朝日新聞DIGITAL 2019年4月22日19時54分)
ウェブニュースより
(ニュースQ3)新5千円札、津田梅子の写真を反転? ―― 2024年度にデザインが変わる新5千円紙幣の顔となる津田塾大学創設者、津田梅子の肖像が「元となった写真を左右反転している」とネットで話題を集めている。16日には菅義偉・官房長官が記者会見で言及する事態になった。どういうことなのか。
■「複数の写真参考」
財務省が9日に新5千円紙幣の見本としてログイン前の続き公表した画像では、紙幣の右側に津田の肖像が描かれている。その顔の向きは、紙幣の中心に向かうように正面から見てやや左側を向いている。従来のお札の構図だ。
一方、津田塾大が資料として財務省に提供した複数の写真のうち、「最も紙幣の肖像と近い」とみられる1枚は、正面から見て右側を向いている。紙幣とは逆だ。
このため、ネット上では、「画像を反転させただけの『裏焼き』(写真のネガを表裏逆に使うこと)に見える」「やり直すべきでは」といった声が上がった。
財務省が公表した画像はまだ見本段階のもので、今後、原版をつくるための彫刻作業が行われるという。ただ、財務省の担当者は、この見本の紙幣の肖像も、特定の写真を転写したものではない、と話す。さらに、新紙幣を作成する際は、複数の写真を参考にしながら、紙幣用の「オリジナル」の原版を、彫刻を専門とする印刷局の職員が彫る。この作業に手間がかかることも、新紙幣発行の準備に5年近い時間がかかる理由の一つだという。
菅官房長官は16日の会見でこの問題について問われ、「様々な写真を収集して、それらを参考に、彫刻を行って原画を作成する。既存の写真がそのまま肖像として、印刷されることはない」と説明した。
■「非常識」批判続く
菅官房長官や財務省の説明はあまり納得を得られておらず、ツイッターでは「人間の顔は左右非対称だし、非常識」などと、批判が続いている。
津田の弟の孫にあたる津田守・大阪大名誉教授は朝日新聞の取材に「お札の内側を向いた肖像にするために反転させたんだろうと思うが、見本とはいえ、本当の梅子の顔とは違うものになってしまった。違和感がある」と疑問を示す。「このままお札を刷ってしまえば、財務省は将来も言い訳をしつづけないといけなくなる。他の写真をもとに作り直したほうがよいと思う」。一方、写真を財務省に提供した津田塾大は「コメントする立場にない」(企画広報課)としている。
■慣例では左向き
なお、近年は「お札の顔」となる人物を誰にするかは、「写真が残っている人物であることが大前提」だ。お札に顔を刷るのは、見慣れた顔ならばちょっと違うだけで違和感を抱き、「ニセ物」と見抜く人間の能力を使いたいという事情もある。その役目を果たすため、お札の肖像には、写真に近いレベルの精巧さが求められるという。
また、お札に描かれる肖像は紙幣の右側にあるが、その位置はあくまで慣例で、法令などで決まっているわけではない。肖像が紙幣の右側にあるため、紙幣の中心に向かうように、正面から見て左向きで描かれてきた。今回の新紙幣でも、従来通りの向きにしたのは、「皆さんが慣れているから」と財務省の担当者は話す。 (朝日新聞DIGITAL 2019年4月18日05時00分)
2024年からの新札発行にともない、新しい5,000円札は津田梅子が候補者であると報道されました。
彼女はどんな人物か?
一言でいえば帰国子女のはしりともいえる人であり、津田塾大学の創始者という人物です。
この時代の女性としては割と有名かもしれませんが、しかしそれ以外の点となると、意外に知られていないのではないでしょうか。
女子教育の先駆者と呼ばれる津田梅子。彼女は一体どんな女性だったのか。その辺もあわせて見て参りましょう。
岩倉遣欧使節とともに海路で渡米
梅子は、元幕臣の父・津田仙の次女として、現在の東京都新宿区で誕生。
明治時代に入ってから、仙が北海道開拓使次官の黒田清隆と知り合ったことで、梅子の運命は八割がた決まりました。
黒田が女子教育にも関心を持っていたため、仙もそれに同調し、当時6歳の梅子を海外留学させることに決めたのです。
物心ついたばかりの娘に対して、仙は一体どんな説明をしたんでしょうね。
こうして梅子は、岩倉遣欧使節とともに海路でアメリカへ向かいます。
現地では画家のチャールズ・ランマンという人の家に預けられ、英語やピアノを習いながら、アメリカでの生活に慣れていきました。
幼かったぶん飲み込みも早かったようで、ちょっとした弊害もありました。
日本語から遠ざかっていってしまったために、日本にいる父親への手紙も英語で書くようになったのです。
帰国後は「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」
14歳のときには私立女学校へ進学し、語学・英文学・自然科学・心理学・芸術を学習。
17歳のときに日本から帰国命令が出ましたが、山川捨松(後の大山捨松)と梅子は在学中だったため、延長を申請しました。
捨松と梅子はこれ以外のことでも一緒に行動するなど、大変仲が良く、帰国してからも長く友情を続けています。
同時に、捨松のホストファミリーだったベーコン家の末娘・アリスも二人と友情を育みました。また、ランマン夫妻に連れ添われて休暇には各地を旅行するなどもしてエンジョイしておりました。
梅子らが帰国したのは、明治十五年(1882年)のことです。
しかし、人格形成に最も影響する幼少期を異国で過ごした彼女らにとって、母国は決して身近なものではありませんでした。
現在でさえ、儒教の価値観から完全に脱してはいない日本です。明治時代ならいわずもがな。
せっかく身につけた西洋の学問や生活習慣・見識を、女性が活かせる場所はほとんどありません。
捨松ともう一人の女子留学生・永井繁子は軍人に嫁ぎましたが、梅子は日本での結婚観に嫌気が差し、生涯独身を貫くことを決めます。
あっちこっちから縁談はあったそうですが、後々手紙で「結婚の話を聞くだけでも嫌だ」と書いているくらいですから、よほどしつこく勧められたのでしょうね。
当時の結婚観からすると、アメリカで学んだことが無駄になる可能性が高かったから、でしょうか。
伊藤博文から下田歌子を紹介される
自らの進むべき道を模索していた梅子。そんな折、外務卿(現在の外務大臣)・井上馨から夜会への招待がきます。
ここで梅子は、伊藤博文から下田歌子を紹介されました。
歌子はこの頃、桃夭女塾を開いて数年目。まだまだ人材がほしいところだったのです。
梅子は伊藤や桃夭女塾の生徒たちに英語を教えながら、歌子から日本語を教わり、日本人として、大人としてスタートを切りました。こうした努力と意思は伊藤に認められ、華族女学校の英語教師にも推薦されています。
ただ、華族=元公家・元武家のお嬢様が通う学校ですから、気風にはあまり馴染めなかったようです。
なんせ女子の体育の授業が新聞に書き立てられるような時代です。
庶民と華族の間に相当の隔たりがあったことは想像に難くありませんよね。
ヘレン・ケラーを訪ね、ナイチンゲールとも会見
24歳のときにはアリス・ベーコンが来日し、再度の留学を勧められて二回目の渡米を決意。
父のツテで留学と学費免除を取り付けることができ、再度渡海して生物学を学びました。
成績はなかなかのものだったようで、大学からは「ここに残って研究を続けたらいいじゃないか」と言われたとか。
しかし、再びアメリカで生活したことで、梅子は自分がやるべきことを見いだせたようで、誘いを断って三年で帰国を決意します。
日本女性の現状を知った上で再び留学したことにより、女子教育を広める大切さを実感したのでしょう。
帰国後は再び華族女学校に勤めながら、明治女学院でも講師を務め、自宅に女学生を預かるなど、女子教育の支援を積極的に行いはじめました。
34歳のときには女子高等師範学校教授を兼任し、アメリカで日本女性の代表として万国婦人クラブ連合大会で挨拶しています。
その足でヘレン・ケラーを訪ね、さらにイギリスに招かれてフローレンス・ナイチンゲールやヨーク大主教とも会見するなどしていますので、ますます女子教育の重要性を肌で感じたと思われます。
タイミングを図ったかのように、梅子35歳のときに日本では高等女学校令、私立学校令が公布。
これによって、法的に女子教育の足がかりができました。
梅子は他の学校の講師を辞め、父やアリス・ベーコン、大山らの協力を得て、「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立しました。
ここで彼女は、「身分にとらわれない女子教育」を実現すべく邁進していきます。
実学重視の方針に逃げ出す学生たちもいた
それまで女性への教育というと、学問というより教養という面が強いものでした。
しかし梅子は、女性が社会に出て役に立てるような、実用的な教育を行います。
その厳しさに逃げ出す学生もいたそうですが、梅子たち講師陣も難しい状況に置かれていました。
というのも、外部から教育方針への干渉を受けないように、スポンサーを求めることを極力避けていたからです。
当初梅子らは、無償で授業を行うことで資金不足を補っていましたが、学生や教師が増えるとそうもいきません。明治三十六年(1903年)には専門学校令が公布されたため、これに申請して塾を社団法人としたことで、大分マシになったようです。
梅子は大正八年(1919年)に健康上の理由で塾長を辞任し、後進に学校を任せました。
その後は鎌倉の別荘で療養していたそうが、10年後の昭和四年(1929年)に脳出血のため64歳で亡くなっています。
その後、女子英学塾は津田英学塾と改名し、戦災によって校舎を失いながらも、津田塾大学として今に続いております。
世情の変化と教育制度の整備により、女性が教育を受けること、社会に出て自立することはごく当たり前になりました。
梅子がこれを見て満足しているか、あるいは偏差値主導の風潮に不満を抱くか……さて、どっちなのでしょう。
甥の東樹氏よりメールが入りました。曰く、
中村東樹です。
今日三次の日高家の墓参りに、上野さん、千里と3人で行ってきました。叔父さんの分もしっかり手を合わせてきました。昨日は母の誕生日で、存命なら92才でした。喜んでくれたのか、天気は快晴で三次まで4時間のドライブも快適でした。
一昨日の磯部松之助氏からの電話によると水門会の旧友平野智美氏が亡くなったようです。
東京新聞の記事より、
平野智美さん 上智大名誉教授、教育哲学 (東京新聞)
2019年1月30日 関連地域 : 東京 コメント : 0
平野智美さん(ひらの・ともみ=上智大名誉教授、教育哲学)25日、心不全のため死去、86歳。北九州市出身。葬儀・告別式は家族葬で行った。喪主は妻妙子(たえこ)さん。
ウェブニュースより
ノートルダム火災、修復には時間も ―― パリ中心部のノートルダム寺院で15日夜(日本時間16日未明)に大規模な火災が起きた。保護された文化財もあるが、尖塔(せんとう)や屋根が焼失した。フランスの歴史や宗教の象徴的な存在である寺院の災禍は、フランス国民に大きな衝撃を与えた。マクロン仏大統領は「大聖堂を再建する」と宣言したが、修復には数十年かかるとの見方もある。
消防当局者は出火から約15時間が経過した16日午前10時(日本時間午後5時)ごろに火災が鎮火したと発表した。現場では約400人の消防隊員が消火活動にあたった。
寺院の屋根裏付近から出火したとみられ、高さ約90メートルの尖塔が焼け落ちた。屋根の骨組みには大量の木材が使われ、これが激しく燃えた一因とみられている。
パリの検察当局は16日、「現状では、事故の可能性が高いとみている」と語った。屋根の改修工事が出火原因だった可能性があるとみて、作業員から事情を聞くなどして原因の特定作業を進めている。
フランスのカトリック信仰の中心である同寺院には貴重な文化財が多数ある。イダルゴ・パリ市長はキリストが十字架刑の際にかぶっていたとされる聖遺物「いばらの冠」など「複数の主要な文化財は安全な場所にある」と明らかにした。 (日本經濟新聞 2019/4/16 21:00)
ウェブニュースより
パリのノートルダム寺院で大火災 世界遺産の尖塔崩落、失火の疑い ―― 【パリ共同】パリ中心部の観光名所で世界遺産のノートルダム寺院(大聖堂)で15日午後6時50分(日本時間16日午前1時50分)ごろ、高層部から出火、屋根が炎上する大火災となり、高さ約90メートルの尖塔が焼け落ちた。消防当局は16日未明まで懸命の消火活動を続け、建物の崩壊を防いだ。検察当局は失火の疑いがあるとみて捜査を始めた。
フランスのテレビは消防士1人が重傷を負ったと伝えた。寺院関係者や観光客の死傷の情報はない。パリ市当局者は寺院が保有する宗教芸術など多数の貴重な文化財は守られたと述べた。マクロン大統領は寺院再建を誓った。
寺院は一部が改修工事中だった。 (一般社団法人共同通信社 2019/4/16 11:09)
ウェブニュースより
藤井七段、森内九段に勝利 王将戦・1次予選 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(16)が12日、東京都渋谷区の将棋会館で指された第69期王将戦の1次予選で、森内俊之九段(48)に92手で勝った。藤井七段は「新年度の初対局を白星スタートできたのはよかった。今年も成長できる1年になるといいと思う」と話した。
相手の森内九段は名人を8期務めた「十八世名人」の資格保持者。藤井七段は2017年9月のNHK杯戦でも勝っている。森内九段は「作戦の岐路であまり予想していなかった手が出て、いつの間にかペースを握られてしまった。前回の対局は持ち時間の短い将棋だったので、今回はゆっくり指せると楽しみにして臨んだが、うまく指されてしまいました」と話した。
https://www.youtube.com/watch?v=II4kMoxE3Wk
王将戦の1次予選では、あと2回勝てば2次予選に進む。さらに2次予選を勝ち抜くと7人による挑戦者決定リーグ戦に入り、そこで成績1位になれば挑戦権が得られる。 (朝日新聞DIGITAL 2019年4月12日18時53分)
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