瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 
辺野古移設、解けぬ対立 22年度返還一段と困難に ―― 米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設を巡る沖縄県民投票は反対票が7割を超えた。20189月の知事選で移設反対を掲げた玉城デニー知事が当選したのに続き、辺野古移設に論点を絞っても反対の民意が示された。政府は移設工事を進める構えだが県との対立が解消する見込みはなく、日米両政府が合意した最短で22年度の返還目標の達成は一段と厳しくなった。
 
 
玉城氏が県民投票に踏み切ったのは、工事を止める手段が限られつつあるためだ。昨年8月に死去した翁長雄志前知事の県政下で市民団体による署名集めが始まり、玉城氏も9月の知事選で県民投票の必要性を訴えた。辺野古に争点を絞ることで移設反対の民意を明確にする狙いだった。
 
反対派が反対票の最低ラインに設定したのは投票資格者総数の4分の1に相当する約289千票だった。これを大きく上回り、知事選で玉城氏が辺野古移設の反対を訴えて獲得した約397千票も超えた。玉城氏はさらに政府に強硬的な手段で対抗しやすくなる。
 
1996年の米軍基地の整理縮小を巡る県民投票は賛成が89%を占め、投票資格者総数の5割を超えた。当時の大田昌秀知事は投開票の2日後に橋本龍太郎首相と会談。橋本氏は米軍基地の整理・統合・縮小に全力で取り組むことなどを約束した。
 
反対派は勢いづく。立憲民主党の福山哲郎幹事長は「県民の民意を全く無視する基地建設の強行は許しがたい。直ちに辺野古での工事を中断すべきだ」とのコメントを発表した。
 
辺野古の移設工事を巡っては、政府が1812月に土砂投入を始めた。まだ知事の許可が必要な工程が残っており、県側の対応が工事の進捗を左右する。
 
政府は県民投票に法的な拘束力がないため、移設工事を継続する構えだ。防衛省幹部は「投票結果は移設工事に影響しない。一日も早く辺野古に移設する作業を進めるだけだ」と語った。
 
大きな火だねになりそうなのが軟弱地盤の存在だ。政府は今後、設計変更を県に申請するが、県は認めない構え。大量のくいを打ち込む必要があり大幅に費用が増えるとの試算を県がまとめ、政府をけん制している。
 
県は新たな法廷闘争も視野に入れる。県による188月の埋め立て承認撤回は石井啓一国土交通相が効力を停止した。これを不服として近く、裁判所に提訴する方針だ。
 
日米両政府は134月、名護市辺野古への移設を前提に早ければ22年度に普天間基地を返還すると合意した。長引く政府と県の対立で「目標達成は難しいところにきている」(岩屋毅防衛相)のが実情だ。
 
沖縄では4月に玉城氏の衆院議員失職に伴う衆院沖縄3区補欠選挙が予定される。7月には参院選も控える。ともに自民、公明両党が推す候補と、玉城氏ら移設反対派が支援する候補が争う構図になる公算が大きい。県民投票の結果が影響を及ぼす可能性がある。   (日本経済新聞 2019/2/24 23:30


 ドナルド・キーンさん死去 96歳 日本文学研究者、翻訳で国際化に貢献 —― 日本文学の国際化に貢献した文化勲章受章者で米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーンさんが24日、心不全のため東京都内の病院で死去したことが分かった。96歳。通夜・葬儀の日程は未定。お別れの会を後日開く。喪主は養子のキーン誠己(せいき)さん。
 
 
1922年、米ニューヨークで貿易商の家庭に生まれた。コロンビア大の学生だった18歳の時、英訳された「源氏物語」を偶然手に取り、みやびな世界に魅了された。太平洋戦争中には、米海軍語学将校として日本兵捕虜の尋問・通訳に従事。彼らが残した日記を解読するうちに、日本への関心をより深めていった。
三島由紀夫ら多くの文学者と交流
 
戦後、大学に戻り、本格的に日本文学研究に打ち込み、53年には京都大大学院へ留学。後の文相で教育社会学者の永井道雄と親交を結ぶ中、中央公論社の嶋中鵬二社長を紹介されたのを機に、谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫ら多くの文学者と交流。古典から近現代文学まで幅広い日本文学作品に精通し、太宰治や三島、安部公房らの作品を積極的に翻訳、紹介した。谷崎、川端、三島らの名前が候補に挙がったノーベル文学賞の事前選考にも、大学の同僚だった日本文学研究者エドワード・G・サイデンステッカー(2007年死去)とともに関わった。
2012年に日本国籍取得し話題に
 
113月の東日本大震災の津波被害と原発事故を憂えて、「大好きな日本に永住し、日本人になる」と表明。生涯独身で、後に養子に迎える新潟県出身の文楽三味線奏者、上原誠己さんと06年秋に知り合ったことが日本国籍取得(12年)の最大の契機になったという。13年には、研究業績などを紹介する「ドナルド・キーン・センター柏崎」(同県柏崎市)がオープンした。
 
日記文学を論じた「百代の過客」で読売文学賞と日本文学大賞(85年)、力作評伝「明治天皇」で毎日出版文化賞(02年)を受賞するなど多数の論考を著した。
 
近年でも評伝「正岡子規」(12年)、同「石川啄木」(16年)を刊行するなど晩年まで創作意欲は旺盛だったが、183月の米ニューヨーク訪問後に体調を崩しがちになり、都内の病院で入退院を繰り返していた。公には、同年5月に埼玉県草加市で上演された「幻」の古浄瑠璃「越後国柏崎 弘知法印御伝記(こうちほういんごでんき)」の記念座談会で元気そうな姿を見せたのが最後となった。   (02/24 09:37 毎日新聞)
 


 ドナルド・キーンさん死去、養子のキーン誠己さんが談話「穏やかに永遠の眠りに」 ―― 24日朝死去した国際的な日本文学研究者、ドナルド・キーンさんの養子で喪主のキーン誠己さんは同日、報道機関に向けて「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。自ら選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」との談話を発表した。

 
キーンさんの遺体はこの日午前、東京・上野の病院から世田谷の葬儀会館へ移り安置された。生前愛したベルディのオペラが流れるなか、安らかに眠っていた。
 
葬儀は親族のみで執り行い、後日、南青山の青山葬儀所でお別れの会を開く予定。   〔毎日新聞2019年2月24 1528(最終更新 2月24 1716)


 

①ギザの大ピラミッド
 
 
三大ピラミッドは、エジプト、ギザの砂漠にある、3基のピラミッドの総称です。英語ではGiza pyramid complex(ギザのピラミッド群)と呼ばれます。隣接するスフィンクスとともに、エジプトを象徴するイメージとなっています。

 
造営時期は現在より約4500年前の、紀元前2500年頃とされ、いずれもエジプト第4王朝期に建設されています。古代エジプト王国のファラオの墓陵であり、被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王とされます。また、それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや衛星ピラミッド、参道やマスタバ墓群などが付属しており、いわゆるピラミッド複合体(ピラミッド・コンプレックス)を形成しています。カフラー王のピラミッドの参道入り口にそびえたつギザの大スフィンクスも、このピラミッド複合体の一部に含まれています。こうしたギザに広がるピラミッド付属の墓地遺跡を総称してギザの墓地遺跡(ギザ・ネクロポリス)と呼び、メンフィスとその墓地遺跡の一部として世界遺産に登録されています。
 
メンカウラー王のピラミッド
 
 
メンカウラー王のピラミッドは三大ピラミッドの中ではいちばん小さく、高さは65.5m(現在は62m)、底辺は105m、勾配は51度と、他の2基の半分ほどの大きさしかありません。

 
この理由としては、当時の財政事情が悪化していたために建設費を削ったという説が一般的に唱えられています。
 
1837年から1838年にかけてのイギリス軍人ハワード・ヴァイスの調査によって、ここがメンカウラー王のピラミッドと判明しました。玄室では遺体の一部が見つかりましたが、残念なことに輸送中に船が沈んでしまい、失われてしまいました。
 
 
その後、1905年から1927年のハーバード大教授ジョン・ライスナーらの調査では、幾つかの彫像が発見されました。その技術は非常に高度なもので、加工が難しいといわれるアラバスター(美しい白い鉱石の変種)を使用したものでした。


 

世界の七不思議とは、諸説あり、数多くの学者などがそれぞれに選定していますが、一般的にはフィロンが書いた「世界の七つの景観」の中で選ばれた、下記の7つの巨大建造物のことを指し、最近選定された「新世界の七不思議」と区別して「古代世界の七不思議」とも呼ばれます。

 
一般的に挙げられる七不思議は以下の7つです。
 
①ギザの大ピラミッド
 
②バビロンの空中庭園
 
③エフェソスのアルテミス神殿
 
④オリンピアのゼウス像
 
⑤ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
 
⑥ロドス島の巨像
 
⑦アレクサンドリアの大灯台
 
この内「アレクサンドリアの大灯台」は、実際にはフィロンの選んだ7つには含まれていない。これは、フィロンが自分の国の不思議は入れないことに決めていたためで、フィロンが選んだのは「バビロンの城壁」でした。バビロンの空中庭園とバビロンの城壁が誤って同一視された結果、「アレクサンドリアの大灯台」が導入されたとされています。
 
 
これらのほとんどは地震や破壊などで消滅してしまい、「ギザの大ピラミッド」のみが現存する唯一の建物になっています。また、「マウソロス霊廟」や「エフェソスのアルテミス神殿」のように遺構や遺跡がわずかに残っている例もあれば、「バビロンの空中庭園」や「ロドス島の巨像」のように完全に破壊されて痕跡も残っていない例もあります。
 
この他、シドンのアンティパトロス(紀元前2世紀後半の古代ギリシャの 詩人)、ローマの大プリニウス(ピラミッドやスフィンクス、アレクサンドリアの大灯台、エフェソスのアルテミス神殿、エジプト・クレタ島・リムノス島などの迷宮、キュジコスの神殿や競技場、テーベ、パクス神殿や競技場・劇場・水道橋などのローマの建築物)など、さまざまな学者・歴史家・詩人が七不思議を選定しています。
 
 
現存しないものが多いので、「当時の土木技術のレベルを超越している」「物理的に可能とは思えない」と思えるような絵だけのものもありますが、古代のロマンを夢見ることができるので、色々と調べてみることにします。


 

ある特定の地域において不思議な現象として取り上げられる7種の事柄です。一般に地名が冠せられて「何々の七不思議」と称されます。広く知れ渡っているものに越後(えちご)(新潟県)の七不思議があります。『北越奇談』によると、「燃ゆる土、燃ゆる水、白兎(はくと)、海鳴り、胴(ほら)鳴り、火井(かせい)、無縫塔」があげられています。このうち燃ゆる土、燃ゆる水、火井は、それぞれ石炭、石油、天然ガスのことであり、海鳴り、胴鳴りとは天気の変わり目に遠くから聞こえてくる海潮音、怪奇な轟音(ごうおん)のことである。白兎は冬季に真白な体毛をもつ越後の兎(うさぎ)のことで、無縫塔とは奇岩の呼称である。これらはいずれも自然現象に関することであるが、科学的な説明の十分ではない当時において、これを怪異な現象とみなし七不思議と名づけて喧伝(けんでん)したものなのでしょう。

 
信濃(しなの)(長野県)の諏訪(すわ)の七不思議も古くから伝えられているものです。『信濃奇勝録』によれば、「湖水神幸(こすいみわたり)、元旦蛙猟(がんたんのかえるがり)、五穀筒粥(ごこくつつがゆ)、高野鹿(こうやしか)の耳割(みみわれ)、御作田(みさくだ)、葛井清池(くずいのせいち)、宝殿点滴(ほうでんてんてき)」があります。これらは諏訪神社の祭祀(さいし)行事と深く関連するものです。人々の素朴な信仰心が、このような特異な神事に対して七不思議と称し崇(あが)めたのであろう。同様のことは仏教に関してもいえます。

 
幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」に天王寺の七不思議ということばが出てきますが、これは同寺の三水(さんすい)・四石(しせき)の七不思議についてのことです。三水とは「荒陵池水、亀井(かめい)、閼伽井(あかい)」をいい、四石とは「転法輪石、影向石(ようごうせき)、礼拝石、引導石」のことです。天王寺は聖徳太子の創建と伝えられているので、あるいは太子の奇跡にかかわったものでしょうか。

https://www.youtube.com/watch?v=2UQPxDOwexw
というのは、貴人・高僧にかかわる七不思議はほかにもあります。越後に親鸞(しんらん)の七不思議というのがあり、秋田には弘法大師(こうぼうだいし)の七不思議があります。後者は由利(ゆり)郡鳥海(ちょうかい)町百宅(ももやけ)に伝えられるもので、百宅の七不思議とよんでいます。それには「大師の名づけた地名、虱(しらみ)のない猫、虫のつかない稲穂、先のとがらない田螺(つぶ)、水のない川、鳴かない一番鶏(どり)、寝泊まりした洞窟(どうくつ)」があります。これらはすべて弘法大師に関係したものであり、こうした七不思議ができる背景には弘法伝説の伝承があることはいうまでもないことです。人々の信仰心に支えられた神仏の奇特を説く七不思議が一方に存在したのです。


江戸にも民間説話を題材にした七不思議があります。有名な本所(ほんじょ)の七不思議、麻布(あざぶ)の七不思議がそれです。本所の七不思議には、「真夜中にどこからともなく聞こえてくる馬鹿囃子(ばかばやし)、追いかけるとどんどん向こうに行ってしまうという深夜の道の送り提灯(ちょうちん)、一ひらの落葉もないという松浦家の落葉なき椎(しい)の木、太鼓の音がするという火の見櫓(やぐら)の津軽家の太鼓、両国橋近くに生える片葉の芦(あし)、消えたことのない二八のそば屋の消えずの行灯(あんどん)、釣った魚を持ち帰ろうとすると置いてけと声がかかるおいてけ堀」があります。怪談仕立てに構成されてはいるが、妖怪(ようかい)変化の話であり、先行する伝説や世間話を再構成したものです。麻布の七不思議も同じような性質のものであり、そこには「善福寺の逆さ銀杏(いちょう)、六本木、かなめ石、釜(かま)なし横丁、狸穴(まみあな)の古洞、一本松、広尾ヶ原の送り囃子」があげられています。

 
七の数は聖なる数を示すことばであって、七不思議とは本来、自然界、神仏界における霊的な現象をさす意味があったように思われます。それが時代の流れのなかで信仰心が希薄になるにつれて、怪異な現象、不可解な事柄をもさすようになってきたと考えられます。


 

「七」という字は、切断した骨の形を表したもので、元は「切る」というもとの意味をもつ漢字でした。
 
そこから音だけ借りて数字の「七」を表しています。これは「仮借(かしゃ)」という漢字のなりたちのひとつです。
 
その言葉を表す適当な漢字がないとき、意味や内容とは関係なく、同じ音や似た音をもつ字を借りて用います。
 
結局、「七」という漢字が本来もっていた「切る」という意味より、数字の七を表すほうが一般的になって、転用されてしまいました。

 
そのため「切る」という漢字を書くときは、「七」にわざわざ「刀」を添えることになったのです。
 
いにしえより「七」という数は、世界各地で特別な意味をもっていました。
 
西洋の神がこの世界を創りあげた七日間。
 
仏教や儒教における大切な七つの教え。
 
月の運行が七日間ごとに様子を変えることから暦が生まれ、世界には七つの海と大陸があることに気づきます。
 
 
日本では子どもが生まれて七日目に「お七夜」を祝い、この世を去れば七日間ごとの法要を経て、四十九日で来世の行き先が決まるといわれています。
 
七つ道具に七不思議、七賢人に七人の侍。
 
 
「七」という数字は人々を夢中にし、力を授け、生きる指針となってきたのです。
 
ではここで、もう一度「七」という字を感じてみてください。
 
中国の思想家、荘子の『應帝王第七』に「混沌の死」という寓話があります。
 
 
ある日、南と北に住む二人の帝が、「混沌」という名の帝が治める土地で手厚くもてなしを受けます。
 
「混沌」には、人が持つ七つの穴、両目、両耳、鼻の穴、口がありません。
 
自分たちはその穴で見たり聴いたり食べたり、息をしている。
 
そこで二人は試しに毎日ひとつずつ、「混沌」に穴を開けていきます。
 
ところが、すべての穴が開いた七日目に、「混沌」は死んでしまうのです。
 
好き嫌いを生じ、善悪や損得などを判断し、情報を得る七つの穴。
 
んな穴など持たなかった「混沌」は、絶対的な価値観とは無縁な、あるがままの世界で自由に生きていました。
 
それなのに、穴を通じて外界とつながることで心身を乱し、命を落とすのです。
 
それはまるで、情報の海におぼれ、自分らしさを見失って苦しむ現代人の姿を彷彿とさせます。
 
今年こそ、忙しく働こうとする七つの穴をたまにふさいで、内なる想いと向き合うときをもちたいものです。
 
漢字は、三千年以上前の人々からのメッセージです。
 
その想いを受けとって、感じてみたら……、ほら、今日一日が違って見えるはずです。


 

ウェブニュースより
 
渡辺棋王が決勝へ 千田六段を105手で下す 朝日杯 ―― 第12回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の準決勝が16日、東京都千代田区の有楽町朝日ホールで行われ、第6回優勝者の渡辺明棋王(34)が千田翔太六段(24)に105手で勝った。
https://www.youtube.com/watch?v=CBXb20SrYcU
 
前回優勝の藤井聡太七段(16)は、第1回の優勝者の行方(なめかた)尚史八段(45)と対戦している。勝者が渡辺棋王と決勝戦を戦う。   (朝日新聞DIGITAL 20192161240分)

 
藤井聡太七段、史上2人目の連覇へ準決勝突破! 午後230分から渡辺明棋王と決勝で初対決/将棋・朝日杯 ―― 将棋の藤井聡太七段(16)が216日、朝日杯将棋オープン戦準決勝で、行方尚史八段(45)に120手で勝利し、決勝進出を決めた。
https://www.youtube.com/watch?v=-OK-0fg2uX0
 
同時刻に行われていたもう1つの準決勝で、渡辺明棋王(34)が千田翔太六段(24)に勝利。午後230分からの決勝は藤井七段と渡辺棋王という顔合わせになった。2人は公式戦初の対局で、どちらが勝っても羽生善治九段(48)以来2人目となる同棋戦複数回の優勝、藤井七段が勝てば同時に史上2人目の連覇も達成する。
 
昨年、準決勝で羽生九段(当時竜王)、決勝で広瀬章人竜王(32、当時八段)を続けて破り史上最年少、15歳6ヵ月で一般棋戦初優勝を果たした藤井七段は、今期も初戦で稲葉陽八段(30)、2回戦で糸谷哲郎(30)と、いずれも順位戦A級で活躍する棋士に続けて勝利。準決勝の相手は第1回大会優勝者の行方八段だったが、ここまでの勢いをそのままに快勝で決勝へと駒を進めた。
 
決勝で対戦する渡辺棋王は、2012年に行われた第6回大会の優勝者。第7、8回大会は準優勝(優勝はいずれも羽生九段)と、3年連続で決勝進出をしたこともある。今年度は順位戦B1組で11戦全勝しA級昇級決定、さらには7期連続防衛を目指す棋王戦五番勝負、奪取を目指す王将戦七番勝負で、いずれも王手をかけているなど絶好調だ。   (Abema TIMES 2019.02.16 12:55


 


連覇の藤井七段、渡辺棋王が嘆くほどの強さ「一方的に」 ―― 成長を続ける高校生棋士が、棋士全員が参加するトーナメントで再び頂点に立った。他の公式戦でも白星を積み重ね、高勝率を維持する藤井聡太七段(16)。大勢の来場者が見守る晴れ舞台で、類いまれな強さを印象づけた。
 
東京都千代田区で行われた第12回朝日杯将棋オープン戦の準決勝と決勝。藤井七段は準決勝で、名人戦の挑戦者になった経験もある行方(なめかた)尚史八段(45)に勝利。決勝では、公式戦初対戦となる渡辺明棋王(34)と激突した。

 
渡辺棋王は今年度、15連勝を記録。今年に入ってからは王将戦、棋王戦と二つのタイトル戦で5連勝している。絶好調のタイトル保持者と、2連覇を狙う高校生棋士の対戦。午後2時30分、会場のファンが熱い視線を送る中、大一番が始まった。
 
先手番を握った渡辺棋王が選んだ戦法は「雁木(がんぎ)」。盤面中央で細かな折衝が続く展開になった。中盤、相手の隙をついた藤井七段がペースをつかみ、2時間22分の戦いの末に勝ちきった。対局後、渡辺棋王が「一方的な将棋になってしまった」と嘆くほどの快勝だった。
https://www.youtube.com/watch?v=nDvfvv0JZPM
 
藤井七段は前回、1次予選から10連勝で初優勝。シードされた今回は本戦から登場した。1月に名古屋市で行われた1、2回戦では、名人挑戦権を争うA級順位戦に所属する稲葉陽(あきら)八段(30)、糸谷(いとだに)哲郎八段(30)に連勝した。準決勝・決勝の解説を務めた佐藤天彦名人(31)は「持ち時間が少ない対局でも、藤井七段はミスが少ない。実力は既にトップクラスで、いつタイトル戦に出てきてもおかしくない」と話す。

 
藤井七段は昨年10月、若手棋士の登竜門の新人王戦で初優勝。今年度の成績は、これで40勝7敗になった。勝率は8割5分1厘で、2年連続の1位を視野に入れている。中原誠十六世名人(71)が1967年度に記録した歴代最高勝率(8割5分5厘)を上回る可能性もある。   (朝日新聞DIGITAL 20192161953分)


 

ウェブニュースより
 
一時は絶体絶命も…藤井七段 逆転!王将戦今期初戦飾った ――将棋の最年少プロ棋士・藤井聡太七段(16)が12日、大阪市の関西将棋会館で指された第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の1次予選2回戦で池永天志四段(25)に153手で薄氷の勝利を収め、今期初戦を飾った。

 
一時は絶体絶命の状況まで追い込まれたが、池永の「持ち駒を勘違いした」というミスに乗じて「詰まされたらしょうがない」という怒とうの攻めで反撃。最後は1分将棋にもつれ込みながら逆転した。
https://www.youtube.com/watch?v=1qk4J7g5RjQ
 
今年度の勝率はこれで0.844438勝7敗)。中原誠16世名人が1967年度に記録した歴代1位の0.854547勝8敗)を51年ぶりに更新できるかに注目が集まるが、もう1敗もできない戦いは今後も続く。次局は連覇がかかる16日の朝日杯将棋オープン戦の準決勝、決勝。   [Sponichi Annex 2019213 05:30 ]

ウェブニュースより
 
作家堺屋太一さん死去、83歳 「団塊の世代」生みの親 ―― 戦後生まれを描き、流行語にもなった代表作「団塊の世代」で知られる作家で経済評論家の堺屋太一(さかいや・たいち、本名池口小太郎〈いけぐち・こたろう〉)さんが、8日死去した。83歳だった。

 
1935年、大阪市生まれ。60年に通商産業省(現経済産業省)に入省。日本での国際博覧会(万博)開催を提案・企画し、70年の大阪万博(日本万国博覧会)を来場者6422万人という成功に導いた。
 
時代の節目を鋭く切り取ることばで注目された。76年の「団塊の世代」は4749年生まれのベビーブーム世代を主人公とした小説。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句だった。   (朝日新聞DIGITAL 20192101320分)


 


宇野昌磨が初優勝、フリーで世界最高 四大陸選手権 ―― フィギュアスケートの欧州以外の国・地域で争う四大陸選手権第3日が9日(日本時間10日)、米カリフォルニア州アナハイムのホンダセンターで男子フリーがあり、平昌(ピョンチャン)五輪銀メダルでショートプログラム(SP)4位の宇野昌磨(トヨタ自動車)が逆転で初優勝を果たした。4回転フリップなど3本の4回転ジャンプを着氷し、ルール改正後に羽生結弦(ANA)が出した190.43点を上回る世界最高の197.36点をマーク。合計289.12点も自己最高得点を更新した。主要国際大会で6戦連続2位だったが、頂点に立った。

 
宇野は「自分はできるんだと、何も考えずに滑った。諦めないのは大事だなと思った」と語った。
 
7位の田中刑事(倉敷芸術科学大大学院)は2本の4回転サルコーを着氷し、167.61点。合計251.54点で総合7位。SP12位の友野一希(同大)は4回転サルコーの失敗が響き、132.25点。合計206.41点で12位だった。


朝日新聞デジタル 2/10 15:56)


 



 

ウェブニュースより
 
逆転の紀平!!ガッツ初V 試練乗り越え国際大会無傷の5戦5勝 ―― ショートプログラム(SP)5位の紀平梨花(16=関大KFSC)がフリーで153.14点を出し、合計221.99点で初優勝した。大会前の練習で転倒し「左手薬指第2関節の亜脱臼」を負いながら、代名詞のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を1本決めて高得点を叩き出した。首位との5.06点差をひっくり返し、2位に14.53点差をつけるぶっちぎりV。今季の国際大会は5戦5勝で、そのうち3回が逆転になった。男子フリーは9日(日本時間10日正午から)に行われる。
 紀平がまた衝撃的な勝ち方をした。故障を抱えながら、完璧な演技で逆転V。プログラム「ビューティフル・ストーム」のフィニッシュの後、氷に膝をついたまま両手でガッツポーズ、そして、右拳を突き上げた。

 
「絶対にミスが許されないと思っていたので。全部(ジャンプで)立ったので、全部立ったんだと思い出して、素直に喜べました」。SPで代名詞のトリプルアクセルの失敗が響き5位と出遅れた。5日の練習中にジャンプで転倒し、左手薬指第2関節を亜脱臼。テーピングで固定したために、「指を伸ばしていることで空気抵抗が大きくなって」、跳ぶ感覚が狂った。
 
フリーは「もっと速く」と回転を意識した。最初に前日に失敗した大技に挑み、成功。加点も多く引き出した。通常なら次はトリプルアクセルからの連続3回転だが、ダブルアクセルに落とした。
 
「トリプル2本は難しいと感じた。無理をすることなく、安全に成績が残せるように、1本にしようと」
 
冷静な判断でリズムに乗り、ノーミス。演技構成を落としながら7本全てのジャンプでプラスの評価を得て、自己記録にあと1.58点に迫る153.14点を叩きだした。
 
1月16日から27日まで、米国コロラド州で強化合宿を張った。シーズン中初の試みは、分刻みのスケジュールで動くスケート漬けの日々。栄養にもこだわり、毎日、無農薬野菜のサラダを食べた。ジャンプも跳んだ。3月の世界選手権(さいたま市)まで使う予定だった新しいスケート靴を履きつぶすほど、跳んだ。トリプルアクセルを踏み切る側の左足だけが傷んだ。
 
帰国後、「3日間、足が動かなかった」という猛練習が、今大会のアクシデントを乗り切る原動力になった。
 
「アメリカの合宿の成果が結果に表れたと思う。頑張ったという自信があったのが良かったと思います」


浜田美栄コーチ(59)は「いや、まだまだかな。このこと(故障など)を次の勉強にしないと」と手厳しいものの、頂点に立ったことには変わりない。国際試合の無敗を継続し、ドラマチックな逆転劇も定着してきた。世界選手権(3月20日開幕、さいたまスーパーアリーナ)も日本のエースとして臨む。まだシニア1年目の16歳。シンデレラストーリーに終わりが見えない。

《浜田コーチの“魔法の言葉”》 この日の朝には、浜田コーチは紀平に児童文学「オズの魔法使い」の話をしたという。「ライオンが勇気をもらいに行きますよね。勇気をもらうためにこれ(試合に)に出て行くんだねって」。故障をはね返しての逆転Vは、財産になると感じている。演技後は「ライオンになれたね」とねぎらった。平昌五輪4位の宮原ら数々の教え子を励ましてきた“言葉の魔術師”らしく、巧みに気持ちを乗せた。


▽四大陸選手権 欧州をのぞく国と地域で争う大会。大会名はアジア、アメリカ、オセアニア、アフリカの大陸を指す。199899年シーズンから毎年開催。米国では7年ぶり5度目の開催。    [スポニチアネックス 2019210 05:30 ]


 

■昭和9年の「葉」や10年の「ダス・ゲマイネ」、11年の「虚構の春」、12年の「二十世紀旗手」などの小説中には、作品の要素として太宰自身の俳句が挿入され、また芭蕉や其角、子規らの句が散りばめられています。それは、彼の文体にも影響を及ぼします。そもそも太宰は、芥川の影響を強く受け、理知的・技巧的な文学、ダンディズムの文学、純粋芸術至上主義の文学を目ざし、新しい文学を求めたのです。新しい文体や複雑な形式を模索し、青春の感傷と情熱を注ぎ、読点を多用し、助詞を省略した文体を生みだしていきます。このころの太宰の句に、
  外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
  歯こぼれし口の寂〈さぶ〉さや三日月
  ソロモンの夢が破れて一匹の蟻。
など、左翼運動にのめり込みながらも満たされない悲哀や芥川賞を受賞できない焦燥感が漂っています。
 
しかし、太宰のその難解な方法は理解されず、昭和1110月、“結核療養”とだまされて精神病棟に入院させられるなど半狂人扱いされ、また入院中に初代と上京していた親戚の画学生小館善四郎の過ちを知ってショックを受け、昭和12年3月、初代とカルモチン自殺未遂をおこし、結局初代と離別します。そのようなどん底の状況の下で、昭和13年9月13日、井伏鱒二は、1年近く下宿生活をしながら筆を断っていた太宰を、山梨県御坂峠の天下茶屋に呼び寄せ、精神の安定と生活の再生を図ろうとしたのです。
       
春服の色教へてよ揚雲雀    太宰 治
は、昭和141215日に、友人の高田英之助に結婚を祝して送った書簡にある句で、前書きに「奥さまには くれぐれもよろしく。」とあります。友人の高田を揚雲雀に見立て、〈結婚したばかりの奥さんは、春の幸せなどんな装いをしているのでしょうか〉と呼びかけているようです。高田夫妻は、婚約からすんなりと結婚できたわけではなかったのです。新婦の思いがいくばくであったかと思いやる太宰の優しさがあらわれた、太宰にはめずらしく明るい佳句です。このとき、井伏の媒酌で斎藤須美子と結婚した高田の似顔絵が残されています。井伏が色紙に描いたもので、その絵の横には、「ほんものはもつとわかくていい男」の太宰の賛も添えられています。

■太宰は、この年の1月8日に井伏鱒二夫妻の媒酌で結婚をし、9月に甲府から三鷹に転居したところでした。妻となった石原美知子を紹介したのが、高田英之助です。彼は、井伏の郷里・広島県福山の後輩で、慶應大学の国文科を出て、東京日日新聞(現・毎日新聞)甲府支局に勤務していました。若きころ、太宰、伊馬春部とともに作家を目指す“井伏門下の三羽ガラス”といわれた人です。井伏から「太宰の妻に誰かよい人はいないだろうか」と高田に話があり、フィアンセの須美子の女学校時代の後輩・美知子はどうか、ということになったのです。実は、その直前にも、太宰には縁談話がありましたが、太宰の風評がよろしくなく、先方から断られていたのでした。
 
■昭和13年のこの太宰と美知子の縁談は、小説「富嶽百景」にあるとおりです。「このうへは、縁談ことわられても仕方がない、と覚悟を決め、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう」と破れかぶれの太宰に対し、太宰の過去に目を瞑り、「ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する誠意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」と美知子の母親。「この母に、孝行しようと思つた」太宰は、井伏に“生活の立て直し”を誓約します。

■この時期は、太宰にとって最も安定的な至福の時期でした。小説の構成や文体に大きな変化がみられ、平明で自然な落ち着いた文体となりました。“惑乱から安定へ”“絶望から希望へ”と変化したのです。「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴へ」「走れメロス」などの傑作が陸続と発表されます。やがて、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」へと日本文学史を代表する作品が生み出され、文壇の寵児への道を歩みはじめることになるのです。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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