ウェブニュースより
宇良が白星発進 初場所は西幕下23枚目 十両復帰へ「思い切って取ることだけ」 ―― 元幕内の人気業師、幕下の宇良(26)=木瀬=が貴健斗(千賀ノ浦)を押し出して、白星発進した。立ち合い、低く相手の左足を取りに行き、そのまま出足一気に出て決めた。
「下からいこうと思って。うまく反応して攻め手を休めず取り組めた」と納得の内容。
奇手・居反りの使い手、アクロバット力士として関学大から角界入り。15年春場所で初土俵を踏み、速さと土俵際の粘りなどが光り、スピード出世した。
17年名古屋場所では最高位東前頭4枚目まで番付を上げたが翌秋場所2日目、右膝靱帯(じんたい)を断裂し3日目から途中休場。手術も行い6場所連続休場し東三段目91枚目まで番付を落とした。先場所、7戦全勝で三段目優勝を果たし、西幕下23枚目まで番付を回復してきた。
十両復帰も見えてきた地位。「三段目のように相手に対して緊張はしない。この位置に来たら緊張していられない。思い切って取ることだけ。相撲に集中しないと」と、気を引き締める。
今場所の目標は「風邪を引かないこと」と体調管理が大事。今年の目標は「膝を治したい。もっと完ぺきにしたい」と願った。 (デイリースポーツ2019年01月14日14時54分)
大相撲初場所 中入り後の勝敗 進退かかる横綱 稀勢の里2連敗 ―― 大相撲初場所の2日目、進退がかかる横綱 稀勢の里は、前頭筆頭の逸ノ城と対戦し、はたき込みで敗れました。初日から2連敗の稀勢の里は相撲人生の土俵際に追い込まれました。
中入り後の勝敗です。
▽十両の貴源治に大奄美は、大奄美が寄り切りで勝ちました。
▽琴恵光に千代の国は、千代の国が突き出し。
▽千代翔馬に大翔丸は、千代翔馬が送り出し。
▽豊山に新入幕の矢後は、豊山が押し出し。
▽明生に琴勇輝は、琴勇輝が押し倒し。
▽輝に佐田の海は、輝が押し倒しで勝ちました。
▽阿炎に勢は、阿炎が引き落とし。
▽宝富士に魁聖は、魁聖が小手投げ。
▽朝乃山に遠藤は、遠藤が突き出し。
▽竜電に千代大龍は、竜電が寄り切り。
▽阿武咲に大栄翔は、阿武咲が突き落としで勝ちました。
▽碧山に琴奨菊は、碧山がはたき込み。
▽隠岐の海に嘉風は、腰くだけで隠岐の海が勝ちました。
▽松鳳山に関脇の貴景勝は、貴景勝が押し出し。
▽関脇の玉鷲に正代は、玉鷲が押し出し。
▽小結の妙義龍に大関 高安は高安が押し出しで勝ちました。
▽大関 栃ノ心に錦木は、錦木が上手投げ。
▽大関 豪栄道に北勝富士は、北勝富士が押し出し。
13日に総崩れの大関陣は高安が勝ちましたが、栃ノ心と豪栄道が2連敗です。
▽逸ノ城に稀勢の里は、逸ノ城がはたき込みで勝ちました。初日から2連敗の稀勢の里は相撲人生の土俵際に追い込まれました。
▽小結の御嶽海に横綱 鶴竜は、御嶽海が押し出しで勝ちました。
▽横綱 白鵬に栃煌山は、白鵬が突き落としで勝ちました。
(NHK WEB NEWS 2019年1月14日 19時23分)
ウェブニュースより
哲学者の梅原猛さん死去 日本古代史に大胆な仮説を展開 ―― 独自の理論で日本古代史に大胆な仮説を展開した哲学者で、国際日本文化研究センター(日文研、京都市西京区)の初代所長を務めた文化勲章受章者の梅原猛(うめはら・たけし)さんが12日、死去した。93歳だった。
1925年、仙台市生まれ。京都大学哲学科卒業後、立命館大学教授や京都市立芸術大学長などを歴任した。
60年代から日本文化研究に傾倒し、72年に奈良・法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられたとする「隠された十字架―法隆寺論」を出すと、73年には万葉歌人の柿本人麻呂は流刑死したとする「水底(みなそこ)の歌―柿本人麿論」を刊行。通説を覆す独創的な論は「梅原古代学」と呼ばれ、大きな反響を呼んだ。
80年代前半には、日本文化を総合的に研究する中心機関の必要性を訴え、当時の中曽根康弘首相に直談判するなど政府関係者を説得。日文研の創設にこぎ着け、87年に初代所長に就任した。
社会的発言も多く、日本人の死生観をもとに「脳死」の考え方に強く反対したほか、イラク戦争や自衛隊の海外派遣の反対、平和憲法擁護なども訴えた。一方で、スーパー歌舞伎「ヤマトタケル」の創作など劇作家としても活動し、多才ぶりを示した。
99年に文化勲章受章。97年から日本ペンクラブ会長を3期6年務めた。2004年には「九条の会」呼びかけ人となり、11年には東日本大震災復興構想会議の特別顧問となった。 (朝日新聞DIGITAL 2019年1月14日01時11分)
市原悦子さん死去、82歳 「家政婦は見た!」主演 ―― テレビドラマ「家政婦は見た!」の主演や「まんが日本昔ばなし」の語りなど、幅広い役柄で親しまれた俳優の市原悦子(いちはら・えつこ=本名塩見悦子〈しおみ・えつこ〉)さんが12日、心不全で死去した。82歳だった。通夜は17日午後6時、葬儀は18日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で営む。葬儀委員長は所属事務所ワンダー・プロダクションの熊野勝弘社長。
千葉市生まれ。中学で演劇部に入り、県立千葉第一高校(現・千葉高校)でも演劇に取り組んだ。1957年に俳優座へ入り、平幹二朗さんらと共演する。
一躍名を広めた代表作は、83年から2008年までテレビ朝日系「土曜ワイド劇場」で放送された「家政婦は見た!」シリーズ。雇われ先で人間関係をのぞき見る好奇心の強い家政婦を演じ、お茶の間に親しまれた。他にも多くの2時間ドラマに出演。とぼけた刑事役やバスガイド役などでも庶民的な魅力を発揮した。
1975年から94年までTBS系で放送された「まんが日本昔ばなし」では、常田(ときた)富士男さんとともに語りを担当。ユニークな語り口で独自の世界観を打ち出した。90年には映画「黒い雨」で、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。96年のNHK大河ドラマ「秀吉」で演じた秀吉の母なか役でも話題に。
2016年に大ヒットしたアニメ映画「君の名は。」ではヒロインの祖母を演じていた。
空襲や疎開を経験。「不自由だった戦争中の小学生時代が今の自分をつくった」と語り、80年代以降は戦争童話の朗読などにも積極的だった。昨年放送のNHK大河ドラマ「西郷(せご)どん」では語り役に決まっていたが、体調不良により降板。13日未明放送のNHK「おやすみ日本 眠いいね!」に声で出演予定だったがかなわず、「こんな年になって盲腸になるなんて嫌だわ」と番組にコメントを寄せていた。
俳優座の養成所で同期だった脚本家のジェームス三木さん(83)は「ゆっくりと感情が伝わるようにセリフが話せる抜群の俳優さんだった。哀愁があるのも魅力で、とても残念です」と話す。64年の舞台「ハムレット」で共演した仲代達矢さん(86)は「演劇の役者にとっては、声というものが猛烈に大事。市原さんは、声の質をもってものを言う才能を、先天的に持っていた。天性の、俳優になるべき俳優でした」と語った。 (朝日新聞DIGITAL 2019年1月13日22時29分)
十両・炎鵬「かなりいいスタート」白鵬との稽古で「前に出ることを思い出すことができた」 ―― 初日の十両の土俵が沸き返った。盛り上げたのは炎鵬だ。168センチ、100キロの小兵が、182センチ、187キロと巨体の明瀬山を向こうに回して堂々たる相撲を見せた。立ち合いから相手の懐に入って下から攻め続け、土俵際へ寄った。そこで勝負は決められなかったが、最後は体を開いて下手出し投げで転がした。「かなりいいスタートだと思う」と、うなずいた。
明瀬山にはこれまで3戦全敗しており「小さい相手のさばき方がうまいし、柔らかい」と苦手にしていた相手だった。「前回(の対戦)は逃げ腰だったので、きょうは立ち合いから当たって行こうと思っていた」。前へ出続けたことが会心の白星につながった。
場所前には部屋の先輩の横綱・白鵬(33)に稽古の相手をしてもらったことで、攻め抜く意識を取り戻した。「久しぶりにぶつかり稽古で胸を出してもらって昔を思い出した。最近は横に逃げていた。前に出ることを思い出すことができた」と、しみじみ。あらためて優勝41回の大横綱の存在に感謝した。
取組中にはちょっとしたトラブルもあった。激しい攻防でコンタクトレンズが外れたのだ。今場所から周囲の助言で、1日使い捨て用から2週間用のものに変えたのだという。「取れづらいと聞いて変えたんですが、取れちゃいましたね。1週間くらい使っていたものだけど、もったいないですね」と話して笑わせた。
そんなアクシデントをものともせず新年初勝利。「この一番は自信になる。今年は幕内を目指してやっていく」と先を見据えた。この勢いで白星を並べ、目標を少しでも早くかなえる。 (スポーツ報知 1/14(月) 6:04配信)
大相撲初場所初日 稀勢の里 御嶽海に黒星 ―― 大相撲初場所は13日、東京両国の国技館で初日を迎えました。進退がかかる横綱 稀勢の里は、結びの一番で小結 御嶽海と対戦し、押し出しで敗れました。
中入り後の勝敗です。
▽十両の照強に大翔丸は、照強が寄り切りで勝ちました。
▽千代の国に大奄美は、千代の国が押し出し。
▽琴恵光に千代翔馬は、琴恵光が寄り切り。
▽豊山に琴勇輝は、豊山が押し出し。
▽新入幕の矢後に明生は、矢後が寄り倒しで勝って幕内で初白星をあげました。
▽輝に勢は、勢が押し出し。
▽佐田の海に阿炎は、佐田の海が押し出し。
▽宝富士に遠藤は、遠藤が突き落とし。
▽魁聖に朝乃山は、魁聖が寄り切り。
▽竜電に大栄翔は、大栄翔が突き出しで勝ちました。
▽千代大龍に阿武咲は、阿武咲が押し出し。
▽碧山に嘉風は、碧山が押し出し。
▽琴奨菊に隠岐の海は、琴奨菊が寄り切り。
▽松鳳山に関脇の玉鷲は、玉鷲が突き落とし。
▽新関脇 貴景勝に正代は、貴景勝が突き出しで勝ちました。
▽北勝富士に大関 栃ノ心は北勝富士が押し出し。
▽錦木に大関 豪栄道は、錦木が上手投げ。
▽大関 高安に逸ノ城は、逸ノ城が突き出し。初日の13日は、3人の大関がすべて敗れました。
▽先場所、右足首付近のけがで休場した横綱 鶴竜に栃煌山は、鶴竜が突き出しで勝ちました。
▽小結の妙義龍に先場所、右ひざなどの手術の影響で休場した横綱 白鵬は、白鵬がはたき込みで勝ちました。
▽横綱 稀勢の里に小結の御嶽海は、御嶽海が押し出しで勝ちました。
進 退がかかる稀勢の里は、14日逸ノ城と対戦、立て直せるか注目が集まります。
稀勢の里 言葉少なに
横綱 稀勢の里は、報道陣の「あすから修正しますか」という問いに対し、「はい」と答え、「ここからですか」という質問に対しては、「そうだね」と悔しそうに話していました。そのほかの質問に対しては、すべて無言でした。
八角理事長「あしただ」
日本相撲協会の八角理事長は、取組前、休場明けの3人の横綱について、「初日、特に休場明けというのは難しいものだ」と話しました。
そのうえで、稀勢の里の取組については「攻めてはいるけど、御嶽海に下から押っつけられている。あしただ。あしたのことしか、考えることはないだろう」と話していました。
横綱審議委員会 北村委員長「全うできるか不安」
初日の取組を見た横綱審議委員会の北村正任委員長は、敗れた稀勢の里について、「これだけみんなが期待しているので残念だ。もう少し落ち着いて相撲を取れたらいいのにという気がする。まだ初日で、これからあるが、場所を全うできるか不安だ」と感想を話しました。
そして、「みんなが応援しているので、頑張ってもらいたい。本人がいちばんわかっていると思う」と話していました。 (NHK WEB NEWS 2019年1月13日 19時04分)
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五輪招致疑惑でIOCが調査着手 倫理委開催 ―― 【バルディフィエメ(イタリア)=共同】国際オリンピック委員会(IOC)は11日、2020年東京五輪招致を巡る贈収賄疑惑でフランス捜査当局が日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長に対する捜査を開始したことを受け、調査に着手した。
IOCは、この日の倫理委員会の開催を明らかにしたが、協議内容などの詳細は公表していない。
東京の招致委員会がシンガポールのコンサルタント会社に支払った報酬の一部が当時、IOC委員だったラミン・ディアク前国際陸連会長(セネガル)の息子のパパマッサタ・ディアク氏に渡った疑いが持たれている。
IOCはバッハ会長がセネガルの大統領に協力依頼の文書を送っていたことを明らかにし「フランス当局と緊密に連携を取り、状況を注視する」との姿勢を示した。竹田会長に関しては現状で「推定無罪」の立場とした。
竹田会長は招致委の理事長だった。IOC委員で、マーケティング委員長も務めている。不正疑惑について否定しつつ、「疑念を払拭するために、調査に協力する」としている。疑惑に関して、JOCの調査チームは、コンサル契約について「違法性はない」としている。
東京都の小池百合子知事は11日夜、疑惑が報じられたことについて「大変驚き、困惑している。今後情報収集をしていきたい」と話した。 (日本経済新聞 2019/1/12 11:56)
新春に誓う=大相撲初場所注目力士 ――大相撲初場所は13日に東京・両国国技館で初日を迎える。先場所で初優勝して新関脇となった貴景勝は、大関を視野に入れて臨む。4場所ぶりに負け越した御嶽海は大関昇進へ仕切り直しの場所。高安はあと一歩で賜杯を逃した悔しさを胸に刻み土俵に挑む。
◇貴景勝「ここからが勝負」=大関見据えて気合
昨年九州場所で初優勝した喜びはもう過去のものとして、頭の片隅に追いやった。新関脇となった貴景勝は視線を大関昇進に向けている。「ここからが本当の勝負。なかなか巡ってこないチャンスなので、物にしたい」と気合を入れる。
飛躍の原動力となったのは得意の突き押しに徹したことだった。175センチと上背はない中で、「小兵が技で倒す相撲もあるが、自分は大きい人を根こそぎパワーで倒したい」。そう理想を掲げ、体を大きくする努力も重ねてきた。
稽古では前に出るだけでなく、巧みにいなすことも試している。「押し切れない展開もある。底上げができるようにしたい」。先場所とは違って3横綱がそろう可能性がある初場所では、理想だけではなく、取り口の幅を広げる必要性があることも分かっている。
7日にあった横綱審議委員による稽古総見では、横綱白鵬と5番取って全敗だった。突き押しを貫いて力負けしたが、「勝ったときに考えることはない。負けたときにこそ学びがある」。22歳の新鋭にとっては収穫の多い稽古になった。
今場所後に大関昇進を果たすには、目安となる11勝という星勘定だけではなく内容も問われる。「プレッシャーは感じていない。力を出し切るのみ」。迷いなく、新年の土俵に全てをぶつける。
◇御嶽海、心鍛えて再出発=貴景勝も刺激に
関脇で臨んだ名古屋場所で初優勝を遂げながら、大関昇進は果たせなかった2018年。御嶽海は「充実していたが、正直悔しかった」と振り返る。三役在位は昭和以降で5番目に長い12場所連続となるなど、実力は十分。雪辱を期して挑む。
尻すぼみになっていた中、九州場所で貴景勝が初めて賜杯を抱き、自身と入れ替わるように大関に一歩近づいた。四つ下の22歳に大いに刺激を受け、「張り合いがある」と闘志に火が付いた。
大関昇進で先を越されたくないという思いは当然ある。それでも「がつがついかず落ち着いていきたい。しっかり気持ちをつくって、地に足を着けていきたい」と己に言い聞かせるように話す。
こう強調するのは、昨年の苦い経験があるから。連敗が続いたり、取りこぼしたりすると、「動揺して気持ちが焦った」。15日間通して心を乱さないことが大事だと痛感させられた。
3日には出羽海一門連合稽古で豪栄道と栃ノ心の2大関に、7日の横綱審議委員による稽古総見では白鵬に胸を借りて精力的に調整を進めている。
「もう一回気持ちを入れ直して、自分を見失わずにやりたい。今年は良い年にしたい」。相撲のセンスは誰もが認めるところ。心を鍛えて再出発する決意を込めて語った。
◇高安、今年こそ賜杯を=昨年は3場所優勝次点
今年こそ賜杯を手に。高安が昨年の悔しさを胸に初場所へ臨む。平成生まれ初の新十両、新入幕、新三役と順調に出世してきた28歳は平成最後の年へ決意を込めて、「初場所は優勝を目指したい」ときっぱり言い切った。
年末から年始にかけては兄弟子の稀勢の里と気合のこもった稽古を重ねた。何度もはね返されたが、時に大声を上げながら懸命に食らいついた。持ち前の馬力に磨きをかけ、「立ち合いはしっかり当たれている。感触は良い。横綱とやれるのが僕にとって良い経験」と充実の口ぶり。稀勢の里が「圧力がすごくて痛い」と認める。
7日の横綱審議委員による稽古総見では鶴竜、豪栄道と意欲的に稽古。「前に出る姿勢を意識した。本場所でそれが出ればいい」と先を見据えた調整ができている。
昨年は3場所で優勝次点。九州場所は千秋楽の結びで敗れ、貴景勝に優勝をさらわれた。屈辱の経験を冷静に振り返り、「調整不足、稽古不足。体がつくれていなかった」。だからこそ初場所へ向けては一切、妥協しない。
昨年は御嶽海、貴景勝が賜杯を抱き、初優勝は先を越された。「下からはい上がってくる若いお相撲さんは刺激をくれる。自分も負けてたまるかという気持ちでいたい」。プライドも力に変え、横綱・大関陣でただ一人優勝経験がない現状打破を狙う。 (JIJI.COM 2019/01/10-07:16)
詩人のサトーハチローや小説家・佐藤愛子の父親である佐藤紅緑は、少年小説の第一人者であるとともに、子規の門人でした。
紅緑は明治26(1893)年、弘前中学校を中退して、郷土の先輩で遠縁にあたる陸掲南を頼って上京し、羯南の書生となって国学院に通いました。しかし、国学院で古典の勉強を始めますが、なかなか理解できず、誰か親切に教えてくれる人はないだろうかと、羯南に相談すると、子規を紹介されました。
この向いに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、それは幸いだと喜んで見たが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐いて自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮の頃である、書生部屋に灯を付けようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で、丈は余り高くない、顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に這入ろうとしている。この家に来る客の中で案内なしに這入るのは、青崖氏たった一人であるのに、今またこんな変挺な人が一人殖えたと驚いて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。丁度向いの住人余が教を乞うべき人とは急に気が付かなかった。(佐藤紅緑 子規翁)
翌年、紅緑は5月に日本新聞社に入社して子規と机を並べることになり、俳句にも親しむようになります。紅緑は、たちまちのうちに頭角を現しますが、明治28年(1895)夏には脚気のため帰郷。「東奥日報社」の記者となりますが、翌年には仙台の「東北日報社」に入社し、明治30(1897)年には同志と仙台で「河北新報」を創刊し、5月に24歳の紅緑は「河北新報社」の社長の義妹である19歳の鈴木はると結婚しました。
その時に、子規から妻の名前を詠み込んだ「婿となり嫁となるはるのちぎりかな」という、ふたりの結婚を祝う句をもらい、婦人家庭欄の初代主筆となっています。
しかし、紅緑の腰は落ち着きません。明治31(1898)年1月には大隈重信の推薦で「富山日報社」に入社し、やがて主筆となりました。
大隈重信の進歩党に入党していた紅緑は、明治31年に青年急進党を組織するという噂を聞いた子規は、1月には4月8日、紅緑に手紙を送ります。「体の健康な人は十分考えて一時の軽挙にいでぬように願いおり候。きょうも貴兄の御地方に評判よしということを聞てうれしくもあるからに何やら例の杷憂も起り候まま下らぬくり言申上候」と忠告し、「われ病んてさくらにおもふこと多し」という句を送りました。
紅緑は、この手紙がよほど肝に答えたのか、「この手紙は余がバイブルである、御経である、論語である座右の銘である、余が欠点、病処を救うの道を教えたのは実にこの書である」と『子規翁』に書いています。
この年の初秋、紅緑は肺炎に罹りました。子規は「心を静かにせよ」とだけの手紙を送り、次便で、「肺炎は死ぬ病には無之候。小生の知き結核性のものにしても死ぬことには無之候。ただ屢々喀血すれば身体の衰弱を来す故かなり風邪を引かぬように用心致し候。貴兄もその辺御注意可被成。肺炎などはわけのなき病にて候えば、焦らずに御静養可然候」と、紅緑を励ましています。
明治32(1899)年12月25日、子規は紅緑が弘前で「陸羽新報」を創刊すると聞き、「雑煮くふて第一号をいはいけり」の句を贈っています。
しかし「陸羽新報」には1ヶ月いただけで、明治33(1900)年2月、紅緑は上京して「報知新聞社」に入社。記者活動とともに俳人として活躍します。明治38(1905)年には記者をやめて、自然主義小説を書き始め、劇作家、小説家としてようやく大成しますが、子規に受けた思義は生涯忘れることはありませんでした。
紅緑の『子規翁』に書かれた子規の言葉を紹介します。
人と交わるに長所のみを知って欠点を知らなければ永久の交わりはできぬ。また交わる方面を別に定めておかねばならぬ。政治家で俳句をやるものがあれば、その俳句の方面で交わり、政治の方は問わんでよろしい。実業家、商人、何でもそうである。故に世間的のこと、すなわち我が交わる処の俳句の方面において義を欠いた処がなければ他の実業や政治においてどんな失策があろうとも、そは別にしなければならぬ。(佐藤紅緑 子規翁)
「ああそうだ。瓢亭に薬を造ってもらうのだね、それを飲めば死んでしまうのだとして、もう苦しくてたまらんから死のうと思た時にそれを飲むことに決めて置くのだ。なかなか飲まんだろうと思う。本当に死ぬんだと思えば決して飲まれるものではない」。暫く話は途切れたが「劇薬のつもりで、瓢亭は何か笑い薬か踊り薬というようなものを入れておいたら山ができるね。いよいよこの一服で死ぬるのだというので家族のものやら君らが枕元に並んでおるさ。水を打たるごとくになっておるさ。そこで僕が飲む。自分でもう死んでしまったつもりになっておるさ。そうすると薬が利きだして、急に笑い出す、踊り出す、ステテコか何かで踊ったら滑稽だろうじゃないか」翁の話は大抵このように悲しい話でも、御しまいには滑稽に帰着してしまうのである。(佐藤紅緑 子規翁)
オーストラリア在住のMihoちゃんからメールが入りました。曰く、
節夫おじさん、道子おばさん
お元気ですか?
昨日、家のポストにおじさんとおばさんからの年賀状が届いてました!ありがとうございます!
私達みんな、おじさんとおばさんから毎年届く年賀状をいつも楽しみにしています。
東京は寒いですか?
こちらは少しずつ暑くなってきました。
はるなの小学校は2月から始まります。こちらの冬休み、こちらでは夏休みですが1ヶ月半くらいあって長いです。でもこちらの冬休み、日本の夏休みは2週間です。
お正月は何処かへお参りに行きましたか? 私達の年末年始はとくにどこにもいかず、年末年始のシドニーの花火大会を見たくらいです。テニスのオーストラリアオープンがメルボルンで始まるのでマットがとても楽しみにしています。錦織がブリスベンで遂に優勝しましたね。
寒いと思いますがお身体に気をつけてお過ごしください。
マット、美帆、はるな より
ウェブニュースより
長寿番組「世界の旅」、兼高かおるさん死去 ―― 長寿テレビ番組「兼高かおる世界の旅」を自ら企画、出演し、まだ海外旅行が一般的ではなかった時代に日本人の目を海外に向けさせた、旅行ジャーナリストの兼高かおる(かねたか・かおる、本名・兼高ローズ)さんが5日午後8時45分、心不全のため東京都内の高齢者施設で亡くなった。90歳だった。
告別式は近親者で済ませた。後日、お別れの会を開く予定。 (2019年01月09日 18時10分 読売新聞)
正岡子規は時代を先取りしての合理的な葬式観というのを書いています。曰く、
『吾等なくなり候とも、葬式の広告など無用に候。家も町も狭き故(ゆえ)二、三十人もつめかけ候はば柩(ひつぎ)の動きもとれまじく候(そうろう)。
何派の葬式をなすとも柩の前にて弔辞伝記の類(たぐい)読み上候事無用に候。
戒名といふもの用ゐ候事無用に候。曾(かつ)て古人の年表など作り候時、狭き紙面にいろいろ書き並べ候にあたり戒名といふもの長たらしくて書込(かきこみ)に困り申候。戒名などはなくもがなと存候。
自然石の石碑はいやな事に候。
柩の前にて通夜すること無用に候。通夜するとも代りあひて可致(いたすべく)候。
柩の前にて空涙(そらなみだ)は無用に候。談笑平生の如くあるべく候。』
「仰臥漫録」 明治34(1902)年10月15日より
ごく最近では、個人葬が注目されつつあるようですが、私個人の場合は残されたものが実行しうるかどうかは別として、願わくば納棺後すぐに火葬する直葬にして欲しく思います。
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藤井七段、順位戦で18連勝を達成 歴代1位のタイ記録 ―― 将棋の高校生棋士藤井聡太(そうた)七段(16)が、8日の第77期名人戦・C級1組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)で富岡英作八段(54)に91手で勝った。デビューからの順位戦の連勝記録を18に伸ばし、中原誠十六世名人(71)が1967年度から68年度にかけて達成した歴代1位記録に並んだ。
大阪市福島区の関西将棋会館で午前10時に始まり、午後8時3分に終局した。今年最初の公式戦を白星で飾った藤井七段は「順位戦の6時間という長い持ち時間の中で、じっくり考えられていることが結果につながったのかなと思う。今期順位戦はあと2局。非常に大事な戦いになるので、気を引き締めて臨みたい」と話した。
https://www.youtube.com/watch?v=0Q3lAMl_f7I
2016年10月にプロ四段に昇った藤井七段は、17年度にC級2組で10連勝してC級1組に昇級。18年度の今期C級1組は本局で8連勝とした。C級2組とC級1組をあわせ、デビューしてから順位戦で負けなしの18連勝とし、09年に引退した中原十六世名人が記録した18連勝と並び、歴代1位タイとなった。
順位戦は名人戦の予選にあたり、上からA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の計5クラスがある。今期C級1組には39人が参加。18年6月から19年3月まで約10カ月で10局ずつ指し、原則では成績上位2人が一つ上のB級2組に昇級する。昇級を重ね、最上位のA級で優勝すると、挑戦者として名人戦七番勝負に登場できる。
本局の開始前の時点で、今期のC級1組は近藤誠也五段(22)、藤井七段の師匠である杉本昌隆七段(50)、藤井七段の3人が7連勝で昇級争いの先頭を走り、6勝1敗で船江恒平六段(31)が追う展開だった。
8日の対局の結果は、近藤五段負け、杉本七段勝ち、藤井七段勝ち、船江六段勝ち。8連勝の杉本七段と藤井七段を、7勝1敗で近藤五段と船江六段が追う展開となった。杉本七段と藤井七段が師弟そろっての昇級を成し遂げるか、注目される。次のC級1組順位戦の対局は2月5日。近藤五段(7勝1敗)対藤井七段(8勝0敗)、杉本七段(8勝0敗)対船江六段(7勝1敗)という昇級候補同士の直接対決が組まれている。藤井七段と杉本七段がともに勝てば、1敗者がいなくなるため、3月5日の最終戦を待たずに、杉本七段と藤井七段の師弟によるアベック昇級が決まる。
ログイン前の続き藤井七段のデビュー以来の通算成績は122対局、104勝18敗、18年度の本局までの成績は39対局、33勝6敗となった。公式戦で6連勝中だ。
この日の対局は、プロの間で流行している「角換わり腰掛け銀」という戦型から、早い段階で藤井七段が角、富岡八段が金と桂を手駒にする激しい変化となった。藤井七段は「7九飛と3七銀が結構イレギュラーな関係で、どう判断するかが難しい将棋だった。本譜はタイミング良く(75手目)▲2九飛と回ることが出来たので、もしかしたらその辺りから指しやすくなったのかな、と思いました」と振り返った。敗れた富岡八段は「藤井君と当たるのはめったにないことなので、いろいろ考えてきた。今回は、まだ未知数の変化に踏み込んでみたんですけど。面白いところもあったというふうに感じたんですが、最後の▲2九飛は流石(さすが)だな、と思いました」と述べた。
デビューから順位戦で18連勝という記録達成について、藤井七段は「前期はC級2組で、今期はC級1組。別のステージの戦いなので、通しての記録というのはあまり意識はしていないです」と述べた。
師匠の杉本昌隆七段(50)と師弟そろって昇級争いを演じていることについて聞かれると、「師匠も今のところ全勝ということも知っていますけど、自分がやるべきことは自分自身の昇級を目指して、目の前の一局一局で全力を尽くすこと。自分は自分で順位戦でしっかり全力を尽くしたい」。きっぱりと答えた。
4月に史上最年少の10歳で囲碁のプロ棋士となる大阪市此花区の小学4年、仲邑菫(なかむらすみれ)さん(9)について記者に質問されると、「自分が(将棋のプロ棋士養成機関である)奨励会に入ったのが10歳の時でしたから。10歳でプロ棋士になるというのは、信じられないくらい、すごいこと。これからが楽しみだなと思います」と笑顔で話した。
(朝日新聞DIGITAL 2019年1月8日21時13分)
■芥川の人口に膾炙する句に、
蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな
木がらしや目刺にのこる海のいろ
青蛙おのれもペンキぬりたてか
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
などがあります。
■「蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな」については、“我鬼”が芥川の俳号とは知らなかった飯田蛇笏が「無名の俳人によって力作された逸品」と称賛しています。大正7年(1918)の7月『ホトトギス』雑詠欄に「鐡條〈ぜんまい〉に似て蝶の舌暑さかな」とあり、また「我鬼句抄補遺」には大正7年の作として「ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな」の形ででています。
■「木がらしや目刺にのこる海のいろ」について、大正11年(1922)12月17日の眞野友二郎宛書簡に「長崎より目刺をおくり来れる人に」と前書きして「凩や目刺にのこる海のいろ」と記していますが、「我鬼句抄」にはすでに「凩や目刺に残る海の色」の形で大正6年(1917)の作とされています。この木枯らしの海の色は、青ではなく代赭色でしょう。それが芥川の原体験の海の色です。
■「青蛙おのれもペンキぬりたてか」については、友人から、フランスの作家ジュール・ルナールの『博物誌』に、「とかげ ペンキ塗りたてご用心」があると指摘されると、だから“おのれも”としてあると答えたといいます。
■そればかりではありません。芥川は、「飯田蛇笏」の中で、「その内に僕も作句をはじめた。すると或時歳時記の中に『死病得て爪美しき火桶かな』と云ふ蛇笏の句を発見した。この句は蛇笏に対する評価を一変する力を具へてゐた。僕は『ホトトギス』の雑詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境も剽竊〈ひょうせつ〉した。『癆咳〈らうがい〉の頰美しや冬帽子』『惣嫁指〈そうかし〉の白きも葱に似たりけり』――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した」と記しています。
■大正8年(1919)2月8日の薄田泣菫宛書簡に「青蛙おのれもペンキぬり立てか」、小島政二郎宛書簡に「青蛙おのれもペンキ塗り立てか」とあり、また同年8月15日の秦豊吉宛書簡に「青蛙おのれもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の為に註す事然り)」と記していますが、「我鬼窟句抄」や「我鬼句抄」には大正7年(1918)の作とされています(大正8年3月の『ホトトギス』雑詠欄に掲載)。
■「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」の原句は、大正9年(1920)頃に作られ、よほど気に入っていたとみえ、たびたび揮毫(きごう)しています。青酸カリを服毒して自殺する夜の午前1時過ぎ、芥川は伯母の枕もとに来て、「これを明日の朝下島さん〈注・医師〉に渡してください」と差し出した短冊に、「自嘲 水洟や鼻の先だけ暮れのこる」とあり、そのため“辞世の句”として有名になったのです。大正14年(1925)の句に「土雛や鼻の先だけ暮れ残る」があります。自嘲的諧謔の句です。芥川の死は、高校生であった太宰治に影響を与えました。ノートに芥川の“辞世の句”を書き写していたといわれています。
■芥川の自殺の原因が奈辺にあったのかについては諸説挙げられています。母の血を引く発狂への恐れ、芥川と新原の両家を一身に背負わなければならない重圧、複数の女性問題、文壇の寵児を育てた伯母と養父母との力関係、そして創作の根本的な問題があるようです。
■芥川の小説の特徴は、短編を中心とした、少年の読者にも受け入れられる早熟の少年小説である一方で、研ぎ澄まされた金属的な精緻の文体の上に構築されていることです。それは、博覧強記の芥川が、書物を通して人間や人生の見方を学び、現実の生活からの体験に乏しく、世間的にはむしろ幼稚ともいえる精神構造にあることです。それゆえ、俳句づくりには適していたと思われるのかもしれません。芥川により言葉が継ぎ合わされ、いかにもそれらしい風景描写として、現実よりも本物らしい情景が浮かびあがってきます。
■しかし、芥川と生前よく俳句の話をし、激論を交わした友人の萩原朔太郎は、芥川の俳句を「末梢神経的の凝り性と趣味性とを、文学的ジレッタンチズムの衒気〈げんき〉で露出したようなもの」と評しています。つまり、芥川の俳句は、彼自身の感動のないまま、ただ知識に頼って作られた句から生まれる、本物らしいが、強いて拵えたような句、人工的に作られた、魂の叫びのない、自然の広がりのない情景となっていて、そこに繊細かつ都会的な芥川の俳句の特異性と魅力とともに、限界があったといえるのでしょう。
人去つて空しき菊や白き咲く 芥川龍之介
■これは夏目漱石の一周忌の折に詠まれた芥川龍之介の俳句です。第四次『新思潮』の創刊号に発表した小説「鼻」が夏目漱石に認められ、芥川が文壇にデビューしたのは、大正5(1916)年2月、東京帝国大学生の時でした。その年の7月に大学を卒業、12月に横須賀の海軍機関学校の嘱託教官となり、鎌倉の野間西洋洗濯店の離れに下宿します。漱石が亡くなったのは同じ年の12月9日のことでした。
■夏目漱石の有名な句に、「有る程の菊抛〈な〉げ入れよ棺の中」があります。これは友人の夫人で作家・歌人の大塚楠緒子(くすおこ・なをこ、本名:久寿雄)が明治43年(1910)11月9日に35歳で亡くなった時に、病床にあった漱石が「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」の前書きで11月15日の日記に記(しる)した句です。対詠の挨拶句で、漱石が生涯忘れることができなかった恋人の死にあたり、病床から、せめてありったけの菊の花を棺に入れてやってほしいと、何のわだかまりもなく、まっすぐに詠っています。
■芥川は、大正6年(1917)11月24日の松岡譲宛葉書に「先生没後1年とは早すぎる位早い」として、かなりこの句を意識して、掲句を詠んでいます。ここには、父なるものの漱石への追念とともに、15年前の11月28日に発狂して亡くなった実母への永遠の想いが込められていないでしょうか。また、同25日の池崎忠孝(赤木桁平の本名)宛葉書に「序〈ついで〉に名句を披露する」として、「たそがるる菊の白さや遠き人」「白菊や匀〈におい〉にもある影日なた」の2句を記しています。
■芥川にとっての大正6年は、第一短編小説集『羅生門』(5月)、第二短編小説集『煙草と悪魔』(11月)を刊行し、また翌年2月に塚本文子との結婚も決まり、一見意気軒昂の時のように思われます。しかし、その一方で漱石という大きな後ろ盾を失って非常に落胆し、また久米正雄と夏目筆子のスキャンダルが持ち上がっている時でもあり、さらには、筆子の第一婿候補に芥川の名が挙がっていたこともあり、前掲の「白菊」の句は、そんな状況を詠んだ句なのです。
■芥川は明治25年(1892)3月1日に父新原(にいはら)敬三、母フクの長男として、東京都京橋区入舟町(現・中央区明石町)に生まれました。しかし、母のフクが突然発狂、芥川は生後間もなく本所区小泉町(現・墨田区両国)の母の実家で未婚の伯母フキに育てられます。養子となって芥川姓になったのは、母フクが死去した翌々年の明治37年(1904)満12歳のときでした。
■芥川の俳句を、飯田蛇笏は、小説よりも高く評価していました。また、岡本かの子も、芥川の俳句を短歌よりも高く評価し、「芭蕉の不易流行の不易を内容的心的境涯とし、流行を表現形式の手段とすれば、流行は既に手に入り、ひたすら不易に於ける幽処の到達に腐心している」と評しています。このように、文人の中でも芥川の俳句は、一、二と称されるほどの名手であり、実力者だったのです。しかし、昭和2年(1927)に香典返しとして編まれた『澄江堂〈ちょうこうどう〉句集』には、生前の自選50句を含む77句しか収録されていません。芥川が生涯に詠んだ俳句は、560句とも1,200句ともいわれています。
■芥川は子供時代から早熟で、すでに俳句や短歌に親しみ、江東尋常高等小学校4年生の時の句に、
落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな
があります。この句について、大正14年(1925)6月の『俳壇文芸』に発表された「わが俳諧修業」に、「鏡花の小説など読みゐたれば、その羅曼主義を学びたるなるべし」と記しています。その後、「大学を卒業するまで句作を行わず」(この間、書簡の中に句が散見されます)、海軍機関学校の教官となり、高浜虚子と同じ鎌倉に住んだ折に「ふと句作をして見る気になり」、虚子に10句ばかりの添削をお願いしたところ『ホトトギス』に2句掲載されたのだといいます。それを機に、虚子に就いて本格的に俳句を学んでいます。また、芭蕉に惹かれ「芭蕉雑記」(大正12年)、「続芭蕉雑記」(昭和2年)や小説「枯野抄」(大正7年)を書いています。俳号は我鬼(餓鬼を捻ったものとも、中国語で自我のことともいわれています)。
昨日のブログにに付いた姪のコメントで10歳で最年プロになったという天才少女について調べてみました。
ウェブニュースより
囲碁の天才少女、10歳で最年少プロに 名人も手腕評価 ――今春、日本囲碁界で史上最年少の10歳のプロ棋士が誕生する。大阪市此花区の小学4年生、仲邑菫(なかむらすみれ)さん(9)で、囲碁先進国の韓国で修業を積み、「世界一になる逸材」として、日本棋院が新設した小学生までの採用制度「英才特別採用推薦棋士」の第1号として迎えられる。
日本棋院が5日に発表した。菫さんは、4月1日付、10歳0カ月で日本棋院関西総本部(大阪市)の所属棋士になる。9年前、11歳6カ月でプロ入りした藤沢里菜女流本因坊(20)を抜く最年少記録となる。
プロ棋士の仲邑信也九段(45)と、囲碁の元インストラクターの幸(みゆき)さん(38)のひとりっ子。幸さんの手ほどきで3歳で碁を覚え、7歳から一家3人で韓国・ソウルに渡って修業。日本での義務教育履修のため日韓の往復生活を続けた。幸さんによると、菫さんはすぐに韓国語を覚え、両親の通訳にもなっているという。一昨年、現地の小学生低学年のチャンピオンに。昨年、韓国棋院のプロ候補生である研究生になった。
韓国で“囲碁漬け”の日々を送ってきた。平日は名門「韓鐘振(ハンジョンジン)囲碁道場」で、週末は韓国棋院で対局を重ねてきた。現地のプロ志望の子どもたちは朝、学校に顔を出すとすぐに道場に向かい、夕方まで囲碁の勉強をする子が多い。
「子どもたちの囲碁環境が日本と全く違う。あれを見て、菫が世界を狙うには韓国で勉強させなければと思った」と、父の信也九段が言う。根っからの負けず嫌いで、負けると大泣きする。その勝負魂が道場で高く評価されている。
道場を主宰する韓鐘振九段は「菫の才能は、現在の女流世界一である韓国の崔精(チェジョン)九段(22)に劣らない。むしろ上達のスピードは崔より速い。このままいけば女流の世界チャンピオンになるのはもちろん、男性のトップ棋士とも対等に戦えると思う」と話す。
先月、一家は日本に帰国。日本棋院は採用にあたって菫さんに張栩(ちょうう)名人(38)と対局させた。あらかじめ下手が盤上に石を置き、圧倒的に有利な状態で打ち始める「置碁(おきご)」ではなく、より互角に近い「黒番逆コミ」の手合で打ち、引き分けに持ち込んだ。「衝撃的でした。うわさには聞いていたが、想像以上にすごい子。小学生時代の井山(裕太五冠)さんと打ったことがあるが、当時の彼より上をいっている」と張名人は言う。
……新しき時代の浪曼主義者ロマンチシストは三汀久米正雄である。「涙は理智の薄明り、感情の灯し火」とうたえる久米、真白草花の涼しげなるにも、よき人の面影を忘れ得ぬ久米、鮮かに化粧の匂える妓の愛想よく酒を勧むる暇さえ、「招かれざる客」の歎きをする久米、――そう云う多感多情の久米の愛すべきことは誰でも云う。が、私は殊に、如何なる悲しみをもおのずから堪える、あわれにも勇ましい久米正雄をば、こよなく嬉しく思うものである。
この久米はもう弱気ではない。そしてその輝かしい微苦笑には、本来の素質に鍛錬を加えた、大いなる才人の強気しか見えない。更に又杯盤狼藉の間に、従容迫らない態度などは何とはなしに心憎いものがある。いつも人生を薔薇色の光りに仄めかそうとする浪曼主義ロマンチシズム。その誘惑を意識しつつ、しかもその誘惑に抵抗しない、たとえば中途まで送って来た妓と、「何事かひそひそ囁き交したる後」莫迦莫迦しさをも承知した上、「わざと取ってつけたように高く左様なら」と云い合いて、別れ別れに一方は大路へ、一方は小路へ、姿を下駄音と共に消すのも、満更厭な気ばかり起させる訳でもない。
私も嘗て、本郷なる何某と云うレストランに、久米とマンハッタン・カクテルに酔いて、その生活の放漫なるを非難したる事ありしが、何時か久米の倨然たる一家の風格を感じたのを見ては、鶏は陸(くが)に米を啄(ついば)み家鴨は水に泥鰌(どじょう)を追うを悟り、寝静まりたる家家の向う「低き夢夢の畳める間に、晩くほの黄色き月の出を見出でて」去り得ない趣さえ感じたことがある。
愛すべき三汀、今は蜜月の旅に上りて東京にあらず。…………
sechin@nethome.ne.jp です。
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