瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は朝から雨。火・水・木・金と続けて4日、徘徊はお休み。
民主党の小沢幹事長が、総勢640名を引き連れて、中国を訪問。爺にはどうも普天間問題でのアメリカに対する牽制であるように思えてならない。アメリカ大統領、オバマの理念からいえば、アメリカは当然日本から引き揚げてもよいはずなのだがね。グァムでも、硫黄島でも、テニアンでも、サイパンでも飛び石的に沢山の自国領土を持っているはずなのだがね。今朝のウェブニュースから、2つ。
小沢氏、胡中国主席と会談「私は人民解放軍の野戦軍司令官」―― 【北京=原川貴郎】民主党の小沢一郎幹事長は10日午後、北京に到着し、人民大会堂で胡錦濤(こ・きんとう)中国国家主席と会談した。両氏は、日中関係の強化や民主党と中国共産党の政党間交流の促進を図ることで一致した。/小沢氏は会談後、記者団に対し、来夏の参院選について胡氏に、「こちらのお国(中国)に例えれば、解放の戦いはまだ済んでいない。来年7月に最終の決戦がある。人民解放軍でいえば、野戦の軍司令官として頑張っていると伝えた」と語った。/他の先進国の主要政治家が、天安門事件で民主化運動を武力で鎮圧した人民解放軍の幹部に自らをなぞらえることはあり得ない。/小沢氏はまた、「参院選で民主党が過半数を取ることで、思い切った議論をできる環境が整い、関係を深めることができる」と語ったことも紹介した。/胡氏は「民主党政権になってからも交流を深め、日中の互恵関係が新たな段階に入った」と語り、鳩山政権のアジア重視の姿勢を評価した。 (2009.12.10 23:30、産経ニュース)
ノーベル賞授賞式:米大統領、核軍縮「私の外交の中心」 ―― 【オスロ笠原敏彦】「核兵器なき世界」の目標などを掲げて国際外交を強化したことが評価され、ノーベル平和賞に決まったオバマ米大統領への授賞式が10日、ノルウェーのオスロ市庁舎で行われた。大統領は記念演説で、米軍の3万人増派を柱にしたアフガニスタン新戦略を踏まえ、「戦争があっても、平和への努力は可能だ。我々はできる。それが人類の進歩の物語であり、世界中の希望だ」と述べた。/オバマ大統領は、平和賞受賞の是非が論議を呼んでいることを率直に認め、「軍事紛争の犠牲に心を痛めながら(授賞式に)来た」と心境を披露。その上で、イラクとアフガニスタンで二つの戦争を進める米軍の最高司令官として「戦争と平和」の問題について率直に語り、「必要な戦争」への理解を求めた。/大統領は、同じく平和賞受賞者の米国の黒人公民権運動指導者キング牧師が受賞演説で「暴力は決して恒久的な平和をもたらさない」と語った言葉を引用。キング牧師の業績が黒人初の米大統領を可能にしたとの認識を示しながらも、非暴力主義だけで国家は指導できないとし、「時に軍事力が必要だと考えるのは、歴史や人間の不完全性、道理の限界を認識するからだ」との哲学を示した。/一方で、ケネディ元米大統領の「より現実的で、達成可能な平和に集中しよう。それは、人間の性質の突然の進化ではなく、人間の慣行の漸進的な進化に基づくものだ」の言葉への共感を表明。「戦争という手段には平和を維持するという役割もある」と述べ、最高司令官としての現実主義的な側面を強く打ち出した。/また、主な授賞理由である「核兵器なき世界」については、核拡散防止とあわせ「私の外交政策の中心を占めるものだ」と語り、引き続き核軍縮を推進していく意思を表明した。気候変動問題にはあまり触れず、より広義の「平和」を達成するためにも、「世界が団結して取り組まなければならない」と訴えるにとどまった。/現職米大統領の平和賞受賞は1906年のセオドア・ルーズベルト、19年のウィルソン両大統領に続いて3人目。元職では、2002年にカーター元大統領が受賞している。/賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億2000万円)を慈善事業に寄付する意向を示している。(毎日新聞 2009年12月10日 21時12分)
民主党の小沢幹事長が、総勢640名を引き連れて、中国を訪問。爺にはどうも普天間問題でのアメリカに対する牽制であるように思えてならない。アメリカ大統領、オバマの理念からいえば、アメリカは当然日本から引き揚げてもよいはずなのだがね。グァムでも、硫黄島でも、テニアンでも、サイパンでも飛び石的に沢山の自国領土を持っているはずなのだがね。今朝のウェブニュースから、2つ。
昨日取り掛かった年賀状作り、もたもたしていたら、夕方まで掛かってしまった。まあ、半分は怠け癖が就いたのだが、これを理由に徘徊は続けて3日お休み。
ちゃぼ姐(ねえ)がお香を始めたらしい。香を焚いてその香りを鑑賞する遊びを香道という。もっとも「香道」と呼ばれるようになったのは室町時代の頃らしい。2組に分かれて同じ種類のものの優劣を競い合う遊びを「物合わせ」というが、香合わせというのがある。5種類の香をそれぞれの種類ごとに5包ずつ合計25包作る。この25の包の中から5つを選んで、これを順に焚く源氏香と言う遊びがあるらしい。競技に参加した者は紙に縦の棒5本を画く。

以下、「源氏香の表し方と場合の数」のようにすると、全部で52の違った形をつくることができる。すなわち、5種類の香から重複を許して5包の香りを作り、これを焚いて香りを利き分けるとき、52通りの違った場合が考えられる。
紫式部の『源氏物語』は54帖あり、この54帖の初めの「桐壺」と最後の「夢浮橋」を省いた残りの52の題名にこの利き分けた香りの記号の名前を当てるのである。
この源氏香を数学の問題として取り扱ったのは松永良弼(まつながよしすけ、1690?~1744年)で、関孝和(1640?~1708年)の孫弟子にあたり、松永の解説は稿本の『断連総術』(1726年)にふくまれている。彼は先ず mCn の求め方を説明する。すなわち、n本の縦線のうちm本を繋げる場合の数を最初に考える。nを画数(または線数)といい、m個を連結する場合の数をm連数といった。n!/(n-m)!を「各対之級数」といい、m!を「各対之約数」と名付けた。
したがって、 m連数=mCn=級数/約数=n!/m!(n-m)! ということになるのである。
ちゃぼ姐(ねえ)がお香を始めたらしい。香を焚いてその香りを鑑賞する遊びを香道という。もっとも「香道」と呼ばれるようになったのは室町時代の頃らしい。2組に分かれて同じ種類のものの優劣を競い合う遊びを「物合わせ」というが、香合わせというのがある。5種類の香をそれぞれの種類ごとに5包ずつ合計25包作る。この25の包の中から5つを選んで、これを順に焚く源氏香と言う遊びがあるらしい。競技に参加した者は紙に縦の棒5本を画く。
紫式部の『源氏物語』は54帖あり、この54帖の初めの「桐壺」と最後の「夢浮橋」を省いた残りの52の題名にこの利き分けた香りの記号の名前を当てるのである。
この源氏香を数学の問題として取り扱ったのは松永良弼(まつながよしすけ、1690?~1744年)で、関孝和(1640?~1708年)の孫弟子にあたり、松永の解説は稿本の『断連総術』(1726年)にふくまれている。彼は先ず mCn の求め方を説明する。すなわち、n本の縦線のうちm本を繋げる場合の数を最初に考える。nを画数(または線数)といい、m個を連結する場合の数をm連数といった。n!/(n-m)!を「各対之級数」といい、m!を「各対之約数」と名付けた。
したがって、 m連数=mCn=級数/約数=n!/m!(n-m)! ということになるのである。
横浜のN氏からのメールに曰く、「日高節夫様/ブログ拝見。金婚式おめでとう。12月5日は盛会だったようで塾友も皆さんの、いつまでも続く友情と恩師を慕う気持ちが嬉しいね。/MN君のメールがまたいい。「多分、私が受精卵だった頃、「先生ご夫妻」が結ばれ」というのが面白い。受精卵という表現は初めて聞く。/実の子供でも、君みたいに、お弟子さんたちから、金婚式を祝ってもらうことは少ないよ。/幸せな人生だね。いや、結構です。/わたしは、先々週、また「聞き書きの旅」に行ってきました。大津、紀伊田辺を済ませ、西宮でKと会ってきました。元気にしていました。/出発時からのどをやられ、夜はホテルで咳をしまくりましたが、帰宅したら咳も治って、なんとか、インフルエンザではなかったことが分かりました。/我々の体には、すでに過去のインフルエンザの抗体があるのではないでしょうか。/きょうは中学の時の高校演劇の原点「修禅寺物語」を国立劇場まで観に行きます。/風邪を引かないように散歩を続けてください。」
どうもここの所、徘徊も億劫になり、今日もお休みで、年賀状づくり。

イラクの戦禍は納まっていたと思っていたが、今朝のニュースによると、大規模なテロがあったらしい。曰く、《イラク:爆弾テロ、127人死亡 ― バグダッド ―― 【カイロ和田浩明】イラクの首都バグダッドで8日朝、政府機関など中枢部を標的にしたとみられる連続5件の爆弾テロが発生し、AFP通信によると少なくとも127人が死亡、448人が負傷した。首都での大規模テロは8月と10月に発生したばかりで4カ月弱で3度目。来年に連邦議会選挙を控え治安悪化の懸念が強まる中、相次ぐ中枢部への攻撃でマリキ政権の威信が揺さぶられている。/内務省関係者によると、午前10時半ごろに内務省や労働省付近で車爆弾2発が相次いで爆発。続いて南部ドーラ地区の大学付近で自爆テロが起きた。さらに、西部マンスール地区の裁判所、中心部ショルジャ地区の市場でも車爆弾が爆発した。/8日午後時点で犯行声明は出ていない。過去2回の大規模テロでは、国際テロ組織アルカイダ系団体「イラク・イスラム国(ISI)」が犯行を認め、イラク政府は「旧政権党バース党関係者が関与した」と主張した。8月の事件では、わいろを受け取った当局者が実行犯に検問所を通過させたとの供述も出ており、治安当局への市民の信頼は低下している。来年予定される連邦議会選挙に向け、宗派・民族間対立の激化が懸念されている。(毎日新聞 2009年12月9日 東京朝刊 ―― 毎日jpよりコピー掲載)》
どうもここの所、徘徊も億劫になり、今日もお休みで、年賀状づくり。
首相は、「日韓・韓日協力委員会」の日本側会長として訪れた中曽根康弘元首相とも会談。中曽根氏から「国会が終わってほっとしたでしょう」と言葉をかけられると、首相は閣僚未経験のままの首相就任だったことに触れ「まったくそうです。答弁にいろいろ苦心しました」。日ロ“先輩指導者”の相次ぐ慰労につい本音が漏れたようだった。 (北海道新聞)》
内閣支持率続落64.1%、JNN調査 12/07 11:57 ―― 調査はこの土日に行いました。鳩山内閣を「支持できる」とした人は、先月から6.7ポイント減って64.1%でした。一方、「支持できない」は、7.5ポイント増えて34.8%でした。/「支持できない」理由として「鳩山総理に期待できない」と答えた人が、先月から7ポイント増えたのが目立っています。/鳩山総理が偽装献金問題で説明責任を果たしているかという質問では、「果たしていると思わない」が8割を超えました。/ただ、責任をとって鳩山氏が総理大臣を「辞任すべき」と考える人は16%で、「辞任の必要はない」が76%でした。/4日に閉幕した臨時国会で実現しなかった鳩山総理と自民党・谷垣総裁の党首討論については、「行うべきだった」がおよそ7割でした。/また、沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設問題で、政府が結論を年明け以降に先送りしたことについては、「あくまで年内決着が望ましい」という人は26%にとどまり、「先送りはやむを得ない」と理解を示す人が7割に上りました。/7兆円から8兆円規模となる見通しの第2次補正予算案については「期待できる」が39%、「期待できない」が45%と意見が分かれました。/また、先月行われた事業仕分けについては8割の人が「評価する」と答え、事業仕分けを「来年以降も続けるべきだ」も81%に達しました。/政党支持率では自民党が19.3%で、3か月連続でわずかながら支持を戻しつつあります。(07日11:21)
内閣支持続落59%、「首相指導力ない」急増 ―― 読売新聞社が4~6日に実施した全国世論調査(電話方式)で、鳩山内閣の支持率は59%となり、前回11月調査の63%から4ポイント下がった。/不支持率は29%(前回27%)だった。鳩山内閣の支持率は初めて6割を切った。内閣を支持しない理由では「首相に指導力がない」が27%(同13%)に急増した。米軍普天間飛行場の移設問題で、鳩山首相が年内決着を先送りする方針を固めたことなどが影響したとみられる。/沖縄県名護市を移設先とする日米合意については「少しは修正する方がよい」32%(同32%)、「合意通りに進める方がよい」26%(同31%)、「大幅に見直す方がよい」26%(同19%)となった。「少しは修正」と「合意通り」を合わせ、県内移設の現行計画を軸にすべきだと思う人は6割近かった。/首相が偽装献金など自らの「政治とカネ」の問題について、説明責任を果たしているとは思わない人は85%(同73%)に達した。偽装献金問題は母親からの巨額の資金提供疑惑に発展し、首相に向けられる国民の視線は厳しさを増しているようだ。元秘書が起訴された場合の首相の対応については、「辞任する必要はない」が54%だったが、「辞任すべきだ」も37%に上った。鳩山内閣の政策に関してデフレや円高など今の経済情勢に適切に対応していると思う人は20%で、「そうは思わない」68%が大きく上回った。/行政刷新会議の事業仕分けを「評価する」は71%、「評価しない」は20%となった。ただ、今回の事業仕分けに問題があると思う人も63%いた。このうち、問題点として「仕分けにかける時間が短い」を挙げた人が39%で、「仕分け人の議論の進め方がよくない」20%、「対象とした事業が適切でない」「仕分け人の判断が適切でない」各17%が続いた。/民主党が衆院選の政権公約(マニフェスト)に掲げた内容については「必ず守るべきだ」は18%にとどまり、「守れなくても仕方がない」46%、「こだわる必要はない」34%となった。/政党支持率は民主42%(前回43%)、自民19%(同19%)などだった。 (2009年12月7日03時00分 読売新聞)
昨夕は塾友の忘年会。恒例のことながら30数名の塾友が集まり、わいわいがやがや。楽しい会合であった。その上、今年は爺婆の金婚式だとて、花束と豪勢な旅行券を戴いた。途端に涙腺が緩んで泪がこぼれた。
MN君がパソコンを取り替え、爺のメールアドレスが判らなくなったとのこと、今朝ほどメールを入れておいたが、すぐに返信メールが届いた。曰く、「先生/おはようございます。/早速MAILを頂き、ありがとうございます。/写真付で驚嘆しました。/そして改めて歴史を感じました。/私は、明日で49歳になります。/多分私が受精卵だった頃、「先生ご夫妻」が結ばれ、私が8~9歳くらいの時に初めて仁科で先生と知り合ったかと記憶しております。/それから約20年後、先生ご夫妻に媒酌人をお願いし、現在に至っております。/皆さまとのお付き合いの始まりは中学生になる時で、それから勉強のみならず海・山で遊ばせてもらい生活を通じ喜怒哀楽を分かち合い、本当に素敵な先輩・友人・後輩と出会うことが出来、感謝しております。/久しぶりに先生のブログを拝見しました。
時間のある時にゆっくりと読ませて頂きます。/最近ご無沙汰しておりますが、また機会を見つけ遊びに行かさせてください。/M」
時間のある時にゆっくりと読ませて頂きます。/最近ご無沙汰しておりますが、また機会を見つけ遊びに行かさせてください。/M」
本夕は塾友の忘年会。徘徊は取り止め。
「普天間」越年、小沢氏の影=連立優先に首相逆らえず ―― 鳩山由紀夫首相が米軍普天間飛行場移設問題の年内決着を断念した背景には、来年の通常国会や参院選を見据え、連立相手の社民党に配慮する小沢一郎民主党幹事長の意向があった。日米関係より連立を優先し、基地問題を政局と絡めたことで、決着への道筋は一層不透明となってきた。/「政策の話のつもりかもしれないが、政局になって困るのはあんたらだ」。/先月30日午後、参院本会議散会後の国会。社民党の又市征治副党首は小沢氏に近い民主党の輿石東参院議員会長に対し、普天間問題の結論を先送りさせなければ、連立政権からの離脱も辞さないと迫った。社民党の姿勢に危機感を抱いた輿石氏は「その通り。何であんなに急ぐ必要があるのか」と、年内決着への流れをつくりつつあった政府への不満を示し、小沢氏に直接電話するよう促した。/又市氏からの電話に、小沢氏は最初「内閣の話なんだから、中で福島(瑞穂社民党党首)さんが頑張ればいい」と、政策課題からは距離を置く姿勢を示した。しかし、又市氏が「これは連立の問題なんだから、あんたがやらなきゃいかん」と調整を求めると、小沢氏は「分かった、分かった」と応じたという。/同じころ、首相官邸で開かれた基本政策閣僚委員会では、福島氏が「(名護市の)辺野古沿岸部に基地を造ることにはきっぱり反対する」と表明。国民新党の亀井静香代表も「3党連立で決めないと、社民党は離脱するよ」と加勢した。平野博文官房長官は「3党を飛び越えて決めることは絶対にありません」と約束せざるを得なかった。/この日の夜、輿石氏は同じ「参院民主党」の北沢俊美防衛相を食事に誘った。普天間問題の年内決着を目指していた北沢氏に、輿石氏は小沢氏の意向を踏まえて「年内に慌てて決めることはない。無理してもろくなことはない」とクギを刺した。/翌1日、首相は官邸に岡田克也外相と北沢氏を呼び、平野氏を交えて対応を協議した。平野氏が前日の基本政策閣僚委での福島、亀井両氏の強硬姿勢を伝えると、北沢氏は「連立政権が壊れるようなことがあってはならない」と発言。突然の方針転換の裏に小沢氏の影を感じたのか、首相は異論を挟まず、年内決着見送りが事実上決まった。/民主党は参院での単独過半数獲得に向け、通常国会で子ども手当などの重点政策を実現させた上で、参院選に臨むのが基本戦略だ。だが、社民党が連立を離脱すれば、与党は参院で過半数割れとなるばかりか、衆院での法案再可決もできなくなり、鳩山政権はたちまち窮地に陥る。/「参院選までは辛抱だ」。民主党幹部はこう語り、小沢氏が当面、そうした危険を冒すような選択をすることはないと強調した。(jijicom、2009/12/04-22:51)
世説新語にある王戎の逸話をもう少し書き写すことにする。任誕篇第二十三に曰く、《裴成公(258~291年、裴頠)の妻は王戎の娘である。王戎は朝早く裴成公の家を訪れ、案内を請わないでそのまま入り込んだ。裴成公は寝台の南側から下り、娘は北側から下りて、王戎と向かい合って主客の挨拶をしたが、悪びれた様子は全くなかった。14》
王戎の父・王渾(おうこん、生没年不詳)と阮籍とは共に尚書郎を務めたことがあり、友人同士だった。阮籍はしばしば王渾の所へ行ったが、王渾の所へはほんの少しだけいて「君と話すより戎君と話すほうがよい」と言い、王戎の部屋へ行ってはいつも長居して、日が暮れてから帰ったという。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。やがて王戎は阮籍と共に竹林の遊びに加わるようになった。だが、まだ若い王戎は世俗を超越することができていなかったらしい。排調篇第二十五に曰く、《嵆康、阮籍、山濤、劉伶が竹林で盛んに酒を飲んでいた。そこへ王戎が遅れてやってきた。歩兵(阮籍)はいった。「俗物めがまたぞろやってきて、人の気分をぶちこわしおる」王戎は笑っていった。「君たちの気分は、やはりぶち壊せるていどのものだったのか」4》
王戎の晩年ははろくなものも食べず、家計は豊かであったのに質素な生活をしていて、ありあまる財宝も使わずひたすら貯蓄にはげみ、それでもなお足りない様子だったという。しかし、王戎は根っからの吝嗇漢ではなく、他の六人と同じようにもともと財産には執着しない性質であった。その王戎が、ある時を境に突然別人のように吝嗇漢になった。今までの王戎を知る人々はその変貌ぶりに驚き戸惑ったことだろう。だが、これが王戎なりの韜晦法であり処世術であったのだともいえる。王戎は保身のためにわざと吝嗇を装ったのであろう。倹嗇篇第二十九には9つの逸話を載せるが、そのうち4つが王戎に纏わるものである。《王戎はけちんぼだった。自分の従子(おい)が結婚するとき、単(ひとえ)の着物を一枚やったが、あとで改めて代金を請求した。2》《司徒の王戎は、地位も高く家も富み、家屋敷や召使、さては美田や水碓(すいたい、精米、製粉のための水車)といったものは、都の洛陽でも比類がなかった。勘定書や証文の処理に追われ、いつも夫人と一緒に灯(ともしび)の下で、計算棒をあたり一面に撒き散らしながら勘定していた。3》《王戎の家にはよい李の木があり、いつもその実を売っていた。人がその種を手に入れることを恐れ、必ずその核(さね)に錐で穴を開けておいた。4》 《王戎は娘が裴頠(はいき)の家に嫁入りするとき、数万銭を貸してやった。娘が里帰りすると、王戎は不機嫌 そうな顔をしている。娘があわてて銭を返すと、やっと機嫌が直った。5》
最後に、惑溺篇三十五に曰く、《王安豊(王戎)の妻は、いつも王安豊を「*君」と呼んだ。王安豊はいった。「妻が夫のことを呼ぶのは、礼の定めでは不敬にあたることだ。これからのちは、もうやめたがよい」すると妻はいった。「君に親しみ、君を愛すればこそ、君を君と呼ぶのではありませんか。もし、わたしが君を君と呼ばなければ、たれがいったい君を君と呼べばよいのですか」かくて、いつも君と呼ぶことを許すことになった。6》*原文では「卿(けい)」。六朝時代の用法としては、卿はぞんざいな呼び方で、同等もしくは以下の者にたいする二人称として用いられていた。
世説新語にある王戎の逸話をもう少し書き写すことにする。任誕篇第二十三に曰く、《裴成公(258~291年、裴頠)の妻は王戎の娘である。王戎は朝早く裴成公の家を訪れ、案内を請わないでそのまま入り込んだ。裴成公は寝台の南側から下り、娘は北側から下りて、王戎と向かい合って主客の挨拶をしたが、悪びれた様子は全くなかった。14》
王戎の父・王渾(おうこん、生没年不詳)と阮籍とは共に尚書郎を務めたことがあり、友人同士だった。阮籍はしばしば王渾の所へ行ったが、王渾の所へはほんの少しだけいて「君と話すより戎君と話すほうがよい」と言い、王戎の部屋へ行ってはいつも長居して、日が暮れてから帰ったという。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。やがて王戎は阮籍と共に竹林の遊びに加わるようになった。だが、まだ若い王戎は世俗を超越することができていなかったらしい。排調篇第二十五に曰く、《嵆康、阮籍、山濤、劉伶が竹林で盛んに酒を飲んでいた。そこへ王戎が遅れてやってきた。歩兵(阮籍)はいった。「俗物めがまたぞろやってきて、人の気分をぶちこわしおる」王戎は笑っていった。「君たちの気分は、やはりぶち壊せるていどのものだったのか」4》
最後に、惑溺篇三十五に曰く、《王安豊(王戎)の妻は、いつも王安豊を「*君」と呼んだ。王安豊はいった。「妻が夫のことを呼ぶのは、礼の定めでは不敬にあたることだ。これからのちは、もうやめたがよい」すると妻はいった。「君に親しみ、君を愛すればこそ、君を君と呼ぶのではありませんか。もし、わたしが君を君と呼ばなければ、たれがいったい君を君と呼べばよいのですか」かくて、いつも君と呼ぶことを許すことになった。6》*原文では「卿(けい)」。六朝時代の用法としては、卿はぞんざいな呼び方で、同等もしくは以下の者にたいする二人称として用いられていた。
Eriちゃんのブログで政府がスーダンに自衛隊を派遣することを検討していることを知ったので調べてみた。
スーダンPKO(Peacekeeping Operation)に数百人規模の部隊派遣検討 ―― 国連平和維持活動(PKO)スーダン派遣団(UNMIS、United Nations Mission in Sudan)について、岡田克也外相が数百人規模の自衛隊部隊を派遣する検討を外務省に指示していることが28日、分かった。すでに外務、防衛両省などによる調整も始まっている。鳩山政権はインド洋で補給活動中の海上自衛隊を来年1月に撤収する方針で、日本の国際貢献活動が細る中、PKOへの積極参加で人的貢献の実績づくりを図る狙いがある。/外務省はこのほか平成14年から約2年間、施設部隊が参加した東ティモールPKOへの陸上自衛隊再派遣の検討も始めている。/スーダンへの派遣対象は、道路整備にあたる陸自の施設部隊や輸送部隊などが想定されている。実現すれば、PKOへの部隊の新規派遣は東ティモール以来となる。/スーダン南部は2005(平成17)年に20年以上続いた内戦が終結した。現在、米国や中国など68ヵ国約1万人からなるUNMISが、和平合意履行の監視や人道支援にあたっている。政府は昨年10月、PKO協力法に基づき、UNMIS司令部に陸上自衛官2人を派遣したが、部隊派遣は見送った。自衛官2人は首都、ハルツームにある司令部で分析情報のデータベース管理と物資補給の調整業務などを担当している。/外務省がUNMISへの部隊派遣を検討しているのは、父親が隣国ケニア出身のオバマ米大統領の誕生で、米国がスーダン和平問題に力を入れ始めたことが背景にある。大統領訪日に先立つ10月、米側は「この地域を重視しているので、何か貢献できないか」と日本側に人的貢献を求めてきたとされる。/民主党は、インド洋への海自派遣など特別措置法に基づく米国などへの支援に否定的立場をとってきた。一方で、衆院選マニフェスト(政権公約)に「PKO等に参加して平和の構築に向けた役割を果たす」と明記しており、スーダン派遣は同党の主張と一致する。/岡田外相は10月下旬の講演で、PKOへの自衛隊派遣を促進するため、紛争当事者間の受け入れ同意などの参加5原則を緩和すべきだとの認識を表明している。UNMIS参加についても「積極的に考えた方がよい」と主張してきた。/ただ、スーダンの治安は依然、不安定で、自衛隊部隊の派遣には、連立を組む社民党の反対が予想される。すんなり実現するかは不透明だ。/現在、自衛官が参加するPKOはUNMIS、中東・ゴラン高原の国連兵力引き離し監視軍(UNDOF、United Nations Disengagement Observer Force)、国連ネパール支援団(UNMIN、United Nations Mission in Nepal)の3つで、計54人。国連側の統計で派遣人数は加盟国中84位にとどまっている。(産経ニュース 2009.11.29 01:16)
大したことはないのだけれど、どうも風邪が治まらない。明日は忘年会だという。あれやこれやと思案しているうちに徘徊は取り止めとしてしまった。

どうやら普天間移設の決着は越年に持ち越されるようだ。本日のウェブニュースに曰く、「普天間移設「新候補地を」、首相が防衛相に指示 ―― 沖縄の米軍普天間飛行場移設問題で、鳩山首相が北沢防衛相に対し「新しい場所を探してほしい」と述べ、日米合意に基づく米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(沖縄県名護市辺野古)以外の移設先を探すよう指示していたことが3日、明らかになった。/首相の指示は、移設先の検討を事実上仕切り直すよう求めたものと受け止められている。新たな移設先を見つけるには時間がかかることから、首相は年内の決着を先送りすることにしたとみられる。/首相は3日夜、「年内に決めなきゃいけない、という議論をしているわけではない」と記者団に述べ、年内決着を見送る考えを公の場で表明した。/これに先立ち、首相は3日夕、首相官邸で平野官房長官、岡田外相、北沢防衛相と会談し、4日に都内で開く日米外務・防衛当局の閣僚級作業部会に向けた協議を行った。首相は「連立は大事だ。米国とは誠実に協議してほしい」と述べ、移設問題の決着が遅れても米側の理解を得られるよう指示した。首相はここ数日、平野氏らと連日協議を重ねており、新たな移設先の検討指示もこの中で出た。/複数の関係者によると、首相の念頭にあるのは米領グアムだという。首相は3日、普天間移設を2014年までに完了すると日米が06年に合意した米軍再編のロードマップ(行程表)について「柔軟性を持って臨むことは可能だ」と記者団に語り、移設の時期や場所などを軌道修正する可能性を示唆した。(2009年12月4日 読売新聞)」
王戎はやがて司馬昭に仕え相国掾となり、建威将軍、安豊県侯と次々に出世し、64歳で、三公の一つ、司徒にまで登り詰める。山濤の最終位も司徒であったが、山濤が司徒になったのは78歳の時であった。仕官した年はあまり変わらないが、山濤は幼い頃の逸話などは何も残していない。この二人を比べると、山濤は大器晩成型、王戎は早熟型といえよう。
世説新語・賞譽篇第八に曰く、《鍾士季(しょうしき、鍾会、?~263年)は王安豊(王戎)を批評していった。「阿戎(王戎)は人の気持ちをすっかり理解できる人間だ」また、こういった。「裴公(裴楷、237~291年)の話は尽きるところがない。」/史部郎に欠員が出来たとき、文帝(司馬昭)が適当な人物を鍾会にたずねたところ、かれは答えた。「裴楷は万事に明快であり、王戎は簡にして要を得ております。どちらも適任です」そこで裴楷を起用することになった。5》《王濬沖(おうしゅんちゅう、王戎)と裴叔則(はいしゅくそく、裴楷)の二人は、童髪の頃鍾士季を訪れ、しばらくして帰っていった。あとで客が鍾士季にたずねた。「さきほどの二人の子供をどうおもわれるか」鍾士季は答えた。「裴楷は万事に明快であり、王戎は簡にして要を得ている。いまからのち二十年もすれば、この二人はきっと吏部尚書になるであろうが、そのときは天下に埋もれた人材がなくなるという希望が叶えられるであろう」6》《王戎は山巨源(山濤)を批評していった。「山から切り出したばかりのあら玉、手を加えぬ金の塊のようだ。たれもがこれを寶として賞(ほ)めるが、なんの器と呼んでよいかわからない」10》また、容止篇第十四に曰く、《裴令(裴楷)は王安豊(王戎)を批評していった。「目は爛爛と輝き、巌の下に閃く稲妻のようだ」6》《ある人が王戎に告げた。「嵆延祖(けいえんそ、嵆紹、嵆康の子)は高くずば抜けていて、野の鶴が鶏の群れに降り立ったようだ。」王戎は答えた。「君はまだかれの父を見ていないから、そういうのだよ」11》さらに、傷逝篇第十七に曰く、《王濬沖が尚書令であったころ、出仕の礼服を着て軺車(1頭だての小さな遊覧車)に乗り、黄公酒壚(こうこうしゅろ、黄公の酒場)の辺りを過ぎたとき、後続の車に乗っていた客を振り返っていった。「わしは昔、嵆叔屋(嵆康)や阮嗣宗(阮籍)といっしょに子の酒場で飲み明かしたことがある。竹林の遊びにも、その末席につらなっていた。嵆康が早死にし、阮公がなくなってからは、すぐ世間の俗事に縛られる身になり、今これを見ると、近くにありながら、まるで山河を望むように遥かな思いがするよ」2》《王戎は子の万子(19歳で没した)をなくした。山簡(253~312年、山濤の子)が見舞いに行くと、王戎は悲しみに耐えられない様子である。山簡はいった。「まだ乳離れもしない赤ん坊に、それほどまでにする必要はあるまい。」王戎はいった。「聖人は感情を忘れるが、最下等の人間も感情を持つだけの能力がない。感情が集まってくるのは、まさにわれわれのような人間にだよ」山簡はその言葉に感服し、あらためてかれのために慟哭した。
王戎はやがて司馬昭に仕え相国掾となり、建威将軍、安豊県侯と次々に出世し、64歳で、三公の一つ、司徒にまで登り詰める。山濤の最終位も司徒であったが、山濤が司徒になったのは78歳の時であった。仕官した年はあまり変わらないが、山濤は幼い頃の逸話などは何も残していない。この二人を比べると、山濤は大器晩成型、王戎は早熟型といえよう。
朝から雨。一日中家の中に引き篭り。
王戎は竹林の七賢の中でも最年少者で、最高齢者の山濤とは実に29歳もの開きがある。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。世説新語には多くの王戎に関する逸話が載せられている。
徳行篇第一に曰く、《王戎はいった。「嵆康(けいこう)とは二十年来の付き合いだが、私はまだ一度もかれの喜んだり怒ったりする顔を見たことがない」1》《王戎と和嶠(わきょう、?~292年)とは同時に親の喪にあったが、どちらも孝行者と誉められた。王戎は悲しみのために痩せ衰え、鶏の骨が寝台に横になっているようだったが、和嶠は礼式に定められたとおりの哭泣の作法を忠実に行った。/晋の武帝(236~90年、司馬炎)は、劉仲雄(りゅうちゅうゆう、?~285年)に言った。「お前はたびたび王戎と和嶠とを見舞ってやっているかね。聞くところによると和嶠は悲しみ方が酷いという事だが、心配になるよ」/すると劉仲雄は答えた。「和嶠は哭泣の作法を忠実に行っておりますが、元気は一向に衰えていません。王戎は、作法にこそ従っていませんが、悲しみ方がひどく、骨だけになっています。私の見るところでは和嶠は生孝を行っているのであり、王戎のほうは死孝を行っているのです。陛下におかれては、和嶠のことは心配されなくてよく、王戎のほうこそ心配せられるべきだと思います」17》《王安豊(王戎)が親の死にあったとき、その真心から出た悲しみの情は、人並みはずれたものがあった。裴令(237~291年)が弔いに出かけて、つぶやいた。「もし一度の慟哭が人間の生命を傷つけることがあるとするならば、きっと濬沖(しゅんちゅう、王戎の字)は性を滅ぼしたという誹りを免れないだろう」20》――孝経に「死を以って生を傷つくるなく、毀して性を滅ぼさざるは、これ聖人のまつりごとなり」とある。《王戎の父の王渾は名声があり、官は涼州刺史にまでなった。王渾が亡くなった時、その歴任した九郡の部下たちが彼の恩徳を慕い、うちそろって香典数百万銭をおくった。ところが王戎はこれを辞退して受け取らなかった。21》
王戎は幼少の頃から「神童」として誉れが高かったらしい。世説新語・雅量篇第六に曰く、《王戎が七歳のとき、子供たちと遊んでいたが、道端の李の木に枝もたわわに実がついているのを見つけた。他の子供たちは、我先にと走り寄ってこれを取ったが、王戎だけは動こうともしなかった。ある人が訊ねると、答えていった。「道端に木があるのに実がたくさんついているのは、きっと苦い李にちがいありません」これを取ってみると、なるほどその言葉通りであった。4》《魏の明帝(204~239年、曹叡)は宣武場で虎の爪や牙を切らせることにし、人民たちに自由に見物させた。王戎は七歳であったが、やはり見物に出かけた。虎は隙を見ておりに攀じ登って吼えたが、その声は大地を震わすほどであった。見物人は皆逃げ出したり、ひっくり返ったりしたが、王戎はじっとしたまま動かず、恐れる様子は全くなかった。6》《王戎が侍中をしていたとき、南郡太守の劉肇(りゅうちょう)が筒中の箋布五端を贈ってきた。王戎は受け取らなかったけれども、丁寧な返書を送った。》―― 晋書・王戎伝には「筒中の細布五十端」を賄賂として贈ったとある。
王戎は竹林の七賢の中でも最年少者で、最高齢者の山濤とは実に29歳もの開きがある。阮籍は王戎より二十歳も年上であったが、お互い同年代であるかのような付き合いだったという。世説新語には多くの王戎に関する逸話が載せられている。
王戎は幼少の頃から「神童」として誉れが高かったらしい。世説新語・雅量篇第六に曰く、《王戎が七歳のとき、子供たちと遊んでいたが、道端の李の木に枝もたわわに実がついているのを見つけた。他の子供たちは、我先にと走り寄ってこれを取ったが、王戎だけは動こうともしなかった。ある人が訊ねると、答えていった。「道端に木があるのに実がたくさんついているのは、きっと苦い李にちがいありません」これを取ってみると、なるほどその言葉通りであった。4》《魏の明帝(204~239年、曹叡)は宣武場で虎の爪や牙を切らせることにし、人民たちに自由に見物させた。王戎は七歳であったが、やはり見物に出かけた。虎は隙を見ておりに攀じ登って吼えたが、その声は大地を震わすほどであった。見物人は皆逃げ出したり、ひっくり返ったりしたが、王戎はじっとしたまま動かず、恐れる様子は全くなかった。6》《王戎が侍中をしていたとき、南郡太守の劉肇(りゅうちょう)が筒中の箋布五端を贈ってきた。王戎は受け取らなかったけれども、丁寧な返書を送った。》―― 晋書・王戎伝には「筒中の細布五十端」を賄賂として贈ったとある。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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