(産経ニュース。2011.2.27 21:18)
三つの戒め 柳宗元
私はかねがね世間の人が、自己本来のものを追求せず、現象を利用して勝手気ままに振る舞うことを憎んでいた。彼らは権勢に寄り掛かって、セクト以外のものを圧迫したり、ちょっとした技能を鼻にかけて権力にたてついたり、隙を見つけては暴力の限りを尽くしたりする。しかし、最後には禍にあって身を滅ぼすのである。ある客人が私に、麋(なれしか)・驢馬・鼠の三動物について話してくれたが、これらの動物の行動は世間の人の世間の人のそれとよく似ている。ここに三つの戒めをつくるしだいである。
臨江(江西省清江)の人が、狩をして麋(なれしか)の子を捕獲した。その人、これをいとおしみつつ門に入ると、犬共が涎(よだれ)をたらし、尻尾を振りながら寄って来た。その人は怒って犬共を脅した。それ以来毎日のように麋の子を抱いては、犬に馴れさせ麋の子を見ても手出しをせぬように躾け、次第に遊び戯れるように導いた。時日が経過し、犬共は主人の意の如くになった。/麋の子も大きくなるにつれ、自分が麋であることを忘れ、犬こそ誠にわが友であると思い込み、体をぶつけたり、転げ廻ったりして、益々馴れ親しんだ。犬は主人を恐れ、麋と大変上手に調子を合わせていた。しかし、時には舌なめずりをすることもあった。/三年経ち、麋が門を出たところ、道路によその犬が数多くいたので、走り寄って一緒に遊び戯れようとした。よその犬は麋を見て、喜ぶと共に腹も立て、皆で殺してべてしまい、道路にさんざん散らかした。麋は死ぬまで、自分が何故そのような目に合うのか、理解することができなかった。
黔中の驢馬 → 略(2月26日のブログに記載)
永州(湖南省零陵県)に某氏がいた。彼は日々の吉凶を気にかけ、もの忌(い)みに拘ること異常なものがあった。己の生まれ年は子(ね)であり、鼠は子の神であると思っていた。それ故、鼠を可愛がって猫を飼わず、その上、下男が鼠を打ち殺すことを禁止した。倉庫や台所は、全く鼠の好き勝手のままに任せた。このため、鼠は互いに語らって、某氏の家に移り住み、しこたま腹に詰め込んだが、何の咎めもない。某氏の部屋には完全な器具はなく、衣桁(いこう)にかかる着物はいずれもまともでないものばかり。飲食物の殆んどは鼠の食べ残しである。昼は人間と共にぞろぞろと歩き、夜は盗みを働き、物を齧り、狼藉の限りを尽くす。その音は譬えようがなく、とても寝られたものではないが、某氏は始終懲りたそぶりを見せなかった。
数年して某氏は他の州に転居した。その跡に別の人が引っ越して来たが、鼠の態度は従来通りであった。その人は、「こいつは暗闇に住む悪い奴で、盗みや乱暴の程度は相当なものだが、いったいどうしてこれほどまでになったのであろうか?」と言い、猫を五・六匹借り、門を締め切り、屋根瓦を外し、穴に水を注ぎ、下男を雇ってすっかり絡め取った。小山のようになった鼠の死骸を、物陰に棄てた所、死臭は数ヶ月も消えなかった。
ああ! 鼠どもは、しこたま腹に詰め込んでも、何の咎めもないことが、当たり前なんだと思い込んでいたのであろうか。
今朝のウェブニュースより2題。
(減税日本)東京で100人擁立へ…統一地方選 ―― 名古屋市の河村たかし市長が代表を務める地域政党(減税日本)が27日に、統一地方選で実施される東京の区議、市議選の公認・推薦候補計約10人を都内で発表する方針だ。/市長周辺によると、第1陣として公認3人、推薦7、8人を発表する。民主党を離党した立候補予定者も含まれており、最終的には都内で100人の擁立を目指す考えだ。都知事選についても、「東京から減税を主張する候補者を出せれば、力になる」と擁立に含みを持たせている。減税日本は昨年4月の設立。河村市長は「当初から全国での活動を考えていた。次の衆院選でも、政党として認められる5人以上の当選を目指す」と話している。 (2011年2月26日09時59分 読売新聞)
与謝野氏、河村市長 官邸で"火花"―― 与謝野馨経済財政担当相と名古屋市の河村たかし市長が25日、首相官邸で鉢合わせし、先の与謝野氏の発言をめぐって、河村氏が“詰め寄る”一幕があった。/与謝野氏は22日の記者会見で「(河村氏は)『減税日本』なんてはしゃいでいるより、市の地方債残高を減らすべきだ」と批判。これに対し、河村氏は上京にあわせて与謝野氏に面会を求めたが、多忙を理由に断られていた。/この日、別の用件で官邸を訪れた河村氏が、記者団に「減税を主張するのはばかなのか」などと不満をぶちまけていると、官邸に入ってきた与謝野氏とばったり。河村氏は「発言を撤回してもらわないといけない」と迫ると、与謝野氏は握手を交わしただけで、足早にその場を立ち去った。 (東京新聞、2011年2月26日 朝刊)
Shinさんのコメントに応えて、柳宗元の『三戒』から「黔驢」を取上げる。『三戒』は寓言形式を借りた警世の文章であるが、自分自身に対する戒めの意も込められているものであろう。
(訳) 黔中(けんちゅう)の驢馬(ろば)
黔中(道名。四川省彭水県が中心)には驢馬はいなかった。物好きな人が船に載せて移入した。しかし連れてきたものの使い道がなかった。山の麓で放し飼いにしておいた。虎が驢馬を見つけたが、ムクムクとしたでっかい奴なので、てっきり霊獣だろうと思った。暫くは林の中から様子を窺い、そろそろ出て近付いた所、慎ましやかに装うだけで、知らん顔をしている。
或日、驢馬が一声嘶(いなな)いたところ、虎は大いに驚き、遠くまで逃げ去った。虎は今にも自分が噛み付かれると重い、非常に恐れたのである。しかし、行き来して観察するうちに、さして異常な能力を具えたものとも思われず、その泣き声にもいよいよ馴れてきた。そこでさらに、その前後まで近付いたものの、突っかかってゆくことは、けっきょくできなかった。しかし、だんだん近付くにつれ、益々馴れてきて、乱暴に身を寄せ掛けたり、ぶつかったりするようになった。驢馬は我慢しきれず腹を立てて、虎を蹴(け)りつけた。虎はこれを喜び、「奴の技能はこれだけしかないんだな」と判断した。そこで飛び掛って思い切り噛み付き、喉を食いちぎって、肉をすっかり平らげ、立ち去った。
ああ! 姿かたちのムクムクと大きいことは、いかにも有徳者のようであり、声がデッカイのは、いかにも有能者のようであった。そうしてあの時までは己の技能を示すことをしなかった。(以前のままならば、)虎は猛々しい獣ではあるが、遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)して、とても襲い掛かれなかったであろうに。それが、いまやこのような状態になってしまった。悲しいことではある。
頭の体操20の解答) Cを通り、ABと平行な直線をひき、△ABCの外接円との交点をDとする。
∠BAD=∠B=2∠A であるから、 ∠CAD=∠A ∴ CD=BD=AD=a
△CADにおいて、 AC<CD+DA であるから、 b<2a …… ①
また、四角形ABCDで、 AB<BC+CD+AD であるから、 c<3a …… ②
ABの3等分点をE、Fとすると、②より EF<DC であるから、四角形ABCDは等脚台形で
∠EFC>90° 従って、 △AFCで AF<AC より 2/3・c<b …… ③
①と③より a/1>b/2>c/3
( 47NEWS、2011/02/25 09:08 【共同通信】)
捕蛇者説の文章は柳宗元が詠州司馬として永州にいた時に書かれたもので貞元二十一(805)年に、王叔文・王伾(?~806年)を中心とする柳宗元ら若手官僚の革新政治が行われた当時の政治理念が、新たな現実にふれてよみがったものと見るべきであろう。
形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、雄は頭に角をもつとも言われる。背毛は五色に彩られ、毛は黄色い。頭に角があり、本来は1本角であるが、2本角で描かれる例もある。
普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌うとされる。
神聖な幻の動物と考えられており、1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。また、動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物(=瑞獣)であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。
韓愈(768~824年)は字を退之(たいし)、昌黎(しょうれい、河北省)の出身。仕えて刑部侍郎(法務次官)にまで昇進したが、彼の「仏教排撃論」が憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)に流された。後に中央に召し返され、吏部治郎で終った。彼は文学において、内容を尊び先王の道でなければならぬとし、内容を表現するには修飾過多の「四六駢儷文」は不適格であり、自由闊達な「古文」を用いるべきだとした。凝縮と拡散の2方向を内在する彼の文は人間性の機微を捉ええたので以後長く散文の模範になったという。
彼の「獲麟解」は、問答の形を変えた議論文(「解」という)である。『爾雅』(中国最古の類語辞典)の釈獣に「麟は麕の身に、牛の尾、一つの角のもの」と見え、聖人の出現に伴って現れるという想像上の動物である。獲麟のことは『春秋』魯の哀公14年の項に「西に狩して麟を獲(え)たり」と見え、『春秋左氏伝』箭『春秋公羊(くよう)伝』によれば、人はこれを不吉なものと思い、麟とは知らなかった。孔子はこれを麟と知り、出現の時を得なかったのを嘆き、「わが道窮せり」と言い、『春秋』の著述を打ち切った。「筆を獲麟に絶つ」は有名な故事となっている。韓愈は以上のようなことを素材としてこの文章を作り、自己の不遇を嘆く意を託したという。
麒麟が霊獣であることは、紛れもない事実である。『詩経』に読まれ(周南・麟の趾)、『春秋』に書かれ、その他物の本屋や諸子百家の書物にあれこれと見えている。女子供さえも、それがめでたいものであることを、みんな知っている。
しかし、麒麟という動物は、人家に飼われたことがなく、いつも天下に存在するとは限らない。その形状は比類を絶しており、馬・牛・犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿などいずれにも似ない。してみれば、麒麟が存在したとしても、それが麒麟であるとは判らないわけである。
角があれば、私にはそれが牛であると分かる。たてがみがあれば、私にはそれが馬であると分かる。犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿を見れば、私にはそれが犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿であると分かる。ただ、麒麟だけはわからない。分からなければ、それを不吉なものと考えるのは、道理のないことではない。
しかしながら、麒麟が出現するときには、必ずや聖人と呼ばれる方が、君主の位についていられるものだ。麒麟は聖人の為に出現するものであるからだ。聖人には必ず麒麟がそれと分かる。されば麒麟はやはり不吉な物ではない。またこうもいえる。麒麟が麒麟であるわけは、徳をそなえているからであって、形状の如何によるものではない、と。それ故、もし麒麟の出現が、聖人の現れる時を待ったのでなければ、これを不吉なものと考えても、道理のないことではなかろう。
国政にしろ、都政にしろ、区政にしろ、担い手になるのは爺はもう沢山! 台東区長も是非若い生きのいいピチピチした人になってもらいたいね。みんなで応援しようね。
TOKYO MX NEWS より
台東区長選挙 元区議の中山氏が民主推薦で立候補表明 ―― 4月の台東区長選挙に中山寛進氏が民主党の推薦を受け無所属で出馬する意向を表明しました。中山氏は今回、政治団体『下町維新の会』を設立し、原口一博前総務大臣らが設立する予定の『日本維新の会』とも連携する予定です。/中山氏は元台東区議で2期を務め、現在は父で衆議院議員の中山義活氏の秘書を務めています。中山氏は今回、既成政党の枠組みにとらわれない政治団体として下町維新の会を設立し、原口氏や大阪の橋下徹知事らが立ち上げる予定の日本維新の会との連携を明らかにしました。中山氏は会見で「先週、国会内で原口一博元総務大臣とお会いした。そこで『日本維新の会』を立ち上げるという旨をお聞きした。地域主権の名の下に結集していこうと約束した」と述べました。政策では墨田区との連携など、広い範囲での観光圏構想での街づくりを訴えます。/区長選挙にはこれまで、3選を目指す現職の吉住区長、元参議院議員の保坂三蔵氏、元区議の関根博之氏の3人が立候補する意向を表明していて、激しい戦いが予想されます。 (2011年2月21日)
蘇洵が二人の息子軾(しょく)・轍(てつ)に名前を付けた由来を説明したもの。兄弟は3歳違いであるから、弟が生まれた後にあわせて命名した(それまでは幼名)ものと思われる。中国では、兄弟の名前は二字名のときは一字を、一字名のときは扁(へん)・冠(かんむり)などを共通にする場合が多い。
二子命名の由来 蘇洵
輪(りん、車輪)・輻(ふく、車の矢)・蓋(がい、幌)・軫(しん、車体の枠)は、何れも車に役どころを持つが、軾(しょく、前の横木)だけは、何の役にも立たぬように見える。しかしながら軾を取り去れば、完全な車ではないと私は思う。軾よ、お前が外見をかざらぬようになりはせぬかと、恐れてのこと(命名)だ。
天下の車は、先の轍(てつ、わだち)の後を通らぬものはない。だが、車の機能を問題にするとき、轍は何の関係もない。しかし、車が倒れ馬が死んでも、わざわいは轍には及ばない。とすれば、轍は幸・不幸の間にうまく納まっているのだ。轍よ、この命名でお前がわざわいを免れるに違いないと、私は思うのだ。
頭の体操19) 「田」という字は、普通では一筆で描くことはできないといわれている。しかし、鉛筆を紙の上から放さず、子かも「田」の字以外の余分なところも書くこともしないで、一筆で描いてみよう。
Marsilio Ficino(マルシリオ・フィチーノ、1433~1499年、イタリア・ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者)はその著『健康な生活について』の中で、「「全て偉大なる芸術において卓越せし者は、ことごとく憂鬱質なりき」と述べているが、1513年と14年の間に制作されたこの銅版画の神秘的な図は、羽を付けたが人物が悲しみに沈んだ姿をして座り、Greyhound)(グレーハウンド)の犬と子供(putto、プットー)が横にいる場面である。背景には建設中の家があり、さらに海が光線を浴びて滑らかな表面を見せており、その上に虹がかかっている。3つの像の周囲には様々な物、実用品が置かれている(砂時計、はかり、梯子、魔法の正方形(数字を足すと何時も34になる)、指物師や石工の使う道具、釘と石の多面体)。
23.9×16.8cmの大きさの紙には哲学、魔術、数学、錬金術等の当時の知識が詰め込まれているのである。又「学問や芸術の合理的想像的世界」を表現しているとも、自己の芸術への絶望と希望が投影された、デューラーの精神的な自画像ともいわれている。
Hippocrates( ヒポクラテス, BC460~377年、古代ギリシアの医者)は人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁からできていると述べ、血液が多い人は楽天的、粘液が多い人は鈍重、黒胆汁が多い人は憂鬱(メランコリーの語源は黒胆汁である)、黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つとした。『メランコリアⅠ』は四体液説(四性説)における人間の4つの性格の一つ「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が頬杖をついている。その顔つきは尋常ではなく、今にも発狂しそうな表情であり、頬杖のポーズは憂鬱気質をあらわし、天才の資質である。天才の挫折をあらわすとか、霊感を受けている場面であるとか、いろいろと解釈されているとても難解な絵ようである。そして、この図を眺める者は誰でもそれら象徴物の意味を問わずにはいられないだろうが、それは謎につつまれているかのようである。なお、メランコリアⅠの「Ⅰ」は憂鬱質の第一段階を示すものだと解釈されているらしい。
横の和 16+3+2+13=5+10+11+8=9+6+7+12=4+15+14+1=34
縦の和 16+5+9+4=3+10+6+15=2+11+7+14=13+8+12+1=34
斜めの和 16+10+7+1=13+11+6+4=34
そればかりでなく、四隅にある数の和、真ん中の4升にある数の和なども34になる。
16+13+1+4= 10+11+7+6=3+2+15+14=5+9+8+12=34
さらに、縦・横それぞれの真ん中の直線で4等分したそれぞれの枠の4数の和も34になる。
16+3+10+5=2+13+8+11=9+6+15+4=7+12+1+14=34
魔方陣はこうした神秘的な性質を持っているため、昔は占星術の対象になったこともある。
メランコリアⅠの魔方陣について赤地で表わした15、14がこの版画が作られた年をあらわしているという。尤も同じ年の5月にDürerの母親が亡くなっているので、それを記したのだいう説もある。そして、和が34であるのは、15+14+5(1514年5月)=34 のように仕組んだというだが、四方陣の1列の和は34に決まっているのでどうもこじつけ臭い。
四方陣に使われる1から16までの和は136で4列になっているのだ、136を4で割れば34ということになる。なお、1列の和は三方陣では15、五方陣では65、6方陣は111、7方陣は175であるが、一般にn
方陣の場合、等差数列の総和は (初項+末項)×項数÷2 で求まるから、
(1+n²)×n²÷2=n²(n²+1)/2 これを列数nで割って n(n²+1)/2 で求められる。
これを用いる、八方陣の1列の和は 8(8²+1)/2=4×65=260、
九方陣の1列の和は 9(9²+1)/2=9×41=369 と計算できる。
※ 謝霊運(385~433年) 康楽公に封ぜられたので、謝康楽とも呼ばれる。六朝の代表的詩人で、山水詩の開祖として、後代の詩人に大きな影響を及ぼした。
念奴嬌(赤壁の懐古) 蘇東坡
大江は東に流れ
浪はあらいつくすよ 古のすぐれたる 人物を
古き塁(とりで)の 西の辺を 人は言う
これ三国の 周郎が 赤壁なりと
乱るる岩は 空をつんざき
逆巻く涛(なみ)は 岸辺をうち
山なす雪と 飛沫をあこれぞげし
画にも似たる この山この江
そのかみの 豪傑いくたりぞ
想えば かのときの 公瑾は
小喬をむかえたばかりにて
かがやく勇姿 たのもしく
羽扇(はねうちわ)もち 綸巾きて 談笑するうち
あだなす敵は 煙と消え 灰と滅びぬ
古き日へと 馳せるわが神(こころ)
わが髪の はや白みしは
多情のゆえと 笑わば笑え
人の世は さながら夢
酒をそそがなむ 江の月影に
蘇東坡は赤壁賦を作って3ケ月後、冬の赤壁に遊んだ。冬の月夜、水量が少ない江石が露出し凄惨な景色を詠ずる。有韻の句を含んだ詩文の形式、且つ内容は極めて韻律に富み変化のある名文。月夜の美観と懐古の情感が織り成す、叙情的な雰囲気に包まれ然も格調高く誦えあげている。千古の名文と称される由縁がこれらの赤壁賦にある。
(後)赤壁賦 蘇 東 坡
是歲十月之望,步自雪堂,將歸於臨皋。二客從予,過黃泥之坂。霜露既降,木葉盡脫,人影在地,仰見明月,顧而樂之,行歌相答。已而歎曰:「有客無酒,有酒無餚,月白風清,如此良夜何!」客曰:「今者薄暮,舉網得魚,巨口細鱗,狀如松江之鱸。顧安所得酒乎?」歸而謀諸婦。婦曰:「我有斗酒,藏之久矣,以待子不時之需。」於是攜酒與魚,復遊於赤壁之下。
是(こ)の歳(とし)十月の望(ぼう)、雪堂(せつどう)より歩(ほ)して、將(まさ)に臨皐(りんこう)に歸らんとす。二客(にかく)予に從ひて黄泥(こうでい)の坂を過ぐ。霜露(そうろ)既に降(くだ)り、木葉(ぼくよう)盡(ことごと)く脱す。人影(じんえい)地に在り、仰いで明月を見る。顧(かえり)みて之(これ)を樂しみ、行(ゆくゆく)歌うて相答(あいこた)ふ。已(すで)にして歎じて曰はく、「客(かく)有れども、酒無し、酒有れども肴(さかな)無し。月白く風淸し。此の良夜(りょうや)を如何(いかん)せん」と。客(かく)曰はく、「今者(きょう)の薄暮(はくぼ)に、網を擧げて魚(うお)を得たり。巨口細鱗(きょこうさいりん)にして、状(かたち)松江(しょうこう)の鱸(すずき)の如し。顧(おも)ふに安(いず)くにか酒を得(う)る所あらんや」と。歸りて諸(これ)を婦(ふ)に謀(はか)る。婦(ふ)曰はく、「我に斗酒(としゅ)有り。之を藏すること久し。以て子(し)の不時の需(もとめ)を待つ」と。是(ここ)に於て、酒と魚(うお)とを攜(たずさ)へ、復(ま)た赤壁の下(もと)に遊ぶ。
この歳の十月、望月の日、雪堂から徒歩で臨皐亭に帰ろうとして、二人の友人と一緒に、黄泥の坂にさしかかった。霜や露がもう降りて、木の葉はすっかり散り果てている。人の影が地面に映るので、ふり仰いで名月を確かめ、互いに見交わして喜びあい、歩みつつ歌をうたって唱和した。/暫くして私は溜息を洩らす。「友だちがいるのに酒はなく、酒は何とかなっても肴がない。月が白く冴え風が爽やかに亙る、この素晴らしい夜もこれじゃ台無しだ」。/友が言う。「今日の夕暮れ、網をあげたら魚がかかっていました。大きな口に細かな鱗、姿はまるであの松江の鱸(すずき)です。ところで、酒はどこで手に入れたものですかな」。帰って女房に相談すると、「妾(あたし)のところに一斗ばかりの酒があります。ずっと前から仕舞ってあるのです。あなたが急にお求めになることがあるかもしれないと思っておりました」。そこで、酒と魚を引っ提げて、またも赤壁の下に遊んだのだ。
江流有聲,斷岸千尺;山高月小,水落石出。曾日月之幾何,而江山不可復識矣。予乃攝衣而上,履巉巖,披蒙茸,踞虎豹,登虯龍,攀棲鶻之危巢,俯馮夷之幽宮。葢二客不能從焉。劃然長嘯,草木震動,山鳴谷應,風起水湧。予亦悄然而悲,肅然而恐,凜乎其不可留也。反而登舟,放乎中流,聽其所止而休焉。
江流(こうりゅう)聲有り、斷岸(だんがん)千尺。山高く月小に、水落ちて石出(い)づ。曾(かつ)て日月(じつげつ)の幾何(いくばく)ぞや。而(しこう)して江山(こうざん)復た識(し)るべからず。予乃(すなわ)ち衣(ころも)を攝(かか)げて上(のぼ)り、巉巖(ざんがん)を履(ふ)み、蒙茸(もうじょう)を披(ひら)き、虎豹(こひょう)に踞(うずくま)り、虬龍(きゅうりょう)に登り、棲鶻(せいこつ)の危巣(きそう)を攀(よ)ぢ、馮夷(ひょうい)の幽宮(ゆうきゅう)に俯す。蓋(けだ)し二客(にかく)は之(こ)れ從ふ能(あた)はず。劃然(かくぜん)として長嘯(ちょうしょう)すれば、草木震動し、山鳴り谷應(こた)へ、風起り水涌(わ)く。予も亦悄然(しょうぜん)として悲しみ、肅然(しゅくぜん)として恐れ、凜乎(りんこ)として其れ留(とど)まるべからざるなり。反(かえ)りて舟に登り、中流に放ち、其の止(とど)まる所に聽(まか)せて休(いこ)ふ。
長江は水音を立てて流れ、切り立った崖は千尺、山は高く聳えて、月は小さく見え、水は枯れて岩石がごつごつと突出している。さてもあの日からどれだけの月日が流れたのか、江も山もまるで見覚えがないとは。わたしはそこで裾を絡(から)げて岸に上がり、切り立つ岩を踏みしめ、からまり茂る草叢に分け入り、虎や豹に見紛う岩に蹲り、虬(みずち)や竜に似た古木にのぼって、隼の高みに懸けた巣に攀じ登り、水神馮夷の水底にひそけき宮殿を見降ろした。もはや二人の友人も就いてこれないようだ。空を切り裂くように口笛を吹いてみると、草木は震え、山と谷は共鳴して、風が巻き起り流れは涌き返った。私も又もう声も立てられなくなって悲しみに襲われ、ぞくっとして恐怖を覚えた。寒気がひしと身にしみて、もはやとどまり得ないまでになった。引き返して舟に乗り、流れの中程に漂わせて、行き先は舟に任せ、そのまま休息した。
時夜將半,四顧寂寥。適有孤鶴,橫江東來。翅如車輪,玄裳縞衣,戛然長鳴,掠予舟而西也。須臾客去,予亦就睡。夢一道士,羽衣蹁躚,過臨皋之下,揖予而言曰:「赤壁之遊樂乎?」問其姓名,俛而不答。「嗚呼!噫嘻!我知之矣。疇昔之夜,飛鳴而過我者,非子也耶?」道士顧笑,予亦驚寤。開戶視之,不見其處。
時に夜(よ)は將(まさ)に半(なかば)ならんとし、四顧すれば寂寥(せきりょう)たり。適(たまたま)孤鶴(こかく)有り、江(こう)を横ぎりて東より來(きた)る。翅(つばさ)は車輪の如く、玄裳縞衣(げんしょうこうい)、戛然(かつぜん)として長鳴(ちょうめい)し、予が舟を掠(かす)めて西せり。須臾(しゅゆ)にして客(かく)去り、予も亦睡(ねむり)に就く。一道士を夢む。羽衣翩躚(ういへんせん)として、臨皐(りんこう)の下(もと)を過ぎ、予に揖(ゆう)して言ひて曰はく、「赤壁の遊び樂しかりしか」と。其の姓名を問へば、俛(ふ)して答へず。「嗚呼(ああ)噫嘻(ああ)、我之(これ)を知れり。疇昔(ちゅうせき)の夜(よる)、飛鳴(ひめい)して我を過(よぎ)りし者は、子(し)に非ずや」。道士顧(かえり)みて笑ふ。予も亦驚き悟(さ)め、戸を開きて之(これ)を視るも、其の處(ところ)を見ず。
時に真夜中近く、辺りはひっそりと静まり返っていた。ちょうどそのとき、一羽の鶴が江をわたって東から飛んできた。つばさは車輪のように大きく、黒い袴・白い上着の姿で、クゥアと声を引いて鳴き、私の舟をかすめて西のかなたに飛び去った。まもなく友人たちは帰り、私も眠りに就いた。独りの道士を夢に見た。身に付けた羽衣をひらひらさせて、臨皐亭の近くを通りかかって、わたしに会釈をし、「赤壁の遊びは楽しかったですか」と尋ねる。名前を問うたが、俯(うつむ)いたまま答えてくれない。「ああ、そうだったのですね。夕べ、鳴きながら私の所を飛んで行かれたのはあなたでしょう」と問いかけたが、道士は振り返って微笑み返しただけ。私もはっと夢からさめた。戸を開けて探してみたが、その姿は何処にもなかった。
頭の体操18) 左の証明はどこかおかしんだよなあ。さあ、何処が間違っているのだろう? 見つけ出してくれたまえ。
壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。
壬戌(じんじゅつ)の秋、七月の既望(きぼう)、蘇子 客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。
清風徐来、水波不興。
清風徐(おもむ)ろに来たって、水波興(おこ)らず。
挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。
酒を挙げて客に属(つ)ぎ、明月の詩を誦し、窈窕(ようちょう)の章を歌う。
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。
少焉(しばらく)にして、月 東山の上より出で、斗牛の間に徘徊す。
白露横江、水光接天。
白露(はくろ)江に横たわり、水光天(こうてん)に接す。
縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。
一葦の如(ゆ)く所を縦(ほしいまま)にして、万頃(ばんけい)の茫然たるを凌ぐ。
浩浩乎、如馮虚御風、而不知其所止。
浩浩乎(こ)として、虚を馮(よ)り風を御し、其の止まる所を知らざるが如し。
飄飄乎、如遺世独立、羽化而登仙。
飄飄(ひょうひょう)乎(こ)として、世を遺(わす)れて独り立ち、羽化して登仙するが如し。
於是、飲酒楽甚。
是に於て、酒を飲んで楽しむこと甚だし。
扣舷而歌之。
舷(ふなばた)を扣(たた)いて之を歌う。
歌曰、「
歌に曰く、
桂櫂兮蘭槳、撃空明泝流光。
桂の櫂(さお) 蘭の槳(かい)、空明に撃ちて流光に泝(さかのぼ)る。
渺渺兮予懐、望美人兮天一方。」
渺渺たり 予が懐い、美人を天の一方に望む。
客有吹洞簫者。
客に洞簫を吹く者有り。
倚歌而和之。
歌に倚って之に和す。
其声嗚嗚然、如怨如慕、如泣如訴。
其の声嗚嗚然として、怨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴うるが如し。
余音嫋嫋、不絶如縷。
余音嫋嫋として、絶えざること縷の如し。
舞幽壑之潜蛟、泣孤舟之嫠婦。
幽壑の潜蛟を舞わしめ、孤舟の嫠婦を泣かしむ。
洞蕭(どうしょう)の巧みな客が、私の歌にに合わせて吹く。その音色はおろろと恨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴売るが如く、その余韻はかぼそくおぼそく、一筋の糸の如く絶えることなく後を引く。この音(ね)には、かの深い谷あいに潜む蛟(みずち)も舞い、放れ小舟の寡婦(やもめ)も涙するであろう。
蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、「何為其然也。」
蘇子 愀然として襟を正し、危坐して客に問うて曰く、何為れぞ其れ然るや。
客曰、「
客の曰く、
月明星稀、烏鵲南飛、此非曹孟徳之詩乎。
月明らかに星稀れに、烏鵲南に飛ぶ、此れ曹孟徳の詩に非ずや。
西望夏口、東望武昌、山川相繆鬱乎蒼蒼。
西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相い繆(まと)い鬱ことして蒼蒼たり。
此非孟徳之困於周郎者乎。
此れ孟徳の周郎に困(くる)しめられし者(ところ)に非ずや。
方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。
其の荊州を破り、江陵を下り、流れに順いて東するに方(あた)りてや、軸艫千里、旌旗(せいき)空を蔽う。
釃酒臨江、横槊賦詩。
酒を釃(した)みて江に臨み、槊(ほこ)を横たえて詩を賦すは
固一世之雄也。
固(まこと)に一世の雄なり。
而今安在哉。
而して今安(いず)くに在りや。
況吾与子、漁樵於江渚之上、侶魚鰕而友麋鹿、
況んや 吾れと子とは、江渚の上に漁樵し、魚鰕を侶として麋鹿を友とし、
駕一葉之扁舟、挙匏樽、相屬、寄蜉蝣於天地、渺滄海之一粟。
一葉の扁舟に駕し、匏尊を挙げて、相属(つ)ぎて、蜉蝣を天地に寄す、眇たる滄海の一粟なるをや。
哀吾生之須臾、羨長江之無窮。
吾が生の須臾(しゅゆ)なるを哀しみ、長江の無窮を羨む。
挟飛仙以遨遊、抱明月而長終
飛仙を挟んで以て遨遊し、明月を抱いて長(とこし)えに終ゆ。
知不可乎驟得、託遺響於悲風。」
驟(にわ)かには得べからざるを知って、遺響を悲風に託す。
蘇子曰、「
蘇子曰く、
客亦知夫水与月乎。
客も亦夫の水と月を知る乎。
逝者如斯、而未嘗往也。
逝く者は斯くの如くにして、未だ嘗て往かざるなり。
盈虚者如彼、而卒莫消長也。
盈虚(えいきょ)する者は彼くの如くにして、卒に消長する莫きなり。
蓋将自其変者而観之、則天地曾不能以一瞬。
蓋し将た其の変ずる者より之を観れば、則ち天地も曾て以て一瞬たる能わず。
自其不変者而観之、則物与我皆無尽也。
其の変ぜざる者より之を観れば、則ち物も我れも皆尽きること無き也。
而又何羨乎。
又何をか羨まんや。
且夫天地之間、物各有主。
且夫れ天地の間、物各主有り
苟非吾之所有、雖一毫而莫取。
荀も吾れの有する所に非れば、一毫と雖も取ること莫し。
惟江上之清風、与山間之明月、耳得之而為声、目遇之而成色。
惟だ江上の清風と、山間の明月とは、耳之を得れば声を為し、目之に遇えば色を成す。
取之無禁、用之不竭。
之を取れども禁無く、之れを用いても竭(つ)きず。
是造物者之無尽蔵也。
是れ造物者の無尽蔵也。
而吾与子之所共適。」
而して吾れと子と共に適する所なり。
客喜而笑、洗盞更酌。
客喜んで笑い、盞(さかずき)を洗いて更に酌む。
肴核既尽杯盤狼藉。
肴核既に尽て杯盤狼籍たり。
相与枕藉乎舟中、不知東方之既白。
相共に舟中に枕藉して、東方の既に白むを知らず。
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