瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[306] [307] [308] [309] [310] [311] [312] [313] [314] [315] [316]
 今朝のウェブニュースより
c3dcb885.JPG 【入試問題流出】投稿間隔は5~11分 外に仲介役?複数関与か ―― 今月25、26日に行われた京都大学の入学試験(2次試験)で試験時間中に数学(文系)と英語の一部問題がインターネットの掲示板「ヤフー知恵袋」に投稿された問題で、投稿はすべて携帯電話で5~11分間隔で行われていたことが27日、大学関係者への取材でわかった。投稿間隔の短さなどから複数の人物が関与した可能性も浮上。京大はネット履歴の分析は大学の調査では限界があることから28日、京都府警に被害届を出す方針を明らかにした。/京大などによると、25日の数学の試験は午後1時半~3時半に実施。1回目の問題の投稿は午後1時37分にあり、1時43分、1時50分などにも行われ、計6回の投稿の間隔時間は5~11分だった。26日の英語は午前9時半~同11時半に行われ、投稿は2回。最初の投稿は午前9時37分で、9時45分に別の英訳1問の投稿があった。いずれも「次の文を英訳してください」で始まっていた。/京大によると、携帯電話は電源を切ってかばんの中に入れ、そのかばんは隣の席に置いてもいけないことになっている。携帯電話をめぐって不審な動きがあったとの報告はなかったことなどから、入試会場の外にネット投稿を仲介した人物の可能性を指摘する見方もある。/京都府警関係者などによると、今回の事件では、試験時間中に問題が外部にさらされたことで、公正な入試業務が不正な手段で妨害されており、刑法の偽計業務妨害などの罪に該当する可能性があるという。
  (産経ニュース。2011.2.27 21:18)

      三つの戒め    柳宗元
 私はかねがね世間の人が、自己本来のものを追求せず、現象を利用して勝手気ままに振る舞うことを憎んでいた。彼らは権勢に寄り掛かって、セクト以外のものを圧迫したり、ちょっとした技能を鼻にかけて権力にたてついたり、隙を見つけては暴力の限りを尽くしたりする。しかし、最後には禍にあって身を滅ぼすのである。ある客人が私に、麋(なれしか)・驢馬・鼠の三動物について話してくれたが、これらの動物の行動は世間の人の世間の人のそれとよく似ている。ここに三つの戒めをつくるしだいである。
c70c9e60.JPG
3ed84ece.JPG    臨江(りんこう)の麋(び)
 臨江(江西省清江)の人が、狩をして麋(なれしか)の子を捕獲した。その人、これをいとおしみつつ門に入ると、犬共が涎(よだれ)をたらし、尻尾を振りながら寄って来た。その人は怒って犬共を脅した。それ以来毎日のように麋の子を抱いては、犬に馴れさせ麋の子を見ても手出しをせぬように躾け、次第に遊び戯れるように導いた。時日が経過し、犬共は主人の意の如くになった。/麋の子も大きくなるにつれ、自分が麋であることを忘れ、犬こそ誠にわが友であると思い込み、体をぶつけたり、転げ廻ったりして、益々馴れ親しんだ。犬は主人を恐れ、麋と大変上手に調子を合わせていた。しかし、時には舌なめずりをすることもあった。/三年経ち、麋が門を出たところ、道路によその犬が数多くいたので、走り寄って一緒に遊び戯れようとした。よその犬は麋を見て、喜ぶと共に腹も立て、皆で殺してべてしまい、道路にさんざん散らかした。麋は死ぬまで、自分が何故そのような目に合うのか、理解することができなかった。
      黔中の驢馬  →  略(2月26日のブログに記載)
bea758bd.JPG      永州の某氏の鼠
 永州(湖南省零陵県)に某氏がいた。彼は日々の吉凶を気にかけ、もの忌(い)みに拘ること異常なものがあった。己の生まれ年は子(ね)であり、鼠は子の神であると思っていた。それ故、鼠を可愛がって猫を飼わず、その上、下男が鼠を打ち殺すことを禁止した。倉庫や台所は、全く鼠の好き勝手のままに任せた。このため、鼠は互いに語らって、某氏の家に移り住み、しこたま腹に詰め込んだが、何の咎めもない。某氏の部屋には完全な器具はなく、衣桁(いこう)にかかる着物はいずれもまともでないものばかり。飲食物の殆んどは鼠の食べ残しである。昼は人間と共にぞろぞろと歩き、夜は盗みを働き、物を齧り、狼藉の限りを尽くす。その音は譬えようがなく、とても寝られたものではないが、某氏は始終懲りたそぶりを見せなかった。
 数年して某氏は他の州に転居した。その跡に別の人が引っ越して来たが、鼠の態度は従来通りであった。その人は、「こいつは暗闇に住む悪い奴で、盗みや乱暴の程度は相当なものだが、いったいどうしてこれほどまでになったのであろうか?」と言い、猫を五・六匹借り、門を締め切り、屋根瓦を外し、穴に水を注ぎ、下男を雇ってすっかり絡め取った。小山のようになった鼠の死骸を、物陰に棄てた所、死臭は数ヶ月も消えなかった。
 ああ! 鼠どもは、しこたま腹に詰め込んでも、何の咎めもないことが、当たり前なんだと思い込んでいたのであろうか。

 今朝のウェブニュースより2題。
7c08d33d.JPG (減税日本)東京で100人擁立へ…統一地方選 ―― 名古屋市の河村たかし市長が代表を務める地域政党(減税日本)が27日に、統一地方選で実施される東京の区議、市議選の公認・推薦候補計約10人を都内で発表する方針だ。/市長周辺によると、第1陣として公認3人、推薦7、8人を発表する。民主党を離党した立候補予定者も含まれており、最終的には都内で100人の擁立を目指す考えだ。都知事選についても、「東京から減税を主張する候補者を出せれば、力になる」と擁立に含みを持たせている。減税日本は昨年4月の設立。河村市長は「当初から全国での活動を考えていた。次の衆院選でも、政党として認められる5人以上の当選を目指す」と話している。   (2011年2月26日09時59分 読売新聞)
 与謝野氏、河村市長 官邸で"火花"―― 与謝野馨経済財政担当相と名古屋市の河村たかし市長が25日、首相官邸で鉢合わせし、先の与謝野氏の発言をめぐって、河村氏が“詰め寄る”一幕があった。/与謝野氏は22日の記者会見で「(河村氏は)『減税日本』なんてはしゃいでいるより、市の地方債残高を減らすべきだ」と批判。これに対し、河村氏は上京にあわせて与謝野氏に面会を求めたが、多忙を理由に断られていた。/この日、別の用件で官邸を訪れた河村氏が、記者団に「減税を主張するのはばかなのか」などと不満をぶちまけていると、官邸に入ってきた与謝野氏とばったり。河村氏は「発言を撤回してもらわないといけない」と迫ると、与謝野氏は握手を交わしただけで、足早にその場を立ち去った。  (東京新聞、2011年2月26日 朝刊)

 Shinさんのコメントに応えて、柳宗元の『三戒』から「黔驢」を取上げる。『三戒』は寓言形式を借りた警世の文章であるが、自分自身に対する戒めの意も込められているものであろう。
 
69de83c9.JPG
538bb2cb.JPG (訳)  黔中(けんちゅう)の驢馬(ろば)
 黔中(道名。四川省彭水県が中心)には驢馬はいなかった。物好きな人が船に載せて移入した。しかし連れてきたものの使い道がなかった。山の麓で放し飼いにしておいた。虎が驢馬を見つけたが、ムクムクとしたでっかい奴なので、てっきり霊獣だろうと思った。暫くは林の中から様子を窺い、そろそろ出て近付いた所、慎ましやかに装うだけで、知らん顔をしている。
或日、驢馬が一声嘶(いなな)いたところ、虎は大いに驚き、遠くまで逃げ去った。虎は今にも自分が噛み付かれると重い、非常に恐れたのである。しかし、行き来して観察するうちに、さして異常な能力を具えたものとも思われず、その泣き声にもいよいよ馴れてきた。そこでさらに、その前後まで近付いたものの、突っかかってゆくことは、けっきょくできなかった。しかし、だんだん近付くにつれ、益々馴れてきて、乱暴に身を寄せ掛けたり、ぶつかったりするようになった。驢馬は我慢しきれず腹を立てて、虎を蹴(け)りつけた。虎はこれを喜び、「奴の技能はこれだけしかないんだな」と判断した。そこで飛び掛って思い切り噛み付き、喉を食いちぎって、肉をすっかり平らげ、立ち去った。
ああ! 姿かたちのムクムクと大きいことは、いかにも有徳者のようであり、声がデッカイのは、いかにも有能者のようであった。そうしてあの時までは己の技能を示すことをしなかった。(以前のままならば、)虎は猛々しい獣ではあるが、遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)して、とても襲い掛かれなかったであろうに。それが、いまやこのような状態になってしまった。悲しいことではある。

657a5d18.JPG 頭の体操20の解答) Cを通り、ABと平行な直線をひき、△ABCの外接円との交点をDとする。
∠BAD=∠B=2∠A であるから、 ∠CAD=∠A  ∴ CD=BD=AD=a
△CADにおいて、 AC<CD+DA であるから、 b<2a …… ①
また、四角形ABCDで、 AB<BC+CD+AD であるから、 c<3a …… ②
ABの3等分点をE、Fとすると、②より EF<DC であるから、四角形ABCDは等脚台形で
∠EFC>90° 従って、 △AFCで AF<AC より 2/3・c<b …… ③
①と③より a/1>b/2>c/3 
 

 本日のウェブニュースより、
7f653012.JPG NZ地震、倒壊ビルの捜索急ぐ 死者113人に ―― 【クライストチャーチ共同】ニュージーランド南島クライストチャーチ市で起きた大規模地震で、富山外国語専門学校の生徒らが被災したCTVビル倒壊現場では25日朝、雨が降り、冷え込みの厳しいなか、日本の国際緊急援助隊などによる懸命の捜索活動が続いた。地元警察によると、地震による死者は25日午前までに113人担った。/ビル倒壊現場では24日までに47人の遺体が見つかった。依然として同ビルには70人以上が閉じ込められている可能性があるが、25日午後(日本時間同日午前)には行方不明者の生存可能性が著しく低下するとされる(発生から72時間)が経過し、救助犬を使うなどして捜索作業を急いでいる。/日本の援助隊の吉井幸夫団長は25日午前、記者団に対し「(発生から72時間への)意識はある」とした上で、がれきの下敷きになっている生徒らについて「(生存の)望みは捨てていない」と強調した。/援助隊はオーストラリアの救助隊と協力し、コンクリートの柱などの大きながれきをカッターで切り、重機で移動した後、小型カメラを使うなどして生存者を捜している。倒壊現場は25日朝、大雨に見舞われたが、吉井団長は今後も24時間態勢で作業を続ける方針だと述べた。24日以降、新たに生存者や遺体が見つかったかどうかについては明言を避けた。
( 47NEWS、2011/02/25 09:08 【共同通信】)

a38ff60c.JPG 民主の議員10人が東京維新の会設立 ―― 民主党東京都連の国会議員10人は24日、政策集団「東京維新の会」を設立した。大阪府の橋下徹知事の「大阪維新の会」や名古屋市の河村たかし市長の「減税日本」に連携を呼び掛け、消費税率引き上げ反対や地域主権の推進などを訴える。/代表世話人の中山義活経済産業政務官は都内で記者会見し、「消費税が上がる話は断じて許すことができない」と強調した。/メンバーは小沢一郎元代表に近い議員中心で、菅首相が進める社会保障・税一体改革やマニフェスト見直しを批判しているが、2011年度予算案などへの反対はしない方針。    (東京新聞、2011年2月25日 朝刊)

577ea19f.JPG 柳宗元(773~819年)、字は子厚(しこう)、原籍が河東(山西省)なので、彼を柳河東または河東先生と呼ぶ。実際の生まれた地は首都長安であったろうと推測される。理知的でモダンな作風は、彼が都会育ちであったことを物語るようである。貞元9(793)年の進士で、貞元14年に博学宏詞科に合格し、集賢殿正字を振り出しに、若手官僚としてエリートコースを進み、順宗の時に王叔文(753~806年)の下で礼部員下郎として革新政治に参画した。しかし、守旧派が憲宗を擁立するに及び、彼も少数の反主流派の1人として、苦難の道を辿らなければならなくなった。永州司馬として湖南の永州に10年、ついで広西の柳州に刺史として約4年、ついに中央に召還されることなく柳州に歿した。彼は韓愈とともに古文運動の功労者であるが、合理主義に基く反俗的姿勢には際立ったものがある。
 捕蛇者説の文章は柳宗元が詠州司馬として永州にいた時に書かれたもので貞元二十一(805)年に、王叔文・王伾(?~806年)を中心とする柳宗元ら若手官僚の革新政治が行われた当時の政治理念が、新たな現実にふれてよみがったものと見るべきであろう。
80fa0e7c.JPG 永州(湖南省零領県一帯)の草原には、世にも珍しい蛇がいる。黒い地肌に白い模様のあるやつで、草木に触れると草木は全て枯れ、人間がこれに咬まれると、助かる見込みはまるでない。しかし、こいつをひっ捕まえて乾肉にして、服用すれば、中風・手足のひきつけ・悪性のできものはぴたりと治り、腐った皮膚を蘇らせ、三虫(三尸の虫)をも殺すことができる。/最初、ご典医が天子の命令で収集にやって来て、毎年2度上納せよとのお達し、そこで役所では蛇取りを募集し、納税の代わりにしてやると条件をつけたところ、永州の人人は、わけがちに蛇を求めて草原を駆け巡った。/ここに蒋さんという人がいて、父祖3代にわたり、納税免除の特典を独占していた。私が彼に様子を訊ねたところ、彼は言った。「私の祖父はこの仕事で死に、私の父もこの仕事で死んだ。いまのところ私が後を継いで、蛇獲りを12年間やっていますが、あわやという目に会ったことも、たびたびありました。」彼のものを言う顔つきは、いかにも辛そうである。私は憐れと思い、彼に言った。「お前さんにはこの仕事が堪えられなくなったのではないかね。それならば、私が当事者に言って、お前さんの仕事を替え、税金の納め方を昔通りにしてあげてもよいのだが、どんなものかねえ」/蒋さんは大変悲しみ、目に涙をいっぱいためていった。「あなたは私を憐れと思し召し、生きながらえさせてやろうとのご所存なのでしょうか。それならば以下に申し上げることをお考え下さい。いかにも、私がこの仕事をしなければならぬのは不幸と存じますが、それでも昔通りの納税方法に返るよりは、ずっとましなのです。これまで私がこの仕事についていなければ、長い間困苦に喘いでいたことでしょう。私どもの家がこの村に住み着いて3代になり、今まで60年の歳月を過してきました。だが隣近所の生活は日増しに苦しくなるばかり、土地から取れるものは洗いざらい、家に入る収入は残らず使い果たし、泣き叫びながら流浪し、飢え渇えて行倒れとなる。さては、雨や風に打たれ、寒さ暑さに晒され、毒気を吸いつつ日を送り、ついには折り重なって死ぬことも、しばしばのこと。以前私の祖父(じい)さんと同じ頃に住み着いた家も、今では十軒に一軒も残っておらず、父(とお)さんと同じ代に住み着いた家も、いまでは十軒に二・三軒も残っておらず、私の代になってこの12年ともに住み着いている家も今では十軒に四・五軒もないといった有様。彼らはみんな死んだのでなければ、流れ出てしまい、私だけが蛇取りのお蔭で、住み着いていられるのです。乱暴な役人がこの村にやってくると、こちらの方でがなり立て、あちらの方でひどい騒ぎをおっぱじめ、ガヤガヤ、ワアワア、生きた心地もなくうろたえ、鶏や犬でも、じっとしていられるものではありません。私はおっかなびっくり起き上がって、甕の中を覗きこみ、私の蛇がまだいていてくれれば、やれやれと安心と、横になるのです。細心の注意を払って蛇に餌を与え、時が来れば上納します。上納を済ますと、ひっそりと、わが畑から取れるものを味わって、寿命が来るまで暮らそうというのです。大体、一年のうち、2度だけ生命(いのち)がけの仕事をすれば、後の日はぬくぬくと楽しめるのです。私の隣り近所の者が、毎日毎日を死ぬの生きるのと言って暮らしているのとは、比べものになりません。たとえ今、蛇取りのこの仕事で死んだとしても、隣近所の人よりは、ずっと長生きをしたことになります。どうしてこの仕事に堪えられないなどと申せましょう」/私は彼の言葉を聞いて、いよいよ憐れだと思った。孔子は言った。「ひどい政治は虎よりも凶暴だ」と。私はこれまで少し極端な言い方だと疑念を感じていたが、いまや蒋産の話を聞くに及んで、やはり本当のことでと思うようになった。ああ、課税の毒が、この蛇の猛毒よりもひどいとは誰が知っていよう。そこでこの文章を作って、かの人民の風俗を観察する役人の目に止まることを、期待するのである。

ac0961eb.JPG 頭の体操20) 2∠A=∠B である△ABC がある。BC=a、CA=b、AB=c とするとき、a/1、b/2、c/3 大小を決めよ。




 今朝のウェブニュースより
36215098.JPG 混迷都知事選!“本命浮上”東国原が勝てないジンクスとは?――  東京都知事選は、鉄板級の本命とされた石原慎太郎知事が不出馬の意向を固めたことで、一気に大混戦となりそうだ。急浮上した神奈川県の松沢成文知事(52)や、宮崎県の東国原英夫前知事(53)は一躍、有力候補に浮上するが、実はこれまで、他県からの“お下がり”、いや“転籍”候補は苦戦する傾向にある。/神奈川県知事を2期務めた松沢氏は22日、自身の擁立を都政関係者が検討しているとの一部報道について、「打診があったとか連絡があったというのは一切ない」と発言。出馬自体については「すべての政治環境を勘案して、最終的に判断する。3月に入るときには、しっかり決める」と否定しなかった。「石原氏の後継」との声もあり、民主、自民両党が相乗りする可能性もある。/また、東国原氏は同日、文化放送の「大竹まことゴールデンラジオ」に出演し、司会者の大竹の質問攻めに対し、「頑張らないと…」とポロリ。名古屋市の河村たかし市長や大阪府の橋下徹知事といった人気者と連携して勝ちをさらいたいところか。今月中にも、態度表明するとされる。/このほか、ワタミ前会長の渡辺美樹氏(51)がすでに出馬表明。蓮舫行政刷新相(43)や、猪瀬直樹副知事(64)の動向も注目されている。/中でも、松沢、東国原両氏は知事経験者であり、ある程度行政手腕を認められ、知名度もあるが、気になるデータが存在する。/1947年日時が普通選挙で選ばれるようになって以降、複数の都道府県で知事を務めた例はない。/都知事選でも、63年に兵庫県知事経験者の阪本勝氏が約66万票差、2007年には宮城県知事経験者の浅野史郎氏が約112万票差で現職の厚い壁にはねかえされた。/このときは、都民の「他県からのお下がり」に対するアレルギーのほか、他県の知事経験者が都知事に転身することの正当性が疑問視された。/ただ、今回は対現職とならない公算が大きく、一概にはいえそうにない。/政治広報システム研究所の久保田正志代表は「トレンドは地域政党に有利。東国原氏が突き抜ける可能性がある」と話しているが、果たして…。    (zakzak、2011.02.23)

3acece1c.JPG 麒麟(きりん、普通話でチーリン:qílín)は中国神話の伝説上の動物で、鳥類の長である鳳凰と並んで、獣類の長とされる。
 形は鹿に似て大きく背丈は5mあり、顔は龍に似て、牛の尾と馬の蹄をもち、雄は頭に角をもつとも言われる。背毛は五色に彩られ、毛は黄色い。頭に角があり、本来は1本角であるが、2本角で描かれる例もある。
普段の性質は非常に穏やかで優しく、足元の虫や植物を踏むことさえ恐れるほど殺生を嫌うとされる。
 神聖な幻の動物と考えられており、1000年を生き、その鳴声は音階に一致し、歩いた跡は正確な円になり、曲がる時は直角に曲がるという。また、動物を捕らえるための罠にかけることはできない。麒麟を傷つけたり、死骸に出くわしたりするのは、不吉なこととされる。『礼記』によれば、王が仁のある政治を行うときに現れる神聖な生き物(=瑞獣)であるとされ、鳳凰、亀、龍と共に「四霊」と総称されている。
 韓愈(768~824年)は字を退之(たいし)、昌黎(しょうれい、河北省)の出身。仕えて刑部侍郎(法務次官)にまで昇進したが、彼の「仏教排撃論」が憲宗の逆鱗に触れ、潮州(広東省)に流された。後に中央に召し返され、吏部治郎で終った。彼は文学において、内容を尊び先王の道でなければならぬとし、内容を表現するには修飾過多の「四六駢儷文」は不適格であり、自由闊達な「古文」を用いるべきだとした。凝縮と拡散の2方向を内在する彼の文は人間性の機微を捉ええたので以後長く散文の模範になったという。
 彼の「獲麟解」は、問答の形を変えた議論文(「解」という)である。『爾雅』(中国最古の類語辞典)の釈獣に「麟は麕の身に、牛の尾、一つの角のもの」と見え、聖人の出現に伴って現れるという想像上の動物である。獲麟のことは『春秋』魯の哀公14年の項に「西に狩して麟を獲(え)たり」と見え、『春秋左氏伝』箭『春秋公羊(くよう)伝』によれば、人はこれを不吉なものと思い、麟とは知らなかった。孔子はこれを麟と知り、出現の時を得なかったのを嘆き、「わが道窮せり」と言い、『春秋』の著述を打ち切った。「筆を獲麟に絶つ」は有名な故事となっている。韓愈は以上のようなことを素材としてこの文章を作り、自己の不遇を嘆く意を託したという。
358b7963.JPG   麒麟について    韓愈
 麒麟が霊獣であることは、紛れもない事実である。『詩経』に読まれ(周南・麟の趾)、『春秋』に書かれ、その他物の本屋や諸子百家の書物にあれこれと見えている。女子供さえも、それがめでたいものであることを、みんな知っている。
 しかし、麒麟という動物は、人家に飼われたことがなく、いつも天下に存在するとは限らない。その形状は比類を絶しており、馬・牛・犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿などいずれにも似ない。してみれば、麒麟が存在したとしても、それが麒麟であるとは判らないわけである。
 角があれば、私にはそれが牛であると分かる。たてがみがあれば、私にはそれが馬であると分かる。犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿を見れば、私にはそれが犬・豚・山犬・狼・馴鹿・鹿であると分かる。ただ、麒麟だけはわからない。分からなければ、それを不吉なものと考えるのは、道理のないことではない。
 しかしながら、麒麟が出現するときには、必ずや聖人と呼ばれる方が、君主の位についていられるものだ。麒麟は聖人の為に出現するものであるからだ。聖人には必ず麒麟がそれと分かる。されば麒麟はやはり不吉な物ではない。またこうもいえる。麒麟が麒麟であるわけは、徳をそなえているからであって、形状の如何によるものではない、と。それ故、もし麒麟の出現が、聖人の現れる時を待ったのでなければ、これを不吉なものと考えても、道理のないことではなかろう。

3da7007d.JPG 頭の体操19の解答) 左図のように点線の所で折って、AとA’、BとB’が同じところに来るように重ねる。A’から描きはじめ、D、B’(B)、C、Aの順に描いて、□ACBDを描き、紙を広げて残りの部分を一筆で描くことができる。




 国政にしろ、都政にしろ、区政にしろ、担い手になるのは爺はもう沢山! 台東区長も是非若い生きのいいピチピチした人になってもらいたいね。みんなで応援しようね。
 TOKYO MX NEWS より
db95c947.JPG 台東区長選挙 元区議の中山氏が民主推薦で立候補表明 ―― 4月の台東区長選挙に中山寛進氏が民主党の推薦を受け無所属で出馬する意向を表明しました。中山氏は今回、政治団体『下町維新の会』を設立し、原口一博前総務大臣らが設立する予定の『日本維新の会』とも連携する予定です。/中山氏は元台東区議で2期を務め、現在は父で衆議院議員の中山義活氏の秘書を務めています。中山氏は今回、既成政党の枠組みにとらわれない政治団体として下町維新の会を設立し、原口氏や大阪の橋下徹知事らが立ち上げる予定の日本維新の会との連携を明らかにしました。中山氏は会見で「先週、国会内で原口一博元総務大臣とお会いした。そこで『日本維新の会』を立ち上げるという旨をお聞きした。地域主権の名の下に結集していこうと約束した」と述べました。政策では墨田区との連携など、広い範囲での観光圏構想での街づくりを訴えます。/区長選挙にはこれまで、3選を目指す現職の吉住区長、元参議院議員の保坂三蔵氏、元区議の関根博之氏の3人が立候補する意向を表明していて、激しい戦いが予想されます。       (2011年2月21日)

 蘇洵が二人の息子軾(しょく)・轍(てつ)に名前を付けた由来を説明したもの。兄弟は3歳違いであるから、弟が生まれた後にあわせて命名した(それまでは幼名)ものと思われる。中国では、兄弟の名前は二字名のときは一字を、一字名のときは扁(へん)・冠(かんむり)などを共通にする場合が多い。

189cece8.JPG 
3ccb7363.JPG     二子命名の由来           蘇洵
 輪(りん、車輪)・輻(ふく、車の矢)・蓋(がい、幌)・軫(しん、車体の枠)は、何れも車に役どころを持つが、軾(しょく、前の横木)だけは、何の役にも立たぬように見える。しかしながら軾を取り去れば、完全な車ではないと私は思う。軾よ、お前が外見をかざらぬようになりはせぬかと、恐れてのこと(命名)だ。
 天下の車は、先の轍(てつ、わだち)の後を通らぬものはない。だが、車の機能を問題にするとき、轍は何の関係もない。しかし、車が倒れ馬が死んでも、わざわいは轍には及ばない。とすれば、轍は幸・不幸の間にうまく納まっているのだ。轍よ、この命名でお前がわざわいを免れるに違いないと、私は思うのだ。

頭の体操19) 「田」という字は、普通では一筆で描くことはできないといわれている。しかし、鉛筆を紙の上から放さず、子かも「田」の字以外の余分なところも書くこともしないで、一筆で描いてみよう。
 

 Albrecht Dürer(アルブレヒト・デューラー, 1471~1528年、ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者)が製作した銅版画に『メランコリアⅠ』という作品がある。
1323e23e.JPG
116d8459.JPG この作品については批評家や美術史家達が460年間議論し続けてきたという。現代の用語法では「憂鬱症(メランコリカー)」は精神障害者を意味するが、古くアリストテレスは憂鬱質を「真摯で精神的創造力を具えた素質」とみなしていた。
 Marsilio Ficino(マルシリオ・フィチーノ、1433~1499年、イタリア・ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者)はその著『健康な生活について』の中で、「「全て偉大なる芸術において卓越せし者は、ことごとく憂鬱質なりき」と述べているが、1513年と14年の間に制作されたこの銅版画の神秘的な図は、羽を付けたが人物が悲しみに沈んだ姿をして座り、Greyhound)(グレーハウンド)の犬と子供(putto、プットー)が横にいる場面である。背景には建設中の家があり、さらに海が光線を浴びて滑らかな表面を見せており、その上に虹がかかっている。3つの像の周囲には様々な物、実用品が置かれている(砂時計、はかり、梯子、魔法の正方形(数字を足すと何時も34になる)、指物師や石工の使う道具、釘と石の多面体)。
 23.9×16.8cmの大きさの紙には哲学、魔術、数学、錬金術等の当時の知識が詰め込まれているのである。又「学問や芸術の合理的想像的世界」を表現しているとも、自己の芸術への絶望と希望が投影された、デューラーの精神的な自画像ともいわれている。
 Hippocrates( ヒポクラテス, BC460~377年、古代ギリシアの医者)は人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁からできていると述べ、血液が多い人は楽天的、粘液が多い人は鈍重、黒胆汁が多い人は憂鬱(メランコリーの語源は黒胆汁である)、黄胆汁が多い人は気むずかしい気質を持つとした。『メランコリアⅠ』は四体液説(四性説)における人間の4つの性格の一つ「憂鬱」をテーマにしたもので、天使が頬杖をついている。その顔つきは尋常ではなく、今にも発狂しそうな表情であり、頬杖のポーズは憂鬱気質をあらわし、天才の資質である。天才の挫折をあらわすとか、霊感を受けている場面であるとか、いろいろと解釈されているとても難解な絵ようである。そして、この図を眺める者は誰でもそれら象徴物の意味を問わずにはいられないだろうが、それは謎につつまれているかのようである。なお、メランコリアⅠの「Ⅰ」は憂鬱質の第一段階を示すものだと解釈されているらしい。
93969f59.JPG よく観ると絵の右上部に魔方陣ががある。魔方陣というのはn×nの升目に数を入れて縦・横・斜め、何れの和も一定になるようにしたもので、nが3なら三方陣、nが4なら四方陣、nが5なら五方陣と呼ぶ。用いる数はふつう1からnの二乗の自然数である。この「メランコリアⅠ」のま方陣では、
横の和  16+3+2+13=5+10+11+8=9+6+7+12=4+15+14+1=34
縦の和  16+5+9+4=3+10+6+15=2+11+7+14=13+8+12+1=34
斜めの和 16+10+7+1=13+11+6+4=34
そればかりでなく、四隅にある数の和、真ん中の4升にある数の和なども34になる。
  16+13+1+4= 10+11+7+6=3+2+15+14=5+9+8+12=34
 さらに、縦・横それぞれの真ん中の直線で4等分したそれぞれの枠の4数の和も34になる。
  16+3+10+5=2+13+8+11=9+6+15+4=7+12+1+14=34
 魔方陣はこうした神秘的な性質を持っているため、昔は占星術の対象になったこともある。
1cfd5d56.JPG
ecd63c6d.JPG Heinrich Cornelius Agrippa (ハインリヒ・コルネリウス・アグリッパ)という人は、3次から9次までの魔方陣を作り、それを7つの惑星に結びつけていた。当時は月と太陽も惑星扱いだったが、それぞれ3次魔方陣を土星に、4次魔方陣を木星に、5次魔方陣を火星に、6次を太陽に、7次を金星に、8次を水星に、そして9次魔方陣を月に当てはめていたのである。

 メランコリアⅠの魔方陣について赤地で表わした15、14がこの版画が作られた年をあらわしているという。尤も同じ年の5月にDürerの母親が亡くなっているので、それを記したのだいう説もある。そして、和が34であるのは、15+14+5(1514年5月)=34 のように仕組んだというだが、四方陣の1列の和は34に決まっているのでどうもこじつけ臭い。
 四方陣に使われる1から16までの和は136で4列になっているのだ、136を4で割れば34ということになる。なお、1列の和は三方陣では15、五方陣では65、6方陣は111、7方陣は175であるが、一般にn
方陣の場合、等差数列の総和は (初項+末項)×項数÷2 で求まるから、
(1+n²)×n²÷2=n²(n²+1)/2 これを列数nで割って n(n²+1)/2 で求められる。
これを用いる、八方陣の1列の和は 8(8²+1)/2=4×65=260、
 九方陣の1列の和は 9(9²+1)/2=9×41=369 と計算できる。

 春の夜の桃李園の宴  李白
10c1251e.JPG 一体、天地は万物の宿舎とも言うべきものであり、時間は永遠の旅人にも譬えられるであろう。そして、はかない人間の一生は、夢のように取り留めがなく、歓楽に浸れる時間はどれほどあるというのだろう。古人が昼間だけでは飽きたらず、灯火(ともし火)を手に持って夜が明けるまで遊んだのはまことに理由のあるところである。

74b050a6.JPG まして、陽春の候は霞たなびく風景によって、われわれを誘(いざな)い、造物主は文章をわれわれに授けられたのである。かくて一同の者は、桃花(とうか)薫(かお)る園苑(その)に集(つど)い、兄弟の間で開く宴会の楽しさを述べようとしている。弟達は俊秀の誉れ高く、何れも謝恵連に較べられるであろうが、それに引き換え、私の詩歌の才能が、謝霊運に及ばぬのは、慙愧(ざんき)に堪えぬところである。
b48467ab.JPG※ 謝恵連(397~433年) 陽夏(安徽省)の人。南朝宋の詩人で書画にも巧みであった。族兄謝霊運に非常に愛された。
※ 謝霊運(385~433年) 康楽公に封ぜられたので、謝康楽とも呼ばれる。六朝の代表的詩人で、山水詩の開祖として、後代の詩人に大きな影響を及ぼした。

da1d0626.JPG 自然の奥深さをたずねる心が弥増すころ、互いに交わす高尚な談議は、いよいよ佳境にはいってきた。世にも類稀な心嬉しい宴会が進むうちに、花辺りに散り敷き、羽觴(うしょう)は飛び交って、月までが酔い心地であるように思える。もし佳い作品が生まれなければ、一同の杯の進みも遅くなるであろうし、万一、詩が作れないようなことがあれば金谷薗の定めに従って、罰酒三杯を課すであろう。

6c2f635e.JPG
0a18bd8f.JPG
43cf1539.JPG






    念奴嬌(赤壁の懐古) 蘇東坡
 大江は東に流れ
 浪はあらいつくすよ 古のすぐれたる 人物を
 古き塁(とりで)の 西の辺を 人は言う
 これ三国の 周郎が 赤壁なりと
 乱るる岩は 空をつんざき
 逆巻く涛(なみ)は 岸辺をうち
 山なす雪と 飛沫をあこれぞげし
 画にも似たる この山この江
 そのかみの 豪傑いくたりぞ

 想えば かのときの 公瑾は
 小喬をむかえたばかりにて
 かがやく勇姿 たのもしく
 羽扇(はねうちわ)もち 綸巾きて 談笑するうち
 あだなす敵は 煙と消え 灰と滅びぬ
 古き日へと 馳せるわが神(こころ)
 わが髪の はや白みしは
 多情のゆえと 笑わば笑え
 人の世は さながら夢
 酒をそそがなむ 江の月影に

3cadae8f.JPG頭の体操18の回答) 右のように、最後の等式の分子はともに0となり、分母が等しいとはいえない。



 蘇東坡は赤壁賦を作って3ケ月後、冬の赤壁に遊んだ。冬の月夜、水量が少ない江石が露出し凄惨な景色を詠ずる。有韻の句を含んだ詩文の形式、且つ内容は極めて韻律に富み変化のある名文。月夜の美観と懐古の情感が織り成す、叙情的な雰囲気に包まれ然も格調高く誦えあげている。千古の名文と称される由縁がこれらの赤壁賦にある。

     (後)赤壁賦             蘇 東 坡
  是歲十月之望,步自雪堂,將歸於臨皋。二客從予,過黃泥之坂。霜露既降,木葉盡脫,人影在地,仰見明月,顧而樂之,行歌相答。已而歎曰:「有客無酒,有酒無餚,月白風清,如此良夜何!」客曰:「今者薄暮,舉網得魚,巨口細鱗,狀如松江之鱸。顧安所得酒乎?」歸而謀諸婦。婦曰:「我有斗酒,藏之久矣,以待子不時之需。」於是攜酒與魚,復遊於赤壁之下。

 是(こ)の歳(とし)十月の望(ぼう)、雪堂(せつどう)より歩(ほ)して、將(まさ)に臨皐(りんこう)に歸らんとす。二客(にかく)予に從ひて黄泥(こうでい)の坂を過ぐ。霜露(そうろ)既に降(くだ)り、木葉(ぼくよう)盡(ことごと)く脱す。人影(じんえい)地に在り、仰いで明月を見る。顧(かえり)みて之(これ)を樂しみ、行(ゆくゆく)歌うて相答(あいこた)ふ。已(すで)にして歎じて曰はく、「客(かく)有れども、酒無し、酒有れども肴(さかな)無し。月白く風淸し。此の良夜(りょうや)を如何(いかん)せん」と。客(かく)曰はく、「今者(きょう)の薄暮(はくぼ)に、網を擧げて魚(うお)を得たり。巨口細鱗(きょこうさいりん)にして、状(かたち)松江(しょうこう)の鱸(すずき)の如し。顧(おも)ふに安(いず)くにか酒を得(う)る所あらんや」と。歸りて諸(これ)を婦(ふ)に謀(はか)る。婦(ふ)曰はく、「我に斗酒(としゅ)有り。之を藏すること久し。以て子(し)の不時の需(もとめ)を待つ」と。是(ここ)に於て、酒と魚(うお)とを攜(たずさ)へ、復(ま)た赤壁の下(もと)に遊ぶ。

e00035b7.JPG この歳の十月、望月の日、雪堂から徒歩で臨皐亭に帰ろうとして、二人の友人と一緒に、黄泥の坂にさしかかった。霜や露がもう降りて、木の葉はすっかり散り果てている。人の影が地面に映るので、ふり仰いで名月を確かめ、互いに見交わして喜びあい、歩みつつ歌をうたって唱和した。/暫くして私は溜息を洩らす。「友だちがいるのに酒はなく、酒は何とかなっても肴がない。月が白く冴え風が爽やかに亙る、この素晴らしい夜もこれじゃ台無しだ」。/友が言う。「今日の夕暮れ、網をあげたら魚がかかっていました。大きな口に細かな鱗、姿はまるであの松江の鱸(すずき)です。ところで、酒はどこで手に入れたものですかな」。帰って女房に相談すると、「妾(あたし)のところに一斗ばかりの酒があります。ずっと前から仕舞ってあるのです。あなたが急にお求めになることがあるかもしれないと思っておりました」。そこで、酒と魚を引っ提げて、またも赤壁の下に遊んだのだ。

  江流有聲,斷岸千尺;山高月小,水落石出。曾日月之幾何,而江山不可復識矣。予乃攝衣而上,履巉巖,披蒙茸,踞虎豹,登虯龍,攀棲鶻之危巢,俯馮夷之幽宮。葢二客不能從焉。劃然長嘯,草木震動,山鳴谷應,風起水湧。予亦悄然而悲,肅然而恐,凜乎其不可留也。反而登舟,放乎中流,聽其所止而休焉。

 江流(こうりゅう)聲有り、斷岸(だんがん)千尺。山高く月小に、水落ちて石出(い)づ。曾(かつ)て日月(じつげつ)の幾何(いくばく)ぞや。而(しこう)して江山(こうざん)復た識(し)るべからず。予乃(すなわ)ち衣(ころも)を攝(かか)げて上(のぼ)り、巉巖(ざんがん)を履(ふ)み、蒙茸(もうじょう)を披(ひら)き、虎豹(こひょう)に踞(うずくま)り、虬龍(きゅうりょう)に登り、棲鶻(せいこつ)の危巣(きそう)を攀(よ)ぢ、馮夷(ひょうい)の幽宮(ゆうきゅう)に俯す。蓋(けだ)し二客(にかく)は之(こ)れ從ふ能(あた)はず。劃然(かくぜん)として長嘯(ちょうしょう)すれば、草木震動し、山鳴り谷應(こた)へ、風起り水涌(わ)く。予も亦悄然(しょうぜん)として悲しみ、肅然(しゅくぜん)として恐れ、凜乎(りんこ)として其れ留(とど)まるべからざるなり。反(かえ)りて舟に登り、中流に放ち、其の止(とど)まる所に聽(まか)せて休(いこ)ふ。

9330283c.JPG 長江は水音を立てて流れ、切り立った崖は千尺、山は高く聳えて、月は小さく見え、水は枯れて岩石がごつごつと突出している。さてもあの日からどれだけの月日が流れたのか、江も山もまるで見覚えがないとは。わたしはそこで裾を絡(から)げて岸に上がり、切り立つ岩を踏みしめ、からまり茂る草叢に分け入り、虎や豹に見紛う岩に蹲り、虬(みずち)や竜に似た古木にのぼって、隼の高みに懸けた巣に攀じ登り、水神馮夷の水底にひそけき宮殿を見降ろした。もはや二人の友人も就いてこれないようだ。空を切り裂くように口笛を吹いてみると、草木は震え、山と谷は共鳴して、風が巻き起り流れは涌き返った。私も又もう声も立てられなくなって悲しみに襲われ、ぞくっとして恐怖を覚えた。寒気がひしと身にしみて、もはやとどまり得ないまでになった。引き返して舟に乗り、流れの中程に漂わせて、行き先は舟に任せ、そのまま休息した。

 時夜將半,四顧寂寥。適有孤鶴,橫江東來。翅如車輪,玄裳縞衣,戛然長鳴,掠予舟而西也。須臾客去,予亦就睡。夢一道士,羽衣蹁躚,過臨皋之下,揖予而言曰:「赤壁之遊樂乎?」問其姓名,俛而不答。「嗚呼!噫嘻!我知之矣。疇昔之夜,飛鳴而過我者,非子也耶?」道士顧笑,予亦驚寤。開戶視之,不見其處。

 時に夜(よ)は將(まさ)に半(なかば)ならんとし、四顧すれば寂寥(せきりょう)たり。適(たまたま)孤鶴(こかく)有り、江(こう)を横ぎりて東より來(きた)る。翅(つばさ)は車輪の如く、玄裳縞衣(げんしょうこうい)、戛然(かつぜん)として長鳴(ちょうめい)し、予が舟を掠(かす)めて西せり。須臾(しゅゆ)にして客(かく)去り、予も亦睡(ねむり)に就く。一道士を夢む。羽衣翩躚(ういへんせん)として、臨皐(りんこう)の下(もと)を過ぎ、予に揖(ゆう)して言ひて曰はく、「赤壁の遊び樂しかりしか」と。其の姓名を問へば、俛(ふ)して答へず。「嗚呼(ああ)噫嘻(ああ)、我之(これ)を知れり。疇昔(ちゅうせき)の夜(よる)、飛鳴(ひめい)して我を過(よぎ)りし者は、子(し)に非ずや」。道士顧(かえり)みて笑ふ。予も亦驚き悟(さ)め、戸を開きて之(これ)を視るも、其の處(ところ)を見ず。

a957da9f.JPG 時に真夜中近く、辺りはひっそりと静まり返っていた。ちょうどそのとき、一羽の鶴が江をわたって東から飛んできた。つばさは車輪のように大きく、黒い袴・白い上着の姿で、クゥアと声を引いて鳴き、私の舟をかすめて西のかなたに飛び去った。まもなく友人たちは帰り、私も眠りに就いた。独りの道士を夢に見た。身に付けた羽衣をひらひらさせて、臨皐亭の近くを通りかかって、わたしに会釈をし、「赤壁の遊びは楽しかったですか」と尋ねる。名前を問うたが、俯(うつむ)いたまま答えてくれない。「ああ、そうだったのですね。夕べ、鳴きながら私の所を飛んで行かれたのはあなたでしょう」と問いかけたが、道士は振り返って微笑み返しただけ。私もはっと夢からさめた。戸を開けて探してみたが、その姿は何処にもなかった。


5f756483.JPG 頭の体操18) 左の証明はどこかおかしんだよなあ。さあ、何処が間違っているのだろう? 見つけ出してくれたまえ。
 


 

  (前)赤壁賦      蘇軾
壬戌之秋、七月既望、蘇子与客泛舟、遊於赤壁之下。
 壬戌(じんじゅつ)の秋、七月の既望(きぼう)、蘇子 客と舟を泛(うか)べて、赤壁の下に遊ぶ。
清風徐来、水波不興。
 清風徐(おもむ)ろに来たって、水波興(おこ)らず。
挙酒属客、誦明月之詩、歌窈窕之章。
 酒を挙げて客に属(つ)ぎ、明月の詩を誦し、窈窕(ようちょう)の章を歌う。
少焉、月出於東山之上、徘徊於斗牛之間。
 少焉(しばらく)にして、月 東山の上より出で、斗牛の間に徘徊す。
白露横江、水光接天。
 白露(はくろ)江に横たわり、水光天(こうてん)に接す。
縦一葦之所如、凌萬頃之茫然。
 一葦の如(ゆ)く所を縦(ほしいまま)にして、万頃(ばんけい)の茫然たるを凌ぐ。
浩浩乎、如馮虚御風、而不知其所止。
 浩浩乎(こ)として、虚を馮(よ)り風を御し、其の止まる所を知らざるが如し。
飄飄乎、如遺世独立、羽化而登仙。
 飄飄(ひょうひょう)乎(こ)として、世を遺(わす)れて独り立ち、羽化して登仙するが如し。
於是、飲酒楽甚。
 是に於て、酒を飲んで楽しむこと甚だし。
扣舷而歌之。
 舷(ふなばた)を扣(たた)いて之を歌う。
歌曰、「
 歌に曰く、
桂櫂兮蘭槳、撃空明泝流光。
 桂の櫂(さお) 蘭の槳(かい)、空明に撃ちて流光に泝(さかのぼ)る。
渺渺兮予懐、望美人兮天一方。」
 渺渺たり 予が懐い、美人を天の一方に望む。

c05a12a4.JPG 壬戌の年(元亀5年、1082年)の秋、7月の十六夜(いざよい)の日、客と舟を泛(うか)べて赤壁(せきへき)の下(もと)に遊ぶ。涼風は静かに吹き、川波一つ立たぬ。酒盃をあげて客に勧め、「明月」の詩を吟じ、「窈窕」の一節を詠う。やがて、月が東の山の端から昇り、北斗と牽牛の間をたゆたう。純白の水玉が大江(おおかわ)一面に広がり、水の輝きは彼方の空へとつながる。葦一葉のごとき舟の進むに任せ、川のおもての果てしなき広がりを切ってゆく。その洋々としたさまは、あたかも虚空をふみ風にまたがり、とどまる所を知らぬが如く、その飄々としたさまは、さながら俗世を忘れてただ一人立ち、羽根が生えて仙界に昇るかのごとくである。/かくして飲酒の楽しさはきわまり、舟べりをたたいて謡う。その歌は「桂(かつら)の櫂(さお)、蘭(もくれん)の槳(かい)。溯るは光降る流れ。はるかにもはるかなる我が懐(おも)い、天の彼方に佳き人を偲ぶ」

客有吹洞簫者。
 客に洞簫を吹く者有り。
倚歌而和之。
 歌に倚って之に和す。
其声嗚嗚然、如怨如慕、如泣如訴
 其の声嗚嗚然として、怨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴うるが如し。
余音嫋嫋、不絶如縷。
 余音嫋嫋として、絶えざること縷の如し。
舞幽壑之潜蛟、泣孤舟之嫠婦。
幽壑の潜蛟を舞わしめ、孤舟の嫠婦を泣かしむ。

 洞蕭(どうしょう)の巧みな客が、私の歌にに合わせて吹く。その音色はおろろと恨むが如く慕うが如く、泣くが如く訴売るが如く、その余韻はかぼそくおぼそく、一筋の糸の如く絶えることなく後を引く。この音(ね)には、かの深い谷あいに潜む蛟(みずち)も舞い、放れ小舟の寡婦(やもめ)も涙するであろう。

蘇子愀然正襟、危坐而問客曰、「何為其然也。」
 蘇子 愀然として襟を正し、危坐して客に問うて曰く、何為れぞ其れ然るや。
客曰、「
 客の曰く、
月明星稀、烏鵲南飛、此非曹孟徳之詩乎。
 月明らかに星稀れに、烏鵲南に飛ぶ、此れ曹孟徳の詩に非ずや。
西望夏口、東望武昌、山川相繆鬱乎蒼蒼。
 西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相い繆(まと)い鬱ことして蒼蒼たり。
此非孟徳之困於周郎者乎
 此れ孟徳の周郎に困(くる)しめられし者(ところ)に非ずや。
方其破荊州、下江陵、順流而東也、舳艫千里、旌旗蔽空。
 其の荊州を破り、江陵を下り、流れに順いて東するに方(あた)りてや、軸艫千里、旌旗(せいき)空を蔽う。
釃酒臨江、横槊賦詩。
 酒を釃(した)みて江に臨み、槊(ほこ)を横たえて詩を賦すは
固一世之雄也。
 固(まこと)に一世の雄なり。
而今安在哉。
 而して今安(いず)くに在りや。
況吾与子、漁樵於江渚之上、侶魚鰕而友麋鹿、
 況んや 吾れと子とは、江渚の上に漁樵し、魚鰕を侶として麋鹿を友とし、
駕一葉之扁舟、挙匏樽、相屬、寄蜉蝣於天地、渺滄海之一粟。
 一葉の扁舟に駕し、匏尊を挙げて、相属(つ)ぎて、蜉蝣を天地に寄す、眇たる滄海の一粟なるをや。
哀吾生之須臾、羨長江之無窮。
 吾が生の須臾(しゅゆ)なるを哀しみ、長江の無窮を羨む。
挟飛仙以遨遊、抱明月而長終
 飛仙を挟んで以て遨遊し、明月を抱いて長(とこし)えに終ゆ。
知不可乎驟得、託遺響於悲風。」
 驟(にわ)かには得べからざるを知って、遺響を悲風に託す。

1698e148.JPG 私ははっとして、襟を正して坐りなおし、客に問いかける、「なぜこうした気持ちになるのか?」と。客はいう、「『月 明らかに星はまばらに烏鵲(かささぎ)南へと跳ぶ』これはたしか曹孟徳(魏の曹操、155~220年)の詩。西の方(かた)夏口(かこう、湖北省漢口市)を望み、東の方武昌(湖北省鄂城県)を望めば、山川は相連なり、深々と樹々の緑の茂るところ、そこはたしか曹操が呉(ご)の若武者 周瑜(しゅうゆ、175~210年)に苦しめられた所。曹操が荊州(江陵を中心とする湖北省一帯)の劉氏を破り、江陵を下し、長江の流れにのって東(赤壁の方)に下ったとき、船隊は千里も続き、旗さしものは空を覆うばかり、酒を注いで長江の畔に神を祭り、矛を横ざまに抱えつつ詩を詠んだ、その時の彼はまこと一代の英雄であった。その彼も、今はどこにいるというのか。まして私と君とは、長江の岸辺で漁業(すなどり)や樵(きこり)をし、魚を仲間に鹿を友としつつ、一葉の小舟に乗って瓢(ひさご)の徳利を勧め合っている。蜉蝣(かげろう)の天地に身を寄せるがごとき、また米粒の大海に浮かぶにも似たささやかな身の上。わが生のはかなさが悲しく、長江の果てしなさが羨ましい。空翔(かけ)る仙人の遊びを我が物とし、明月を抱いて常しえに永らえようにも、願いは俄かに叶うはずもなし。悲しい秋風に乗せ、心の名残を笛の響きに托しただけ」と。

蘇子曰、「
 蘇子曰く、
客亦知夫水与月乎。
 客も亦夫の水と月を知る乎。
逝者如斯、而未嘗往也。
 逝く者は斯くの如くにして、未だ嘗て往かざるなり。
盈虚者如彼、而卒莫消長也。
 盈虚(えいきょ)する者は彼くの如くにして、卒に消長する莫きなり。
蓋将自其変者而観之、則天地曾不能以一瞬。
 蓋し将た其の変ずる者より之を観れば、則ち天地も曾て以て一瞬たる能わず。
自其不変者而観之、則物与我皆無尽也。
 其の変ぜざる者より之を観れば、則ち物も我れも皆尽きること無き也。
而又何羨乎。
 又何をか羨まんや。
且夫天地之間、物各有主。
 且夫れ天地の間、物各主有り
苟非吾之所有、雖一毫而莫取。
 荀も吾れの有する所に非れば、一毫と雖も取ること莫し。
惟江上之清風、与山間之明月、耳得之而為声、目遇之而成色。
 惟だ江上の清風と、山間の明月とは、耳之を得れば声を為し、目之に遇えば色を成す。
取之無禁、用之不竭。
 之を取れども禁無く、之れを用いても竭(つ)きず。
是造物者之無尽蔵也。
 是れ造物者の無尽蔵也。
而吾与子之所共適。」
 而して吾れと子と共に適する所なり。
客喜而笑、洗盞更酌。
 客喜んで笑い、盞(さかずき)を洗いて更に酌む。
肴核既尽杯盤狼藉。
 肴核既に尽て杯盤狼籍たり。
相与枕藉乎舟中、不知東方之既白。
 相共に舟中に枕藉して、東方の既に白むを知らず。

8f01d922.JPG 私は言った。「君もかの水と月のことはご存知のはず。川の水は『逝くものはかくの如し』といわれながら、尽き果てたことはついぞない。月は満ち欠けはするが、つまるとこと増え減りはせず。変化という点から見れば、天地は一瞬の間もそのままでは有り得ず、不変という点から見れば物もわれもすべて尽き果てることはない。さればなにを羨むことがあろう。まして天地の間では、物それぞれに持ち主があり、おのれの物でなければ、毛の一本も取るわけにはいかぬが、ただ長江の畔の涼風と、山間(やまあい)の明月だけは、耳に触れれば爽やかな響きを得、目に遇えば美しい色となり、いくら取っても禁じられることはなく、いくら使っても尽きることはない。これこそ造物主の『無尽蔵』、我人ともに享受できるもの」/客は喜び、微笑んで、酒杯を洗ってあらためて酌む。肴や果物もはや尽き、杯や皿は散らかったまま。舟の中で、たがいに体を借りて枕とし、東の空が白み始めたのも、気付かずにいた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/