「南風競わず」
書生達は彼が子供であるのを侮っていった。
「この坊っちゃんは、管の中から豹を覗いているのだよ。偶に斑の一つを見つけるだけだ」
すると王子敬は目を剥いて言った。
「遠くは荀奉倩(じゅんほうせん)を辱め、近くは劉真長(りゅうしんちょう)を辱めるものだ」
そのまま衣を払って立ち去った。
▼荀奉倩、劉真長はともに早熟の天才として知られた。
世説新語 黜免篇第二十八 より
▼桓公とは桓温(312~373年)のこと。字を元子、譙国(しょうこく)の人。庾翼(ゆよく、305~345年、東晋の大臣)の後を受けて荊州刺史となった。北方征伐に成功し、その軍事的成功によって東晋王国唯一の実力者となり、王位簒奪の寸前に病死した。
晴れた空の下に広がる霞 長く垂れた柳の糸
別離の情に酌み交わす酒の酔いもまわるのは半ばほど
しかも玉の鞭をあげて雲のかなたをさせば
断腸の思いをそそる春景色が江南の地を覆っている
▼韋荘(836~910年)は杜陵(長安郊外)の人。科挙に落第を続け、昭帝の乾寧元(894)年に漸く及第し、校書郎に任ぜられた。当時四川省に居た王建が反乱を起こしたので、朝廷では宣撫の使者を送り、荘もその一員として随行したが、そのまま王建に仕えて、建が後蜀王朝を樹立するのに協力し、その宰相となった。
東白鬚公園の花壇ではアヤメが真っ盛り。
水神大橋を渡って、白鬚橋に向って南下する。柳の大樹が朝日に照らされて靡いている。
劉禹錫〈772~842年〉は中国、中唐期の詩人。中山(河北省)の人という。字(あざな)は夢得(ぼうとく)。柳宗元・白居易と親しく詩を応酬し、「劉柳」「劉白」と称された。民間で歌われていた「竹枝詞」などを文学作品に高めたことで知られる。
数本楊柳は春の思いに耐えかねている
日暮れとともに風が起こり 柳絮は雪のよう
築地の中に舞い込むけれど 昔の人の姿はない
テラスに降りると、テラスに沿う土手には一面にクローバーの白い花が敷き詰められている。
孔 融(こう ゆう、153~208年)と言う人は、中国後漢末期の人で、字は文擧。孔子20世の孫に当たるという。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。二人の子があったというがその名は不詳。時の権力者曹操は日頃から直言居士な孔融を嫌悪していた。南方への遠征を目前の建安13(208)年、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、孔融は妻子ともども処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。曹操が聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。
すると小さいのが答えた。「盗人がお辞儀などするものか」
5.孔融(孔文擧)が捕えられ、朝廷の内外とも恐れおののいた。そのとき孔融の子の大きいほうは九歳、小さいほうは八歳であった。琢釘(釘刺し)の遊びを続けていて、すこしも慌てる様子がなかった。
孔融は逮捕の令を受けてきた使者にに向っていった。
「罪は自分の身だけに止めて欲しいものだ。この二人の子は助けてもらえるものだろうか」
すると、その子は静かに歩み寄って言った。
「鳥の巣がひっくり返されているのに、卵だけが潰されずに残ることがあるでしょうか」
やがて二人の子を捕えるための使者が遣ってきた。
春夜 雨を喜ぶ 杜甫
好雨〈かうう〉 時節を知り、
春に當たりて 乃〈すなは〉ち發生す。
風に隨〈したが〉ひて 潛〈ひそ〉かに 夜〈よ〉に入〈い〉り、
物を潤〈うるほ〉して 細〈こま〉やかにして 聲なし。
野徑 (やけい) 雲 倶(とも)に黑く、
江船(かうせん) 火 獨(ひと)り明らかなり。
曉(あかつき)に 紅(くれなゐ)の濕れる處を 看れば、
花は 錦官城(きんくゎんじゃう)に 重(おも)からん。
〈訳〉
好い雨は降るべき時節を心得ていて、
春の時をはずすことなく すべてを甦らす。
風に吹かれて ひそかに夜の中にまぎれこみ、
こまやかに音もなく ものを潤している。
野の小道は 雲と同じように黒々として、
江を行く船の 灯だけが明るい。
夜が明けて紅で霞んでいるところを見ると、
錦官城の花もしっとり濡れて重たげである。
農家の人々にとっては種を蒔こうか、苗を植えようかと思っている夜、また種を蒔いたり苗を植えたりした日の夜にしとしと降ってくれる雨は本当に天の恵みを実感させるものなのだろう。それは「しとしと」でなくてはならない。ザアーッと激しく降ったのでは種なんか流れてしまい、か弱い苗は雨で倒れて泥だらけになってしまう。
今朝はすっかり寝坊をやらかし、目が覚めたときは5時を過ぎていた。いつの間にか雨も止んでいたので、雨上がりの隅田川を一巡してきた。
此処2日間の雨は恵の雨と思っていたが、西日本では思いもよらぬ豪雨であったらしい。まあ、今の日本は踏んだり蹴ったり、「災害日本」の名を恣(ほしいまま)にしている。今朝のウェブニュースより
<日テレNEWS 2011年5月12日 20:59 >
華歆と王朗
華歆(か きん、永寿3(157)~太和5(231)年)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての政治家。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。字は子魚。諡は敬。魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝(曹操)はこれを賞したという。
王 朗(おう ろう、?- 太和2(228)年)は、中国、後漢末から三国時代の政治家。徐州東海郡郯県(現/江蘇省連雲港市東海県)の人。字は景興。子に王粛。曹操の没後には華歆と共に曹丕に仕え、曹丕が魏王になった後は御史大夫、安陵亭侯となった。王朗は上奏し民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう述べた。
ある人が張華にこのことを話したところ、張華は言った。
「王朗が華歆の真似をするのは、すべて外形の末ばかりだ。それでは華歆からいよいよ遠ざかるばかりだよ」
13. 華歆と王朗とが、いっしょに舟に乗って戦乱を避けたことがある。そのとき一人の男が道連れにしてくれと頼んだ。華歆はこれに難色を示したが、王朗は「さいわい、まだ余裕があるから、何も断わる必要はあるまい」と言って、乗せてやった。
その後賊兵が追いつきそうになったとき、王朗はその道連れの男を見捨てようとしたが、そのとき華歆が云った。
「初め私が躊躇ったのは、こういうことになりはしないかと心配していたからだ。だが、一度その頼みを許した以上、危急だからといって見棄てる事はできないではないか」
そこでそのままその男を道連れにしてやった。世間はこのことによって華歆と王朗との人物の優劣を定めるようになった。
本日は雨。爺婆の52回目の結婚記念日である。わが婆様こそほんに「糟糠の妻」で、若いときから苦労ばかりかけてきて、未だに貧乏そのもの。その上、遣り繰りはみんな婆様任せ、面と向っては言えないが、ほんに御免なさいね。後漢書の「宋弘列伝」を読む。
宋弘、字は仲子。京兆(陝西省)長安県の人である。父の宋尚は、前漢成帝の時(BC32~37年)、少府(九卿の一つ、天子の給養を司る)にまでなった。哀帝(BC6~1年、在位)が立つと、董賢(男色で哀帝に寵せられ大臣となる)に諂わなかったため、機嫌を損ね罪に陥った。/宋弘は若い頃から温順であった。哀帝・平帝の間(BC6~AD5年)に侍中(侍従)となり、王莽の時には共工(少府を王莽が改名した)となった。/赤眉が長安に入ると(25年)、使者を派遣して弘を召した。弘は強制されて逃げ切れない。連れられて渭橋(長安城北の橋)にさしかかった時、川へ身を投げた。家の者が救い上げたが、そのまま死んだふりをして赤眉から免れることが出来た。
光武帝が即位すると、召されて太中大夫(宮中顧問官)に任ぜられた。建武二(26)年には、王梁に代わって大司空(三公の一、前漢の御史大夫すなわち副丞相に当たる)となり、栒邑侯に封ぜられた。俸給や所領からの租税のあがりはすべて一族郎党に分け与え、家には何の貯えもない。行いの清潔なことで有名である。宣平侯に国替えになった。
光武帝は或る時、弘に誰が博学であるかを問うた。弘は答えた、「沛国(江蘇省)の桓譚はあらゆる学問に通暁しており、殆んど楊雄・劉向父子(いずれも前漢末の学者、向の子は歆)に追いつくくらいであります。」/帝はそこで譚を召し、議郎給侍(論議を司り、宮中に詰める、六百石)に任じた。帝は宴会するたび、譚に琴を弾かせる。それも技巧の勝った曲を好む。弘はそれを聞いて不快に思い、譚を推挙したことを後悔した。譚が宮中から退出する時を見計らって、礼服に身を固め、役所に坐り、役人を遣って譚を呼ばせた。譚がやって来る。立たせたまま譚を責めていう、「わしがそちを薦めたのは、道徳でもって天子を補佐させるためである。それを今、たびたび淫らな音楽をお聞かせして、古来の正しい音楽を乱しおる。それでは忠臣といえぬ。改心するか? それとも法によって裁かせようか?」/譚は頭を地にこすり付けて詫びた。暫くしてやっと放免してやった。その後、群臣を集めての大宴会がある。帝は譚に琴を弾けという。譚は宋弘を見て取り乱した。帝は怪しんで理由を問う。宋弘はそこで蓆から滑り降りて、冠を脱ぎ、詫びていった、「私が桓譚を薦めましたのは、正しい誠で主君を善導できようと思ってのことでありました。しかるに譚のために陛下が淫らな音楽にお耽りになる羽目に立ち至りました。これは私の罪でございます」/帝は居住まいを正して詫び、宋弘に冠を被れといった。その後、帝は再び譚を宮中で召し使うことはなかった。宋弘は馮翊(陝西省)の桓梁らすぐれた士を三十人余りも推挙したが、そのうち相次いで公卿になったものがある。
弘が帝の寛いでいる時に目通りした。御座の背後に新しい屏風があり、歴代のすぐれた女性の肖像が描かれている。帝は何度も振り返ってそれを見る。弘は顔を引き締めて言った、「われいまだ徳を好むこと色を好むが如くなる者を見ず(『論語』子罕の句をそのまま用いた)」/帝は即座に屏風を片付けさせ、笑いながら弘に言った、「『義を聞けば服す』(『管子』弟子職)。これならよかろう?」/弘「陛下が『徳にに進み』(『易』乾卦)給うたこと、私としては喜びに耐えませぬ」
当時、帝の姉の湖陽公主(公主は内親王の称号)が夫を亡くしたばかりである。帝は公主とともに朝臣を品評した。その意向をそれとなく探るつもりである。/公主「宋さまは風采といい、器といい、ご家来衆で及ぶ者はございませんわ」/帝「それならそのうちあたってみよう」/その後、弘は引見された。帝は公主を屏風の蔭に坐らせておいて、弘に言った、「諺に『貴くなれば交を易え、富めば妻を易える』というが、これが人情というものかな?」/弘「私はかように聞いております。『貧賤の知(知友)は忘るべからず。糟糠の妻は堂より下さず(麬や糠を食べて苦労をともにした妻は座敷から下にも置かず大切にする)』と」/帝は後ろを振り向くと、公主に声を掛けた、「あの話はできぬわい」
弘は在職五年、上党郡(山西省)太守を告発したのが無実であったため、罷免されて家に帰った。数年で亡くなった。子が無かったため、所領は召し上げられた。
朝4時30分、まだ薄暗くどうやら曇り空。少々風が強かったが桜橋からテラスを南下、吾妻橋を渡り、向島テラスを白鬚橋まで北上。白鬚橋を渡って帰宅した。
向島のテラスにはヒメジョオン(姫女菀)やエノコログサが所狭しと繁茂している。
エノコログサの由来は「いぬころ草」の意味であり、穂の形が子犬の尻尾に似ているからであるという。ネコジャラシと呼ばれることも多く、この穂で猫をじゃれさして遊んだことに由来するのだろう。
躑躅の生けこみの向こうに白鬚橋が見え、吹く風は生暖かい。もう夏の兆しが見える。
白鬚橋をわたり、橋場の遊歩道に入ったところに薔薇がが咲いている。近寄ってカメラを向けるとなんともいえぬ香りが漂ってくる。
古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはウェヌス(ヴィーナス)と関係づけられた。また香りを愛好され、香油も作られた。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛好し、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。
「薔薇」という漢字は、音読みで「そうび」「しょうび」と読まれてた。漢字の「薔薇」は墻靡(垣根にまとわりつくという意味)の当て字といわれている。
山荘の夏 高駢
緑の木々が濃い陰を作って夏の昼は長い
楼台はさかさまに池の上へと影を落としている
水晶の簾を動かして微風(そよかぜ)が起こるとき
垣一面の薔薇の花 香りが庭に満ち渡る
高駢(こうべん):晩唐の詩人。字は千里。幽州(現・河北省)の人。武術に優れた軍事指導者でもあり、184年、黄巾(こうきん)の賊を討って功を挙げたが、後、部下に殺されたという。
昨日は5月の第2日曜日、『母の日』なんだそうだ。何でもかでもアメリカさんの真似をする日本人、カーネーションを贈るのもアメリカさんの物まねらしい。悪いことではないから、目をつぶることにしよう。まあ、爺も母の日に因んで、後漢書から中国版「養老の滝」=「涌泉躍鯉」を紹介しよう。
広漢郡(四川省)の姜詩の妻は、同郡の龐盛の娘である。姜詩は母に対して至って親孝行であった。妻はとりわけこの姑によく仕えた。/姑は大川の水を飲みたがる。川は家から六、七里(1里は0.4km)離れている。妻はいつも流れを遡って水を汲んだ。その後の或る日、大風が吹いて、すぐには汲めぬまま引き返した。姑は喉を渇かした。姜詩は妻を叱って追い出した。/すると妻は隣の家に泊めてもらい、昼も夜も糸を紡ぎ、その金で珍しいご馳走を買っては、その家の婆様に頼んで、その婆様からということにして姑に届けてもらった。そうしたことが暫く続く。姑は怪しんで隣の婆様に問う。婆様は委細を打ち明けた。姑は感じ入り恥じて嫁を呼び戻した。妻はいよいよ気をつけて姑に尽くした。/その後、わが子が遠くに水汲みに行ったところ、溺れ死んだ。妻は姑が悲しんでがっかりしはせぬかと気遣い、事実を言わず、遠くに遊学に出たといいくるめた。/姑は魚の刺身が好きである。さりとて自分ひとりで食べることも嫌いである。夫婦はいつも精出して働いては刺身を買い、隣の婆様を呼んで姑と一緒に食べさせた。家のわきに突然泉が湧き出した。泉の味は揚子江の水のようで、毎朝かならず二匹の鯉を出す。いつもそれを二人の婆様の膳につけた。/赤眉(王莽に抗して起こった流賊)の残党が姜詩の村を通りかかったが、刃を鞘に収めてそのまま通過した。「大の孝行者を驚かしては、きっと鬼神の祟りがあろう」というのである。当時は飢饉であった。賊は遂に姜詩に米と肉を贈った。詩は受け取ったが、食わずに埋めた。近隣の部落は姜詩のお蔭で無事であった。/永平三(AD60)年、詩は孝廉(登用の一資格)に推薦された。明帝は詔勅を下してこう言った。「大孝の人がわが朝廷に入った。同時に推挙されたものはすべて右に倣って採用を許す」 これでみな郎中(宿営の官)に任ぜられた。姜詩は次いで江陽(四川省濾県)の県令に任ぜられ、任地で亡くなった。詩のいた地方は良く治まり、里の人は詩のために祠を建てた。
本日のウェブニュースより
角界再生誓い技量審査場所 ―― 大相撲の八百長問題の影響で夏場所に代わって一般に無料公開される技量審査場所が八日、東京・両国国技館で初日を迎えた。約一万一千席の客席はほぼ埋まった。/事前に抽選などで入場券が配られ、当日券は二階椅子席に限り一千席分が用意された。午前八時に配布が始まり、同十時前になくなった。東日本大震災の被災者も宮城、福島から招かれた。/技量審査場所は通常開催を目指す七月の名古屋場所の番付を編成するために開催。協会内部の行事のため優勝や三賞はあるが、賜杯や外部表彰、懸賞はすべて辞退した。NHKは中継を見送った。/放駒理事長(元大関魁傑)は協会あいさつで八百長問題に触れ「今後、根絶と再発防止に取り組み、全力で生まれ変わった日本相撲協会を目指す」と誓った。 (東京新聞、2011年5月9日 朝刊)
今朝のウェブニュースより
焦点:ビンラディン容疑者の殺害、残される適法性の議論 ―― [ニューヨーク 5日 ロイター] 米海軍特殊部隊によるアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害について、オバマ政権は適法だったと主張するが、米国の国際法の専門家たちは、法律上の重要な問題が残されていると指摘する。/2001年9月11日の米同時多発攻撃を受け、米議会は大統領に「武力行使容認決議」などテロ対策で幅広い権限を与えたが、一部専門家の間からは、ビンラディン容疑者の殺害作戦は国際法上の適法性が不明確だとの声が出ている。/米政権がブッシュ時代から最重要指名手配者としていたビンラディン容疑者の殺害を受け、米国内ではオバマ大統領の支持率が急上昇したが、国際社会では今回の米国の行動は行き過ぎではないかとの懸念も浮上している。/ミシガン大学ロースクールのスティーブン・ラトナー教授は「法律問題としては難問だ。多くの問題は、ウサマ・ビンラディンが交戦相手の戦闘員なのか、大量殺人の容疑者なのか、どちらと考えるかにかかっている」と述べた。/オバマ政権が主張するように、米政府がアルカイダと戦争状態にあるという理屈なら、ビンラディン容疑者の殺害は合法だと言えるだろう。/ラトナー教授は「ビンラディン容疑者が銃を持っていたかどうかは問題ではない。戦闘員の殺害は法律的に認められている」と語る。
<複雑な構図>さらにゴンザレス前司法長官も、ビンラディン容疑者が武装していたかどうかは問題ではないと一蹴。「ミサイルを発射したとしよう。ターゲットが武装していたかどうか、われわれは問題にするだろうか」と語った。/一方、ラトナー教授は、ビンラディン容疑者が大量殺人の容疑者だとみなされる場合、米軍の作戦に関する法的解釈は違ったストーリーになってくると指摘。「その枠組み内での行動なら、殺害は容疑者が差し迫った脅威を示した場合にのみ許される」としている。/問題を複雑にしているのは、ビンラディン容疑者が1998年、米大使館爆破事件を共謀したとして、マンハッタン連邦地裁に起訴されたこと。こう語るのは、ノースウェスタン大ロースクールの国際人権センターで所長を務めるデビッド・シェファー氏。「通常は起訴されている個人を捕えるのは、裁きを受けさせるため法廷に連れて行くのが目的。起訴中であるなら、文字通り即座に処刑するのは目的ではない」と指摘する。/作戦を実行した海軍特殊部隊にどういった命令が出されていたのか、ビンラディン容疑者が降伏のためどういう行動をとったかなど、作戦には重要な問題が残されているという点でラトナー教授とシェファー所長の意見は一致している。/シェファー所長は、海軍特殊部隊が身柄拘束ではなく殺害を命じられていたのであれば、国際法上は問題ないとしても、米国の理想には反するのではないかとの疑問を提起。「米国社会の特徴として、少なくとも交戦規則に沿って拘束を命じるのが、米国の価値観にはよりふさわしかったのではないか」と語っている。(ロイター日本語ニュース 執筆:Andrew Longstreth記者、翻訳:宮井伸明、編集:野村宏之) 2011年 05月 6日 16:42 JST
学問をやるだけで科挙の試験を受けないというのなら話は別であるが、学問をやって科挙を受け、科挙を受けるからには及第を願い、及第して仕官し、仕官して昇進するということは、いやしくも道理と道義に反した行いがなければ、どれも不可はないのである。ところが世間には一種の人間があって、仕官して俸禄を得ると、今度は逆に、宮仕えせぬこそ高邁なれとばかり、昂然となって、まるでその官を捨て去りたいみたいな風を見せる。とても本心とは受け取れない。だから彼らの稼ぎ振りと来たら、本来の仕官志望者の場合よりもえげつないほどで、強引にきっかけを作って割り込んだり、あるいは、ことさらにつまらぬ畏を立てて辞めようとして見せたり、そこで留まるでもなく辞めるでもない態度をとって、そのことでしばしばうまく世間の評判をせしめ、やがていい地位を与えられると辞退もせぬ、といったやりくちである。しかも世間は、とんとそこのところに気付かぬままだ。/こういう話がある。ある貧乏書生、饅頭(マントウ)というものを食ったことがない。しかし手に入れる術もない。或日、町でそれを並べて売っている店を見つけると、大声を挙げてぶっ倒れた。店の親父は吃驚して訳を訪ねると、「饅頭がこわい」という。「そんなことがあるものか」と、親父は饅頭百個ばかりを空き部屋に用意して、その男を閉じ込め、そっと外から様子を窺っていたが、ひっそりとしてものおともせぬ。そこで壁に穴を空けて覗いてみると、両手で掴み食いの最中、もう半分以上も平らげている。急いで戸を開けて、その訳を詰ると、男曰く「これを見た途端怖くなくなったよ」騙されたと知って親父おこりだし、「まだ怖いものでもあるんかい」と怒鳴ると、その男曰く、「まだあるよ、お茶二杯がこわいんだ」/こんなのが、仕官せぬことを願う連中の実態でもあろうか。 (中国古典文学大系55 近世随筆集より)
こういう話が伝わるほど、屈原の死は楚の国の人々、やがては広く中国の人々に、後世永く悼まれているのである。
屈原(くつげん)既に放たれて、江潭(こうたん)に游び、行(ゆくゆ) く沢畔(たくはん)に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。漁父(ぎょほ)見て之に問うて曰く、「子は三閭大夫(さんりょたいふ) に非ずや。何の故に斯(ここ) に至れるか」と。屈原曰く、「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。眾人(しゅうじん)皆酔ひ、我独り醒めたり。是を以て放たれたり」と。
漁父曰く、「聖人は物に凝滞(ぎょうたい) せずして、能く世と推移す。世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈(にご) して、其の波を揚げざる。眾人皆酔はば、何ぞ其の糟を餔(くら) ひて、其の釃(しる)を歠(すす) らざる。何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たれしむるを為すや」と。
屈原曰く、「吾之を聞けり。『新たに沐(もく) する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ』と。安んぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶(もんもん) たる者をうけんや。寧ろ湘流に赴いて江魚の腹中に葬らるとも、安んぞ能く晧晧(こうこう) の白きを以てして世俗の塵埃を蒙(こうむ) らんや」と。
漁父莞爾(くわんじ)として笑ひ、枻(えい) を鼓して去る。乃ち歌つて曰く、
滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。
滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯ふべしと。
遂に去つて、復た与に言はず。
漁父 訳
屈原は放逐されて後/江や淵をさまよい/澤のほとりを行きつつ詠っていた/顔色はやつれ/その姿は痩せ衰えていた/漁父がそれを見て尋ねて曰った/貴方は三閭(さんりょ)大夫さまではございませぬか/何でまたこのような処に
屈原は曰った/世間はみな濁っているのに/私ばかりが住んでいた/人々はみな酔っ払っているのに/私ばかりが醒めていた/だからこそ放逐されたのだ
漁父は曰った/聖人は物事に拘らず/世間につれて移るという/世の人がみな濁っていれば/何故ご自分もその泥を掻き濁し/その波を揚げようとされませぬ/衆人がみな酔っていれば/なぜご自分もその糟を喰らい/その糟汁を啜られませぬ/なぜそのように深く考え高尚に振る舞い/みすみす放逐を招かれたのか
屈原は曰った 私はきいている/髪を洗ったばかりの者は必ず冠を弾いてかむり/湯浴みを下ばかりの者は必ず着物を振って着ると/どうして清らかな身体をして/汚塵をこの身に受けられようか/いっそ湘水の流れに身を投げて/魚の餌食になろうとも/どうしてこの潔白な身体に/世俗の塵埃を受けられよう
漁父はにっこりと打ち笑い/船端を叩いて歌って去った/「滄浪の水が澄めば/冠の纓が洗えよう/滄浪の水が濁れば/それで足を洗えばよい」と/そのまま行ってもう語らなかった
sechin@nethome.ne.jp です。
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |