瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 世説新語 方正篇第五 より
6b96f84e.JPG 59 王子敬が数歳のとき、書生たちが樗蒲〈ちょぼ〉をやっているのを見物していたが、勝負あったと見ていった。
 「南風競わず」
 書生達は彼が子供であるのを侮っていった。
 「この坊っちゃんは、管の中から豹を覗いているのだよ。偶に斑の一つを見つけるだけだ」
 すると王子敬は目を剥いて言った。
 「遠くは荀奉倩(じゅんほうせん)を辱め、近くは劉真長(りゅうしんちょう)を辱めるものだ」
 そのまま衣を払って立ち去った。

▼荀奉倩、劉真長はともに早熟の天才として知られた。

 世説新語 黜免篇第二十八 より
89f657c8.JPG 2 桓公が蜀の地に攻め入ろうとして三峡に差し掛かったとき、部隊の兵士のうちに猿の子を捕えたものがあった。その母猿は岸を伝いながら悲しげな声を上げ、百余里を行っても立ち去ろうとしない。しまいには船上に飛び込んできたが、着くと同時に息が絶えた。その腹を割いて中を見ると、腸がみなずたずたに断ち切れていた。桓公はこれを聞いて怒り、その兵士を免職するよう命じた。

 ▼桓公とは桓温(312~373年)のこと。字を元子、譙国(しょうこく)の人。庾翼(ゆよく、305~345年、東晋の大臣)の後を受けて荊州刺史となった。北方征伐に成功し、その軍事的成功によって東晋王国唯一の実力者となり、王位簒奪の寸前に病死した。

efd58bf0.JPG    古離別    韋荘
 晴れた空の下に広がる霞 長く垂れた柳の糸
 別離の情に酌み交わす酒の酔いもまわるのは半ばほど
 しかも玉の鞭をあげて雲のかなたをさせば
 断腸の思いをそそる春景色が江南の地を覆っている

 ▼韋荘(836~910年)は杜陵(長安郊外)の人。科挙に落第を続け、昭帝の乾寧元(894)年に漸く及第し、校書郎に任ぜられた。当時四川省に居た王建が反乱を起こしたので、朝廷では宣撫の使者を送り、荘もその一員として随行したが、そのまま王建に仕えて、建が後蜀王朝を樹立するのに協力し、その宰相となった。

 今朝は、桜橋~水神大橋の間を1周。
 東白鬚公園の花壇ではアヤメが真っ盛り。
1553b8fd.jpg アヤメは山野の草地に生える(特に湿地を好むことはない)という。葉は直立し高さ40~60cm程度。5月ごろに径8cmほどの紫色の花を1~3個付ける。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)には網目模様があるのが特徴で、本種の和名のもとになっているという。奈良時代には中国から渡来した女たち=漢女(あやめ)が朝廷に大勢仕えていたことから、彼女たちが端午の節供に用いた草を「あやめ」と呼ぶようになったと言う説もある。
 水神大橋を渡って、白鬚橋に向って南下する。柳の大樹が朝日に照らされて靡いている。
35dc417b.jpg ヤナギの語源は、「矢篦木」すなわち、弓の矢を作るのに用いる木、さらには成長が著しいところから「いやなが【彌長】」の略転とも、枝が柔らかく撓むところから「やはなえき【柔萎木】」を意味するなど諸説がある。柳は、古来、美人を形容する言葉に用いられることが多い。柳のように細くてしなやかな腰つきを「柳腰」、柳の葉のように細くて美しい眉は「柳眉」、長く美しい頭髪は「柳髪」、しなやかな姿を「柳態」いずれも柳の容姿がしなやかであることから例えられたのであるが、繊細で垂れ下がる枝が微風でそよぐところ、またなよなよしく立つ姿は、いかにも女性的な美しさを見せるようである。

 劉禹錫〈772~842年〉は中国、中唐期の詩人。中山(河北省)の人という。字(あざな)は夢得(ぼうとく)。柳宗元・白居易と親しく詩を応酬し、「劉柳」「劉白」と称された。民間で歌われていた「竹枝詞」などを文学作品に高めたことで知られる。
7dedf32e.JPG 煬帝の行宮は今も汴水のふちに
 数本楊柳は春の思いに耐えかねている
 日暮れとともに風が起こり 柳絮は雪のよう
 築地の中に舞い込むけれど 昔の人の姿はない

 テラスに降りると、テラスに沿う土手には一面にクローバーの白い花が敷き詰められている。
2d1d1e67.jpg クローバーはシロツメグサともいい、漢字表記は、「白詰草」。詰め草の名称は弘化3 (1846) 年にオランダから献上されたガラス製品の包装に緩衝材として詰められていたことに由来するという。日本においては明治時代以降、家畜の飼料用として導入されたものが野生化した帰化植物。根粒菌の作用により窒素を固定することから、地味を豊かにする植物として緑化資材にも用いられている。

 孔 融(こう ゆう、153~208年)と言う人は、中国後漢末期の人で、字は文擧。孔子20世の孫に当たるという。出身地も遠祖の孔子と同じく青州魯国の曲阜県である。父は孔宙、兄は孔襃。二人の子があったというがその名は不詳。時の権力者曹操は日頃から直言居士な孔融を嫌悪していた。南方への遠征を目前の建安13(208)年、孫権の使者に曹操を誹謗中傷する発言をしたという罪で逮捕され、孔融は妻子ともども処刑された。齢56。このために孔融の子孫は途絶えた。曹操が聖人孔子の子孫を殺害したことは、後々まで曹操が非難される理由の一つとなった。

65277347.JPG 4. 孔文擧には二人の子供があり、大きいほうは六歳で、小さいほうは五歳であった(後漢書「孔融伝」では、兄と妹になっている)。ある時父の孔文擧が昼間に寝ていると、小さいほうが父の枕元にあった酒を盗んで飲んだ。大きいほうがこれを見て言った。「何故お辞儀をしてからのまないのだ?」
 すると小さいのが答えた。「盗人がお辞儀などするものか」
 5.孔融(孔文擧)が捕えられ、朝廷の内外とも恐れおののいた。そのとき孔融の子の大きいほうは九歳、小さいほうは八歳であった。琢釘(釘刺し)の遊びを続けていて、すこしも慌てる様子がなかった。
 孔融は逮捕の令を受けてきた使者にに向っていった。
 「罪は自分の身だけに止めて欲しいものだ。この二人の子は助けてもらえるものだろうか」
 すると、その子は静かに歩み寄って言った。
 「鳥の巣がひっくり返されているのに、卵だけが潰されずに残ることがあるでしょうか」
 やがて二人の子を捕えるための使者が遣ってきた。

 昨日は一日中雨。夜になっても止むことなく、雨音を子守唄にいつの間にか眠ってしまった。
e8455950.JPG 〈読み下し〉
 春夜 雨を喜ぶ   杜甫
 好雨〈かうう〉  時節を知り、
 春に當たりて 乃〈すなは〉ち發生す。
 風に隨〈したが〉ひて 潛〈ひそ〉かに 夜〈よ〉に入〈い〉り、
 物を潤〈うるほ〉して 細〈こま〉やかにして 聲なし。
 野徑 (やけい) 雲 倶(とも)に黑く、
 江船(かうせん) 火 獨(ひと)り明らかなり。
 曉(あかつき)に 紅(くれなゐ)の濕れる處を 看れば、
 花は 錦官城(きんくゎんじゃう)に 重(おも)からん。
 〈訳〉
  好い雨は降るべき時節を心得ていて、
  春の時をはずすことなく すべてを甦らす。
  風に吹かれて ひそかに夜の中にまぎれこみ、
  こまやかに音もなく ものを潤している。
  野の小道は 雲と同じように黒々として、
  江を行く船の 灯だけが明るい。
  夜が明けて紅で霞んでいるところを見ると、
  錦官城の花もしっとり濡れて重たげである。

 農家の人々にとっては種を蒔こうか、苗を植えようかと思っている夜、また種を蒔いたり苗を植えたりした日の夜にしとしと降ってくれる雨は本当に天の恵みを実感させるものなのだろう。それは「しとしと」でなくてはならない。ザアーッと激しく降ったのでは種なんか流れてしまい、か弱い苗は雨で倒れて泥だらけになってしまう。

 今朝はすっかり寝坊をやらかし、目が覚めたときは5時を過ぎていた。いつの間にか雨も止んでいたので、雨上がりの隅田川を一巡してきた。
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 此処2日間の雨は恵の雨と思っていたが、西日本では思いもよらぬ豪雨であったらしい。まあ、今の日本は踏んだり蹴ったり、「災害日本」の名を恣(ほしいまま)にしている。今朝のウェブニュースより

5217b7d7.JPG 記録的な大雨で各地に土砂崩れや冠水の被害 ―― 11日は西日本を中心に大雨となったが、関東地方では12日夜にかけてピークを迎える予想となっており、依然、大雨と土砂災害への警戒が続いている。5月としては記録的となった大雨で、各地で土砂崩れや道路が冠水するなどの被害が出た。/日本列島の広範囲に降った大雨で、12日午後4時現在、3日間で5月の観測史上1位となる雨量が147地点で記録されている。今回の大雨は、活発な前線が停滞したことと、12日未明に熱帯低気圧となった台風1号などの影響によるもの。/この大雨で、各地で土砂崩れが発生した。10日の降り始めから多いところで雨量が300ミリを超えた山口県では、山口市と萩市を結ぶ国道262号の山側の土砂が長さ30メートル、高さ20メートルにわたって崩れ、道路を塞いだ。/福井・小浜市にある「国立若狭湾青少年自然の家」では、施設へつながる唯一の県道で土砂崩れが起きて通行止めとなり、体験学習のため、愛知県から来ていた中学生ら308人が孤立状態となった。自然の家によると、全員の無事が確認されており、食料なども十分に確保されているという。/岡山・高梁市では、小見山邦子さん(81)宅の裏山の畑が高さ20メートル、幅7~8メートルにわたって崩れ、家屋に土砂が流れ込んだ。小見山さんは1人暮らしで、土砂崩れ発生時は、土砂が流れ込まなかった隣の部屋にいたため、無事だった。/滋賀・日野町では、佐久良川が増水した影響で橋が陥没。このため、水道管が折れ、周辺の約110棟が断水となる被害が出た。/12日夜から13日朝にかけて、東北の被災地でも大雨のおそれがある。
<日テレNEWS 2011年5月12日 20:59 >

 本日朝から雲が立ちこめ、降るとも降らぬとも判断つかず、お出掛けは止めた。
f5191cd5.JPG 南北朝時代の劉宋の文人、劉義慶(りゅうぎけい、403~444年)撰の『世説新語』を拾い読み。
   華歆と王朗
 華歆(か きん、永寿3(157)~太和5(231)年)は、中国後漢末期から三国時代魏にかけての政治家。平原郡高唐県の人。当初孫策と孫権に仕え、後に魏の重臣となった。字は子魚。諡は敬。魏の諸臣の中でも際だって厚く遇されていたが、自身は清貧に甘んじ、俸禄や恩賞は九族に分け与えていたため、家には僅かの貯えもなかった。あるとき、公卿の全員に官婢が下賜されたことがあったが、華歆は彼女らの身分を解放して、他家に嫁がせてやった。文帝(曹操)はこれを賞したという。
 王 朗(おう ろう、?- 太和2(228)年)は、中国、後漢末から三国時代の政治家。徐州東海郡郯県(現/江蘇省連雲港市東海県)の人。字は景興。子に王粛。曹操の没後には華歆と共に曹丕に仕え、曹丕が魏王になった後は御史大夫、安陵亭侯となった。王朗は上奏し民への恩愛と寛容を第一にする統治を心がけるよう述べた。

a8590d59.JPG12. 王朗はかねがね見識や度量という点で華歆に敬服していた蜡(さ)の祭り〈年越しの祭り〉の日に、華歆はその一族の若者たちを集めて宴会を開くのを例としていたが、王朗もその真似をした。
 ある人が張華にこのことを話したところ、張華は言った。
 「王朗が華歆の真似をするのは、すべて外形の末ばかりだ。それでは華歆からいよいよ遠ざかるばかりだよ」
13. 華歆と王朗とが、いっしょに舟に乗って戦乱を避けたことがある。そのとき一人の男が道連れにしてくれと頼んだ。華歆はこれに難色を示したが、王朗は「さいわい、まだ余裕があるから、何も断わる必要はあるまい」と言って、乗せてやった。
 その後賊兵が追いつきそうになったとき、王朗はその道連れの男を見捨てようとしたが、そのとき華歆が云った。
 「初め私が躊躇ったのは、こういうことになりはしないかと心配していたからだ。だが、一度その頼みを許した以上、危急だからといって見棄てる事はできないではないか」
 そこでそのままその男を道連れにしてやった。世間はこのことによって華歆と王朗との人物の優劣を定めるようになった。

 本日は雨。爺婆の52回目の結婚記念日である。わが婆様こそほんに「糟糠の妻」で、若いときから苦労ばかりかけてきて、未だに貧乏そのもの。その上、遣り繰りはみんな婆様任せ、面と向っては言えないが、ほんに御免なさいね。後漢書の「宋弘列伝」を読む。

f4975f7e.JPG 宋弘、字は仲子。京兆(陝西省)長安県の人である。父の宋尚は、前漢成帝の時(BC32~37年)、少府(九卿の一つ、天子の給養を司る)にまでなった。哀帝(BC6~1年、在位)が立つと、董賢(男色で哀帝に寵せられ大臣となる)に諂わなかったため、機嫌を損ね罪に陥った。/宋弘は若い頃から温順であった。哀帝・平帝の間(BC6~AD5年)に侍中(侍従)となり、王莽の時には共工(少府を王莽が改名した)となった。/赤眉が長安に入ると(25年)、使者を派遣して弘を召した。弘は強制されて逃げ切れない。連れられて渭橋(長安城北の橋)にさしかかった時、川へ身を投げた。家の者が救い上げたが、そのまま死んだふりをして赤眉から免れることが出来た。
光武帝が即位すると、召されて太中大夫(宮中顧問官)に任ぜられた。建武二(26)年には、王梁に代わって大司空(三公の一、前漢の御史大夫すなわち副丞相に当たる)となり、栒邑侯に封ぜられた。俸給や所領からの租税のあがりはすべて一族郎党に分け与え、家には何の貯えもない。行いの清潔なことで有名である。宣平侯に国替えになった。
 光武帝は或る時、弘に誰が博学であるかを問うた。弘は答えた、「沛国(江蘇省)の桓譚はあらゆる学問に通暁しており、殆んど楊雄・劉向父子(いずれも前漢末の学者、向の子は歆)に追いつくくらいであります。」/帝はそこで譚を召し、議郎給侍(論議を司り、宮中に詰める、六百石)に任じた。帝は宴会するたび、譚に琴を弾かせる。それも技巧の勝った曲を好む。弘はそれを聞いて不快に思い、譚を推挙したことを後悔した。譚が宮中から退出する時を見計らって、礼服に身を固め、役所に坐り、役人を遣って譚を呼ばせた。譚がやって来る。立たせたまま譚を責めていう、「わしがそちを薦めたのは、道徳でもって天子を補佐させるためである。それを今、たびたび淫らな音楽をお聞かせして、古来の正しい音楽を乱しおる。それでは忠臣といえぬ。改心するか? それとも法によって裁かせようか?」/譚は頭を地にこすり付けて詫びた。暫くしてやっと放免してやった。その後、群臣を集めての大宴会がある。帝は譚に琴を弾けという。譚は宋弘を見て取り乱した。帝は怪しんで理由を問う。宋弘はそこで蓆から滑り降りて、冠を脱ぎ、詫びていった、「私が桓譚を薦めましたのは、正しい誠で主君を善導できようと思ってのことでありました。しかるに譚のために陛下が淫らな音楽にお耽りになる羽目に立ち至りました。これは私の罪でございます」/帝は居住まいを正して詫び、宋弘に冠を被れといった。その後、帝は再び譚を宮中で召し使うことはなかった。宋弘は馮翊(陝西省)の桓梁らすぐれた士を三十人余りも推挙したが、そのうち相次いで公卿になったものがある。
 弘が帝の寛いでいる時に目通りした。御座の背後に新しい屏風があり、歴代のすぐれた女性の肖像が描かれている。帝は何度も振り返ってそれを見る。弘は顔を引き締めて言った、「われいまだ徳を好むこと色を好むが如くなる者を見ず(『論語』子罕の句をそのまま用いた)」/帝は即座に屏風を片付けさせ、笑いながら弘に言った、「『義を聞けば服す』(『管子』弟子職)。これならよかろう?」/弘「陛下が『徳にに進み』(『易』乾卦)給うたこと、私としては喜びに耐えませぬ」
 当時、帝の姉の湖陽公主(公主は内親王の称号)が夫を亡くしたばかりである。帝は公主とともに朝臣を品評した。その意向をそれとなく探るつもりである。/公主「宋さまは風采といい、器といい、ご家来衆で及ぶ者はございませんわ」/帝「それならそのうちあたってみよう」/その後、弘は引見された。帝は公主を屏風の蔭に坐らせておいて、弘に言った、「諺に『貴くなれば交を易え、富めば妻を易える』というが、これが人情というものかな?」/弘「私はかように聞いております。『貧賤の知(知友)は忘るべからず。糟糠の妻は堂より下さず(麬や糠を食べて苦労をともにした妻は座敷から下にも置かず大切にする)』と」/帝は後ろを振り向くと、公主に声を掛けた、「あの話はできぬわい」
 弘は在職五年、上党郡(山西省)太守を告発したのが無実であったため、罷免されて家に帰った。数年で亡くなった。子が無かったため、所領は召し上げられた。
 

 朝4時30分、まだ薄暗くどうやら曇り空。少々風が強かったが桜橋からテラスを南下、吾妻橋を渡り、向島テラスを白鬚橋まで北上。白鬚橋を渡って帰宅した。
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 向島のテラスにはヒメジョオン(姫女菀)やエノコログサが所狭しと繁茂している。
 エノコログサの由来は「いぬころ草」の意味であり、穂の形が子犬の尻尾に似ているからであるという。ネコジャラシと呼ばれることも多く、この穂で猫をじゃれさして遊んだことに由来するのだろう。
 躑躅の生けこみの向こうに白鬚橋が見え、吹く風は生暖かい。もう夏の兆しが見える。
 白鬚橋をわたり、橋場の遊歩道に入ったところに薔薇がが咲いている。近寄ってカメラを向けるとなんともいえぬ香りが漂ってくる。
0548d2a6.JPG 古代ギリシア・ローマでは、バラは愛の女神アプロディテもしくはウェヌス(ヴィーナス)と関係づけられた。また香りを愛好され、香油も作られた。プトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラはバラを愛好し、ユリウス・カエサルを歓待したときもふんだんにバラの花や香油を使用したと伝えられている。
「薔薇」という漢字は、音読みで「そうび」「しょうび」と読まれてた。漢字の「薔薇」は墻靡(垣根にまとわりつくという意味)の当て字といわれている。

be3fef7f.JPG      山荘の夏   高駢
 緑の木々が濃い陰を作って夏の昼は長い
 楼台はさかさまに池の上へと影を落としている
 水晶の簾を動かして微風(そよかぜ)が起こるとき
 垣一面の薔薇の花 香りが庭に満ち渡る

50ae660b.JPG 高駢(こうべん):晩唐の詩人。字は千里。幽州(現・河北省)の人。武術に優れた軍事指導者でもあり、184年、黄巾(こうきん)の賊を討って功を挙げたが、後、部下に殺されたという。
 
 

 昨日は5月の第2日曜日、『母の日』なんだそうだ。何でもかでもアメリカさんの真似をする日本人、カーネーションを贈るのもアメリカさんの物まねらしい。悪いことではないから、目をつぶることにしよう。まあ、爺も母の日に因んで、後漢書から中国版「養老の滝」=「涌泉躍鯉」を紹介しよう。

7b2bcd81.JPG 広漢郡(四川省)の姜詩の妻は、同郡の龐盛の娘である。姜詩は母に対して至って親孝行であった。妻はとりわけこの姑によく仕えた。/姑は大川の水を飲みたがる。川は家から六、七里(1里は0.4km)離れている。妻はいつも流れを遡って水を汲んだ。その後の或る日、大風が吹いて、すぐには汲めぬまま引き返した。姑は喉を渇かした。姜詩は妻を叱って追い出した。/すると妻は隣の家に泊めてもらい、昼も夜も糸を紡ぎ、その金で珍しいご馳走を買っては、その家の婆様に頼んで、その婆様からということにして姑に届けてもらった。そうしたことが暫く続く。姑は怪しんで隣の婆様に問う。婆様は委細を打ち明けた。姑は感じ入り恥じて嫁を呼び戻した。妻はいよいよ気をつけて姑に尽くした。/その後、わが子が遠くに水汲みに行ったところ、溺れ死んだ。妻は姑が悲しんでがっかりしはせぬかと気遣い、事実を言わず、遠くに遊学に出たといいくるめた。/姑は魚の刺身が好きである。さりとて自分ひとりで食べることも嫌いである。夫婦はいつも精出して働いては刺身を買い、隣の婆様を呼んで姑と一緒に食べさせた。家のわきに突然泉が湧き出した。泉の味は揚子江の水のようで、毎朝かならず二匹の鯉を出す。いつもそれを二人の婆様の膳につけた。/赤眉(王莽に抗して起こった流賊)の残党が姜詩の村を通りかかったが、刃を鞘に収めてそのまま通過した。「大の孝行者を驚かしては、きっと鬼神の祟りがあろう」というのである。当時は飢饉であった。賊は遂に姜詩に米と肉を贈った。詩は受け取ったが、食わずに埋めた。近隣の部落は姜詩のお蔭で無事であった。/永平三(AD60)年、詩は孝廉(登用の一資格)に推薦された。明帝は詔勅を下してこう言った。「大孝の人がわが朝廷に入った。同時に推挙されたものはすべて右に倣って採用を許す」 これでみな郎中(宿営の官)に任ぜられた。姜詩は次いで江陽(四川省濾県)の県令に任ぜられ、任地で亡くなった。詩のいた地方は良く治まり、里の人は詩のために祠を建てた。

 本日のウェブニュースより
def3e243.JPG 角界再生誓い技量審査場所 ―― 大相撲の八百長問題の影響で夏場所に代わって一般に無料公開される技量審査場所が八日、東京・両国国技館で初日を迎えた。約一万一千席の客席はほぼ埋まった。/事前に抽選などで入場券が配られ、当日券は二階椅子席に限り一千席分が用意された。午前八時に配布が始まり、同十時前になくなった。東日本大震災の被災者も宮城、福島から招かれた。/技量審査場所は通常開催を目指す七月の名古屋場所の番付を編成するために開催。協会内部の行事のため優勝や三賞はあるが、賜杯や外部表彰、懸賞はすべて辞退した。NHKは中継を見送った。/放駒理事長(元大関魁傑)は協会あいさつで八百長問題に触れ「今後、根絶と再発防止に取り組み、全力で生まれ変わった日本相撲協会を目指す」と誓った。 (東京新聞、2011年5月9日 朝刊)

 今朝は降るとも降らぬともはっきりしない天気。出かけようか出かけるのはよそうか爺の気持ちも定まらない。とうとう出そびれて1日中家に篭っていた。
 今朝のウェブニュースより
 焦点:ビンラディン容疑者の殺害、残される適法性の議論 ――  [ニューヨーク 5日 ロイター] 米海軍特殊部隊によるアルカイダ指導者ウサマ・ビンラディン容疑者の殺害について、オバマ政権は適法だったと主張するが、米国の国際法の専門家たちは、法律上の重要な問題が残されていると指摘する。/2001年9月11日の米同時多発攻撃を受け、米議会は大統領に「武力行使容認決議」などテロ対策で幅広い権限を与えたが、一部専門家の間からは、ビンラディン容疑者の殺害作戦は国際法上の適法性が不明確だとの声が出ている。/米政権がブッシュ時代から最重要指名手配者としていたビンラディン容疑者の殺害を受け、米国内ではオバマ大統領の支持率が急上昇したが、国際社会では今回の米国の行動は行き過ぎではないかとの懸念も浮上している。/ミシガン大学ロースクールのスティーブン・ラトナー教授は「法律問題としては難問だ。多くの問題は、ウサマ・ビンラディンが交戦相手の戦闘員なのか、大量殺人の容疑者なのか、どちらと考えるかにかかっている」と述べた。/オバマ政権が主張するように、米政府がアルカイダと戦争状態にあるという理屈なら、ビンラディン容疑者の殺害は合法だと言えるだろう。/ラトナー教授は「ビンラディン容疑者が銃を持っていたかどうかは問題ではない。戦闘員の殺害は法律的に認められている」と語る。
e233a868.JPG <司法長官は合法性を主張>エリック・ホルダー米司法長官は4日の上院公聴会で、「ビンラディン容疑者は9・11の実行組織であるアルカイダの指導者」であり、殺害作戦は合法だったと証言。「戦場で敵司令官を標的にすることは合法だ。第2次世界大戦中に行った山本(五十六の殺害)も同じだ」とも述べた。/カーニー米大統領報道官は3日、米海軍特殊部隊がビンラディン容疑者の邸宅を急襲した際、同容疑者は抵抗したが、武器は持っていなかったことを明らかにしている。/これについてもホルダー長官は、たとえビンラディン容疑者が降伏の意思を見せたとしても、「自衛のためや邸宅内のほかの人の保護のため、海軍特殊部隊の行動には十分な根拠がある」との見解を示した。/アルベルト・ゴンザレス前司法長官も、ロイターの取材に「ビンラディン容疑者は軍事目標だった。われわれは紛争中だったという点に疑問はない。何を議論しているか私には分からない」と述べ、作戦の合法性を訴えている。
 <複雑な構図>さらにゴンザレス前司法長官も、ビンラディン容疑者が武装していたかどうかは問題ではないと一蹴。「ミサイルを発射したとしよう。ターゲットが武装していたかどうか、われわれは問題にするだろうか」と語った。/一方、ラトナー教授は、ビンラディン容疑者が大量殺人の容疑者だとみなされる場合、米軍の作戦に関する法的解釈は違ったストーリーになってくると指摘。「その枠組み内での行動なら、殺害は容疑者が差し迫った脅威を示した場合にのみ許される」としている。/問題を複雑にしているのは、ビンラディン容疑者が1998年、米大使館爆破事件を共謀したとして、マンハッタン連邦地裁に起訴されたこと。こう語るのは、ノースウェスタン大ロースクールの国際人権センターで所長を務めるデビッド・シェファー氏。「通常は起訴されている個人を捕えるのは、裁きを受けさせるため法廷に連れて行くのが目的。起訴中であるなら、文字通り即座に処刑するのは目的ではない」と指摘する。/作戦を実行した海軍特殊部隊にどういった命令が出されていたのか、ビンラディン容疑者が降伏のためどういう行動をとったかなど、作戦には重要な問題が残されているという点でラトナー教授とシェファー所長の意見は一致している。/シェファー所長は、海軍特殊部隊が身柄拘束ではなく殺害を命じられていたのであれば、国際法上は問題ないとしても、米国の理想には反するのではないかとの疑問を提起。「米国社会の特徴として、少なくとも交戦規則に沿って拘束を命じるのが、米国の価値観にはよりふさわしかったのではないか」と語っている。(ロイター日本語ニュース 執筆:Andrew Longstreth記者、翻訳:宮井伸明、編集:野村宏之)      2011年 05月 6日 16:42 JST

2cdfe45b.JPG 宋の葉夢得(しょうぼうとく、1077~1148年)が当時の見聞や旧聞・群籍についての所見を記した「避暑録話」に中に次のような一文がある。
 学問をやるだけで科挙の試験を受けないというのなら話は別であるが、学問をやって科挙を受け、科挙を受けるからには及第を願い、及第して仕官し、仕官して昇進するということは、いやしくも道理と道義に反した行いがなければ、どれも不可はないのである。ところが世間には一種の人間があって、仕官して俸禄を得ると、今度は逆に、宮仕えせぬこそ高邁なれとばかり、昂然となって、まるでその官を捨て去りたいみたいな風を見せる。とても本心とは受け取れない。だから彼らの稼ぎ振りと来たら、本来の仕官志望者の場合よりもえげつないほどで、強引にきっかけを作って割り込んだり、あるいは、ことさらにつまらぬ畏を立てて辞めようとして見せたり、そこで留まるでもなく辞めるでもない態度をとって、そのことでしばしばうまく世間の評判をせしめ、やがていい地位を与えられると辞退もせぬ、といったやりくちである。しかも世間は、とんとそこのところに気付かぬままだ。/こういう話がある。ある貧乏書生、饅頭(マントウ)というものを食ったことがない。しかし手に入れる術もない。或日、町でそれを並べて売っている店を見つけると、大声を挙げてぶっ倒れた。店の親父は吃驚して訳を訪ねると、「饅頭がこわい」という。「そんなことがあるものか」と、親父は饅頭百個ばかりを空き部屋に用意して、その男を閉じ込め、そっと外から様子を窺っていたが、ひっそりとしてものおともせぬ。そこで壁に穴を空けて覗いてみると、両手で掴み食いの最中、もう半分以上も平らげている。急いで戸を開けて、その訳を詰ると、男曰く「これを見た途端怖くなくなったよ」騙されたと知って親父おこりだし、「まだ怖いものでもあるんかい」と怒鳴ると、その男曰く、「まだあるよ、お茶二杯がこわいんだ」/こんなのが、仕官せぬことを願う連中の実態でもあろうか。  (中国古典文学大系55 近世随筆集より)
07b7a152.JPG この話は明の謝肇淛(しゃちょうせい、1567~1624年)著の『五雑俎』や馮 夢竜(ふう むりゅう、1574~ 1646年、墨憨斎と号す)撰の『笑府』631などにも出ていて、少しばかり笑い話としての潤色が加わっている。すでにご存知の通りわが古典落語にも「まんじゅうがこわい」という題で取り入れられている。
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22d1fda5.jpg 昨日は曇り空で気温も低かったが、朝食後女房と連れ立って百花園へ行った。こどもの日であるが、ここでは子供の姿は殆んど見られない。まあ、爺婆の来るところらしい。茶店で甘酒を飲んで、明治通りを横切り大正通りに入ってみるが大したことはないので、東白鬚公園に行くと「鯉のぼりフェスティバル」が行われていた。リバーサイド墨田で昼食を食べて帰宅した。

ccd276db.jpg 鯉のぼりは元来、日本の風習で、江戸時代に武家で始まり、端午の節句である旧暦の5月5日までの梅雨の時期の雨の日に、男児の出世を願って家庭の庭先で飾られたものである。本来は真鯉(黒い鯉)のみであっが、明治時代から真鯉(まごい)と緋鯉(ひごい)の対で揚げるようになったという。昭和時代からは家族を表すものとして子鯉(青い鯉)を添えたものが主流となった。ただし、過渡的に黒と青だけという組み合わせも見られたらしい。最近では緑やオレンジといった、より華やかな色の子鯉も普及してきており、所によっては女の子も含め家族全員の分の鯉を上げる家もあるという。暖色の子鯉の増加はそういった需要に応えてのことのようである。竿の先に回転球やかご玉、その下に矢車を付け、五色もしくは鯉などを描いた吹流しを一番上に、以下真鯉、緋鯉、等を大きさの順に並べて揚げるのが一般的のようである。

232560ff.JPG 「登龍門」とは立身出世のための関門、あるいはただ単にその糸口という意味で用いられる。鯉の滝登りともいわれ、鯉幟という風習の元になっている。登龍門は『後漢書』李膺〈りよう〉伝に語られた故事に由来する。それによると、李膺は宦官の横暴に憤りこれを粛正しようと試みるなど公明正大な人物であり、司隷校尉に任じられるなど宮廷の実力者でもあったが、もし若い官吏の中で彼に才能を認められた者があったならば、それはすなわち将来の出世が約束されたということであった。このため彼に選ばれた人のことを、流れの急な龍門という河を登りきった鯉は龍になるという伝説になぞらえて、「竜門に登った」と形容したという。なお「竜門」とは夏朝の皇帝・禹がその治水事業において山西省の黄河上流にある竜門山を切り開いてできた急流のことである。後漢書による故事で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった。

 今朝のウェブニュースより
142d7926.JPG パキスタン、ビンラディン急襲で米を批判 ――  【アボタバード(パキスタン)】パキスタン外務省は3日、米国が事前の許可申請や通告をせずに国際テロ組織アルカイダの指導者ビンラディン容疑者をパキスタン国内で急襲して殺害したことを「憂慮」している、との声明を発表した。同省は「許可を得ていない、この一方的な行動は通常認められない」としている。/1000語から成るこの声明は、2日に米軍部隊が中央情報局(CIA)の指揮の下に、ビンラディン容疑者が潜伏していたアボタバードの住宅を急襲して同容疑者を殺害した直後にパキスタン政府が出した短い声明とはトーンを異にしている。/外務省は2日の声明で、この作戦は米国によって実行されたとし、パキスタンはそれまでの情報収集で米国に協力してきたと指摘していた。しかし、3日の声明は、米による急襲は領土の侵犯だとする国内世論の批判を受けて、厳しい姿勢に変わった。英語版の声明は「米国の行動は同国も含むいかなる国の将来の前例となってはならない」と強調した。/3日の声明は、その多くが反米的である中間層の、メンツをつぶされたとする不満を鎮めることを狙ったと見られる。アボタバードの弁護士オワシス・カーン氏は、自分が所属する弁護士協会は米国の一方的行動に抗議するよう求める書簡をザルダリ大統領とパキスタン軍のカヤニ総司令官に送ったと述べた。カーン氏は「米国の行動はパキスタンの主権に反する」としている。/これまでのところパキスタン軍は沈黙を守って、ビンラディン容疑者の殺害への対応を政府に任せている。こうした中で政府当局者は3日、同国は急襲に関して米国に抗議してはいないと言明した。その上で、同日の外務省声明は国内世論があるためパキスタンとして言わなければならないことだと話した。/同当局者はまた、ビンラディン容疑者の殺害につながった情報収集におけるパキスタンの役割は一定限度以上のものではなかったと指摘した。同国の軍隊あるいは情報機関の一部が同容疑者を保護していたかどうかは明らかではない。同当局者は「最善の場合でわれわれの無能力ということになり、最悪の場合は共犯ということになろう」としている。/外務省の声明は、パキスタンの軍隊と情報機関が同国やその他の国にいるアルカイダなどのテロ組織の弱体化に重要な役割を果たしたと称賛している。こうした声明は、同容疑者がアボタバードに潜んでいることをパキスタンが知らなかったはずはないのではないか、という殺害後から浮上している米国などの当局者の疑念を和らげることを狙ったもののようだ。/米国の当局者らは2日、パキスタンの軍隊と情報機関の一部がビンラディン容疑者が捕まらないように協力していなかったかどうか調べていると述べた。同国の3軍統合情報局(ISI)は同日、同容疑者を保護したこともなければその所在についても知らなかったとし、所在を把握できていなかったことに困惑していると述べた。 記者: Tom Wright (ウォール・ストリート・ジャーナル日本版 2011年 5月 4日 11:35 JST)

0d18f992.JPG 本日は5月5日、端午の節句。古来端午の節句には、軒先に菖蒲を飾り、菖蒲を頭にさし、菖蒲湯を飲み、粽(ちまき)や柏餅を食べて、五月人形を飾り、鯉のぼりを揚げて、男の子の成長と出生を祈るのがしきたりになっている。菖蒲は昔から薬効があって万病除けになり、邪気を祓う魔除けの効果があると信じられてきた。平安時代から宮中では、菖蒲鬘を作ってかぶり、菖蒲湯に入り、菖蒲の根を刻んで酒にひたした菖蒲酒を飲んだ。また、麝香(じゃこう)、丁子(ちょうじ)、沈香(じんこう)、竜脳(りゅうのう)などの香料を玉にして錦の袋に入れた「薬玉」に菖蒲や蓬(よもぎ)を刺し、五色の糸を長く垂らして、御殿の柱にかけた。この薬玉が、軒先に魔除けとして飾る風習になったとも、また吹き流しの原型ともいわれている。菖蒲が尚武に結びついて、桃の節句に対して男子の成長、出生を祈る祭となり、現在では「こどもの日」として国民の祝日となっているのだという。邪気を祓(はら)うといわれる菖蒲はサトイモ科に属し、鮮やかな花をつけるアヤメ科に属する花菖蒲とは異なり、花は小さな花が穂状に集まって咲く地味なものである。
3ce184cc.JPG 5月5日の端午の節句に食べる粽はもともと中国の古い古い習俗から来たものであるが、その起源は俗説に依れば屈原に関係がある。屈原が汨羅の淵に身を投げて死んだ日が5月5日とされ、その後楚国の人々が彼に同情して、毎年この日になると、竹の筒に米を入れて淵に投げ入れて彼を祀った。ところが、ある時屈原の麗が現れていうには、こうして毎年粽を投げ入れてもらうのは有り難いが、実は淵の中には恐ろしい龍が居って、それが皆奪って食ってしまう。今後は楝(おうち)の葉で筒を塞いで、五色の糸で縛って投げて欲しい、すると龍は怕(おそ)れて近づかぬから、といったので、5月5日に粽を作って五色の糸と楝の葉を添える習俗になったと伝えられる。今日でも中国で糯米を葦の葉などで三角に結んで蒸した粽を作るが、この習俗が早くから日本にも伝わって、平安朝初期にはもう行われていたらしい。
 こういう話が伝わるほど、屈原の死は楚の国の人々、やがては広く中国の人々に、後世永く悼まれているのである。

4ee2a98f.JPG   漁父(ぎょほ)  読み下し文
 屈原(くつげん)既に放たれて、江潭(こうたん)に游び、行(ゆくゆ) く沢畔(たくはん)に吟ず。顔色憔悴し、形容枯槁(ここう) せり。漁父(ぎょほ)見て之に問うて曰く、「子は三閭大夫(さんりょたいふ) に非ずや。何の故に斯(ここ) に至れるか」と。屈原曰く、「世を挙げて皆濁り、我独り清めり。眾人(しゅうじん)皆酔ひ、我独り醒めたり。是を以て放たれたり」と。
漁父曰く、「聖人は物に凝滞(ぎょうたい) せずして、能く世と推移す。世人皆濁らば、何ぞ其の泥を淈(にご) して、其の波を揚げざる。眾人皆酔はば、何ぞ其の糟を餔(くら) ひて、其の釃(しる)を歠(すす) らざる。何の故に深く思ひ高く挙がり、自ら放たれしむるを為すや」と。
屈原曰く、「吾之を聞けり。『新たに沐(もく) する者は必ず冠を弾き、新たに浴する者は必ず衣を振ふ』と。安んぞ能く身の察察たるを以て、物の汶汶(もんもん) たる者をうけんや。寧ろ湘流に赴いて江魚の腹中に葬らるとも、安んぞ能く晧晧(こうこう) の白きを以てして世俗の塵埃を蒙(こうむ) らんや」と。
漁父莞爾(くわんじ)として笑ひ、枻(えい) を鼓して去る。乃ち歌つて曰く、
 滄浪の水清まば、以て吾が纓を濯ふべし。
滄浪の水濁らば、以て吾が足を濯ふべしと。
遂に去つて、復た与に言はず。

   漁父   訳
 屈原は放逐されて後/江や淵をさまよい/澤のほとりを行きつつ詠っていた/顔色はやつれ/その姿は痩せ衰えていた/漁父がそれを見て尋ねて曰った/貴方は三閭(さんりょ)大夫さまではございませぬか/何でまたこのような処に
 屈原は曰った/世間はみな濁っているのに/私ばかりが住んでいた/人々はみな酔っ払っているのに/私ばかりが醒めていた/だからこそ放逐されたのだ
 漁父は曰った/聖人は物事に拘らず/世間につれて移るという/世の人がみな濁っていれば/何故ご自分もその泥を掻き濁し/その波を揚げようとされませぬ/衆人がみな酔っていれば/なぜご自分もその糟を喰らい/その糟汁を啜られませぬ/なぜそのように深く考え高尚に振る舞い/みすみす放逐を招かれたのか
 屈原は曰った 私はきいている/髪を洗ったばかりの者は必ず冠を弾いてかむり/湯浴みを下ばかりの者は必ず着物を振って着ると/どうして清らかな身体をして/汚塵をこの身に受けられようか/いっそ湘水の流れに身を投げて/魚の餌食になろうとも/どうしてこの潔白な身体に/世俗の塵埃を受けられよう
 漁父はにっこりと打ち笑い/船端を叩いて歌って去った/「滄浪の水が澄めば/冠の纓が洗えよう/滄浪の水が濁れば/それで足を洗えばよい」と/そのまま行ってもう語らなかった
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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