瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 4時30分、吾妻橋~白鬚橋のテラスを一巡。
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5538a933.JPG【詩の大意】
(旧暦)四月の初夏、おだやかですがすがしく、雨もたちまち晴れて、
南の山は門の正面にあって、ますますはっきりとして来た。
もはや柳の綿毛が風によって乱れ飛ぶことは、もうないだろう。
ただ向日葵が太陽に向かって傾いている。

作者の司馬光(1019~1086年)は、北宋の学者、政治家。字は君実。諡は文正。
斉物子と号し、温国公、温公などと称された。王安石の新法による政治改革に反対した側の急先鋒であり、旧法党の代表。やがて宰相になると、王安石の新法を廃して旧法に復した。この詩には宰相となって旧法に服したすがすがしさを詠いこんでいるとも言われる。

 渡哲也が歌う「くちなしの花」(水木しげる作詞・遠藤実作曲)という歌があったっけ。 
 
   http://www.youtube.com/watch?v=569oxR9gKtc

 
65aace88.JPG  生きては相憐れみ、死しては相捐(す)つる
 楊朱の言葉。
 昔の諺にこういっている。「生きている時は憐れみあい、死んでしまえば放ったらかす」と。この言葉は言いえて妙である。
 ここで「憐れみあう」ということのやり方は、たんなる感情だけの問題ではない。骨折っている者には楽が出来るように、ひもじい思いをしている者には腹いっぱい食べさせることが出来るように、また、凍えている者は温もらせることが出来るように、うだつの上がらぬ者にはうだつが上るようにしてやる実践力を言うのである。
 また、「放ったらかす」ということのやり方は、死者に哀悼の気持ちを持たないと言うのではない。使者に珠玉(たま)を含ませるような無駄なことをせず、彩錦(あやにしき)を着せたり、犠牲を並べ立てたり、埋葬の器物を準備したりするような虚礼をすべて已(や)めるという意味である。

 夕食後ブログを記入しようとして、ブログの管理ページを立ち上げたが、何度やっても立ち上がらない。Y社のKS氏に、その旨メールを入れて休むことにした。今朝、朝の徘徊から帰宅して、管理ページを開くと、何時ものようにうまく立ち上がったので、昨19日(日)―― 1日遅れのブログとなる。

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70b32d7b.jpg 早朝は霧雨。徘徊は見合わせる。本日は父の日だという。
 昼食後、隅田川を徘徊。向島のテラスで木瓜の実を集めている人に会う。梅酒と同じようにして木瓜酒を作るのだそうだ。

    木瓜
9f17e0ff.JPG 木瓜を投げたあの人に/瓊玉をお礼に贈りたい/お礼と言うのではないけれど/仲良くしようお礼まで
 桃を投げたあの人に/瓊瑤をお礼に贈りたい/お礼と言うのではないけれど/仲良くしようお礼まで
 李(すもも)を投げたあの人に/瓊玖をお礼に贈りたい/お礼と言うのではないけれど/仲良くしようお礼まで

3276cff2.JPG    「死生は命であり、貧窮は時である」
 一見成功しているように見えるものは、成功しているように見えるだけで、決して成功しているのではない。一見失敗しているように見えるものは、けっして失敗しているのではない。かくて人間の迷いというものは、らしく見えるところから生じるのであり、らしく見えるところでは、真相ははっきりとしないものである。らしく見えるものに対して、はっきりと真相を見定めることが出来れば、外からやってくる禍に心を驚かせることも無く、内なるわが福(しあわせ)に嬉しがることもない。ひたすら時の宜しきに従って行動し、時の宜しきに従ってじっとするだけであり、知恵や才覚でどうできるというものでもない。
 運命の必然にすべてを任せる人間は、あれこれの事態によって心をぐらつかせることが無く、あれこれの事態に心をぐらつかせる人間は、むしろ耳を塞ぐほうがましである。目を閉じ耳を塞げば、坂を背にし堀を前にして立っても、そこから転がり落ちるものではない。
 だから古人も「人の生死はちゃんと定まった運命であり、貧乏に苦しむのは、おのずからなる時節のめぐりあわせである」といったのである。若死にを怨む者は運命を悟らぬ人間であり、貧乏を怨む者は時節を弁えぬ人間である。死に直面してもびくびくとせず、逆境に身を置いても悲しまないのは、運命を悟って時節に按ずるからである。
 いったい知恵才覚のすぐれた男に、利害を打算させ、真偽を計量させ、他人の気持ちをよく読み取らせて、何か事業を行わせても、うまく行く確率も半分、うまく行かない確率も半分である。これに反して知恵才覚の劣った男に、利害の打算もせず、真偽の計量もせず、他人の気持ちもお構い無しになにか事業を行わせても、うまく行く確率は半分、うまく行かない確率も半分である。利害の打算をしようとすまいと、真偽の計量をしようとすまいと、他人の気持ちを読み取ろうと読み取るまいと、その結果に何も違いはないのである。人間はただ利害の打算をするわけでもなく、その打算をしないわけでもないという自由な境地に到達する時、利害や得失に捉われることが無く、自己の本来の在り方を全うし、その在りかたを失うことがない。とはいえ、何が全いかを知的に分別するわけでもなく、何が失われているかを分別して意識するわけでもない。ただ運命の必然に任せきった境地で、おのずから全うされ、おのずから失われてゆくだけである。

 4時30分、隅田川を徘徊。
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 ウェブニュースから
45f76ee9.JPG スカイツリー入場料も高っ! 大人3000円 ―― 自立式電波塔として世界で最も高い634メートルの「東京スカイツリー」(東京都墨田区)の開業日が、来年5月22日に決まった。運営会社が7日発表した。入場料は高さ350メートルの第1展望台へは大人2000円で、450メートルの第2展望台は別途1000円。開業後1カ月半は500円の日時指定券が必要なため計3500円となり、入場料も“世界最高”レベルだ。/7日午後、東京スカイツリーの事業概要発表会が都内で行われ、公式キャラクター「ソラカラちゃん」が登場。手に持ったパネルを裏返して「2012年5月22日開業」と明かした。/事業主体の東武鉄道によると、当初は今年12月に竣工(しゅんこう)し来年春開業を目指したが、東日本大震災の影響で資材の搬入が遅れるなどして竣工予定が来年2月にずれ込んだ。併設の商業施設に出店する店舗の準備期間などを含め、開業日を決めた。/入場料も発表され、第1展望台が大人(18歳以上)2000円、中高生1500円、小学生900円、幼児(4歳以上)600円。第2展望台は追加料金として大人1000円、中高生800円、小学生500円、幼児300円が必要。第2展望台まで行くと大人料金は3000円となる。/さらに、開業から1カ月半は混雑が予想されるため完全予約制とし、来場する日時を事前に指定する「日時指定券」が必要。日時指定券は第1展望台の入場料にプラス500円。当面の間、大人が第2展望台まで行くには計3500円、カップルなら計7000円かかる。/入場料は国内の主な展望台に比べ群を抜いて高く、東京スカイツリーに抜かされるまで世界一の高さだった中国の広州タワー(高さ600メートル)など海外でも1800円前後が相場。会見で入場料の高さを指摘されると、運営会社「東武タワースカイツリー」の鈴木道明社長は「国内外のいろいろな観光施設の料金を参考にしながら設定した」と説明。「今までにない高さからの眺望をお楽しみいただける。家族で楽しんでいただける価格」と強調した。/展望台の営業時間は午前8時から午後10時まで。東武鉄道などは、開業後1年間のスカイツリーの来場者数を540万人と見込んでいる。/≪商業施設に310店舗≫周辺との複合施設「東京スカイツリータウン」には商業施設「東京ソラマチ」や水族館、オフィス施設などが含まれる。東京ソラマチは売り場総面積約5万2000平方メートルで、飲食やファッションなど310店舗が出店予定。落語の林家一門プロデュースで寄席芸と下町の料理などを提供する「江戸味楽茶屋 そらまち亭」、ファッションブランド「サマンサタバサ」が手掛けるスイーツショップなども入る。民放各局の番組グッズなどを販売する「ツリービレッジ」、プロ野球巨人軍初の直営ショップも出店。1000社以上から希望があり、コンセプトなどが合致する企業を選んだという。 [ Sponichi Annex 2011年6月8日 06:00 ]

915b3038.JPG    扁鵲の行った心臓移植
 魯の国の公扈(こうこ)という男と趙の国の斉嬰(せいえい)という男との二人が病気にかかり、一緒に名医の扁鵲(へんじゃく)を訪ねて病気を治してくれるよう頼んだ。扁鵲はその病気を治してやったが、両人の病気が治ると、公扈と斉嬰の両人に向かってこう言った。
「君たちが先刻かかっていた病気は毒が外から内臓を犯していたもので、もちろん薬や鍼などの治療で治せるものだった。ところが今君たちには生まれた時からの病気があって、体の成長と共に悪化している。ひとつ君たちのためにそれを治してあげたいと思うが、如何なものであろう」
 二人が「先ずその症状をお聞かせ下さい」と言うと、扁鵲は公扈に向っていった。
「君は物事を志向する力は強いが実行する気力は弱い。だから計画は十分に立つが、決断力に乏しい。斉嬰は志考力は弱いが気力は強い。だから思慮に欠けて独断専行にしくじる。もし君たちの心を取り替えたら、どちらも一様にりっぱになるであろう。
 扁鵲はかくて二人に毒を入れた酒を飲ませた。すると三日間ほど仮死状態に陥り、その間に胸を解剖し心臓を取り出し、それを取り替えてもとの位置に返し、手術が終ると、霊妙な薬をのませた。やがて目が覚めると、初めと少しも変らず、二人は辞去して家に帰った。
 かくて公扈は斉嬰の家に帰り、済嬰の妻子を我がものにしようとしたが、妻子のほうでは見覚えがない。同様に斉嬰のほうも公扈の家に帰り、公扈の妻子を我がものにしようとしたが、妻子のほうでは見覚えがない。両家はそこで一緒になって訴訟を起こし、扁鵲に釈明を求めた。扁鵲が事の次第を釈明すると、訴訟はかくて沙汰止みとなった。

 本日早朝から雨。6時頃まで布団の中。

acfef852.JPG   「湖上に飲む 晴れていたのが やがて雨に変った」 蘇軾
 其の一 朝日が迎えてくれるかのように山々を彩っていたが/夕べの雨は引き止めるが如く酔郷に誘い込んでくれた/この趣のおもしろさ 君にわかってもらえるものならば/一杯は水仙王(西湖の水神)に捧げずばなるまい。
 其の二 さざ波に躍る湖水の光 これこそ晴れた日の美しさだったが/おぼろに煙る山々の色 雨の風情もまたおもしろい/西湖をたとえてみよう あの西施の/薄化粧でも濃く塗り上げても みなよく似合う姿に

282ca832.JPG   「愚公移山」
 太行山(原文の大形は誤記か?)・王屋山の二つの山は、広さは七百里四方、高さは一万切(ひろ)もあるが、もともとは冀州(河北省)の南部、河陽(河南省)の南部にあった。ところが北山愚公という老人がいて齢はもう九十に近かったが、この大行・王屋の山を真向かいにして住んでいた。彼は山の北側が険しく塞がっていて、出入りの度に遠回りしなくてはならないのを苦にやみ、家族を集めたこう相談した。
「私はお前たちと全力を尽くして山の険しい所を平坦にし、豫州(河南省)の南部に向かって道路を通じ、漢水の南岸に到達させたいと思うが、どうであろう」
 家族の者たちは口々にみな賛成した。ところが愚公の妻だけが異議を申し立てて言った。
「あなたの力では、ちっちゃな丘を崩すことさえとても出来ません。ましてや太行・王屋のような大山をどうするというのですか。それにいったい、崩した土や石はどこに運ぶのです」
 みんなは答えた。
「それは渤海の隅っこか隠土(いんと)の地方の北部にでも捨てましょう。
 かくて愚公は息子たちや孫たちを引き連れ、かついで運ぶ者は三人、岩石を打ち砕き、土地を切り開いて、土や石は箕や畚(もっこ)で渤海の隅っこに運んだ。
 さて愚公の隣家の京城氏の寡婦に忘れ形見の男の子が居て、やっと歯の抜け替わる年頃であったが、勇んで出かけて愚公の仕事を手伝い、寒暑の季節の変わり目にやっと一度家に帰るという有様であった。ところが一方、河曲(山西省)の地に住む智叟――利巧者の老人は愚公の話を聞いて笑い出し、その仕事を止めさせようとしてこう言った。
「話にもならぬよ。君の馬鹿さ加減は、老いぼれのわずかな力では、山の草一本だってろくに毟れはしない。ましてや土や石をいったいどうしようとというのだ」
 すると北山愚公は、ふうっと溜息をついて言った。
「君は固定観念にとらわれていて、その頑なさは手のつけようが泣く、あの寡婦の幼児の頭にも全く及ばない。ぼくが死んでも子供が生き残り、その子供はさらに孫を生み、その孫は更にまた子供を生む。その子供には更に子供が出来、その子供にはまた更に孫が出来、子から子へ、孫から孫へと伝えて、尽き果てることも無い。それに対して山のほうは益々高くなるということはないのだ。してみれば、なにも平坦に出来ないなどと気に病むこともなかろうよ」
 河曲の智叟はかえす言葉もなかった。
 太行・王屋の蛇をてにもつ山の神は、この話を聞いて愚公の仕事が中止されそうも無いことを恐れて、このことを天帝に報告した。すると天帝は愚公の真心に心動かされ、夸蛾氏の息子に言いつけて大行・王屋の二つの山を背負わせ、一つを朔北(山西省の北)の東部に、一つを雍州(山西省の西)の南部に移した。それからというもの,冀州の南部から漢水の南側にかけて険しい丘陵はなくなったのである。

「愚公移山」と言う成語はいかなる難事業も地道に努力を重ねればついには成し遂げられることのたとえである。中国人はスピーチで教養のある人ほどこのような成語をよく使うという。かつて毛沢東もこの成語を使って人民を鼓舞したという。

 今にも降りそうな空模様。思い切って出かけることにする。時に5時。吾妻橋~白鬚橋をテラス沿いに一巡する。
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 白鬚橋を渡る頃から、小雨模様。橋場のテラスに来た頃、本降り。雨の中をずぶ濡れになりながら何時もの歩調で帰宅する。家に着くころにはどうやら、雨も小止みになっていた。

8c8d38fc.JPG   聖知を得た己を病気だと考えた龍叔
 龍叔という男が名医として知られた文摯(ぶんし)に向って言った。
「君の医術は精妙である。私は病気にかかっているが、治してもらえることが出来るだろうか?」
 すると文摯は言った。
「仰せの通りに致しましょう。だが初めにあなたの病気の症状を仰ってください」
 龍叔は答えた。
「私は村中のものが誉めても名誉だとは思わず、国中の人が毀(そし)っても恥辱だとは思わない。何かを得ても嬉しいとは思わず、失っても悲しいとは思わない。生を死と同じにみ、富を貧と同じにみ、人間を豚と同じにみ、己を他人と同じにみ、自分の家に居ても旅館に居ると変らず、自分の郷里を戎蕃(えびす)の国と同じように考える。すべてこのような種々の病気は、爵位や褒賞を与えたとて励ますことは出来ず、刑罰を加えたとて威(おど)すことはできず、盛衰利害も左右することは出来ず、哀楽の感情も変化させることは出来ない。こんなことでは、もちろん主君に仕えることも、親友と交わることも、妻子を治めてゆくことも、召使を取り締まってゆくことも出来はしない。これはいったいどういう病気なのであろうか。どのようにしてこの病気を治すことが出来るのであろうか」
 龍叔がこう訴えると、文摯はそこで龍叔煮命じて太陽に背を向けて立たせ、己はそれから太陽の方に向かって立ち龍叔の体を離れたところから診察し、やがてこう言った。
「ああ、私はあなたの心を診察しました。あなたの心のある場所は空っぽになっています。精神とほとんど同じです。ただあなたの心臓にある六つの穴は、うまく疎通していますが、一つの穴だけ塞がっています。あなたは今聖人の悟りの境地にありながら病気だと思っておられるのも、そのせいであるかも知れません。これは私の未熟な医術で治せる病気などでは到底ありません」

 

 4時30分から、桜橋~水神大橋間を徘徊。微風あり、肌に心地よい。カメラの持参を忘れる。

6098e220.JPG 燕の国のある男が、燕の国で生まれて楚の国で育った。彼は年老いてから生国の燕の国に帰ろうとして、その途中、晋の国に立ち寄った。ところが一緒に旅をしていた男が彼を騙し、晋の国の都城を指さして、
「これが燕の国の都城だよ」と言った。すると、その男はさっと居ずまいを正してかしこまった。さらにまた土地神を祭った社を指さして、
「これが君の郷里の社だよ」というと、かれはふうっと溜息をついて感じ入った。それからまた、ある屋舎を指さして、
「これがきみの先祖の住居だよ」と言うと、彼ははらはらと涙をこぼして泣き、小高い丘を指さして、
「これが君の先祖の墓だよ」と言うと、その男は声をあげて泣き、泣き止めることが出来なかった。
 一緒に旅をしていた男が、からからと打ち笑い、「私はさっき君を騙したのだ。ここは晋の国でしかない」と言うと、その男、すっかり感じ入った。
 さていよいよ燕の国について、本当の都城や社を見、本当に祖先の住居や墓を見たが、そのときには彼の悲しみの感情は、もはや一段と薄れていた。
 

9f5027d4.jpg 夏至に近くなり、4時30分というともう明るい。ちなみに、本日の日の出は4時25分という。
 はっきりしない天気の中で、桜橋~水神大橋間を一巡して帰宅。
 マテバシイは春に雄花が咲いて冬を越して翌年の秋どんぐりになる。およそ1年と5か月(約17か月)かけてどんぐりになるので「2年成どんぐり」と言うのだそうだ。
5ff02721.jpg 幕末にPhilipp Franz Balthasar von Siebold(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト、1796~1866年)が日本のユリの球根を持ち帰り、復活祭に用いられるイースター・リリーとして大流行させると、球根は近代日本の絹に次ぐ二番目の主要輸出品として外貨を獲得したという。そしていわば逆輸入されるかたちで明治末に鑑賞花として流行した。「立てば芍薬、坐れば牡丹、歩く姿は百合の花」のように、美女の形容として用いられる。
 ユリは聖書にしばしば登場する花のひとつである。新約聖書では「ソロモンの栄華もユリに如かない」と、繁栄の象徴として用いられる(聖書の時代、イスラエルではユリは一般的な花ではなく、このユリはチューリップの事だと考えられている)。キリスト教においては白いユリ(マドンナリリー)の花が純潔の象徴として用いられ、聖母マリアの象徴として描かれる。天使ガブリエルはしばしばユリの花をたずさえて描かれる。ガブリエルがマリアに受胎告知を行った天使であることを示す図像学上のしるしなのであるという。

6043993f.JPG 紀渻子(きせいし)という闘鶏師が周の宣王のために闘鶏を飼育した。十日もすると王は訊ねた。
「鶏はもうたたかわせられるようになったか?」
 渻子はこたえた。「まだです。いまのところむやみに強がって威勢を張っています」
 それから十日すると王は又訊ねた。すると渻子はこたえた。
「まだ、使いものになりません。まだ他の鶏の響きや影に対してさえ、さっと身構えます」
 それから十日して又王は訊ねた。すると渻子はこたえた。
「まだ、使いものになりません。他の鶏を近づけると、まだぐっと睨みつけて競い立ちます」
 それから十日して王は又訊ねた。すると、今度は渻子がこたえた。
「もう殆んど完璧です。他の鶏が鳴き声を立てても、もはや何の反応も示しません。遠くから見ると、まるで木で作った鶏のようです。無爲自然の徳を完全に身につけています。他の鶏で相手にしようとするものは無く、背を向けて逃げ出すばかりです」

07df2d03.JPG 双葉山はある酒の席で、陽明学者であり政治学、哲学者の安岡正篤(1891~1983年)より相撲は単なる勝ち負けでなく心を鍛錬し、天にいたる道だいう考えを「木鶏」の話にたとえて聞かされて、感銘し自らの相撲道を励んだという。この木鶏の話頭を自らの道とする相撲に当てて、精進努力して69連勝の大記録を打ち立てたのが双葉山であるが、そんな双葉山も1935年1月場所の4日目ついに安芸の海に破れてしまう。そのとき安岡正篤は欧州旅行中のインド洋上船の中、双葉山は「ワレイマダ モッケイタリエズ フタバ ヤマ」の無線連絡をしたという有名な話は今も語り継がれるという。


 

 今朝も早朝から雨。朝食後、雨後の隅田川周辺を徘徊。
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fe3d2593.JPG 宋の国に猿回しの親方がいた。猿を可愛がり、多くの猿を飼って群れをなしていた。この親方は猿の心理を読み取ることができ、猿もまた親方の気心を飲み込んでいた。そして、家族の人数を減らしてまで猿の欲しがるものを与えると言う有様であった。ところは彼は急に貧しくなったので、猿に与える餌を倹約しようと思ったが、猿どもが己になつかなるのではないかと心配して、初めに猿どもをだましてこういった。
「お前たちに栃の実を分けてやるのに、朝は三個ずつで晩には四個ずつにしよう。それでどうだ」
 すると猿どもは皆立ち上がって怒り出した。そこで咄嗟に、
「お前たちに栃の実を分けてやるのに、朝は四個ずつで晩には三個ずつにしよう。それでどうだ」
というと、猿どもは皆はいつくばって喜んだ。
 いったい万物の「能鄙(のうひ)」すなわち利口な奴と野暮なやつとが籠絡(くる)めあう道理はみなこういったものである。そして聖人が其の叡智で無知な人間をくるめ込むのも、ちょうど猿回しの親方が頭で猿どもをくるめこむような者である。言葉の実質は少しも変らないのに、相手をよろこばせたり怒らせたりしているのである。
47cf9c7b.JPG 列禦寇がある時伯昏瞀人のために弓を射て見せた。彼が弓をいっぱいに引き絞ると、左の討(うで)は真っすぐ水平になり、討(うで)の上に杯の水を置いても零れないというほどの見事な姿勢。矢を放てば飛んでゆく第一の矢が韝(ゆごて)の上にかぶさっていると見る間に、併せもつ第二の矢がはや韝の上に載っているという目にも止まらぬ速さ。このときの彼はまるでからくり人形のように顔色一つ変えない。
 ところで傍らで見ていた伯昏瞀人は言った。
「期の弓は〈射の射〉すなわち弓を射ることを意識した有心の射撃であって、〈不射の射〉すなわち射ることを念頭に置かぬ無心の射撃ではない。もしそなたと高い山に登り、そばだつ岩石を踏んで立ち、百仞もある深い淵を見下ろすとすれば、そなたにいったい、かくも見事に弓がひけるかどうか」
 かくて伯昏瞀人は列禦寇と一緒に高い山にのぼり、そばだっ岩石をふんでたち、百仞もある深い淵を見下ろした。そして淵を背中に後ずさりし、足の半ばは崖の外に宙に垂れ、列禦寇に会釈して此処まで来いと合図した。列禦寇は地べたに這いつくばり、冷汗は流れて踵(かかと)にまで届くというていたらく。それをみて伯昏瞀人はいった。
「そもそも至人というものは、上は青空の彼方までうかがい、下は地底のきわみにまでもぐり、宇宙のすみずみをまで自由に駆け巡って顔色一つ変えないのである。ところが、今そなたはどうだ。おっかなびっくりで目をぱちくりさせる意気地なさ。こんな体たらくで矢を中(あ)てようとしたところで、まったく危ういものである」

 朝から雨、4時半から目が冴えて枕元から取り出した文庫本は陶淵明、ぱらはらと捲(めく)れば、「連雨飲酒」に行き当たる。元興3(404)年、淵明40歳頃の作という。連日の陰雨で、独り酒を飲み酔後に自己の心境を語ったものと言う。「連雨、人絶えて独り飲む」と題す。

cfb02c77.JPG 生あるものは必ず死滅する。
 これは昔からそのように言われてきたことだ。
 この世には赤松子や王子喬のような仙人がいたというが、
 今日いったいどこにいるのだろう。
 長老が酒を贈ってくれた。
 なんと、これを飲めば仙人になれるという。
 ためしに飲んでみると、
 なるほど、わずらわしさの数々が遠く去ったような気がし、
 さらに杯を重ねると、たちまち陶然として忘我の境地になった。
 いや、仙人の住む天界も、この境地からさほど隔たったものではあるまい。
 まさに天真そのもの、天とぴったり一体となり、
 ふしぎな翼をもった雲間の鶴が
 一瞬間に宇宙をかけめぐったような気持である。
 わたしはこのような個性を抱きつづけて、
 つとめ励むこと四十年、
 肉体はもう衰えてしまったけれど、
 天と一体の心はまだ失ってはいない。
 それで十分であって、これ以上何を言うことがあろう。

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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