瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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75c91bd5.jpg 今戸のテラスを下流の桜橋に向かって歩いていると、後ろから「おはようございます」と声がかかった。久し振りにワンさんと出会う。朝の徘徊で出会うのは今年になって初めてかな? 今年3月のはじめ、肝臓癌の除去手術を受け、その後の容態を心配していたのだが、思ったより元気そうだったので何よりである。

c9fa86d1.JPG 韓非の生卒年ははっきりしていない。『史記』始皇本紀には「即位十四年、韓非が秦に使者として来た。秦は李斯(りし)の謀を用いて、非を秦に留めた。非は雲陽で死んだ」とある。始皇帝十四年はBC233年であるから、ともかくBC230年代には死んだことになる。要するに戦国時代(BC403~221年)末期の人物であることは確かである。史記の韓非伝には「韓非者,韓之諸公子也。喜刑名法術之學,而其歸本於黃老。非為人口吃,不能道說,而善著書。與李斯俱事荀卿,斯自以為不如非。(韓非は韓の諸公子である。刑名・法術の学を好み、その根本は黄帝・老子の学であった。非は天性どもりで訥弁であったが、筆の立つ人物であった。李斯とともに荀子に師事したが、李斯は自分の才能が彼に及ばないことを知っていた)」とある。
 韓非は百家争鳴と呼ばれる中国思想史の全盛期に生まれた政治家である。 書中では分かり易い説話から教訓を引き、徹底的に権力の扱い方とその保持について説いている。韓非は性悪説を説く儒家の荀子に学んだといわれ、非違の行いを礼による徳化で矯正するとした 荀子の考えに対し、法によって抑えるべきだと主張した。

韓非子 二瓶篇第七より
 昔者韓昭侯醉而寢。 典冠者見君之寒也、故加衣於君之上。覺寢而說,問左右曰、“誰加衣者?” 左右對曰、“典冠。” 君因兼罪典衣與典冠。其罪典衣、以為失其事也,其罪典冠、以為越其職也。 非不惡寒也,以為侵官之害甚於寒。故明主之畜臣,臣不得越官而有功,不得陳言而不當。 越官則死,不當則罪。 守業其官所言者貞也,則群臣不得朋黨相為矣。

 昔者、韓の昭侯、酔ひて寝ねたり。/典冠の者君の寒きを見るなり、故に衣を君の上に加ふ。/寝より覚めて説び、左右に問ひて曰はく、「誰か衣を加ふる者ぞ?」と。/左右対へて曰はく、「典冠なり」と。/君因りて典衣と典冠とを兼ね罪せり。/其の典衣を罪せるは、以て其の事を失ふと為せばなり、其の典冠を罪せるは、以て其の職を越ゆと為せばなり。/寒きを悪まざるに非ざるなり。以為へらく、官を侵すの害は、寒きよりも甚だし、と。/故に明主の臣を蓄ふや、臣官を越えて功有ることを得ず、言を陳べて当たらざることを得ず。/官を越ゆれば則ち死され、当たらざれば則ち罪せらる。/業を其の官に守り、言ふ所の者貞なれば、則ち群臣朋党相ひ為すを得ざるなり。

〈訳〉 昔、韓の昭侯が酒によってうたた寝したところ、冠係りの役人は、昭侯が寒そうであるのを見て衣服を侯の体に掛けた。侯は目を覚まして喜び、近習の者に「衣服をかけてくれたのはだれだ」と尋ねた。/近習は「冠係りの役人です」と答えた。/そこで侯は衣服係りと冠係りの両方の役人をばっした。/衣服係りを罰したのは、その職務を怠ったと考えたためであり、冠係りを罰したのは、自分の職務以外の事に出しゃばったと考えたためである。/勿論侯とて寒さを厭わないわけではないが、職務外のことをする越権の害が、寒さよりも恐るべきものだと思ったからである。

 いつの間にか、本年も半分が過ぎ去った。本日より7月。まこと、歳月人を待たずである。
 早朝7時、関西在住のKS氏より、電話が入り、上京してパレスホテルいるという。「本日なら一日空いているから会えるのだが…」ということであるが、本日のっぴきならぬ先約があり、会えず。残念。

 天宝元(742)年秋、都長安に出てきた李白(701~762年)は、その文才を認められて玄宗の宮中に召されたが、天宝三載(744年、この正月、年を載に改めた)3月讒言に遇い宮中を追われた。4月洛陽を通った李白に杜甫は初めて会い、この年と翌年にかけて河南や山東の地方を、時には同じく詩名のあった高適(こうせき、707~765年)も交えてともに放浪の生活を送ったことがある。2人が実際に親しく交際したのはこの時限りで、李白が江南の地に去り、杜甫も長安に出て、その後再び会うことはなかったが、杜甫の李白に寄せる友情は終生変ることは無かったと言う。

9313251a.JPG   春の日に李白を思って
 李白よ あなたの詩に適うものは居ません
 自由自在 発想がずばぬけています
 すがすがしく新鮮なことは庾信のようです
 優れて俊逸なことは鮑照のようです
 渭水の北は いま 春の樹が立ち並んでいます
 江南の地には夕暮れの雲が漂っていることでしょう
 何時のことでしょう 一樽の酒を酌み交わし
 もう一度 あなたとくわしく詩を論じ合えるのは

2f02ace0.JPG* 庾信(513~581年)は南朝の梁の人で、梁朝に仕えていたが、北周が梁を滅ぼした後、捕えられて開封
儀同三司という高い官職に就いた。それで庾開府と呼ぶ。彼は同時代の徐陵(507~583年)とともに文学
の才を称えられ、艶麗な詩文は「徐庾体」とよばれている。

fab13fd1.JPG* 鮑照(405~466年)は六朝時代の宋の文人。臨海王劉子頊(りゅうしぎょく)に仕え、前軍刑獄参軍事
となったので鮑参軍ともいう。子頊が反乱を起して敗れた骰に、彼もまた殺害された。詩文に家作が多いが、
 特に樂府体の子に優れていた。

 遠く離れた友の身の上を思うことを「渭樹江雲」とか「春樹暮雲」というのは、この杜甫の詩からを由来とする。
 

 救急車・消防車がけたたましくサイレンを鳴らしながら、駆け抜けてゆく。上空は何台かのヘリが飛び交っている。ウェブニュースによると、
7c440c73.JPG 都心で猛暑日、観測史上3度目 中高生16人が熱中症 ―― 29日午前10時25分ごろ、東京都台東区今戸1丁目の台東リバーサイドスポーツセンターで、熱中症の患者がいると119番通報があった。東京消防庁などによると、上野学園中学・高校(同区)の12~18歳の女子生徒16人に熱中症の症状が出ており、救急車で病院に運ばれた。11人は軽症だが、5人はやや重い症状という。/同庁や同校によると、午前9時40分ごろから同センター陸上競技場で同校の運動会が開かれており、生徒の男女約650人らが参加していた。不調を訴える生徒が相次いだため、同校は運動会を中止した。/気象庁によると、東京都心の気温は午前10時の時点で32.6℃。午後1時すぎには35.1℃を観測し、今年初の猛暑日となった。 (asahi com. 2011年6月29日13時33分)

638fda2a.JPG 韓愈(768~824年)は鄧州南陽(河南省)の人。字を退之といい、その文章では孟子、荘子、韓非子にも比すべき唐代の第一人者といえる。3歳にして孤児となり兄嫁に養われ、25歳にして進士となる。52歳の憲宗が仏舎利を宮中に厚く迎えたとき、儒教を信奉する彼の立場から偶像崇拝であるといって、「論仏骨長」を書いて憲宗を諌めたが、却って逆鱗に触れ、潮州に左遷される。穆宗(ぼくそう、唐15代皇帝)が位につくと翌年には再び召し戻されて、吏部侍郎になり、さらに京兆尹兼御史大夫という高い位にまでなったが、長慶4(824)年57歳にして世を去る。
 韓愈は非常に強い信念の人で、権力にも威武にも屈せず節操に堅く、時の流れに棹さして、身の栄達をする人の多い世の中に批判的であった。詩も実に雄大で、自然詩でも人間に恐怖の観念や驚異の感情を起こさしめるような豪放的な厚みのある格調をただよわす独自の一派を開いた。「鴻溝を過ぐ」はその特色の出た秀作というべきであろう。
 項羽と劉邦の二人、最初は秦国を倒すために手を組んでいたのだが、秦が滅びると「天下の覇権」を賭け激烈な戦いを展開する。この抗争は3年以上続く。竜と虎に例えられた二人が激しい戦いを繰り広げたために、人民の疲弊ははなはだしかった。
 そこで、二人は「漢楚中分」の盟約を結ぶ。鴻溝という川を挟んで西を「漢」(劉邦)、東を「楚」(項羽)と取り決め、天下を二分した。
16ba7ecc.JPG 劉邦も西の漢へ帰ろうとする。が、それを劉邦の配下の張良と陳平が進言する。「今や楚兵は疲れ、食料も不足しており、勢力の優劣は明らかです。この機会を失ってはなりません。」
 後世(8世紀末)、唐代の詩人・韓愈(かんゆ)が鴻溝のほとりで七言絶句に詠んだのが「乾坤一擲」の由来である。
 韓愈はこの張良と陳平が漢王を援けた功業を鴻溝の土地でしのび、まさに天下を賭けた大ばくちと見たのであろう。一擲というのは、すべてのものを一度に投げ出すことで、一擲千金とか一擲百万とかよくいわれる。乾坤は則ち天地で、「一擲乾坤を賭する」則ち「乾坤一擲」は、天下を取るか失うか、のるかそるかの大冒険を行うことによく用いられる。

b0ef9d28.JPG 至尊尚蒙塵  至尊(しそん)は尚(な)お蒙塵(もうじん)す
 幾日休練卒  幾日か卒(そつ)を練るを休(や)めん
 仰観天色改  仰いで天色(てんしょく)の改まるを観(み)
 坐覚妖気豁  坐(そぞろ)に妖気(ようき)の豁(かつ)なるを覚(おぼ)ゆ
 陰風西北来  陰風(いんぷう)  西北より来たり
 惨澹随回鶻  惨澹(さんたん)として回鶻(かいこつ)に随う
 其王願助順  其の王は助順(じょじゅん)を願い
 其俗善馳突  其の俗(ぞく)は馳突(ちとつ)を善(よ)くす
 送兵五千人  兵を送る  五千人
 駆馬一万匹  馬を駆(か)る  一万匹
 此輩少為貴  此の輩(はい)  少(わか)きを貴(とうと)しと為(な)し
 四方服勇決  四方(しほう)  勇決(ゆうけつ)に服す
 所用皆鷹騰  用うる所は皆な鷹(たか)のごとく騰(あが)り
 破敵過箭疾  敵を破ることは箭(や)の疾(と)きに過(す)ぐ
 聖心頗虚佇  聖心(せいしん)は頗(すこぶ)る虚佇(きょちょ)したまうも
 時議気欲奪  時議(じぎ)は気の奪われんと欲(ほっ)す
〈訳〉天子様はまだ兵塵を避けておられる/何時の日の事だろう 兵隊の訓練が無くて済む日は/仰げば天の色にも何か変化が見られるし/何となく兵乱の悪気も晴れそうにも感じられる/陰気な風が西方のほうから吹いてくるが/それはうす暗くウイグルの軍隊にまつわりながら来たもの/ウイグルの王が天子様の軍の見方をしたいと言う/彼らは馬に乗って攻撃するのがうまい/兵士五千を屋って寄越した/一万匹の馬を駆り立ててきた/彼らは若者を尊重している/四方の国々は彼らの勇猛果敢に服従している/いざという時 彼らは鷹の飛ぶように/敵を打ち破るのは矢よりも速い/天子様は非常に虚心にウイグルを受け入れられるが/世論は何とも言えずに そのままにあっけにとられている

 伊洛指掌収  伊洛(いらく)  掌(たなごころ)を指(さ)して収めん
 西京不足抜  西京(せいけい)も抜くに足らざらん
 官軍請深入  官軍  深く入らんことを請(こ)う
 蓄鋭可倶発  鋭(えい)を蓄(たくわ)えて倶(とも)に発す可(べ)し
 此挙開青徐  此の挙(きょ)  青徐(せいじょ)を開かん
 旋瞻略恒碣  旋(たちま)ち恒碣(こうけつ)を略するを瞻(み)ん
 昊天積霜露  昊天(こうてん)  霜露(そうろ)積(つ)み
 正気有粛殺  正気(せいき)  粛殺(しゅくさつ)たる有り
 禍転亡胡歳  禍いは転ぜん  胡(こ)を亡ぼさん歳(とし)
 勢成擒胡月  勢いは成らん  胡を擒(とりこ)にせん月
 胡命其能久  胡の命(めい)  其れ能(よ)く久しからんや
 皇綱未宜絶  皇綱(こうこう)  未だ宜(よろ)しく絶ゆべからず
〈訳〉伊水・洛水の地方は手の内のもののようにこちらのもの/長安を陥れるのも訳は無い/官軍に賊の根拠地まで深く攻め入ってもらいたい/鋭気を貯えてウイグル軍といっしょに攻めるべきだ/今度の行動は青洲・徐州一帯を解放するだろう/また恒山〈こうざん〉・碣石〈けっせき〉の地の攻略も可能であろう/大空に霜や露が満ち満ちている/正義の気がひしひしとみなぎっている/禍を転じて 賊を滅ぼす年となり/その勢いは賊を虜にするという月にもなろう/賊軍の運命は長続きするものか/天子様の時代が断絶することは無い

b7e16673.JPG 憶昨狼狽初  憶う昨(さく)  狼狽(ろうばい)の初め
 事与古先別  事は古先(こせん)と別なり
 姦臣竟葅醢  姦臣  竟(つい)に葅醢(そかい)せられ
 同悪随蕩析  同悪  随って蕩析(とうせき)す
 不聞夏殷衰  聞かず  夏殷(かいん)の衰えしとき
 中自誅褒妲  中(うち)の自ら褒妲(ほうだつ)を誅(ちゅう)せしを
 周漢獲再興  周漢(しゅうかん) 再興するを獲(え)しは
 宣光果明哲  宣光(せんこう)   果たして明哲(めいてつ)なればなり
 桓桓陳将軍  桓桓(かんかん)たり  陳(ちん)将軍
 仗鉞奮忠烈  鉞(えつ)に仗(よ)りて忠烈を奮(ふる)う
 微爾人尽非  爾(なんじ)微(な)かりせば人は尽(ことごと)く非(ひ)ならん
 于今国猶活  今に于(お)いて国は猶(な)お活(い)く
〈訳〉思えば昨年のこと 天子様の出奔というあわただしい事件/事態は古い先例とは違っている/悪臣は結局は処刑され/その仲間の者どもも滅ぼされた/かつて夏や殷が衰えた時/皇帝が自分から褒娰〈ほうじ〉とか妲己〈だっき〉を殺されたとは聞いていない/周や漢が再興することができたのは/宣王や光武帝が聡明であったからだ/ああ陳将軍の勇敢武烈/鉞により縋って彼はその忠義と武烈を示した/あなたが居なかったら人民は現在のようではなかったのだ/いまもなお国家はいきいきとしている

 淒涼大同殿  淒涼(せいりょう)たり  大同殿(だいどうでん)
 寂寞白獣闥  寂寞(せきばく)たり   白獣闥(はくじゅうたつ)
 都人望翠華  都人(とじん)  翠華(すいか)を望み
 佳気向金闕  佳気(かき)   金闕(きんけつ)に向かう
 園陵固有神  園陵(えんりょう)  固(もと)より神(しん)有り
 掃灑数不欠  掃灑(そうさい)   数(すう)欠けず
 煌煌太宗業  煌煌(こうこう)たり  太宗の業(ぎょう)
 樹立甚宏達  樹立  甚(はなは)だ宏達(こうたつ)なり
〈訳〉長安の大同殿はものさびしく/白獣闥(はくじゅうたつ)はひっそりと静かであろう/長安の人人は天子の羽飾りの付いた旗を待ち望んでいる/めでたい霊気はこちらから黄金の宮門に向っている/唐朝の天子の墓所には神霊が宿っている/歴代の祭祀は欠くことも無いであろう/太宗皇帝の建国の大業は輝かしいものだ/国家樹立の大業は広大であり永遠のものなのだ
 

574683a6.JPG 況我墮胡塵  況んや我胡塵(こじん)に墮(お)ち
 及歸盡華髪  歸るに及んで盡く華髪(かはつ)なり
 經年至茅屋  年を經て茅屋(ぼうおく)に至れば
 妻子衣百結  妻子衣百結(ひゃくけつ)
 慟哭松聲回  慟哭すれば松聲(しょうせい)回(めぐ)り
 悲泉共幽咽  悲泉共に幽咽(ゆうえつ)す
 平生所嬌儿  平生嬌る所の儿(じん)
422d7f18.JPG 顏色白胜雪  顏色白きこと雪に胜(まさ)る
 見耶背面啼  耶(や)を見て面を背(そむ)けて啼く
 垢膩脚不襪  垢膩(こうじ)脚襪(しとうず)せず
 床前兩小女  床前の兩小女
 補綴才過膝  補綴(ほてつ)纔(わずか)膝を過ぐ
 海圖拆波濤  海圖波濤に拆(さ)け
 舊繡移曲折  舊繡(きゅうしゅう)移りて曲折す
 天吳及紫鳳  天吳(てんご)及び紫鳳(しほう)
 顛倒在短褐  顛倒して短褐(たんかつ)に在り
〈訳〉まして、私は賊軍の中に陥り/家に帰ったときにはすっかり髪が白くなっていた/一年ぶりにみすぼらしい我が家に着くと/妻も子供も着物はぼろぼろだった/声をあげて泣いた松風の音も辺りに響き/泉の水もいっしょに咽び悲しむように流れた/いつもは暴れん坊の男の子は/顔の色が白い雪のようになっていて/父親の私を見て顔を背けて泣き出した/垢と油で汚れた顔 足には足袋も履いていない/寝床の前の二人の女の子は/つぎはぎだらけの着物 やっと膝を隠しているだけ/海の絵の模様が 波頭が途中まで/古ぼけた刺繍が剥がれてびらびら曲がってたれている/海の怪物天呉と刺繍の紫の鳳とが/短い上衣にさかさまについている

 老夫情怀惡  老夫情怀惡しく
 數日臥嘔泄  數日臥(ふ)して嘔泄(おうせつ)す
 那無囊中帛  那(なん)ぞ囊中の帛(はく)の
 救汝寒凜栗  汝が寒くして凜栗(りんりつ)たるを救ふ無きや
 粉黛亦解苞  粉黛(ふんたい)亦苞を解けば
 衾裯稍羅列  衾裯(きんちゅう)稍(ようや)く羅列す
 瘦妻面复光  瘦妻面复(また)光り 
 癡女頭自櫛  癡女(ちじょ)頭自ら櫛(くしけ)ずる
 學母無不為  母を學んで為さざる無く
 曉妝隨手抹  曉妝手に隨って抹す
 移時施朱鉛  時を移して朱鉛を施し 
 狼籍畫眉闊  狼籍畫眉(がび)闊(ひら)く
〈訳〉年取った私は気分が悪くなって/吐き下して数日間床についてしまった/袋の中には布地がないわけではない/お前たちが寒さに慄えるのをなんとも出来ないのではない/白粉やまゆずみも ほどいた荷物から出して/布団の上にだんだんと並べると/痩せこけた妻の顔もどうやら明るさを取り戻し/まだ知恵つかぬ女の子も自分で梳ったりし始めた/母親の真似を何でもしたがる/明け方化粧をするといって白粉を塗りたくり/それから紅や白粉をつけていたが/でたらめに眉をふとぶと描いた

8307ebd6.JPG 生還對童稚  生還して童稚に對するは
 似欲忘饑渴  饑渴を忘れんと欲するに似たり
 問事競挽須  事を問ひて競って須を挽くも
 誰能即嗔喝  誰れか能く即ち嗔喝せん
 翻思在賊愁  翻って賊に在りし愁を思ひ
 甘受雜亂聒  甘んじで雜亂の聒(かまびす)しきを受く
 新婦且慰意  新たに婦って且つ意を慰む
 生理焉得說  生理焉んぞ說くを得ん
〈訳〉生きて帰って子供たちと会っていると/飢えも喉の渇きも 殆んど忘れたしまう/話しかけてきて皆で競走のように鬚を引張ったりする/誰がそれを怒ったり出来るものか/賊の中にいた頃を思い返してみると/子供たちのがやがやしたうるささもなんともない/家に帰って私は気持ちがなぐさめられて/生活のことなどはとても言い出せない
2d3628ad.JPG 靡靡逾阡陌  靡靡として阡陌を逾ゆれば
 人煙眇蕭瑟  人煙眇(びょう)として蕭瑟(しょうしつ)たり
 所遇多被傷  遇ふ所は多く傷を被り
 呻吟更流血  呻吟して更に血を流す
 回首鳳翔縣  首を回らす鳳翔縣(ほうしょうけん)
 旌旗晚明滅  旌旗(しょうき)晚に明滅す
 前登寒山重  前(すす)みて寒山の重なれるに登り
 屢得飲馬窟  屢々飲馬の窟を得たり
〈訳〉のろのろと畑の中の道を行くと/人家の煙が遥か彼方にさびしく立ちのぼっている/途中で出会う人は傷ついているものが多く/あるものは呻き あるものはちをながしている/行在所のある鳳翔県の方を振り返ると/軍旗が西日の中で見え隠れしている/更に進んで寒々と山の重なって聳え立つのに登る/所々に馬に水かいする岩穴がある

 阜郊入地底  阜郊地底に入り
 涇水中蕩□  涇水中に蕩□(とうこう)たり
 猛虎立我前  猛虎我が前に立ち
 蒼崖吼時裂  蒼崖(そうがい)吼ゆる時裂く
 菊垂今秋花  菊は垂る今秋の花
 石戴古車轍  石は戴く古車の轍(てつ)
 青云動高興  青云(せいうん)高興を動かし
 幽事亦可悅  幽事(ゆうじ)亦悅ぶべし
〈訳〉邠州の平野は山の下 地の底のように低く見え/涇水が盆地の真ん中を水も豊に流れている/強そうな虎が私の前に立ちふさがり/吼えると青々とした崖がゆらいで裂けそうだ/菊は新しい花を たれるほど咲かせ/石の上には車の跡がある 誰かがずっと前に通った跡だ/青空は私の心をはずませ/山中の自然もなかなかいい

d69e1c6a.JPG 山果多瑣細  山果は多く瑣細(ささい)なり
 羅生雜橡栗  羅生(らせい)橡栗(しょうりつ)を雜(まじ)ふ
 或紅如丹砂  或は紅にして丹砂の如く
 或黑如點漆  或は黑くして點漆(てんしつ)の如し
 雨露之所濡  雨露の濡す所
 甘苦齊結實  甘苦齊(ひと)しく結實す
 緬思桃源內  緬(はるか)に桃源の內を思ひて
 益歎身世拙  益々身世の拙なるを歎く
 坡陀望阜寺  坡陀として阜寺を望めば
 岩谷互出沒  岩谷互ひに出沒す
 我行已水濱  我が行は已に水濱
 我仆猶木末  我仆(がふ)は猶木末なり
〈訳〉山の木の実には小さなものが沢山ある/いっぱいなっていて橡の実や栗なども混じっている/あるものは丹砂のように真っ赤だし/あるものはぽつぽつと漆のように黒い/雨や霧にしっとりと濡れ/甘いのも苦いのもみな実っている/遥か遠くのかの桃源郷を思いやって/ますます私は自分の処世の拙さを嘆くことになった/鄜州にある祭壇が広々とした彼方に見え始め/そこは岩と谷が入り混じっている/私はもう川の畔まで下っているのに/従僕たちはまだ山の上の梢の所を通っている

 鴟梟鳴黃桑  鴟梟〈しきゅう〉黃桑〈こうそう〉に鳴き
 野鼠拱亂穴  野鼠〈やそ〉亂穴〈らんけつ〉に拱(きょう)す
 夜深經戰場  夜深くして戰場を經れば
 寒月照白骨  寒月白骨を照らす
 潼關百万師  潼關〈どうかん〉百万の師
 往者散何卒  往者散ずること何ぞ卒(すみやか)なる
 遂令半秦民  遂に半秦の民をして
 殘害為异物  殘害せられて异物(いぶつ)と為らしむ
〈訳〉梟が枯れた桑の木で鳴き/野鼠はあちこちの畑の穴蔵の所でちょこんとしている/夜中に戦場のあとを通ると寒々とした月の光が白骨を照らしている/潼関の戦いで百万からの軍が/どうしたわけかあっという間に敗れ/結局秦の地方の大半の人民が/殺され溺れ死に この世のものでなくなったのだ

1083fb28.JPG 至徳二載(757年)秋、杜甫は鳳翔(今の陝西省鳳翔県)から、家族の居る鄜州(陜西省冨県)にかえることになる。この年2月、肅宗の行在所は鳳翔に移っており、4月には杜甫は長安を逃れて危険を冒しながら鳳翔に至った。そこで左拾遺の職を授けられたが、宰相房琯(ぼうかん)が免職されると言う事件があり、親友琯のために弁護した杜甫も肅宗の怒りに触れたが、宰相の張鎬のとりなしで罪をまぬかれ8月1日鄜州の家族の下に帰ることを許されて、邠州(今の陝西省邠県)を経て家族の下に帰った。その時のことを詠じた長詩が「北征」である。この詩の原文は五言古体の長詩で、七百字を費やした大作である。

 9cb9f82f.JPG                北征
    杜甫
 皇帝二載秋  皇帝二載の秋
 閏八月初吉  閏八月初吉
 杜子將北征  杜子將に北征して
 蒼茫問家室  蒼茫家室を問はんとす
〈訳〉今上皇帝至徳二年秋/閏八月一日/私は北への旅に立とうとする/どうしているのか 家族の様子を見るために

 維時遭艱虞  維の時艱虞に遭ひ
 朝野少暇日  朝野暇日少し
 顧慚恩私被  顧みて恩私の被るを慚ず
 詔許歸蓬蓽  詔して蓬蓽に歸るを許さる
 拜辭詣闕下  拜辭す詣闕の下
 怵惕久未出  怵惕して久しく未だ出でず
 雖乏諫諍姿  諫諍の姿に乏しと雖も
 恐君有遺失  君が遺失有らんことを恐る
〈訳〉時は艱難にみち 心配事の多い時/朝野を問わず忙しい日々なのだ/思えは忝いことだ/天使は詔(みことのり)して 私があばら家に替えることを許された/おいとまごいに行在所の門にうかがったが/君の身を思い恐れ多くて 何時までも立ち去り難かった/私は天子を追いお諫めする役目にはふさわしくないのだが/君に何か落度でもあってはと心配なのだ

 君誠中興主  君は誠に中興の主なり
 經緯固密勿  經緯固より密勿たり
 東胡反未已  東胡反して未だ已まず
 臣甫憤所切  臣甫の憤りは切なる所
 揮涕戀行在  涕を揮って行在を戀ひ
 道途猶恍惚  道途猶ほ恍惚たり
 乾坤含瘡痍  乾坤瘡痍を含む
 憂虞何時畢  憂虞何れの時にか畢らん
〈訳〉まことに君は中興の英主であらせられ/国事の経営に精励されている/東の蛮族の反乱はまだ/続いている/臣たる私は憤りが胸にこみ上げてくる/涙をふるってお別れしたが 行在所のことを思い/道中もなお考え続けて茫然としてしまう/天も地も至る所 戦いの傷を受けている/この不安は何時になったらおわるものなのか

 ブログを始めて、3年有余。まあ、いい加減マンネリになり、自分でも飽きてきた。まあ、ここら辺りで何とか、打破したいものだが、どうにもならぬようだ。
 朝の徘徊も、3年も続けば、書くこともなくなってくるし、写真も余り代わり映えしない。

 班彪(AD3~54年)、字は叔皮(しゅくひ)、扶風安陵(陝西省咸陽県東)の人。幼少より沈着好古の風があり、20歳(後漢書に依れば20余歳)の時、王莽の敗死により、天下乱れ世情騒然となったため、長安を去って安定に隗囂(かいごう)を頼ったが、改めて河西の大将軍寶融の幕下に身を寄せ従事となり、後寶融の水仙に依り、光武帝に仕え、徐(安徽省)の令、望都(河北省)の長となった。歴史に興味を持ち、司馬遷の史記の続作を志したが完成に到らず、子の班固(32~92年)によって『漢書』が成った。西域で功績を挙げた班超(32~102年)・女流学者班昭(曹大家、45?~117?年)はともに彼の子供である。
 次の『北征賦』の「征」とは旅行の意であり、掲載書の「文選」では紀行の類に入れてある。現存するものでは「○征賦」と題するものの最初の作品と思われる。彼以後のものとしては曹大家の「東征賦」、晋の潘岳(はんがく、247~300年)などが有名であり、杜甫の長篇叙事詩「北征」など後世の紀行詩にも多くの影響を与えたといわれる。
 作品制作の動機は既に作品の中で語っているが、当時の環境を『漢書』叙伝にひもとけば「班彪年二十にして、王莽敗れ、世祖(光武帝のこと)冀州(河北省一帯)に即位す。時に隗囂、隴に拠りて衆を擁し、英俊を招き緝(あつ)む。而るに公孫述(?~36年)、帝を蜀漢(四川省)に称し、天下雲の如く擾(みだ)れ、大なるものは州都を連ね、小なるものは県邑に拠れり」とある。班彪は先ず隗囂を頼ったが、彼に見切りをつけ文中にあるように河西大将軍の寶融を頼っていったのである。

8dd8d0eb.JPG(訳) 北に旅する賦(うた)
 私は世の中が顛覆(くつがえ)り、王道が影を潜める災厄に直面した。昔ながらの建物は荒地となった。この土地にはとても住めない。思い切って北に旅立ち、誰もいない遠い所に行こう。
 朝、都の長安を出発し、夕べには瓠谷(陝西省涇陽の西)の玄宮に宿泊した。雲陽県(涇陽の西)の門を通って振り返り、通天台の聳え立つのを眺めやる。山坂を登りつ降りつして行き、郇(じゅん)や邠(ひん)の町に休息しては、周の遠祖公劉の遺徳を追慕し「行葦篇」(『詩経』大雅)の草木にさえ及んだ仁愛に思いを馳せる。公劉の世に生まれた人びとは幸福多く、私のみが何故かくも不幸せなのだろう。しかし、これも時世の変化によるものであろう。何故なら、天命は決して気ままなものではないからだ。
 赤須の長い坂を登り、義渠(昔の西戎国、甘肅省に属す)の古い都に入る。私は今でも、西戎王の淫乱と狡猾さに怒りを覚え、彼と通じた宣太后(昭襄王の母)の不貞を穢しいと感じ、秦の昭襄王が西戎を討つべく、憤然として北伐の軍を進めたことを喜ばしく思う。
 心乱れるままに、この旧都をいで立てば、馬の歩みもはかどらず、遅々としてかつての西戎国をばめぐる。かくてはならじと、速度を早め、旅程をはかどらせ、目的地安定(甘肅省固原)までの日程を決めた。
 長い道は遥かに何処までも続き、果てしなくうねりくねり、折れ曲がる。泥陽(甘肅省東北部に属する地名という)を通過し、私は大きく溜息をついた。祖先の廟(みたまや)が荒れたままになっていたからである。
 私は彭陽(ほうよう、甘肅省鎭原県東)で旅装を解いた。暫くは休息をとり、思案を重ねるためである。日の光はかげろい、夕暮れは迫り、牛や羊が放牧されていた山から下りて来る。今の私には、夫と別れた妻、妻と別れた夫の激しい悲しみが、しみじみ理解でき、『詩経』や『楚辞』の詩人たちの発した旅の嘆きに、共感できる。
 安定を通り過ぎ、ゆっくりと旅を続け、長城に沿い、果てしない道を行く。かの蒙恬〈もうてん、秦の将軍〉は民衆を酷使し、長城を構築したが、それは強勢を誇った秦には、民衆の怨みを築く作業でもあった。秦は身近に、趙高(ちょうこう、権臣)・胡亥(こがい、王位を簒奪して二世皇帝となった)に由来する内憂を控えながらも、遥か彼方の蕃族に備えるのに懸命となり、聖徳を輝かして、遠国をなつけることをせず、防壁を堅く厚くすることのみに熱中した。蒙恬は死の直前に至るも、(民衆酷使の罪を悟らず、)なお己の功績を数え上げ、過失を認めることを拒否した。何と彼の言い分のでたらめさ加減、「地脈を断ち切ったのは悪かった」とは、よくもほざきおった。
 長城の城楼に登り、あちこちを見張るかし、しばらくの寛ぎをうる。(遠くは夏の時代に)獯鬻(くんいく、匈奴の1種族)が中国を騒がしたのを悲しみ、〔近くは、文帝(在位BC178~151年)の世に、匈奴が侵攻し、〕朝那(ちゆな、甘肅省平涼の西北)で戦死した都尉(地方軍司令官)の孫邛(そんきょう、段邛ともいう)を弔う。わが大いなる文帝陛下は、謙譲の美徳を発揮され、軍隊を動かさず、恩恵を四方に施された。かの趙佗(ちょうだ、南越―広東・広西省地方―の王を僭称した)の父兄に至るまで仁慈を垂れたまい、趙佗はその恩恵に感じ、王を称するのをやめ、臣従を誓った。また藩国(王室を守る諸侯の国)の一つ、呉の王劉濞(りゅうび)に脇息と杖(老人を労わる器具)を賜い、その反逆の意図を挫かれた。これらはすべて太宗(文帝の廟号)の広大無辺なる聖徳によるのであり、前に秦が企てたところとはとても比較にならぬ。
 高平(甘肅省固原付近の旧県名)の髙処(たかみ)に登り、辺りを見渡せば、山岳や渓谷は高く険しく、荒野はさびしくも果てしなく曠がり、千里のかなたまで人家は見えぬ。つむじ風わきおこり、ヒュウヒュウ空は鳴り、谷川は激しく流れてしぶきをあげる。時に深い雲霧たちこめ、真白に積もる雪は山肌をおおう。雁は睦ましげに群れ飛び、鵾鶏(こんけい、鶴の一種)はかしましく鳴き交わす。
 遊子(たびびと)は故郷を思い、心悲しみ胸も破れんばかり。長剣の柄(つか)を打ちたたき、嘆息(なげき)を洩らせば、涙ははふり落ち、衣を濡らす。
 涙を拭えば、やがて心はたかぶり、多くの民衆(ひとびと)の災禍に遇うを悲しむ。何が故に、この暗雲は晴れやらぬか。ああ、年久しく、世に平和は訪れず。これもみな、時運のなせるわざとはいえ、積もり重なる怨み、誰に訴えるべきか。
 乱(反歌にあたる)にはいう。
 孔子でも、行きなやむ時があったのは、当然ながら、学芸に身を委ね、楽しみつつ、憂いを忘れられたのは、聖賢なればこそ。
 達人は、事をさばくに、節度を守り、出処進退は、時の流れに任す。
 君子(有識者のこと)は、信義の実践を常に心掛ける。たとえその身、蛮地に赴くとも、憂い恐れるものとて、何一つないはずだ。
 

 4時30分、今にも降りだしそうな天気であったが、白鬚橋~吾妻橋の間のテラスを徘徊。スカイツリーも雨雲に包まれること無く、目の前に立ちはだかっている。
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d105b82f.JPG   大を治めんとする者は、小を治めず
 楊朱が梁の国王に会って、「天下を治めること等、手のひらで物を転がすように容易(たやす)いことです」と言うと、王は言った。
 「あなたには妻が一人と妾が一人おいでだが、それさえ仲良くさせることが出来ない。また三畝ばかりの畑をお持ちだが、それさえうまく手入れすることが出来ない。それなのに天下を治めることなど手のひらで物を転がすように容易いと言われるのは、いったいどういうことですか」
 すると楊朱は答えた。
 「殿はあの羊飼いをご覧になったことがございますか。百匹もの羊が群れをなしていますが、幼い童に、鞭を肩にかついて後ろからついてゆかせれば、東に行かせようと思えば東、西に行かせようと思えば西と全く思うままです。とろこでもし尭に一匹の羊を引張らせ、舜に鞭を肩に担いで後ろからついてゆかせれば、とても羊を歩かせることは出来ません」
 それにまた、私はこんな言葉を聞いています。舟を一飲みにするほどの大魚は、小さい枝川には泳がず、鳳(おおとり)は空高く飛んで小さな水溜りには降りてこないという言葉を。何故かと言えば、彼らの目指すものがこの上なく遠大だからです。また、音律の根本をなす黄鍾や大呂の調べは、手の込んだ楽曲の舞にはついてゆけないとか。それというのも、その調べが大まかでゆったりしているからです。大きなところを調えようとするものは小さなことをいじりまわさず、大きなことをやってのけようとするものは、小さなことに手を出さないというのは、このことを言ったものです」

 本日は夏至。1年中で一番日の長い日である。冬至と比べれば、昼間の長さは4・5時間は違おうか?
 久し振りの晴天で中天には旧暦22日の月(下弦の月)が輝いている。
 ここ桜橋近辺では滅多に見られない白鷺が一羽川辺に遊んでいた。
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0e5accfb.JPG 人生の四十年は 衰え切ったほどではないが
 愁いが多いために   私は白髪を垂れている
 水辺の二羽の白鷺は 愁いごともないはずだ
 なのにどうして   頭に糸毛を垂れているのか


   一毛を抜きて天下を利せず
a6829935.JPG 楊朱の言葉。
 「むかし伯成子高(はくせいしこう)は、体の毛一本を抜くほどのわずかの犠牲でも、それによって他人の利益を計ろうとはせず、大名の地位を棄てて隠者となり農耕に従事した。また偉大な帝王であった禹は、一身のために自己の利益を計ろうとはせず、そのために身体じゅうが半身不随になったと言う。
 このように古人は、一本の毛を抜けば天下の利益になる場合でも他人のために犠牲は払わず、世界全体が吾が身の養いに捧げられても、それを自分のものとはしなかった。もしも人々が体の毛一本も他人のために犠牲にしようとはせず、また人々が天下の利益を計ろうとしなければ、そのときこそこの世界に本当の平和が実現するのだ。
 その言葉を聞いた墨子の弟子の禽滑釐(きんこつり)が楊朱に訊ねて言った。
「君の体に生えている毛一本を抜いて、それで世の中か救われると言うのであれば、君はそれをするだろうか」
 すると楊朱先生は答えた。
「世の中は勿論一本の毛ぐらいで救われるものではない。」
 禽滑釐が、「もし救われるものならばそれをしますか」と、詰め寄ると、楊朱は黙って何も答えなかった。
 さて、禽滑釐が退出して楊朱の弟子の孟孫陽(もうそんよう)にその話をすると、孟孫陽はこう言った。
「君には楊先生のお心がよく分っていないのだ。私がひとつ説明してみよう。もし君の肌膚(はだ)を傷つけて大金が貰えるとすれば、君はそれをするだろうか」
 禽滑釐がやや暫し黙っていると、孟孫陽はさらに言葉を継いだ。
「一本の毛は肌膚より微小であり、肌膚は体の一節より微小なことは明白である。だとすれば一本の毛が集まって肌膚ができあがり、肌膚が集まって体の一節が出来上がるのであり、一本の毛は言うまでも無く体全体の万分の一の存在と言うことになる。どうして軽視していいものだろうか」
 すると、禽滑釐は言った。
「私は、君に答える術が分らない。だとすれば誰かに問い質(ただ)すことになるが、君の主張を老耼や関尹に問い質せば、君の主張のほうが正しいだろう。しかし、私の主張を偉大な帝王の禹や、禹を理想とする墨翟に問い質せば、私の主張のほうが正しいであろう」
 孟孫陽はそこで辺りを見回し、己の仲間達とよそ事を喋りあって話をそらした。
 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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