瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 ブログを始めて、3年有余。まあ、いい加減マンネリになり、自分でも飽きてきた。まあ、ここら辺りで何とか、打破したいものだが、どうにもならぬようだ。
 朝の徘徊も、3年も続けば、書くこともなくなってくるし、写真も余り代わり映えしない。

 班彪(AD3~54年)、字は叔皮(しゅくひ)、扶風安陵(陝西省咸陽県東)の人。幼少より沈着好古の風があり、20歳(後漢書に依れば20余歳)の時、王莽の敗死により、天下乱れ世情騒然となったため、長安を去って安定に隗囂(かいごう)を頼ったが、改めて河西の大将軍寶融の幕下に身を寄せ従事となり、後寶融の水仙に依り、光武帝に仕え、徐(安徽省)の令、望都(河北省)の長となった。歴史に興味を持ち、司馬遷の史記の続作を志したが完成に到らず、子の班固(32~92年)によって『漢書』が成った。西域で功績を挙げた班超(32~102年)・女流学者班昭(曹大家、45?~117?年)はともに彼の子供である。
 次の『北征賦』の「征」とは旅行の意であり、掲載書の「文選」では紀行の類に入れてある。現存するものでは「○征賦」と題するものの最初の作品と思われる。彼以後のものとしては曹大家の「東征賦」、晋の潘岳(はんがく、247~300年)などが有名であり、杜甫の長篇叙事詩「北征」など後世の紀行詩にも多くの影響を与えたといわれる。
 作品制作の動機は既に作品の中で語っているが、当時の環境を『漢書』叙伝にひもとけば「班彪年二十にして、王莽敗れ、世祖(光武帝のこと)冀州(河北省一帯)に即位す。時に隗囂、隴に拠りて衆を擁し、英俊を招き緝(あつ)む。而るに公孫述(?~36年)、帝を蜀漢(四川省)に称し、天下雲の如く擾(みだ)れ、大なるものは州都を連ね、小なるものは県邑に拠れり」とある。班彪は先ず隗囂を頼ったが、彼に見切りをつけ文中にあるように河西大将軍の寶融を頼っていったのである。

8dd8d0eb.JPG(訳) 北に旅する賦(うた)
 私は世の中が顛覆(くつがえ)り、王道が影を潜める災厄に直面した。昔ながらの建物は荒地となった。この土地にはとても住めない。思い切って北に旅立ち、誰もいない遠い所に行こう。
 朝、都の長安を出発し、夕べには瓠谷(陝西省涇陽の西)の玄宮に宿泊した。雲陽県(涇陽の西)の門を通って振り返り、通天台の聳え立つのを眺めやる。山坂を登りつ降りつして行き、郇(じゅん)や邠(ひん)の町に休息しては、周の遠祖公劉の遺徳を追慕し「行葦篇」(『詩経』大雅)の草木にさえ及んだ仁愛に思いを馳せる。公劉の世に生まれた人びとは幸福多く、私のみが何故かくも不幸せなのだろう。しかし、これも時世の変化によるものであろう。何故なら、天命は決して気ままなものではないからだ。
 赤須の長い坂を登り、義渠(昔の西戎国、甘肅省に属す)の古い都に入る。私は今でも、西戎王の淫乱と狡猾さに怒りを覚え、彼と通じた宣太后(昭襄王の母)の不貞を穢しいと感じ、秦の昭襄王が西戎を討つべく、憤然として北伐の軍を進めたことを喜ばしく思う。
 心乱れるままに、この旧都をいで立てば、馬の歩みもはかどらず、遅々としてかつての西戎国をばめぐる。かくてはならじと、速度を早め、旅程をはかどらせ、目的地安定(甘肅省固原)までの日程を決めた。
 長い道は遥かに何処までも続き、果てしなくうねりくねり、折れ曲がる。泥陽(甘肅省東北部に属する地名という)を通過し、私は大きく溜息をついた。祖先の廟(みたまや)が荒れたままになっていたからである。
 私は彭陽(ほうよう、甘肅省鎭原県東)で旅装を解いた。暫くは休息をとり、思案を重ねるためである。日の光はかげろい、夕暮れは迫り、牛や羊が放牧されていた山から下りて来る。今の私には、夫と別れた妻、妻と別れた夫の激しい悲しみが、しみじみ理解でき、『詩経』や『楚辞』の詩人たちの発した旅の嘆きに、共感できる。
 安定を通り過ぎ、ゆっくりと旅を続け、長城に沿い、果てしない道を行く。かの蒙恬〈もうてん、秦の将軍〉は民衆を酷使し、長城を構築したが、それは強勢を誇った秦には、民衆の怨みを築く作業でもあった。秦は身近に、趙高(ちょうこう、権臣)・胡亥(こがい、王位を簒奪して二世皇帝となった)に由来する内憂を控えながらも、遥か彼方の蕃族に備えるのに懸命となり、聖徳を輝かして、遠国をなつけることをせず、防壁を堅く厚くすることのみに熱中した。蒙恬は死の直前に至るも、(民衆酷使の罪を悟らず、)なお己の功績を数え上げ、過失を認めることを拒否した。何と彼の言い分のでたらめさ加減、「地脈を断ち切ったのは悪かった」とは、よくもほざきおった。
 長城の城楼に登り、あちこちを見張るかし、しばらくの寛ぎをうる。(遠くは夏の時代に)獯鬻(くんいく、匈奴の1種族)が中国を騒がしたのを悲しみ、〔近くは、文帝(在位BC178~151年)の世に、匈奴が侵攻し、〕朝那(ちゆな、甘肅省平涼の西北)で戦死した都尉(地方軍司令官)の孫邛(そんきょう、段邛ともいう)を弔う。わが大いなる文帝陛下は、謙譲の美徳を発揮され、軍隊を動かさず、恩恵を四方に施された。かの趙佗(ちょうだ、南越―広東・広西省地方―の王を僭称した)の父兄に至るまで仁慈を垂れたまい、趙佗はその恩恵に感じ、王を称するのをやめ、臣従を誓った。また藩国(王室を守る諸侯の国)の一つ、呉の王劉濞(りゅうび)に脇息と杖(老人を労わる器具)を賜い、その反逆の意図を挫かれた。これらはすべて太宗(文帝の廟号)の広大無辺なる聖徳によるのであり、前に秦が企てたところとはとても比較にならぬ。
 高平(甘肅省固原付近の旧県名)の髙処(たかみ)に登り、辺りを見渡せば、山岳や渓谷は高く険しく、荒野はさびしくも果てしなく曠がり、千里のかなたまで人家は見えぬ。つむじ風わきおこり、ヒュウヒュウ空は鳴り、谷川は激しく流れてしぶきをあげる。時に深い雲霧たちこめ、真白に積もる雪は山肌をおおう。雁は睦ましげに群れ飛び、鵾鶏(こんけい、鶴の一種)はかしましく鳴き交わす。
 遊子(たびびと)は故郷を思い、心悲しみ胸も破れんばかり。長剣の柄(つか)を打ちたたき、嘆息(なげき)を洩らせば、涙ははふり落ち、衣を濡らす。
 涙を拭えば、やがて心はたかぶり、多くの民衆(ひとびと)の災禍に遇うを悲しむ。何が故に、この暗雲は晴れやらぬか。ああ、年久しく、世に平和は訪れず。これもみな、時運のなせるわざとはいえ、積もり重なる怨み、誰に訴えるべきか。
 乱(反歌にあたる)にはいう。
 孔子でも、行きなやむ時があったのは、当然ながら、学芸に身を委ね、楽しみつつ、憂いを忘れられたのは、聖賢なればこそ。
 達人は、事をさばくに、節度を守り、出処進退は、時の流れに任す。
 君子(有識者のこと)は、信義の実践を常に心掛ける。たとえその身、蛮地に赴くとも、憂い恐れるものとて、何一つないはずだ。
 

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1932/02/04
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