今日は7月15日、東京では盂蘭盆会の法要が行われる。
中国の宋代には七夕の行事と盂蘭盆の行事との間には連続した面があり、盂蘭盆の祭りに用いられる材料は、七夕の時から市中で売出されていたと言う。盂蘭盆は元来は純仏教的な行事であり、その語源もサンスクリット語の「ullambana(ウランバーナ)」であるが、その音訳の「盂蘭盆(うらんぼん)」から、竹の盆を焼くという行事が派生したらしい。
南宋の文人、陸游(1125~1210年)の随筆集である『老学庵筆記』に盂蘭盆についての記事が記載されている。
―― 都では残暑は七月中旬(勿論旧暦)を越すことはなかった。民間では十五日に精進料理を作って先祖の霊に供え、竹を編んで盆のような形に作り、それに紙銭を入れて、一本の竹で支えて焼き、盆の倒れる方向を見て、気候を占った。北のほうだったら寒い冬になる。南のほうだったら暖かい冬になる。東と西のほうだったら寒暖ほどほどだという。これを盂蘭盆と言った。民間のお婆さん連中の信仰であった。また、盂蘭盆が倒れると、寒さがやって来る」ともいった。晏元献の詩に
紅白の薇(そうび)の英(はなびら)は落ち
朱黄の槿(むくげ)の艶(いろ)は残(あ)せたり
家人は溽暑(じょくしょ)を愁(うれ)い
日を計(かぞ)えて盂蘭(うらん)を望(まちのぞ)む
と詠んでいるが、俗間の言葉を戯れに詠みこんだのである。 (巻七)――
※晏元献(991~1055年)は名は殊、元献は諡(おくりな)。仁宗に仕えて宰相となった。その詩と詞は豊麗なlyricism(リリシズム)にみちている。
4時30分から、隅田川駒形橋~白鬚橋間を徘徊。花川戸テラスで、外人観光客が踊っていたので、カメラを向けると大声を出しながらはしゃいでいた。動きが激しいので画像がぶれてしまったらしい。本日の日のでは4時36分、5時半を過ぎる頃になると汗でシャツがびしょぬれ。家を出る時刻を少し早めたほうがよさそうだ。まあ、李白の詩で気分だけでも暑さを紛らわそう。
〈訳〉日の光は香炉峰を照らして、紫の煙が立ち上っている
遥か遠く 滝が長い川を掛けたように流れ落ちているのが見える。
飛び下る流れは まっすぐに三千尺
銀河の水が空高くから落ちてきているのではないかと思ってしまう。
李賀の「蘭香神女廟」を取り上げよう。
蘭香神女は、杜蘭香ともいい、捜神記などに登場する仙界の女性で様々な物語が伝わっている。
人間のところに嫁にくる話や、貧しい猟師の元に童女としてやってきて育てられ美しく成長した時に天界に去るという物語もあり、かぐや姫のモデルとも言われている。
唐の詩人の李賀の詩に詠まれた神女は気ままに知人の所を訪ねたり、音楽と美酒も楽しんだりと自由に天空をかけている。神女廟は李賀の生地昌谷(現・河南省洛陽市の西約50km)の女几山(じょきさん)にあって、まずはじめの十句は廟への道中と廟のあたりの風景が描かれる。
蘭香神女は、気侭に巫山(四川省巫山県にある山)の瑤姫(ようき)を訪ねたり、洞庭の江君(湘蛾、即ち舜帝の二妃のこと)のところに遊びに行ったりと、音楽と美酒もふんだんに楽しみ、自由に天空をかけてめぐる。そのいでたちは、高い髷にくもの巣のように細かい髪がまとわり、花の形を顔に張る化粧をする、まさに唐代の女性なのである。失意と絶望の中で、病身をかかえての李賀のこと、自由気ままに羽ばたいてみたいという強い要望を持っていたらしく、このように自由に空を飛ぶ神仙に憧れていたのだろう。
蘭香神女廟(上)
古春年年在 古春(こしゅん) 年年(ねんねん)在り
閑緑揺暖雲 閑緑(かんりょく) 暖雲(だんうん)に揺(ゆ)らぐ
松香飛晩華 松香(かんば)しく 晩華(ばんか)を飛ばし
柳渚含日昏 柳渚(りゅうしょ) 日を含みて昏(くら)し
沙砲落紅満 沙砲(さほう)に落紅(らくこう)満ち
石泉生水芹 石泉(せきせん)に水芹(すいきん)生ず
幽篁画新粉 幽篁(ゆうこう) 新粉(しんふん)を画(えが)き
蛾緑横暁門 蛾緑(がりょく) 暁門(ぎょうもん)に横たわる
弱蕙不勝露 弱蕙(じゃくけい) 露に勝(た)えず
山秀愁空春 山秀(ひい)でて 空(むな)しき春を愁う
〈訳〉 春は昔から 年ごとに巡ってくる
暖かい雲が 緑の草木をのどかに揺らす
松は香ばしく 遅咲きの花は舞い散り
日を受けて 柳は渚に暗い影をさす
砂や小石には 紅の花が散り敷き
泉の岩には 芹が生えている
茂った竹林は 描いたように白い粉を吹き
緑の山々は 夜明けの廟門の前に横たわる
か弱い蕙草は 露の重さに耐えられず
山は高く秀で ひと気のない春を愁えている
蘭香神女廟(中)
舞珮翦鸞翼 舞珮(ぶはい) 鸞翼(らんよく)を翦(き)り
帳帯塗軽銀 帳帯(ちょうたい) 軽銀(けいぎん)を塗(ぬ)る
蘭桂吹濃香 蘭桂(らんけい) 濃香(のうこう)を吹き
菱藕長莘莘 菱藕(りょうぐう) 長く莘莘(しんしん)たり
看雨逢瑤姫 雨を看(み)ては瑤姫(ようき)に逢(あ)い
乗船値江君 船に乗りては江君(こうくん)に値(あ)う
吹簫飲酒酔 簫(しょう)を吹き 酒を飲みて酔い
結綬金糸裙 綬(じゅ)を結ぶ 金糸(きんし)の裙(くん)
走天呵白鹿 天に走りて白鹿(はくろく)を呵(か)し
遊水鞭錦鱗 水に遊んで錦鱗(きんりん)を鞭(むち)うつ
〈訳〉舞の衣には 鸞鳥の羽根を切ったような環珮
帳の紐には 銀粉が薄く塗ってある
蘭桂の香は 濃い香りを放ち
菱や蓮の根 お供え物の絶える日はない
雨を見ては 巫山の瑤姫と逢い
船に乗っては 湘水の女神と会う
簫を吹き 酒を飲んでは酔い
金糸の裙には 綬が結んである
天を走る時は 乗用の白鹿を叱咤し
川で遊べば 錦の鯉に駕して鞭打つ
蘭香神女廟(下)
密髪虚鬟飛 密髪(みつばつ) 虚鬟(きょかん)飛び
膩頬凝花匀 膩頬(にきょう) 凝花(ぎょうか)匀(ひと)し
団鬢分珠窠 団鬢(だんびん) 珠窠(しゅか)に分かれ
濃眉籠小唇 濃眉(のうび) 小唇(しょうしん)を籠(こ)む
弄蝶和軽妍 蝶を弄(ろう)する 軽妍(けいけん)を和(わ)し
風光怯腰身 風光(ふうこう) 腰身(ようしん)に怯(きょ)なり
深幃金鴨冷 深幃(しんい) 金鴨(きんおう)冷やかに
奩鏡幽鳳塵 奩鏡(れんきょう) 幽鳳(ゆうほう)塵(ちり)す
踏霧乗風帰 霧を踏(ふ)み 風に乗じて帰れば
撼玉山上聞 玉(たま)を撼(うご)かして山上に聞こゆ
〈訳〉濃い黒髪で 結い上げた鬟を風が吹き抜け
両頬の臙脂は 咲き匂う花のようだ
両鬢の頬には 珠のような笑靨(えくぼ)が浮かび
濃い眉の下に 小さな唇がおさまっている
戯れる蝶は 女神のあでやかさに似つかわしく
辺りの景色は 女神の物腰にかなわない
奥の幃の陰で 金鴨の香炉は冷え
奩の中の鏡は 鳳凰の模様に塵が積もっている
霧を踏み 風に乗じて帰るときは
山上では 珮玉の揺れる音が聞こえるという
安居(あんご)の最後の日、7月15日 (旧暦)を盂蘭盆(ullambana)とよんで、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事である。盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ」の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写された。「ullambana(ウランバナ)」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、これは倒懸(さかさにかかる)という意味であり、亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にいると考えられていたのである。
放言 其の五 白居易
泰山不要欺毫末 泰山(たいざん)は毫末(がうまつ)を欺(あざむ)くを要せず
顔子无心羡老彭 顔子(がんし)は老彭(らうはう)を羨(うらや)むに心無(な)し
松樹千年終是朽 松樹(しようじゆ)千年(せんねん)終(つひ)に是れ朽ち
槿花一日自爲榮 槿花(きんくわ)一日(いちじつ)自(みづか)ら栄(えい)と為す
何須戀世常憂死 何ぞ須(もち)ゐむ 世を恋(した)ひて常に死を憂(うれ)ふるを
亦莫嫌身漫厭生 亦(ま)た身を嫌ひて漫(みだ)りに生を厭(いと)ふなかれ
生去死來都是幻 生去(せいきよ)死来(しらい) 都(すべ)て是れ幻
幻人哀樂繋何情 幻人(げんじん)の哀楽 何の情(じやう)にか繋(か)けむ
【通釈】泰山は偉大だからといって小さなものを侮る必要は無いし、/顔回は短命だからといって彭祖の長寿を羨む心は無かった。/松の木は千年の寿命があるといっても、最後には朽ち、/木槿〈むくげ〉の花は一日の寿命であっても、それを栄華とする。/されば、どうして現世に恋着し常に死を気に病む必要があろう。
さりとてまた、我が身を嫌ってむやみに生を厭うこともない。/生れては死ぬ、これはすべて幻にすぎぬ。
幻にすぎぬ人たる我が身、哀楽などどうして心に懸けよう。
/私はまだ床の中にいて、谷川の南、十畝(じつぽ)ほどの木陰をのんびりと眺めているのだ。
韓非子『五蠹(5種の害虫)篇』には、学者・言談者・帯剣者(侠客)・串御者(近習)・商工の民――この5種の民が国を滅ぼす元凶であるとしている。
韓非子 五蠧篇第四十九より
今境內之民皆言治、藏商、管之法者家有之。而國愈貧。言耕者眾、執耒者寡也。 境內皆言兵、藏孫、吳之書者家有之。而兵愈弱。言戰者多、被甲者少也。
故明主用其力、不聽其言。賞其功、必禁無用。 故民盡死力以從其上。
夫耕之用力也勞、而民為之者、曰、「可得以富也」。 戰之為事也危、而民為之者、曰、「可得以貴也」。 今修文學、習言談、則無耕之勞。而有富之實、無戰之危、而有貴之尊、則人孰不為也? 是以百人事智而一人用力、事智者眾則法敗、用力者寡則國貧、此世之所以亂也。
故明主之國、無書簡之文、以法為教;無先王之語、以吏為師;無私劍之捍、以斬首為勇。是境內之民、其言談者必軌於法、動作者歸之於功、為勇者盡之於軍。是故無事則國富、有事則兵強、此之謂王資。既畜王資而承敵國之舋、超五帝、侔三王者、必此法也。
今境内の民皆治を言ひ、商・管の法を蔵す者、家ごとに之有り。/而れども国愈ゝ貧し。/耕を言ふ者衆くして、耒を執る者寡なければなり。/境内皆兵を言ひ、孫・呉の書を蔵す者、家ごとに之有り。/而れども兵愈ゝ弱し。/戦ひを言ふ者多くして、甲を被る者少なければなり。
故に明主は其の力を用ひて、其の言を聴かず。/其の功伐を賞して、無用を禁ず。/故に民死力を尽くし、以て其の上に従ふ。
夫れ耕の力を用ふるや労なり。而れども民之を為すは、曰はく、「以て富を得べければなり」。/戦ひの事たるや危し。而れども民之を為すは、曰はく、「以て貴きを得べければなり」。/今文学を修め、言談を習ふとき、則ち耕の労無くして、富の実有り。/戦ひの危き無くして、貴きの尊有れば、則ち人孰か為さざらんや。/是を以て百人智を事として、一人力を用ふ。/智を事とする者衆ければ、則ち法敗れ、力を用ふる者寡なければ、則ち国貧し。此れ世の乱るる所以なり。
故に明主の国は、書簡の文無く、法を以て教へと為し、先王の語無く、吏を以て師と為し、私剣の捍無く、首を斬るを以て勇と為す。/是を以て境内の民、其の言談する者は必ず法に軌し、動作する者は之を功に帰し、勇を為す者は之を軍に尽くす。/是の故に事無ければ則ち国富み、事有れば則ち兵強し。/此れ之を王資と謂ふ。既に王資を畜へて、敵国の釁を承く。/五帝を超え三王に侔しからしむは、必ず此の法なり。
〈訳〉今、国内の民はみな政治を談じ、商鞅・管仲の法令の書を蔵しているものが、どの家にもいる。にも拘らず、国がますます貧しくなるのは、農耕のことを論ずる者が多いのに、自ら鋤を取り、(農耕にしたがう)者が少ないからである。国内の民はみな軍事を論じ、孫子・呉子の書を蔵しているものは、どの家にもいる。にも拘らず、兵がますます弱くなるのは、戦いを論ずるものは多くても、甲冑をつけ実戦に従う者が少ないからである。だから、明主は民の労力を用いるが、その言を取り上げず、その功を賞して、何をさておき無用のことを禁止する。それで、民は全力を出して君主に従う。まことに耕作に要する労力は、骨身に堪えるものであるのに、民がこれに励むのは「これで富を得ることが出来るのだ」と思うからである。戦争というものは危険なものであるのに、民がこれに従事するのは、「これで高いくらいを得るのだ」と思うからである。いま学問を修め、言論に習熟すれば、耕作の苦労をしなくても富の実利を得、戦争の危険をおかさなくても、高位高官の尊い身分が得られるとするなら、誰がこの道に依らないものがあろうか。こういうわけで、百人が知識に専念し、一人が労力を出して仕事をするということになる。知識に専念するものが多いと法は廃れ、労力を出すものが少ないと国は貧しくなる。これが世が乱れるもとである。したがって、明主の国では、竹簡に書き付けた文献はなく、法令だけを教え、先王の語を言い立てることなく、官吏を教師としており、私闘する勇はみられず、敵の首を切ることを勇としている。このため、国内の民で議論するものは常に法律に従い、行動するものは実功をめざし、勇気を奮うものは軍事に尽力するようになるので、その結果、無事平和だと国は富み、有事の際は兵力が強くなる。これを王業の資本と言う。この王業を貯えた上で、敵国のすきに乗ずる。五帝を凌ぎ、三王に比肩すべき大業をたてるのは、必ずこの法によるのである。
李賀の「南山田中行」は七言古詩で、文字通り南山の田野の風物を描いたものであるが、南山と言う山は中国の方々にあって、どの南山かは定めにくいという。
堤の水は深く澄み しきりにすだく虫の声
雲の起こるところ 山上の石は苔むして
露に泣く凍えた紅は 涙に咽ぶ美人の顔の色
荒れた田の九月 高さも揃わぬ稲の穂の波
弱った蛍は畦道の傾斜を低く飛ぶ
石の隙間から流れ出る泉は砂の上に滴り
鬼火は暗く漆に似て 松の花にともっている
帰路は昭和通から、かっぱ橋本通りにはいると、こちらのほうは例年よりは縮小したとはいえ、通り一杯に七夕の飾り付けがしてあり、正面に見えるスカイツリーが花を添えていた。
韓非子 五蠹篇第四十九より
楚之有直躬、其父竊羊而謁之吏、令尹曰、“殺之、”以為直於君而曲於父、報而罪之。以是觀之、夫君之直臣、父之暴子也。魯人從君戰、三戰三北、仲尼問其故、對曰、“吾有老父、身死莫之養也。”仲尼以為孝、舉而上之。以是觀之、夫父之孝子、君之背臣也。故令尹誅而楚姦不上聞、仲尼賞而魯民易降北。上下之利若是其異也、而人主兼舉匹夫之行、而求致社稷之福、必不幾矣。古者蒼頡之作書也、自環者謂之私、背私謂之公、公私之相背也、乃蒼頡固以知之矣。今以為同利者、不察之患也。
楚人に直躬(ちょくきゅう)といふもの有り。其の父羊を窃(ぬす)み、而して之を吏に謁ぐ。/令尹曰はく、「之を殺せ。」と。/以為へらく、「君に直なれども、父に曲なり。」と。/執へて之を罪せり。/是を以て是を観るに、夫の君の直臣は、父の暴子なり。/魯人君に従ひて戦ひ、三たび戦ひて三たび北ぐ。/仲尼其の故を問ふ。/対へて曰はく、「吾に老父有り、身死せば之を養うもの莫きなり。」と。/仲尼以て孝と為し、挙げて之を上せり。
是を以て之を観るに、夫の父の孝子は、君の背臣なり。/故に令尹誅して楚の姦上聞せられず、仲尼賞して魯の民降北を易んず。/上下の利、是くのごとく其れ異なるなり。/而るに人主兼ねて匹夫の行ひを挙げて、
而も社稷の福を致さんことを求むるも、必ず幾せられざらん。/昔者蒼頡の書を作るや、自ら環らす者之を私と謂ひ、私に背く之を公と謂ふ。/公私の相ひ背くや、乃ち蒼頡固より以に之を知る。/今以て利を同じくすと為すは、察せざるの患ひなり。
〈訳〉楚人に直窮という者がいた。その父が羊を盗んだので、直窮はことことを役人に告げた。/令尹(楚国の上卿)は、「その子を死刑にせよ」と言った。/これは、「この者は君主に対しては正直であるが、父に対しては非道である」と考えたからである。/そこで(役人)は捕えてこれを罰した。/これから考えると、君にとって忠臣であるものは、父にとって善からぬ子となる。/魯国の人で、その君に随って戦った者がある。三度の戦いで三度とも逃げた。/仲尼がその理由を訊ねたところ、こう答えた。「私には老父がございます。この私が死にますと、父を養うものがございません」/ これをきいて、仲尼は孝子といって抜擢して地位を上げるように計らった。
本日は七夕であり、24節気の「小暑」である。此処4・5日、30℃を越す猛暑が続いているが、今朝は申し訳程度に涼しく感じる。予報に拠ると涼しいのは郷だけでまた猛暑がぶり返すと言う。いったい、「大暑(7月23日〉」頃はどんな暑さになるのだろう。先が思いやられる。
(起)白銀色の秋の夜のともしびの光が、彩(いろど)り豊かな絵屏風に冷たく照り映え、
(承)宮女がひとりうすい絹の団扇(うちわ)で小さくうちながら、飛び交う螢とたわむれている。
(転)天上の夜空のようすは、水のように涼しくみえて、
(結)その宮女は寝ながら牽牛(けんぎゅう)星と織女(しょくじょ)星をみつめつづけてばかりいる。
織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。
詩経 小雅 谷風之什
有饛簋飧、有捄棘匕。周道如砥、其直如矢。君子所履、小人所視。睠言顧之、潸焉出涕。
饛(み)ちたる簋(き)飧(そん)有れば、捄(まが)れる棘匕(きょくひ)有り。周の道砥の如くなれば、其の直きこと矢の如し。君子の履(ゆ)く所、小人の視る所。睠(かえり)み言(ここ)に之を顧みる、潸(さん)焉として涕を出だす。
〈訳〉簋(き)に盛(も)りし飯(いい)につけたる/棘木(いばらぎ)の匕(かい)は曲(ま)がれど/周道(おおみち)は砥石(といし)にも似て/直きこと矢にかも似たる/世の上(かみ)の人の踏む道/庶民(もろびと)の仰ぐ所も/かくてこそありにしものと/思い忍び涙ながるる
小東大東、杼柚其空。糾糾葛屨、可以履霜。佻佻公子、行彼周行。旣往旣來、使我心疚。
小東大東、杼(じょ)柚(じく)其れ空(つ)く。糾糾たる葛の屨(くつ)、以て霜を履む可し。佻佻(ちょうちょう)たる公子、彼の周行(おおじ)を行く。旣に往き旣に來りて、我が心を疚ましむ。
〈訳〉東(ひんがし)の遠近(おちこち)の国/織る機(はた)も今は空(つ)きたり/あざなえるこの葛(くず)の履(くつ)/置く霜の道踏むべしや/身も軽き若子(わくご)は/周道(おおみち)を/い行き通へど/見つつわが心は疚(や)みぬ
有洌氿泉、無浸穫薪。契契寤歎、哀我憚人。薪是穫薪、尙可載也。哀我憚人、亦可息也。
洌たる氿(き)泉有り、穫(か)れる薪を浸すこと無かれ。契契として寤めて歎く、哀しき我が憚(たん)人。是の穫れる薪を薪とせば、尙わくは載す可し。哀しき我が憚人、亦息う可し。
〈訳〉涌き出ずる冷たき泉に/な浸(ひた)しそ獲(か)りし薪(たきぎ)を/物思い夜半(よわ)に嘆かゆ/哀しきは我が憚人(つかれびと)/浸したるこれの薪は/願わくは載せて帰らむ/哀しきはわが憚人/またしばし息(いこい)あらなむ
東人之子、職勞不來。西人之子、粲粲衣服。舟人之子、熊羆是裘。私人之子、百僚是試。
東人の子は、職(もっぱ)ら勞しめども來(ねぎら)わず。西人の子は、粲粲(さんさん)たる衣服せり。舟人の子も、熊羆(ゆうひ)是れ裘とす。私人の子も、百僚に是れ試(もち)いらる。
〈訳〉東人(あずまびと)はただにくるしみ/ねぎらわるることもあらで/西の方(かた)都のひとは/うるわしき衣(きぬ)よそおいぬ/周ひとの族(やから)といえば/熊・羆(ひぐま) 裘(かわごろも)/家の子も百の僚(つかさ)に/ことごとく試(もち)いらるるを
或以其酒、不以其漿。鞙鞙佩璲、不以其長。維天有漢、監亦有光。跂彼織女、終日七襄。
或は其の酒を以てすれども、其の漿を以てせず。鞙鞙(けんけん)たる佩璲(はいすい)も、其の長きを以てせず。維れ天に漢(あまのがわ)有り、監(かんが)<音鑒>みて亦光有り。跂(き)たる彼の織女、終日七襄(ななやどり)す。
〈訳〉或(ある)はその酒に飽きおり/或はその飲料〈のみしろ〉も得ず/或は玉の佩(お)びもの垂らし/或はその長きを佩びず/天の河空にかかりて/うち監(み)れば光わたれり/三隅(みすみ)なす織女星(たなばたつめ)は/ひねもす七襄(ななやどり)する
雖則七襄、不成報章。睆彼牽牛、不以服箱。東有啓明、西有長庚。有捄天畢、載施之行。
則ち七襄すと雖も、報うる章を成さず。睆(かん)たる彼の牽牛、以て箱を服(か)けず。東に啓明有り、西に長 庚有り。捄れる天畢有り、載ち之を行(つら)に施す。
〈訳〉七襄ひにはすれども/織り返し章(あや)をもなさず/晥(かがや)けるかの牽牛(ひこぼし)も/いたずらに車をひかず/東(ひんがし)に暁(あけ)の明星/西に宵(よい)の明星/まがりたる兎網(うさぎあみ)なす/天畢(あげくぼし) 行(つら)に施(ほどこ)す
維南有箕、不可以簸揚。維北有斗、不可以挹酒漿。維南有箕、載翕其舌。維北有斗、西柄之揭。
維れ南に箕有れども、以て簸(は)揚す可からず。維れ北に斗有れども、以て酒漿を挹(く)む可からず。維れ南に箕有れば、載(すなわ)ち其の舌を翕(ひ)けり。維れ北に斗有れば、西に柄を揭げたり。
〈訳〉南(みんなみ)に箕星(みほし)はあれど/はた糠(ぬか)を簸揚(ひあ)げもならず/北の方斗星(いつき)はあれど/酒挹(く)まむこともならず/南に箕星かかりて/舌を引き呑(の)むにも似たり/北の方斗星かかりて/その柄をば西にかかげぬ
文撰 古詩十九首 其十
迢迢牽牛星 迢迢たる牽牛星
皎皎河漢女 皎皎たる河漢の女
纖纖擢素手 纖纖として素手を擢(あ)げ
劄劄弄機杼 劄劄として機杼を弄す
終日不成章 終日 章を成さず
泣涕零如雨 泣涕 零ちて雨の如し
河漢清且淺 河漢 清く且つ淺し
相去複幾許 相去ること複た幾許ぞ
盈盈一水間 盈盈たる一水の間
脈脈不得語 脈脈として語るを得ず
〈意訳〉天の川を隔てて遥かな彦星よ、また白く明るい織姫星よ、か細く白い手をぬきんでて、サツサツとして機を織る、一日中織っても布が出来上がらない、織姫の目からは涙が雨のように流れ落ちる
(迢迢は、はるかなさま、皎皎は、白く明るいさま、河漢は天の川、劄劄は機をおるサツサツという音、)
天の川は清くてしかも浅い、互いに隔たる距離はそう遠くはないのに、水の流れる川を挟んで、見詰め合ったまま語ることもできないのだ(盈盈は、水が満ちているさま、脈脈は、じっと見つめ合うこと)
牽牛織女の伝説は、すでに詩経の中でも歌われているから(前述)、中国の歴史にあって古い起源を有している。伝説の原型は、鷲座(牽牛星・アルタイル)と琴座(織女・ベガ)という二つの星が、向かい合ったままいつまでも結ばれぬ悲しみを詩的なイメージに高めたものであった。魏晋のころになると、二人の間に流れる天の川にカササギが年に一度橋をかけ、そこを二人がわたって結ばれるという話に転化した。それが七夕の節句と結びついて、今日のような七夕伝説へと発展していったのであろう。この詩では、牽牛織女は天の川を挟んだまま結ばれることがない。おそらく、古代の伝説の形がまだ残っていた時代に歌われただろうことを伺わせる。迢迢、皎皎、纖纖、劄劄、盈盈、脈脈と重音を駆使することで、詩にリズムをもたらしているが、これも詩経以来の古代の詩の伝統を踏まえたものといえる。この詩は、古詩十九首のなかで最も人工に膾炙(かいしゃ)したものであり、後世に及ぼした影響にも大なるものがあるという。
韓非子 説林篇(上)第二十二より
樂羊為魏將而攻中山。其子在中山,中山之君烹其子而遺之羹。樂羊坐於幕下而啜之,盡一杯。文侯謂堵師贊曰、“樂羊以我故而食其子之肉。”答曰、“其子而食之,且誰不食?” 樂羊罷中山,文侯賞其功而疑其心。
孟孫獵得麑。使秦西巴持之歸。其母隨之而啼。秦西巴弗忍而與之。孟孫歸,至而求麑。答曰、“余弗忍而與其母。” 孟孫大怒,逐之。居三月,復召以為其子傅。其御曰、“曩將罪之,今召以為子傅何也?” 孟孫曰、“夫不忍麑,又且忍吾子乎?” 故曰、“巧詐不如拙誠。” 樂羊以有功見疑,秦西巴以有罪益信。
楽羊魏の将と為りて中山を攻む。/其の子中山に在り、中山の君、其の子を烹て之に羹を遺る。/楽羊幕下に坐して之を啜り、一杯を尽くせり。/文侯堵師賛に謂ひて曰はく、「楽羊我の故を以て、其の子の肉を食ふ。」と。/答へて曰はく、「其の子にして之を食ふ、且つ誰か食はざらん。」と。/楽羊中山より罷る。/文侯其の功を賞したるも其の心を疑ふ。
孟孫猟して麑を得。/秦西巴をして之を載せて持ち帰らしむ。/其の母之に随ひて啼く。/秦西巴忍びずして之に与ふ。/孟孫帰り至りて麑を求む。/答へて曰はく、「余忍びずして其の母に与ふ。」と。/孟孫大いに怒りて之を逐ふ。/居ること三月、復た召して以て其の子の傅と為す。/其の御曰はく、「曩には将に之を罪せんとし、今は召して以て子の傅と為すは、何ぞや。」と。/孟孫曰はく、「夫れ麑に忍びず、又且つ吾が子に忍びんや。」と。/故に曰はく、「巧詐は拙誠に如かず。」と。/楽羊は功有るを以て疑はれ、秦西巴は罪有るを以て益ゝ信ぜらる。
〈訳〉樂羊が魏の将となって中山〈河北省〉を攻めたが、樂羊の子が偶々中山にいたので、中山の君は、その子を殺して煮て肉汁を作り、樂羊に贈った。/樂羊はその肉汁をすすり、一椀をすっかり平らげた。魏の文侯は堵師賛(としさん)に言った。「樂羊は、私のために、わが子の肉をたべた」/ところが堵師賛はこう答えた。「自分の子でも食べたのです。それでは誰の肉でも食べかねますまい」/樂羊は中山より帰国したが、文侯はその功を賞したけれど、その心情を疑い信用しなかった。
昔者鄭武公欲伐胡,故先以其女妻胡君以娛其意。因問於群臣:“吾欲用兵,誰可伐者?”大夫關其思對曰:“胡可伐。”武公怒而戮之,曰:“胡,兄弟之國也,子言伐之何也?”胡君聞之,以鄭為親己,遂不備鄭,鄭人襲胡,取之。宋有富人,天雨牆壞,其子曰:“不築,必將有盜。”其鄰人之父亦云。暮而果大亡其財,其家甚智其子,而疑鄰人之父。此二人說者皆當矣,厚者為戮,薄者見疑,則非知之難也,處知則難也。故繞朝之言當矣,其為聖人於晉,而為戮於秦也。此不可不察。
昔者彌子瑕有寵於衛君。衛國之法,竊駕君車者罪刖。彌子瑕母病,人閒往夜告彌子,彌子矯駕君車以出,君聞而賢之曰:“孝哉,為母之故,忘其刖罪。”異日,與君遊於果園,食桃而甘,不盡,以其半啗君,君曰:“愛我哉,忘其口味,以啗寡人。”及彌子色衰愛弛,得罪於君,君曰:“是固嘗矯駕吾車,又嘗啗我以餘桃。”故彌子之行未變於初也,而以前之所以見賢,而後獲罪者,愛憎之變也。故有愛於主則智當而加親,有憎於主則智不當見罪而加疏。故諫說談論之士,不可不察愛憎之主而後說焉。夫龍之為蟲也,柔可狎而騎也,然其喉下有逆鱗徑尺,若人有嬰之者則必殺人。人主亦有逆鱗,說者能無嬰人主之逆鱗,則幾矣。
昔、鄭武公は胡 (こ) を伐 (う) たんと欲す。 /故に先 (ま) ずその女 (むすめ) を以て胡君に妻 (め) あわし、以てその意を娯 (たの) しましめ、因りて群臣に問わく "吾 (われ) 兵を用いんと欲す、誰をか伐つべき者ぞ?" と。/ 大夫―関其思、対 (こた) えて曰く "胡、伐つべし!" と。/ 武公、怒りてこれを戮 (りく) して曰く "胡は兄弟 (けいてい) の国なり。/ 子、これを伐てと言うは何ぞや!" と。/ 胡君これを聞き、鄭を以て己に親しむとなし、遂に鄭に備えず。 /鄭人 (ていひと) 胡を襲いこれを取る。
宋に富人 (ふじん) あり。 /天 (てん) 雨 (あめ) ふり、墻 (かき) 壊る。 /その子曰く "築かざれば必将 (かなら) ず盗あらん" と。 /その隣人の父 (ほ) も亦 (ま) た云 (い) う。/ 暮れて果たして大いにその財を亡 (うしな) う。/その家、甚だその子を智として隣人の父を疑う。
此の二人(関其思、隣家の父)の説はみな当たれるも、厚き者は戮となり、薄き者も疑わる。/則ち知ることの難きに非ず。 知ることに処すること、則ち難し。/ 故に繞朝の言は当たれるも、それ晋に聖人とせられて、秦に戮せらる。 此れ、察せざるべからず。
昔、弥子瑕は衛君に寵あり。/ 衛国の法は、窃 (ひそ) かに君車を駕 (が) する者は、罪 (つみ) 刖 (げつ)なり。 /弥子瑕の母 (はは) 病 (や) み、人 (ひと) 間 (ひそ) かに夜に往き、弥子 (びし) (弥子瑕) に告 (つ) ぐ。 /弥子、矯 (いつ) わり君車を駕して以て出づ。/ 君 (くん) 聞きて、これを賢として曰く "孝なるかな! 母の故 (こと) の為に、その刖罪 (げつざい) を忘る" と。/ 異日、君と果園に遊ぶ。 桃を食 (く) らいて甘 (うま) しと尽くさず、その半 (なか) ばを以て君に啗 (く) らわしむ。 君曰く "我を愛するかな! その口味を忘れ、以て 寡人 (かじん) に啗(く)らわしむ" と。/ 弥子、色の衰えて愛の弛 (ゆる) むに及び、罪を君に得 (う)。/ 君曰く "是れ、固 (もと) 嘗 (かつ) て矯わり吾 (わ) が車を駕し、また嘗て我に啗(く)らわすに余桃 (よとう) を以てす" と。
故に、弥子の行い未だ初めに変わらざるも、前の賢とせらるる所以を以て、後に罪を獲 (う) るは、愛憎の変わればなり。 /故 (すなわ) ち、主に愛あらば則ち智は当たりて親を加え、主に憎あらば則ち智は当たらず、罪 (つみ) せられて疏 (そ) を加う。/ 故に諫説 (かんぜい) 談論の士は、愛憎の主を察して、而る後に説かざるべからず。
夫れ竜の虫(動物)たるや、柔狎 (じゅうこう)して騎 (の) るべきなり。/ 然れどもその喉下 (こうか) に逆鱗 (げきりん) の 径 (けい)尺 (しゃく) なるあり、若 (も) し人のこれに嬰 (ふ) るる者あらば、則ち必ず人を殺す。 /人主にも亦た逆鱗あり、説者 (ぜいしゃ) 能 (よ) く人主の逆鱗に嬰るることなくんば、則ち 幾 (ちか)し。
〈訳〉昔、鄭の武公が虎を伐とうと思った。/祖の公女を胡君に嫁入りさせ、先方の歓心を買ってから、群臣に向かって、「私は戦いをしようと思うが、どの国を伐ったらよいだろうか」と、訊ねると、大夫の関其思(かんしき)が云った。/「胡を伐ちましょう」/すると武公は怒って彼を殺し、「胡は自分の兄弟の国だ。それを伐てというのはなにごとだ」/胡の君主はこのことを聞いて、鄭は自分の国に親しみを持っていると考え、とうとう鄭に対して船尾を整えなかった。/鄭の方では、(その油断をみすまし)胡を攻め取った。
宋に金持ちがいた。ある日雨が降って土塀が崩れた。其の子は言った。「修繕しておかないと、盗難がおこるかもしれませんよ」/隣家の親父も同じことを言った。夜になるとはたして盗賊が忍び込み、貨財をごっそりと盗んだ。その家人は息子を賢い奴だと褒めたが、隣家の親父は(毀れたのに気付くぐらいだから)怪しいといって疑った。この関其思と隣家の親父の二人のり言説はともに正当であった。(しかしながら二人ともその言で禍をまねき)重いほうは死刑に処せられ、軽いほうは疑われた。/これから考えると、事を知るというのが難しいのではなくて、知ったことの扱い方が難しいのである。/だから繞朝(ぎょうちょう)の言は正当であった。そして晋ではこれを聖人と言ったけれど、秦では、自国にふりであるから、死刑に処した。こういうことはよく考えておかなければならない。
昔、弥子瑕(びしか)という美少年が衛君に寵愛されていた。/元々この衛国の法律に拠ると、許可を得ず、秘かに君主の車に乗る者は刖罪(あしきりの刑)だということになっていた。さて弥子瑕の母親の病気がひどくなったので、ある人が夜こっそり彼に知らせた。すると弥子瑕は、君の許可があったと偽って君の車に乗って宮を出た。後で君はこのことを聞くと、彼を褒めてこう言った。「まことに孝行者だ。母のためには足を斬られる罪をも忘れたではないか」/又、ある日弥子瑕は、君に随って果樹園を散歩したことがあったが、彼は桃を取って食べた所、余りに美味かったので食べてしまわないで、その半分を君に勧めた。君は喜んで、「なんと俺を大事にしてくれることよ。彼は美味い味も忘れて、わたしにたべさせた」と言った。/その後弥子瑕は容色衰え、寵愛も緩んでから、何かのことで君の咎めを受けることになると君はこういった。「こやつは、昔俺の命令だと偽って、俺の車に乗ったし、また、俺に食い残りの桃を食わせた」
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