瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
論衡 三巻 物勢篇 第十四 より
儒者論曰、“天地故生人。”此言妄也。夫天地合氣、人偶自生也;猶夫婦合氣、子則自生也。夫婦合氣、非當時欲得生子;情慾動而合、合而生子矣。且夫婦不故生子、以知天地不故生人也。然則人生於天地也、猶魚之於淵、飢蝨之於人也。因氣而生、種類相產、萬物生天地之間、皆一實也。傳曰:天地不故生人、人偶自生。
〔訳〕
儒者は、「天地はそのつもりで人を生み出した」などと論じているが、それはでたらめな言い草だ。じつは天と地が気を合わせて、人がたまたまひとりでに生じたのである。夫婦が気を合わせて、子供がひとりでに生まれるようなものだ。夫婦が気を合わせるのは、そのとき子供が生めるようにと願うからではない。情欲が動いて合い、合って子供が生まれるのだ。それに、夫婦はそのつもりで子を生無のではないという子で以って、天地もそのつもりで火とを生み出したのではないことがわかる。だからして、人が天地に発生するのは、魚が淵に生じ、しらみが人にわくようなものだ。気によって発生し、種類それぞれに生むのだが、万物が天地の間に生ずることの実質は、みな一つである。ある人は言う――天地がそのつもりで人を生み出したのではなく、人がたまたまひとりでに生じたのだ。
若此、論事者何故云“天地為爐、萬物為銅、陰陽為火、造化為工”乎? 案陶冶者之用爍銅燔器、故為之也。而云天地不故生人、人偶自生耳、可謂陶冶者不故為器而器偶自成乎? 夫比不應事、未可謂喻;文不稱實、未可謂是也。曰、“是喻人禀氣不能純一、若爍銅之下形、燔器之得火也、非謂天地生人與陶冶同也。”興喻人皆引人事。人事有體、不可斷絕。以目視頭、頭不得不動;以手相足、足不得不搖。目與頭同形、手與足同體。今夫陶冶者、初埏埴作器、必模範為形、故作之也;燃炭生火、必調和爐灶、故為之也。及銅爍不能皆成、器燔不能盡善、不能故生也。夫天不能故生人、則其生萬物、亦不能故也。天地合氣、物偶自生矣。夫耕耘播種、故為之也;及其成與不熟、偶自然也。
〔訳〕
もしこのように〔人がたまたま生じたのだ〕とすれば、何故にかの論者は、「天地は炉であり、万物は銅であり、陰陽は火であり、造化は工匠である」といったのだろうか。思うに鋳物師が火を使って銅を溶かしたり、器物を赤熱したりするのは、そのつもりでするのだ。それを、天地はそのつもりで人を生み出したのではなく、人がたまたまひとりでに生じたに過ぎぬというのならば、鋳物師もそのつもりで器物を作るのではなく、鋳物がたまたまひとりでにできあがるのだといえるだろうか。およそ、比べ方が事に対応していなければ、たとえとは言えないし、文が真実にかなっていなければ、正しいとは言えぬ――。
その答えはこうだ。この文句は「人がまったく一律に気を授かることが出来ないのは、熔けた銅が型に流し込まれたり、赤熱した器物が火にかけられたりする場合と同じようなものだ」というたとえなのであって、「天地が人を生み出すのは、鋳造と同じだ」といっているのではない。人をたとえにするのだから、みな人のことをもってこよう。人のことには身体というものがあり、それは切り離したりなど出来ないものだ。目でもって頭を見ようとすれば、頭は〔おのずと〕動かないわけにはいかないし、手でもって足を調べようとすれば、足は〔おのずと〕動かないわけにはいかぬ。目も頭も同じ身体についており、手も足も同じ身体についているのだ。いま、かの鋳物師なるものは、まず粘土をこねて器物を作るが、必ず木型・竹型で形をとる。そのつもりで作るわけだ。炭をおこして火にするが、必ず炉やかまどを調節する。そのつもりでするわけだ。ところが、銅が熔けても、全部がうまく仕上がるわけにはいかず、器物が赤熱しても、どれもが立派になるわけには行かない。その段になると、そのつもりで作り出すということは出来ないのだ。
さて、天はそのつもりで人を生み出すことが出来ぬとすれば、それが万物を生むにも、そのつもりでやれるのではない。天地が気を合わせ、物がひとりでにたまたま生ずるのだ。およそ耕作・除草や種まきは、そのつもりでするのだが、それがうまく成熟するかどうかという段になれば、たまたまひとりでにそうなることなのだ。
儒者論曰、“天地故生人。”此言妄也。夫天地合氣、人偶自生也;猶夫婦合氣、子則自生也。夫婦合氣、非當時欲得生子;情慾動而合、合而生子矣。且夫婦不故生子、以知天地不故生人也。然則人生於天地也、猶魚之於淵、飢蝨之於人也。因氣而生、種類相產、萬物生天地之間、皆一實也。傳曰:天地不故生人、人偶自生。
〔訳〕
儒者は、「天地はそのつもりで人を生み出した」などと論じているが、それはでたらめな言い草だ。じつは天と地が気を合わせて、人がたまたまひとりでに生じたのである。夫婦が気を合わせて、子供がひとりでに生まれるようなものだ。夫婦が気を合わせるのは、そのとき子供が生めるようにと願うからではない。情欲が動いて合い、合って子供が生まれるのだ。それに、夫婦はそのつもりで子を生無のではないという子で以って、天地もそのつもりで火とを生み出したのではないことがわかる。だからして、人が天地に発生するのは、魚が淵に生じ、しらみが人にわくようなものだ。気によって発生し、種類それぞれに生むのだが、万物が天地の間に生ずることの実質は、みな一つである。ある人は言う――天地がそのつもりで人を生み出したのではなく、人がたまたまひとりでに生じたのだ。
若此、論事者何故云“天地為爐、萬物為銅、陰陽為火、造化為工”乎? 案陶冶者之用爍銅燔器、故為之也。而云天地不故生人、人偶自生耳、可謂陶冶者不故為器而器偶自成乎? 夫比不應事、未可謂喻;文不稱實、未可謂是也。曰、“是喻人禀氣不能純一、若爍銅之下形、燔器之得火也、非謂天地生人與陶冶同也。”興喻人皆引人事。人事有體、不可斷絕。以目視頭、頭不得不動;以手相足、足不得不搖。目與頭同形、手與足同體。今夫陶冶者、初埏埴作器、必模範為形、故作之也;燃炭生火、必調和爐灶、故為之也。及銅爍不能皆成、器燔不能盡善、不能故生也。夫天不能故生人、則其生萬物、亦不能故也。天地合氣、物偶自生矣。夫耕耘播種、故為之也;及其成與不熟、偶自然也。
〔訳〕
もしこのように〔人がたまたま生じたのだ〕とすれば、何故にかの論者は、「天地は炉であり、万物は銅であり、陰陽は火であり、造化は工匠である」といったのだろうか。思うに鋳物師が火を使って銅を溶かしたり、器物を赤熱したりするのは、そのつもりでするのだ。それを、天地はそのつもりで人を生み出したのではなく、人がたまたまひとりでに生じたに過ぎぬというのならば、鋳物師もそのつもりで器物を作るのではなく、鋳物がたまたまひとりでにできあがるのだといえるだろうか。およそ、比べ方が事に対応していなければ、たとえとは言えないし、文が真実にかなっていなければ、正しいとは言えぬ――。
その答えはこうだ。この文句は「人がまったく一律に気を授かることが出来ないのは、熔けた銅が型に流し込まれたり、赤熱した器物が火にかけられたりする場合と同じようなものだ」というたとえなのであって、「天地が人を生み出すのは、鋳造と同じだ」といっているのではない。人をたとえにするのだから、みな人のことをもってこよう。人のことには身体というものがあり、それは切り離したりなど出来ないものだ。目でもって頭を見ようとすれば、頭は〔おのずと〕動かないわけにはいかないし、手でもって足を調べようとすれば、足は〔おのずと〕動かないわけにはいかぬ。目も頭も同じ身体についており、手も足も同じ身体についているのだ。いま、かの鋳物師なるものは、まず粘土をこねて器物を作るが、必ず木型・竹型で形をとる。そのつもりで作るわけだ。炭をおこして火にするが、必ず炉やかまどを調節する。そのつもりでするわけだ。ところが、銅が熔けても、全部がうまく仕上がるわけにはいかず、器物が赤熱しても、どれもが立派になるわけには行かない。その段になると、そのつもりで作り出すということは出来ないのだ。
さて、天はそのつもりで人を生み出すことが出来ぬとすれば、それが万物を生むにも、そのつもりでやれるのではない。天地が気を合わせ、物がひとりでにたまたま生ずるのだ。およそ耕作・除草や種まきは、そのつもりでするのだが、それがうまく成熟するかどうかという段になれば、たまたまひとりでにそうなることなのだ。
王 充(おう じゅう、27~ ?年)は、後漢の文人、思想家。字は仲任。会稽郡上虞の出身。旧伝などの非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著した。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋代以降は異端視されて省みられることがなかった。逆に1970年代の中華人民共和国での儒教批判運動の中では、孔子批判の先駆者として評価されたりもしたという。
自伝ともいうべき『論衡』自紀篇に拠れば、先祖は元々は魏郡元城の人だったが、従軍で功績があって会稽郡に陽亭として着任していた。そこで土地の者と諍いを起こし、難を逃れるために祖父の王汎のときに銭唐に移り住んだ。王家は銭唐で商売を営んでいた。王汎の子の王蒙・王誦のときにまたもや土地の人との間に争いを起こし、一家揃って上虞に移住した。王充は建武3(AD27)年に、王誦の子として生まれた。幼少のときから人に馬鹿にされることを嫌って子どもたちと遊ぶこともなく、8歳の頃から書館(学校)に出入りして勉強を始め、成人すると都(洛陽)に出て太学で班彪(『漢書』の著者の班固の父)に師事して学問を修めた。洛陽にいた頃は貧しくて書物を購入することができず、市場の書店で立ち読みして内容を暗記し、ついに諸子百家の学問に通じるようになったというエピソードも伝えられる。
学問を修めた後に郷里に戻って地方行政の下級官吏となったが、上司との意見が合わず、出世することはなかった。30歳代で官職を辞し、郷里の子弟に学問を教えながら、自身は書物・俗説の虚実を見極めようとし、著述に打ち込むようになった。「譏俗」「政務」などを著したものの満足せず、王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などが流行していたことを遺憾として、のちの『論衡』につながる著作を開始したとみられている。「譏俗」「政務」の書物は現存していないが、『論衡』と同じように批判精神に富んだ筆致であるか、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。
元和3(AD86)年には揚州刺史の董勤に召されて60歳で治中従事史となり、仕事のために著作の意志が弱まったようだが、章和2(AD88)年には辞任して隠棲することとなった。隠棲した後にも、同郷の友人の謝夷吾が和帝に上書して登用を薦めたが、王充はもはや病を得ており出仕することはなかった。この後に「養性」16編を著したというがこれも現存しておらず、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。こうして『論衡』の完成に情熱を注ぎいれ、永元年間(89~105年)に、病のために生涯を終えたという。
論衡は中国後漢時代の王充(27~100年頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判したという。
長い歳月の間に記されたものと考えられ、そのため書中では一貫性が欠けている面もみられるが、虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする立場は当時の思想としては大胆かつ革新的なことであった。編述を終えた時点では100篇を超える構成であったというが、『後漢書』に挙げられた時点で85篇とされており、さらに巻15の「招致篇」44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。王充の死後に本書が世に出たのは2世紀末であり、蔡邕が呉(蘇州)で入手して人と語らう際の虎の巻としたことや、会稽太守となった王朗が同地で一本を発見したことによるという。一個人による百科全書的著作であり唐代までは大著として評価されてきたが、その記述姿勢が孔子・孟子に批判的であるという点から、宋代以降は無法の書として省みられなくなった。そのため、本文校訂も十分には進んでおらず、ようやく清末になって部分的注釈がなされ、中華民国時代になって詳細な注釈が完備した。1970年代の中華人民共和国での批林批孔運動(林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動)の際には孔子を批判していた先駆的な思想書として評価されたという。
自伝ともいうべき『論衡』自紀篇に拠れば、先祖は元々は魏郡元城の人だったが、従軍で功績があって会稽郡に陽亭として着任していた。そこで土地の者と諍いを起こし、難を逃れるために祖父の王汎のときに銭唐に移り住んだ。王家は銭唐で商売を営んでいた。王汎の子の王蒙・王誦のときにまたもや土地の人との間に争いを起こし、一家揃って上虞に移住した。王充は建武3(AD27)年に、王誦の子として生まれた。幼少のときから人に馬鹿にされることを嫌って子どもたちと遊ぶこともなく、8歳の頃から書館(学校)に出入りして勉強を始め、成人すると都(洛陽)に出て太学で班彪(『漢書』の著者の班固の父)に師事して学問を修めた。洛陽にいた頃は貧しくて書物を購入することができず、市場の書店で立ち読みして内容を暗記し、ついに諸子百家の学問に通じるようになったというエピソードも伝えられる。
学問を修めた後に郷里に戻って地方行政の下級官吏となったが、上司との意見が合わず、出世することはなかった。30歳代で官職を辞し、郷里の子弟に学問を教えながら、自身は書物・俗説の虚実を見極めようとし、著述に打ち込むようになった。「譏俗」「政務」などを著したものの満足せず、王充の目で見て合理的とはいえない讖緯説・陰陽五行説などが流行していたことを遺憾として、のちの『論衡』につながる著作を開始したとみられている。「譏俗」「政務」の書物は現存していないが、『論衡』と同じように批判精神に富んだ筆致であるか、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。
元和3(AD86)年には揚州刺史の董勤に召されて60歳で治中従事史となり、仕事のために著作の意志が弱まったようだが、章和2(AD88)年には辞任して隠棲することとなった。隠棲した後にも、同郷の友人の謝夷吾が和帝に上書して登用を薦めたが、王充はもはや病を得ており出仕することはなかった。この後に「養性」16編を著したというがこれも現存しておらず、あるいは『論衡』の中に収められている可能性もあるとみられている。こうして『論衡』の完成に情熱を注ぎいれ、永元年間(89~105年)に、病のために生涯を終えたという。
論衡は中国後漢時代の王充(27~100年頃)が著した全30巻85篇(うち1篇は篇名のみで散佚)から成る思想書。実証主義の立場から王充は自然主義論、天論、人間論、歴史観など多岐多様な事柄を説き、一方で非合理的な先哲、陰陽五行思想、災異説を迷信論として徹底的に批判したという。
長い歳月の間に記されたものと考えられ、そのため書中では一貫性が欠けている面もみられるが、虚妄的な儒学の尚古思想を一蹴し、合理的に物事を究めようとする立場は当時の思想としては大胆かつ革新的なことであった。編述を終えた時点では100篇を超える構成であったというが、『後漢書』に挙げられた時点で85篇とされており、さらに巻15の「招致篇」44は散逸して篇名を伝えるだけとなっている。王充の死後に本書が世に出たのは2世紀末であり、蔡邕が呉(蘇州)で入手して人と語らう際の虎の巻としたことや、会稽太守となった王朗が同地で一本を発見したことによるという。一個人による百科全書的著作であり唐代までは大著として評価されてきたが、その記述姿勢が孔子・孟子に批判的であるという点から、宋代以降は無法の書として省みられなくなった。そのため、本文校訂も十分には進んでおらず、ようやく清末になって部分的注釈がなされ、中華民国時代になって詳細な注釈が完備した。1970年代の中華人民共和国での批林批孔運動(林彪と孔子及び儒教を否定し、罵倒する運動)の際には孔子を批判していた先駆的な思想書として評価されたという。
淮南子 天文訓 第三 より
帝張四維、運之以斗、月徙一辰、複反其所。正月指寅、十二月指醜、一歲而匝、終而複始。指寅、則萬物螾螾也、律受太蔟。太蔟者、蔟而未出也。指卯、卯則茂茂然、律受夾鍾。夾鍾者、種始莢也。指辰、辰則振之也、律受姑洗。姑洗者、陳去而新來也。指巳、巳則生已定也、律受仲呂。仲呂者、中充大也。指午、午者、忤也、律受蕤賓。蕤賓者、安而服也。指未、未、昧也、律受林鍾。林鍾者、引而止也。指申、申者、呻之也、律受夷則。夷則者、易其則也、德以去矣。指酉、酉者、飽也、律受南呂。南呂者、任包大也。指戌、戌者、滅也、律受無射。無射、入無厭也。指亥、亥者、閡也、律受應鍾。應鍾者、應其鍾也。指子、子者、茲也、律受黃鍾。黃鍾者、鍾巳黃也。指醜、醜者、紐也、律受大呂。大呂者、旅旅而去也。其加卯酉、則陰陽分、日夜平矣。故曰規生矩殺、衡長權藏、繩居中央、為四時根。
(訳)
天帝は、四維(四方の隅)を大きく拡げ、そこを北斗をたよって運(めぐ)らせる。月ごとに〔十二辰の〕一辰ずつを移動し、循環してもとの位置に返らせる。正月には〔斗杓は昏(日没時)に〕寅(いん)を指し、〔めぐって〕十二月には、丑を指す。〔かくて〕一年かかって一帀(いっそう、一周)する。一終(ひとめぐり)すると始めに復する。
寅を指(おざ)すのは、寅(いん)は万物が〔生まれおちて〕動く〔螾(いん)〕さまであるから。〔その月の〕音律では、大蔟(たいそう)を受け持つ。大蔟とは、〔万物が〕群生〔族〕していてまだ現われないことである。
卯を指すのは、卯(ぼう)は〔万物が〕生い茂る〔茂〕さまであるから。音律では夾鍾(きょうしょう)を受け持つ。夾鍾とは、種子が萌え(莢)始めることである。
辰を指すのは、辰(しん)は〔万物を〕振るいたたたせる〔辰〕さまであるから。音律では姑洗(こせん)を受け持つ。姑洗とは、陳(ふる)いもの(故)が遠ざかって〔洗われた〕新しいもの〔洗〕がきたることである。
巳を指すのは、巳(し)は〔万物〕の生育がすでに固定した〔巳〕さまであるから。音律では仲呂(ちゅうろ)を受け持つ。仲呂とは、中味〔中〕が充実して大きく〔呂〕なることである。
午を指すのは、午(ご)は〔陰気と陽気が〕あい交わる〔牾〕さまであるから。音律では蕤賓(ずいひん)を受け持つ。蕤賓とは、安らかな気持ち〔綏〕でつき従う〔賓〕ひとである。
未を指すのは、未(び)は〔万物〕が味わいゆたかな〔味〕さまであるから、音律では林鍾(りんしょう)を受け持つ。林鍾とは、引きしめて〔綝〕止めることである。
申を指すのは、申(しん)は〔万物が陰気に傷められて〕うめく〔呻〕さまであるから。音律では、夷則を受け持つ。夷則とは、〔万物は陰気に〕法(おきて)〔則〕を傷(やぶ)られる〔夷〕ことである。徳恵〔の気は〕すでにとおざかったのである。
酉を指すのは、酉(ゆう)は〔万物が〕飽き足りた〔就〕さまであるから。音律では南呂(なんろ)を受け持つ。南呂とは〔万物を〕助け保つ〔任〕のことの大きい〔邑〕であるから。
戌を指すのは、戌(じゅつ)は〔万物が〕尽き果てる〔減〕さまであるから。音律では無射(ぶえき)を受け持つ。無射とは〔万物が地下に〕入蔵して厭う〔斁(えき)〕ことのない〔無〕ことである。
亥を指すのは、亥(がい)は〔万物が〕もとを閉ざす〔閡(がい)〕さまであるから。音律では、応鍾(おうしょう)を受け持つ。応鍾とは、〔陽気が〕収(あつ)まる(鍾)ときに〔万物の〕対応する〔応〕さまであるから。
子を指すのは、子(し)は〔万物が地下で〕はぐくむ〔孳(し)〕さまであるから。音律では、黄鍾(こうしょう)を受け持つ。黄鍾とは、〔陽気が、地中の〕黄泉に〔黄〕にあつまる〔鍾〕ことである。
丑を指すのは、丑(ちゅう)は〔万物が芽吹いて〕まだ結ぼれている〔紐〕さまであるから。音律では大呂(たいりょ)を受け持つ。大呂とは、〔陰気が〕一斉に伴(つれ)だってとおざかることである。
〔以上のうち〕卯と酉とに当たるときは、陰気と陽気とが均分され、昼と夜とが〔等しい長さに〕平分されるのである。
さても、規〔コンパス〕は生み育てるもので、矩〔く、ものさし〕はそぎ落とすもの、衡〔竿秤〕はものを成らすもので、権〔秤のおもり〕は蔵(た)めこむもの。縄〔すみなわ〕は中央の位を占めて、四時〔しじ、四季〕の根本である。
*音律〔十二律〕とは、中国の伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの音。1オクターブ間に平均律でない半音の間隔で配された12の音である。律とは本来、音を定める竹の管であり、その長さの違いによって12の音の高さを定めた。周代において確立した。律を低いものから高いものへと並べ、西洋音楽の音名と対照すると図のようになる(規準音である黄鐘をCとした場合。時代によって違い、あくまでも目安である)。
帝張四維、運之以斗、月徙一辰、複反其所。正月指寅、十二月指醜、一歲而匝、終而複始。指寅、則萬物螾螾也、律受太蔟。太蔟者、蔟而未出也。指卯、卯則茂茂然、律受夾鍾。夾鍾者、種始莢也。指辰、辰則振之也、律受姑洗。姑洗者、陳去而新來也。指巳、巳則生已定也、律受仲呂。仲呂者、中充大也。指午、午者、忤也、律受蕤賓。蕤賓者、安而服也。指未、未、昧也、律受林鍾。林鍾者、引而止也。指申、申者、呻之也、律受夷則。夷則者、易其則也、德以去矣。指酉、酉者、飽也、律受南呂。南呂者、任包大也。指戌、戌者、滅也、律受無射。無射、入無厭也。指亥、亥者、閡也、律受應鍾。應鍾者、應其鍾也。指子、子者、茲也、律受黃鍾。黃鍾者、鍾巳黃也。指醜、醜者、紐也、律受大呂。大呂者、旅旅而去也。其加卯酉、則陰陽分、日夜平矣。故曰規生矩殺、衡長權藏、繩居中央、為四時根。
(訳)
天帝は、四維(四方の隅)を大きく拡げ、そこを北斗をたよって運(めぐ)らせる。月ごとに〔十二辰の〕一辰ずつを移動し、循環してもとの位置に返らせる。正月には〔斗杓は昏(日没時)に〕寅(いん)を指し、〔めぐって〕十二月には、丑を指す。〔かくて〕一年かかって一帀(いっそう、一周)する。一終(ひとめぐり)すると始めに復する。
寅を指(おざ)すのは、寅(いん)は万物が〔生まれおちて〕動く〔螾(いん)〕さまであるから。〔その月の〕音律では、大蔟(たいそう)を受け持つ。大蔟とは、〔万物が〕群生〔族〕していてまだ現われないことである。
卯を指すのは、卯(ぼう)は〔万物が〕生い茂る〔茂〕さまであるから。音律では夾鍾(きょうしょう)を受け持つ。夾鍾とは、種子が萌え(莢)始めることである。
辰を指すのは、辰(しん)は〔万物を〕振るいたたたせる〔辰〕さまであるから。音律では姑洗(こせん)を受け持つ。姑洗とは、陳(ふる)いもの(故)が遠ざかって〔洗われた〕新しいもの〔洗〕がきたることである。
巳を指すのは、巳(し)は〔万物〕の生育がすでに固定した〔巳〕さまであるから。音律では仲呂(ちゅうろ)を受け持つ。仲呂とは、中味〔中〕が充実して大きく〔呂〕なることである。
午を指すのは、午(ご)は〔陰気と陽気が〕あい交わる〔牾〕さまであるから。音律では蕤賓(ずいひん)を受け持つ。蕤賓とは、安らかな気持ち〔綏〕でつき従う〔賓〕ひとである。
未を指すのは、未(び)は〔万物〕が味わいゆたかな〔味〕さまであるから、音律では林鍾(りんしょう)を受け持つ。林鍾とは、引きしめて〔綝〕止めることである。
申を指すのは、申(しん)は〔万物が陰気に傷められて〕うめく〔呻〕さまであるから。音律では、夷則を受け持つ。夷則とは、〔万物は陰気に〕法(おきて)〔則〕を傷(やぶ)られる〔夷〕ことである。徳恵〔の気は〕すでにとおざかったのである。
酉を指すのは、酉(ゆう)は〔万物が〕飽き足りた〔就〕さまであるから。音律では南呂(なんろ)を受け持つ。南呂とは〔万物を〕助け保つ〔任〕のことの大きい〔邑〕であるから。
戌を指すのは、戌(じゅつ)は〔万物が〕尽き果てる〔減〕さまであるから。音律では無射(ぶえき)を受け持つ。無射とは〔万物が地下に〕入蔵して厭う〔斁(えき)〕ことのない〔無〕ことである。
亥を指すのは、亥(がい)は〔万物が〕もとを閉ざす〔閡(がい)〕さまであるから。音律では、応鍾(おうしょう)を受け持つ。応鍾とは、〔陽気が〕収(あつ)まる(鍾)ときに〔万物の〕対応する〔応〕さまであるから。
子を指すのは、子(し)は〔万物が地下で〕はぐくむ〔孳(し)〕さまであるから。音律では、黄鍾(こうしょう)を受け持つ。黄鍾とは、〔陽気が、地中の〕黄泉に〔黄〕にあつまる〔鍾〕ことである。
丑を指すのは、丑(ちゅう)は〔万物が芽吹いて〕まだ結ぼれている〔紐〕さまであるから。音律では大呂(たいりょ)を受け持つ。大呂とは、〔陰気が〕一斉に伴(つれ)だってとおざかることである。
〔以上のうち〕卯と酉とに当たるときは、陰気と陽気とが均分され、昼と夜とが〔等しい長さに〕平分されるのである。
さても、規〔コンパス〕は生み育てるもので、矩〔く、ものさし〕はそぎ落とすもの、衡〔竿秤〕はものを成らすもので、権〔秤のおもり〕は蔵(た)めこむもの。縄〔すみなわ〕は中央の位を占めて、四時〔しじ、四季〕の根本である。
*音律〔十二律〕とは、中国の伝統音楽で用いられる12種類の標準的な高さの音。1オクターブ間に平均律でない半音の間隔で配された12の音である。律とは本来、音を定める竹の管であり、その長さの違いによって12の音の高さを定めた。周代において確立した。律を低いものから高いものへと並べ、西洋音楽の音名と対照すると図のようになる(規準音である黄鐘をCとした場合。時代によって違い、あくまでも目安である)。
十二支は子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の12種類からなっているが、十干と同じように、十二支の本義は、古代研究に便利な漢の釈名や、史記の歴書によっても、実は生命消長の循環過程を分説したものであって、実際の木だの、火だの、鼠だの、牛だのと直接関係のあることではない。
子(シ・ね): “孳”で、陽気が色々に発現しようとする動き
丑(チュウ・うし): “紐”で、生命エネルギーの様々な結合
寅(イン・とら): “演”で、形をとっての発生
卯(ボウ・う): 同音“冒”に通じ、開発の意
辰(シン・たつ): “震”、同音“申”に同じ、生の活動
巳(シ・み): “已”に通じ、陽盛の極、漸く陰に移ろうとする所
午(ゴ・うま): “忤(さからう)”に通じ、上昇する陰と下退する陽との抵触
未(ビ・ひつじ): “昧”で、陰気の支配
申(シン・さる): 陰気の支配
酉(ユウ・とり): 酒熟して気の漏れる象。陰気の熟する所
戌(ジュツ・いぬ):同音“恤”であり、“滅”である。統一退蔵
亥(ガイ・い): “核”で、生命の完全な収蔵含蓄
十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。また、12という数が1年の月数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子の月は冬至を含む月、すなわち夏暦の11月、周暦の正月である周正に置かれた。さらに、時刻(十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。正午(昼の12時)、正子(夜の12時)、子午線(南北を結ぶ線: 経線)、卯酉線(東西を結ぶ線: 局所的に緯線と一致するが厳密には両者は別のもの)の称はこれに由来する。
十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。また、各十二支には動物が割り当てられている。これを十二生肖と呼ぶが、日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指すことが多い。元々十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある。
子(シ・ね): “孳”で、陽気が色々に発現しようとする動き
丑(チュウ・うし): “紐”で、生命エネルギーの様々な結合
寅(イン・とら): “演”で、形をとっての発生
卯(ボウ・う): 同音“冒”に通じ、開発の意
辰(シン・たつ): “震”、同音“申”に同じ、生の活動
巳(シ・み): “已”に通じ、陽盛の極、漸く陰に移ろうとする所
午(ゴ・うま): “忤(さからう)”に通じ、上昇する陰と下退する陽との抵触
未(ビ・ひつじ): “昧”で、陰気の支配
申(シン・さる): 陰気の支配
酉(ユウ・とり): 酒熟して気の漏れる象。陰気の熟する所
戌(ジュツ・いぬ):同音“恤”であり、“滅”である。統一退蔵
亥(ガイ・い): “核”で、生命の完全な収蔵含蓄
十二支は古く殷の甲骨文では十干と組み合わされて日付を記録するのに利用されている。戦国以降、日だけでなく、年・月・時刻・方位の記述にも利用されるようになる。戦国時代の中国天文学において天球の分割方法の一つであった十二辰は、天球を天の赤道帯に沿って東から西に十二等分したもので、この名称には十二支が当てられた。また、木星が約12年で天球を西から東に一周することから、十二次という別の天球分割法における木星の位置が年の記述に利用されていたが、十二辰の方向と順序に対しては逆方向であるため、紀元前4世紀ごろ、十二辰の方向に合わせるべく木星とは一直径を境に逆回りに天球を巡る太歳という架空の星を考え、太歳の十二辰における位置で年を示す紀年法が使われるようになった。これが後漢以後に始まり現在まで使われている干支による紀年法の起源である。また、12という数が1年の月数と同じであることから、月を表すのにも用いられるようになった。これを月建といい、建子の月は冬至を含む月、すなわち夏暦の11月、周暦の正月である周正に置かれた。さらに、時刻(十二時辰)や方位の表示にも用いられるようになった。正午(昼の12時)、正子(夜の12時)、子午線(南北を結ぶ線: 経線)、卯酉線(東西を結ぶ線: 局所的に緯線と一致するが厳密には両者は別のもの)の称はこれに由来する。
十二支の各文字は、一説に草木の成長における各相を象徴したものとされる(『漢書』律暦志)。また、各十二支には動物が割り当てられている。これを十二生肖と呼ぶが、日本では十二支という言葉自体で十二生肖を指すことが多い。元々十二支は順序を表す記号であって動物とは関係がない。なぜ動物と組み合わせられたかについては、人々が暦を覚えやすくするために、身近な動物を割り当てたという説(後漢の王充『論衡』)やバビロニア天文学の十二宮の伝播といった説がある。
十干(じっかん)は、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列。干支を書くとき干を支の前に書くことから天干(てんかん)とも言う。
古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(「かんし」または「えと」)といい、暦の表示などに用いられる。五行に当てはめて、2つずつを木(もく、き)・火(か、ひ)・土(と、つち)・金(こん、か)・水(すい、みず)にそれぞれ当て、さらに陰陽を割り当てている。日本では陽を兄、陰を弟として、例えば「甲」を「木の兄」(きのえ)、「乙」を「木の弟」(きのと)などと呼ぶようになった。「干支」を「えと」と読むのは、この「兄弟」(えと)に由来する。
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなるが、十干の本義は、古代研究に便利な漢の釈名や、史記の歴書によっても、実は生命消長の循環過程を分説したものであって、実際の木だの、火だの、鼠だの、牛だのと直接関係のあることではない。それぞれの本義は、次のようになっている。
甲(コウ・きのえ):草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙(オツ・きのと):陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙(ヘイ・ひのえ):陽気の発揚
丁(テイ・ひのと):陽気の充溢
戊(ボ・つちのえ):“茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己(キ・つちのと):紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚(コウ・かのえ):結実、形成、陰化の段階
辛(シン・かのと):陰による統制の強化
壬(ジン・みずのえ):“妊”に通じ、陽気を下に姙む意
癸(キ・みずのと):“揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態
古代中国で考えられ、日本に伝えられた。十二支と合わせて干支(「かんし」または「えと」)といい、暦の表示などに用いられる。五行に当てはめて、2つずつを木(もく、き)・火(か、ひ)・土(と、つち)・金(こん、か)・水(すい、みず)にそれぞれ当て、さらに陰陽を割り当てている。日本では陽を兄、陰を弟として、例えば「甲」を「木の兄」(きのえ)、「乙」を「木の弟」(きのと)などと呼ぶようになった。「干支」を「えと」と読むのは、この「兄弟」(えと)に由来する。
十干は甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10種類からなるが、十干の本義は、古代研究に便利な漢の釈名や、史記の歴書によっても、実は生命消長の循環過程を分説したものであって、実際の木だの、火だの、鼠だの、牛だのと直接関係のあることではない。それぞれの本義は、次のようになっている。
甲(コウ・きのえ):草木の芽生え、鱗芽のかいわれの象意
乙(オツ・きのと):陽気のまだ伸びない、かがまっているところ
丙(ヘイ・ひのえ):陽気の発揚
丁(テイ・ひのと):陽気の充溢
戊(ボ・つちのえ):“茂”に通じ、陽気による分化繁栄
己(キ・つちのと):紀に通じ、分散を防ぐ統制作用
庚(コウ・かのえ):結実、形成、陰化の段階
辛(シン・かのと):陰による統制の強化
壬(ジン・みずのえ):“妊”に通じ、陽気を下に姙む意
癸(キ・みずのと):“揆”に同じく生命のない残物を清算して地ならしを行い、新たな生長を行う待機の状態
淮南子 地形訓 第四 より
木勝土、土勝水、水勝火、火勝金、金勝木、故禾春生秋死、菽夏生冬死、麥秋生夏死、薺冬生中夏死。木壯、水老火生金囚土死;火壯、木老土生水囚金死;土壯、火老金生木囚水死;金壯、土老水生火囚木死。音有五聲、宮其主也;色有五章、黃其主也;味有五變、甘其主也;位有五材、土其主也。是故煉土生木、煉木生火、煉火生雲、煉雲生水、煉水反土。煉甘生酸、煉酸生辛、煉辛生苦、煉苦生鹹、煉咸反甘。變宮生征、變征生商、變商生羽、變羽生角、變角生宮。是故以水和土、以土和火、以火化金、以金治木、木得反土。五行相治、所以成器用。
(訳)
木は土に勝つ。土は水に勝つ。水は火に勝つ。火は金に勝つ。金は水に勝つ。
さても禾(いね、木徳)は、春(木王)に生じ、秋(金王)に枯れ、菽(まめ、火徳)は、夏(火王)に生じ、冬(水王)に枯れ、麦(金徳)は、秋に生じ、夏に枯れ、薺(せい、野菜、水徳)は、冬に生じ、中夏(季夏、土王)に枯れる。
木が壮んになると、水は老え、火は生じ、金は囚われ、土は死ぬ。
火が壮んになると、木は老え、土は生じ、水は囚われ、金は死ぬ。
土が壮んになると、火は老え、金は生じ、木は囚われ、水は死ぬ。
金が壮んになると、土は老え、水は生じ、火は囚われ、木は死ぬ。
水が壮んになると、金は老え、木は生じ、土は囚われ、火は死ぬ。
音(おん、音階)には、五声があり、(宮、商、角、徴、羽)があり、うち宮がその主宰者である。〔※西洋古典音楽の階名で大体、宮はド(Do)、商はレ(Re)、角はミ(Mi)、徴はソ(Sol)、羽はラ(La)にあたると説明されることが多い。〕
色(色彩)には五章(黄、赤、青、白、黒)があり、うち黄がその主宰者である。
味(味覚)には五変(甘、酸、辛、苦、鹹)があり、うち甘がその主宰者である。
位(素材)には五材(土・木・火・金・水)があり、うち土がその主宰者である。
さてこそ、土を錬(きた)えて木を生じ、木を錬えて火を生じ、火を錬えて雲(金気が宿る)を生じ、雲を錬えて水を生じ、水を錬えて土にかえる。―― 甘(あまみ)を錬(ね)て酸を生じ、酸(すっぱい)を錬って辛を生じ、辛(からみ)を錬って、苦を生じ、苦(にがみ)を錬って鹹を生じ、鹹(しおからい)を錬って甘にかえる。―― 宮を変じて徴を生じ、徴を変じて商を生じ、商を変じて羽を生じ、羽を変じて角を生じ、角を変じて宮を生じる。
さてこそ、水によって土を調和し、土によって火を調和し、火によって金を化(とか)し、金によって木を治め、木は再び土にかえる。かく五行の徳が(つぎつぎと)治めあってこそ、器物の働きが完全に成りたつのだ。
木勝土、土勝水、水勝火、火勝金、金勝木、故禾春生秋死、菽夏生冬死、麥秋生夏死、薺冬生中夏死。木壯、水老火生金囚土死;火壯、木老土生水囚金死;土壯、火老金生木囚水死;金壯、土老水生火囚木死。音有五聲、宮其主也;色有五章、黃其主也;味有五變、甘其主也;位有五材、土其主也。是故煉土生木、煉木生火、煉火生雲、煉雲生水、煉水反土。煉甘生酸、煉酸生辛、煉辛生苦、煉苦生鹹、煉咸反甘。變宮生征、變征生商、變商生羽、變羽生角、變角生宮。是故以水和土、以土和火、以火化金、以金治木、木得反土。五行相治、所以成器用。
(訳)
木は土に勝つ。土は水に勝つ。水は火に勝つ。火は金に勝つ。金は水に勝つ。
さても禾(いね、木徳)は、春(木王)に生じ、秋(金王)に枯れ、菽(まめ、火徳)は、夏(火王)に生じ、冬(水王)に枯れ、麦(金徳)は、秋に生じ、夏に枯れ、薺(せい、野菜、水徳)は、冬に生じ、中夏(季夏、土王)に枯れる。
木が壮んになると、水は老え、火は生じ、金は囚われ、土は死ぬ。
火が壮んになると、木は老え、土は生じ、水は囚われ、金は死ぬ。
土が壮んになると、火は老え、金は生じ、木は囚われ、水は死ぬ。
金が壮んになると、土は老え、水は生じ、火は囚われ、木は死ぬ。
水が壮んになると、金は老え、木は生じ、土は囚われ、火は死ぬ。
音(おん、音階)には、五声があり、(宮、商、角、徴、羽)があり、うち宮がその主宰者である。〔※西洋古典音楽の階名で大体、宮はド(Do)、商はレ(Re)、角はミ(Mi)、徴はソ(Sol)、羽はラ(La)にあたると説明されることが多い。〕
色(色彩)には五章(黄、赤、青、白、黒)があり、うち黄がその主宰者である。
味(味覚)には五変(甘、酸、辛、苦、鹹)があり、うち甘がその主宰者である。
位(素材)には五材(土・木・火・金・水)があり、うち土がその主宰者である。
さてこそ、土を錬(きた)えて木を生じ、木を錬えて火を生じ、火を錬えて雲(金気が宿る)を生じ、雲を錬えて水を生じ、水を錬えて土にかえる。―― 甘(あまみ)を錬(ね)て酸を生じ、酸(すっぱい)を錬って辛を生じ、辛(からみ)を錬って、苦を生じ、苦(にがみ)を錬って鹹を生じ、鹹(しおからい)を錬って甘にかえる。―― 宮を変じて徴を生じ、徴を変じて商を生じ、商を変じて羽を生じ、羽を変じて角を生じ、角を変じて宮を生じる。
さてこそ、水によって土を調和し、土によって火を調和し、火によって金を化(とか)し、金によって木を治め、木は再び土にかえる。かく五行の徳が(つぎつぎと)治めあってこそ、器物の働きが完全に成りたつのだ。
五行の互いの関係には、「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という性質が付与されている。
相生とは、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
木生火:木は燃えて火を生む。
火生土:物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還る。
土生金:鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ることによってその金属を得ることができる。
金生水:金属の表面には凝結により水が生じる。
水生木:木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。
相剋とは、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
木剋土:木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
土剋水:土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。
水剋火:水は火を消し止める。
火剋金:火は金属を熔かす。
金剋木:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
比和とは、同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
相侮とは、「侮(ぶ)」は侮(あなど)ることで、相剋の反対で、反剋する関係にある。
木侮金:木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る
金侮火:金が強すぎると、火の克制を受け付けず、逆に金が火を侮る
火侮水:火が強すぎると、水の克制を受け付けず、逆に火が水を侮る
水侮土:水が強すぎると、土の克制を受け付けず、逆に水が土を侮る
土侮木:土が強すぎると、木の克制を受け付けず、逆に土が木を侮る
火虚金侮:火自身が弱いため、金を克制することができず、逆に金が火を侮る
水虚火侮:水自身が弱いため、火を克制することができず、逆に火が水を侮る
土虚水侮:土自身が弱いため、水を克制することができず、逆に水が土を侮る
木虚土侮:木自身が弱いため、土を克制することができず、逆に土が木を侮る
金虚木侮:金自身が弱いため、木を克制することができず、逆に木が金を侮る
相乗とは、「乗」は陵辱することで、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。
木乗土:木が強すぎて、土を克し過ぎ、土の形成が不足する。
土乗水:土が強すぎて、水を克し過ぎ、水を過剰に吸収する。
水乗火:水が強すぎて、火を克し過ぎ、火を完全に消火する。
火乗金:火が強すぎて、金を克し過ぎ、金を完全に熔解する。
金乗木:金が強すぎて、木を克し過ぎ、木を完全に切り倒す。
土虚木乗:土自身が弱いため、木剋土の力が相対的に強まって、土がさらに弱められること。
水虚土乗:水自身が弱いため、土剋水の力が相対的に強まって、水がさらに弱められること。
火虚水乗:
火自身が弱いため、水剋火の力が相対的に強まって、火がさらに弱められること。
金虚火乗:
金自身が弱いため、火剋金の力が相対的に強まって、金がさらに弱められること。
木虚金乗:
木自身が弱いため、金剋木の力が相対的に強まって、木がさらに弱められること。
相生とは、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
木生火:木は燃えて火を生む。
火生土:物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還る。
土生金:鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ることによってその金属を得ることができる。
金生水:金属の表面には凝結により水が生じる。
水生木:木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。
相剋とは、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
木剋土:木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
土剋水:土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。
水剋火:水は火を消し止める。
火剋金:火は金属を熔かす。
金剋木:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
比和とは、同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
相侮とは、「侮(ぶ)」は侮(あなど)ることで、相剋の反対で、反剋する関係にある。
木侮金:木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る
金侮火:金が強すぎると、火の克制を受け付けず、逆に金が火を侮る
火侮水:火が強すぎると、水の克制を受け付けず、逆に火が水を侮る
水侮土:水が強すぎると、土の克制を受け付けず、逆に水が土を侮る
土侮木:土が強すぎると、木の克制を受け付けず、逆に土が木を侮る
火虚金侮:火自身が弱いため、金を克制することができず、逆に金が火を侮る
水虚火侮:水自身が弱いため、火を克制することができず、逆に火が水を侮る
土虚水侮:土自身が弱いため、水を克制することができず、逆に水が土を侮る
木虚土侮:木自身が弱いため、土を克制することができず、逆に土が木を侮る
金虚木侮:金自身が弱いため、木を克制することができず、逆に木が金を侮る
相乗とは、「乗」は陵辱することで、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。
木乗土:木が強すぎて、土を克し過ぎ、土の形成が不足する。
土乗水:土が強すぎて、水を克し過ぎ、水を過剰に吸収する。
水乗火:水が強すぎて、火を克し過ぎ、火を完全に消火する。
火乗金:火が強すぎて、金を克し過ぎ、金を完全に熔解する。
金乗木:金が強すぎて、木を克し過ぎ、木を完全に切り倒す。
土虚木乗:土自身が弱いため、木剋土の力が相対的に強まって、土がさらに弱められること。
水虚土乗:水自身が弱いため、土剋水の力が相対的に強まって、水がさらに弱められること。
火虚水乗:
火自身が弱いため、水剋火の力が相対的に強まって、火がさらに弱められること。
金虚火乗:
金自身が弱いため、火剋金の力が相対的に強まって、金がさらに弱められること。
木虚金乗:
木自身が弱いため、金剋木の力が相対的に強まって、木がさらに弱められること。
五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。
また、5種類の元素は『互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する』という考えが根底に存在する。
五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん、BC305~240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。少なくとも当時から知られていた惑星、水星・金星・火星・木星・土星の名称は五行に対応している。春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
木(木行):木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行):光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行):植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行);土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行):泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
1.太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、
2.次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
3.さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、
4.残った陰気が西に移動して金行を生じた。
5.そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
また、5種類の元素は『互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する』という考えが根底に存在する。
五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん、BC305~240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。少なくとも当時から知られていた惑星、水星・金星・火星・木星・土星の名称は五行に対応している。春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
木(木行):木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
火(火行):光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
土(土行):植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
金(金行);土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
水(水行):泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。
五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
1.太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、
2.次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
3.さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、
4.残った陰気が西に移動して金行を生じた。
5.そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
五星(ごせい)とは、太陽系の惑星のうち水星・金星・火星・木星・土星の5つをいう。肉眼で容易に観測できるため、古代より知られていた惑星である。太陽系の内側から6つめまでの惑星のうち、天動説では惑星と認識されていなかった地球以外の5つでもある。五星(と地球)以外の惑星が知られたのは、天王星が発見された1781年である。
中国では五行思想の元になり、漢字圏(中国語、日本語、韓国語、ベトナム語)では「木火土金水」の五行に「星」をつけた名で呼ばれる(ただしベトナム語では「星○」の語順)。五行と五星の対応は、惑星の性質(わかっていたのは運行・色・光度程度だが)から連想されるものになっており、単純な順序関係になっていない。五星に日と月を加えたものが七曜で、曜日に対応付けられている。七曜に計都(けいとう)と羅睺(ら合)を加えたものが九曜である。
淮南子 天文訓 第三より
何謂五星? 東方、木也、其帝太皞、其佐句芒、執規而治春;其神為歲星、其獸蒼龍、其音角、其日甲乙。南方、火也、其帝炎帝、其佐朱明、執衡而治夏;其神為熒惑、其獸朱鳥、其音徵、其日丙丁。中央、土也、其帝黃帝、其佐後土、執繩而制四方;其神為鎮星、其獸黃龍、其音宮、其日戊己。西方、金也、其帝少昊、其佐蓐收、執矩而治秋;其神為太白、其獸白虎、其音商、其日庚辛。北方、水也、其帝顓頊、其佐玄冥、執權而治冬;其神為辰星、其獸玄武、其音羽、其日壬癸。
〈訳〉
五星とは何か。
東方は木である。その帝は大皥(たいこう)、その佐(宰相)は句芒(こうぼう)で、規(コンパス)をとって春期を治める。神は歳星(木星)である。禽獣では蒼龍。五音では角。暦日では甲と乙。
南方は火である。その帝は炎帝、その佐は朱明(しゅめい)で、衡(はかり)をとって夏期を治める。神は熒惑(けいわく、火星)である。禽獣では、朱鳥。五音では微(ち)。暦日では丙と丁。
中央は土である。その帝は黄帝、その佐は后土で、縄(すみなわ)を取って四方を支配する。神は鎭星(土星)である。禽獣では、黄龍。五音では宮(きゅう)。暦日では戊と己。
西方は金である。その帝は少昊(しょうこう)、その佐は蓐収(じょくしゅう)で、矩(ものさし)を取って秋期を治める。神は太白(たいはく)である。禽獣では白虎(びゃっこ)、五音では商(しょう)。暦日では庚と辛。
北方は水である。その帝は顓頊(せんぎょく)、その佐は玄冥(げんめい)で、権(秤のおもり)を取って冬期を治める。神は辰星(水星)である。禽獣では玄武。五音では羽(う)。暦日では壬と癸。
今朝のウェブニュースより
【カダフィ大佐死亡】遺体は市中引き回し 群衆から歓喜の声「血は無駄ではなかった!」[中東・アフリカ]―― 【カイロ=大内清】リビアの最高指導者だったカダフィ大佐(69)が20日、中部シルトで反カダフィ派部隊に拘束、殺害されたことを受け、国内各地で市民が「カダフィ時代」の終わりを祝った。反カダフィ派代表組織「国民評議会」のアブドルジャリル議長は21日にも「全土解放」を宣言する見通し。/中東の衛星テレビ局アルアラビーヤが放映した映像によると、大佐の遺体が運ばれた北西部ミスラタでは20日、遺体を乗せた反カダフィ派部隊の車両が市中を回った。殺到した群衆からは、大佐を罵(ののし)る言葉とともに、「犠牲者の血は無駄ではなかった!」と歓喜の声が上がった。/首都トリポリでも多くの市民が反カダフィ派の旗を持って街へ繰り出し、夜もお祭り騒ぎが続いた。/一方、トリポリで記者会見した評議会のジブリル暫定首相は同日、大佐の最有力後継候補と目された次男サイフルイスラム氏がシルト脱出後、近郊の村に潜伏しているのをほぼ特定したと明らかにした。同氏をめぐっては、すでに殺害されたとの報道もあり、情報が錯綜(さくそう)している。 (産経ニュース 2011.10.21 08:26)
二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学・占星術で用いられた。28という数字は、月の任意の恒星に対する公転周期(恒星月)である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に、月は1つのエリアを通過すると仮定している。
角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)に分けられた。
二十八宿はそれぞれ西端の比較的明るい星を基準(距星という)とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度(赤経差)となる。『漢書』「律暦志」 以降、二十八宿は度数をもって表されたが、その周天度は360度ではなく、1太陽年の長さ、すなわち365度で表された。この場合、正確には365度に4分の1程度の端数が生じる訳で、その端数は全て斗宿の広度に含められ、これを斗分と呼んだ。
考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった。日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神と共に見付かっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。
淮南子 天文訓 第三 より
星、正月建營室、二月建奎、婁、三月建胃、四月建畢、五月建東井、六月建張、七月建翼、八月建亢、九月建房、十月建尾、十一月建牽牛、十二月建虛。
星分度、角十二、亢九、氐十五、房五、心五、尾十八、箕十一四分一、斗二十六、牽牛八、須女十二、虛十、危十七、營室十六、東壁九、奎十六、婁十二、胃十四、昴十一、畢十六、觜嶲二、參九、東井三十三、輿鬼四、柳十五、星七、張、翼各十八、軫十七、凡二十八宿也。
〈訳〉
〔星・月〕は、正月には営室〔・東壁〕に建ち、二月には奎・婁に建ち、三月には胃〔・昴〕に建ち、四月には畢〔・觜嶲・参〕に建ち、五月には東井〔・輿鬼〕に建ち、六月には〔柳・七星・〕張に建ち、七月には翼〔・軫〕に建ち、八月には〔角・〕亢〔・氐〕に建ち、九月には房〔・心〕に建ち、十月には尾〔・箕〕に建ち、十一月には〔斗・〕牽牛に建ち、十二月には〔須女・〕虚〔・危〕に建つ。
〔星宿の分度〕 〔二十八〕星宿の分度は、角(かく)が十二、亢(こう)が九、氐(てい)は十五、房(ぼう)が五、心(しん)が五、尾(び)が十八、箕(き)が十一と四分の一。〔以上東七十五度と四分の一度。〕
斗(と)が二十六、牽牛(けんぎゅう)が八、須女(しゅじょ)が十二、虚(きょ)十、危(き)が十七、営室(えいしつ)が十六、東壁(とうへき)が九。〔以上、北九十八度。〕 奎(けい)が十六、婁(ろう)は十二、胃(い)がじゅよん、昴(ぼう)が十一、畢(ひつ)が十六、觜嶲(しけい)が二、参(しん)が九。〔以上、西八十度。〕 東井(とうせい)が三十三、輿鬼(よき)が四、柳(りゅう)が十五、七星(しちせい)が七、張(ちょう)と翼(よく)とがおのおの十八、軫(しん)が十七。〔以上、南百二十二度。〕で、すべて二十八宿である。
*〔 〕内は、すべて原文に補足したものである。
【カダフィ大佐死亡】遺体は市中引き回し 群衆から歓喜の声「血は無駄ではなかった!」[中東・アフリカ]―― 【カイロ=大内清】リビアの最高指導者だったカダフィ大佐(69)が20日、中部シルトで反カダフィ派部隊に拘束、殺害されたことを受け、国内各地で市民が「カダフィ時代」の終わりを祝った。反カダフィ派代表組織「国民評議会」のアブドルジャリル議長は21日にも「全土解放」を宣言する見通し。/中東の衛星テレビ局アルアラビーヤが放映した映像によると、大佐の遺体が運ばれた北西部ミスラタでは20日、遺体を乗せた反カダフィ派部隊の車両が市中を回った。殺到した群衆からは、大佐を罵(ののし)る言葉とともに、「犠牲者の血は無駄ではなかった!」と歓喜の声が上がった。/首都トリポリでも多くの市民が反カダフィ派の旗を持って街へ繰り出し、夜もお祭り騒ぎが続いた。/一方、トリポリで記者会見した評議会のジブリル暫定首相は同日、大佐の最有力後継候補と目された次男サイフルイスラム氏がシルト脱出後、近郊の村に潜伏しているのをほぼ特定したと明らかにした。同氏をめぐっては、すでに殺害されたとの報道もあり、情報が錯綜(さくそう)している。 (産経ニュース 2011.10.21 08:26)
二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学・占星術で用いられた。28という数字は、月の任意の恒星に対する公転周期(恒星月)である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に、月は1つのエリアを通過すると仮定している。
角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)に分けられた。
二十八宿はそれぞれ西端の比較的明るい星を基準(距星という)とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度(赤経差)となる。『漢書』「律暦志」 以降、二十八宿は度数をもって表されたが、その周天度は360度ではなく、1太陽年の長さ、すなわち365度で表された。この場合、正確には365度に4分の1程度の端数が生じる訳で、その端数は全て斗宿の広度に含められ、これを斗分と呼んだ。
考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった。日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神と共に見付かっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。
淮南子 天文訓 第三 より
星、正月建營室、二月建奎、婁、三月建胃、四月建畢、五月建東井、六月建張、七月建翼、八月建亢、九月建房、十月建尾、十一月建牽牛、十二月建虛。
星分度、角十二、亢九、氐十五、房五、心五、尾十八、箕十一四分一、斗二十六、牽牛八、須女十二、虛十、危十七、營室十六、東壁九、奎十六、婁十二、胃十四、昴十一、畢十六、觜嶲二、參九、東井三十三、輿鬼四、柳十五、星七、張、翼各十八、軫十七、凡二十八宿也。
〈訳〉
〔星・月〕は、正月には営室〔・東壁〕に建ち、二月には奎・婁に建ち、三月には胃〔・昴〕に建ち、四月には畢〔・觜嶲・参〕に建ち、五月には東井〔・輿鬼〕に建ち、六月には〔柳・七星・〕張に建ち、七月には翼〔・軫〕に建ち、八月には〔角・〕亢〔・氐〕に建ち、九月には房〔・心〕に建ち、十月には尾〔・箕〕に建ち、十一月には〔斗・〕牽牛に建ち、十二月には〔須女・〕虚〔・危〕に建つ。
〔星宿の分度〕 〔二十八〕星宿の分度は、角(かく)が十二、亢(こう)が九、氐(てい)は十五、房(ぼう)が五、心(しん)が五、尾(び)が十八、箕(き)が十一と四分の一。〔以上東七十五度と四分の一度。〕
斗(と)が二十六、牽牛(けんぎゅう)が八、須女(しゅじょ)が十二、虚(きょ)十、危(き)が十七、営室(えいしつ)が十六、東壁(とうへき)が九。〔以上、北九十八度。〕 奎(けい)が十六、婁(ろう)は十二、胃(い)がじゅよん、昴(ぼう)が十一、畢(ひつ)が十六、觜嶲(しけい)が二、参(しん)が九。〔以上、西八十度。〕 東井(とうせい)が三十三、輿鬼(よき)が四、柳(りゅう)が十五、七星(しちせい)が七、張(ちょう)と翼(よく)とがおのおの十八、軫(しん)が十七。〔以上、南百二十二度。〕で、すべて二十八宿である。
*〔 〕内は、すべて原文に補足したものである。
プロフィール
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目高 拙痴无
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92
誕生日:
1932/02/04
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