瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
荀子 修身篇 第二 より(是是非非)
以善先人者謂之教、以善和人者謂之順;以不善先人者謂之諂、以不善和人者謂之諛。是是非非謂之知、非是是非謂之愚。傷良曰讒、害良曰賊。是謂是、非謂非曰直。竊貨曰盜、匿行曰詐、易言曰誕。趣舍無定謂之無常。保利棄義謂之至賊。多聞曰博、少聞曰淺。多見曰閑、少見曰陋。難進曰偍、易忘曰漏。少而理曰治、多而亂曰秏。
〔訳〕
善を以って人を先導するのを教といい、善を以って人を和合するのを順という。不善を以って人を先導するのを諂(おとしいれ)といい、不善を以って人を和合するのを諛(へつらい)という。是(ぜ)を是とし非を非とするのを知といい、是を非とし非を是とするのを愚という。良い人をそしり傷つけるのを讒(ざん)といい、良い人を痛めそこなうのを賊(ぞく)という。是を是といい非を非というのが直であり、貨財をぬすむのが盗であり、行為をかくすののが詐(いつわり)であり、言葉をひるがえるのが誕(あざむき)である。進退に定見のないのを無常(つねなし)といい、利益をむさぼり道義をすてるのを至賊という。聞くところの多いのを博といい、聞くところの少ないのを浅という。見るところの多いのを閑(ならう)といい、見ることの少ないのを陋(かたくな)という。進歩のおそいのを偍(ゆるい)といい、忘れやすいのを漏(もる)という。為すこと少なくして条理のあるのを治(おさまる)といい、為すこと多くして乱雑なのを耗(みだる)という。
荀子 修身篇 第二 より(跛鼈千里)
夫驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣。將以窮無窮、逐無極與?其折骨絕筋、終身不可以相及也。將有所止之、則千里雖遠、亦或遲、或速、或先、或後、胡為乎其不可以相及也!不識步道者、將以窮無窮、逐無極與?意亦有所止之與?夫“堅白”、“同異”、“有厚無厚”之察、非不察也、然而君子不辯、止之也。倚魁之行、非不難也、然而君子不行、止之也。故學曰遲。彼止而待我、我行而就之、則亦或遲、或速、或先、或後、胡為乎其不可以同至也! 故蹞步而不休、跛鱉千里;累土而不輟、丘山崇成。厭其源、開其瀆、江河可竭。一進一退、一左一右、六驥不致。彼人之才性之相縣也、豈若跛鱉之與六驥足哉!然而跛鱉致之、六驥不致、是無它故焉、或為之、或不為爾! 道雖邇、不行不至;事雖小、不為不成。其為人也多暇日者、其出入不遠矣。
〔訳〕
かの駿馬は一日で千里を走るというが、駄馬だとて十日もかければ、これに追いつくことが出来る。もし無窮・無極の果まで行こうとすれば、筋骨をたちきるほど努力しても、生涯行き着くことはできない。これに反し、もし目標を立てて進むならば、千里の道は遠くとも遅速先後の違いはあるにせよ、どうして到達できないことがあろうか。いったい、道を行く人は無窮・無極の果をきわめようとするのか。それとも止まるべき目的地をきめているのか〔もちろん後者であろう〕。
かの堅白、同異、有厚・無厚の弁は、明晰には違いないが、君子がそのようなことを議論しないのは、止まるべき目標を持っているからである。人の意表をつく奇怪な行いは、至難のことに違いないが、君子がそのようなことをしないのは、止まるべき目的をきめているからである。
だから学問には待つということがある。すなわち、彼は泊まるべきところにおってわれが来るのを待ち、我は進んでそこに行き着くならば、たとい遅速先後の違いはあっても、どうしてともに目標に到達できないということがあろうか。だから半歩ずつでも休まずに歩けば、びっこの鼈(すっぽん)さえ千里の道を行くことが出来、少量の土でも止めずに積み重ねれば、高い丘や山も出来上がり、水源をふさいで出口を開くなら、揚子江や黄河の水でさえ涸らすことが出来る。しかし、進んだり退いたり、左に曲がったり右に折れたりしていては、たとい六頭立ての駿馬でも目的地に到達できない。いったい、人間の素質の隔たりは、どうしてびっこの鼈と駿馬の足ほどはなはだしいものだろうか。それなのに、びっこの鼈が道のりをゆきつくし、六頭立ての駿馬が行きつくせないのは、けっして他に理由がないわけではない。一方は努力し、一方は努力しなかったまでである。
いかに近い道でも歩まなくては到達せず、いかに小さなことでもしなければ成就しない。人となりの怠惰は者は〔いかに素質がすぐれていようとも〕はなはだしく人よりずば抜けることはない。
以善先人者謂之教、以善和人者謂之順;以不善先人者謂之諂、以不善和人者謂之諛。是是非非謂之知、非是是非謂之愚。傷良曰讒、害良曰賊。是謂是、非謂非曰直。竊貨曰盜、匿行曰詐、易言曰誕。趣舍無定謂之無常。保利棄義謂之至賊。多聞曰博、少聞曰淺。多見曰閑、少見曰陋。難進曰偍、易忘曰漏。少而理曰治、多而亂曰秏。
〔訳〕
善を以って人を先導するのを教といい、善を以って人を和合するのを順という。不善を以って人を先導するのを諂(おとしいれ)といい、不善を以って人を和合するのを諛(へつらい)という。是(ぜ)を是とし非を非とするのを知といい、是を非とし非を是とするのを愚という。良い人をそしり傷つけるのを讒(ざん)といい、良い人を痛めそこなうのを賊(ぞく)という。是を是といい非を非というのが直であり、貨財をぬすむのが盗であり、行為をかくすののが詐(いつわり)であり、言葉をひるがえるのが誕(あざむき)である。進退に定見のないのを無常(つねなし)といい、利益をむさぼり道義をすてるのを至賊という。聞くところの多いのを博といい、聞くところの少ないのを浅という。見るところの多いのを閑(ならう)といい、見ることの少ないのを陋(かたくな)という。進歩のおそいのを偍(ゆるい)といい、忘れやすいのを漏(もる)という。為すこと少なくして条理のあるのを治(おさまる)といい、為すこと多くして乱雑なのを耗(みだる)という。
荀子 修身篇 第二 より(跛鼈千里)
夫驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣。將以窮無窮、逐無極與?其折骨絕筋、終身不可以相及也。將有所止之、則千里雖遠、亦或遲、或速、或先、或後、胡為乎其不可以相及也!不識步道者、將以窮無窮、逐無極與?意亦有所止之與?夫“堅白”、“同異”、“有厚無厚”之察、非不察也、然而君子不辯、止之也。倚魁之行、非不難也、然而君子不行、止之也。故學曰遲。彼止而待我、我行而就之、則亦或遲、或速、或先、或後、胡為乎其不可以同至也! 故蹞步而不休、跛鱉千里;累土而不輟、丘山崇成。厭其源、開其瀆、江河可竭。一進一退、一左一右、六驥不致。彼人之才性之相縣也、豈若跛鱉之與六驥足哉!然而跛鱉致之、六驥不致、是無它故焉、或為之、或不為爾! 道雖邇、不行不至;事雖小、不為不成。其為人也多暇日者、其出入不遠矣。
〔訳〕
かの駿馬は一日で千里を走るというが、駄馬だとて十日もかければ、これに追いつくことが出来る。もし無窮・無極の果まで行こうとすれば、筋骨をたちきるほど努力しても、生涯行き着くことはできない。これに反し、もし目標を立てて進むならば、千里の道は遠くとも遅速先後の違いはあるにせよ、どうして到達できないことがあろうか。いったい、道を行く人は無窮・無極の果をきわめようとするのか。それとも止まるべき目的地をきめているのか〔もちろん後者であろう〕。
かの堅白、同異、有厚・無厚の弁は、明晰には違いないが、君子がそのようなことを議論しないのは、止まるべき目標を持っているからである。人の意表をつく奇怪な行いは、至難のことに違いないが、君子がそのようなことをしないのは、止まるべき目的をきめているからである。
だから学問には待つということがある。すなわち、彼は泊まるべきところにおってわれが来るのを待ち、我は進んでそこに行き着くならば、たとい遅速先後の違いはあっても、どうしてともに目標に到達できないということがあろうか。だから半歩ずつでも休まずに歩けば、びっこの鼈(すっぽん)さえ千里の道を行くことが出来、少量の土でも止めずに積み重ねれば、高い丘や山も出来上がり、水源をふさいで出口を開くなら、揚子江や黄河の水でさえ涸らすことが出来る。しかし、進んだり退いたり、左に曲がったり右に折れたりしていては、たとい六頭立ての駿馬でも目的地に到達できない。いったい、人間の素質の隔たりは、どうしてびっこの鼈と駿馬の足ほどはなはだしいものだろうか。それなのに、びっこの鼈が道のりをゆきつくし、六頭立ての駿馬が行きつくせないのは、けっして他に理由がないわけではない。一方は努力し、一方は努力しなかったまでである。
いかに近い道でも歩まなくては到達せず、いかに小さなことでもしなければ成就しない。人となりの怠惰は者は〔いかに素質がすぐれていようとも〕はなはだしく人よりずば抜けることはない。
荀子 勧学篇 第一 より(積水成淵・駑馬十駕)
積土成山、風雨興焉;積水成淵、蛟龍生焉;積善成德、而神明自得、聖心備焉。故不積蹞步、無以致千里;不積小流、無以成江海。騏驥一躍、不能十步;駑馬十駕、功在不舍。鍥而舍之、朽木不折;鍥而不舍、金石可鏤。
螾無爪牙之利、筋骨之強、上食埃土、下飲黃泉、用心一也。蟹八跪而二螯、非蛇蟺之穴、無可寄託者、用心躁也。是故無冥冥之志者、無昭昭之明;無惛惛之事者、無赫赫之功。行衢道者不至、事兩君者不容。目不能兩視而明、耳不能兩聽而聰。螣蛇無足而飛、梧鼠五技而窮。《詩》曰:“尸鳩在桑、其子七兮。淑人君子、其儀一兮。其儀一兮、心如結兮。”故君子結於一也。
〔訳〕
土が積もって高い山になると、そこに風雨がおこり、水がたまって深い淵になると、そこに蛟龍が棲むようになる。人も善行を積んで立派な徳を身につければ、自然と不思議な英知が得られ、聖人のような心が備わってくる。だから一歩ずつ歩み続けなければ千里の遠くへ行くことは出来ず、小さな流れを沢山集めなければ江海の大をなすことは出来ない。いかなる名馬でもひと躍(と)びで十歩を進むことは出来ないが、駄馬だとて十日もかければ千里の道程を行くことができる。成功は途中で止めないところにある。切りかけて中途で止めれば腐った木さえ折れないが、刻み続けてやめなければ、堅い金石にさえ彫刻できる。
螾(みみず)には鋭い爪も強い筋肉もないのに、地表の泥土を食らい、地中に潜って地下水を飲むことも出来るのは、心を一つの事に向けるからである。蟹には八本の足と、二本のはさみがあるのに、蛇や蟺(うなぎ)の穴を借りなければ、わが身を寄せる所がないのは、心ぜわしく散漫だからである。こういうわけで人知れぬ努力を続けない者には、華々しい成果はあがらない。二また道を行く者は目的地に到達できず、二人の主君に仕える者はどちらにも信用されない。目は二つのものを同時に視ることは出来ないけれども、よく視えるし、耳も二つのものを同時に聴くことは出来ないけれど、よく聞こえる。螣蛇(とうだ)は足がなくても大空を飛べるのに、鼫鼠(せきそ)はは五つのわざを持ちながら、こころを専一にしないので窮地に陥ってしまう。『詩経』(曹風・尸鳩篇)に、「桑の木に巣くう尸鳩(きじばと)のその子は七羽。〔七羽の子の育て方が一様なこの鳥のように〕立派な君子は、威儀が一定している。威儀が一定していれば、心は専一である」と言っている。だから君子は心を一事に集中させるのである。
積土成山、風雨興焉;積水成淵、蛟龍生焉;積善成德、而神明自得、聖心備焉。故不積蹞步、無以致千里;不積小流、無以成江海。騏驥一躍、不能十步;駑馬十駕、功在不舍。鍥而舍之、朽木不折;鍥而不舍、金石可鏤。
螾無爪牙之利、筋骨之強、上食埃土、下飲黃泉、用心一也。蟹八跪而二螯、非蛇蟺之穴、無可寄託者、用心躁也。是故無冥冥之志者、無昭昭之明;無惛惛之事者、無赫赫之功。行衢道者不至、事兩君者不容。目不能兩視而明、耳不能兩聽而聰。螣蛇無足而飛、梧鼠五技而窮。《詩》曰:“尸鳩在桑、其子七兮。淑人君子、其儀一兮。其儀一兮、心如結兮。”故君子結於一也。
〔訳〕
土が積もって高い山になると、そこに風雨がおこり、水がたまって深い淵になると、そこに蛟龍が棲むようになる。人も善行を積んで立派な徳を身につければ、自然と不思議な英知が得られ、聖人のような心が備わってくる。だから一歩ずつ歩み続けなければ千里の遠くへ行くことは出来ず、小さな流れを沢山集めなければ江海の大をなすことは出来ない。いかなる名馬でもひと躍(と)びで十歩を進むことは出来ないが、駄馬だとて十日もかければ千里の道程を行くことができる。成功は途中で止めないところにある。切りかけて中途で止めれば腐った木さえ折れないが、刻み続けてやめなければ、堅い金石にさえ彫刻できる。
螾(みみず)には鋭い爪も強い筋肉もないのに、地表の泥土を食らい、地中に潜って地下水を飲むことも出来るのは、心を一つの事に向けるからである。蟹には八本の足と、二本のはさみがあるのに、蛇や蟺(うなぎ)の穴を借りなければ、わが身を寄せる所がないのは、心ぜわしく散漫だからである。こういうわけで人知れぬ努力を続けない者には、華々しい成果はあがらない。二また道を行く者は目的地に到達できず、二人の主君に仕える者はどちらにも信用されない。目は二つのものを同時に視ることは出来ないけれども、よく視えるし、耳も二つのものを同時に聴くことは出来ないけれど、よく聞こえる。螣蛇(とうだ)は足がなくても大空を飛べるのに、鼫鼠(せきそ)はは五つのわざを持ちながら、こころを専一にしないので窮地に陥ってしまう。『詩経』(曹風・尸鳩篇)に、「桑の木に巣くう尸鳩(きじばと)のその子は七羽。〔七羽の子の育て方が一様なこの鳥のように〕立派な君子は、威儀が一定している。威儀が一定していれば、心は専一である」と言っている。だから君子は心を一事に集中させるのである。
荀子 勧学篇 第一 より(青藍氷水)
君子曰:學不可以已。青、取之於藍、而青於藍;冰、水為之、而寒於水。木直中繩、輮以為輪、其曲中規、雖有槁暴、不復挺者、輮使之然也。故木受繩則直、金就礪則利、君子博學而日參省乎己、則知明而行無過矣。
故不登高山、不知天之高也;不臨深谿、不知地之厚也;不聞先王之遺言、不知學問之大也。干、越、夷、貉之子、生而同聲、長而異俗、教使之然也。
《詩》曰:“嗟爾君子、無恆安息。靖共爾位、好是正直。神之聽之、介爾景福。”神莫大於化道、福莫長於無禍。
〔訳〕
君子は、「学問は途中でやめてはならない。青色は藍の草から取るが藍よりも青く、氷は水からできるが水よりも冷たい」と言っている。墨縄にぴたりの真っ直ぐな木も、撓め曲げて輪にすれば、コンパスにぴたりするほど丸くなり、乾き枯れても二度と真っ直ぐにはならない。それは撓め曲げたためにそうなったのである。このように木は墨縄をあてれば真っ直ぐになり、刃物は砥石にかければ鋭くなり、君子は広く学んで日に何度も自分の言行を反省すれば、知恵は明らかになり行動に過ちがなくなる。
だから高い山に登らなければ天の高いことは分らないし、深い谷間にいってみなければ地の厚いことは分らないし、昔の聖王の残した言葉を聞かなければ、学問の偉大さも分らない。南方の呉越や北方の夷狄の子どもも生まれたときはみな同じ声を出してなくのに、成長するにつれて風俗が違ってくるのは、その後の教育がそうさせるのである。
『詩経』(小雅・小明篇)に、「ああ、なんじ君子たちよ、いたずらに安息をむさぼるなかれ。なんじの現在の立場をつつしみ、正直の道を修め、心を神にして聴き学んで、なんじの大きな福を更に大きくせよ」とある。神とは道に同化するその極地であり、福とは禍のないのが最上である。
藍は奈良時代に中国から渡来。根や葉っぱを発酵させて青(藍)色の染料(インディゴ)を取る。ここから、濃い青色のことを「インディゴブルー(indigo blue)」と呼でいる。古くから、布を藍色に染める材料として栽培されている。「浅黄色(浅葱色)(あさぎいろ)」という水色っぽい色も、この藍を染めた色の呼び名である。
荀子 勧学篇 第一 より (麻中之蓬)
南方有鳥焉、名曰蒙鳩、以羽為巢、而編之以髮、繫之葦苕、風至苕折、卵破子死。巢非不完也、所繫者然也。西方有木焉、名曰射干、莖長四寸、生於高山之上、而臨百仞之淵、木莖非能長也、所立者然也。蓬生麻中、不扶而直;白沙在涅、與之俱黑。蘭槐之根是為芷、其漸之滫、君子不近、庶人不服。其質非不美也、所漸者然也。
故君子居必擇鄉、遊必就士、所以防邪辟而近中正也。
〔訳〕
南の国に蒙鳩と呼ばれる鳥がいる。この鳥は羽を拾い集め毛髪で編んで巣を作り、それを葦の先にくくりつける。が、強い風が吹いて穂先が折れると、卵はこわれて雛は死んでしまう。これは巣が不完全なのではない。巣をくくり付けた所が悪いからである。西の国に射干(やかん)と呼ばれる木がある。茎の長さはわずか四寸ほどだが、高い山の上に生えていて何百尺もの深い淵を見下ろしている。これは木の茎がそんなに長いのではない、生えている所がこうざんだからである。
蓬は麻の中に生えると、支えをしなくても真っ直ぐになり、白い砂は泥土の中に入れると、もろともに黒くなってしまう。蘭や槐の根は香料となるものであるが、尿に浸せば臭くなるので、君子はそばに近づけないし、庶民も身につけようとしない。これは、その本来の質が美(うるわ)しくないのではない、浸した尿のせいである。
だから君子は必ず環境のよい土地を選んで住み、必ず立派な人物と交際する。それによって邪悪に流れるのを防ぎ、中正の道に近づこうとするのである。
君子曰:學不可以已。青、取之於藍、而青於藍;冰、水為之、而寒於水。木直中繩、輮以為輪、其曲中規、雖有槁暴、不復挺者、輮使之然也。故木受繩則直、金就礪則利、君子博學而日參省乎己、則知明而行無過矣。
故不登高山、不知天之高也;不臨深谿、不知地之厚也;不聞先王之遺言、不知學問之大也。干、越、夷、貉之子、生而同聲、長而異俗、教使之然也。
《詩》曰:“嗟爾君子、無恆安息。靖共爾位、好是正直。神之聽之、介爾景福。”神莫大於化道、福莫長於無禍。
〔訳〕
君子は、「学問は途中でやめてはならない。青色は藍の草から取るが藍よりも青く、氷は水からできるが水よりも冷たい」と言っている。墨縄にぴたりの真っ直ぐな木も、撓め曲げて輪にすれば、コンパスにぴたりするほど丸くなり、乾き枯れても二度と真っ直ぐにはならない。それは撓め曲げたためにそうなったのである。このように木は墨縄をあてれば真っ直ぐになり、刃物は砥石にかければ鋭くなり、君子は広く学んで日に何度も自分の言行を反省すれば、知恵は明らかになり行動に過ちがなくなる。
だから高い山に登らなければ天の高いことは分らないし、深い谷間にいってみなければ地の厚いことは分らないし、昔の聖王の残した言葉を聞かなければ、学問の偉大さも分らない。南方の呉越や北方の夷狄の子どもも生まれたときはみな同じ声を出してなくのに、成長するにつれて風俗が違ってくるのは、その後の教育がそうさせるのである。
『詩経』(小雅・小明篇)に、「ああ、なんじ君子たちよ、いたずらに安息をむさぼるなかれ。なんじの現在の立場をつつしみ、正直の道を修め、心を神にして聴き学んで、なんじの大きな福を更に大きくせよ」とある。神とは道に同化するその極地であり、福とは禍のないのが最上である。
藍は奈良時代に中国から渡来。根や葉っぱを発酵させて青(藍)色の染料(インディゴ)を取る。ここから、濃い青色のことを「インディゴブルー(indigo blue)」と呼でいる。古くから、布を藍色に染める材料として栽培されている。「浅黄色(浅葱色)(あさぎいろ)」という水色っぽい色も、この藍を染めた色の呼び名である。
荀子 勧学篇 第一 より (麻中之蓬)
南方有鳥焉、名曰蒙鳩、以羽為巢、而編之以髮、繫之葦苕、風至苕折、卵破子死。巢非不完也、所繫者然也。西方有木焉、名曰射干、莖長四寸、生於高山之上、而臨百仞之淵、木莖非能長也、所立者然也。蓬生麻中、不扶而直;白沙在涅、與之俱黑。蘭槐之根是為芷、其漸之滫、君子不近、庶人不服。其質非不美也、所漸者然也。
故君子居必擇鄉、遊必就士、所以防邪辟而近中正也。
〔訳〕
南の国に蒙鳩と呼ばれる鳥がいる。この鳥は羽を拾い集め毛髪で編んで巣を作り、それを葦の先にくくりつける。が、強い風が吹いて穂先が折れると、卵はこわれて雛は死んでしまう。これは巣が不完全なのではない。巣をくくり付けた所が悪いからである。西の国に射干(やかん)と呼ばれる木がある。茎の長さはわずか四寸ほどだが、高い山の上に生えていて何百尺もの深い淵を見下ろしている。これは木の茎がそんなに長いのではない、生えている所がこうざんだからである。
蓬は麻の中に生えると、支えをしなくても真っ直ぐになり、白い砂は泥土の中に入れると、もろともに黒くなってしまう。蘭や槐の根は香料となるものであるが、尿に浸せば臭くなるので、君子はそばに近づけないし、庶民も身につけようとしない。これは、その本来の質が美(うるわ)しくないのではない、浸した尿のせいである。
だから君子は必ず環境のよい土地を選んで住み、必ず立派な人物と交際する。それによって邪悪に流れるのを防ぎ、中正の道に近づこうとするのである。
史記 列伝 孟子荀卿列傳 第十四より
荀卿、趙人。年五十始來游學於齊。騶衍之術迂大而閎辯;奭也文具難施;淳于髡久與處、時有得善言。故齊人頌曰:“談天衍、雕龍奭、炙轂過髡。”田駢之屬皆已死齊襄王時、而荀卿最為老師。齊尚修列大夫之缺、而荀卿三為祭酒焉。齊人或讒荀卿、荀卿乃適楚、而春申君以為蘭陵令。春申君死而荀卿廢、因家蘭陵。李斯嘗為弟子、已而相秦。荀卿嫉濁世之政、亡國亂君相屬、不遂大道而營於巫祝、信禨祥、鄙儒小拘、如莊周等又猾稽亂俗、於是推儒、墨、道德之行事興壞、序列著數萬言而卒。因葬蘭陵。
〔訳〕
荀卿は趙の人である。五十歳になって、はじめて斉に遊学した。当時騶衍たちはみな健在であった。騶衍の学説は、虚大のきらいはあるが、博弁であった。騶奭(すうせき)は文章は立派であるが、実用には適さなかった。淳于髠は久しく一緒にいれば善言を聞くことが出来た。だから斉の人々は、〔悠遠なる天を談ずるキウ広大の衍、龍を彫刻する如く美麗な文章をものする奭、甑の油壺を炙れば油が流出してつきぬごとく、智慧のつきない髠〕と頌(ほ)めたたえた。やがて田駢(でんべん)たちはみんな死んでしまい、斉の襄王の時代には、荀卿が学者たちの最長老になった。斉では当時もなお列太夫の欠員を補っていて、荀卿は三度祭酒〔官名、列太夫の長〕になった。斉の人の中に荀卿を讒言するものがあったので、荀卿は楚におもむいた。楚の春信君は荀卿を蘭陵〔楚の邑。山東省〕の令〔長官〕に任じた。春信君が死ぬと、荀卿は令を免ぜられたが、以上の縁故でそのまま蘭陵に居住した。李斯は、かつて、その弟子となったが、その後秦の宰相になった。荀卿の当時は、混濁した政情の世の中であり、亡国や乱君が相次ぎ、聖人の大道を遂行せず、巫祝(かんなぎ)に惑い、吉凶禍福の前兆を信じ、つまらぬ儒者は小事に拘泥し、荘周〔荘子〕らのごときは放論して風俗を乱していた。そこで荀卿はこれらをにくみ、儒家・墨家・道家の実情と興廃を推論し、それを数万字の著書に整理して死んだ。よって蘭陵に葬られた。
荀卿、趙人。年五十始來游學於齊。騶衍之術迂大而閎辯;奭也文具難施;淳于髡久與處、時有得善言。故齊人頌曰:“談天衍、雕龍奭、炙轂過髡。”田駢之屬皆已死齊襄王時、而荀卿最為老師。齊尚修列大夫之缺、而荀卿三為祭酒焉。齊人或讒荀卿、荀卿乃適楚、而春申君以為蘭陵令。春申君死而荀卿廢、因家蘭陵。李斯嘗為弟子、已而相秦。荀卿嫉濁世之政、亡國亂君相屬、不遂大道而營於巫祝、信禨祥、鄙儒小拘、如莊周等又猾稽亂俗、於是推儒、墨、道德之行事興壞、序列著數萬言而卒。因葬蘭陵。
〔訳〕
荀卿は趙の人である。五十歳になって、はじめて斉に遊学した。当時騶衍たちはみな健在であった。騶衍の学説は、虚大のきらいはあるが、博弁であった。騶奭(すうせき)は文章は立派であるが、実用には適さなかった。淳于髠は久しく一緒にいれば善言を聞くことが出来た。だから斉の人々は、〔悠遠なる天を談ずるキウ広大の衍、龍を彫刻する如く美麗な文章をものする奭、甑の油壺を炙れば油が流出してつきぬごとく、智慧のつきない髠〕と頌(ほ)めたたえた。やがて田駢(でんべん)たちはみんな死んでしまい、斉の襄王の時代には、荀卿が学者たちの最長老になった。斉では当時もなお列太夫の欠員を補っていて、荀卿は三度祭酒〔官名、列太夫の長〕になった。斉の人の中に荀卿を讒言するものがあったので、荀卿は楚におもむいた。楚の春信君は荀卿を蘭陵〔楚の邑。山東省〕の令〔長官〕に任じた。春信君が死ぬと、荀卿は令を免ぜられたが、以上の縁故でそのまま蘭陵に居住した。李斯は、かつて、その弟子となったが、その後秦の宰相になった。荀卿の当時は、混濁した政情の世の中であり、亡国や乱君が相次ぎ、聖人の大道を遂行せず、巫祝(かんなぎ)に惑い、吉凶禍福の前兆を信じ、つまらぬ儒者は小事に拘泥し、荘周〔荘子〕らのごときは放論して風俗を乱していた。そこで荀卿はこれらをにくみ、儒家・墨家・道家の実情と興廃を推論し、それを数万字の著書に整理して死んだ。よって蘭陵に葬られた。
平成17年11月8日、女房の兄のS氏がなくなって6年。昨日は田端の大久寺において、七回忌の法要が行われた。S氏は昭和8年3月生まれ、私は昭和7年2月生まれ、1歳違いで、同じ世代を生きてきたわけだが、ほんに佳き人は早く逝き、私は未だに生き恥を晒している。とはいえ、あの世への旅立ちは年の順と言うわけにはいかなぬもの。いつまで、生き恥を晒しているものやら。
薤露歌 漢・無名氏
薤上露、 薤上の 露、
何易晞。 何ぞ 晞(かわ)き 易(やす)き。
露晞明朝更復落、 露 晞(かわ)けば 明朝 更に復(ま)た 落つ,
人死一去何時歸。 人 死して 一たび去れば 何(いづ)れの時にか 歸らん。
薤露(かいろ)の歌
薤上の 露、
何ぞ 晞(かわ)き 易(やす)き。
露 晞(かわ)けば 明朝 更に復(ま)た 落つ、
人 死して 一たび去れば 何(いづ)れの時にか 歸らん。
私が足を痛めているため、一緒に散策できず、本日午後、shinさんが中国土産を持って、我が家を訪ねてくれた。屋上にてスカイツリーをバックに写真撮影。暫し歓談。
本日のウェブニュースより
復興も祈願する酉の市、境内はLEDで節電 ―― 商売繁盛を祈願する恒例の「酉(とり)の市」が2日午前0時、東京・浅草の鷲(おおとり)神社で始まり、趣向を凝らしたさまざまな熊手を求める人たちでにぎわった。/2日は一の酉で、境内には縁起物の熊手が所狭しと並んだ。例年、売れ筋は3万円前後といい、来年オープンする東京スカイツリーや、女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の選手の顔をあしらったものが参拝客の目を引いていた。/今年は東日本大震災の後でも祭りができることへの感謝と節電の意味を込め、境内の電灯1000灯をすべてLEDにしたという。/権禰宜(ごんねぎ)の小菅徳人さん(34)は「一日も早い復興を祈っています」と話していた。二の酉(14日)、三の酉(26日)にも開かれる。(2011年11月2日00時27分 読売新聞)
11月2日付 よみうり寸評 ―― 霜月到来。恒例の〈酉(とり)の市〉と聞けば、秋の深まりを思う。いや、歳時記では酉の市は冬の季語だから、むしろ冬近しだろうか◆だが、天気予報によれば、まだ最高気温が25度の夏日もくるというから、何を着ればよいかを迷うような季節のこのごろだ◆商売繁盛を祈願する酉の市は、もともと江戸近辺の行事。中でもにぎやかなのは浅草の鷲(おおとり)神社、今年も2日の「一の酉」から熊手を求める人たちでにぎわった。紫綬褒章を受章した女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の選手や野田首相の顔をあしらった熊手が今年の酉の市らしい◆あす3日〈文化の日〉は、もとはといえば明治天皇の誕生日だ。天長節、明治節だった昔から晴天に恵まれることが多い。紅葉狩りにもいい日和だろう◆きょうの朝刊、ドナルド・キーンさんと瀬戸内寂聴さんの対談は紅葉に彩られた岩手県平泉町の中尊寺で行われた。紅葉の名所の見ごろも南下してくる◆〈大根が太くなって晩秋〉と獅子文六は書いた。霜月は食材の味も深まる。(2011年11月2日13時51分 読売新聞)
復興も祈願する酉の市、境内はLEDで節電 ―― 商売繁盛を祈願する恒例の「酉(とり)の市」が2日午前0時、東京・浅草の鷲(おおとり)神社で始まり、趣向を凝らしたさまざまな熊手を求める人たちでにぎわった。/2日は一の酉で、境内には縁起物の熊手が所狭しと並んだ。例年、売れ筋は3万円前後といい、来年オープンする東京スカイツリーや、女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の選手の顔をあしらったものが参拝客の目を引いていた。/今年は東日本大震災の後でも祭りができることへの感謝と節電の意味を込め、境内の電灯1000灯をすべてLEDにしたという。/権禰宜(ごんねぎ)の小菅徳人さん(34)は「一日も早い復興を祈っています」と話していた。二の酉(14日)、三の酉(26日)にも開かれる。(2011年11月2日00時27分 読売新聞)
11月2日付 よみうり寸評 ―― 霜月到来。恒例の〈酉(とり)の市〉と聞けば、秋の深まりを思う。いや、歳時記では酉の市は冬の季語だから、むしろ冬近しだろうか◆だが、天気予報によれば、まだ最高気温が25度の夏日もくるというから、何を着ればよいかを迷うような季節のこのごろだ◆商売繁盛を祈願する酉の市は、もともと江戸近辺の行事。中でもにぎやかなのは浅草の鷲(おおとり)神社、今年も2日の「一の酉」から熊手を求める人たちでにぎわった。紫綬褒章を受章した女子サッカー日本代表「なでしこジャパン」の選手や野田首相の顔をあしらった熊手が今年の酉の市らしい◆あす3日〈文化の日〉は、もとはといえば明治天皇の誕生日だ。天長節、明治節だった昔から晴天に恵まれることが多い。紅葉狩りにもいい日和だろう◆きょうの朝刊、ドナルド・キーンさんと瀬戸内寂聴さんの対談は紅葉に彩られた岩手県平泉町の中尊寺で行われた。紅葉の名所の見ごろも南下してくる◆〈大根が太くなって晩秋〉と獅子文六は書いた。霜月は食材の味も深まる。(2011年11月2日13時51分 読売新聞)
ここのところ足を痛めたらしく、歩行するに脹脛(ふくらはぎ)が痛くて、歩行困難に陥る。というわけで、2週間ほど外出を控えていた。昼食後、久し振りに東武線の橋梁から桜橋までテラスを歩いて見たが、半分辺りから、やはり、右足の脹脛が痛み出し、足を引きずって、帰宅した。言問橋の下ではいつのまに帰って来たのかユリカモメが飛び交っていた。山谷堀水門前の広場は平成中村座が占領。来年5月までの興行になるとか。
今日のウェブニュースより
中村勘三郎、旗揚げの地・浅草での『平成中村座』に歓喜 ―― 歌舞伎俳優の中村勘三郎(56)、田中傳次郎(34)が1日、東京・浅草の隅田公園で行われる『平成中村座 十一月大歌舞伎』初日公演に先立ち、開幕を告げる一番太鼓の儀式に出席した。秋晴れの空に傳次郎の力強い太鼓が響く中、勘三郎は「またこの墨田の地に帰らせていただいた上、7ヶ月の間も立たせてもらうので、地元の皆さんにご迷惑をかける分、いい芝居をしたい」と、旗揚げの地・浅草での公演に感慨ひとしお。「スカイツリーを観ながら、ぜひ足を運んでいただけたらと思います」とアピールした。/一番太鼓は江戸時代、芝居が始まる前に打たれた太鼓の総称。1624年に初世田中傳左衛門が開場を知らせる太鼓を打ったのが始まりの『平成中村座』ならではの初日儀式。開場前から列を作る観客に迎えられて登場した勘三郎は「清々しい陽気でなにより。一人でも多くの方に観てほしい」と笑顔。仮設劇場の真裏にはスカイツリーがそびえる抜群のロケーションになっており「『中村座』のほうが先にあるので、決して狙ったわけではないですよ」と笑わせた。/同公演は「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでいただきたい」という勘三郎の思いから産声を上げた、江戸の芝居見物気分を味わえる体験型エンターテインメント。同日から来年5月まで、初のロングラン公演となる。 (ORICON 2011年11月01日 11時41分)
今日のウェブニュースより
中村勘三郎、旗揚げの地・浅草での『平成中村座』に歓喜 ―― 歌舞伎俳優の中村勘三郎(56)、田中傳次郎(34)が1日、東京・浅草の隅田公園で行われる『平成中村座 十一月大歌舞伎』初日公演に先立ち、開幕を告げる一番太鼓の儀式に出席した。秋晴れの空に傳次郎の力強い太鼓が響く中、勘三郎は「またこの墨田の地に帰らせていただいた上、7ヶ月の間も立たせてもらうので、地元の皆さんにご迷惑をかける分、いい芝居をしたい」と、旗揚げの地・浅草での公演に感慨ひとしお。「スカイツリーを観ながら、ぜひ足を運んでいただけたらと思います」とアピールした。/一番太鼓は江戸時代、芝居が始まる前に打たれた太鼓の総称。1624年に初世田中傳左衛門が開場を知らせる太鼓を打ったのが始まりの『平成中村座』ならではの初日儀式。開場前から列を作る観客に迎えられて登場した勘三郎は「清々しい陽気でなにより。一人でも多くの方に観てほしい」と笑顔。仮設劇場の真裏にはスカイツリーがそびえる抜群のロケーションになっており「『中村座』のほうが先にあるので、決して狙ったわけではないですよ」と笑わせた。/同公演は「江戸時代の芝居小屋を現代に復活させ、多くの方々に歌舞伎を楽しんでいただきたい」という勘三郎の思いから産声を上げた、江戸の芝居見物気分を味わえる体験型エンターテインメント。同日から来年5月まで、初のロングラン公演となる。 (ORICON 2011年11月01日 11時41分)
論衡 三巻 物勢篇 第十四 より
凡萬物相刻賊、含血之蟲則相服、至於相噉食者、自以齒牙頓利、筋力優劣、動作巧便、氣勢勇桀。若人之在世、勢不與適、力不均等、自相勝服。以力相服、則以刃相賊矣。夫人以刃相賊、猶物以齒角爪牙相觸刺也。力強角利、勢烈牙長、則能勝;氣微爪短、膽小距頓、則服畏也。人有勇怯、故戰有勝負、勝者未必受金氣、負者未必得木精也。孔子畏陽虎、卻行流汗、陽虎未必色白、孔子未必面青也。鷹之擊鳩雀、鴞之啄鵠雁、未必鷹鴞、生於南方、而鳩雀鵠雁產於西方也、自是筋力勇怯相勝服也。
〔訳〕
およそ、万物はせめぎ合い、血の通っている動物は、勝ち負けし合って、食い合うに至るのは、おのずと歯牙の鈍利、筋肉の優劣、動作の機敏さ、気勢の剛勇さなどによるものである。人間がこの世に処する場合も、勢いが互いに匹敵しているわけではなく、力の釣り合いがとれているわけでもないから、おのずと勝ち負けしあうことになる。力によって制し合うことになれば、刃物によって損ねあうことになる。人間が刃物で損ねあうのは、動物が歯・角・爪・牙などでやりあうようなものだ。力が強く角が鋭く、勢いが激しく牙が長ければ、勝てるのだし、気力に乏しく爪が短く、胆が小さく距(けづめ)がなまくらだと降参してしまうわけだ。
人間にも勇ましいのと弱虫があるからして、戦いに勝ち負けがあるわけで、勝者かならずしも金の気を受けているのではなく、敗者かならずしも木の精を得ているのではない。孔子が陽虎を恐ろしがり、引き返してきて冷や汗を流したが、陽虎かならずしも色が白かったわけでなく、孔子かならずしも顔が青かったわけではない〔白は西の色で金に当たり、青は東の色で木にあたる〕。鷹は鳩や雀を襲い、梟(ふくろう)は鵠(はくちょう)や雁を突くが、必ずしも鷹や梟が南方(赤で火に当たる)で生まれ、鳩や雀や鵠や雁が西方(白で金にあたる)で産するわけではない。おのずから筋力や強気・弱気によって、互いに勝ち負けするのである。
一堂之上、必有論者;一鄉之中、必有訟者。訟必有曲直、論必有是非、非而曲者為負、是而直者為勝。亦或辯口利舌、辭喻橫出為勝;或詘弱綴跲、連蹇不比者為負。以舌論訟、猶以劍戟鬥也。利劍長戟、手足健疾者勝;頓刀短矛、手足緩留者負。夫物之相勝、或以筋力、或以氣勢、或以巧便。小有氣勢、口足有便、則能以小而製大;大無骨力、角翼不勁、則以大而服小。鵲食蝟皮、博勞食蛇、蝟、蛇不便也。蚊虻之力、不如牛馬、牛馬困於蚊虻、蚊虻乃有勢也。鹿之角、足以觸犬、獼猴之手、足以博鼠、然而鹿制於犬、獼猴服於鼠、角爪不利也。故十年之牛、為牧豎所驅;長仞之象、為越僮所鉤、無便故也。故夫得其便也、則以小能勝大;無其便也、則以強服於羸也。
〔訳〕
一堂に集まった人の中には、きまって議論家がいるものだし、一つの村の中にはまず訴訟沙汰を抱える人があるものだ。訴訟には必ず曲直があり、議論には必ず是非がある。非にして曲なるものは負けとなり、是にして正なるものは勝ちとなる。あるいは口がうまく弁がたち、せりふがやたらに出るものは勝ちとなるし、口がおぼつかなくてたどたどしく、途切れがちですらすらいえないものはまけとなる。舌で議論したり訴訟したりするのは、剣や戈で戦うのと同じことだ。鋭い剣や長い戈を持ち、手足が丈夫で素早いものは勝つし、なまくらな刀や短い戈を持ち、手足がのろいものは負ける。
およそ物が勝ちを制するには、筋肉に拠ることもあるし、気勢に拠ることもあるし、器用さに拠ることもある。小さくても気勢に富み、口や足が器用ならば、小にして大を制することも出来る。大きくても筋力に乏しく、角や翼が強くなければ、大にして小に服することになる。鵲(かささぎ)が蝟(はりねずみ)の腹の皮を食い破り、博労が蛇を食うというのも、蝟や蛇が不器用だからである。蚊や虻の力は牛馬ににはかなわないが、牛馬が蚊や虻に苦しめられるのは、蚊や虻に気勢があるからなのだ。鹿の角は犬を突くこともできるし、猿の手は鼠を打つこともできる。それだのに鹿は犬にやっつけられ、猿は鼠にまいってしまうのは、その角や爪が鋭くないからだ。そんなわけで十抱えもある牛が牧童に追い立てられたり、数仭〔仭は古代の八尺、一尺は約23㎝〕もある象が越〔安南方面を指す〕の子供に引かれたりするのは、器用さがないからだ。したがって、器用でありさえすれば、小さいものも大きいものに勝てるし、器用でなければ、強いもので弱いものにまいってしまうのだ。
凡萬物相刻賊、含血之蟲則相服、至於相噉食者、自以齒牙頓利、筋力優劣、動作巧便、氣勢勇桀。若人之在世、勢不與適、力不均等、自相勝服。以力相服、則以刃相賊矣。夫人以刃相賊、猶物以齒角爪牙相觸刺也。力強角利、勢烈牙長、則能勝;氣微爪短、膽小距頓、則服畏也。人有勇怯、故戰有勝負、勝者未必受金氣、負者未必得木精也。孔子畏陽虎、卻行流汗、陽虎未必色白、孔子未必面青也。鷹之擊鳩雀、鴞之啄鵠雁、未必鷹鴞、生於南方、而鳩雀鵠雁產於西方也、自是筋力勇怯相勝服也。
〔訳〕
およそ、万物はせめぎ合い、血の通っている動物は、勝ち負けし合って、食い合うに至るのは、おのずと歯牙の鈍利、筋肉の優劣、動作の機敏さ、気勢の剛勇さなどによるものである。人間がこの世に処する場合も、勢いが互いに匹敵しているわけではなく、力の釣り合いがとれているわけでもないから、おのずと勝ち負けしあうことになる。力によって制し合うことになれば、刃物によって損ねあうことになる。人間が刃物で損ねあうのは、動物が歯・角・爪・牙などでやりあうようなものだ。力が強く角が鋭く、勢いが激しく牙が長ければ、勝てるのだし、気力に乏しく爪が短く、胆が小さく距(けづめ)がなまくらだと降参してしまうわけだ。
人間にも勇ましいのと弱虫があるからして、戦いに勝ち負けがあるわけで、勝者かならずしも金の気を受けているのではなく、敗者かならずしも木の精を得ているのではない。孔子が陽虎を恐ろしがり、引き返してきて冷や汗を流したが、陽虎かならずしも色が白かったわけでなく、孔子かならずしも顔が青かったわけではない〔白は西の色で金に当たり、青は東の色で木にあたる〕。鷹は鳩や雀を襲い、梟(ふくろう)は鵠(はくちょう)や雁を突くが、必ずしも鷹や梟が南方(赤で火に当たる)で生まれ、鳩や雀や鵠や雁が西方(白で金にあたる)で産するわけではない。おのずから筋力や強気・弱気によって、互いに勝ち負けするのである。
一堂之上、必有論者;一鄉之中、必有訟者。訟必有曲直、論必有是非、非而曲者為負、是而直者為勝。亦或辯口利舌、辭喻橫出為勝;或詘弱綴跲、連蹇不比者為負。以舌論訟、猶以劍戟鬥也。利劍長戟、手足健疾者勝;頓刀短矛、手足緩留者負。夫物之相勝、或以筋力、或以氣勢、或以巧便。小有氣勢、口足有便、則能以小而製大;大無骨力、角翼不勁、則以大而服小。鵲食蝟皮、博勞食蛇、蝟、蛇不便也。蚊虻之力、不如牛馬、牛馬困於蚊虻、蚊虻乃有勢也。鹿之角、足以觸犬、獼猴之手、足以博鼠、然而鹿制於犬、獼猴服於鼠、角爪不利也。故十年之牛、為牧豎所驅;長仞之象、為越僮所鉤、無便故也。故夫得其便也、則以小能勝大;無其便也、則以強服於羸也。
〔訳〕
一堂に集まった人の中には、きまって議論家がいるものだし、一つの村の中にはまず訴訟沙汰を抱える人があるものだ。訴訟には必ず曲直があり、議論には必ず是非がある。非にして曲なるものは負けとなり、是にして正なるものは勝ちとなる。あるいは口がうまく弁がたち、せりふがやたらに出るものは勝ちとなるし、口がおぼつかなくてたどたどしく、途切れがちですらすらいえないものはまけとなる。舌で議論したり訴訟したりするのは、剣や戈で戦うのと同じことだ。鋭い剣や長い戈を持ち、手足が丈夫で素早いものは勝つし、なまくらな刀や短い戈を持ち、手足がのろいものは負ける。
およそ物が勝ちを制するには、筋肉に拠ることもあるし、気勢に拠ることもあるし、器用さに拠ることもある。小さくても気勢に富み、口や足が器用ならば、小にして大を制することも出来る。大きくても筋力に乏しく、角や翼が強くなければ、大にして小に服することになる。鵲(かささぎ)が蝟(はりねずみ)の腹の皮を食い破り、博労が蛇を食うというのも、蝟や蛇が不器用だからである。蚊や虻の力は牛馬ににはかなわないが、牛馬が蚊や虻に苦しめられるのは、蚊や虻に気勢があるからなのだ。鹿の角は犬を突くこともできるし、猿の手は鼠を打つこともできる。それだのに鹿は犬にやっつけられ、猿は鼠にまいってしまうのは、その角や爪が鋭くないからだ。そんなわけで十抱えもある牛が牧童に追い立てられたり、数仭〔仭は古代の八尺、一尺は約23㎝〕もある象が越〔安南方面を指す〕の子供に引かれたりするのは、器用さがないからだ。したがって、器用でありさえすれば、小さいものも大きいものに勝てるし、器用でなければ、強いもので弱いものにまいってしまうのだ。
論衡 三巻 物勢篇 第十四 より
何以驗之? 如天故生萬物、當令其相親愛、不當令之相賊害也。或曰:五行之氣、天生萬物。以萬物含五行之氣、五行之氣更相賊害。曰:天自當以一行之氣生萬物、令之相親愛、不當令五行之氣反使相賊害也。或曰:欲為之用、故令相賊害;賊害相成也。故天用五行之氣生萬物、人用萬物作萬事。不能相制、不能相使、不相賊害、不成為用。金不賊木、木不成用。火不爍金、金不成器。故諸物相賊相利、含血之蟲相勝服、相囓噬、相噉食者、皆五行氣使之然也。”曰、“天生萬物慾令相為用、不得不相賊害也。則生虎狼蝮蛇及蜂蠆之蟲、皆賊害人、天又欲使人為之用邪? 且一人之身、含五行之氣、故一人之行、有五常之操。五常、五行之道也。五藏在內、五行氣俱。如論者之言、含血之蟲、懷五行之氣、輒相賊害。一人之身、胸懷五藏、自相賊也;一人之操、行義之心、自相害也。且五行之氣相賊害、含血之蟲相勝服、其驗何在? 曰:寅、木也、其禽虎也;戍、土也、其禽犬也。醜、未、亦土也、醜禽牛、未禽羊也。木勝土、故犬與牛羊為虎所服也。亥水也、其禽豕也;巳、火也、其禽蛇也;子亦水也、其禽鼠也。午亦火也、其禽馬也。水勝火、故豕食蛇;火為水所害、故馬食鼠屎而腹脹。曰:審如論者之言、含血之蟲、亦有不相勝之效。午、馬也、子、鼠也、酉、雞也、卯兔也。水勝火、鼠何不逐馬? 金勝木、雞何不啄兔? 亥、豕也、(未、羊也。)醜、牛也。土勝水、牛羊何不殺豕? 巳、蛇也。申、猴也。火勝金、蛇何不食獼猴? 獼猴者、畏鼠也。囓獼猴者、犬也。鼠、水。獼猴、金也。水不勝金、獼猴何故畏鼠也? 戍、土也、申、猴也。土不勝金、猴何故畏犬?東方、木也、其星倉龍也。西方、金也、其星白虎也;南方、火也、其星硃鳥也。北方、水也、其星玄武也。天有四星之精、降生四獸之體。含血之蟲、以四獸為長、四獸含五行之氣最較鄭鼇案龍虎交不相賊、鳥龜會不相害。以四獸驗之、以十二辰之禽效之、五行之蟲以氣性相刻、則尤不相應。
〔訳〕
どうしてそれを確かめるか。もしも天がそのつもりで万物を生み出すのだとすれば、それらに仲よくさせるはずであり、損ねあいをさせるはずはないからだ。
ある人はいう――五行の気でもって、天は万物を生み出す。万物は五行の気を含むが故に、その五行の気がたがいに損ねあうのだ――。
その答えはこうだ。天はひとりでに五行の気でもって万物を生み出し、互いに仲よくさせるはずだ。五行の気でもって、あべこべに、損ねあいをそせるはずはない。
ある人はいう――役にたたせたいがゆえに、損ねあいをさせるのであり、損ねれば、できあがる。それで天は五行の気でもって万物を生み出し、人は万物でもって万事をべんずるのだ。制しあうことが出来なければ、使役しあうことは出来ず、損ねあわなければ、役には立たぬ。金が木を損ねなければ、木は役に立たないし、火が金を熔かさなければ、金は器にならぬ。というわけで、物はみな互いに損ね、互いに制するのだ。血の通っている動物が、互いに勝ち敗けし、咬みあい、食いあうのは、みな五行の気がそうさせるのだ――。
その答えはこうだ。天は万物を生み出して、互いに役に立ち、互いに損ねなければならぬようにしてやりたいと思っているのだとすれば、虎・狼・まむし・蜂・さそりなどの動物が作り出され、みな人に害を加えるが、天はまた人にそれらの役に立たせたいとでもいうのだろうか。それにひとりの人間の身体は五行の気を含んでいるが故に、ひとりの行いに五常〔仁・義・礼・智・信の五道〕の操がある。五常とは五行の道なのである。また、五臓〔肝・心・肺・腎・脾〕が体内にあって、そこに五行の気が宿っている。論者の言の通りだとすれば、血の通っている動物は、五行の気を抱いて、いちいち損ねあうというわけだ。しかし、ひとりの人間の身体は、胸に五臓を抱いて、自分で損ねあうだろうか。ひとりの人間の品行やら仁義の心やらが、自分で損ねあうだろうか。それに、五行の気が互いに損ねあい、血の通っている動物が互いに勝ち負けしあうという、その験(しょうこ)はどこにあるのだろうか。
ある人はいう――寅は木であって、それに当たる獣は虎である。戌は土であって、それに当たる獣は犬である。丑も未もまた土であって、丑に当たる獣は牛、未に当たる獣は羊である。木は土に勝つが故に、犬・牛・羊は虎に征服されるのだ。亥は水であって、それに当たる獣は豕(いのしし)である。巳は火であって、それに当たる獣は蛇である。子もまた水であってそれに当たる獣は鼠である。午もまた火であって、それに当たる獣は馬である。水は火に勝つがゆえに、豕は蛇を食う。火は水に損なわれるがゆえに、馬が鼠の糞を食らうと、腹が張ってしまうのだ――。
その答えはこうだ。もしも論者の言うとおりだとすれば、血の通っている動物は、互いに勝てないという証拠もたつ。午は馬、子は鼠、酉は鶏、卯は兎である。水が火に勝つならば、鼠はなんで馬を追い払わないのか。金が木に勝つならば、兎はなんで鶏をつつかないのか。亥は豕、未は羊、丑は牛である。土が水に勝つならば、牛や羊はなんで豕を殺さないのか。巳は蛇で、申は猿だ。火が金に勝つならば、蛇はなんで猿を食わないのか。猿は鼠を恐れ、その猿を咬(か)むのは犬である。鼠は水で、猿は金だ。水は金に勝たないのに、猿はなんで鼠を恐れるのか。戌は土で、申は金だ。土は金に勝たないのに、猿はなんで犬をおそれるのか。
東方は木でそこにある星座は蒼龍である。西方は金で、そこにある星座は白虎である。南方は火で、そこにある星座は朱雀〔鳳凰のこと〕である。北方は水でそこにある星座は玄武〔亀のこと〕である。天に四星の精があり、それがくだって四獣の体を生じたのだが、血の通っている動物では、この四獣が長なのである。四獣はもっとも顕著に五行の気を含んでいるのだが、思うに龍と虎は互いにせめぎあいはしないし、鳥と亀もけっして損ねあいはせぬ。このように,四獣でもって験(しょうこ)を調べてみたり、十二支の動物で効(あかし)をたててみるに、五行の動物がその気と性によってやりあうというのは、まったくそぐわないことだ。
何以驗之? 如天故生萬物、當令其相親愛、不當令之相賊害也。或曰:五行之氣、天生萬物。以萬物含五行之氣、五行之氣更相賊害。曰:天自當以一行之氣生萬物、令之相親愛、不當令五行之氣反使相賊害也。或曰:欲為之用、故令相賊害;賊害相成也。故天用五行之氣生萬物、人用萬物作萬事。不能相制、不能相使、不相賊害、不成為用。金不賊木、木不成用。火不爍金、金不成器。故諸物相賊相利、含血之蟲相勝服、相囓噬、相噉食者、皆五行氣使之然也。”曰、“天生萬物慾令相為用、不得不相賊害也。則生虎狼蝮蛇及蜂蠆之蟲、皆賊害人、天又欲使人為之用邪? 且一人之身、含五行之氣、故一人之行、有五常之操。五常、五行之道也。五藏在內、五行氣俱。如論者之言、含血之蟲、懷五行之氣、輒相賊害。一人之身、胸懷五藏、自相賊也;一人之操、行義之心、自相害也。且五行之氣相賊害、含血之蟲相勝服、其驗何在? 曰:寅、木也、其禽虎也;戍、土也、其禽犬也。醜、未、亦土也、醜禽牛、未禽羊也。木勝土、故犬與牛羊為虎所服也。亥水也、其禽豕也;巳、火也、其禽蛇也;子亦水也、其禽鼠也。午亦火也、其禽馬也。水勝火、故豕食蛇;火為水所害、故馬食鼠屎而腹脹。曰:審如論者之言、含血之蟲、亦有不相勝之效。午、馬也、子、鼠也、酉、雞也、卯兔也。水勝火、鼠何不逐馬? 金勝木、雞何不啄兔? 亥、豕也、(未、羊也。)醜、牛也。土勝水、牛羊何不殺豕? 巳、蛇也。申、猴也。火勝金、蛇何不食獼猴? 獼猴者、畏鼠也。囓獼猴者、犬也。鼠、水。獼猴、金也。水不勝金、獼猴何故畏鼠也? 戍、土也、申、猴也。土不勝金、猴何故畏犬?東方、木也、其星倉龍也。西方、金也、其星白虎也;南方、火也、其星硃鳥也。北方、水也、其星玄武也。天有四星之精、降生四獸之體。含血之蟲、以四獸為長、四獸含五行之氣最較鄭鼇案龍虎交不相賊、鳥龜會不相害。以四獸驗之、以十二辰之禽效之、五行之蟲以氣性相刻、則尤不相應。
〔訳〕
どうしてそれを確かめるか。もしも天がそのつもりで万物を生み出すのだとすれば、それらに仲よくさせるはずであり、損ねあいをさせるはずはないからだ。
ある人はいう――五行の気でもって、天は万物を生み出す。万物は五行の気を含むが故に、その五行の気がたがいに損ねあうのだ――。
その答えはこうだ。天はひとりでに五行の気でもって万物を生み出し、互いに仲よくさせるはずだ。五行の気でもって、あべこべに、損ねあいをそせるはずはない。
ある人はいう――役にたたせたいがゆえに、損ねあいをさせるのであり、損ねれば、できあがる。それで天は五行の気でもって万物を生み出し、人は万物でもって万事をべんずるのだ。制しあうことが出来なければ、使役しあうことは出来ず、損ねあわなければ、役には立たぬ。金が木を損ねなければ、木は役に立たないし、火が金を熔かさなければ、金は器にならぬ。というわけで、物はみな互いに損ね、互いに制するのだ。血の通っている動物が、互いに勝ち敗けし、咬みあい、食いあうのは、みな五行の気がそうさせるのだ――。
その答えはこうだ。天は万物を生み出して、互いに役に立ち、互いに損ねなければならぬようにしてやりたいと思っているのだとすれば、虎・狼・まむし・蜂・さそりなどの動物が作り出され、みな人に害を加えるが、天はまた人にそれらの役に立たせたいとでもいうのだろうか。それにひとりの人間の身体は五行の気を含んでいるが故に、ひとりの行いに五常〔仁・義・礼・智・信の五道〕の操がある。五常とは五行の道なのである。また、五臓〔肝・心・肺・腎・脾〕が体内にあって、そこに五行の気が宿っている。論者の言の通りだとすれば、血の通っている動物は、五行の気を抱いて、いちいち損ねあうというわけだ。しかし、ひとりの人間の身体は、胸に五臓を抱いて、自分で損ねあうだろうか。ひとりの人間の品行やら仁義の心やらが、自分で損ねあうだろうか。それに、五行の気が互いに損ねあい、血の通っている動物が互いに勝ち負けしあうという、その験(しょうこ)はどこにあるのだろうか。
ある人はいう――寅は木であって、それに当たる獣は虎である。戌は土であって、それに当たる獣は犬である。丑も未もまた土であって、丑に当たる獣は牛、未に当たる獣は羊である。木は土に勝つが故に、犬・牛・羊は虎に征服されるのだ。亥は水であって、それに当たる獣は豕(いのしし)である。巳は火であって、それに当たる獣は蛇である。子もまた水であってそれに当たる獣は鼠である。午もまた火であって、それに当たる獣は馬である。水は火に勝つがゆえに、豕は蛇を食う。火は水に損なわれるがゆえに、馬が鼠の糞を食らうと、腹が張ってしまうのだ――。
その答えはこうだ。もしも論者の言うとおりだとすれば、血の通っている動物は、互いに勝てないという証拠もたつ。午は馬、子は鼠、酉は鶏、卯は兎である。水が火に勝つならば、鼠はなんで馬を追い払わないのか。金が木に勝つならば、兎はなんで鶏をつつかないのか。亥は豕、未は羊、丑は牛である。土が水に勝つならば、牛や羊はなんで豕を殺さないのか。巳は蛇で、申は猿だ。火が金に勝つならば、蛇はなんで猿を食わないのか。猿は鼠を恐れ、その猿を咬(か)むのは犬である。鼠は水で、猿は金だ。水は金に勝たないのに、猿はなんで鼠を恐れるのか。戌は土で、申は金だ。土は金に勝たないのに、猿はなんで犬をおそれるのか。
東方は木でそこにある星座は蒼龍である。西方は金で、そこにある星座は白虎である。南方は火で、そこにある星座は朱雀〔鳳凰のこと〕である。北方は水でそこにある星座は玄武〔亀のこと〕である。天に四星の精があり、それがくだって四獣の体を生じたのだが、血の通っている動物では、この四獣が長なのである。四獣はもっとも顕著に五行の気を含んでいるのだが、思うに龍と虎は互いにせめぎあいはしないし、鳥と亀もけっして損ねあいはせぬ。このように,四獣でもって験(しょうこ)を調べてみたり、十二支の動物で効(あかし)をたててみるに、五行の動物がその気と性によってやりあうというのは、まったくそぐわないことだ。
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目高 拙痴无
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