瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今朝のウェブニュースより
63c38da2.jpeg ドイツが世界一韓国嫌いなワケ 「恩を仇で…」過激な嫌韓行為も〜日韓は意外に友好的? ――  日韓関係が冷え込んで久しい。思えば、2012年8月10日、李明博大統領が竹島に上陸したことをきっかけに、両国の関係はいっそう悪化の一途を辿ったと見ることができる。それを表すように、韓国を訪れる日本人観光客数は、同年3月に月間36万人と過去最高に達したものの、9月以降は前年割れが続いている。/現在の日韓関係は、世界的に見ても、険悪ムードなのだろうか。そして日本人の多くが“嫌韓”なのだろうか。/それを知る客観的なデータとして、イギリスBBC放送が行っている世界16カ国とEUを対象にした“国家イメージアンケート”が参考になる。全25カ国を対象にした同アンケートを見ると、日本人の韓国に対する評価は、肯定派19%、否定派28%。意外にも、どちらでもないと考えている層が過半数を超えており、“嫌韓層”ともいえる否定派は、2割台にすぎなかった。韓国否定派が約5割のフランス(47%)やメキシコ(45%)、4割のカナダ(41%)やイギリス(40%)と比較すると、日本人の韓国に対する評価は、相対的に悪くないのだ。/ では、最も韓国を否定的に評価した国はどこかというと、2位フランスに大差をつける、否定派65%のドイツである。
●ドイツ人が韓国を嫌う理由
 なぜドイツは、それほどまでに韓国を嫌うのだろうか。ドイツ留学経験を持つある韓国人は自身のブログで、「ドイツの人たちはとても秩序があり、規則的。それに比べて韓国人は、無秩序で、ラフな人が多い。私たちは、我の強い国民性をどんなときでも堅持する。さらに、自分たちの非を直そうとしないから嫌われていると思う」と、その理由を分析。/また、韓国のネチズン(ネット上の市民)たちは、「韓日ワールドカップで韓国がドイツと対戦した際、『ヒットラーの子孫たちは去れ!』というプラカードを掲げたことを根に持っているのでは」「ロンドン五輪のとき、ドイツのフェンシング選手のフェイスブックに、韓国人がサイバー攻撃をしたことが原因」などと憶測している。/しかし、ドイツの韓国嫌いには、もう少し複雑な社会背景があるという見方もある。ドイツ在住のある日本人女性は、こう話す。/「ドイツの知人らの話を総合してみると、一つは、韓国企業がドイツ経済に影響を与えているという点にあると言えます。『経済至上主義』に映る韓国企業のイメージは、ドイツではあまり好まれません。もう一つ挙げるとすると、分断国家であるということ。統一を果たしたドイツにしてみれば、分断状況にあるコリアには『何か問題がある』という印象を持つ傾向があります」/そもそも韓国は1960年代、ドイツの協力を受けて経済発展を実現し、90年代後半IMF経済危機に陥ったときも、ドイツに大規模な経済使節団を派遣してもらった過去を持っている。それが昨今、グローバル事業を展開する韓国企業が増え、ドイツの輸出業を脅かしているというのだから、ドイツからすれば恩を仇で返されたように映るのかもしれない。ドイツと韓国は世界的に見ても輸出依存度が高い国家であるため、経済面での対立は容易に想像できる。/また先述の通り、朝鮮半島が分断状況にあるということも、イメージが悪い一因だという。戦後補償を真摯に履行するドイツからすると、韓国はいまだに“戦後問題を抱えたままの国”と見えてしまうわけだ。ちなみに、韓国は戦後補償問題について日本を非難する際、「日本に比べて、同じ敗戦国のドイツは……」と、ドイツをロールモデルとして議論する傾向が強い。前出したBBCアンケートでも、韓国人のドイツ否定派はわずか8%にすぎず、肯定派は76%にも上っている。
 にもかかわらず、ドイツにおける“嫌韓行為”は犯罪にまで発展しているのだから皮肉だ。例えば、2011年7月、ドイツのマグデブルクに住む韓国人女性が2人の子どもを連れて遊園地に向かう途中、とあるドイツ人女性からタバコを投げつけられるという事件があった。韓国人女性が抗議すると、そのドイツ人女性は彼女を殴打。さらに大声で「目が小さい!」と叫びながら、韓国人女性の首を絞めたという。当然だが、そのドイツ人女性は、警察に逮捕されている。日本のいわゆる嫌韓層は、主にネットを通じて韓国を誹謗・中傷することが多いが、ドイツでは犯罪まで起きているため、事態はより深刻と言わざるを得ない。
 世界一、韓国を嫌う国・ドイツ。それに比べると、韓国否定派が25カ国中13位タイにすぎない日本は、まだまだ“韓国嫌いな国”とは言えなそうだ。今年も終戦記念日を前後して、日韓でひと悶着ありそうだが、ドイツをはじめとした世界各国は、「それほど仲が悪いわけでもないのに…」と冷めた目で両国を見ているのかもしれない。  (文=呉承鎬)   (ビジネス ジャーナル 2013.08.13)
 
59d24c36.jpeg 呉 承鎬(オ・スンホ):1982年5月7日、東京都出身。大学校卒業後、出版社にて青年誌編集などを経て、現在は韓国・朝鮮関係の企画、編集、執筆、翻訳、雑誌寄稿などを行なっている。スポーツ&エンターテインメントはもちろん、競馬、政治経済、社会問題などにも詳しく、自己啓発分野にも明るい。尊敬するのは養老孟司。訳書に「つねに結果を出す人の勉強脳のつくり方」(日本文芸社)など。
 爺は今、Omar Khayyám(ウマル ハイヤーム)の『Rubaiyat(ルバイヤート)』を、小冊子に製本すべく、電子図書館「青空文庫」から収録編集中である。
 今朝の朝日新聞の社会面に小さな記事であるが青空文庫の創設者の訃報が出ていたので、早速ウェブニュースで調べてみた。
 
 富田倫生さん死去 「青空文庫」世話人 ―― インターネット上の電子図書館「青空文庫」の世話人で、著作権の保護期間延長に反対を訴えつづけた富田倫生(とみた・みちお)さんが16日正午過ぎ、肝臓がんのため岐阜県内の病院で死去した。61歳だった。葬儀は近親者のみで営む。/広島市生まれ。編集プロダクション勤務を経て、ライターとして独立。自著「パソコン創世記」が絶版となり電子版を作った経験から、電子テキストの共有サービスを構想、97年に仲間と青空文庫を始めた。2011年には著作権が切れた本を中心に登録数が1万点を超えた。/30代でC型肝炎を発症し、闘病しながら青空文庫の運営にあたった。近年は、著作権の保護期間を死後50年から70年に延長する動きに対し、「過去の作品を利用しにくくなり、文化の発展が阻害される」として反対運動に力を注いだ。著書に「本の未来」などがある。  (朝日新聞 2013年8月17日0時59分)
 
 富田倫生の略歴
9afd57b0.jpeg・1952年(昭和27年)4月20日 - 広島市に生まれる。
・桜幼稚園、広島大学教育学部付属小・中・高から、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
・編集プロダクションのオメガ社に入社。
・1983年(昭和58年) - ライターとして独立。
・1985年(昭和60年)2月 - 旺文社から『パソコン創世記』を出版。
・1990年(平成2年)4月 - アイザック・アシモフにインタビュー。
・1993年(平成5年)2月 - ボイジャージャパンのエキスパンドブックを知る。
・1995年(平成7年)2月 - マックワールドエキスポで『パソコン創世記』をエキスパンドブックとして出版。
・1997年(平成9年)7月7日 - 青空文庫を設立。
・1997年(平成9年)9月11日 - 青空文庫を公開。
・2013年(平成25年)8月16日 - 死去。
 
 なお、このブログのプロフィールにある、爺のアドレスにメールしてくだされば、爺の手作り小冊子『Rubaiyat(ルバイヤート)』が、貴方のお手許に届くかもしれません。
 
4f3512af.jpeg Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は天文学者としても著名であった。1073年にセルジューク朝のスルタンであったMalik Shā栩〔マリク・シャー、1055~1092年、左図参照〕は、当時の様々な優れた科学者たちと共に、天文台を建造して研究するためKhayyám(ハイヤーム)を招聘した。その結果、Omar(ウマル)は非常な精度で一年の長さを計測し、365.24219858156 日という数字を出したが、この値は小数点六位まで正しかった。Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)が計算したこの暦法は、5000年ごとに僅か1日の誤差しかないものであり、これに対し、今日使用されているグレゴリウス暦は、3330年ごとに1日の誤差を持つ暦法である。
 Khayyám(ハイヤーム)はまた、当時のペルシア暦をどのように改正するかの計算を行った。1079年3月15日に、Malik Shāh(マリク・シャー)は、Khayyám(ハイヤーム)が改正した暦法を施行させた。暦法の改正は、欧州においては、Sosigenes〔ソシゲネス、BC1世紀頃〕の修正に基づきユリウス・カイサルが紀元前46年に暦法を改正しており(ユリウス暦)、更にローマ教皇Gregorius(グレゴリウス)13世〔1502~1585年、第226代ローマ教皇(在位:1572~1585年)〕が、Aloysius Lilius〔アロイシウス・リリウス、1510~1576年〕の修正暦に基づき、1552年2月に改正した暦(グレゴリウス暦)と並ぶ業績であった(グレゴリウス暦は、しかし、グレート・ブリテンにおいては、1751年に至るまでユリウス暦から切り替えられることなく、またロシアにおいては、1918年に至るまで切り替えが行われなかった)。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は、ペルシア人やイスラム世界にあって、天文観測の業績で有名であった。彼は天空の星の図を作成したが、今日それは失われているという。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の哲学は、公的なイスラム教の教義とはかなりに異なるものであった。ウマルが神の存在を信じていたのかどうか明確でないが、しかし彼は、すべての個別の出来事や現象が神的な介在の結果であるという見解には異議を唱えていた。また、最後の審判の日や、死後の報償や懲罰なども信じていなかった。Omar(ウマル)はむしろ、自然の法則が、生命について観察されるすべての現象を説明するという見解を支持していた。イスラムの宗務当局は、イスラム教に関する彼の異説についての説明を幾たびもOmar(ウマル)に求めた。最終的にOmar(ウマル)は、当局からの追及が激しくなり建前上正統的なMuslim〔ムスリム、イスラーム教徒〕を装わざるを得なくなり、Makkah〔マッカ、サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca (メッカ) から Makkah (マッカ)に改めた]へのḥajj〔ハッジ、Makkah(マッカ)への巡礼のこと〕を行った。
dbb7fba5.jpeg イランのNishapur(ニーシャープール)にあるハイヤーム廟〔左図参照〕からでも判るとおり、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は、存命中から数学者としても著名であり、放物線と円のあいだの交点によって三次方程式を解く方法を考案したことで広く知られていた。
 Omar(ウマル)が試みた解法のアプローチは、彼以前にすでに、古代ギリシアの数学者であり、アレクサンドロス大王の教師で「数学に王道はない」と述べたとも伝わっているMenaechmus〔メナイクモス、BC380~320年〕などによって試みられていたというが、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)はこの方法を発展させて一般化し、三次方程式一般の解法を提示した(左図参照)。更にハイヤームは、二項展開を発見し、Eukleides(エウクレイデス)の平行線の理論に対する批判書を著し、これは欧州に伝わり、結果的に非ユークリッド幾何学の発展に寄与した。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の数学上の貢献は広範囲にわたっている。彼の多くの著作は1070年代に書かれたと考えられている。この中には『代数とw'almuqabala(アルムカバラ)の証明について』『算術の困難』などとともに『代数の解法』『代数学者』さらにユークリッドのStoikheia〔ストイケア、原論〕の注解がある。
 当時、代数や算術の間には正確な区別がなく、既知数の関係から未知数を求めるのがこれらの分野の仕事と考えられていた。Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は代数についての著作の中で、代数方程式の解法だけを取り上げた。
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d1d32add.jpeg Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は方程式の分類、根の幾何的作図、正根の存在範囲などについて研究した。方程式の分類では、べき指数と方程式の両辺に出てくる項の個数に注目して25種の型に分けたという。2次方程式の研究では、ほとんど新しいことを含んでいないが、3次方程式ではこれを解く努力をしている。彼は次元の原理をよく守り、これを解いた(左図参照)。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は3次方程式の解法を発見こそしなかったが、後の世の人がこの解放を見つけるだろうと書いている。 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の死後もイスラム諸国の数学者は3次、4次の方程式の幾何学的解放をくわしく研究したが、一般的解法は発見できなかった。16世紀になって、イタリアの数学Scipione del Ferro〔シピオーネ・デル・フェッロ、1465~1526年〕やNiccolò Fontana Tartaglia〔ニコロ・フォンタナ・タルタリア、1499年または1500年~1557年〕によって一般的解法が見つけられた。
563a195e.jpeg Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は羃が自然数の時の2項展開〔左図参照〕を知っていた。このことは彼の書いたいくつかの著作から判るのであるが、元の著作は失われていてまだ発見されていない。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の著作は、いずれもみな、式を言葉で表し、最初にはアラーの神に捧げる言葉から始っている。
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の幾何学の研究は、彼のEukleides(エウクレイデス)の注釈に述べられているが、そこには比の理論、連続性、平行線の問題などが取り上げられている。イスラム諸国での平行線の研究は『Stoicheia(ストイケア)』がアラビア語に訳されてから盛んになった。
 『Rubsiyst (ルバーイヤート)‎』とはアラビア語で「四行詩」を意味する「Rubaiy(ルバーイイ‎)」の複数形であるので、直訳すると「四行詩集」という題になる。
 Rubaiy(ルバーイー)詩形とはペルシア語詩の形式の一つである。ペルシア語詩はアラビア語詩の詩形と韻律に負うところが大きいが、miṣra〔ミスラーウ、半句〕とbayt〔バイト、対句〕からなり、半句ふたつで1対句となることを基本とする。これに各々の半句および対句での脚韻や押韻によって様々な詩形が形作られるが、例えばアラビア語詩の詩形に由来するqaṣīda(カスィーダ)詩形は、最初の対句の両方の半句で同じ脚韻をつくり、ふたつめの対句から最後の対句まで、後半の半句は最初の対句の脚韻と同じにする。また、mathnawī(マスナヴィー)詩形では、最初の対句での両方の半句の脚韻を同じにし、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏み、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏む、という具合に脚韻をどんどん変えることによって、変化に富んだ韻律によって場合によっては数万対句におよぶ長大な詩となる。ペルシア語詩独自の詩形である。
 Rubaiy(ルバーイー)詩形の場合もペルシア語詩として独自に発展したもので、4つの半句からなるが、第1、第2、第4半句は同じ脚韻で押韻するが、第3半句の脚韻は押韻しなくても良いことになっている。ルバーイー詩形は長大なものが多いペルシア語詩のなかで、起承転結を有する簡潔な詩形であることを特徴としている。簡潔にして要を得た表現に最も適しており、素朴でありながら余韻や余情のこもった表現形式と言える。
 
72a52c05.jpeg Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)が存命していた時代のRubaiy(ルバーイー)は、基本的にSufism(スーフィズム)的思潮〔イスラム教の神秘主義哲学に基く思潮〕の濃いものが大半を占めていた。世の無常観や飲酒への讃美、時には神へのironical〔アイロニカル、cynical〈シニカル〉が 人の誠実さを軽蔑する のに対して、ironical(アイロニカル) は 当てこすりの,皮肉 を言う〕な心情を吐露するOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubaiy(ルバーイー)は、(Jāhiliyyah(ジャーヒリーヤ)時代〔イスラーム以前の時代を指す〕のアラブの飲酒詩や世の無常を嘆くニヒリスティックな詩の伝統を組むものとも理解出来るが、当時のRubaiy(ルバーイー)の傾向からすると、やや特異な位置づけにあるものと言える。そのため、彼よりもJalāl ad-Dīn Rūmī〔ジャラールッディーン・ルーミー、下記の※印の説明を参照〕などに代表されように酒による酩酊をSufism(スーフィズム)的な陶酔境になぞらえたり、恋人同士が互いを求める心情をSufism(スーフィズム)的な神への専一的な求道に喩えることがSufism(スーフィズム)的な神秘主義詩のセオリーとなっていったように、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のルバーイーでの文言もSufism(スーフィズム)的なものを含意しているのではないかという解釈も生まれた。
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30998905.jpeg※ Jalāl ad-Dīn Rūmī(ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のIbn al-Arabi〔イブン・アル=アラビー、1165~1240年、中世のイスラム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラム神秘主義(Sufism)の確立に寄与し、後世に影響を与えた〕と並ぶ、イスラーム神学、Sufismの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味するKhamoosh(ハムーシュ)を雅号とした。/Rūmī(ルーミー)の思想の一つとして、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられる。1273年のRūmī(ルーミー)の没後、Konya〔コンヤ、トルコの都市、左の地図参照〕の墓廟を拠点としてかれの弟子によってコマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なMevlevilik(メヴレヴィー)教団が形成された。Mevlevilik(メヴレヴィー)教団では同教団の始祖と仰がれている。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的(Masnavī-ye(マスナヴィー)』。
 
 この詩集はOmar(ウマル)の死後公表されたが、それまで彼は詩人としてはほとんど知られていなかったという。しかし数学、天文学、史学など数々の分野における多くの偉業を遺した学者としては著名であった。(近年、天文学者のウマル・ハイヤームと『ルバーイヤート』の作者ウマル・ハイヤームとは同名の別人であるとの説を唱えている学者もあるという。)
05a5fc18.jpeg 19世紀、Edward FitzGerald〔エドワード・フィッツジェラルド、1809~1883年、イギリスの詩人〕に拠る英語訳で一躍名が知れるようになった。その英訳版は近代イギリス文学に大きな影響を与えた。
 日本語版では、エドワード・フィッツジェラルド(1809-83年)による英訳版から蒲原有明が訳したのが最初で、『春鳥集』(本郷書院、明治38年)に収む。森亮訳で多く知られるようになった。
 日本語版のペルシャ語の原典からの初訳は小川亮作に拠る(昭和24年初版、岩波文庫)。訳者小川亮作は解説で、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)をペルシアのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビンチ、1452~1519年〈ユリウス暦〉)と評している。
90ac4879.jpeg※小川亮作:1910(明治43)年~1951(昭和26)年。新潟県荒川町海老江に生れる。昭和3(1929)年村上中学校(現村上高校)卒業。その後、外交官となり日露協会(中国黒龍江省ハルピン)でロシア語を修め、外務省留学生としてテヘラン(イランの首都)でペルシャ語を学ぶ。このことを契機として「ルバイヤート」の原典と運命的に出会う。「ルバイヤート」は、11世紀のペルシャ(現イラン)で活躍した天才的な天文学者、科学者、数学者にして哲学者、そしてなにより詩人として知られているOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)(1048~1121)によって書かれた詩集である。小川亮作は「ルバイヤート」をペルシャ語の原典から口語に直訳し、四行詩集「ルバイヤート」(岩波書店・昭和24年初刊)が発行される。
 
0619705b.jpeg Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム、1048?~1131?年)は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人。Nishapur〔ニーシャープール、現イラン・ラザヴィー・ホラーサーン州ネイシャーブール)出身。イラン=イスラーム文化の代表者。ウマルの名を現代ペルシア語風に読んでオマル・ハイヤームともいう。全名Abu'l-Fatḥ ʿUmar ibn Ibrāhīm al-Khayyām Nīshāpūrī(アブー・ハフス・ウマル・イブン・イブラーヒーム・ハイヤーミー・ニーシャーブーリー)。「Khayyám(ハイヤーム)」は「天幕造り」の意味であり、Khayyám(ハイヤーム)の父親の職業が天幕造りであったことから、このように呼ばれている。
 この時代は政治的に混乱していて、そのため、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は長い間放浪生活を強いられた。Samarqand(サマルカンド)、Merv(メルブ)、Eṣfahān(イスファハン)など中央アジア、イランのあちこちに住んで、研究を続けていたという。
 1074年、Khayyám(ハイヤーム)は数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルタンであるMalik Shāh〔マリク・シャー、1055~1092年〕の宮殿に招聘され、君主や大臣のNizam al-Mulk〔ニザム アル=ムルク、1017~1092年、セルジューク朝の政治家、学者〕の庇護をうけてIsfahan〔イスファハン、テヘランの南約340kmに位置する〕に新しく作られたの天文台の長に任じられ、暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるJalali(ジャラーリー)暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであったという。しかし、Nizam al-Mulk(ニザム アル=ムルク)が殺害され、Malik Shāh〔マリク・シャー〕も死んだために、暦の改正は中止となり、この後、間もなく天文台も閉鎖されたという。
 
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の同時代の人々は彼を偉大な学者として高く評価していたが、それ以上に彼の名声を高めたのは有名な四行詩『Rubsiyst(ルバイヤート)』であった。この中でOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は自由と愛を称賛し、全て地上に存在するものの無常なことを、また生活のままならぬことを憂えた。Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubsiyst(ルバイヤート)はペルシア・タジック語韻文の古典的な作品であったが、19世紀と20世紀にヨーロッパ諸国の言葉に訳されてから、世界中で広く知られるようになった。
7281978f.jpeg※Rubsiyst(ルバイヤート)の内容例
  神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
  愉しみの扉を閉ざして、
  紅の酒を地にこぼした、
  酔っているのか、おお神よ。
     右手に教典、左手に酒杯、
     ときには如法、ときには不如法、
              我らは紺碧の大空のもと、
              まったくの異教徒でなし、回教徒でなし。
 
 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の自由思想は次第に迫害されるようになり、彼は老年になって、メッカの巡礼の旅に出かけた。1934年、Nishapur〔ニーシャープール〕にOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のオベリスクが建立された。
 
  宝塚在住のKS氏が、娘さんの招待で東京湾大華火祭(8月10日実施)を見物のため上京した。神奈川県の3人組と爺とで会食の話が進んでおり、KS氏に合流してもらって彼を囲んでのすき焼会を開くことになった。判りやすい場所ということで、雷門の並びの「ちんや」に決めた。
 「有朋自遠方来 不亦楽(朋有り遠方より来る亦楽しからずや)」昨日の8月8日(木)正午に、横浜在住のIN氏、藤沢在住のMY氏、海老名在住のYS氏とこの爺とで彼の歓迎パーティを催すことと相成った。
 5人が揃うと、はじめから、話が弾み楽しい2時間半を過すことができた。
6a4de6d2.jpeg 午後2時30分「ちんや」の玄関先で誰かが、「この店はなんで『ちんや』というのだろうか?」店の由来を訪ねていた。仲居さんが「江戸時代、ここは諸大名や豪商に中国産の「狆」などの愛玩動物を納め、獣医もかねていたことから『狆屋』と呼ばれており、明治13年料理屋にかわったのだが、『狆屋』をそのまま屋号にした。そののち、明治36年にすき焼の専門店になった」ということを説明してくれた。
 
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e8fd1a8d.jpeg 話の続きをするべく、筋向いにある浅草観光文化センターの最上階にある喫茶室に向かったが、『リニューアルのため休業中』ということで、スカイツリーのバックに写真を撮っただけで、再び街中に出た。この淺草観光文化センターはたったこの間建築されたばかり――なんでリニューアルの必要ありや?
 
42a35b0c.jpeg 以前から行きつけの甘味喫茶「鉢の木」でお駄弁りを続けた。午後4時56分、みんなの携帯電話が一斉に鳴り響いた。「奈良県で地震発生」の緊急メールが入った。ここで、話は中断となり、各自帰宅することとなる。まあ、スカイツリーでもエレベーターが運転中止となったというから致し方あるまい。
 今朝のテレビニュースによるとあの緊急メールは誤報であったという。
 
  朝徘徊から帰宅。パソコンを開くと横浜のIN氏から、昨日の写真と寄せ書きが送られてきていた。
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  al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)は天文表を作り、フワーリズミーの天文学に関する学問を集大成した書となった。インド天文学の理論を取り入れた初期アラビア天文学の代表作。太陽・月・惑星の運動や食などを計算する多数の表からなっていたが、現存するものは不完全なラテン語訳のみである。
8世紀にインドの使節団が持ち込んだ『Surya Siddhanta(スーリヤ・シッダーンタ)』』や『Brahmasphutasiddhanta(ブラーマ・スプタ・シッダーンタ)』を、Muhammad ibn Ibrahim al-Fazari〔ムハンマド・アル=ファザーリ、没年は796年か806年〕がアラビア語に翻訳して『Sindhind(シンドヒンド)』という書にまとめた。al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)は、この『Sindhind(シンドヒンド)』とバビロニアや Ptolemaeus(プトレマイオス)の天文書を参考に天文表を作り上げた。中世ヨーロッパにも大きな影響を与えた天文書となり、Ándalus〔アンダルス、歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称〕の天文学者Maslama al-Majriti〔マスラマ・アル=マジリッチ、950年頃の人〕によるラテン語訳が残っている。
 
数学や天文学での活躍に比べて有名ではないが、地理学の分野では、Ptolemaeus(プトレマイオス)の世界論を受け継いだ世界地図の作成に携わった。al-Maʾmūn(マアムーン)の命により、シンジャール平原において太陽高度差を利用した緯度差1度に相当する子午線弧長の測量を実施している。al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)は、この調査の成果を著作『大地の概念』に取り入れた。また、Ptolemaeus(プトレマイオス)による地中海の長さの見積りを修正し、アジアやアフリカの地形描写を精密にした。インドやビザンティンには調査で3回出向いている。
  今日は被爆から68年目の「原爆の日」である。本日のウェブニュースより、
cfacb907.jpeg 広島、核兵器の非人道性訴え 被爆68年、廃絶と平和誓う ―― 広島は6日、被爆から68年の「原爆の日」を迎えた。広島市中区の平和記念公園では、午前8時から「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」(平和記念式典)が営まれた。松井一実市長は平和宣言で「核廃絶に取り組んでいる国々との連携強化」を日本政府に要求し、核兵器の非人道性を訴える。/また「信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を」と世界に呼び掛ける。核兵器は「絶対悪」と位置付け、平和な世界の実現を誓い、原爆犠牲者に哀悼の意を表す。/エネルギー政策で、原発の是非には言及しない。/原爆が投下された午前8時15分に黙とうをささげ、「平和の鐘」を鳴らし、「平和への誓い」を読み上げる。  2013/08/06 08:26   【共同通信】
 
c81c701e.jpeg 原爆投下68年 オリバー・ストーン監督、広島を歩く ―― 原爆投下から68年。戦争に批判的な米国の映画監督、オリバー・ストーン氏〔66〕は5日、朝日新聞のインタビューに応じ、広島で被爆の惨禍を想像することの大切さを訴えた。日本ではいま、集団的自衛権をめぐる憲法解釈の見直しや改憲論議など、戦後日本のあり方を変える動きが目立つ。核なき平和を求める被爆地の声は届くのか。/オリバー・ストーン氏は5日夜、広島市内で朝日新聞のインタビューに応じた。核廃絶を実現するために、若い世代に向けて「広島についてもっと学ぶことだ。学べば意識は変えられる」と訴えた。/ストーン氏は「世界は過去で埋め尽くされている」と話し、想像することの大切さを強調した。「僕は1945年のこの場所にいるような気がしている。いまここであの日の瞬間、爆風を感じている」 /「瀕死(ひんし)の被爆者がさまよっていた。父と母の姿も見えた。川に浮き沈みする遺体も見えた」。原爆ドームや平和記念資料館を訪れ、脳裏に浮かんだイメージをこう表現した。5日、母親と弟を亡くした被爆者の男性から「原爆とは知らなかった」と聞いたという。「当時の人はその爆弾が何かわからなかっただろう」と思いをはせた。/資料館にある「人影の石」も記憶に残ったという。「人々の影が一瞬で焼き付き、体は一瞬で吹き飛ばされたのだろう」/原爆を投下した米国の責任についても言及。「敗者のナチスが原爆を落としていれば、批判を受け続けただろう。しかし勝者の米国の場合は(悪に)制裁を加えたと例外扱いされる」/参列する6日の平和記念式典では、安倍晋三首相の発言に注目しているという。「首相が何を言うのか聞きたい。彼は核兵器を全廃しようと言うにちがいない。軽い調子で」。皮肉を込めてそう語った。/若い世代には「僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。学べば意識は変えられる」とメッセージを送った。
■原爆ドームを訪問 4日に広島入りし、原爆の惨禍を伝える広島平和記念資料館を視察したオリバー・ストーン氏は、5日も平和記念公園や原爆ドームなどを訪問。午後には「8・6ヒロシマ平和の集い2013」に出席し、一緒に来日した米アメリカン大学のピーター・カズニック准教授と対談した。/ストーン氏は対談で、米国で浸透している「原爆が戦争の終結を早めた」という見方について、「人々は不快な歴史の事実を受け入れがたい。私自身も理解するのに時間がかかった」と語った。一方、日本とアジア諸国の関係について「日本はアジアへの加害責任に向き合っておらず、犠牲者の立場に立った視点がない」と批判した。/今後、ストーン氏は長崎、沖縄を訪問し、15日に離日する予定だ。
■オリバー・ストーン監督一問一答
 ――広島を歩いた印象は
 想像の中で、僕自身が1945年の子の場所にいるような気がしている。いまここにいて、あの日の瞬間を感じた。
 ――広島で見たり、聞いたりしたことで印象に残ったことは
 資料館はとても役だった。多くの写真を見ることができた。破壊された風景のパノラマ写真は衝撃だった。 だが、(米国の歴史を批判する)僕たちの主張は、米国の大手メディアは受け入れない。時々無力感を感じる。
 ――伝えたいことは
 私の最大のメッセージは、真実を学んでほしいということ。若者に関心を高めてほしい。被爆者が亡くなっていくなか、彼らが生きているうちには核の廃絶はできないかもしれない。若い世代は、広島についてもっと学ぶべきだ。僕だって5、6年前まで広島の歴史を知らなかった。私は年老いたが、学べば意識は変えられる。
 
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9aa411e5.jpeg 広島の「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が行われる平和記念公園には、横江嘉純氏の「祈りの像(子供を抱いた若い夫婦の像)」があり、その下に爺の伯父(母の兄)に当たる大木惇夫の「平和を祈り 御霊を鎮めん」の詩文が刻まれている。
※横江嘉純(よこえよしずみ):1887-1962 大正-昭和時代の彫刻家。
明治20年5月3日生まれ。大正7年文展に初入選。昭和3年「大乗」で帝国美術院賞。のち帝展,新文展,日展の審査員。寓意(ぐうい)的な作品を得意とした。作品に「われらが生きる太陽(追慕の像)」,東京駅前広場にある「愛の像」など。昭和37年2月14日死去。74歳。富山県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
2e4b85ef.jpeg※大木惇夫(おおき-あつお) :1895-1977 大正-昭和時代の詩人。明治28年4月18日生まれ。博文館に勤務中の大正10年「大阪朝日新聞」の懸賞小説に入選する。北原白秋に師事,14年第1詩集「風・光・木の葉」を発表。歌謡曲の作詞に「国境の町」がある。昭和52年7月19日死去。82歳。広島県出身。広島商業卒。本名は軍一。詩集はほかに「危険信号」「失意の虹」など
 
  平和を祈り 御霊を鎮めん  大木惇夫
 
 山河に歎きはみちて 叫ぶ声あり 
 戦ひは げに 人類の恥辱ぞと
 ああ 奮ひ起ち挙り立て 心つなぎて つつましく
 世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
 国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
 み霊よ 地下に哭くなかれ
 
 青空の光をうけて 闇を絶たずや
 戦ひは げに 人類の愚劣なり
 ああ 奮い起ち挙り立て 呼べば応へて たくましく
 世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
 国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
 み霊よ 地下に哭くなかれ
 
 夕星のさとしはありて こだま地にみつ 
 戦ひは げに 人類の自滅ぞと
 ああ 奮い起ち挙り立て まこと尽して 美はしく
 世界の平和 祈らばや やすらぎの日をもたらして
 国に殉ぜしもろ人の み霊をこそは鎮めまし
 み霊よ 地下に哭くなかれ
 
ca938932.jpeg  al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)は、x²+10x=39 を使って、2次方程式の解法を説明している(左図参照)。かれは、負の解については一切考えていない。



 
 さらに連立方程式についての問題があるが、 x+y=10 と、もう1つの方程式をそれぞれ次のものにとって解いている。
 xy=21、 x²+y²=40、 x²-y²=(x-y)+54、 x²=4xy、
 (x+y)²=(25/9)x²、 y²=81x、 (y/x)+(x/y)=13/6、
 xy/|y-x|=21/5
 また、分数方程式 1/x-1/(x+1)=1/6 も解いている。
 
 遺産相続の問題では、例えば、「ある人が死ぬ前、4人の息子に財産を等しく分配し、ある1人の人に息子1人の分け前と、その分け前を全財産の3分の1からから引いた残りの4分の1と1ジルヘム(お金の単位)を加えたものを与えると遺言した」というのがある。
3c95811c.jpeg これは、左の赤枠で囲んだ内容のように変形できるのであるが、al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)はこの変形を言葉だけで詳しく説明しているという。
 


4568c860.jpeg al-Khwārizmī (アル=クワーリズミー)はまた幾何学的な問題として、図形の求積を研究している。そのなかで弓形の面積を、弧の長さ・弓形の高さ、弦の長さを使って表している(左図参照)。
 
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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