ウェブニュースより
14歳藤井四段 公式戦27連勝 30年ぶり最多記録に王手 ――将棋の史上最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)が17日、大阪市内の関西将棋会館で「第11回朝日杯将棋オープン戦一次予選」に臨み、藤岡隼太アマ(19)に106手で勝利。自らの持つデビューからの公式戦連勝記録を27に伸ばした。30年前に神谷広志八段(56)が打ち立てた最多記録に並ぶ28連勝まで、あと1勝。
朝日杯は本来ならファンが対局場で観戦できる「公開対局」となるが、混乱が予想されたことから初の非公開として行われた。藤井四段は東大1年の学生名人を相手に、正確な指し回しで先にペースをつかむと最後までつけ入る隙を与えず完勝した。
歴代最多連勝は、1986―87年度に神谷五段(当時)が打ちたてた28連勝。藤井四段は、21日に行われる王将戦一次予選・澤田真吾六段(25)戦でタイ記録に挑む。 (2017年6月17日 15時47分 スポニチアネックス)
詳細は下記アドレスをクリックしてご覧ください。 「棋譜」もご覧出来ます。
http://www.asahi.com/articles/ASK6K3PS8K6KPTFC004.html
瓜の仲間には、だれもが知っているきゅうり(胡瓜)、すいか(西瓜)、なんきん(南瓜)などのほか、とうがん(冬瓜)、にがうり、まくわうり、かんぴょうの材料である夕顔、奈良漬の材料になる白うりなど多くの種類があり、いずれも夏の代表的な食べ物となっています。ふつうは食用にしない瓢箪や糸瓜も瓜の仲間です。中でも、古くは「まくわうり」を特に瓜と呼んでいたといいます。
瓜の語源は、よく熟したものが美味しいことから熟実(うるみ)の意味とか、潤(うる)に通じるからとか、口の乾きを潤(うるお)すから生じた言葉だとか言われています。
菓子類が少ない古代、甘くて美味しいマクワウリはさぞ子供たちの好物だったことでしょうが、正倉院文書によると極めて高価な贅沢品だったようです。奈良漬けに使われるシロウリも粕漬けとして貴族の食膳に供されていたことが長屋王の木簡の記録に見えます。
万葉集での瓜は山の上憶良の1首のみです。特権階級や金持ち以外にはお目に掛かることが少なかったため、詠われることがなかったのでしょうか。
瓜(うり)食(は)めば 子ども思ほゆ 栗(くり)食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ まなかひに もとな懸かかりて 安(やす)寝(い)し寝(な)さぬ 万葉集巻5 802
現代語訳
瓜を食べると子どもが思われる。栗を食べるとそれにも増して偲ばれる。こんなにかわいい子どもというものは、いったい、どういう宿縁でどこから我が子として生まれて来たものなのであろうか。そのそいつが、やたら眼前にちらついて安眠をさせてくれない。
今の若い人の中には、まくわうりを知らない人もいるかもしれません。これはメロンのような甘い瓜で、爺たちが子供のころには夏に欠かせない果物でした。そのころは、現在のようにコンビニや自動販売機もなく、ジュースや清涼飲料水は特別な日にしか口にすることができませんでしたが、夏になると、西瓜やまくわうりが必ず井戸の中に漬けてあったり、氷の冷蔵庫に入れて冷やされていました。かぶと虫や蝉を採るために山の中を駆けずり回った後は、西瓜やまくわうりにむしゃぶりついて、咽喉の渇きを潤したものです。現在メジャーな「夕張メロン」や「マスクメロン」も、我々には、まくわうりの仲間としか考えられないのです。
胡瓜の原産地はインドからヒマラヤ山脈周辺で、紀元前10世紀頃から西アジア辺りで栽培されていたようです。当時の胡瓜はにがみが非常に強く、今日までの間、にがみをなくす様に品種改良が進んでいます。
その後、インドやヨーロッパから中国に胡麻(ごま)や胡桃(くるみ)などと一緒に伝来しました。ちなみに胡瓜と呼ばれるのは、中国からみた西方民族の事を『胡』と呼び、そこからきた瓜なので『胡瓜』と呼ばれるようになったようです。
日本には6世紀から10世紀頃中国から伝来しました。その当時は『胡瓜』とは言わず『黄瓜』と呼ばれており、今のように未完熟の青々しいものを食さず、完熟させて黄いものを食用にしていたようです。
河童の好物はキュウリ、魚、果物といわれます。これにちなみ、キュウリを巻いた寿司のことを「カッパ巻き」と呼びます。キュウリを好むのは、河童が水神の零落した姿であり、キュウリは初なりの野菜として水神信仰の供え物に欠かせなかったことに由来するといわれるます。
日本での胡瓜の本格的な普及は17世紀以降になってからで、それほどまで普及が遅くなった要因として、日本の祇園信仰による所の、京都八坂神社の紋が胡瓜の切り口に似ていることで、禁忌作物にされていたことや、葵の御紋に似ているので武士たちが恐れ多いと口にしなかったことなどがありますが、一番有力なのは、当時のきゅうりは非常に苦かったことがあげられるでしょう。
さて、瓜の仲間は夏の食べ物だと言いましたが、中には冬でも食べるものがあります。例えば、冬瓜は、丸のまま保管すると冬まで使えるので冬瓜という名がついたといわれるほど、長期保存が可能な野菜でした。また、カンボジアから伝わったという南瓜も、「冬至かぼちゃに年を取らせるな」ともいうように、冬まで保存が出来、貴重な栄養源でした。 冬瓜の原産地は東南アジアで、ジャワ島の平地には現在も自生しているそうです。中国には3世紀に伝わり、その後中国から日本へ伝わったとされています。野菜として利用するのは主に日本と中国で、特に中国では様々な料理に用いられています。皮にできるろう質の粉を雪に見立てて冬瓜と呼ぶという説もありますが、この粉が全体に均一についていて、しわがなく、ずっしり重い物を選ぶようにします。いくら保存性がよいとはいえ、切ったものは保存が利かないので、家庭では小さくカットされたものを購入するとよいでしょう。 冬瓜はほとんどが水分なので、昔からの民間療法では、身体を冷やし、利尿効果に優れているといわれ、解熱や毒消しにもよいとされてきました。最近では、低カロリーのダイエット食としても注目されています 。
ウェブニュースより
藤井四段、名人への道は… タイトル挑戦に最低でも5年 ―― 将棋の中学生棋士、藤井聡太四段(14)が26連勝をかけて臨む15日の対局は、第76期順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)のデビュー戦だ。将棋界を代表するタイトルである名人をめざす道が始まった。
藤井四段はすでに竜王戦、棋王戦で挑戦者を決めるトーナメントに進出し、年内に挑戦権を得る可能性がある。だが、名人のタイトルに挑戦するには最低でも5年かかる。五つに分かれているリーグ戦「順位戦」のクラスを1年に一つずつ上がり、名人の挑戦者を決めるA級(最上位のクラス)に入る必要があるためだ。
藤井四段がまず参加するのが、最も人数が多い一番下のC級2組。抽選で決まった10人の相手と1年間かけて戦い、50人(今期)の中で上位3位以内の成績をあげればC級1組に昇級できる。毎年昇級を続ければ、A級に4年で到達できる。そこで1年戦い、1位となれば名人に挑戦できる。
だが、道のりは簡単ではない。順位戦の昇級枠は少ない上、前期の成績によって決まる「順位」も大事になるからだ。
C級2組の中で、初参加の藤井四段の順位は45位と低い。競争相手と勝敗が並んだ場合、順位が上の方が成績上位となる規定があるため、仮に9勝1敗の成績でも、44位以内に9勝1敗の棋士が3人いた場合は昇級できない。この「順位の差」に泣いた棋士は枚挙にいとまがない。
デビューから4年連続でA級まで昇級したのは加藤一二三九段(77)、中原誠十六世名人(69)の2人だけ。羽生善治三冠(46)でも7年かかっている。デビューから5年で名人になった棋士はまだいない。
順位戦の持ち時間は各6時間で、タイトル戦を除くと最も長い。総合力、持久力が問われる長丁場だ。谷川浩司九段(55)以来、中学生として40年ぶりに順位戦を戦う藤井四段は「厳しいリーグだが、最後まで集中力を切らさずに戦いたい。参加するからには昇級を狙いたい」と話す。 (朝日新聞 2017年6月15日10時52分)http://withnews.jp/section/f0170610002qq000000000000000G00110101qq000015205A/83889?iref=pc_extlink
藤井聡太四段が26連勝 最多タイにあと2 ―― 将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)は15日、大阪市の関西将棋会館で指された名人戦の順位戦C級2組で瀬川晶司五段(47)を破り、自身の歴代単独2位の公式戦連勝記録を「26」に更新した。
歴代1位は神谷広志八段(56)が1987年に達成した「28」。大きな注目を集める中学生棋士が、昨年12月のデビューから無敗のまま、将棋界の大記録にあと2勝とした。
◇ 藤井聡太四段の話 今日は集中が切れたところもあったので、しっかり反省していかないといけない。(26連勝は)自分でも驚きです。(28連勝も視野に入ったが)これから強敵ばかりなので、しっかりと調整して臨みたい。 (産経フォト 2017.6.16 00:25)
https://www.youtube.com/watch?v=puyPp7SGY_o
アジサイは6月から7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼(がく)が大きく発達した装飾花をもちます。ガクアジサイではこれが花序の周辺部を縁取るように並び、園芸では「額咲き」と呼ばれます。ガクアジサイから変化した、花序が球形ですべて装飾花となったアジサイは「手まり咲き」と呼ばれます。日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用に広く栽培され、多くの品種が作り出されています。原産地は日本で、ヨーロッパで品種改良されたものはセイヨウアジサイ と呼ばれています。
アジサイの語源ははっきりしませんが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれています。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説です。そのほか、「味」は評価を、「狭藍」は花の色を示すという谷川士清の説、「集まって咲くもの」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「厚咲き」が転じたものであるという貝原益軒の説があります。花の色がよく変わることから、「七変化」「八仙花」とも呼ばれます。
日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれています。
草冠の下に「便」を置いた字が『新撰字鏡』にみられ、「安知佐井」のほか「止毛久佐」の字があてられています。
アジサイ研究家の山本武臣は、アジサイの葉が便所で使われる地域のあることから、止毛久佐は普通トモクサと読むが、シモクサとも読むことができると指摘しています。また『言塵集』にはアジサイの別名として「またぶりぐさ」が挙げられています。
山本武臣氏は、「草冠に便」の字が和製漢字で、「止毛久佐」とセットだという興味深い考えを述べています(「アジサイの話」山本武臣著:1981年、八坂書房刊)。
「略・・・ 「新撰字鏡」には「草冠+便」の字を安知左井にあて、別に止毛久佐の字もあてられている。中世の「言塵集」には、「またぶり草とは、あぢさいの一名也、和 名、四平草」とあり、また、かたしろぐさの別名もあげられている。止毛久佐は、トモクサと一般によまれているが、「草冠+便」の字、トモクサ、マタブリグサ、カタシログサなどについては、まだ正確な意味が解明されていない。
略・・・三宅島や八丈島などの離島では、昔はこのガクアジサイの大きな葉が便所の落とし紙の代用として使用され、クソシバとか、カンジョーシバとか呼ばれてた。
略・・・上代のころ、内地でもこうした習慣があり、「新撰字鏡」の著者、僧昌住は、便の字の上にクサカンムリをつけて「草冠+便」の和製漢字を作ったのかもしれない。
略・・・またぶりぐさは、またふきぐさの転化ともみられ、止毛久佐は、シモクサと読めないであろうか。・・・略」
つまり、アジサイの葉はトイレットペーパーであったということで、それを表すための漢字をつくったということです。
あじさいの歌は万葉集に二首ありますが、平安時代にはほとんど見えなくなります。古今から新古今までの八代集に、あじさいを詠んだ歌は一首も採られていません。梅雨の季節に欠かせない風物詩と思える紫陽花が、古典和歌ではこれほど不人気なのも、不思議なことです。
万葉集に見えるのは、次の二首です。
言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが練りのむらとにあざむかれけり (大伴家持) 万葉集 巻四 773
〔物言わぬ木でさえ、あじさいのような移変わりやすいものがあります。諸弟らの巧みな言葉に私は騙されました。〕
あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ (橘諸兄) 万葉集 巻二十 4448
〔あじさいが幾重にも群がって咲くように、変わりなくいつまでもお健やかで居て下さい。私はこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。〕
家持の歌では、あじさいが人を欺く不実なものの譬えに使われています。色が変わりやすく、しかも実を結ばない花なので、こう言うのでしょう。遷都により恭仁京にいた大伴家持が、平城京にいる坂上大嬢(さかのうえのおおおとめ)に送った五首のうちのひとつです。「諸弟」「練」「村戸」などの言葉の解釈が定まっていないため、難解です。ただ、この前後に載せられている歌(四-七七二、七七四)を見ると、二人の仲はあまり上手くいっていなかった時期のようです。「あざむかえけり」とあるので、大嬢を責めていることが知られます。後に家持はこの坂上大嬢を妻に迎えます。
いっぽう諸兄の歌では、八重咲き(厚咲き)のあじさいをめでたい花として取り上げています。当時のあじさいは、現在見られるような大手鞠でなく、花(実は萼ですが)の数が少ない日本原産のガクアジサイであろうと言われていますが、貴族の庭園などには厚咲きのものが植えられていたことがわかります。それなりに古来賞美されてきたようです。天平勝宝七(755)年五月十一日に、右大弁丹比真人国人の家で、左大臣橘諸兄(684~757年)を招いて宴を催したとき、諸兄が主人国人を祝って詠んだ歌です。あじさいの豊かな花のように、またつぎつぎ色を変えて長く咲き誇るようにと国人を祝って詠んでいます。作者、橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)はもともと葛城王(かつらぎのおおきみ)と称していましたが、後に母方の橘宿禰を継ぐことを請い、許され改名します。天平9(737)年の疫病により四子が次々と亡くなると、大納言に昇進します。以後、大きく政治に携わっていきますが、天平17(745)年の遷都計画が失敗に終わりますと、次第に実権を藤原仲麻呂にうばわれてゆきます。この歌を詠んだ翌年二月、宴席で上皇を誹謗したと、側近に密告され、この責を負って諸兄は政界を離れます。
王朝文化華やかなりし頃になると、あじさいは忘れ去られたようなかっこうですが、十世紀後半頃に編集された『古今和歌六帖』に、かろうじて一首みつけることができます。
茜さす昼はこちたしあぢさゐの花のよひらに逢ひ見てしがな (作者不明)
(明るい昼間は何かと事情が許さぬので、紫陽花の花の宵にでも逢いたいものです)
「こちたし」は言痛しとも書き、噂がうるさくて嫌だ、といった意味です。「あぢさゐの花のよひら」は、要するに「よひ(宵)」を言いたいために使っています。「昼は人目が多いから、宵に逢いたいものだ」というだけの内容ですが、あじさいの花の陰でのひっそりとした逢瀬、というようなイメージも浮びます。「よひら」は、四枚ずつ咲くあじさいの花びらを言います。平安後期の源俊頼『散木奇歌集』にも同じ言葉遣いがありました。
あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな (源俊頼『散木奇歌集』)
(繁みを洩れた月の光が、池の面にアジサイの四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたらなあ。)
この「影」は、水面に映った月光でしょう。あじさいの繁みを洩れた月の光が、池の面に四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたら、という願望、というより幻想をよんでいます。歌の主題はあくまでも月の光で、あじさいのイメージは引き立て役みたいなものです。
次にあげる俊成の歌は、俊頼の作に影響を受けていることが明らかです。
夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり (藤原俊成『千五百番歌合』)
((秋こそ趣き深い季節だと言う歌があるけれど) 夏だってあまりにも情感豊かで精魂尽き果ててしまいましたよ。 紫陽花の四ひらの花の上の露に月の明かりが宿っているのを見ておりましたら。)
「夏もなほ心はつきぬ」は、古今集の名歌「木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋は来にけり(読み人知らず、古今集184」を背景にしています。「心づくし」は何も秋だけではない、夏だって、アハレを催すあまり心魂尽きてしまった。あじさいの四ひらの花に置いた露に、澄んだ月の光が宿っているのを見ていたら…。「花の露に宿った月の光」は当時ありふれた趣向で、俊成の歌としては特に秀歌というほどではありません。ただ、あじさいを用いたのは珍しく、薄い藍色の花と月光の取り合わせは、夏の夜に玲瓏とした涼味を与えています。
このように平安末期頃になると、にわかにあじさいは好んでよまれるようになります。さほど歌の数は多くありませんが、俊成の息子である定家の作に、次のような美事な歌があらわれます。
あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る (藤原定家 拾遺愚草)
(日もとっぷりと暮れてアジサイの花も夕闇に沈んでいく。蛍が飛び始めアジサイの下葉に集りまたたくとアジサイの花が増えたように見えることだ。蛍は暗 くなってから光るが、このころの歌は、情景を詠んでいるのではないので、アジサイの花にアジサイの下葉に群れる蛍の瞬きが加わり花が増えたようだと云って いるのかも知れない。)
あじさいの花は夕闇に隠れる。それと入れ替わるように、蛍が乱舞を始め、あじさいの下葉に集まる。「下葉」という目の付け所が絶妙で、そこはあたりでいちばん暗いところです。そこに蛍が群れをつくり、光を発する。そのさまを、四ひらの花の数が増えたかのように見ているのです。上の方の葉には花が群がり咲いていたが、それが見えなくなったあと、今度は下葉にまぼろしの花が咲いた…。
月との取り合わせを、定家は明滅する蛍の光に置き換えて、あじさいの花の夢幻性をいっそう引き出すことに成功したように思われます。しかし、定家の作も、あじさいより蛍を主としてよんだ歌と言うべきでしょう。ここでもこの花は引き立て役に甘んじている、と言わなければなりません。
品種改良を加えたいまの紫陽花は、雨を引き立て役にして、梅雨の季節の主役となった観があります。私たちは、色のうつろいやすさを不実となじるかわりに、雨にうたれて色を濃くするその姿に、どこか儚い健気さを感じて、憂鬱な季節を慰めてもらっているように感じます。
江戸時代に入っても紫陽花の人気はいまいち。むしろ、植木屋にはやや嫌がられていた存在でした。というのも、紫陽花は繁殖が容易な花。折った茎を土に植えておくだけで、株がどんどん増やせます。だれでも簡単に植えて花を咲かせることができるため、植木屋としては紫陽花は商売にはならないということでしょう。俳句や川柳には取り上げられるようになりました。松尾芭蕉もあじさいの句を残しています。
また、紫陽花は画壇でもしばし描かれています。葛飾北斎も「あじさいに燕」という絵を描いています。濃淡で色づけされた紫陽花が印象的な作品です。
シーボルトは、日本の様々な植物を掲載した『日本植物誌』を刊行します。そこで彼は、長崎の中国寺で採取したという空色の紫陽花を「Hydrangea otaksa」(ハイドランゼア オタクサ)と名づけて紹介したのです。「オタクサ」とは、「お滝さん」のこと。ドイツ人シーボルトが、妻の名を呼ぶ時の発音そのままを花の名にしたのでした。
生前に「あじさいの歌」を歌ったこととアジサイが好きだったことにより7月17日の石原裕次郎忌を「あじさい忌」というのだそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=XcVmSmjP-EI
6月10日の「判じ物」の解答
①イチゴ(稚児が「異」を上に掲げています)
②ナシ(「菜」が4つあります)
③ブドウ(「歩」に濁点で「ぶ」、「塔」に濁点で「どう」)
タンポポは、日本の春を代表する草花の一つとして、わたしたちは幼い頃から、スミレ、タンポポ、レンゲソウと呼んで親しんできました。だが、タンポポという音感は、この三点セットの草花のなまえの中でも、どことなく日本語離れがしていて、なんとなく異国風の響きがあります。このためタンポポの語源をめぐっては、古くからいろいろと論議の的になってきました。
タンポポの名前の由来については諸説があります。有力なのは、頭花を鼓に見立て「タン・ポンポン」と音を真似たというもの。また、茎の両端を細く裂き水に浸けると鼓の形になるため、と言う説もあります。他に、タンポポの冠毛の形が昔日本にあった「たんぽ槍」に形が似ているところから名づけられたとする説もあります。
さらに、日本名のタンポポは、現在中国で「婆婆丁」(パパチン)と呼ばれていますが、そう呼ばれる以前香気を意味する“丁”が上に置かれて「丁婆婆(チンポポ)」と呼ばれていた頃日本に伝わった名前ではないか、とする説もあります。
日本で最も古い植物辞典とされる平安初期の本草書「本草和名」(深江輔仁、918年頃)のタンポポの項には、
「蒲公草(ほこうそう) 一名 構耨草(こうじょくそう) 和名フヂナ 一名タナ (原漢文)」とあります。タンポポの漢字名は蒲公草であり、日本名はフヂナまたはタナといいます。
和名フヂナ・タナについては、「本草和名」にもこれ以上の説明はありません。しかも、「万葉集」や「古今和歌集」の歌にも全く歌われていないのです。だからわれわれは、10世紀初頭にタンポポの前身と思われるフヂナやタナと、ここで突然に対面することとなるのです。フヂナ・タナという音だけがある植物に(ほんの一部にすぎないものの)始めて説明を加えたのが「東雅」(新井白石、1717年)です。
「今俗にタンポポといふもの、蒲公草、すなはち是なり。<この菜、田園、隴畝の間に生じぬるものなれば、タナと云ひにしにや、フチナの義、詳ならず。>田や畑、野山に生えるものであるから、タナと名付けたのだろう。フチナの意味はわからない」と「東雅」は書いています。つまり、タナは「田菜」の意味であるというのです。
タンポポが「菜」であるというのは、われわれにとっても意外な事実であります。タンポポは単なる野山の草花ではないのです。しかも、草餅などを作るために若草摘みをするだけのものでもない。タンポポは、かつては野菜と呼ばれる立派な食料だったのです。
江戸時代初期、「東雅」より少し前に書かれた本「農業全書」(宮崎安貞、1697年)に、「たんほほは秋苗を生じ、四月に花さく。黄白二色あり。花は菊に似て、あひらしき物なり。夏 種を取りき、正月蒔まきて苗にして、移しうゆるもよし、山野にをのづから生るを苗にするもよし。味少し苦甘く料理に用ゆる時、葉をとりて茹ゆがき、ひたし物、あへ物、汁などに料理してよし。これを食すれば、大用の秘結をよく治すなり。圃の廻り、菜園の端々、多少によらず、かならずうゆべし。」とあり、タンポポについての農事作業のほか、料理の方法や食べ方を記しています。狭いところでも、空き地にはタンポポを植えなさいと勧めています、すごい力の入れようであります。
フヂナについては、時代が遅れるが、「和訓栞」(谷川士清、1777~1883年)に「ふぢな 和名抄に蒲公草を訓ぜり。藤菜の義なるべし。花の時をいふにや。たんほほ也。」とあります。藤菜がどんな菜か、花の色は紫らしいが、タンポポとの関係は全くわかりません。
これでは、中古タンポポが「田菜」と呼ばれていたという以外には、情報がなにもなかった、ということと同じです。これにメスを入れたのが柳田國男(「野草雑記」『蒲公草』)です。タンポポが山菜として苦味があるところから、かなり広い地域でニガナ(苦菜)と呼ばれる、と書いた後に、つぎのように続けています。
「それから今ひとつさらに分布の更に弘い方言がある。岐阜県では山に属する北半分、信州でも主として北信の諸郡において、クジナといって居るのがそれである…… クジナといふ名詞も又飛び散って奥羽の処々に行はれて居る。例へば宮城山形の二県の南半分でクジナ又はグジナ、九戸の褐巻付近ではクジッケァともいって居る。羽前も米沢あたりはタンポポに近い別の名前があって、嫩(ワカ)い葉を食料にするばかり、クジナといふ語を用ゐるのである。越後でもグズナは野菜としての蒲公英の名であった。多分は北信などの臼歌も同様に、元はタンポポもクジナの花で通って居たのであらう。」[「柳田國男全集」第22巻「蒲公英」、筑摩書房]
タンポポにクヂナ系の方言が広範囲に分布していますので、古名タナの痕跡はありませんが、フヂナはクジナと名を変え残っています(カ行とハ行とは、日本語では紛れやすい音です)。それで「かつて、ある時代に京都の上流の間にもクヂナに近い語は認められて居たのである」と結論しています。ちなみに、クヂナは地方では、タンポポに苦味があり、茎を切ると白いチチが出るところから、クヂナ(苦乳菜)の意味で用いるといいます(「植物民俗」長沢武、法政大学出版局)。
では、このクヂナに近い語、つまりフヂナとは、なにを意味するのでしょうか。「和訓栞」に
〔「たんぽぽ」また藤菜とも称す。黄白二種あるなり。くだざきたんぽぽといふ。出羽にて くし などいへり。〕
とあり、ここに、くだざきたんぽぽ(出羽ではクシ)と呼ばれるものは、恐らく「管咲き」タンポポの意味で、茎が管状であることに基づく名称なのでしょう。
ということは、和名抄にフヂナ・タナとあるのは、もとクダナと呼ばれていたに違いない、クダナが訛って優雅な名前のフヂナ(藤菜)に転化し、また冒頭のクが脱落してタナ(田菜)となったと考えられるのです。
英語名のダンディライオン(dandelion)はフランス語で「ライオンの歯」を意味するダン=ド=リオン(dent-de-lion)に由来し、これはギザギザした葉がライオンの牙を連想させることによるものです。また綿毛の球状の部分をさしblowballともいいます。現代のフランス語ではピサンリ(pissenlit)というが、piss-en-litで「ベッドの中のおしっこ」という意味です。これはタンポポに利尿作用があると考えられているためであるといいます。
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藤井四段、公式戦25連勝 過密日程なんの!歴代単独2位に ―― 将棋の史上最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)が10日、東京・将棋会館で第3期叡王(えいおう)戦の段位別予選に臨み、梶浦宏孝四段(21)、都成竜馬四段(27)に連勝。自らの持つデビューからの公式戦連勝記録を25に伸ばし、全体の連勝記録では丸山忠久九段(46)を抜き歴代単独2位となった。このまま勝ち続ければ21日の王将戦1次予選で、30年ぶりに神谷広志八段(56)の持つ最多記録28連勝に並ぶ。
過密日程も敵ではなかった。2連勝で、“羽生世代”の一人で名人2期、棋王1期を務めた丸山が94年にマークした24連勝を抜き去った藤井は「本当に幸運なことだと思いますし、歴代2位になれたのはとてもうれしい」といつものように淡々と喜びをかみしめた。
この日の舞台は、5月に一般棋戦から将棋界8つ目のタイトル戦に昇格した叡王戦。その開幕局に抜てきされた。午前10時からの第1局では梶浦に快勝し、午後7時からの第2局は「上州YAMADAチャレンジ杯」で敗れた雪辱を期した都成を返り討ちに仕留めた。「上州…」での3勝に続き、4日間で5勝の“荒稼ぎ”だ。
梶浦戦は、角換わり腰掛け銀という指し慣れた戦型。「途中はずっと自信がなかった」と珍しく先に持ち時間を使い切ったものの、危なげなく勝利した。そして藤井にとって初めて夜の対局開始となった都成戦は、中飛車で仕掛ける相手の攻撃をかわし、大駒を取らせる隙に一気に寄せ切った。将棋界屈指のイケメンと呼ばれる都成は何度も首をかしげ、表情をゆがめた。
終わってみれば、ともに108手で完勝。師匠の杉本昌隆七段(48)は「藤井の良さが出た。危険な場面を恐れず、1手勝ちを読み切って踏み込んでいた。圧巻でした」と手放しで称えた。観戦したプロ棋士からも「憎いほどの強さ」との声が上がった。
持ち時間は1時間で対局は3時間弱。藤井には午前10時、勝者が休憩を挟んで午後7時という対局が組まれた。その空き時間には、都内に単身赴任する父の自宅に向かい、2食をとり「ゆっくり体を休めていた」。再び戻った対局場では、疲れを見せずに普段通りの力を発揮した。
高まる注目も力に変えていく14歳。神谷の持つ28連勝の最多記録に、勝ち続ければ21日にも肩を並べる。それでも「まだまだ遠いので、一局一局指していきたい」と冷静に先を見据えた。
▽叡王戦 IT大手ドワンゴの主催として今年5月、タイトル戦への昇格が発表された。全ての現役プロ棋士のほか、主催者推薦による女流棋士とアマチュア各1人が出場。段位別予選を行い、11月からの本戦を経て、来年3〜5月に7番勝負を行う予定。持ち時間は段位別予選は各1時間。トーナメントの本戦は各3時間。決勝7番勝負は各1、3、5時間から棋士が選択していく変則方式で、第7局は各6時間。 [スポニチ 2017年6月11日 05:30 ]
明治初年(1868)、開拓使がアメリカ産のイチゴの種苗を輸入し、ここから、わが国にイチゴ栽培が広まったといいます。明治27年(1894)、静岡県久能山の農家で、意外な事実が発見されました――庭の前の土留め用として積んだ玉石の前に、たまたま延びだしたイチゴの蔓が時期はずれの実を結んだのです。南向きの庭の玉石が太陽熱を吸収して、保温促成効果を表わしたのです。このことがヒントになり、石垣イチゴの栽培が始まったといいます。ところが、イチゴ作りが石垣栽培だけにとどまらず、さらに、これが温室栽培へとつながりました。イチゴが一年中、手にはいるようになったのです。雪のふる寒い時期のクリスマス・ケーキに、生のイチゴが添えられるようになりました。イチゴには、旬(しゅん)という言葉が不要となったのです。
「いちご」の語源ははっきりしません。古くは『本草和名』(918年頃)や『倭名類聚抄』(934年頃)に「以知古」とあります。日本書紀には『伊致寐姑(いちびこ)』、新撰字鏡には『一比古(いちびこ)』とあり、これが古形であるようです。『本草和名』では、蓬虆の和名を「以知古」、覆盆子の和名を「加宇布利以知古」としており、近代にオランダイチゴが舶来するまでは「いちご」は野いちご全般を指していたようです。
漢字には「苺」と「莓」があります。現代日本では「苺」、現代中国では「莓」を普通使うそうです。英語の strawberry(ストロベリー)は「藁 (straw) のベリー (berry)」と解釈できますが、そう呼ぶ理由ははっきりせず、「麦藁を敷いて育てた」「麦藁に包まれて売られていた」「匍匐枝が麦藁に似ている」という説があり、さらに、straw は藁ではなく、散らかす・一面を覆うを意味する strew の古語だという説もあります。
平安時代の「枕草紙」(清少納言、1000年頃?)には、イチゴが次のように描かれています。
あてなるもの。薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。かりのこ。削り氷(けずりひ)のあまづら入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。いみじう美しきちごの、いちごなど食ひたる。
現代語訳
上品なもの(品があるもの)。薄紫色の衵(あこめ)に白がさねの汗衫(かざみ)。カルガモの卵。削った氷に甘いあまづらを入れて、新しい金まりに入れたもの。水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪が降りかかっている景色。とても可愛らしい幼い子供が、苺などを食べている姿。
※ 清少納言は、『あてなるもの』として7項目の名称をかかげ、その最後にイチゴを持ってきています。稚児にイチゴを配して、その可憐な清純さをたたえます。ここに、日本人に特有の繊細な美意識が巧みに表現されているように思えます。
見るに異なることなきものの、文字に書きてことことしきもの。覆盆子(いちご)。鴨頭草(つゆくさ)。芡(みづぶき)。蜘蛛。胡桃(くるみ)。文章博士。得業生(とくごうのしょう)。皇太后宮権大夫(こうたいごうくうのごんのだいふ)。楊梅(やまもも)。虎杖(いたどり)は、まいて虎の杖と書きたるとか。杖なくともありぬべき顔つきを。
現代語訳
見た感じは大したことがないが、漢字で書くと大仰なもの。覆盆子(いちご)。鴨頭草(つゆくさ)。みづぶき。蜘蛛。胡桃(くるみ)。文章博士。得業生(とくごうのしょう)。皇太后宮権大夫(こうたいごうくうのごんのだいふ)。楊梅(やまもも)。虎杖(いたどり)は、まして虎の杖と書くのだという。虎は杖などなくても大丈夫という顔つきをしているのに。
※イチゴの漢名『覆盆子』とは『覆瓫』の意で、果実がカメ(瓫)を伏せたような形をしているところから命名された漢語です。清少納言は、この覆盆子の由来を承知したうえで、「枕草子」の『ことごとしきもの』の筆頭にイチゴを掲げたのです。平安の頃、女性は平仮名を用いるのが普通であり、漢字はもっぱら男性の用いるものとされていました。そういった時代にあって、漢字の素養を持った清少納言も全くたいした女性だといわざるをえません。
ウェブニュースより
佐藤名人、20代対決制し初防衛 将棋名人戦七番勝負 ―― 佐藤天彦(あまひこ)名人(29)に稲葉陽(あきら)八段(28)が挑戦する第75期将棋名人戦七番勝負(朝日新聞社、毎日新聞社主催、大和証券グループ協賛)の第6局は、6日午後8時19分、佐藤名人が112手で勝ち、通算4勝2敗で初防衛を果たした。
甲府市の常磐ホテルで5日から指されていた。持ち時間各9時間のうち、残りは佐藤名人が29分、稲葉挑戦者が20分だった。
名人戦は将棋界で最も歴史があるタイトル戦。21年ぶりの20代対決となったシリーズは、第3局まで稲葉挑戦者が2勝1敗と先行したが、そこから佐藤名人が3連勝して勝負を決めた。6局中、後手番が5勝する珍しいシリーズとなった。
佐藤名人は福岡市出身。2006年にプロ入りした。15年に名人挑戦権を争うA級順位戦に初参加し、優勝。昨年の名人戦で羽生善治三冠(46)を破り、初タイトルを獲得すると共に将棋界の頂点に立った。
タイトル戦初登場となった関西所属の稲葉挑戦者は、A級順位戦を8勝1敗の好成績で優勝。挑戦権獲得の勢いに乗って一時リードしたが、栄冠には届かなかった。
佐藤名人の話 第6局は主導権を握られる展開になり、簡単に崩れないようにと思って指していた。先行されて苦しいシリーズだった。大変な戦いだったので(防衛できて)うれしい。今シリーズは、いろいろと挑戦して課題も見えた。さらにしっかり勉強したい。
稲葉挑戦者の話 ▲7五歩と仕掛けたところは自信がなかった。もう少し粘れたかもしれないが、苦しかった。4局目以降は優勢な局面もなく、力負けだと思う。名人は読みが深かった。1局をこれだけ長く指す経験がなかったので、今後生かせるよう努力したい。 (朝日新聞 2017年6月6日21時41分)
14歳藤井四段が23連勝 単独3位、羽生王座抜く
将棋の最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)は7日、大阪市の関西将棋会館で指された上州YAMADAチャレンジ杯トーナメントで、宮本広志五段(31)を破り、公式戦の連勝記録で羽生善治3冠(46)らを抜き、歴代単独3位の23連勝を達成した。
連勝記録の1位は神谷広志八段(56)の28で、2位は丸山忠久九段(46)の24。22連勝は羽生3冠のほか、塚田泰明九段(52)と山崎隆之八段(36)が記録している。
同トーナメントは五段以下のプロ棋士らが対象で、持ち時間各20分の早指し棋戦。この日、1局目で都成竜馬四段(27)、2局目で阪口悟五段(38)を連破し、一気に3連勝を飾った。
次の対局は10日で、今期からタイトル戦に格上げされた叡王戦予選で梶浦宏孝四段(21)と対戦する。勝ち進めば同日に最大2対局を行う。
藤井四段は昨年10月、史上最年少の14歳2カ月でプロ入り。これまで、現役最高齢の加藤一二三・九段(77)が持っていた14歳7カ月の最年少記録を62年ぶりに塗り替えた。昨年12月の初対局から、4月4日にはプロ公式戦の新記録となるデビュー後11連勝を達成。その後は自身の記録を更新し続けている。〔共同〕 (日本經濟新聞 2017/6/7 17:48)
藤井聡太四段の初グッズ「扇子」に東西で行列 ―― 最年少プロ棋士、藤井聡太四段(14)の初のグッズとなる「扇子」(1本2268円)が7日正午から発売された。関西将棋会館(大阪市福島区)、東京・将棋会館(東京都渋谷区)では販売開始前に行列が出来たため、急きょ整理券を配布した。
藤井四段の扇子を求めて東西で30人以上の行列が出来た。午前8時すぎに関西将棋会館に一番乗りした大阪市の無職伊藤俊一さん(75)は「売り切れるかもしれないからね。将棋をしている知り合いの子どもにプレゼントしたいけど、1人1本だけだからね。手元に置いておこうかな」と笑顔で話した。発売と同時に手に入れ、扇子を広げた伊藤さんは「これからもどんどん強くなってほしいね」と期待した。東京の一番乗りは午前7時すぎだった。
ファンの要望に応える形で発売された扇子は四段では異例の早さで、グッズも“史上最速デビュー”となった。初日から大人気となった。
扇子には藤井四段が「大志」と揮毫(きごう)している。扇子を手に入れた兵庫県西宮市の無職井上秋彦さん(71)は「どんな書体が見てみたかった。文字はその人の人柄を表すっていうからね」と話した。
日本将棋連盟オンラインショップでは8日から販売する。 (日刊スポーツ 2017年6月7日15時36分)
倒語(とうご)とは、「てぶくろ」→「ろくぶて」などのように、言葉を逆の順序で読む言語現象のことをさします。逆読み、または逆さ読みとも言います。
逆さ読みを行うことによって、何らかの強調を行おうとする言語活動は、言語や時代を問わず幅広く見られる。逆さ読みした語の語用は、多岐にわたりますが、一般的には隠語のような正式な用法とはみなされない状況で使用されることが多いようです。
日本語においては、江戸時代に流行したことが有名です。(例:「キセル」→「セルキ」)このうち、たとえば「しだらない」→「だらしない」などのいくつかの言葉は、逆さ読みをした形の語が、正式な語として定着します。「たね」と「ネタ」のように意味が分化し二重語化した例もあります。
パソコンの語源・由来辞典によれば、
【だらしないの語源・由来】
だらしないは、同じ意味の形容詞「しだらない」の音節順序を入れ替えた言葉。/「しだらない」の「しだら」は、「自堕落(じだらく)」が訛ったとする説や、「ふしだら」の「しだら」とする説があるが不明。/音節順序の入れ替えパターンはいくつか考えられるが、「だらしない」になった理由には、濁音で始まる言葉は悪い印象を与えるため(一般の和語で濁音が語頭にくるのは例外的で、悪い意味になることが多い)や、擬態語「ダラダラ」と近い印象になるためであろう。/また、「しだらない」から「だらしない」の音節順序が変わったのは、江戸時代に逆さ言葉が流行していたためとも言われるが、逆さ言葉であれば「らだしない」になる。/「だらしない」の語においては、「あらたし(い)」が「あたらし(い)」に変化したことに似た現象と考える方が自然である。
とあります。
日本における「倒語」という表現の大変古い用例に、日本書紀巻三「能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。」というのがあります。この「倒語」は「サカシマゴト」と読むのが通例で、神話上日本で初めての「倒語」の例とされますが、意味は必ずしも逆さ読みとは限らず、わざと逆のことを言う呪いとか、なんらかの暗語・暗号のようなものとも考えられています(もっとも当時の感覚では、逆にしただけでも十分に一種の暗号であったとも考えられます)。
※ 神武天皇が橿原宮で即位したとき、大伴氏の祖先の道臣命が大来目部を率いて密命を受け、能以諷歌倒語、掃蕩妖氣。倒語之用、始起乎茲。――よく諷歌(そえうた)倒語(さかしまごと)を以って、災いを取り除いた。倒語の用いられたのはここにはじまった――とあります。
ぐりはまとは、物事が食い違うことや、あてが外れること。室町時代から使われている言葉です。図のように『蛤(はまぐり)』をそのまま逆さまにした文字で書かれますが、漢字辞書には載っていません。
これは正式な漢字ではなく、「小野愚譃字盡(おのがばかむらうそじづくし)」という本にでている造字(国字)です。
ハマグリの貝殻は、ペアになっている殻以外ではぴったりと形が合わないという性質を持っています。このことから『はまぐり』の倒語として『ぐりはま』が生まれ、食い違って合わないことを意味するようになりました。「神経衰弱」に似たゲームの貝合わせ(貝覆い)という遊びでは、ピッタリ合わなかった貝殻のことを『ぐりはま』と呼んでいたそうです。
時に「ぐれはま」と訛り、さらに「ぐれ」と省略して用いられました。この「ぐれ」を動詞化たしのが、「ぐれる」です。予期したことと食い違う意から、脇道へそれる・堕落する・非行化するの意に転じました。ぐれた者たちの一隊に対して、「愚連隊」というもっともらしい当て字の語も生まれたのです。
刑事のことを「デカ」と呼ぶのはすっかり馴染んでしまっていますが、これは和服に語源があります。和服の中に「角袖」と呼ばれる機能的なキモノがありますが、この「カクソデ」の中の部分を略して「カデ」、それを引っくり返して「デカ」といったところから、すっかり一般化してしまったのだといいます。日本の警察は明治時代の初期、フランスの警察制度を参考にして創設されたもので、警察官の制服もフランス風のオシャレなものでした。これはこれで目立ってよかったのですが、隠密行動をとるには目立ちすぎました。そこで捜査に当たる刑事には私服を着用させることにしました。当時、私服といえば和服しかありません。で、動きのとりやすい「角袖」を着ることとなったのだといいます。そうした刑事は実際に「角袖巡査」とも呼んでいたそうで、そこから犯罪者仲間の中では「カクソデ」→「カデ」→「デカ」という隠語が作られたのです。ちなみに、巡査は黒い脚あてを付けていたため「足黒(アシクロ)」、立ち番をする制服巡査は「ポスト」と呼ばれていたそうです。
警察関連の言葉については、こうした隠語が多いようです。例えば、警察用語として「ガサ入れ」という言葉がありますが、これは「探す(サガス)」の音の入れ替えによる隠語です。その他には、犯人を「ホシ」と呼ぶのは、「犯人の目星(メボシ)」、「バイニン」という言葉については「密売人(ミツバイニン)」からきている警察隠語だといいます。
劇場などの傍を通りかかると、スーッと寄って来て、「いい席あるよ」と声をかけて入場券を高く売りつけるダフ屋――「だふ」は「札」の倒語です。倒語は隠語の代表的な手法です。「ねたが割れる」は「種(たね)」の倒語で、「がさを入れる」は「さが(す)」、「どや街」は「宿(やど)」の倒語です。「ポシャる」も「シャッポ(脱ぐ)」の倒語です。
雷門(かみなりもん)は、浅草寺の山門です。川柳に「風の神雷門に居候」とありますが、正式名称は風雷神門(ふうらいじんもん)であり、「雷門」と書かれた提灯の逆側には「風雷神門」と書かれています。門に向かって、右側に風神、左側に雷神が配される、朱塗りの山門です。門の中央には、重さ約700Kgの提灯が吊りさげられており、浅草のランドマークとなっています。
雷門の呼称は、江戸時代の川柳に初めて登場しますが、それ以前のいつの段階から呼ばれるようになったかは不明てす。知名度に関しては、雷門の名が書かれた提灯が1795年に初めて奉納されており、浮世絵の題材に用いられたことから、以降、日本各地へ浸透したものと考えられます。
山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられています。最後の火災は1866年(慶応元年12月14日であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消したそうです。明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられています。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであったといいます。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられています。
1960年、松下電器産業(現パナソニック)の創設者、松下幸之助が病気だったころに浅草寺に拝んだところ、治ったためそのお礼として門及び大提灯を寄進し、現在の雷門が成立したといいます。風神・雷神像は、江戸時代の頭部(火災により焼け残ったもの)に、明治時代に造られた胴体をつなげた物を引き続き使っているそうです。
雷門にかかる大提灯は浅草のシンボルとなっています。本体は丹波産の竹の骨組みに福井県産のコウゾ100%の和紙約300枚を貼り合せたもので上下の張り輪には金属製の化粧輪が取り付けられているそうです。1971年から京都市下京区の高橋提燈が制作しており約10年ごとに新調されているそうです。なお、2008年に松下電器はパナソニックに社名変更しましたが、大提灯の銘板は松下電器のままだそうです。2003年に江戸開府400年を記念して改めて新調された際、提灯は従来の物より一回り大きくなり、直径3.3m、高さ3.9m、重さ700kgとなりました(従来の物は670kgでした)。2013年に新調された大提灯で5基目となります。三社祭の際には、神輿が下を通るため提灯が持ち上げられて畳まれます。また、台風接近時や強風時にも破損を防ぐために畳まれます。
ところで、自然界の強大な威力を感じさせる「かみなり」、文字通り天の神が鳴らす音と受け止めた言葉です。現代ではあまり使われなくなりましたが、「いかずち」ということもあります。こちらはイカ(厳)、つ(「の」に当たる助詞)、チ(霊)で、やはり雷に猛烈な威力を感じての表現です。いかずちの「いか」は、「たけだけしい」「荒々しい」「立派」などを意味する形容詞「厳し(いかし)」の語幹で、「ず(づ)」は助詞の「つ(「の」にあたる助詞)」、いかずちの「ち」は、「みずち(水霊)」や「おろち(大蛇)」の「ち」と同じ、霊的な力を持つものを表す言葉で、「厳(いか)つ霊(ち)」が語源だといいます。いかずちは鬼や蛇、恐ろしい神などを表す言葉であったのですが、自然現象の中でも特に恐ろしく、神と関わりが深いと考えられていた「雷」を意味するようになったのだといいます。雷に猛烈な威力を感じての表現なのです。菅原道真の神号としておなじみの天神様も雷神です。不当に左遷された無念の思いが、いまもなお空を暴れ続けているのでしょうか。
清涼殿落雷事件(せいりょうでんらくらいじけん)は、平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件です。この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなりました。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となります。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡します。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡します。
清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難します。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3か月後に崩御することとなります。天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まります。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなったのだといいます。
いやなことを避けるために言う「くわばらくわばら」という語は、元々落雷を除ける呪いの言葉でした。激しい雷の時に蚊帳のなかににげこんでこの語を唱える図も古くなりました。由来として伝えられている説は死して雷となった菅原道真の領地「桑原」には古来落雷した例がないという言い伝えによるものです。なお、「桑原」の所在は福岡説、大阪説、京都説などがあります。大阪の和泉市の西福寺には「桑原」に由来する雷井戸があるそうです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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