発句私見 芥川龍之介
一 十七音
発句(ほつく)は十七音を原則としてゐる。十七音以外のものを発句と呼ぶのは、――或は新傾向の句と呼ぶのは短詩と呼ぶのの勝(まさ)れるに若(し)かない。(勿論かう言ふ短詩の作家、河東碧梧桐、中塚一碧楼、荻原井泉水等の諸氏の作品にも佳作のあることは事実である。)若し単に内容に即して、かう云ふ短詩を発句と呼ぶならば、発句は他の文芸的形式と、――たとへば漢詩などと異らないであらう。
初月波中上(勿論日本風に読むのである) 何遜(かそん)
明月の波の中より上りけり 子規
単に内容に即すれば、子規居士の句は即ち何遜の詩である。同じく茶を飲むのに使ふとしても茶碗は畢(つひ)に湯呑みではない。若し湯呑みを湯呑みたらしめるものを湯呑みと云ふ形式にありとすれば、又茶碗を茶碗たらしめるものを茶碗と云ふ形式にありとすれば、発句を発句たらしめるものもやはり発句と云ふ形式、――即ち十七音にある訣である。
二 季題
発句は必しも季題を要しない。今日季題と呼ばれるものは玉葱(たまねぎ)、天の川、クリスマス、薔薇、蛙、ブランコ、汗、――いろいろのものを含んでゐる。従つて季題のない発句を作ることは事実上反つて容易ではない。しかし容易ではないにもせよ、森羅万象を季題としない限り、季題のない発句も出来る筈である。
元来季題とは何かと言へば、名月、夜長などと云ふ詩語の外は大抵僕等の家常茶飯に使つてゐる言葉ばかりである。詩語は勿論詩語としての文芸的価値を持つてゐるであらう。しかしその他の当り前の言葉――たとへば玉葱、天の川等を特に季題とすることは寧むしろ句作には有害である。僕等はこれ等の当り前の言葉を特に季題とする為に季感と呼ばれるものを生じ、反(かへ)つて流俗の見に陥り易い。それから今日の農芸や園芸は在来の春夏秋冬のうちに草花や果物や蔬菜(そさい)などを収められぬ位に発達してゐる。
発句は少しも季題を要しない。寧ろ季題は無用である。現に短歌は発句のやうに季題などに手(た)よつてゐない。これは何も発句よりも十四音だけ多いのにはよらぬ筈である。
三 詩語
季題は発句には無用である。しかし季題は無用にしても、詩語は決して無用ではない。たとへば行春と云ふ言葉などは僕等の祖先から伝へ来つた、美しい語感を伴つてゐる。かう云ふ語感を軽蔑するのは僕等自身を軽蔑するに等しい。
行春を近江の人と惜しみける 芭蕉
追記。詩語と詩語でない言葉との差別は勿論事実上ぼんやりしてゐる。
四 調べ
発句も既に詩であるとすれば、おのづから調べを要する筈である。元禄びとには元禄びとの調べがあり、大正びとには大正びとの調べがあると言ふのは必しも謬見(びうけん)と称し難い。しかしその調べと云ふ意味を十七音か否かに限るのは所謂(いはゆる)新傾向の作家たちの謬見である。
年の市線香買ひに出でばやな 芭蕉
夏の月御油(ごゆ)より出でて赤坂や 同上
早稲(わせ)の香やわけ入る右は有磯海(ありそうみ) 同上
これ等の句は悉(ことごと)く十七音でありながら、それぞれ調べを異にしてゐる。かう云ふ調べの上の妙は大正びとは畢(つひ)に元禄びとに若(し)かない。子規居士は俊邁(しゆんまい)の材により、頗(すこぶ)る引き緊つた調べを好んだ。しかしその余弊は子規居士以後の発句の調べを粗雑にした。単にその調べの上の工夫を凝らしたと云ふ点から言へば所謂(いはゆる)新傾向作家たちは十七音によらないだけに或は俳人たちに勝つてゐるであらう。
(大正十五・四・二十三)
附記。この文を草した後、山崎楽堂氏の「俳句格調の本義」(詩歌時代所載)を読み、恩を受けたことも少くない。殊に十七音に従へと言ふ僕の形式上の考へなどはもつと考へても好いと思つてゐる。次手(ついで)と云つては失礼ながら、次手に感謝の意を表する次第である。
わが俳諧修業 芥川龍之介
小学校時代。――尋常四年の時に始めて十七字を並べて見る。「落葉焚たいて葉守(はもり)の神を見し夜(よ)かな」。鏡花(きやうくわ)の小説など読みゐたれば、その羅曼(ロマン)主義を学びたるなるべし。
中学時代。――「獺祭書屋俳話(だつさいしよをくはいわ)」や「子規随筆(しきずゐひつ)」などは読みたれど、句作は殆(ほとん)どしたることなし。
高等学校時代。――同級に久米正雄(くめまさを)あり。三汀(さんてい)と号し、朱鞘(しゆざや)派の俳人なり。三汀及びその仲間の仕事は詩に於ける北原白秋(きたはらはくしう)氏の如く、俳諧にアムプレシヨニスム(印象主義)の手法を用ひしものなれば、面白がりて読みしものなり。この時代にも句作は殆ほとんどせず。
大学時代。――略ほぼ前時代と同様なり。
教師時代。――海軍機関学校の教官となり、高浜(たかはま)先生と同じ鎌倉に住みたれば、ふと句作をして見る気になり、十句ばかり玉斧(ぎよくふ)を乞こひし所、「ホトトギス」に二句御採用になる。その後(ご)引きつづき、二三句づつ「ホトトギス」に載りしものなり。但しその頃(ころ)も既に多少の文名ありしかば、十句中二三句づつ雑詠に載のるは虚子(きよし)先生の御会釈(ごゑしやく)ならんと思ひ、少々尻こそばゆく感ぜしことを忘れず。
作家時代。――東京に帰りし後は小沢碧童(をざはへきどう)氏の鉗鎚(けんつゐ)を受くること一方(ひとかた)ならず。その他一游亭(いちいうてい)、折柴(せつさい)、古原艸等(こげんさうら)にも恩を受け、おかげさまにて幾分か明(めい)を加へたる心地なり、尤(もつと)も新傾向の句は二三句しか作らず。つらつら按(あん)ずるにわが俳諧修業は「ホトトギス」の厄介にもなれば、「海紅(かいこう)」の世話にもなり、宛然(ゑんぜん)たる五目流(ごもくりう)の早じこみと言ふべし。そこへ勝峯晉風(かつみねしんぷう)氏をも知るやうになり、七部集(しちぶしふ)なども覗(のぞ)きたれば、愈(いよいよ)鵺(ぬえ)の如しと言はざるべからず。今日(こんにち)は唯一游亭(いちいうてい)、魚眠洞等(ぎよみんどうら)と閑(ひま)に俳諧を愛するのみ。俳壇のことなどはとんと知らず。又格別知らんとも思はず。たまに短尺(たんじやく)など送つて句を書けと云ふ人あれど、短尺だけ恬然(てんぜん)ととりつ離しにして未(いま)だ嘗(かつ)て書いたことなし。この俳壇の門外漢たることだけは今後も永久に変らざらん乎(か)。
次手(ついで)を以て前掲の諸家の外(ほか)にも、碧梧桐(へきごどう)、鬼城(きじやう)、蛇笏(だこつ)、天郎(てんらう)、白峯(はくほう)等の諸家の句にも恩を受けたることを記(しるし)おかん。白峯と言ふは「ホトトギス」にやはり二三句づつ載りし人なり。
(大正十三年)
内戦下のシリアで平成27年6月に武装勢力に拘束され、約3年4カ月ぶりに解放されたジャーナリストの安田純平さん(44)が25日午後、トルコから帰国しました。
ウェブニュースより
妻の姿見えた瞬間抱き合い「ただいま」 安田さん帰国 ―― 帰国した安田純平さんは、成田空港で家族と再会を喜び合った。
安田さんが乗ったトルコ航空機は25日午後6時半、成田空港の駐機場に到着した。約5分後、安田さんが搭乗ブリッジの途中に設けられた階段を下り、報道陣の前に姿を見せた。
黒いTシャツ姿。頭髪と長く伸びたひげには白いものが目立った。報道陣の呼びかけには応じず、ワゴン車に乗り込んだ。
妻で歌手の深結(みゅう〈Myu〉)さんは、空港内の待合室で午後7時半すぎから報道各社の取材に応じた。涙ぐみながら頭を下げ、「先ほど無事に安田と対面できました。たくさんの皆さんにご心配をかけ、ご迷惑をかけ、この場を借りておわび申し上げます」と話した。
続いて、安田さんの「おかげさまで無事、帰国できました。可能な限りの説明をする責任があると思います。折を見て、説明させていただきます」というメッセージを紹介した。
空港の廊下で互いの姿が見えた瞬間、駆け寄って抱き合い、「おかえりなさい」「ただいま」と声を掛け合ったという。
安田さんの様子については「長い監禁生活で体力が落ちているようです。かなりやせていました」と明かした。安田さんの母親が作ったおにぎりやきんぴらごぼうをおいしそうに食べたといい、「あたたかいお風呂に入って、お布団で寝て欲しい」と夫を気遣った。
今後も紛争地での取材を続けるのか。深結さんが尋ねると、安田さんは「今は何も考えていない」と答えたという。
3年間の拘束 PTSDに似た症状も
「紛争地で3年間も拘束されるというのは非常に特異。帰国後の環境を含めた長期的なケアが必要になる」。自衛隊中央病院で精神科部長を務めた福間詳さん(61)はそう指摘する。
安田さんは、銃撃など死に直結する恐れのある「単発的な強いストレス」と、食事制限や虐待などで自由や希望を失う「慢性的なストレス」を同時に経験した可能性がある。これはベトナム戦争の帰還兵などに見られた複合的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)の要因に類似するという。
「現状の様子だけで『問題ない』と判断せず、注意深く詳細に3年間の状況把握をする必要がある」と話す。
帰国後の環境も大事という。「状況は異なる」と前置きした上で、イラク・サマワに派遣された自衛隊員を診察した際、帰国後にPTSDの症状が見られた事例を挙げる。
現地では、宿営地近くにロケット弾が飛んでも、強い緊張感のなかで恐怖を感じることは少ない。むしろ帰国後に戻った日常との「落差」が要因となった可能性があるという。戦時中に米軍の捕虜となった福間さんの父親も、日常への復帰に二十数年を要したという。
休養や家族らのケアも大事だが、福間さんは、安田さんがジャーナリストである点を踏まえて「何もしないでいるよりは、体験を整理して書き起こすなど、これまでの活動も維持して、徐々に日常に近づけた方がいい」という。 (朝日新聞DIGITAL 2018年10月25日21時19分)
根尾は中日、小園は広島、藤原はロッテが交渉権獲得 吉田は外れ1位で日本ハム ―― ◇プロ野球ドラフト会議(2018年10月25日)
プロ野球のドラフト会議は25日に東京都内で開催され、4球団の指名が重複した1位指名でドラフトの目玉である大阪桐蔭の根尾昂内野手(18)は中日、報徳学園・小園海斗内野手(18)は広島、大阪桐蔭の藤原恭大外野手(18)はロッテが交渉権を獲得した。西武は日体大の松本航投手(21)を単独で指名した。
根尾に対してはヤクルト、巨人、中日、日本ハムの4球団が指名。小園には広島、DeNA、ソフトバンク、オリックスの4球団、藤原はロッテと阪神、楽天の3球団が指名した。金足農の吉田輝星投手(17)に対する1位指名1回目の指名はなかったが、1位指名2回目の指名で日本ハムが単独指名した。
立命大の辰己涼介外野手(21)は外れ1位で4球団が重複して楽天が、東洋大の上茶谷大河投手(22)は2球団が外れ1位指名し、DeNAが交渉権を獲得。1位指名では、オリックスが天理の太田椋内野手(17)、阪神は大阪ガスの近本光司外野手(23)、巨人は八戸学院大の高橋優貴投手(21)、ソフトバンクは東洋大の甲斐野央投手(21)、ヤクルトは国学院大の清水昇投手(22)の交渉権を得た。
根尾は投げては最速150キロ、打っては高校通算32本塁打を誇る二刀流選手。“最強世代”と称された今年の大阪桐蔭で、遊撃手兼2番手投手として、甲子園大会の春夏連覇に貢献した。
小園は打撃センスと広大な守備範囲を併せ持つ高校生No.1内野手として高い評価を得ている。
藤原は今年の大阪桐蔭の主砲で高校日本代表の4番も務めた。高校通算32本塁打の長打力と50メートル走5秒7の俊足を併せ持つ。
3選手ともに100回記念大会となった今夏の甲子園で大活躍。高卒のスター候補たちに指名が集中した。
吉田は今夏甲子園で全6試合に登板して881球、秋田大会から含め計1517球を投げ抜いた剛腕。県勢では1915年の秋田中以来となる準優勝に導き、金農フィーバーを巻き起こした。 (2018年10月25日 17時19分 スポニチアネックス)
大和高田市在住の成富氏よりメールが入りました。曰く、
私は元気です。
久しぶりにメールを送ります。
同窓会誌39号記載の関西支部だよりに
小生死亡取れと掲載されました。
誤報ですのでご安心ください。
証拠に直近の顔をお届けします。
体調はやっとのことで、帯状疱疹から、ほぼ解放されました。しかし、時折の神経の痛みは、残っております。奇妙な病状でした。
11月11日 門司 カーチャン会に出かけます。 2018-10-25
早速、返信しました。曰く、
毎回のメール有難う。
死んだという誤報が流れると長生きするといいます。いやはや、おめでとう。
これからも長生きして、門司の様子など知らせてください。
貴兄からのメールなどはすべて僕のブログに記載しています。
これからもよろしく 日高生 2018年10月26日
ウェブニュースより
藤井聡太七段、順位戦C級1組で5連勝 昨期・C級2組から合わせて15戦全勝 ―― 将棋の藤井聡太七段(16)が10月23日、順位戦C級1組6回戦で千葉幸生七段(39)を111手で下した。5回戦が抜け番だったため、この日が今期5局目となった対局に快勝。順位戦では昨期、10戦全勝で“1期抜け”を果たしたのに続き、これで15戦全勝と「順位戦無敗」を継続した。藤井七段の今期の全対局としては、29局で24勝5敗、勝率.827となった。
https://www.youtube.com/watch?v=NFZdf3D88Xg
C級1組には39人が参加し、1人10局ずつ行い、成績上位2人がB級2組へと昇級する。勝敗数が同じ場合は、前年度の成績をもとにした順位が上位のものが昇級する。昇級したばかりの藤井七段は、39人中31位。上位で勝敗数が並ぶほど、昇級は難しくなるだけに、前期同様に全勝か、それに近い成績で連続昇級を目指すことになる。なお全勝の棋士が3人以上出た場合は、全員が昇級する。
藤井七段のC級1組での対局は残り5局。次局は藤井七段が「西の天才」と呼ばれるのに対して「東の天才」と呼ばれる増田康宏六段(20)との対局が予定されている。
【藤井七段 C級1組今後の対局予定】(藤井七段から見た先手・後手)
7回戦 増田康宏六段(後手)
8回戦 門倉啓太五段(後手)
9回戦 富岡英作八段(先手)
10回戦 近藤誠也五段(先手)
11回戦 都成竜馬五段(後手)
※5回戦は抜け番で7回戦が6局目 (Abema TIMES 2018.10.23 23:30)
「蜘蛛の糸」や「羅生門」で知られる芥川龍之介ですが、実は俳句も数多く残しています。
大学在学中には級友の誘いで夏目漱石の門下生になり、俳句の世界に惹かれていったのはどうやら師と仰ぐこの夏目漱石との出会いがきっかけだったようです。
芥川龍之介の人生を見ると先生と慕う夏目漱石の人生にとてもよく似ており、尊敬するあまり同じような人生を選んだのではないかと思わずにはいられません。 短い人生の中で多くの作品を残した芥川龍之介とはいったいどのような人物だったのでしょうか。
夏目漱石の門下生になるまで
芥川龍之介は、明治二十五年に東京で生まれました。芥川姓を名乗ったのは叔父の養子になった11歳の頃です。
成績がとてもよく東京帝国大学の英文学科に入学し、大学在学中に同人誌「新思潮」を刊行。さらに芥川龍之介の代表作となる「羅生門」を発表し、夏目漱石の門下生になっていくのです。
夏目漱石も認めた芥川龍之介の才能
夏目漱石を慕う若手文学者が次々と門下生になり、日程を決めて漱石の家を訪れ、日々文学についての議論をし合っていました。議論が過ぎると学生たちは、先生である夏目漱石に喰ってかかる場面もあったようですが、肝心の漱石はというと、軽くあしらい、最後には核心を突くような言葉で門下生を納得させていました。
この集まりは「木曜会」と呼ばれていましたがなぜでしょう。それはとても単純で、集まる日程を「木曜日」と定めていたため、木曜会という名前がついたということです。若手文学者の中でも夏目漱石は芥川龍之介の作品を激賞していたと言います。
芥川龍之介も夏目漱石のことを「先生」と呼んで慕っていました。龍之介が俳句に魅せられた過程にはこの先生の存在が大きかったことは間違いありません。
俳句の師匠は松尾芭蕉
俳句との出会いは小学生の頃、9歳とまだ幼い頃に芥川龍之介は俳句に出会っています。この頃から完成度の高い俳句を芥川龍之介は詠んでいます。
「落葉焚いて 葉守の神を 見し夜かな」(澄江堂句集)
それでも本格的に俳句を詠み始めたのはやはり夏目漱石と出会った以降のことでした。
芥川龍之介は夏目漱石と同じように英語の教師になっていますが、その後辞職して新聞社に就職しています。この辺りも夏目漱石にとてもよく似た人生を送っているのです。
大正五年ごろには漱石をよく訪ねるなかでこのような俳句を作っています。
「蝶の舌 ゼンマイに似る暑さかな」(澄江堂句集)
「木枯らしや 目刺に残る海のいろ」(澄江堂句集)
芥川龍之介の求める俳句は、正岡子規が否定した俳諧に近く、芭蕉こそが自身の求める俳句だと感じていたようです。そのため芥川龍之介は生涯「俳句」とは言わず「発句」と呼んでいました。
芭蕉の代表作を手直しした一句
芥川龍之介は、松尾芭蕉のあの代表作をも芥川流に変えてしまった人物なのです。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」を「古池や 河童飛び込む水の音」としています。 それだけではなく、「この方がより良い句になる」とも言い放っています。
晩年の代表作「河童」の世界がこの芭蕉の句をも河童に変えてしまったのです。 松尾芭蕉の俳諧を愛したが故の一句だったのでしょう。
亡くなる前の年に俳句を整理していた
芥川龍之介は亡くなる前に遺品を整理するように、自身の俳句を整理していました。生涯1000句以上もの俳句を詠んでいましたが、その中からたったの七十七句を精査し残しています。それが「澄江堂句集」です。
いくつか紹介します。
松尾芭蕉を賛辞していた芥川龍之介の句はどことなく芭蕉の句に似ているものがあります。
春の発句 「雪どけの 中にしだるゝ 柳かな」
いかにも芭蕉が好みそうな「さび」、「余情」が込められた一句になっています。芥川龍之介はこの句集を最後にこの世を去っています。
新年の発句 「お降りや 竹深ぶかと 町のそら」
夏の発句 「更くる夜を 上ぬるみけり 泥鰌汁」
秋の発句 「風落ちて 曇り立ちけり 星月夜」
冬の発句 「老咳の 頬美しや 冬帽子」
繊細な自身の心を詠むかのような繊細な発句をたくさん残した人物です。芥川龍之介はその後自殺をして亡くなってしまいますが、命日は夏真っ盛りの7月24日。その日は「河童忌」、「龍之介忌」、「澄江堂忌」と言われています。俳句の季語としては夏の季語として今も残されています。
現実社会に何を感じ死んでいったのか
芥川龍之介は35歳という若さで亡くなりました。晩年は常に「死」を考えており生死に関わるような作品が多かったと言われています。自殺の原因は、先の人生に不安を感じたと語っていたようですが、本当のことは誰にもわかりません。
芥川龍之介の代表作でもある晩年の作品「河童」では突如河童の世界を体験するという奇想天外な作品になっています。この作品で同時に人間社会を否定していたのかもしれません。
文学に全てを捧げた芥川龍之介は最後まで発句を大切にしていました。芥川龍之介の発句には人との交友の中で培われた温かなぬくもりがあります。 人間が嫌いなのではと思わせる作品もありますが、実は人とのぬくもりを誰よりも必要としていたのかもしれません。
なぜなら亡くなる直前に室生犀星に会いに行ったり、昔からの親友や妻に遺書を遺していたり。きっと人との交わりを誰よりも必要としていたのです。先の見えない不安を誰かに解消して欲しかったのかもしれません。
「さび」や「余情」、詩的な美をも感じさせる芥川龍之介の発句は、とても人間嫌いの人が詠めるような発句ではないのです。
漱石に見出され生涯尊敬し続けた、俳句よりも俳諧にこだわり続けた芥川龍之介。その発句に幽玄すら感じます。俳句を文学の拠り所として小説を書いていたとも言われているからそのせいでしょう。
文学者の原点が俳句にあるように、芥川龍之介の原点も発句にあったのです。
正岡子規 芥川龍之介
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北原さん。
「アルス新聞」に子規のことを書けと云ふ仰せは確かに拝誦しました。子規のことは仰せを受けずとも書きたいと思つてゐるのですが、今は用の多い為に到底書いてゐる暇はありません。が、何でも書けと云はれるなら、子規に関する夏目先生や大塚先生(美学者・大塚保治か?)の談片を紹介しませう。これは子規を愛する人人には間に合せの子規論を聞かせられるよりも興味のあることと思ひますから。
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「墨汁一滴」だか「病牀六尺」だかどちらだかはつきり覚えてゐません。しかし子規はどちらかの中に夏目先生と散歩に出たら、先生の稲を知らないのに驚いたと云ふことを書いてゐます。或時この稲の話を夏目先生の前へ持ち出すと、先生は「なに、稲は知つてゐた」と云ふのです。では子規の書いたことは譃(うそ)だつたのですかと反問すると「あれも譃ぢやないがね」と云ふのです。知らなかつたと云ふのもほんたうなら、知つてゐたと云ふのもほんたうと云ふのはどうも少し可笑しいでせう。が、先生自身の説明によると、「僕も稲から米のとれる位のことはとうの昔に知つてゐたさ。それから田圃に生える稲も度たび見たことはあるのだがね。唯その田圃に生えてゐる稲は米のとれる稲だと云ふことを発見することが出来なかつたのだ。つまり頭の中にある稲と眼の前にある稲との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかつたのだがね。だから正岡の書いたことは一概に譃とも云はなければ、一概にほんたうとも云はれないさ」!
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それから又夏目先生の話に子規は先生の俳句や漢詩にいつも批評を加へたさうです。先生は勿論子規の自負心を多少業腹に思つたのでせう。或時英文を作つて見せると――子規はどうしたと思ひますか? 恬然とその上にかう書いたさうです。――ヴエリイ・グツド!
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これは大塚先生の話です。先生は帰朝後西洋服と日本服との美醜を比較した講演か何かしたさうです。すると直接先生から聞いたかそれとも講演の筆記を読んだか、兎とに角かくその説を知つた子規は大塚先生にかう云つたさうです。――「君は人間の立つてゐる時の服装の美醜ばかり論じてゐる。坐つてゐる時の服装の美醜も并(あは)せて考へて見なければいかん。」わたしのこの話を聞いたのは大塚先生の美学の講義に出席してゐた時のことですが、先生はにやにや笑ひながら「それも後に考へて見ると、子規はあの通り寝てゐたですから、坐つた人間ばかり見てゐたのでせうし、わたしは又外国にゐたのですから、坐らない人間ばかり見てゐましたし」と御尤ごもつともな註釈をもつけ加へたものです。
ではこれで御免ごめん蒙かうむります。それからこの間あひだお出いでになつた方にもちよつと申し上げて置いたのですが、どうか「子規全集」の予約者の中にわたしの名前を加へて置いて下さい。以上。
(大正十三年四月)
根岸庵を訪う記(2) 寺田寅彦
隣の庭の折戸の上に烏が三羽下りてガーガーとなく。夕日が畳の半分ほど這入って来た。不折の一番得意で他に及ぶ者のないのは『日本』に連載するような意匠画でこれこそ他に類がない。配合の巧みな事材料の豊富なのには驚いてしまう。例えば犬百題など云う難題でも何処かから材料を引っぱり出して来て苦もなく拵(こしら)える。
いったい無学と云ってよい男であるからこれはきっと僕等がいろんな入智恵をするのだと思う人があるようだが中々そんな事ではない。僕等が夢にも知らぬような事が沢山あって一々説明を聞いてようやく合点が行くくらいである。どうも奇態な男だ。先達(せんだ)って『日本』新聞に掲げた古瓦の画などは最も得意でまた実際真似は出来ぬ。あの瓦の形を近頃秀真(ほずま)と云う美術学校の人が鋳物にして茶托(ちゃたく)にこしらえた。そいつが出来損なったのを僕が貰うてあるから見せようとて見せてくれた。十五枚の内ようよう五枚出来たそうで、それも穴だらけに出来て中に破れて繕(つく)ろったのもあるが、それが却って一段の趣味を増しているようだと云うたら子規も同意した。巧みに古色が付けてあるからどうしても数百年前のものとしか見えぬ。中に蝸牛(かたつむり)を這わして「角ふりわけよ」の句が刻してあるのなどはずいぶん面白い。絵とちがって鋳物だから蝸牛が大変よく利いているとか云うて不折もよほど気に入った様子だった。羽織を質入れしてもぜひ拵えさせると云うていたそうだと。
話し半ばへ老母が珈琲(コーヒー)を酌んで来る。子規には牛乳を持って来た。汽車がまた通って蛁蟟(つくつくほうし)の声を打消していった。初対面からちと厚顔(あつかま)しいようではあったが自分は生来絵が好きで予(かね)てよい不折の絵が別けても好きであったから序(つい)でがあったら何でもよいから一枚呉くれまいかと頼んで下さいと云ったら快く引受けてくれたのは嬉しかった。子規も小さい時分から絵画は非常に好きだが自分は一向かけないのが残念でたまらぬと喞(かこっ)ていた。
夕日はますます傾いた。隣の屋敷で琴が聞える。音楽は好きかと聞くと勿論きらいではないが悲しいかな音楽の事は少しも知らぬ。どうか調べてみたいと思うけれどもこれからでは到底駄目であろう。尤もこの頃人の話で大凡こんなものかくらいは解ったようだが元来西洋の音楽などは遠くの昔バイオリンを聞いたばかりでピアノなんか一度も聞いた事はないからなおさら駄目だ。どうかしてあんなものが聞けるようにも一度なりたいと思うけれどもそれも駄目だと云うて暫く黙した。自分は何と云うてよいか判らなかった。黯然(あんぜん)として吾黙した。
また汽車が来た。色々議論もあるようであるが日本の音楽も今のままでは到底見込みこみがないそうだ。国が箱庭的であるからか音楽まで箱庭的である。一度音楽学校の音楽室で琴の弾奏を聞いたが遠くで琴が聞えるくらいの事で物にならぬ。やはり天井の低い狭い室でなければ引合わぬと見える。それに調子が単純で弾ずる人に熱情がないからなおさらいかん。自分は素人考えで何でも楽器は指の先で弾くものだから女に適したものとばかり思うていたが中々そんな浅いものではない。日本人が西洋の楽器を取ってならす事はならすが音楽にならぬと云うのはつまり弾手の情が単調で狂すると云う事がないからで、西洋の名手とまで行かぬ人でも楽(がく)の大切な面白い所へくると一切夢中になってしまうそうだ。こればかりは日本人の真似の出来ぬ事で致し方がない。ことに婦人は駄目だ、冷淡で熱情がないから。露伴の妹などは一時評判であったがやはり駄目だと云う事だ。
空が曇ったのか日が上野の山へかくれたか畳の夕日が消えてしまいつくつくほうしの声が沈んだようになった。烏はいつの間にか飛んで行っていた。また出ますと云うたら宿は何処かと聞いたから一両日中に谷中の禅寺へ籠る事を話して暇(いとま)を告げて門へ出た。隣の琴の音が急になって胸をかき乱さるるような気がする。不知不識(しらずしら)ず其方へと路次を這入ると道はいよいよ狭くなって井戸が道をさえぎっている。その傍で若い女が米を磨(と)いでいる。流しの板のすべりそうなのを踏んで向側へ越すと柵があってその上は鉄道線路、その向うは山の裾である。其処を右へ曲るとようよう広い街に出たから浅草の方へと足を運んだ。琴の音はやはりついて来る。道がまた狭くなってもとの前田邸の裏へ出た。ここから元来た道を交番所の前まであるいてここから曲らずに真直ぐに行くとまた踏切を越えねばならぬ。琴の音はもうついて来ぬ。森の中でつくつくほうしがゆるやかに鳴いて、日陰だから人が蝙蝠傘を阿弥陀にさしてゆるゆるあるく。山の上には人が沢山停車場から凌雲閣の方を眺めている。
左側の柵の中で子供が四、五人石炭車に乗ったり押したりしている。機関車がすさまじい音をして小家の向うを出て来た。浅草へ行く積りであったがせっかく根岸で味おうた清閑の情を軽業の太鼓御賽銭の音に汚すが厭になったから山下まで来ると急いで鉄道馬車に飛乗って京橋まで窮屈な目にあって、向うに坐った金縁眼鏡隣に坐った禿頭の行商と欠伸の掛け合いで帰って来たら大通りの時計台が六時を打った。 (明治三十二年九月)
根岸庵を訪う記(1) 寺田寅彦
九月五日動物園の大蛇を見に行くとて京橋の寓居を出て通り合わせの鉄道馬車に乗り上野へ着いたのが二時頃。今日は曇天で暑さも薄く道も悪くないのでなかなか公園も賑おうている。
西郷の銅像の後ろから黒門の前へぬけて動物園の方へ曲ると外国の水兵が人力と何か八釜(やかま)しく云って直(ね)ぶみをしていたが話が纏まらなかったと見えて間もなく商品陳列所の方へ行ってしまった。マニラの帰休兵とかで茶色の制服に中折帽を冠ったのがここばかりでない途中でも沢山見受けた。動物園は休みと見えて門が締まっているようであったから博物館の方へそれて杉林の中へ這入はいった。鞦韆(ぶらんこ)に四、五人子供が集まって騒いでいる。ふり返って見ると動物園の門に田舎者らしい老人と小僧と見えるのが立って掛札を見ている。其処へ美術学校の方から車が二台幌をかけたのが出て来たがこれもそこへ止って何か云うている様子であったがやがてまた勧工場(かんこうば)の方へ引いて行った。自分も陳列所前の砂道を横切って向いの杉林に這入るとパノラマ館の前でやっている楽隊が面白そうに聞えたからつい其方へ足が向いたが丁度その前まで行くと一切り済んだのであろうぴたりと止めてしまって楽手は煙草などふかしてじろじろ見物の顔を見ている。
後ろへ廻って見ると小さな杉が十本くらいある下に石の観音がころがっている。何々大姉(だいし)と刻してある。真逆かに墓表とは見えずまた墓地でもないのを見るとなんでもこれは其処で情夫に殺された女か何かの供養に立てたのではあるまいかなど凄涼な感に打たれて其処を去り、館の裏手へ廻ると坂の上に三十くらいの女と十歳くらいの女の子とが枯枝を拾うていたからこれに上根岸での道を聞いたら丁寧に教えてくれた。不折の油画にありそうな女だなど考えながら博物館の横手大猷院尊前(だいゆういんそんぜん)と刻した石燈籠の並んだ処を通って行くと下り坂になった。道端に乞食が一人しゃがんで頻りに叩頭(ぬかず)いていたが誰れも慈善家でないと見えて鐚一文(びたいちもん)も奉捨にならなかったのは気の毒であった。これが柴とりの云うた新坂なるべし。
蟟(つくつくほうし)が八釜しいまで鳴いているが車の音の聞えぬのは有難いと思うていると上野から出て来た列車が煤煙を吐いて通って行った。三番と掛札した踏切を越えると桜木町で辻に交番所がある。帽子を取って恭しく子規の家を尋ねたが知らぬとの答故(ゆえ)少々意外に思うて顔を見詰めた。するとこれが案外親切な巡査で戸籍簿のようなものを引っくり返して小首を傾けながら見ておったが後を見かえって内に昼ねしていた今一人のを呼び起した。交代の時間が来たからと云うて序(つい)でにこの人にも尋ねてくれたがこれも知らぬ。この巡査の少々横柄顔(おうへいがお)が癪にさわったれども前のが親切に対しまた恭しく礼を述べて左へ曲った。
何でも上根岸八十二番とか思うていたが家々の門札に気を付けて見て行くうち前田の邸と云うに行当ゆきあたったので漱石師に聞いた事を思い出して裏へ廻ると小さな小路で角に鶯横町と札が打ってある。これを這入って黒板塀と竹藪の狭い間を二十間ばかり行くと左側に正岡常規とかなり新しい門札がある。黒い冠木門(かぶきもん)の両開き戸をあけるとすぐ玄関で案内を乞うと右脇にある台所で何かしていた老母らしきが出て来た。姓名を告げて漱石師より予(かね)て紹介のあった筈である事など述べた。玄関にある下駄が皆女物で子規のらしいのが見えぬのが先ず胸にこたえた。外出と云う事は夢の外ないであろう。枕上(まくらがみ)のしきを隔てて座を与えられた。初対面の挨拶もすんであたりを見廻した。四畳半と覚しき間の中央に床をのべて糸のように痩せ細った身体を横たえて時々咳が出ると枕上の白木の箱の蓋を取っては吐き込んでいる。蒼白くて頬の落ちた顔に力なけれど一片の烈火瞳底に燃えているように思われる。左側に机があって俳書らしいものが積んである。机に倚(よ)る事さえ叶わぬのであろうか。右脇には句集など取散らして原稿紙に何か書きかけていた様子である。いちばん目に止るのは足の方の鴨居に笠と簑とを吊して笠には「西方十万億土順礼 西子」と書いてある。右側の障子の外が『ホトトギス』へ掲げた小園で奥行四間もあろうか萩の本(もと)を束ねたのが数株心のままに茂っているが花はまだついておらぬ。まいかいは花が落ちてうてながまだ残ったままである。白粉花(おしろいばな)ばかりは咲き残っていたが鶏頭は障子にかくれて丁度見えなかった。
熊本の近況から漱石師の噂になって昔話も出た。師は学生の頃は至って寡言(かげん)な温順な人で学校なども至って欠席が少なかったが子規は俳句分類に取りかかってから欠席ばかりしていたそうだ。
師と子規と親密になったのは知り合ってから四年もたって後であったが懇意になるとずいぶん子供らしく議論なんかして時々喧嘩などもする。そう云う風であるから自然細君といさかう事もあるそうだ。それを予(あらかじめ)知っておらぬと細君も驚く事があるかも知れぬが根が気安過ぎるからの事である故驚く事はない。いったい誰れに対してもあたりの良い人の不平の漏らし所は家庭だなど云う。
室(へや)の庭に向いた方の鴨居に水彩画が一葉隣室に油画が一枚掛っている。皆不折が書いたので水彩の方は富士の六合目で磊々(らいらい)たる赭土塊(あかつちくれ)を踏んで向うへ行く人物もある。油画は御茶の水の写生、あまり名画とは見えぬようである。不折ほど熱心な画家はない。もう今日の洋画家中唯一の浅井忠(ちゅう)氏を除けばいずれも根性の卑劣な媢嫉(ぼうしつ)の強い女のような奴ばかりで、浅井氏が今度洋行するとなると誰れもその後任を引受ける人がない。ないではないが浅井の洋行が厭であるから邪魔をしようとするのである。驚いたものだ。
不折の如きも近来評判がよいので彼等の妬みを買い既に今度仏国博覧会へ出品する積りの作も審査官の黒田等が仕様もあろうに零点をつけて不合格にしてしまったそうだ。こう云う風であるから真面目に熱心に斯道(しどう)の研究をしようと云う考えはなく少しく名が出れば肖像でも画いて黄白を貪(むさぼ)ろうと云うさもしい奴ばかりで、中にたまたま不折のような熱心家はあるが貧乏であるから思うように研究が出来ぬ。そこらの車夫でもモデルに雇うとなると一日五十銭も取る。少し若い女などになるとどうしても一円は取られる。それでなかなか時間もかかるから研究と一口に云うても容易な事ではない。景色画でもそうだ。先頃上州へ写生に行って二十日ほど雨のふる日も休まずに画いて帰って来ると浅井氏がもう一週間行って直して来いと云われたからまた行って来てようよう出来上がったと云っていたそうだ。それでもとにかく熱心がひどいからあまり器用なたちでもなくまだ未熟ではあるが成効するだろうよ。
やはり『ホトトギス』の裏絵をかく為山(いざん)と云う男があるがこの男は不折とまるで反対な性で趣味も新奇な洋風のを好む。いったい手先は不折なんかとちがってよほど器用だがどうも不勉強であるから近来は少々不折に先を越されそうな。それがちと近来不平のようであるがそれかと云うてやはり不精だから仕方がない。あのくらいの天才を抱きながら終(つい)に不折の熱心に勝を譲るかも知れぬなど話しているうち上野からの汽車が隣の植込の向うをごんごんと通った。
昨日メールが入りました。曰く、
日高先生
ご無沙汰をしておりますがその後おかわりございませんか?
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今月末にSIと宇都宮に一泊旅行にでかけます。私の母はフラフラしながら出歩いています。母は人がぶつかってこないようにと杖を買いました。老人であることを周囲に伝えないとあぶないそうです。転ばぬ先の先の杖です。先生もくれぐれもご注意ください。 IK
ウェブニュースより
また快挙!藤井七段、最年少新人王!16歳2カ月、31年ぶり記録更新 ―― 将棋の最年少プロ棋士・藤井聡太七段(16)が17日、大阪市内の関西将棋会館で指された新人王戦決勝3番勝負の第2局で、プロ棋士養成機関・奨励会に所属する出口若武三段(23)を105手で破り、優勝した。
棋戦優勝は、2月の朝日杯将棋オープン戦以来で2回目。現在、16歳2カ月で、森内俊之九段(48)が持っていた17歳0カ月の新人王最年少記録を31年ぶりに更新した。
10日に行われた第1局で先勝し、王手を掛けていた藤井。この日は序盤から新手を繰り出すなど、積極的な出口に対して落ち着いた指し回しで対応し、貫禄を見せつけた。対局を終え藤井七段は「(新人王戦は)今年で最後のチャンスだったので、優勝という形で卒業できたのはうれしく思う」と話した。
https://www.youtube.com/watch?v=-tkMblHgsZQ
新人王戦は若手を対象とした一般棋戦で、藤井の参戦は今期がラスト。過去には羽生善治竜王(48)らも優勝し、トップ棋士への登竜門とされる。
藤井の今年度の成績は23勝5敗となった。 (2018年10月17日 15時1分 スポニチアネックス)
これは、正岡子規のとりなしで明治28年9月6日の『海南新聞』(愛媛県の地方紙。現在の『愛媛新聞』)に掲載された夏目漱石の句です(『漱石全集』第12巻所収)。漱石はこの年の4月、友人の菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(松山中学校)の英語教師として赴任します。漱石の俸給は校長よりも20円高く月額80円(当時の子規は3、40円)という破格の待遇でした。
日清戦争の従軍記者として中国にいた子規は病を得て喀血、神戸病院に入院、そして須磨の保養所に転地します。このとき付き添っていたのが高浜虚子でした。子規はその後、療養のため松山に帰郷、8月27日に漱石の下宿である「愚陀仏庵」に転がり込み、10月17日まで居候を決め込みます。
2階に漱石、1階に子規が住むという生活が始まると、連日、子規の門下生が押しかけ、深夜まで句会が行われました。のちに「ほとときす」を創刊する柳原極堂のほか、中村愛松、野間叟柳、伴 狸伴、村上霽月、御手洗不迷らの松山松風会の面々です。その句会により、本を読むどころではなく、〈止むを得ず俳句を作つた〉のが、先の漱石の句です。漱石は、子規の弟子として実に2,450もの俳句を作ったといわれています。ちなみに、八木 健氏により、平成21年の夏に「愚陀仏庵」で114年ぶりに「松風会」の句会が復活しています。
掲句にある建長寺は、巨福山建長興国禅寺といい、鎌倉五山の第一位とされる臨済宗建長寺派の大本山です。今から756年前の建長5年(1253年)に後深草天皇の勅命で鎌倉幕府五代執権北条時頼が建立したわが国最古の禅寺です。
漱石のこの句は、一見、見たままを素直にありのままに詠んだ句のようです。
ところで、この句、どこかでみたことがあるような…。そうです。子規のもっとも有名な、
〈柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〉
です。この子規の句は、漱石の句よりも2か月後の明治28年11月8日の『海南新聞』に発表されます。東京に帰る途中、子規は漱石から10円を借り、奈良に立ち寄り、人口に膾炙されるこの句を詠んだのです。
奈良で5個も6個も柿を食べた子規は、〈柿などゝいふものは従来詩人にも歌よみにも見離されてをるもので、殊に奈良に柿を配合するといふ様な事は思ひもよらなかつた事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかつた。〉(「くだもの」明治34年)と回顧しています。
しかしこのとき、子規が実際に聞いたのは東大寺の鐘の音であったようです。そればかりではありません。子規は明治30年の蕪村忌に、漱石を柿になぞらえて、〈漱石君 ウマミ沢山 マダ渋ノヌケヌノモマジレリ〉(「発句経譬喩品」)と評しているのです。当時の漱石には写生という概念はなく、俳句はレトリックとアイデアで作ることを信条とし、俚言や先行の俳句を換骨奪胎した俳句を沢山作っています。一方の子規も、明治28年ころは、まだ言葉遊びの句を作っています。
そこで漱石の先の句は、「金が尽けば食べるのにも困るであろう」と子規に投げかけ、大阪・奈良で漱石から借りた金を使い果たしてしまった子規は、「漱石というウマミの柿を食えば金が成ってくるのだよ」と、漱石に応えている挨拶句のようでもあるようですが、これは穿ち過ぎでしょうか。
sechin@nethome.ne.jp です。
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