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大石内蔵助の討ち入り前日の「遺書」、60年ぶりに公開 ―― 「忠臣蔵」で知られる赤穂浪士が吉良(きら)邸に討ち入った前日に、赤穂藩家老だった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)が、徳島にゆかりのある親戚宛てに書いた手紙が現存していることが、徳島市立徳島城博物館の調査でわかった。討ち入りの決意や経緯がつづられた「遺書」とも言える内容で、同博物館で約60年ぶりに公開されている。
博物館によると、手紙は縦17.1センチ、横75.5センチ。討ち入りの前日にあたる12月13日の日付が記されていた。内蔵助の母のいとこで親交のあった三尾豁悟(みおかつご)に宛てた手紙で、約50行にわたり経緯や心情がびっしりと書かれている。
「亡き主君の弟、大学長広が広島の浅野本家にお預けとなり、討ち入りのときが到来した」「志の薄い者は参加せず、志の厚い48人が妻子や親類の後難を顧みず、あだ討ちを行う所存です」と経緯を説明した。
豁悟に対し、「あなたとは懇意なので、心底を残さずお伝えしました」と記した上で、討ち入りについて「どのように世間に言われるか心配」と心情を吐露していた。討ち入りの理由を記し、幕府に届け出た「口上書」も添えられていた。
内蔵助は、徳島藩祖の蜂須賀家政(はちすかいえまさ)の子孫とされる。一方の豁悟も家政の子孫とされ、徳島藩の家老池田由英の子どもにあたる。大津に住んでいたことがあり、討ち入り前に京都・山科で過ごしていた内蔵助と交流があったとみられる。
手紙の実物は1950年代に東京や大阪の百貨店で展示された記録があるが、その後は公開されていなかった。昨年3月、都内在住の池田家の子孫から徳島城博物館が寄託の相談を受け、あらためて現存が確認された。
博物館の根津寿夫(ねづひさお)館長は「内蔵助と豁悟、徳島藩との絆の深さが読みとれる。徳島藩は、討ち入りを陰で支えた可能性もあるのでは」とみる。兵庫県赤穂市教育委員会の小野真一・市史編さん担当課長は「一見して内蔵助の字だとビビッとわかった。赤穂浪士の研究の可能性の広がりを期待させる資料だ」と話す。
手紙は、12月24日まで徳島城博物館で開催中の企画展で展示している。問い合わせは博物館(088・656・2525)へ。
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〈赤穂浪士討ち入り〉 元禄14(1701)年、江戸城内で吉良上野介(こうずけのすけ)に切りつけたとして、赤穂藩主の浅野内匠頭(たくみのかみ)が切腹に処せられ、浅野家は断絶。元禄15年12月14日、家臣の大石内蔵助ら47人(当初48人だったが、1人は脱退)が江戸本所の吉良邸に討ち入り、主君の敵討ちを果たした。この事件をもとにした物語「忠臣蔵」は人形浄瑠璃や歌舞伎などに脚色され、現在でもテレビドラマや映画の題材として人気がある。 (朝日新聞DIGITAL 2018年11月6日11時04分)
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