瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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塾長のスピーチに続いて乾杯。


 


写真のIkuoちゃんは、Kouちゃんの弟君です。星野義一君のお姉さんの恵子女史と結ばれ、私が媒酌を務めさせていただきました。


乾杯が終わる頃には全員がそろったようで、それぞれグループごとに雑談です。


 


女性陣グループの説明に入ります。


 


1枚目のカラー写真の賀来・山岸の両女史は大洗からの臨海参加者です。因みに大洗時代のモノクロ写真を添付します。


 


Akemiさんは高学年になってからは、医務の手伝いで代々の医務部長のお手伝で、とうとう慈恵大の看護学校に入り、看護師になりました。


Kayoさんは、指導員になってからは鈴木道代(武藤、愛称はChabo)女史と親しく臨海が終わってからも、塾によく話に来てくれました。


Chabo女史は平瀬勝久氏の紹介で臨海の指導員として手伝ってもらいました。今年も忘年会参加する予定でしたが、母上のご逝去で急遽取止めになりました。


 


Chieko女史は、木島氏の妹の福嶋操子女史の紹介で、臨海の指導員として手伝ってもらうことになりました。小学W生が熱を出したときなどはNabeちゃんと寝ずの看病をしてくれたこともありました。しかし、二人が紅い紐で結ばれ、私が媒酌の労を取ることなど夢にも思っていませんでした。


カラー写真の2枚目は永田光広夫人の三千代さん(旧姓、瀬古 愛称はミッチー)・岡本智子さん(旧姓は小櫃 愛称はオビッちゃん)・成島典子さん(Naruちゃんの夫人)で、昭和40年生まれ組です。


ミッチーは聖天町の頭の娘さん、臨海でいつの間にかMitsuhiro氏と睦まじくなり、私が媒酌を務めました。Kazuhiro君は二人の次男坊です。


オビッちゃんは、久しぶりの忘年会参加です。昔から色が白く、海の肌焼けで苦労していたようです。


典子女史は成島淳一氏の夫人です。旦那に美味いものばかり食べさせ、私が写真で見間違えるほど太らせてしまったようです(昨日のブログ参照)


 


上の2枚目の写真のShingo氏については、先のブログで説明しましたが、私事ではありますが、付け足していただきます。


私が42歳の厄年の事ですから、今から40年以上も昔になりますが、私の母が九州から上京して、元旦を国分寺にいた叔父(母の実弟)の家で過ごすことになりました。母はそこで旅の疲れが出たのか風邪をこじらせたのか、とにかく具合悪くなり、私に引き取ってくれとの連絡が入りました。この時Shingo氏が車を出してくれて、浅草~国分寺を往復してくれました。国分寺から浅草までの母と私を乗せて、とても気を使った安全運転で走行してくれました。浅草の塾舎から二階の我が家に着いて、母は突然発作を起こしたのですが、その日は休日でどこの病院もやっていませんでした。Shingo氏は友人に頼み込んで友人の父であるK医師に来診してもらうことができました。K医師は診断の結果救急車を呼んでくださり、千束の聖愛病院に入院することができました。母入りました。それから3か月もち、春休みの4月の初めに息子達に看取られて聖愛病院で旅立ちました。今でも母の話が出ると、あの時のShigo氏を思い出し心の中で「ありがとう」と手を合わせています。


 


3枚目の写真のIkuo君の両脇にいる池上尋之氏(愛称はIkeさん)と柏木一朗氏(愛称Nenpai)は同期?です。


Ikeさんは小学4年から参加、確か青山から北大に進学したと思います。


柏木氏は小学5年から参加、父上は大相撲の那智ノ山で、当時の峰崎親方です。


 


全然泳げなかった彼が初めての参加で遠泳をして帰ったということでご両親の喜び一方ならぬものでした。専大を卒業後さらに法大に入学、Kouちゃんと並んで指導員として最も長く務めてくれました。なぜか女子生徒からはNenpaiと呼ばれていました。少し老けて見えたのかな?


 


多くの写真の中で、写っている人物が誰だかわからない写真がありました。


 


Sekiちゃんにメールを送って、確かめたところ、今朝ほど返信メールが届きました。曰く、


日高先生 おはようございます。


返信が遅くなり申し訳ございません。


確認の画像の、成島夫人とワシの間にいる太ってるオッサンは、ナルちゃんです。正に幸せ太りですね。


沢山の画像をブログで拝見させていただき、楽しませて頂いてます。


ありがとうございます。   関口   iPhoneから送信


 


ちょっと見では誰だか分らなかったのですが、Sekiちゃんの返事からそう言われれば成程Naruちゃんですね。太って写っていたので、誰だか分らなかったのでしょう。


そう言えば沢山の写真の中でNaruちゃんの写真が見つかりませんでしたので、ここでNaruちゃんについて説明しておきます。


昭和40年生まれの塾生は人数が多く臨海参加者も他の学年に比べて目立っていたのですが、その中でも運動神経がとみに優れ、水泳の種目も器用にこなしていたのがNaruちゃんでした。母上は喫茶店を賄い同期のお母さん方の溜り場になっていたようです。


12月8日(土)、忘年会の日は5時半ごろNabeちゃんが家まで迎えに来てくれました。これも恒例の事になりますか、会の前にわざわざ車を出して、私を送ると駒形の家まで車を置きに帰るらしい。


ひさご通りの入り口で車から降りると会場のTAKEYAまではすぐです。ジャンバーを脱ぐのにTAKEYAの奥さんが傍に来て手伝ってくれます。若手の塾友が数名来ているだけでしたが、間もなく大森夫妻も到着します。会費を払って大森師と並んで席に着くと会が始まる前の潤いの生ビールで乾杯です。


  


大森師はご存知の通り、通称「ワンさん」で親しまれています。なんでも小学生の時や旧仲間でみんなから彼の王貞治に寄せてこのように呼ばれるようになったそうです。


夫人の美佐子女史は麻丘めぐみに似ているということで、カラオケでは「私の彼は左利き」を歌わされていましたっけ。


https://www.youtube.com/watch?v=h27mnsa5gzw


間もなくNabeちゃんが到着して、彼の司会で会が始まります。例年のことですが、塾長のスピーチから会が進みます。かつては結婚式の仲人スピーチで長すぎると顰蹙を買った塾長も今は年を取って思うように言葉が出ません。自分で何を話したかよく覚えていません。それでも、みんなは静かに聞いていてくれたようです。


 


大洗で指導員をお願いしていたF女史の紹介で、仁科での水泳部長を村井先生にお願いすることになりました。早稲田大学の教育学部体育科の学生でしたが、大洗では実現できなかった遠泳のスタイルなど、兼愛塾夏期学校の水泳部の基盤を作り上げて下さいました。


川鍋(Nabeちゃん)・栗原(Shingoちゃん)・永田(Chakiちゃん)の諸兄は、「花の二八組」のメンバーで、いずれも慶応ボーイです。


Nabeちゃんはいつの間にかChieちゃんを射止め、私が媒酌人を務めさせていただきました。


Shingoちゃんは皆さんが臨海で就寝前に歌った「仁科の海よ」の作曲者です。私が作詞した詩にわずか15分ばかりで曲をつけてくれたギターの名手です。


Chakiちゃんは医学部卒で、当時の医学の新しい分野「リハビリテーション」を目指し、つい最近まで市川市リハビリテーション病院の病院長を務めていました。


3番目の写真の木島敬夫氏・窪田公一氏(Kouちゃん)・佐藤隆哉氏(Takayaは、昭和29年生まれ組で同期です。


木島氏は妹Misakoちゃんが小学4年で大洗時代から参加していたことから、高校時代から仁科の臨海に参加しました。当時は風呂もご飯も薪で炊いていました。薪割も指導員・高学年の仕事の一つでした。薪割で手に裂傷を負ったにも拘らず、毎年のように参加してくれて、Maichiの跡を継いで水泳部長も務めました。就職してからも毎年のように仁科を訪ねてくれました。


Kouちゃんは早稲田の理工学部化学科卒業後、医師を目指し、信州大学の医学部に在籍したため、普通より長く水泳部長・医務部長などで指導員を務めてくれました。私が42歳の年に櫓を新調した春には車を出してくれて仁科まで往復してくれました。その夜民宿「たつみ」で飲みすぎ、私は帰郷後腹痛を起こし、救急病院で十二指腸潰瘍と診断されました。


Takayaは、中学1年からの参加で、ブレストが得意だったと記憶します。ジャーナリスト志望で、私の従姉妹がその関係に勤めていたので、伝手を頼んだのでしたが力になれませんでした。荒井夫人(Minoちゃん)の紹介で現夫人と結ばれ、私が媒酌を務めさせていただきました。


荒木田一裕氏は「花の二八組」のメンバーです。両国中学では故北の湖と同期ということです。商船大学卒です。


 


どうやら忘年会の写真が整理できたようです。例年ですと、手作りのアルバムを作成して、皆さんに送っていたのですが、寄る年波で手足も衰え、その上トナーなどの費用も馬鹿にならないので、本年より数枚ずつブログでお見せすることにします。


先ずは12月9日の全員写真に参加者の名前を入れてみました。( )内は生まれ年を記入しましたが、早生まれの方で記入年が間違っている方がいらっしゃるかもしれません。今後の事もあるので、間違いがありましたら、連絡くだされば有難いです。


 


いやはや、塾長も足・腰が弱って中腰になることができず、3人の塾友に支えてもらいながらの撮影でした。


 


昨日Naruちゃんから3枚の写真が届きました。


 


村田雅裕君はAkaさんやNaruちゃんと同期の昭和40年生まれ。16年間大阪にいたとのこと、今回初めての参加となりました。


Sekiちゃんはご存知の通り、みんなの人気者。大学の卒論は「浅草弾左衛門」、会社の入社式では新入社員を代表して答辞を読みました。私も及ばずながらお手伝いさせていただきました。会社では異例の出世、部長級まで昇進とのこと。タイがお気に入りで、足しげくお通いとのことです。


馬場くんはIkuoちゃんの紹介で臨海を手伝ってもらうことになりました。妹さんは「Babaimo」の愛称で臨海にも参加していただきました。今はアメリカはシアトルに在住。



Kaoriちゃんはニューカレドニアに在住、優雅な生活を送っているということです。





 忘年会が終わると、森本夫妻が会場から家まで送ってくれることが恒例になったようです。運転の森本君はアルコール気は一切なしの忘年会です。



森本君は大学時代はレスリングで活躍、オリンピック出場寸前まで行ったそうです。亡くなったMaichiが家庭教師をしていた時期があります。


 





 


12月8日(土)に、例年のように塾友の忘年会がありました。今年は私のカメラで、K女史が会の様子を写していたようですが、後から急遽参加してくれたMayumi女史の写真が入っていませんでした。Maumi女史より10年ほども後輩のK女史ですから、気づかずにいたのも無理からぬことです。


というわけで、Mayumi女史について「社会貢献ジャーナル」の記事を紹介します。


国境なき医師団(Medecins Sans Frontieres:以下MSF)は、中立・独立・公平な立場で医療・人道援助活動を行う、民間・非営利の国際団体である。1971年にフランスで設立され、1992年に日本事務局が発足。現在は、世界各地に28の事務局を設置している。(中略)


MSFのプログラムの大半は開発途上国で展開されている。その舞台のひとつ、南スーダンでは紛争が長引き、マラリア流行などの問題が深刻化している。MSFが全国10州のうち9州で活動している25件のプログラム(201411月時点)のうち、20146月~12月の期間、西エクアトリア州・ヤンビオのプログラムに参加したMSF日本の小児科医、岩川眞由美さん(61歳)は次のように語っている。


 


「入院ベッド70床、外来患者が1100人程いるキャンプで活動を行いました。その地域ではマラリア感染での死亡者が多いため、MSFはマラリアに非常に有効な薬を用意しています。チームのロジスティシャン(物資調達などを行う)が迅速に輸送してくれたおかげで、感染した子どもでも、早期に注射をすれば助けることができました。


その逆に、受診するのが遅れた子どもは助けてあげることができず、毎日大きな喜びを感じられるとともに同じだけの悲しみがありました。私たち医師と看護師が治療にあたるのと同時に、教育担当のメンバーが村々を回り、保健知識の教育をしながら蚊帳を寄付し、感染予防の周知にも努めました。自分たちが帰った後のことを考えながら、物資や薬の支援を行う別の支援団体に引き継ぎを行うなど、地域のベースが下がらないように支援活動を行うのがMSFの基本です」。


医学部時代から、「医療の足りない国や地域で働く医師になる」という将来像をイメージしていた岩川さんだったが、大学病院での勤務は多忙を極め、なかなか夢には届かなかったという。しかし、MSF日本が医師、看護師の募集を開始したことを知ると、1997年よりMSFの活動に参加し、1998年に中国・広西チワン族自治区へ派遣された。2013年には大学病院を早期退職。20132014年、イラクへ派遣。3回目の活動参加で南スーダンに派遣された。今後も半年間のスパンを空けて、自分のペースでMSFの活動に専念していきたいと考えている。


 


 岩川さんに、MSFの海外派遣スタッフとして参加することの意義を聞いた。


「怪我に対処することをよく『手当』と言いますが、まさに現地での医療は手当です。画像診断などの機器はなく、本当に聴診器と手だけで診察していきます。患者さんを正面から見て、そして健康状態を診る。これが医療の原点だと思い起こさせてくれました。本当の意味で、自分が手に職としてつけた医療技術が誰かの役に立つことを自覚させてもらえる。そして患者さんから多くのことを学び、成長させてもらいながら、たくさんの喜びをもらうことができました」。(後略)


 


会が始まって間もなく隣席にいたNabeちゃんに「前野が逝って何年になる?」と尋ねると「去年7回忌でした」との答えであった。いやはや、小学・中学を通して健康優良児であり、いつも明るくみんな(花の二八組)の中心だった前野祐二君が皆に先がけて逝ってしまうとはね…… 涙をこらえてぐっと唾を飲み込ます。


 


「岩川さんは今も海外にいるのかな?」「いや、今は日本にいるはずですよ」とNabeちゃんが携帯で電話してくれます。というわけで、今回の参加になった次第です。


Mayumi女史の母上(門司高女28回生)は私と同郷で私の姉(門司高女34回生)の先輩でもあります。昨年97歳の高齢で亡くなられたとのことです。


Mayume女史の話によると、海外出張中で母上の死に目には会えなかったのことですが、兄上・姉上・お孫さんに看取られての大往生だったそうです。


久しぶりの再会だったので何から話してよいやら、あっという間に会は終わってしまいました。


 


昨夕刻郵便受けに、夕刊と一緒にKanami女史からの封書が入っていました。中に3枚の写真が入っていました。私がKanami女史に借用を依頼したものです。


忘年会の日に私に見せてくれた30年前の写真3枚が入っていました。村井先生とNabeちゃん・私の3人で暫し見入った写真です。


 


早速パソコンでスキャンしました。







ウェブニュースより



藤井聡太七段が最速100勝 最年少で最高勝率 ―― 将棋の藤井聡太七段(16)は12日、東京都渋谷区の将棋会館で指された第27期銀河戦(囲碁・将棋チャンネル主催)で阿部健治郎七段(29)を破り、史上最速、最年少、最高勝率で公式戦通算100勝目(18敗)を挙げた。



 



201610月にプロとなって22カ月、164カ月、847厘での到達で、最年少記録を次々と塗り替える高校生棋士が、並み居る歴代のトップ棋士を抜いた。



 



日本将棋連盟によると、中学生の時にプロ入りした棋士、永世称号獲得者の中でこれまでの最速、最年少は羽生善治竜王(48)の23カ月、176カ月で、最高勝率は中原誠十六世名人(71)の826厘(10021敗)。



対局を終えた藤井七段は「一つの区切りに達し、感慨深く、うれしく思う。勝率などこれまでの成績は自分でも驚いている」と話した。



藤井七段は、最年少の142カ月でプロ棋士の四段に昇段。17年、デビューから無敗で最多の29連勝を樹立。182月には全棋士が参加する棋戦で最年少優勝を飾った。17年度は記録全4部門(対局数、勝率、勝利数、連勝)で1位となり、抜群の成績を残した。



今年春、高校進学後も目覚ましい活躍を見せて、5月、最年少で七段に昇段。10月には若手プロ棋士らが対象の新人王戦で初優勝を果たした。


本局の模様は、囲碁・将棋チャンネルで来年35日に放送される。   〔共同 2018/12/12 18:40 (2018/12/12 19:53更新)

 




ウェブニュースより


「大変喜んでいる」=本庶さん、栄誉のメダル-ノーベル賞授賞式 ―― 2018年のノーベル賞授賞式が10日夕(日本時間11日未明)、ストックホルムのコンサートホールで行われ、本庶佑・京都大特別教授(76)に医学生理学賞のメダルと賞状が授与された。授賞式を終えた本庶さんは、報道陣に「大変喜んでいる。素直に」と語った。


 


本庶さんは紋付きはかまの和装で出席。和服姿の受賞者は、1968年に文学賞を受けた川端康成氏以来で半世紀ぶり。


 


授賞理由が読み上げられた後、本庶さんは舞台の中央に進み、緊張した面持ちでスウェーデンのカール16世グスタフ国王からメダルなどを受け取った。


本庶さんは92年、免疫を抑制するブレーキ役のたんぱく質「PD-1」を発見。この性質を利用した画期的ながん免疫療法を開発した。


研究を基に治療薬「オプジーボ」が小野薬品工業(大阪市)から14年に発売され、免疫療法は従来の抗がん剤や放射線治療、手術に続く、「第4のがん治療法」と期待されている。


米テキサス大のジェームズ・アリソン教授(70)との共同受賞。日本人の受賞は16年の大隅良典・東京工業大栄誉教授(73)以来で26人目。


会場で本庶さんの晴れ姿を見守った妻の滋子さん(76)は「大変荘厳な式で光栄に思っている」と喜んだ。かつての教え子の石田靖雅奈良先端科学技術大学院大准教授(57)は「本庶先生が受賞された後の拍手は他の人の2倍ぐらい大きかった。がんの治療ということで関心がすごく強いと思う」と話した。


 


今年の文学賞は、選考機関の会員の夫による性犯罪が発覚するなどして発表が見送られた。   (JIJI.COM 201812111022分)


 


ノーベル文学賞めぐる性的暴行疑惑、写真家アルノー氏をレイプ容疑で起訴 ―― 今年のノーベル文学賞受賞者発表が見送られるきっかけとなった性的暴行疑惑をめぐり、フランス出身の写真家ジャン・クロード・アルノー氏がレイプ容疑で起訴された。スウェーデンの検察当局が12日に発表した。


 


アルノー容疑者は2011年、2度にわたって女性をレイプした罪に問われている。同容疑者は疑惑を否定している。


ノーベル文学賞を選考するスウェーデンアカデミーはこの疑惑への対応をめぐって批判を受け、先月、今年のノーベル文学賞受賞者発表を見送ると発表した。


スウェーデン検察のクリスティーナ・ボイト検察官は、アルノー容疑者の疑惑に関する証拠が「強固で、訴追するのに十分」だと話した。


アルノー容疑者はスウェーデンで有名な写真家。数世紀にわたる歴史を持つスウェーデン・アカデミーの元会員と結婚している。


同容疑者の弁護士、ビョルン・フーティグ氏は「アルノー氏は疑惑について、自分は完全に無実だと主張している」と述べた。


「証拠が強固なものだという検察官の見解には同意しない」とフーティグ弁護士は付け加えた。「見解が違うのは、厳密な証拠はない点だ。直接の目撃証言はないし、出来事はずいぶん前のことだ」。


2度のレイプは同じ女性に対して行われたと考えられているが、具体的に誰なのかは明らかになっていない。


ノーベル賞めぐる疑惑、これまでの経緯


この疑惑は、セクハラ被害者を支援する「#MeToo(私も)」運動のスウェーデンでの高まりに端を発して明らかになった。昨年11月、女性18人がスウェーデンの新聞でアルノー氏のセクハラと性的暴行を告発し、スウェーデン検察に調査を促した。


アルノー容疑者による性的暴行の多くは、スウェーデン・アカデミー所有の建物か同容疑者が主宰する文学クラブの建物内で起こったとされる。アルノー容疑者は全ての性的加害を否定した。


 


アルノー容疑者は2006年、公式な晩餐会の最中にスウェーデンの王位継承者でもあるビクトリア王女の体を触ったとの告発も受けている。同容疑者はこの疑惑も否定している。


スウェーデン・アカデミーは4月、弁護士によって実施され裁判官に提供された内部調査の報告書を公表した。


また同アカデミーは同月、アルノー容疑者の妻で詩人・作家のカタリナ・フロステンソン氏について、定員18人の同アカデミー会員解任に反対する議決をした。


この議決は、利益相反疑惑やノーベル文学賞受賞者名の事前漏洩疑惑とともに、同アカデミー内部の分裂や「辞任」の波を引き起こしたと言われている。「辞任」を表明した中には、フロステンソン氏のほか、当時のアカデミー会長、サラ・ダニウス教授も含まれた。


 


スウェーデン・アカデミーの会員は終身制で、厳密には辞任できないが、運営や議決への参加を拒否することはできる。


疑惑の悪影響で、同アカデミーはノーベル文学賞の今年の受賞者発表を見送ると決定した。大衆からの信頼の欠如を理由としている。


同アカデミーは声明で、「総定員の確保、より多数の現役会員の関与、そして業務への信頼回復のため、アカデミーには時間が必要だ」と述べた。


同アカデミーは、2018年のノーベル文学賞受賞者は来年、2019年の受賞者と共に発表するとしている。   (NEWS JAPAN 20180613日)


 


今年の忘年会で、昭和40年生のMM氏が初めて参加してくれました。今後の連絡先が分からないので、本人から私にメールしてくれれば嬉しいと、KA氏にお願いしましたところ、今朝ほどMM氏からメールが入っていました。曰く、


日高先生へ


KA君から、連絡を受け、メールさせていただきます。


8日は、突然とおうかがいして申し訳ございませんでした。


久しぶりに先生とお会いできて、うれしかったです。


もう少し、お話したかったのですが、ああいう席だったので、それもままならず申し訳ございませんでした。


小学3年から、中3まで、本当にお世話になりました。先生の教えが私の基礎を形成しているのは間違えございません。


仁科の夏合宿にも、小4、5年、中1と3回、参加させていただきました。


夏がくるたびに、仁科の海のことを思い出します。O先輩はじめ、諸先輩方に精神的に鍛えられました。


少しばかり、私のことをお話させていただきます。


早大政経学部卒業後、産経新聞に入社しました。


夕刊フジに配属になり、報道部で事件取材をし、運動部でプロ野球を取材しました。


ちょうど、松井秀喜が入団し、長嶋茂雄氏が監督に復帰したころで、長嶋氏とは4年ほど、楽しい時間を過ごすことができました。


その後、産経新聞政治部に異動しました。


2000年ごろから、だんだん仕事がつまらなくなり、他社の中途採用試験を受けたのですが、最終面接で2社ほど落ちたとき、社内留学の話が出てきました。


もともと英語は得意な方ではないのですが、「とことんやってみよう」と思い、社内試験を受けたところ、合格し、英国のESSEX universityの大学院に留学しました。


英国は1年でマスターが取得でき、何とか、国際政治学の修士を取得しました。


振り返れば、この留学が運命の分岐点でした。


英語力がないので、家族を連れていくつもりはなかったのですが、妻が「日本にいてうちの両親といるのが嫌だ」といい、妻と2人の子供をつれての留学となりました。かなり無理をしてしまい、自律神経を患ってしまいました。


帰国後、妻が「自分の出身である関西に戻りたい」というので。大阪に転勤しました。ところが自律神経は治らず、いわゆる躁うつ病になり、何度か会社を休みました。そして妻との仲もぎくしゃくし、妻は出ていき、離婚しました。


そんな13年間の大阪時代でしたが、今年1月、ようやく東京に戻ることができました。


上の女の子は20歳になり、専門学校に通っています。下の男の子は、中学受験をし、関西大一中に入学したのですが、校風にあわず不登校になり、今は通信制高校に通い、高3となり、今は大学受験勉強中です。


毎月の仕送りと学費で、ヒーヒー言っております。


まだ躁うつ病は完治しておらず、投薬治療は続けていますが、何とか仕事はできています。


うちの両親もまだ健在です。父は昭和10年、母は昭和16年です。本日、日高先生のお話をすると、母は「先生もお元気なのね」と申しておりました。


長々と、自分のことばかり、記してしまいました。申し訳ございません。


長年、不義理をしていたのに、温かい言葉をかけていただきありがとうございます。


現在は産経新聞社広報室PRグループというところにおり、イベントの手伝いなど、総務的な雑用をしております。


来年の忘年会とはいわず、また先生や奥様とお会いする機会を与えていただければ、望外の喜びでございます。


いつまでもお元気でいてください。   MM


(住所・電話 略)


 


ウェブニュースより


紀平梨花、GPファイナル初優勝 デビューシーズンで制覇の快挙 ―― フィギュアスケートのグランプリ(GP)ファイナル第3日は8日、バンクーバーで行われ、女子フリーで150.61点、ショートプログラム(SP)との合計で233.12点の紀平梨花(関大KFSC)が、2連覇を目指す平昌冬季五輪女王のアリーナ・ザギトワ(ロシア)らを破り初優勝した。


 


 16歳の紀平は、日本女子としては2005年大会の浅田真央さん以来のGPデビューシーズン初制覇。坂本花織(シスメックス)は4位、宮原知子(関大)は6位だった。   〔毎日新聞2018129 0757(最終更新 129 0926)


 


藤井七段、公開対局で佐藤名人破る ファンの質問に苦笑 ―― 名古屋市中区で9日、将棋イベントがあり、佐藤天彦名人(30)と高校生棋士の藤井聡太七段(16)が非公式の公開対局に臨んだ。約800人のファンが見守るなか、藤井七段が120手で佐藤名人を破った。


 


2人は1月、名古屋市で指された朝日杯将棋オープン戦(公式戦)の本戦準々決勝で対戦し、藤井七段が勝利。当時はまだ中学生の四段棋士で、将棋界の頂点に立つ名人を破る「大金星」だった。藤井七段は佐藤名人に2連勝。解説を務めた斎藤慎太郎王座(25)によると、公式戦ではほとんど例がない戦型となった。藤井七段は「序盤から一手一手が難しい将棋だった」。佐藤名人は「苦しい展開が続いて差がついてしまった」と振り返った。


https://www.youtube.com/watch?v=vfWF1PxCeaI


記者会見で佐藤名人は「(群雄割拠の将棋界で)タイトルに挑戦できそうな人は多いが、藤井七段は上位にいる。タイトルに手が届く勢いがあり、10代のうちに獲得する高い可能性がある」と指摘。藤井七段は「トップ棋士との対局で感じた課題や弱さを克服できれば、その先にタイトルが見えてくる」と話した。


ログイン前の続き今年を漢字一文字で表現するよう促され、藤井七段は「進」と回答。「(朝日杯将棋オープン戦と新人王戦の)二つの棋戦に優勝できた。自分の課題を痛感させられたことも含めて、進歩、前進につながる一年だった」と振り返った。


藤井七段は対局前、トークショーにも参加。一緒に加わった師匠の杉本昌隆七段(50)は指導法について、「師匠に意見が言いやすい雰囲気を大切にしている」と話した。藤井七段は「自由に意見が言える環境だからこそ強くなれたと思う」と応じた。師匠と酒が飲めるようになったら何を話したいかを問われると、「お酒はあまり自信がない。そういう機会が訪れたら、ざっくばらんに話をしたい」。杉本七段は「ざっくばらんに将棋の話ばかりになると思う」と笑いを誘った。


会場からの質問にも答えた。師弟で互いに好きなところを聞かれ、藤井七段は「どんなときも温かく見守ってくれる」。杉本七段は「勝負に貪欲(どんよく)。棋士としての資質がすばらしい」。藤井七段は好きな女性のタイプも問われ、「一番困る質問が来た。現段階では……保留でお願いします」と苦笑しきりだった。


(朝日新聞DIGITAL 20181292110分)


 


オーストラリア在住のMihoちゃんからメールが入りました。曰く、


引っ越しをしました (2018/12/08 21:55


節夫おじさん、道子おばさん


ご無沙汰しています。お元気ですか?


今年の日本は暖冬のようですね。グローバル・ウォーミングの影響でしょうか。


こちらは、クリスマスのイベントが沢山あり、また今年の12月ではるなが幼稚園を卒業なので色々バタバタしています。まさに師走という月を感じています。


今年の8月ころ、私たちは引っ越しをしました。一軒家からアパートに引っ越したのでだいぶ狭くなったのですが、緑が多く静かな場所で居心地がとても良いです。


もしおじさんとおばさんが年賀状を送ってくれるかもしれないと思ったので、念の為、新しい住所を伝えておきます。


新住所:略 です。もしもう送ってしまった場合はすみません!


昨日は、シドニーで行われた日本の夏祭りにいってきました。日本を思い出します。写真を添付します。


クリスマスの写真のとなりにいるのは、はるなの従妹です。2人はとても仲が良いです。


もっと寒くなると思いますが、お体にお気をつけて。    美帆


 


早速返信メールを送りました。曰く、


メールありがとう


 引っ越しは大変だったでしょうね。


引っ越し先の住所はわかりましたが、宛名はどのように書けばよいのでしょう。


Mr.……&Mrs……


実は私のパソコンがパンクして、何とか修復したのですが、今まで記録していた資料がみんな消えてしまったので、宛名をどのように書いてよいか分からなくなりました。


はるなちゃんはすっかりおおきくなって、来年からは小学校ですね。


オーストラリアの学校制度はどのようになっているのでしょうね。


今までは東京も暖かくて楽でしたが、今日あたりから本格的な冬が到来しそうです。


来年も来日されるようですが、楽しみにしています。


私たちも来年は結婚60年です。私は、87歳(申)、道子は84()になります。


 


 昨日は兼愛塾の忘年会でした。


 とりあえず、全員写真を添付します。


 
 どうぞ拡大してご覧ください。
 ほかの写真は整理出来次第ブログに掲載します。


ウェブニュースより


 女王ザギトワSP2位“紀平質問”に負けん気メラメラ「答えたくない」 ―― 「フィギュアスケート・GPファイナル」(6日、バンクーバー)


 女子ショートプログラム(SP)が行われ、平昌五輪金メダリストのアリーナ・ザキトワ(16)=ロシア=は大きなミスこそなかったものの、得点を伸ばしきれず、今季ベストに届かない77.93点で2位発進となった。日本の紀平梨花(16)=関大KFSC=が、トリプルアクセルを成功させる演技で、世界最高得点の82.51点をマークし、首位に立った。


 


 五輪女王のプライドだった。SP後のプレスカンファレンス。トリプルアクセルを武器に、自身のライバルとして台頭してきた紀平に関する質問を受けたザギトワは「その質問には答えたくない」と話し、負けん気をにじませた。


 全体的に見れば、大きなミスはなかった。得点源である冒頭の3回転ルッツ-3回転ループの連続ジャンプをきめると、すべてのジャンプをきっちりと決め、加点も得た。ただ、五輪の時のような圧倒的な滑りとはいえず、逆に異次元の技術点をマークした紀平に、約4・5点差をつけられた。「緊張していたんだと思う。最高の演技はできなかった」。ロシア杯でマークしたSP世界最高得点も塗り替えられた。「自分の演技に集中していたし、(先に演技した紀平の得点は)聞いてなかった」と話したが、見えない重圧がのしかかったか…。


 


 勝負のフリー。「リンクに出て行って、やるだけ」。五輪女王の意地がさく裂するか。   〔デイリースポーツ 最終更新:12/8() 8:39


 


練馬区に住む塾友のKO氏よりメールが入りました。曰く、


 先生のブログ


 日高先生


 元塾生の O です。


ご無沙汰しております。


先生のブログで芥川龍之介が久保田万太郎のことを書いたものを掲載されていたのを見てお便りしました。


と申しますのも、ちょうど久保田万太郎の「浅草風土記」(中公文庫)を読書中でした。


 この本は、母から聞いた昔の浅草の情景を詳しく記したもので大変興味深いものです。


 久保田万太郎に興味をもったのは永井龍男の「へっぽこ先生、他」(講談社文芸文庫)を読み、氏の江戸っ子らしい人物像について描かれていたからです。


芥川龍之介が久保田万太郎を「江戸っ児はあきらめに住するものなり」を評していましたが、母の口癖、「諦めが肝心」とか「だめものはだめ」と通じるところがあります。


これは粘り強くない東京人の本質のような気がします。


「浅草」とか「江戸っ子」に拘りを感じるようになったのは、私も60歳を過ぎ母川回帰というのか、生まれ故郷である昔の浅草界隈の事物に惹かれているからでしょう。


最近読んだ本で楽しかったものをいくつか紹介して終わりにしたいと思います。


川口松太郎「人情馬鹿物語」(講談社文庫)


池波正太郎「江戸の味を食べたくなって」(新潮文庫)


沢村貞子「私の浅草」(新潮文庫)


三遊亭金馬「江戸前の釣り」(中公文庫)


 比較的暖かい日が続いていますが、ご自愛ください。 奥様にもよろしくお伝えください。


その内またお邪魔したいと思います、お元気で。


 


ウェブニュースより


貴ノ岩が引退決意 暴行騒動発展で涙のけじめ 7日にも発表 ―― 大相撲の東前頭6枚目・貴ノ岩(28=千賀ノ浦部屋)が付け人に暴行をはたらいた責任を取り、引退する意向を固めたことが6日、関係者の話で分かった。7日にも発表する。4日夜に巡業で訪れた福岡県行橋市の宿舎で弟弟子で三段目・貴大将(23)の顔を殴打した。昨年10月末の元横綱・日馬富士による暴力事件の被害者が、自ら付け人を殴る不祥事を起こし、角界を去ることになった。


 


 暴行問題を引き起こした貴ノ岩が、事態を重く受け止めて自らの意思で現役生活に終止符を打つことを決めた。日本相撲協会は6日までに、貴ノ岩と付け人・貴大将らへの聴取を実施。貴ノ岩はスポニチ本紙の取材に対し、「協会の決定した処分には素直に従います」と結果を待つ意向を示していた。ところが、騒動が大きく発展してさらに責任を感じ、複数の関係者に対し涙ながらに引退することを伝えた。


 暴行は4日夜、貴大将が「忘れ物の言い訳をしたから」という理由によるもの。貴ノ岩は「かっとなって殴ってしまった」と、宿泊先ホテルの部屋で、相手の顔面を素手で4、5発殴った。5日朝になり、貴大将は巡業会場の支度部屋に荷物を置いて逃走を図ったが、心配する仲間の連絡で翻意。戻ると騒ぎになっており、春日野巡業部長(元関脇・栃乃和歌)らに聴取を受けて暴行が明るみに出た。


 暫定処置として、貴ノ岩は巡業を途中休場し、部屋で謹慎。6日の午後5時半、都内の自宅にいた貴ノ岩は迎えに来た師匠の千賀ノ浦親方(元小結・隆三杉)の車に乗り込み、千賀ノ浦部屋に向かった。部屋前には約50人の報道陣が待機。車を降りると無数のフラッシュを浴び、硬い表情のまま無言で部屋の奥へと消えた。一方で、千賀ノ浦親方は報道陣の「反省の色はあったか」という問いかけに、「後悔です、後悔」と弟子の胸中を代弁した。


 昨年10月末に起きた元横綱・日馬富士による暴行事件の被害者が貴ノ岩。加害者は責任を取って引退したが、今度は自ら過ちを犯し、同じ道をたどることになった。「自分がやられて悔しかったのに、自らが同じことをしてしまい、言葉がないです。応援してくれたファンや相撲協会を裏切るような形になった」。本紙の取材に猛省する言葉を並べた貴ノ岩。被害者となった事件が発端で協会が10月に「暴力決別宣言」を発表したばかり。その約2カ月後、自ら手を上げた暴力問題だけに、最悪の結末を免れることはできなかった。


◆貴ノ岩 義司(たかのいわ・よしもり=本名アディヤ・バーサンドルジ)1990年2月26日生まれ、モンゴル・ウランバートル出身の28歳。16歳だった06年に鳥取城北高に相撲留学。08年世界ジュニア選手権中量級優勝などの成績を残し、08年に貴乃花部屋に入門。09年初場所で初土俵を踏んだ。12年名古屋場所で新十両に昇進し、貴乃花親方が育てた初の関取となった。14年初場所で新入幕。17年初場所で自身唯一の金星を白鵬から奪った。今年秋場所後に貴乃花親方の日本相撲協会退職に伴い、千賀ノ浦部屋に転籍。殊勲賞1回、敢闘賞1回。最高位は前頭2枚目。得意は右四つ、寄り、投げ。1メートル82150キロ。血液型O。   [Sponichi Annex 2018127 05:33]


 


貴ノ岩から暴行被害の貴大将 母が胸中代弁「望んでいない引退」 ―― 弟弟子で付け人の三段目・貴大将(23)に暴行をはたらいた貴ノ岩(28=千賀ノ浦部屋)の引退の意向を固めた6日、貴大将の母はスポニチ本紙の取材に応じ「(息子は)貴ノ岩関に辞めてほしいわけではない」と複雑な胸の内を代弁していた。元横綱・日馬富士の暴行事件から始まった“負の連鎖”。誰もが望まない最悪の終幕を迎えることになった。


 


 貴ノ岩の決断が明らかになる前、貴大将の母は息子の複雑な心境に思いを重ねながら、重い口を開いた。


 被害届の提出は「全く考えていない」とし、「殴ったのは良くないけど、貴ノ岩関が100%悪いことはない。殴られたのも理由がある。息子にも悪いところがあった」と振り返った。千賀ノ浦親方には迷惑をかけたとの思いから、親として「申し訳ございませんでした」と謝罪した。親方には「彼が悪いわけではないですよ」と言われたという。


 殴られた箇所については「周囲に“感覚がない”と言っていたそうです。私には何も言わず、痛みがあるのかも分からない。心配をかけないようにしているんだと…」。親として何もできない歯がゆさを吐露した。


 母によると、貴大将は「貴ノ岩が引退することは望んでいない。辞めてほしいわけではない」と話していたという。その息子に向けては「こんなことで負けてほしくない。相撲をしていると、やはりケガは当たり前。殴られてのケガはあまり良くないとは思うけど、それを乗り越える力があればいい」と強く願っていた。


 関係者によると、千賀ノ浦親方も貴ノ岩が現役を続行する道を模索していたという。元日馬富士による暴行事件の被害者だった貴ノ岩が加害者になったことでまた生み出された悲劇。周囲の「辞めてほしくない」との願いはもう届かないのだろうか。   [Sponichi Annex 2018127 06:30 ]


 


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目高 拙痴无
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