「七」という字は、切断した骨の形を表したもので、元は「切る」というもとの意味をもつ漢字でした。
そこから音だけ借りて数字の「七」を表しています。これは「仮借(かしゃ)」という漢字のなりたちのひとつです。
その言葉を表す適当な漢字がないとき、意味や内容とは関係なく、同じ音や似た音をもつ字を借りて用います。
結局、「七」という漢字が本来もっていた「切る」という意味より、数字の七を表すほうが一般的になって、転用されてしまいました。
そのため「切る」という漢字を書くときは、「七」にわざわざ「刀」を添えることになったのです。
いにしえより「七」という数は、世界各地で特別な意味をもっていました。
西洋の神がこの世界を創りあげた七日間。
仏教や儒教における大切な七つの教え。
月の運行が七日間ごとに様子を変えることから暦が生まれ、世界には七つの海と大陸があることに気づきます。
日本では子どもが生まれて七日目に「お七夜」を祝い、この世を去れば七日間ごとの法要を経て、四十九日で来世の行き先が決まるといわれています。
七つ道具に七不思議、七賢人に七人の侍。
「七」という数字は人々を夢中にし、力を授け、生きる指針となってきたのです。
ではここで、もう一度「七」という字を感じてみてください。
中国の思想家、荘子の『應帝王第七』に「混沌の死」という寓話があります。
ある日、南と北に住む二人の帝が、「混沌」という名の帝が治める土地で手厚くもてなしを受けます。
「混沌」には、人が持つ七つの穴、両目、両耳、鼻の穴、口がありません。
自分たちはその穴で見たり聴いたり食べたり、息をしている。
そこで二人は試しに毎日ひとつずつ、「混沌」に穴を開けていきます。
ところが、すべての穴が開いた七日目に、「混沌」は死んでしまうのです。
好き嫌いを生じ、善悪や損得などを判断し、情報を得る七つの穴。
んな穴など持たなかった「混沌」は、絶対的な価値観とは無縁な、あるがままの世界で自由に生きていました。
それなのに、穴を通じて外界とつながることで心身を乱し、命を落とすのです。
それはまるで、情報の海におぼれ、自分らしさを見失って苦しむ現代人の姿を彷彿とさせます。
今年こそ、忙しく働こうとする七つの穴をたまにふさいで、内なる想いと向き合うときをもちたいものです。
漢字は、三千年以上前の人々からのメッセージです。
その想いを受けとって、感じてみたら……、ほら、今日一日が違って見えるはずです。
ウェブニュースより
渡辺棋王が決勝へ 千田六段を105手で下す 朝日杯 ―― 第12回朝日杯将棋オープン戦(朝日新聞社主催)の準決勝が16日、東京都千代田区の有楽町朝日ホールで行われ、第6回優勝者の渡辺明棋王(34)が千田翔太六段(24)に105手で勝った。
https://www.youtube.com/watch?v=CBXb20SrYcU
前回優勝の藤井聡太七段(16)は、第1回の優勝者の行方(なめかた)尚史八段(45)と対戦している。勝者が渡辺棋王と決勝戦を戦う。 (朝日新聞DIGITAL 2019年2月16日12時40分)
藤井聡太七段、史上2人目の連覇へ準決勝突破! 午後2時30分から渡辺明棋王と決勝で初対決/将棋・朝日杯 ―― 将棋の藤井聡太七段(16)が2月16日、朝日杯将棋オープン戦準決勝で、行方尚史八段(45)に120手で勝利し、決勝進出を決めた。
https://www.youtube.com/watch?v=-OK-0fg2uX0
同時刻に行われていたもう1つの準決勝で、渡辺明棋王(34)が千田翔太六段(24)に勝利。午後2時30分からの決勝は藤井七段と渡辺棋王という顔合わせになった。2人は公式戦初の対局で、どちらが勝っても羽生善治九段(48)以来2人目となる同棋戦複数回の優勝、藤井七段が勝てば同時に史上2人目の連覇も達成する。
昨年、準決勝で羽生九段(当時竜王)、決勝で広瀬章人竜王(32、当時八段)を続けて破り史上最年少、15歳6ヵ月で一般棋戦初優勝を果たした藤井七段は、今期も初戦で稲葉陽八段(30)、2回戦で糸谷哲郎(30)と、いずれも順位戦A級で活躍する棋士に続けて勝利。準決勝の相手は第1回大会優勝者の行方八段だったが、ここまでの勢いをそのままに快勝で決勝へと駒を進めた。
決勝で対戦する渡辺棋王は、2012年に行われた第6回大会の優勝者。第7、8回大会は準優勝(優勝はいずれも羽生九段)と、3年連続で決勝進出をしたこともある。今年度は順位戦B級1組で11戦全勝しA級昇級決定、さらには7期連続防衛を目指す棋王戦五番勝負、奪取を目指す王将戦七番勝負で、いずれも王手をかけているなど絶好調だ。 (Abema TIMES 2019.02.16 12:55)
連覇の藤井七段、渡辺棋王が嘆くほどの強さ「一方的に」 ―― 成長を続ける高校生棋士が、棋士全員が参加するトーナメントで再び頂点に立った。他の公式戦でも白星を積み重ね、高勝率を維持する藤井聡太七段(16)。大勢の来場者が見守る晴れ舞台で、類いまれな強さを印象づけた。
東京都千代田区で行われた第12回朝日杯将棋オープン戦の準決勝と決勝。藤井七段は準決勝で、名人戦の挑戦者になった経験もある行方(なめかた)尚史八段(45)に勝利。決勝では、公式戦初対戦となる渡辺明棋王(34)と激突した。
渡辺棋王は今年度、15連勝を記録。今年に入ってからは王将戦、棋王戦と二つのタイトル戦で5連勝している。絶好調のタイトル保持者と、2連覇を狙う高校生棋士の対戦。午後2時30分、会場のファンが熱い視線を送る中、大一番が始まった。
先手番を握った渡辺棋王が選んだ戦法は「雁木(がんぎ)」。盤面中央で細かな折衝が続く展開になった。中盤、相手の隙をついた藤井七段がペースをつかみ、2時間22分の戦いの末に勝ちきった。対局後、渡辺棋王が「一方的な将棋になってしまった」と嘆くほどの快勝だった。
https://www.youtube.com/watch?v=nDvfvv0JZPM
藤井七段は前回、1次予選から10連勝で初優勝。シードされた今回は本戦から登場した。1月に名古屋市で行われた1、2回戦では、名人挑戦権を争うA級順位戦に所属する稲葉陽(あきら)八段(30)、糸谷(いとだに)哲郎八段(30)に連勝した。準決勝・決勝の解説を務めた佐藤天彦名人(31)は「持ち時間が少ない対局でも、藤井七段はミスが少ない。実力は既にトップクラスで、いつタイトル戦に出てきてもおかしくない」と話す。
藤井七段は昨年10月、若手棋士の登竜門の新人王戦で初優勝。今年度の成績は、これで40勝7敗になった。勝率は8割5分1厘で、2年連続の1位を視野に入れている。中原誠十六世名人(71)が1967年度に記録した歴代最高勝率(8割5分5厘)を上回る可能性もある。 (朝日新聞DIGITAL 2019年2月16日19時53分)
ウェブニュースより
一時は絶体絶命も…藤井七段 逆転!王将戦今期初戦飾った ――将棋の最年少プロ棋士・藤井聡太七段(16)が12日、大阪市の関西将棋会館で指された第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の1次予選2回戦で池永天志四段(25)に153手で薄氷の勝利を収め、今期初戦を飾った。
一時は絶体絶命の状況まで追い込まれたが、池永の「持ち駒を勘違いした」というミスに乗じて「詰まされたらしょうがない」という怒とうの攻めで反撃。最後は1分将棋にもつれ込みながら逆転した。
https://www.youtube.com/watch?v=1qk4J7g5RjQ
今年度の勝率はこれで0.8444(38勝7敗)。中原誠16世名人が1967年度に記録した歴代1位の0.8545(47勝8敗)を51年ぶりに更新できるかに注目が集まるが、もう1敗もできない戦いは今後も続く。次局は連覇がかかる16日の朝日杯将棋オープン戦の準決勝、決勝。 [Sponichi Annex 2019年2月13日 05:30 ]
ウェブニュースより
作家堺屋太一さん死去、83歳 「団塊の世代」生みの親 ―― 戦後生まれを描き、流行語にもなった代表作「団塊の世代」で知られる作家で経済評論家の堺屋太一(さかいや・たいち、本名池口小太郎〈いけぐち・こたろう〉)さんが、8日死去した。83歳だった。
1935年、大阪市生まれ。60年に通商産業省(現経済産業省)に入省。日本での国際博覧会(万博)開催を提案・企画し、70年の大阪万博(日本万国博覧会)を来場者6422万人という成功に導いた。
時代の節目を鋭く切り取ることばで注目された。76年の「団塊の世代」は47~49年生まれのベビーブーム世代を主人公とした小説。2000年以降の少子高齢化社会を言い当てる警句だった。 (朝日新聞DIGITAL 2019年2月10日13時20分)
宇野昌磨が初優勝、フリーで世界最高 四大陸選手権 ―― フィギュアスケートの欧州以外の国・地域で争う四大陸選手権第3日が9日(日本時間10日)、米カリフォルニア州アナハイムのホンダセンターで男子フリーがあり、平昌(ピョンチャン)五輪銀メダルでショートプログラム(SP)4位の宇野昌磨(トヨタ自動車)が逆転で初優勝を果たした。4回転フリップなど3本の4回転ジャンプを着氷し、ルール改正後に羽生結弦(ANA)が出した190.43点を上回る世界最高の197.36点をマーク。合計289.12点も自己最高得点を更新した。主要国際大会で6戦連続2位だったが、頂点に立った。
宇野は「自分はできるんだと、何も考えずに滑った。諦めないのは大事だなと思った」と語った。
7位の田中刑事(倉敷芸術科学大大学院)は2本の4回転サルコーを着氷し、167.61点。合計251.54点で総合7位。SP12位の友野一希(同大)は4回転サルコーの失敗が響き、132.25点。合計206.41点で12位だった。
(朝日新聞デジタル 2/10 15:56)
ウェブニュースより
逆転の紀平!!ガッツ初V 試練乗り越え国際大会無傷の5戦5勝 ―― ショートプログラム(SP)5位の紀平梨花(16=関大KFSC)がフリーで153.14点を出し、合計221.99点で初優勝した。大会前の練習で転倒し「左手薬指第2関節の亜脱臼」を負いながら、代名詞のトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を1本決めて高得点を叩き出した。首位との5.06点差をひっくり返し、2位に14.53点差をつけるぶっちぎりV。今季の国際大会は5戦5勝で、そのうち3回が逆転になった。男子フリーは9日(日本時間10日正午から)に行われる。
紀平がまた衝撃的な勝ち方をした。故障を抱えながら、完璧な演技で逆転V。プログラム「ビューティフル・ストーム」のフィニッシュの後、氷に膝をついたまま両手でガッツポーズ、そして、右拳を突き上げた。
「絶対にミスが許されないと思っていたので。全部(ジャンプで)立ったので、全部立ったんだと思い出して、素直に喜べました」。SPで代名詞のトリプルアクセルの失敗が響き5位と出遅れた。5日の練習中にジャンプで転倒し、左手薬指第2関節を亜脱臼。テーピングで固定したために、「指を伸ばしていることで空気抵抗が大きくなって」、跳ぶ感覚が狂った。
フリーは「もっと速く」と回転を意識した。最初に前日に失敗した大技に挑み、成功。加点も多く引き出した。通常なら次はトリプルアクセルからの連続3回転だが、ダブルアクセルに落とした。
「トリプル2本は難しいと感じた。無理をすることなく、安全に成績が残せるように、1本にしようと」
冷静な判断でリズムに乗り、ノーミス。演技構成を落としながら7本全てのジャンプでプラスの評価を得て、自己記録にあと1.58点に迫る153.14点を叩きだした。
1月16日から27日まで、米国コロラド州で強化合宿を張った。シーズン中初の試みは、分刻みのスケジュールで動くスケート漬けの日々。栄養にもこだわり、毎日、無農薬野菜のサラダを食べた。ジャンプも跳んだ。3月の世界選手権(さいたま市)まで使う予定だった新しいスケート靴を履きつぶすほど、跳んだ。トリプルアクセルを踏み切る側の左足だけが傷んだ。
帰国後、「3日間、足が動かなかった」という猛練習が、今大会のアクシデントを乗り切る原動力になった。
「アメリカの合宿の成果が結果に表れたと思う。頑張ったという自信があったのが良かったと思います」
浜田美栄コーチ(59)は「いや、まだまだかな。このこと(故障など)を次の勉強にしないと」と手厳しいものの、頂点に立ったことには変わりない。国際試合の無敗を継続し、ドラマチックな逆転劇も定着してきた。世界選手権(3月20日開幕、さいたまスーパーアリーナ)も日本のエースとして臨む。まだシニア1年目の16歳。シンデレラストーリーに終わりが見えない。
《浜田コーチの“魔法の言葉”》 この日の朝には、浜田コーチは紀平に児童文学「オズの魔法使い」の話をしたという。「ライオンが勇気をもらいに行きますよね。勇気をもらうためにこれ(試合に)に出て行くんだねって」。故障をはね返しての逆転Vは、財産になると感じている。演技後は「ライオンになれたね」とねぎらった。平昌五輪4位の宮原ら数々の教え子を励ましてきた“言葉の魔術師”らしく、巧みに気持ちを乗せた。
▽四大陸選手権 欧州をのぞく国と地域で争う大会。大会名はアジア、アメリカ、オセアニア、アフリカの大陸を指す。1998―99年シーズンから毎年開催。米国では7年ぶり5度目の開催。 [スポニチアネックス 2019年2月10日 05:30 ]
■昭和9年の「葉」や10年の「ダス・ゲマイネ」、11年の「虚構の春」、12年の「二十世紀旗手」などの小説中には、作品の要素として太宰自身の俳句が挿入され、また芭蕉や其角、子規らの句が散りばめられています。それは、彼の文体にも影響を及ぼします。そもそも太宰は、芥川の影響を強く受け、理知的・技巧的な文学、ダンディズムの文学、純粋芸術至上主義の文学を目ざし、新しい文学を求めたのです。新しい文体や複雑な形式を模索し、青春の感傷と情熱を注ぎ、読点を多用し、助詞を省略した文体を生みだしていきます。このころの太宰の句に、
外はみぞれ、何を笑ふやレニン像
歯こぼれし口の寂〈さぶ〉さや三日月
ソロモンの夢が破れて一匹の蟻。
など、左翼運動にのめり込みながらも満たされない悲哀や芥川賞を受賞できない焦燥感が漂っています。
■しかし、太宰のその難解な方法は理解されず、昭和11年10月、“結核療養”とだまされて精神病棟に入院させられるなど半狂人扱いされ、また入院中に初代と上京していた親戚の画学生小館善四郎の過ちを知ってショックを受け、昭和12年3月、初代とカルモチン自殺未遂をおこし、結局初代と離別します。そのようなどん底の状況の下で、昭和13年9月13日、井伏鱒二は、1年近く下宿生活をしながら筆を断っていた太宰を、山梨県御坂峠の天下茶屋に呼び寄せ、精神の安定と生活の再生を図ろうとしたのです。
春服の色教へてよ揚雲雀 太宰 治
は、昭和14年12月15日に、友人の高田英之助に結婚を祝して送った書簡にある句で、前書きに「奥さまには くれぐれもよろしく。」とあります。友人の高田を揚雲雀に見立て、〈結婚したばかりの奥さんは、春の幸せなどんな装いをしているのでしょうか〉と呼びかけているようです。高田夫妻は、婚約からすんなりと結婚できたわけではなかったのです。新婦の思いがいくばくであったかと思いやる太宰の優しさがあらわれた、太宰にはめずらしく明るい佳句です。このとき、井伏の媒酌で斎藤須美子と結婚した高田の似顔絵が残されています。井伏が色紙に描いたもので、その絵の横には、「ほんものはもつとわかくていい男」の太宰の賛も添えられています。
■太宰は、この年の1月8日に井伏鱒二夫妻の媒酌で結婚をし、9月に甲府から三鷹に転居したところでした。妻となった石原美知子を紹介したのが、高田英之助です。彼は、井伏の郷里・広島県福山の後輩で、慶應大学の国文科を出て、東京日日新聞(現・毎日新聞)甲府支局に勤務していました。若きころ、太宰、伊馬春部とともに作家を目指す“井伏門下の三羽ガラス”といわれた人です。井伏から「太宰の妻に誰かよい人はいないだろうか」と高田に話があり、フィアンセの須美子の女学校時代の後輩・美知子はどうか、ということになったのです。実は、その直前にも、太宰には縁談話がありましたが、太宰の風評がよろしくなく、先方から断られていたのでした。
■昭和13年のこの太宰と美知子の縁談は、小説「富嶽百景」にあるとおりです。「このうへは、縁談ことわられても仕方がない、と覚悟を決め、とにかく先方へ、事の次第を洗ひざらひ言つて見よう」と破れかぶれの太宰に対し、太宰の過去に目を瞑り、「ことごとしい式などは、かへつて当惑するやうなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する誠意さへ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」と美知子の母親。「この母に、孝行しようと思つた」太宰は、井伏に“生活の立て直し”を誓約します。
■この時期は、太宰にとって最も安定的な至福の時期でした。小説の構成や文体に大きな変化がみられ、平明で自然な落ち着いた文体となりました。“惑乱から安定へ”“絶望から希望へ”と変化したのです。「富嶽百景」「女生徒」「駈込み訴へ」「走れメロス」などの傑作が陸続と発表されます。やがて、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」へと日本文学史を代表する作品が生み出され、文壇の寵児への道を歩みはじめることになるのです。
春服の色教へてよ揚雲雀 太宰 治
■「太宰治と俳句」というと、エーッ? と思われるかもしれません。確かに、「太宰治全集(全13巻)」の第11巻「俳句」の項には、「旅人」と題した連句の発句を含めて太宰の句は16句しか掲出されていませんし、太宰の作と認められるのは33句ほどでしょうか。しかし、太宰の文体と俳句は密接な関係にあるのです。
■昭和2年に芥川龍之介が青酸カリを服毒して自殺した時、太宰は弘前高等学校の1年生で、いわゆる芥川の辞世の句「水洟や鼻の先だけ暮れのこる」を、ノートのあちこちに書き連ねています。太宰は芥川に心酔し、芥川を芸術至上主義の理想としていたのです。当時の太宰には、顎の下に手を添えた芥川と同じポーズをとった写真が多数見られますし、芥川になぞらえて、“芹川麟一郎”や“小川麟一郎”の筆名も考えていたようです。
■太宰は、やがて学業を放棄して、義太夫を習い、花柳界に出入りし、青森の料亭で15歳の芸妓紅子・小山(おやま)初代と知り合います。
■このころの太宰の俳句に、
大川端道化に窶〈やつ〉れ幇間の
幇間の道化窶れやみづつぱな
などがあります。これらは“衆二”の名で蔵書の表紙裏などに記されていたもので、中学から『蜃気楼』『細胞文芸』では、主に“辻島衆二”の名義を使っていました。その後は、『弘高新聞』や『猟騎兵』『座標』等に、“大藤熊太”や“小菅銀吉”の名義で左翼傾向の作品を書いています。
■ちなみに、“太宰治”の筆名の由来には、「高校の同級生太宰友次郎説」「ダダイズム説」「ダァ・ザイン(da sein =そこに存在すること)説」「堕罪説」など諸説がありますが、「友人と考えた」としか本人は語っていません。
■明治42年6月19日、津軽の大地主で、のちに貴族院議員となる父津島源右衛門、母タ子(たね)の第10子・六男として、太宰は青森県北津軽郡金木村に生まれました。長兄総一郎・次兄勤三郎の二人が夭折し、弟も早く亡くなり、芥川の境遇に似て、叔母のキヱ(きゑ)を実母のごとくにして育てられ、早熟で異常に感受性の強い子供でした。16歳のころから、同人雑誌に小説やエッセイを書きはじめています。太宰が14歳の時、父の源右衛門が病没し、三男の文治が家督を継ぎます。
■昭和4年12月、カルモチンを服用して、太宰は最初の自殺未遂を起こします。自分の出身階級に悩んでのことといわれていますが、太宰自身は、“微笑するだけ”で答えていません。翌年の4月、21歳で東京大学フランス文学科に入学、かねてから尊敬していた「山椒魚」の作者井伏鱒二に弟子入りします。青森から初代を呼び寄せ、同棲。11月24日に兄文治が小山家と結納を交わしますが、翌日、銀座のカフェの女給田部あつみ(シメ子・19歳)と出会い、3日間を共に過ごした後、神奈川県の小動崎(こゆるがさき)の岩の上で心中を図ります。シメ子は死亡、太宰は一命を取り留め、翌12月、青森で初代と仮祝言をあげます。
■しだいに左翼運動に傾倒し、昭和10年、太宰は授業料未納により大学を除籍、都新聞社の入社試験にも失敗し、3月16日、鎌倉八幡宮の山中で縊死を企てますが未遂におわります。その直後、盲腸炎から腹膜炎を併発し、入院先で鎮痛のために使用した麻酔剤(パビナール)をきっかけにして、薬物の中毒地獄に陥ります。
■太宰の自伝的な作品「東京八景」に昭和7年「朱鱗堂と号して俳句に凝つたりしてゐた」とあり、また、同年8月12日の沼津から青森の親戚・小館善四郎に宛てた書簡に、「一昨晩近所の俳句好きの青年たちと俳句に就いて語り合ひました」とあります。相当に俳句に入れ込んでいたことがわかります。
このころの太宰の句に、
旅人よゆくて野ざらし知らやいさ
今朝は初雪あゝ誰もゐないのだ
亀の子われに問へ春近きや
老ひそめし身の紅かねや今朝の寒
などがあり、孤独感が漂う、破調の句が目立ちます。
ウェブニュースより
藤井七段、連勝新記録ならず=昇級も持ち越し-将棋・順位戦 ―― 将棋の最年少棋士、藤井聡太七段(16)が5日、大阪市で指された第77期名人戦・順位戦C級1組の対局で近藤誠也五段(22)に負け、今期8勝1敗とした。藤井七段はデビュー以来、順位戦で勝ち続けていたが、連勝記録は1月に中原誠十六世名人(71)と並んだ史上最長タイの18連勝で止まった。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9r4OO4fHVs
師匠の杉本昌隆七段(50)も同日、同組で船江恒平六段(31)と対局して負け、8勝1敗とした。この日、師弟共に勝てばそろってB級2組への昇級が決まったが、これで4人が8勝1敗で並び、昇級者決定は3月5日の最終戦に持ち越しとなった。
https://www.youtube.com/watch?v=cfwgf5xUco4
藤井七段は「昇級は他力の状況になってしまったが、最後の1戦に全力を尽くしたい」と話した。 (時事通信社 2019年02月05日23時59分
昨日は節分、グレゴリオ暦での最初の節分となった1873年から22世紀初頭までの具体的な日付は表のようになります(重複している年はどちらの欄を使っても正しい日付が出ます)。節分の日付は数十年のスケールで徐々に前倒しになってきますが、4で割り切れても閏年とならない1900年、2100年、2200年……の翌年に1日遅れて帳消しとなるようです。
江戸時代以降からは「節分」といえば立春(毎年2月4日ごろ)の前日を指す場合が多く、これは旧暦の新年の始まりに相当する「立春」の前日にあたる節分がもっとも重要視されたためだと考えられています。
1984年までは、4年に1度の閏年は2月4日が節分でしたが、2025年から(2021年からになる可能性あり)は閏年の翌年に2月2日が節分になります。
立春は太陽黄経が315度となる日てす。したがって、天体の運行に基づいているので、日付は年によって異なり、また未来の日付は軌道計算に基づく予測しかできないようです。
因みに、私は1932(昭和7)年2月4日の生まれです。1932年2月4日は節分だったので、節夫なんて名前を付けられました。お袋は、學校へ行くようになったら皆から「セッチン」なんて呼ばれるから可哀想だと反対したそうですが、全くその通りになりました。
節分に豆をまく「豆まき」の行事は、「追俄(ついな)」と呼び、中国から伝わっ た風習です。魔(マ)を滅(メっ)するから、マメを撒くのだといいます。
「追俄(ついな)」の行事は、俗に「鬼やらい」「なやらい」「鬼走り」「厄払い」「厄おとし」「厄神送り」と呼ばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う儀式で、日本では文武天皇の慶雲3年 (706) に宮中で初めて行われたといわれています。
豆は「煎った大豆」でなければなりません。生の豆は、そこから芽が出てきます。「魔」から目が出てくるということで、大変、縁起が悪いとされています。
鰯(いわし)の頭を、柊(ひいらぎ)の小枝に刺して戸口に挿す風習いわゆる「柊いわし」は、近世以降行われるようになったものです。西日本では、節分に鰯を食べる習慣があるようです。
鰯を焼くと出る激しい煙と臭いで邪気を追い払い、そして柊の針で鬼の眼を刺すという魔よけの意味があります。主に西日本では鰯を食べる習慣がありますが、これは節分いわしに由来しています。
節分に「恵方巻」を食べる風習は、福を巻き込むという意味と、縁を切らないという意味が込められ、恵方(えほう)に向かつて巻寿司を丸かぶりします。
願い事をしながら恵方巻を食べる場合には、恵方巻を食べている間は願い事がかなうように祈り続けるために恵方巻を食べている間はしゃべってはいけない事になっているようです。主に大阪の船場で行われていた風習のようですが、大阪海苔問屋協同組合が道頓堀で行っ た「巻き寿司のまるかぶり」のPRイベントがマスコミに取り上げられて関西地方に広まり、のちにコンビニ等でも販売され全国ヘ広まっていきました。
恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされています。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれておりました。
「恵方巻」の認知度も年々上がってきており、いまやほとんどの人が知っており、「豆まき」よりも「恵方巻を食べる」ほうが、上回っています。
いまや、「恵方巻」市場は150億円を超える市場になっており、スーパーやコンビニエンスストアでも無視できない商品になっているようです。
「恵方巻」は、ネーミングの多様化、高級ネタ化、スリム化、キャラクター使用そして、変わり種として「恵方ロールケーキ」「恵方ロールサンド」「恵方飲み(日本酒)」など更に、ヒートアップしそうである。
恵方巻を食べる時に向く方角は、その年の福徳を司っている歳徳神(としとくじん)という神様がいる方向に向かって行います。この歳徳神が居る方向は、基本的には、4つの方角になるようです。
ウェブニュースより
サッカー、日本は5度目Vならず カタールに1―3で敗れる ―― 【アブダビ共同】サッカーのアジア・カップ最終日は1日、アラブ首長国連邦(UAE)のアブダビで決勝が行われ、日本がカタールに1―3で敗れ、2大会ぶり5度目の優勝はならなかった。自国開催する2022年のワールドカップ(W杯)に向け強化を図るカタールは初の決勝進出でアジア制覇を果たした。
国際サッカー連盟(FIFA)ランキング50位の日本は同93位のカタールに前半、2点を先行された。後半に南野(ザルツブルク)のゴールで1点を返したが、PKで追加点を許した。16強入りした昨年のW杯ロシア大会後に就任した森保監督は12戦目で初黒星を喫した。 (東京新聞 2019年2月2日 01時12分)
「日本は攻撃の道筋を見失なった」AFC公式が歴史的結末となったアジアカップ決勝を詳報! ―― 「カタールにとっては記録づくめの歴史的な夜」 現地時間2月1日、UAE・アブダビで行なわれたアジアカップ2019決勝。日本代表がカタール代表と雌雄を決した頂上決戦は、1-3の完敗に終わった。
立ち上がりから緩やかにボール支配を高めた森保ジャパンだったが、縦へのクサビのパスがなかなか入らず、攻撃に閉塞感が生まれる。すると12分、カウンターからアルモエズ・アリに鮮やかなバイシクルをねじ込まれて被弾。さらに27分にはアブデルアジズ・ハティムに強力な左足ミドルを決められ、まさかの2点リードを奪われてしまう。
パススピードを速めて敵を左右に揺さぶり、FKやCKからも好機を探った日本だが、決定的なチャンスを掴むには至らない。フラストレーションが募る形でハーフタイムを迎えた。
後半は運動量が落ちた相手に対して、ボール支配をグッと高め、日本はさらに攻勢を強めた。そしてようやく69分に南野拓実のゴールで1点を返し、そこから一気に畳みかけたかったが……。83分にVARから吉田麻也のハンドでPKを献上し、スコアを1-3とされて万事休す。2大会ぶりのアジア制覇は露と消えた。
カタールが凱歌を上げた一戦を速報でレポートしたのが、AFC(アジア・サッカー連盟)の公式サイトだ。「カタールが歴史的なタイトルをもぎ獲る」と題して、マッチレポートを掲載。要約してお伝えしよう。
「カタールにとってはまさに記録づくめの夜となった。初のファイナルは、アリの大会新記録となる9得点目で幕を開け、ハティムのセンセーショナルなゴールでリードを広げた。ミナミノのゴールで1点差に詰められてしまうが、チーム一丸となって敵に傾きつつあった流れを食い止め、PKでふたたび2点差としたのだ。歴史的な勝利に歓喜が弾けた!」
一方で日本代表については、「いつも通りの分厚い攻撃を仕掛けたものの、カタールが築いた5バックの人垣を打破できなかった」と指摘し、「相手守備陣が隙を与えてくれず、数多のコーナーキックでチャンスを掴んだもののひとつもゴールに結びつけられなかった。日本の攻撃は、どこか道筋を見失なっていたようだ」と評している。
無念にも準優勝で大会を終えた森保ジャパン。この敗北を糧とし、いかに強化を進めていくのか。3月下旬の国際Aマッチウイークではコロンビア、ボリビアの南米勢を迎え、6月のコパ・アメリカに備える。 (サッカーダイジェストWeb編集部 2019年02月02日)
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