ウェブニュースより
八千草薫さん死去 「岸辺のアルバム」 ―― かれんで上品な雰囲気で親しまれ、テレビドラマ「岸辺のアルバム」をはじめ映画、舞台と幅広く活躍した俳優の八千草薫(やちぐさ・かおる、本名谷口瞳=たにぐち・ひとみ)さんが二十四日午前七時四十五分、膵臓(すいぞう)がんのため東京都内の病院で死去した。八十八歳。大阪市出身。葬儀・告別式は近親者で行った。今年二月にがんを公表、治療に専念していた。
一九四七年に宝塚歌劇団に入団。「春の踊り」で初舞台を踏み、清純派の娘役として活躍した。
五一年に「宝塚夫人」で映画デビュー。米アカデミー賞外国語映画賞を受賞した五四年の「宮本武蔵」でお通を演じて人気を集めた。その後も日伊合作「蝶々夫人」や「雪国」「男はつらいよ 寅次郎夢枕」「ディア・ドクター」など多数の映画に出演した。
テレビドラマでは、穏やかで従順な役や「俺たちの旅」などで演じた“理想の母親”の印象が強かったが、七七年の「岸辺のアルバム」で不倫をする妻役で話題に。七九~八〇年放送の「阿修羅のごとく」では夫の浮気に悩む妻を演じた。舞台は「二十四の瞳」「早春スケッチブック」「階段の上の暗闇」「黄昏」など。
晩年も意欲的で優しいおばあさん役などを演じ、二〇一五年に映画「ゆずり葉の頃」に主演。一七年には倉本聡さん脚本の連続ドラマ「やすらぎの郷」で戦前からの大スター役を好演した。
五七年に映画監督の故谷口千吉さんと結婚。九七年に紫綬褒章、〇三年に旭日小綬章。他に菊田一夫演劇賞、山路ふみ子映画功労賞など。
◆「憧れの人」山田洋次監督
二十八日に始まった第三十二回東京国際映画祭で、開幕作品「男はつらいよ お帰り 寅さん」の上映前、登壇した山田洋次監督が八千草さんの訃報に触れ、「僕たちの世代の日本人にとっては若い時からの憧れの人でした」と悼んだ。
同作には過去作の映像が編集されて入っており、シリーズ第十作にヒロイン役で登場した八千草さんも映っているという。山田監督は「今から四十七年前のとっても美しいクローズアップが入っていますから期待してください。そのクローズアップを通して八千草さんにお別れを言ってください」と観客に呼び掛けた。
<評伝>穏やかな役柄 幅広く活躍
清楚(せいそ)、可憐(かれん)-。二十四日に八十八歳で死去した八千草薫さんはこんなイメージがぴったりくる名優だった。おしとやかな役や優しい母親を演じさせたら、他の追随を許さなかった。
一九四七年、「世の中が灰色なので、夢のような世界に生きたい」と宝塚歌劇団に入り、お姫さま役などで人気を得た。在団中の五一年、映画デビュー。五七年に退団後は映画や舞台、テレビドラマで活躍した。
一方で、イメージと異なる作品でも力量を発揮。「女優人生の転機になった作品」として、映画「宮本武蔵」(五四年)、日本・イタリア合作映画「蝶々夫人」(五五年)に加え、ドラマ「岸辺のアルバム」(七七年)を挙げた。ドラマ史に残る名作を「女をあれだけ書き込んだ作品は、後にも先にもなかったような気がする」と回顧した。
九七年に紫綬褒章を受章した際、「女優に向いていないと思っていた。でも、自分と違った人間を演じることで新しい発見があった」と柔らかい言葉の中に強い意志を感じさせた。
晩年まで活躍し、二〇一七年には倉本聡さん脚本の連続ドラマ「やすらぎの郷(さと)」で好演。現在放送中の続編にも出演が決まり意欲を示していたが、病気のため降板となった。
七十二年の俳優人生。「演技にも人間性は出る。だから私生活でもきちんとしていたいと思っています」。保ち続けたみずみずしさは、内面からにじみ出たものだった。 (東京新聞 2019年10月29日)
緒方貞子さん死去 92歳 元国連難民高等弁務官 ―― 国連難民高等弁務官として難民支援に貢献した国際協力機構(JICA)元理事長の緒方貞子(おがたさだこ)さんが二十二日に死去したことが二十九日、分かった。九十二歳だった。関係者が明らかにした。
聖心女子大卒業後、米カリフォルニア大学で政治学の博士号を取得。国際基督教大学准教授から一九七六年に国連公使に起用された。その後、国連人権委員会の日本政府代表などを務め、九一年一月に国連難民高等弁務官に就任。
二〇〇〇年末まで約十年間の任期中に、イラク・クルド、ルワンダ難民支援などに取り組むほか、高等弁務官事務所の財政立て直しなどに取り組んだ。
退任後、アフガニスタン復興支援政府代表を務めた。〇三年には、新たに発足した国際協力機構の初代理事長に就任。約八年半の在任中、現場重視の立場から、四十カ国以上に自ら出張し、職員も積極的に派遣した。アフガンや南スーダンなど途上国支援に尽力した。理事長を退いてからは、特別顧問。
二〇年東京五輪・パラリンピックの成功に向け、組織委員会の理事会へ助言役を担う顧問会議にも名を連ねた。
〇三年に文化勲章を受章した。 (東京新聞 2019年10月29日 夕刊)
藤井七段、最年少挑戦なるか 将棋・王将リーグ、暫定首位に ―― 将棋の第69期王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の挑戦者決定リーグ戦(王将リーグ)で、高校生棋士の藤井聡太七段(17)がリーグ成績3勝1敗で暫定首位に立った。厳しいとみられていた最年少でのタイトル挑戦への期待が高まっている。
■羽生九段に快勝、全勝者はなし
王将リーグの一局が行われた21日、東京都渋谷区の将棋会館に多くの報道陣が詰めかけた。まだ挑戦者が決まらないリーグ中盤戦では異例のことだった。
対局者は藤井と羽生善治九段(49)。2人の公式戦での対戦は2度目だ。藤井が五段だった2018年2月に第11回朝日杯将棋オープン戦の準決勝で当時竜王の羽生を破り、決勝も制して初優勝を遂げている。
王将リーグは7人総当たりで渡辺明王将(35)への挑戦権を争う。藤井の他には前王将の久保利明九段(44)をはじめ、羽生、豊島将之名人(29)、広瀬章人竜王(32)、三浦弘行九段(45)、糸谷哲郎八段(31)とタイトル経験者ばかりが出場。リーグ初参戦の藤井は、豊島には敗れたものの三浦、糸谷に勝っており、これが4戦目。羽生は久保、豊島に連勝しての3戦目だった。
朝日杯は持ち時間が各40分だったが、今回は持ち時間が各4時間の長丁場だ。羽生の先手で午前10時に始まった対局は相懸かりの戦型に進み、戦いが始まったあたりから藤井がリード。最後は藤井が突き放して、午後7時15分、82手で快勝した。いいところなく敗れた羽生は「非常に力強く指されて、一手一手にすごく読みが入っているなという印象を受けた」と脱帽した様子だった。
挑戦権争いで暫定首位に立った藤井は「ここまで3勝1敗といいペースなので、残り2局も全力を尽くして挑戦をめざしたい」。連勝が止まった羽生は「まだリーグは続いていくので残りの対局も全力を尽くしていきたい」と話した。
https://www.youtube.com/watch?v=pMnDZEx_RaY
2勝1敗の広瀬と羽生が藤井を追う展開だが、11月1日に広瀬―羽生戦があり、勝者が藤井に並ぶ。リーグ最終戦の3局は11月19日に一斉に行われる。同星首位が複数出れば順位上位2人のプレーオフとなるため、上位者は2敗でも可能性があるが、下位の羽生、藤井は厳しくなる。
■記録更新「ほぼラストチャンス」
王将戦七番勝負は例年、1月中旬に始まる。仮に藤井が挑戦権を獲得すればタイトル戦開幕時点で17歳5カ月となり、屋敷伸之九段(47)が持つ17歳10カ月の最年少タイトル挑戦記録を抜くことになる。
これまでは、「いつタイトル戦に出てもおかしくない」と言われながら、高い壁に阻まれてきた。昨年の第66期王座戦では、挑戦者決定トーナメントでベスト4にまで勝ち上がりながら、準決勝で斎藤慎太郎七段(26)に敗れた。
来年7月に18歳の誕生日を迎えるため、屋敷九段の記録を抜くには5月までに開幕するタイトル戦の挑戦者になる必要がある。王将戦の開幕後に始まる棋王戦や叡王戦ではすでに敗退している。今回は記録更新のほぼラストチャンスが巡ってきたと言っていい。
一方、羽生は19歳で初タイトルを取ってから、これまでタイトルを通算99期獲得し、節目の100期まであと1期と迫っている。しかし2018年末の竜王防衛戦に失敗して27年ぶりに無冠になると、その後はまる1年、挑戦者になることができず、タイトル戦から遠ざかっている。今夏の王位戦では挑戦者決定戦で木村一基王位(46)に敗れ、挑戦権を逃した。
どちらがこのチャンスをものにするか、また他の棋士がこれを阻止するのか。リーグ終盤戦から目が離せない。 (朝日新聞DIGITAL 2019年10月28日16時30分)
藤井七段、西川六段に勝利 「王位リーグ目指したい」 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(17)が28日、大阪市福島区の関西将棋会館で指された第61期王位戦(新聞三社連合主催)の予選で、西川和宏六段(33)に118手で勝ち、挑戦者を決めるリーグ戦(通称「王位リーグ」)入りまで、あと2勝と迫った。
午前10時に始まり、午後7時39分に終局した。
https://www.youtube.com/watch?v=Jx_WxVw-ldM
勝った藤井七段は「序盤でいくつかミスがあって、玉型にも差がある形で戦いが起こってしまったので、苦しい時間が長かったのかな、と思います。結果的には玉頭で勝負したのが良かったかな、と。王位戦では、まだリーグ入りしたことが無いので、そこを目指して頑張っていきたいと思います」などと話した。
敗れた西川六段は「中央で動けたあたり、振り飛車らしい指し方で、まずまずかな、と思っていたんですが、その後、具体的にどう指したら良いか、分からなくて。(2年ぶり2度目の藤井戦だったが)前回は私がふがいなくて、勝負にならない形だった。今回は終盤、競り合いの勝負になるように心がけていたんですけど、(本局は)競り合いにはすることは出来たんですが、結果を出せなくて残念です」などと話した。
藤井七段の次の対局は11月5日。第78期名人戦・C級1組順位戦(朝日新聞社、毎日新聞社主催)の6回戦で青嶋未来五段(24)と対戦する。
(朝日新聞DIGITAL 2019年10月28日21時58分)
・稲(いね)科。イネ科の多年草。山野に群生する。高さ約1.5メートル。茎の頂につける花穂は「尾花」と呼ばれ、秋の七草のひとつです。カヤ。
「スス」は「ササ(笹)」に通じ、「細い」意味の「ささ(細小)」もしくは「ササ(笹)」の変形です。「キ」は「木」「茎」「草」など「K」の音に通じ、この場合は「草」か「茎」の意味でしょう。ススキの「スス」には、すくすく(直々)と生い立つ意味など他にも多くの説がありますが、「ササ(笹)」「ささ(細小)」より有力な説はありません。
カヤと呼ばれるのは、細長い葉と茎を地上から立てる一部の有用草本植物で、代表種にチガヤ、スゲ、ススキがあります。語源には諸説あり、屋根を葺くことから刈屋あるいは上屋、あるいは朝鮮語起源ともいわれます。「茅」は元来はカヤの1種のチガヤの意味で、カヤ全体の意味に広がったものです。「萱」とも書きますが、この字の本来の意味は「ワスレグサ」であり、「かや」と訓ずるのは国訓です。
・学名 Miscanthus sinensis(ススキ)
Miscanthus : ススキ属 sinensis : 中国の
Miscanthus(ミスカンサス)はギリシャ語の「mischos(小花の柄)+ anthos(花)」が語源。
・秋の月見のおそなえとして欠かせないものです。
【中秋の名月】(十五夜)には収穫物と一緒に供えられますが、収穫物を悪霊から守り、翌年の豊作を祈願する意味があります。
・屋根材のほかにも、炭俵用、家畜の飼料用などとしてもよく利用されます。
・箱根の仙石原や、奈良の若草山で行われる「山焼き」は、ススキを野焼きすることです。
春先に行います。この野焼きをしないと、ススキの草原には次第に樹木が侵入し、ススキの原として維持することができなくなるので、一年に一度全部焼き払ってススキ草原を残すようにしているのです。
・「常磐(ときわ)すすき」という種類は「すすき」に比べて開花が早いため、真夏の頃から穂を楽しめる。
・「茅の輪くぐり」とは、参道の鳥居などの結界内に、茅(ちがや)で編んだ直径数メートルの輪を作り、これをくぐることで心身を清めて災厄を祓い、無病息災を祈願するというものです。日本神話のスサノオノミコトに由来するといわれ、唱え詞を唱えながら8の字に3度くぐり抜けます。茅の輪くぐりは、毎年6月30日に各地の神社で執り行われる「夏越の祓(なごしのはらえ)」で行われる儀式であり、茅の輪くぐりが夏越の祓と同義で呼ばれるほど、日本に定着している風習です。
茅の輪くぐりはに日本神話に由来します。スサノオノミコトが旅の途中に宿を求めた、備後国の蘇民将来(そみんしょうらい)との逸話が起源です。
貧しいにもかかわらず、喜んでスサノオノミコトをもてなした蘇民将来に対し、弟である巨旦将来(きょたんしょうらい)は裕福にもかかわらず宿を貸そうともしませんでした。数年後、再びスサノオノミコトは蘇民将来のもとを訪れ「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えました。教えを守った蘇民将来は難を逃れられ、それ以来、無病息災を祈願するため、茅の輪を腰につけていたものが、江戸時代を迎える頃には、現在のようにくぐり抜けるものになったといわれています。
・これに薄(すすき)を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋(すおう)にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひいで顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。―――「枕草紙」(清少納言)64段
(この中に薄(すすき)を入れないのは、とても怪しい(とても納得できない)という人もいるだろう。秋の野原の情趣が漂う風情というのは、薄あってのものなのである。穂先が赤くなった薄が、朝露に濡れて風になびいている姿は、これほどに素晴らしいものが他にあるだろうか。しかし秋の終わりになると、本当に見所のないものになる。色々な色彩で咲き乱れている秋草の花が、跡形もなく散ってしまった後、冬の終わり頃に頭がもう真っ白に覆われてしまったのも知らずに、昔を思い出しながら風に顔を吹かれてゆらゆらと立っている、これは人間の人生にとても良く似ている。それに寄り添うような心があって、それを哀れと思っているのである。)
・「秋の野の み草刈葺(ふ)き 宿(やど)れりし
宇治の京(みやこ)の 仮廬(かりほ)し思ほゆ」
万葉集巻一0007 額田王
※(美草=薄)
(秋の野の草を刈り、屋根を葺いて宿った宇治の行宮での仮廬が思い出されることだ)
・
(世間の人たち皆は萩を秋の風情の代表という。だが、かまうもんか、私は尾花を、秋一番の風情と言おう.)
・「虫の音も ほのかになりぬ 花すすき
穂にいずる宿の 秋の夕暮れ」
金槐和歌集 源実朝
・「狐火の 燃つくばかり 枯尾花」 与謝蕪村
・「山は暮れて 野は黄昏の 芒かな」 与謝蕪村
・東京周辺の見どころ <箱根の仙石原>
仙石高原に広がる、広大なすすきヶ原。すすきの見頃は10月中旬頃。バス停「仙石高原」。
萩の花 堀辰雄
萩の花については、私は二三の小さな思ひ出しか持つてゐない。そのいづれもがみな輕井澤で出遇つたことばかりである。その花の咲く頃、私は大抵この村にゐるからであらう。
※
いつの夏の末だつたか、鶴屋旅館の離れで、芥川さんと室生さんが、同宿の或る夫人のために、女持ちの小さな扇子に發句を寄せ書きなさつたことがあつた。そのそばで少年の私は默つて見てゐたのである。芥川さんはなんでもその扇面に、小さな細い字で「明星のちろりに響けほととぎす」といふ句をお書きになつた。それをその扇子に書いてしまはれると、こんどはお二人で在りあはせの紙に、即興句を口ずさまれながら、しきりに何やらお書きになつてゐられた。その多くは書くそばからすぐ丸められたが、そのうち芥川さんは一枚だけ、やや氣に入られたか、破かれずに脇に置いておかれた。それには一匹の蜻蛉の繪が輕くあしらはれて、
野茨にからまる萩のさかり哉
と書かれてあつた。それを私がとり上げながら、「これ、僕、頂戴して置いてもよろしう御座いますか」といつても、芥川さんは默つたまま、他の紙に熱心に向はれてゐた。
※
去年の夏も末近くなつた頃であつた。私は村からかなり離れたゴルフ場の近くの、松林のまんなかにある、或る小さなホテルに、氣まぐれに一人でもつて夕食をしにいつた。玄關の脇にはまだゴルフ服の人達が一塊り殘つてゐたが、小さな客間の方はひつそりしてゐて、もう誰もゐなかつた。私はその片隅にぼんやり腰を下ろしながら、その途端おやと云ふやうな氣持で、硝子戸の向うの、松林に續いてゐるテラスに、一組の少年と少女とが籐椅子に凭れてゐるのを認めた。硝子ごしに物を見るといふことはいくぶん人を空想的にさせるものらしい。――私は最初は、その二人をそのホテルに泊つてゐる兄弟で、恐らくゴルフでもしてゐる父の歸りか、或は私と同じやうに夕食の時間を、さうやつて待つてゐるのだらう位に思つてゐた。が、それにしては、向うの松林のなかから自動車が音を立てて出てくる度毎に、すこしそつちの方をそはそはした眼つきで眺め過ぎる。そしてその自動車がホテルの玄關口に停まつて、そこにまだ一塊り殘つてゐたゴルフ服の人達を乘せて、再び音を立てて走り去る毎に、すこし失望の色を漂はせ過ぎる。そのうちに私は、この二人づれはひよつとしたら、夏休みの終りを前にそつと親達の目を盜んでこの人氣のないホテルに來て、別れを惜しんでゐる小さな戀人たちなのかも知れぬぞと考へだしてゐた。もうそろそろ日が暮れだすので、迎への自動車が早くきてくれないと困るし、しかし、いつまでもかうして二人きりで居たいことも居たいし、といつたやうな遣瀬なげな表情が二人の顏に浮んでゐないこともない。
ホテルのボオイ達からもすつかり置き忘れられてゐるやうに見えるこの小さな客を、中でただ一人、よほど彼等が氣になると見えて、さつきから二度も三度もそのテラスに覗きにいつては、二言三言彼等に話しかけてゐる小さなボオイがゐた。そのボオイはそのテラスの少年よりもさらに二つか三つ年下らしい。しかし彼のその僅かに年上の客に對する丁寧なメランコリックな物腰には、すこしも惡意らしいものが混つてゐない。むしろ、自動車の遲いのを二人と一緒に心配してやつてゐるやうに見えるのである。
「まだお迎への車が參りませんが、もう一度電話をお掛けしませうか?」
と、そのボオイがメランコリックな風に腰をかがめながらいふと、
「ああ」
と少年の方は、却つてどうでもいいんだといつたやうな生返事をしてゐる。そんな會話の間ぢゆう、少女は少女で、少しはらはらしながら、すぐ自分の傍らに一しげみ萩の花がいまを盛りと咲きみだれてゐるのを見やつてゐたが、その瞬間、何氣なく手をぐつと延ばして、その一枝を引張つた。するとその一面に花をつけた茂みはいつまでもいつまでも搖れ動いてゐた。……
私は、だんだんに薄暗くなつてくる客間の片隅に、なんだか氣の遠くなるやうな思ひをしながら、そんな情景を眺めやつてゐたのである。
初出:「會舘藝術 第三巻第九号」大阪朝日会館
1934(昭和9)年9月号
萩
宮城野萩(みやぎのはぎ)、山萩、白萩などの種類があります。
・開花時期は、 6/ 5 ~ 10/末頃。
・秋の七草のひとつ。
・日本各地の山野でごくふつうに見られ、萩といえば山萩(やまはぎ)を指す。東京近辺で見られるものは「宮城野萩(みやぎのはぎ)」と「山萩」がほとんどですが、ここでは「萩」ページとして1つにしました。
・「萩」の字は“秋”の“草(草かんむり)”なのでまさに秋の花ですが、早いものは夏前から咲き出しているものもあります(秋の9月頃が見頃)。
・花は豆のような蝶形花です。・枝や葉は家畜の飼料や屋根ふきの材料に、葉を落とした枝を束ねて箒(ほうき)に、根を煎じて、めまいやのぼせの薬にするなど、人々の生活にも溶け込んでいました。
・地上部は一部を残して枯死し、毎年新しい芽を出すことから「はえぎ(生え芽)」となり、しだいに「はぎ」に変化しました。
・秋の十五夜(満月の夜)に、「薄(すすき)」「おだんご」と一緒に縁側などに置いて、お供えする習慣があります。
・外側をあんこで包んだのおもちに「ぼたもち(こしあん)」と「おはぎ(つぶあん)」がありますが、じつは同じものです。
◆春のお彼岸 に供えるのは、春を代表する花の「牡丹(ぼたん)」にちなんで、(または牡丹の花に似ていることから)、「牡丹餅」→「ぼたんもち」→「ぼたもち」と呼ばれ、
◆秋のお彼岸 に供えるのは、秋を代表する花の「萩」にちなんで、(または、表面のアズキの皮の部分が萩の花に似ていることから)、「萩餅」→「御萩餅」→「御萩(おはぎ)」と呼ばれるようになりました。
それぞれには小豆(あずき)のあんこが入っていることもあります。
・萩の別名は、ニワミグサ(庭見草)、ノモリグサ(野守草)、ハツミグサ(初見草)、シカナキグサ・ロクメイソウ(鹿鳴草)、シカツマグサ(鹿妻草)などです。
・9月18日の誕生花(萩)で、花言葉は「柔軟な精神」(萩)。宮城県の県花(宮城野萩)でもあります。
・万葉集より
「秋風は 涼しくなりぬ 馬並(な)めて
いざ野に行かな 萩の花見に」
万葉集巻十(2103) 作者不詳
(秋風(あきかぜ)が涼しくなりました。さあ、馬を並べて野に萩(はぎ)の花を見に行きましょう。)
「人皆は 萩を秋といふ よし我は
尾花が末(うれ)を 秋とは言はむ」
万葉集巻十(2110) 作者不詳
(世間の人たち皆は萩を秋の風情の代表という。だが、かまうもんか、私は尾花を、秋一番の風情と言おう。)
「わが岳に さを鹿来鳴く 初萩の
花妻問ひに 来鳴くさを鹿」
万葉集巻八(1541) 太宰帥大友卿(大友旅人)
(私の住む岡に牡鹿が来て鳴く。萩の初花を花嫁に得ようとやって来て鳴く牡鹿よ)
「高円の 野べの秋萩 いたづらに
咲きか散るらむ 見る人なしに」
万葉集巻二(231) 笠金村(かさのかなむら)?
(高円山の野のほとりの秋萩は空しく咲き散っているだろうか、見る人もいなくなったいまも。)
※志貴皇子が亡くなったときに詠まれた挽歌です。
「高円の 野べの秋萩 この頃の
暁露に 咲きにけるかも」
万葉集巻八(1605) 大伴家持
(高円の野辺に生える秋萩は、この頃の明け方の露のせいでもう咲いただろうか)
「宮人の 袖つけ衣 秋萩に
匂ひよろしき 高円の宮」
万葉集巻二十(4315) 大伴家持
(大宮人の袖付け衣が秋萩色に照り映えて、美しい高円の離宮であることよ)
「指進の 栗栖の小野の 萩の花
花散らむ時にし 行きて手向けむ」
万葉集巻六(965) 太宰帥大友卿(大伴旅人)
(栗栖の小野の萩の花――散る頃に出掛けて行って、神祭りをしよう。)
※「指進(さすすみ)の」は栗栖(くりす)の枕詞か?
「かくのみに ありけるものを 萩の花
咲きてありやと 問いし君はも」
万葉集巻三(455) 余明軍
(運命はこのようにあるものを、萩の花は咲いているだろうかと問うてきたあなたでしたね。)
※大伴旅人が亡くなったときに余明軍(よのみやうぐん)が詠んだ五首の挽歌のうちの一首です。
・萩の花は万葉集のほかにも、ほかの短歌や俳句に詠まれています。
「道の辺の 小野の夕暮 たちかへり
見てこそゆかめ 秋萩の花」
金槐和歌集 源実朝
「一家(ひとつや)に 遊女も寝たり 萩と月」
奥の細道 松尾芭蕉
「白露を こぼさぬ萩の うねりかな」
(真蹟自画賛・秋・元禄六) 松尾芭蕉
「行き行きて たふれ伏すとも 萩の原」
奥の細道 河合曽良
「わけている 庭しもやがて 野辺なれば
萩の盛りを わがものに見る」 西行法師
「萩の風 何か急(せ)かるゝ 何ならむ」 水原秋櫻子
・東京周辺の萩の見どころ
<向島百花園(むこうじまひゃっかえん)>
一年中なにかしらの花が咲いている、花の宝庫です。長さ10mくらいの「萩のトンネル」が有名です。
花見頃9月中旬~9月下旬。 墨田区東向島。最寄り駅 東武伊勢崎線東向島駅
<大悲願寺(だいひがんじ)>
五日市の、別名「ハギ寺」。「白萩」が有名。花見頃9月中旬~9月下旬。東京都あきる野市横沢。最寄駅花はJR五日市線武蔵増戸(ますこ)駅
ウェブニュースより
日本シリーズ ソフトバンクが4連勝で日本一 エラー響いた巨人 ―― プロ野球の日本シリーズはソフトバンクが23日夜、東京ドームで行われた第4戦で巨人に4対3で勝って4連勝とし、3年連続の日本一に輝きました。ソフトバンクの日本一は前身の南海、ダイエーを含めて10回目です。
日本シリーズはソフトバンクがここまで3連勝して王手をかけ、23日夜、東京ドームで第4戦が行われました。
試合は0対0の4回、ソフトバンクは5番・グラシアル選手がこのシリーズで3本目のホームランとなるスリーランを打って先制しました。
このあと6回に2人目のスアレス投手が巨人の4番・岡本和真選手にツーランホームランを打たれて1点差に迫られました。
そして4対3と1点リードで迎えた9回は、抑えの森唯斗投手がランナーは出しましたが得点を与えず、ソフトバンクが4対3で勝って4連勝とし3年連続の日本一に輝きました。
ソフトバンクの日本一は前身の南海、ダイエーを含めて10回目です。
敗れた巨人はこの試合でもエラーが失点につながるなど主導権を握ることができず、4連敗に終わりました。
ソフトバンク 工藤監督「最高の気分」
ソフトバンクの工藤公康監督は監督に就任して5年で4回目の日本一に輝き、「最高の気分。クライマックスシリーズから10連勝して優勝するようなすばらしいチームの選手やスタッフと戦うことができてこれ以上ない幸せだ」と笑顔を見せました。
そして「レギュラーシーズンで優勝を逃して悔しい気持ちもあったし、自分が力不足なために選手たちには本当に苦労をかけたが、『最後は笑っていたい』という思いでポストシーズンを戦ってきた」とリーグ優勝を逃した悔しさがバネになっていたと話しました。
そして最後に「巨人ファンの声援が身震いするほど大きくてプレッシャーを感じたが、それに負けないぐらいの声援をきょう球場に来てくれたソフトバンクのファンが送ってくれた。きょうの勝利はファンにささげたい」と感謝を述べました。
MVP ソフトバンク グラシアル選手「とてもうれしい」
日本シリーズ本シリーズで3本のホームランを打ち、MVP=最高殊勲選手に選ばれたソフトバンクのグラシアル選手は、「素直にとてもうれしい。自分がチームに入って2年連続でチャンピオンになることができた。長いシーズンを全員が全力で戦った結果だ。きょうの優勝という結果はファンのおかげでもある。感謝の気持ちでいっぱいだ」と喜んでいました。
ソフトバンク 和田投手「初回から全力で投げた」
5回を投げてヒット1本無失点と好投したソフトバンクの和田毅投手は「第4戦なので自分が投げるのはこの試合だけだと思い、初回から全力で投げた。相手の菅野投手も力を入れて投げていたので、なおさら気合いが入った。どっちに転ぶかわからない展開だったが、優勝できてよかった」と振り返っていました。
ソフトバンク 中継ぎ 甲斐野央投手「特に緊張しなかった」
日本シリーズでは中継ぎとして3試合で投げて役目を果たしたソフトバンクのルーキー、甲斐野央投手は「特に緊張はしなかった。チームが日本一になって率直にうれしいし、自分も貢献できてよかった。きょうで今シーズンが終わったが、終わった実感が全くない。気を抜かずに頑張りたい」とさらなる飛躍を誓っていました。
ソフトバンク本拠地近く 福岡市の商店街では歓声
ソフトバンクの本拠地、「ヤフオクドーム」に近い福岡市中央区唐人町の商店街にはプロジェクターが設置され、3年連続の日本一が決定すると歓声が上がりました。
そして、準備していたくす玉が割られ、「日本一おめでとう」の垂れ幕が現れると再び拍手が沸き起こりました。
ソフトバンクのユニフォーム姿で応援していた男性は「日本シリーズで4連勝するとは思っていませんでした。強いです。来年もV4を期待しています」と話していました。
また、別の男性は「本当にうれしいです。苦しい時期があったけど頑張ってくれました。選手たちにはありがとうと伝えたいです」と話していました。
地元 福岡では号外
プロ野球・ソフトバンクが3年連続の日本一を決めたことを受けて、地元・福岡市の中心部では新聞の号外が配られ、ファンが喜びを分かち合いました。
号外は、福岡市の繁華街、天神のデパートの前で日本一を決めた直後の午後9時40分すぎから配られ、雨にもかかわらず多くの人たちが次々と受け取っていました。
福岡市の40代の男性は、「レギュラーシーズンは2位でしたが、その悔しさをぶつけるという監督や選手たちの思いが届きました。日本一のパレードを楽しみに待っています」と話していました。
また、福岡市内の20代の男性は「柳田選手の復活劇が大きかったと思います。選手たちには感動をありがとうございますと伝えたいです」と話していました。
ソフトバンク 王球団会長「ふだん持っている力出せた」
ソフトバンクの王貞治球団会長は「うちも巨人も強力打線でしたが、ピッチャーはうちのほうが上でした。クライマックスシリーズからチームの調子が上へ上へと上がってきて日本シリーズでは、その調子が出ていました。ピッチャーもバッターも守備も、うちのほうがふだん持っている力を出せました。優勝にはそれなりの理由があるのです」と笑顔で話していました。
ソフトバンク 孫正義オーナー「“10連勝”は奇跡」
ソフトバンクの孫正義オーナーは「クライマックスシリーズからの10連勝は奇跡と言っていい。選手全員がすばらしい集中力を持って戦ったことで、優勝まで突き抜けられた。選手たちには『お疲れ様』と声をかけてあげたい」と話していました。
巨人 原監督「勢い止めることできなかった」
巨人の原辰徳監督は、4連敗で日本一を逃したことについて「選手たちは最後の最後まで粘り強く戦ったが、ソフトバンクの勢いをなかなか止めることができなかった。日本一になるのはまだ高い壁があるし、まだ積み上げていかなければいけないものがある」と振り返りました。
またこの試合が現役最後の試合となった阿部慎之助選手に対しては、「すばらしい選手生活だったと思う。最後まで戦う姿勢は変わらなかった」と19年間の選手生活をたたえていました。
巨人 主将の坂本選手「悔しい」
巨人のキャプテン、坂本勇人選手は「悔しい。やられっぱなしだった」と話しました。
そして引退する阿部慎之助選手について「1試合でも長く試合をしたかった。寂しいです。阿部さんから受け継いだものを継承していきたい」と話していました。
巨人 菅野投手「紙一重が大きな差」
腰痛からの復帰登板となった巨人のエース・菅野智之投手は、「なんとか期待に応えたかったが、この試合も含めて今シーズンは悔しいことばかりだった。4連敗ということで力の差があったかもしれないが自分たちが弱いとは思わない。紙一重だと思うが、その紙一重が大きな差になってくるのだと思う。来シーズンに向けて自分を見つめ直したい」と話しました。
そして引退する阿部慎之助選手について「今の自分のピッチングの根底は阿部さんの教えがあってのもの。日本一になって有終の美を飾らせてあげたかったが、しっかり来年に阿部さんの思いをつなげていきたい」と話しました。
「ON対決」以来19年ぶり対戦 王会長は古巣破る悲願達成
ソフトバンクが巨人と日本シリーズで対戦するのは、王貞治監督率いる当時のダイエーと長嶋茂雄監督の巨人が争った平成12年のいわゆる「ON対決」以来、19年ぶりでした。
この時はソフトバンクが2連勝したあと、巨人に4連勝を許し、日本一になることはできませんでした。
王さんが監督を退いて球団の会長に就任して以降、巨人以外のセ・リーグ5球団を日本シリーズで破って日本一に輝いていました。
現役時代に巨人で868本のホームランを打った王さんは、プロ野球を人気と実力で引っ張ってきた古巣を破っての日本一について、「念願かなったのひと言。完璧な形で何も言うことはない」と話していました。 (NHK NEWS WEB 2019年10月23日 22時47分)
秋の七草に添へて 岡本かの子
萩、刈萱(かるかや)、葛、撫子、女郎花、藤袴、朝顔。
これ等の七種の草花が秋の七草と呼ばれてゐる。この七草の種類は万葉集の山上憶良の次の歌二首からいひ倣(ならわ)されて来たと伝へる。
秋の野に 咲きたる花を 指(おゆび)折り かき数ふれば 七種の花
萩の花 尾花葛花 なでしこの花 女郎花 また藤袴 朝顔の花
朝顔が秋草の中に数へられると言へば、私達にとつて一寸意外な気がする。早いのは七月の声を聞くと同時に花屋の店頭に清艶(せいえん)な姿を並べ、七月の末ともなれば素人作りのものでも花をつける朝顔を、私達は夏の花と許り考へ勝ちである。尤(もっと)も朝顔は立秋を過ぎて九月の中頃まで咲き続けるのだから、秋草の中に数へられるのもよいであらうが、特に真夏の夕暮時、朝顔棚に並ぶ鉢々に水を遣りながら、大きくふくらんだ蕾を数へ、明日の朝はいくつ花が咲くと楽しい期待を持ち、翌朝になつて先づ朝顔棚に眼をやり、濃淡色とりどりの大輪が朝露を一ぱいに含んで咲き揃つてゐる清々しさに私達は一入早暁の涼味を覚える。ある貧しい母のない娘が背戸に朝顔を造り、夕に灯をつけてその蕾を数へ、あしたは絞りの着物が三つ、紺のが一つ仕立つと微笑んだのをいぢらしく見たことがある。だが、秋の七草に含まれる朝顔は夏の朝咲くいはゆる朝顔――これを古字にすれば牽牛子(けんごし)又は蕣花と書く――ばかりではなく、木槿と桔梗をも総称してのものである。さういへば木槿も桔梗も牽牛子と同じやうに花の形が漏斗の形をしてゐる。
七草は野生の植物で、花の色は女郎花の黄を除いてみな紫か紫系統である。秋の野花のいろは総じて紫か黄、白で、精々華やかなものでは淡紅色がある。いづれも夏草に見る情熱の奔騰する激しさはなく、近寄つて見なければその存在さへもはつきりしないほどに慎ましく控え目である。秋は森羅万象が静寂の中に沈潜してゐる。空は底深く澄み、太陽は冷めて黄ばみ、木の葉は薄く色づく、野末を渉る風さへも足音を秘めて忍び寄る。かゝる自然の環境の中に咲く秋草もまた自ら周囲に同化するのであらう。かすかに伝ひよる衣(きぬ)ずれの音。そこはかとなく心に染(し)むそら薫(た)きもの。たゆたひ勝ちにあはれを語る初更のさゝやき。深くも恥らひつゝ秘むる情熱――これらの秋は日本古典の物語に感ずる風趣である。秋それ自身は無口である。風と草の花によつて僅にうち出づる風趣である。だが、かそけきもの、か弱きもの必ずしも力なしとはいへない。しなやかさと真率なることに於て人生の一節を表現し巌(いわお)の如き丈夫心をも即々と動かす。上代純朴なる時代に男女の詠めりし秋草に寄する心を聞けば
日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)
秋づけば 尾花が上に 置く露の
消ぬべくもわが念(おも)ほゆるかも
(秋の気配が深まれば、ススキの穂に置く露の身の私も消えてしまうかと思われるのでございます) 万葉集巻八 1564 大伴家持
吾が屋戸(やど)の 一枝萩を 念ふ児に
見せずほと/\散らしつるかも
(わが家の庭に群れて咲く萩をあやうく大切な人に見せずにいるうちに散らしてしまいそうでした) 万葉終巻八 1565 大伴家持
萩、桔梗、女郎花は私に山を想はせ、刈萱は河原を、そして撫子と藤袴は野原を想はせる。これ等はその生えてゐる場所にかうはつきりした区別が勿論あるわけではないが、私はかういふ連想を持つのである。それは幼い頃野山を歩いて得た印象からかも知れない。
私は秋の七草の中で萩が一番好きだ。すんなりと伸びた枝先にこんもりと盛り上る薄紅紫(うすべにむらさき)の花の房、幹の両方に平均に拡がる小さい小判形の葉。朝露にしつとりと濡れた花房を枝もたわゝに辛(から)ふじて支へてゐる慎ましく上品な萩。地軸を揺がす高原の雷雨の中に葉裏を逆立て、今にも千切り飛ばされさうな花房をしつかりと抱き締めつゝ、吹かるゝまゝに右に左に無抵抗に枝幹をなびかせてゐる運命に従順な萩。穏やかな秋の陽射しの中に伸び伸びと枝葉を拡げてゐる萩。
萩は田舎乙女の素朴と都会婦人の洗練とを調和して居るかと思へば、小娘のロマン性と中年女のメランコリーを二つながら持つてゐる。その装ひは地味づくりではあるが、秘かな心遣ひが行き届いてゐる。
幼い頃、多摩川原近くの武蔵野に無抵抗に枝幹をなびかせてゐる運命に従順な萩。穏やかな秋の陽射しの中に伸び伸びと枝葉を拡げてゐる萩。住んでゐた私は、刈萱に人一倍の愛着を感ずる。野原一面に叢生する刈萱は雑草の中に一頭地を抜いて蟠簇してゐる。強靭な葉茎と鋭く尖つた葉端は何ものも寄せつけまいとするやうな冷酷さを示してゐる。その灰白色の穂はニヒリストのやうな白々しさしか感じさせない。据傲(きょごう)な刈萱を見れば、いつしか敵意を感じて、穂といふ穂を打つて見たくなる。近寄つて手を差延べれば、その鋭利な葉は直ちに皮膚を切りつけて攻勢をとる。幾条もの傷を手の甲に拵こしらへながら、口惜しさに夢中で薄すすきの穂をもぎ折つた幼い頃の記憶を私は秋になるとなつかしく想ひ出す。そのなつかしい気持ちの底には強くて鋭いものに対する稚純な敵意よりもなほさら私のこゝろにふかく沁みついてゐる刈萱の穂の銀灰色の虚無的な寂しい風趣なのである。
(昭和一二年一〇月)
萩の花 尾花葛花 瞿麦(ナデシコ)の花
女郎花(オミナエシ) また藤袴 朝貌(アサガオ)の花
山上憶良 万葉集 1538 巻八
「秋の七草」として親しまれる七種の草の中の「あさがおのはな(朝貌の花)」は、「朝顔」とも、「昼顔」とも、「木槿」とも、「桔梗」とも言われ、諸説がありますが、一般的には「桔梗」を指すとするのが有力で、辞典類も「キキョウ」とするものが多く見られます。植物学者の牧野富太郎博士(1862年・文久2年~1957年・昭和32年)は、「朝貌の花」は「桔梗」であるとの説を採っています。
牧野博士によれば、今で言う「朝顔」が中国から伝わったのは山上憶良より後の時代であり、「人家に栽培している蔓草のアサガオは秋の七種中のアサガオではけっしてない」とし、また、万葉集の別の歌に「朝顔は夕方に咲くのが見事」と詠まれていて、「夕方が見事」というのは現在の「朝顔」と合致しないことなどを挙げ「アサガオ説」を否定。また、「木槿(ムクゲ)」については、中国からの外来の灌木であり野辺に自然に生えているものでもなく、また万葉歌の時代に果たしてムクゲが日本へ来ていたのかどうかも疑わしいとしてこれを否定し、「万葉歌のアサガオをヒルガオだとする人もあったが、この説もけっして穏当ではない」と「ヒルガオ説」も否定している。「キキョウ説」については、山上憶良より200年ほど下った平安時代に書かれた、現存する漢和辞典では日本最古の『新撰字鏡』(平安前期の昌泰年間(898〜901)に成立)の「桔梗」の項で、「阿佐加保」と振り仮名が振られていることなどを根拠として、「この貴重な文献においてそれに従ってよいと信ずる」と「朝貌の花」が「桔梗」であるとされることに異を唱えてはいない。
(「秋の七草の話」1931年・昭和6年講演、「植物知識」
1949年・昭和24年、「随筆 植物一日一題」1953年・昭和28年 など)
「春の七草」は無病息災を願って「七草粥」として食べますが、「秋の七草」は観賞して楽しむ植物です。現在一般に言われている「秋の七草」は、万葉の歌人、山上憶良(660?〜733?)が二首の歌に詠んで以来、日本の秋を代表する草花として親しまれるようになったとされます。
秋の野に 咲きたる花を 指(および)折り
かき数ふれば 七種(ななくさ)の花
(山上憶良 万葉集 1537 巻八)
意味:秋の野にとりどりに咲く花を、指を折りながら一つひとつ数えてみると、七種類の花がありました。
萩の花 尾花葛花 瞿麦の花
女郎花 また藤袴 朝貌の花
(山上憶良 万葉集 一五三八 巻八)
一首目は、「五・七・五・七・七」の短歌で、二首目は、「五・七・七、五・七・七」の旋頭歌です。
『年中故事』(寛政12年・1800年 玉田永教著)には、次のように見られます。
一、猿田彦祭 七月七日
正月七日は七草を以て祭る、今日は秋の七草とて供へ祭る。
朝貌 萩 尾花 撫子 女郎花 蕨 葛花
茄子 瓜 小豆 桃 柿 素麪 莧花
七は金の数にて、秋は金也、七日の成れば是神を祭る、御鼻の長さ七咫(あた)、御背長七尋(ひろ)とあり、是神天孫降臨の時導き給ふ、道祖神といふ、幸神といふ、 (続日本随筆大成 別巻11民間風俗年中行事)
《江戸時代の錦絵に見る『秋の七草』》
『試験準備近世理科問答 博物ノ部』 明治41年・1908年
明治41年・1908年(今から111年前)に、小学生の復習用、中学師範入学準備、農学校・商業学校・幼年学校などの試験対策として出版された、尋常小学校5年・6年で習う範囲とする問題に登場する『秋の七草』です。 「秋の七草とは何々か」との設問で、答えは『ハギ、オバナ、キキョウ、クズ、ナデシコ、フジバカマ、オミナエシ』とされています。
中国の七不思議は、アメリカ合衆国のトラベル・チャンネル(Travel Channel)によって選定された、中華人民共和国にある7つの注目すべき建造物(七不思議)です。
・兵馬俑
・懸空寺
・万里の長城
・楽山大仏
・武当山
・紫禁城
・石宝寨
ウェブニュースより
ジョセフHC「ハーフタイムで選手ダウン」一問一答 ―― <ラグビーワールドカップ(W杯):日本3-26南アフリカ>◇準々決勝◇20日◇東京・味の素スタジアム
世界ランキング6位の日本(A組1位)が、同6位の南アフリカ(B組2位)に3-26で敗れ、準々決勝で敗退した。
ジェイミー・ジョセフHCの一問一答は以下の通り。
-振り返って
ジョセフ ハーフタイムで選手が少しダウンしていました。すばらしい勇気、強い決意を持って最後まで頑張りました。日本のみなさんに感謝したい。さらに前進をしていきたい。最後の5分、20点以上の差がついても諦めないで立ちあがって試合をしました。この誇りは忘れません。
-今後の展望
ジョセフ 海外の国とは違う面がある。南アフリカは(代表)チームと契約して給料を得ているが、日本は違う。私はあくまでコーチですから、フィールド内でサポートをしていくだけ。日本のラグビーは良い位置にいる。良いチームを作って、経験のある選手がいるし、こういうトーナメントの経験は大事。育成が進んで若い選手が成長している。
-日本の選手のどういうところが変わって、さらに強くすることは可能か
ジョセフ 私1人の力ではできない。ラグビーのチームを育成、発展させるには多くの人の力が大事。信念と自信はできた。いかなる状態でも自信を持つことができた。監督としてできることは選手に自分を信じさせることができればいい。それが私の仕事だと思います。良いところまできたので、続けていくだけです。 [日刊スポーツ 2019年10月20日23時15分]
姫島は、『古事記』等に記された「国産み」神話で、伊邪那岐(イザナギ)・伊邪那美(イザナミ)の2神が、大八島の後に続けて産んだとされる6つの島のうち、4番目に産んだ女島であるとされます。
また、『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、意富加羅国(おほからのくに。現在の韓国南部にあったと考えられています。)の王子の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が、白石から生まれた童女に求婚すると、美女は消え失せ、都怒我阿羅斯等が追いかけると日本に渡り、摂津及び姫島に至って比売語曽(ひめこそ)社の神となったとされます(姫島には比売語曽社が、また、大阪府東成区には比売許曽神社がそれぞれ現存しています)。
姫島はこのように古代からの伝承に富んだ島であり、様々な伝承が島内の場所や事物に関連づけて語り継がれてきました。そのうちの代表的なものが姫島七不思議であり、七不思議のうちの3つは比売語曽神にちなむものです。
江戸時代後期の文政・天保の頃(19世紀はじめ)に活躍した戯作者柳亭種彦が、姫島七不思議を読んだ短歌5首が残っていることから、姫島七不思議は遅くともこの頃には成立していたものと考えられる。島には柳亭種彦の短歌を刻んだ歌碑が建てられている。
村に古くから伝えられる「姫島村七不思議」は、数多くの伝説と神秘の残る姫島らしいスポットです。
①大晦日の夜、債鬼(借金取り)に追われた島民千人を匿うことができた“千人堂”
②漁業の神様として島民の信仰を集める高部様が祀られ、その鳥居は大時化や高潮でも海に浸かることがないと言われる“浮洲(うきす)”
③お姫様が使った柳の楊枝を逆さに挿したところから芽が出たと言う“逆さ柳”
④お姫様がおはぐろをつけた時、石の上置いた猪口(ちょこ)と筆の跡と言われる“かねつけ石”
⑤お姫様がおはぐろをつけた口をゆすぐため、手拍子を打って湧き水が出た“拍子水(ひょうしみず)”
⑥埋められた大蛇の怒りで田が揺れる“浮田(うきた)”
⑦牡蠣が阿弥陀三尊に似て群棲し、食べると腹痛を起こすと言う“阿弥陀牡蠣(あみだがき)”
福岡在住の甥であるdoctorからメールが入りました。曰く、
藤井聡太7段勝つ:いま結果が出ましたが、高校生の藤井聡太7段が、糸谷9段に勝ちました。驚いたのは、78手から、37手の即詰みに仕留めたところです。AIも読みきれてない局面からです。数年連続で詰将棋選手権で、他の追随を許さないくらい強く断トツの優勝をしてきただけありますね。久しぶりに驚きました。 2019/10/18 18:14
ウェブニュースより
将棋の藤井七段、糸谷八段を破って2勝目 王将リーグ ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太(そうた)七段(17)が18日、大阪市福島区の関西将棋会館で指された第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)の挑戦者決定リーグ戦(通称「王将リーグ」)で、糸谷(いとだに)哲郎八段(31)に108手で勝ち、リーグ成績を2勝1敗とした。
https://www.youtube.com/watch?v=ddKouXezD0U
藤井七段が王将リーグで優勝し、王将戦の挑戦者になれば、タイトル挑戦の最年少記録を更新する。現時点でのタイトル挑戦の最年少記録は、屋敷伸之九段(47)が四段だった1989年11月に達成した17歳10カ月。史上最年少でのタイトル挑戦が実現するかどうか、藤井七段の残り3局が注目される。
藤井七段の王将リーグの次の対局は21日、東京で羽生(はぶ)善治(よしはる)九段(49)と対戦する。羽生九段はタイトル獲得数通算100期を目指している。両者にとって非常に重要な対局となりそうだ。
対局は午前10時に始まり、午後5時5分に終局した。終局後、勝った藤井七段は「(本局は)激しい展開になって、きわどい将棋と思っていました。これで(王将リーグは)3局終わって、折り返し。次の対局も近いので、しっかり準備して全力を尽くして臨みたいと思います。(羽生九段とは)長い持ち時間で対局するのは初めて。対戦できるのは楽しみ。自分の力を尽くして戦いたいなと思っています」と話した。
本局に敗れて、リーグ成績は0勝2敗となった糸谷八段は「(本局は、誤算があって)自分から結構、ひどい変化に飛び込んだのかな、と思います。リーグ戦だけでなく、いま、ちょっと目が見えていないので……。何も見えないので……。暗闇をどうにかしないと、いけないですね」と話した。
王将戦は、将棋界に八つあるタイトル戦の一つ。王将リーグは、7棋士による総当たりのリーグ戦で、それぞれ6局指す。
(朝日新聞デジタル 2019年10月19日01時46分)
sechin@nethome.ne.jp です。
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