蓮を詠める歌2
巻16-3826: 蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし
巻16-3835: 勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし
標題:獻新田部親王謌一首 (未詳)
標訓:新田部親王に獻(たてまつ)れる謌一首 (未だ詳(つばび)らかならず)
原文:勝間田之 池者我知 蓮無 然言君之 鬚無如之
万葉集 巻16-3835
作者:不明(女性)
よみ:勝間田の池は我れ知る蓮(はちす)無し然(しか)言ふ君が鬚(ひげ)無きごとし
意訳:勝間田の池のことを私は良く知っています。蓮は生えていません。蓮の花が美しかったと云う鬚の立派な貴方に「鬚が無い」と云うのと同じように。
左注:右、或有人聞之。曰新田部親王、出遊于堵裏、御見勝間田之池、感緒御心之中。還自彼池不任怜愛。於時語婦人曰今日遊行、見勝田池、水影涛々、蓮花灼々。可怜断腸、不可得言。尓乃婦人、作此戯謌、專輙吟詠也
注訓:右は、或は人ありてこれを聞けり。曰はく「新田部親王、堵(みやこ)の裏(うち)に出で遊び、勝間田の池を御(お)見(み)そなして、御心の中に感(め)でませり。彼(そ)の池より還りて怜愛(かなしび)に任(あ)へず。時に婦人(をみな)に語りて曰はく『今日遊行(い)でて、勝田の池を見るに、水影(すいえん)涛々(とうとう)に、蓮花(れんか)灼々(しゃくしゃく)んり。可怜(おもしろ)きこと腸(はらわた)を断ち、言(こと)を得ふべからず』といへり。ここに乃ち婦人(をみな)、この戯(たはぶれ)の謌を作りて、專輙(もつはら)吟詠(うた)ひき」といへり。
注訳:右は、或る人がいて次のように聞いた。云うには「新田部親王が、都の中にお出ましになり、勝間田の池を御覧になって、御心に感じるところがあった。その池から帰った後も感動に耐えなかった。そこで、婦人に語って云うには『今日出かけていって、勝田の池を見ると、水面は輝き揺れ動き、蓮の花は赤々と輝いていた。美しいことは腹を捩り、言葉に出来ないほどであった』と云われた。そこでそれに対して婦人が、この戯れの歌を作って、もっぱら、口ずさんだ」と。
◎万葉集が出来たとき、この歌は、男が一夜の恋をしたときの言い訳に対しての女が歌う慣用句的な歌となっていたようです。その慣用句的な歌の由来を、もっともらしく説明したのが、左注の記事なのでしょう。そして、この歌を詠う女は、男に浮気をされていますが、やっぱり、男はこのように私の許に帰ってくると云う余裕と安心感の下に、少し、からかいを込めて男を追及するような感情でしょうか。
さて、蓮の花は早朝に咲き、午前にはしぼみますから、男は、昨夜はどこかに泊まって朝に蓮の花の咲くのを見てからの帰宅です。それを蓮の花の開花を夜通し待っていたかのように同居する妻に説明するのが、言い訳としては良いようです。その男の説明に、奈良時代、高貴な御方で立派な鬚で有名だった人物として、喩えで新田部親王の名を使っているようですが、この歌と新田部親王とは直接には関係がない世界です。
ここで、蓮の花は早朝に咲き午前の早い時間帯にはしぼむことを失念していますと、「蓮無」と「鬚無」の言葉だけに引きずられて、専門家だけがするような特殊な歌の解釈になってしまいます。左注の男がする早朝に咲く蓮の花の説明がやけに詳しいことに注目して、この歌を楽しんだ後に、「蓮無」と「鬚無」の言葉に対する禅問答のような専門家の解説を拝見すると、非常に視野が広がり、また、勉強になります。
巻16-3837:ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む
原文:集歌3837 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似将有見
万葉集 巻16‐3837
作者:不明
よみ:ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に渟(とど)まる水の玉に似る見む
意訳:遥か彼方から雨も降って来ないだろうか。蓮の葉に留まる水の玉に似たものを見たいものです。
左注:右謌一首、傳云有右兵衛。(姓名未詳) 多能謌作之藝也。于時、府家備設酒食、饗宴府官人等。於是饌食、盛之皆用荷葉。諸人酒酣、謌舞駱驛。乃誘兵衛云開其荷葉而作。此謌者、登時應聲作斯謌也
注訓:右の謌一首は、傳へて云はく「右兵衛(うひょうえ)なるものあり(姓名は未だ詳(つばび)らならず)。 多く謌を作る藝(わざ)を能(よ)くす。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設け、府(つかさ)の官人等(みやひとら)を饗宴(あへ)す。是に饌食(せんし)は、盛るに皆荷葉(はちすは)を用(もち)ちてす。諸人(もろびと)の酒(さけ)酣(たけなは)に、謌舞(かぶ)駱驛(らくえき)せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく『其の荷葉を開きて作れ』といへば、此の謌は、登時(すなはち)聲に應(こた)へて作れるこの謌なり」といへり。
注訳:右の歌一首は、伝えて云うには「右の兵衛府にある人物がいた。姓名は未だに詳しくは判らない。多くに歌を作る才能に溢れていた。ある時、兵衛府の役所で酒食を用意して、兵衛府の役人達を集め宴会したことがあった。その食べ物は盛り付けるに全て蓮の葉を使用した。集まった人々は酒宴の盛りに、次ぎ次ぎと歌い踊った。その時、右の兵衛府のある人物を誘って云うには『その荷葉を開いて歌を作れ』と云うので、この歌は、すぐにその声に応えて作ったと云う歌」と云う。
◎この歌は、その左注に記されるように、当時に評判の和歌の歌い手である右兵衛府に勤める人物が酒宴を盛り上げるために「荷葉」の文字を分解して歌を詠ったとありますから、この歌を鑑賞するときには表面上の歌意の鑑賞ではなく、その「なぞなぞ」に答える必要があります。
そこで、「荷葉」の文字を開いて「廾何廾世木」(「廾」は「ソウ・サ」と訓む)として「さかさせき」と訓み、「探させき」を意味すると推理できます。その「誰を探すか」と云うと、「久堅之雨毛落奴可」と「渟在水乃玉似将有見」の意味合いから、柿本人麻呂の挽歌の一節と天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)を想い、亡くなられ法要される「玉」の漢字に似た「草壁王(皇子)」を探したと解釈しました。つまり、草壁皇子は仏として蓮葉の上にいらっしゃることになります。
この「荷葉を開く歌」が暗示する「柿本人麻呂の挽歌の一節」が当時の歌人の共通の認識であったのでしょう。
ウェブニュースより
東京大空襲76年 夜 逃げた道歩く 15人が参加 追悼碑前で集会も 台東の隅田公園 ―― 空襲犠牲者の追悼碑がある台東区の隅田公園(浅草七)では、追悼集会が開かれた。市民有志による実行委員会の主催で三十四回目。参加者は黙とう後に碑へ献花し、平和の誓いを新たにした。
新型コロナ感染予防のため、写真や戦争関連の品々を展示する記念資料展は昨年に続き中止になった。青空が広がったこの日、集会には約百人が参加。空襲当時は国民学校(現在の小学校)一年生で深川区(現在の江東区)に住んでいた浜田嘉一(よしかず)さん(83)=国分寺市=が体験を語った。
浜田さんは自宅近くにあった清澄庭園(江東区)まで逃げる途中の様子を証言。「焼夷(しょうい)弾がヒュルヒュルと落ちると人が火だるまになり、五、六歩歩くとバタッと倒れる。地獄絵そっくりだった。祖母が、『嘉一、次はおまえの番だ。お題目を上げなさい』と言った」と、惨状を語った。
浜田さんは、空襲を同じ時間帯に感じたいという若い世代からの要請に応じ、九日深夜から十日未明にかけ、逃げたルートを説明して歩いたことも明らかにした。男女十五人が参加し、さらに十五人がネット中継で視聴したという。
集会後、浜田さんは「夜に歩くとリアリティーがある。熱心に話を聞いてもらえた。私たちの世代は最後の語り部。語り続けるのが使命」と話した。 (東京新聞 2021年3月11日 07時20分)
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