イギリス在住の塾友 荒幾則氏よりメールが入りました。曰く、
日高先生
お元気ですか? 5月に久し振りに日本へ行きます。
16日(木)着 〜 28日(火)発の予定で、三社祭が目的です。
是非 お会いしたいと思いますので、このメールが届きましたら 受領報告をお願いします。
どうぞ宜しくお願い致します。 荒 幾則
早速写真を添えて返信しました。曰く、
メール有難う。
在日中の予定が判ればお知らせください。
皆さんとも会える機会を設けてもよいのではと思います。
またの連絡をお待ちしています。 日高節夫
3月9日以降お留守になっている世界七不思議についての記述を続けます。
世界七不思議 ⑤ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
ハリカルナッソスのマウソロス霊廟
マウソロスとその妻アルテミシアの遺体を安置するために造られた霊廟です。
ギリシア人建築家のピュティオスとサテュロスによって設計され、スコパス、レオカレス、ブリュアクシス、ティモテオスという4人の高名な彫刻家によってフリーズ(彫刻帯)が施された。その壮麗さから、世界の七不思議のひとつに選ばれています。
また、ヨーロッパ圏で使用される単語「マウソレウム(一般に巨大な墓の意、英語:mausoleum)」はこの霊廟に由来するといいます。
マウソロスは、カリア国の首都をハリカルナッソス(現在のトルコ共和国ボドルム)に定め、周囲の地域も支配下に置きました。この霊廟は、マウソロスの死後に妃アルテミシアが夫のために建造したといわれているが、実際にはマウソロスの生存中に建造が開始されたと考えられています。マウソロスの死から3年後、アルテミシアの死から1年後にあたる紀元前350年に完成したといわれています。
アルテミシアは霊廟建設の費用を全く惜しみませんでした。彼女は、当時最も優れた建築家と芸術家を連れてくるため、ギリシアに使いを送りました。こうして2人の一流建築家ピュティオス、サテュロスと4人の高名な彫刻家スコパス、ブリュアクシス、レオカレス、ティモテオスが造営に参加しました。中でもスコパスは、他の世界の七不思議のひとつエフェソスのアルテミス神殿も手がけています。
霊廟は町を見渡す丘の上に建てられた。工事場はレンガの壁に囲まれ、建築家たちはその中で作業をしました。まず、その中央に墓本体となる石壇が置かれ、ライオンの石造を横に配した階段が石壇に向かって築かれました。そして、この外壁に沿って神や女神の像が置かれ、角ごとには馬に乗った戦士の像が墓を守るように置かれました。これが霊廟の第1層です。また、この層の上部にはギリシア神話や歴史の一場面を描いた彫刻帯が施されました。スコパスが東側、ブリュアクシスが北、ティモテオスが南、レオカレスが西の彫刻を担当しました。スコパスは、ギリシア人とアマゾン族(好戦的女性部族)の闘争を描き、他の3人はラピテス族とケンタウロスの闘争などを描きました。
第1層から第2層へと工事は移ります。第1層から第2層へと36本の柱が上げられました。第2層は外に露出した円柱の集まりである。短い辺に9本ずつ、長い辺に11本ずつ柱が配されたと考えられています。柱と柱の間には1体ずつ像が置かれ、柱に囲まれた内側には、巨大な屋根を支えるため石のブロックが積まれました。
第3層は、24段のピラミッド型の屋根であった。この頂上には、巨大なクァドリガ(4頭立ての馬車)の像が置かれた。この馬車に、マウソロスとアルテミシアの像が乗っていたとも言われていますが、何も乗っていなかったという説が有力です。根拠としては、ギリシア世界では主のいない馬車は主の死を意味していたこと、マウソロスとアルテミシアの像は馬車の像のそばで発見されましたが、彼らの像が馬車に乗る格好をしていなかったことなどが挙げられます。どうやら、彼らの像は、第2層あるいは第1層に他の像と同様に置かれていたようです。
マウソロスの霊廟は、ハリカルナッソスの中心地に何世紀もの間建っていました。紀元前334年にアレクサンドロス大王によって町が陥落したときも、紀元前60年前後に海賊の襲撃を受けたときも、被害を受けずに残っていました。そして、1600年もの間、廃墟となった町を見下ろすように建っていましたが、度重なる地震によって柱は崩れ、屋根に乗っていた馬車の像は地面に落ちてしまったといいます。1404年には、ただ土台だけが確認できたのみでした。
15世紀のはじめ、聖ヨハネ騎士団がこの地を侵略し、巨大な城を建てました。1494年にこの城を要塞化することが決まると、彼らはマウソロス霊廟の残骸を資材として使いまし。さらに1522年、オスマン軍が攻めてくるという噂が流れると、彼らはボドルム(旧ハリカルナッソス)の要塞を強化し、残っていた残骸もすべて城壁に使われてしまいました。今日でもこの要塞跡の壁に、かつて霊廟に使われていた大理石を見ることができます。
記録によれば、このころ騎士の一団が霊廟跡の土台に立ち入り、棺の間を発見しています。発見した日はすでに帰営の時間になっていたので、一団は棺を開けずに立ち去ります。翌日、彼らが棺を開けると、あるべき宝やマウソロスとアルテミシアの遺体は無くなっていました。騎士たちは、周辺の住民か海賊が略奪したと主張しましたが、実際に略奪したのは騎士たち自身であったとも言われています。
マウソロス霊廟の残っていた彫刻が砕かれて城壁の資材とされる前に、騎士たちはいくつかの優れた作品を移動してボドルム城に集めておきました。それらは、十字軍が引き上げた後も300年にわたりそこに保存されました。また、これらの内いくつかは大英博物館に収蔵され、後の霊廟跡の発掘にも資料として影響を与えることとなりました。
sechin@nethome.ne.jp です。
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