榛(はり)を詠んだ歌1
榛(はり)は、萩(はぎ)だという説もありますが、カバノキ科ハンノキ属の落葉高木の榛の木だという説が有力視されています。3~4月頃に葉が出る前に花をつけます。松かさのような形をした果実は、古代から黒褐色の染料として利用されてきました。
万葉集には14首に詠まれています。榛の群生地として「榛原(はりはら)」、または染料として使ったことを表して「衣に摺(す)りつ」などと詠まれている歌が多くあります。
巻1-0019: 綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
※井戸王(いのへのおおきみ、生没年不詳)
飛鳥(あすか)時代の歌人。天智天皇6年(667)の近江(おうみ)遷都のとき、額田王(ぬかたのおおきみ)に唱和した短歌1首が「万葉集」にあります。この歌から、額田王と接触し、宮廷につかえていた女性と推定されます。
◎綜麻とは、紡いだ麻糸を丸く巻いたものです。「綜麻形の林」とはどこなのでしょうか。詠まれた歌の背景が分からないと、理解が深まらない歌です、この歌は、
「『古事記』の崇神天皇の条にある三輪山伝説に、三輪山の神が活玉依毘売(いくたまよりひめ)のところへ通っていたが、神は身元を明らかにしない。それを針に糸を通して神の衣服に刺し、その糸の先を辿っていくと三輪山の神であったことが判明した。」
三輪山のハンノキで染めた色が衣によく染まるように、我が君(天智天皇)は立派にお見えになります、と詠った井戸王。王とありますが、天智天皇あるいは額田王に仕えていた女官かとも。
額田王の、近江遷都の折に大和から山城へ向かう途中に三輪山を顧みて愛惜の情を陳べた長歌:
味酒(うまさけ)三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや
(味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。)
この歌に和したものなのでしょうか。
巻1-0057: 引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
※長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ、生没年不詳)
柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)とともに、『万葉集』の第二期を代表する宮廷歌人で、持統・文武両朝に宮廷歌を残しています。
正史に記載がなく、生没年も系譜も官歴も不明ですが、長氏は、おもに渡来系の人に与えられた「忌寸(いみき)」という姓(かばね)であることから、渡来系氏族であろうと考えられています。
巻3-0280: いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
※高市黒人(たけちのくろひと、生没年不詳)
持統、文武朝の万葉歌人です。下級官吏として生涯を終えたようです。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり、大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸、翌年の三河国行幸に従駕して作歌しています。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌があります。『万葉集』にある黒人の歌は、高市古人あるいは高市作と伝えるものを含めて短歌 18首、すべて旅の歌です。なお,機知的な,ユーモラスな作品もあり、この時期の歌人としては珍しい存在です。
巻3-0281: 白菅の真野の榛原行くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原
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