瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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今年は、明治維新から150年だといいます。私たちは、この150年間を正しく理解しているのでしょうか。今朝の朝日新聞23面「明治維新150年の光と影」をここに留めてもう一度考え直してみようと思います。


 


近代日本の光と影 明治維新150年 ――



 


日本が近代国家への道に踏み出した明治維新から今年で150年になる。身分制を廃止し、西洋文明を積極的に取り入れた日本は、憲法と議会を設け、アジアでいちはやく近代化を成し遂げた。だが、その富国強兵路線は、やがて植民地獲得競争と侵略戦争へと突き進んだ。明治維新が生んだ近代日本の光と影を、隣国からの視線も踏まえて振り返る。日本にはあれ以外の道はなかったのだろうか。


 


 ■福沢に学び改革、期待は失望に 朝鮮からの視線


 ペリー来航で日本が鎖国に幕を下ろしてから2年、朝鮮に一人の人物が生まれた。のちに政治家、啓蒙(けいもう)思想家となる兪吉濬(ユギルチュン)(18561914)。その生涯は、両国の近代の歩みを映し出している。


 伝統的支配階級の出身だった兪は、二十歳を迎えるまでに祖国の激変を目の当たりにした。厳格な鎖国体制を貫いていた朝鮮は、1875年に日本にしかけられた武力衝突(江華島事件)がきっかけで開国する。


 朝鮮は、近代制度を学ばせようと日本へ視察団を送る。兪は文明開化の思想的指導者であった福沢諭吉の慶応義塾に学び、福沢宅に身を寄せた。


 兪の視線の先にあったのは富国強兵であった。朝鮮近代史が専門の月脚(つきあし)達彦東大教授(55)は「清から干渉されず、欧米とも対等になる方法を考えていた」と話す。


 兪は米国にも留学。その後著した「西遊見聞」で、「自由と通義(普遍の道理)の権利は、天下のすべての人民が同じく有し、享受する」と記した。福沢の「西洋事情」や「学問のすすめ」の影響がある。


 だがその頃、朝鮮は大きく揺れ動いていた。


 清との関係を維持するか、日本との関係を強化するかで政権内が対立。福沢との親交もあった開化派の金玉均(キムオッキュン)らは、84年にクーデターを起こすが失敗する。


 金らの動きに期待していた福沢は深く失望。こんどは「亜細亜東方の悪友を謝絶する」と朝鮮に批判的な「脱亜論」を発表した。


 両国関係は暗転する。日清戦争に勝利した日本は、朝鮮における清の影響力を排除し、自らの影響力を強めていく。


 この頃、陸奥宗光外相に会った兪は「日本の力を借りて改革することに恥ずかしさを覚える」と述べた。


 さらに日本は日露戦争に勝利すると、朝鮮から国名を改めた大韓帝国の外交権を奪い、保護国とした。10年には植民地にした。


 併合の年、兪は日本政府から爵位を授与されるが、受け取っていない。4年後にソウルで死去した。


 モデルとして期待を寄せた明治日本に植民地にされる、という運命を朝鮮はたどった。日韓関係を研究するソウル大の李泰鎮(イテジン)名誉教授(74)は問う。「戦後の日本は昭和への反省は口にする。しかし、そのまなざしを明治に向けたことがどれだけあったでしょうか」


 


 ■西洋の犬か、東洋を守る武人か 中国からの視線


 明治維新は中国の人々にも大きな衝撃を与えた。


 当時の中国は、清朝の専制体制だった。しかし、英国とのアヘン戦争に敗れるなど、中国は列強の侵略により疲弊の極みにあった。


 日本は維新を経て日清戦争に勝ち、富国強兵の道を歩んでいた。清では日本にならって立憲君主制を樹立しようとする制度改革の動きが起きた。だが、保守派につぶされる。その短さから「百日維新」ともいう。


 その後に登場したのが、清朝打倒を目指す革命諸団体をまとめた孫文(18661925)だった。「民族・民権・民主」の三民主義を掲げた孫文も、明治維新をモデルと考えた。


 当時の日本には、孫文と交流し、彼の運動に共鳴する人が少なくなかった。その一人、犬養毅(のちの首相)あての書簡で、孫文は次のように書いた。


 「日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命は日本の維新の結果であり、両者はつながって東亜の復興を達成する」


 しかし、現実の日本は、その期待から離れていく。


 第1次大戦で欧州列強が東アジアから退いたのに乗じ、大隈重信内閣は1915年、満州や山東省などでの権益確保を求めた21カ条の要求を中国に突きつけ、これを認めさせた。


 第1次大戦後のパリ講和会議では、日本がドイツから奪った山東省の権益が承認された。北京の学生数千人が19年5月4日、天安門広場から抗日デモ行進を行い、この動きは、全国に波及する愛国運動となった。五・四運動である。


 24年11月、孫文は神戸に立ち寄った。日本での最後の講演で、思いのたけを込めた。


 「日本民族は既に欧米の覇道の文化を取り入れると共に、アジアの王道文化の本質をも持っている。日本が西洋覇道の鷹犬(ようけん)(狩りに用いられる犬)となるか、東洋王道の干城(かんじょう)(守護する武人)となるか、それは日本国民の考慮と選択にかかるものである」


 その後の日本は、孫文の言う覇道を進んだ。


 北京大学法学院の賀衛方教授(58)は「明治維新は日本のそれまでの国の姿を崩し、新たに、天皇中心の特別な国であるとする皇国意識が強調された。覇権拡張は、その国家観の結果だったのではないか」とみる。


 


 ■「脱亜」の野蛮性を批判


 アジアを脱して欧米列強と肩を並べることを目指した明治日本。その時流に逆らった反骨の人物がいた。江戸城を無血開城に導いた旧幕臣、勝海舟がその人だ。


 ――日本はアジアの東辺にあるが、国民の精神はアジアを脱して西洋の文明に移っている。不幸な国が近隣にある。一つを支那といい、一つを朝鮮という。


 福沢諭吉の「脱亜論」にこういう趣旨の一節がある。福沢だけではない。当時の知識人、政治家のほとんどは日本を「文明」の側におき、隣国の朝鮮、清を遅れた「野蛮国」とさげすんだ。


 しかし、勝は違った。新政府でも参議兼海軍卿(海軍大臣)などの要職に就いた勝だが、独自の姿勢を貫いた。1887(明治20)年、首相の伊藤博文に意見書を送って勝はこう述べる(要旨)。


 ――日本の制度、文物はことごとく支那から伝来した。仇敵(きゅうてき)のようにみるのでなく、信義をもって交際されたい。


 94年7月、日本軍が朝鮮の王宮を攻撃して日清戦争が始まった。朝鮮から宗主国・清の勢力を排除するのが日本の狙いだった。開戦直前、勝は語る。


 「朝鮮を馬鹿にするのも、ただ近来の事だヨ。昔は、日本文明の種子は、みな朝鮮から輸入したのだからノー。……数百年も前には、朝鮮人も日本人のお師匠様だつたのサ」


 勝は古くからの隣国との信義を重んじ、欧米のアジア進出にも連携して対処しようと考えていた。


 日清戦争で日本軍は抗日の朝鮮農民(東学農民軍)に銃口を向け、3万人以上が犠牲になったとされる。この戦争を福沢は「文野(文明と野蛮)明暗の戦……世界の文明の為(た)めに戦ふ」と正当化した。朝鮮を清から独立させ文明化するための「義戦」だと。


 一方、勝は「大義なき戦」と断じ、「自分ばかり正しい、強いと言ふのは、日本のみだ。世界はさう言はぬ」と批判した。


 「明治の海舟とアジア」などを著した歴史学者、松浦玲さん(86)は言う。


 「福沢は文明と野蛮を対立的にとらえたのに対し、勝は文明自体がもつ野蛮性、暴力性に目を向けた。そこが大きく違っていた」


 1890年代、栃木県の足尾銅山から出た鉱毒が農地を汚染し、社会問題化した。この事件について、勝は97年にこう述べる。


 「旧幕は野蛮で今日は文明ださうだ。……山を掘ることは旧幕時代からやつて居た事だが、旧幕時代は手のさきでチヨイチヨイやって居たんだ。……毒は流れやしまい。……今日は文明ださうだ。文明の大仕掛(おおじかけ)で山を掘りながら、その他の(鉱毒を防ぐ)仕掛はこれに伴はぬ……元が間違つてるんだ」


 98年、鉱毒問題と闘う田中正造が勝のもとを訪れる。勝75歳、田中56歳。このとき勝は「百年後、あなたが極楽か地獄かにお越しになった節は、必ずや総理大臣を申しつけましょう」との趣旨の「証文」を戯れに書き、田中に与える。


 勝と田中は、アジアの隣国や鉱毒被害者の側、「野蛮」の側に身をおいて明治の「文明」を批判した。日本がアジアへの勢力拡大と近代化を急ぐなか、二人は「もう一つの近代」を見据えていた。


 勝は田中と会った半年後に没し、田中は晩年の1912(大正元)年、次の言葉を日記に書きつける。


 「真の文明ハ山を荒(あら)さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」


 「文明国日本」はその後も対外戦争を繰り返し、45(昭和20)年8月、焦土となって敗戦の日を迎えた。


 


 ■<解説>時代の渦、抗した声にも焦点を


 「一身にして二生を経る」とは、この特集に幾度も出てきた明治の思想家、福沢諭吉の言葉である。


 幕末、下層武士に生まれた福沢は、新しい明治の世に、慶応義塾を率いて、多くの人材を世に出し、言論人としても活躍した。まさに二つの人生を生きた。


 近代日本も、敗戦を機に「二生を経る」コースを歩んだように見える。無謀な戦争に突入した帝国日本は崩壊し、国民主権の民主主義国家として再出発した。


 実は、このふたつの近代日本が存在することが、明治維新150年の評価を難しくしている。


 明治維新によりアジア初の近代国家を造ったことは、国民の大きな誇りになってよい経験だろう。しかし、単純にそれをたたえるには、その後の植民地支配や侵略戦争の過去が重い。


 どこで日本は針路を誤ったのだろうか。それとも、明治の出発点から問題をはらんでいたのか。


 軍事的拡張路線に反対したのは、ここで紹介した勝海舟や田中正造だけではない。大正デモクラシーの思想家吉野作造は、朝鮮の独立運動や中国の民族主義に強い共感を示した。経済ジャーナリストで戦後は首相となった石橋湛山は、植民地は不要だとする小日本主義を唱えていた。


 彼らの声は結局、高まるナショナリズムにかき消されたが、時代の巨大な渦の中で、そういう声があったことが重要だ。


 歴史とは、様々な可能性の束である。起きたことだけが、必然の道だったのではない。過去に立ち返って、人々の判断と具体的な行動を吟味する。近代日本の歩みを振り返るためにはその作業が欠かせない。   (朝日新聞DIGITAL 20188220500分)


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