瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今日は朝から雨、徘徊は休んでしまった。
我々大多数の日本人が死ねば仏教儀礼によって葬られ、遺族が定期的に墓参し法事を営む。そしてね大部分の家庭には仏壇が設けられ、必要があればいつでも仏具屋やデパートで購入することができる。さらには仏教に関する単行本や雑誌が数多く刊行されて、相当に売れているし、寺院及び寺院以外における説教や講演の集会も盛んに行われ、これによって大儲けしている俗物宗教家も見受けられる。座禅やその他の実践に参加する人々も多い。まあ、これらを観れば、仏教は日本人の生活に溶け込んでいるとも見られる。しかしながら、日本には仏教の立場に立つ政党と言うものはない。特定の宗教団体を背景とする政党があるにしても、実際の政治活動からみて、仏教の理想を実現するための政党であるとは思えない。言論界でも同じで、一流の新聞・雑誌における宗教の扱い方にそれが現れている。目にする新聞で宗教欄をもつものは殆んど見当たらず、仏教が記事になることもごく稀である。代表的な週刊誌や月刊してもご同様である。欧米の一般雑誌におけるキリスト教の扱い方と比較すると、わが国では公の場で仏教が如何に冷遇されているかは明らかである。概して、個人的ないし家庭的生活においては仏教は実際に重要な地位を占めているのだが、公的な場においては軽視されているといわねばならない。
今朝の朝日新聞4面に曰く、「『仏教 死ねばみな仏様』小沢氏、宗教・文明観を改めて観披露 ―― 民主党の小沢一郎幹事長が16日の記者会見で、仏教観と文明観を改めて披露した。/10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。/これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。さらに、エベレストに挑んだ登山家の「そこに山があるから」という発言を引用し「西洋文明は自然も人間のために存在する考え方。(エベレストの)地元では霊峰としてあがめられて、征服しようという考え方はアジア人にはほとんどない」と語り、西洋思想は人間中心だが、東洋思想は人間が自然の一部だと強調。最後は「僕も君も、死にゃ仏になれるんだ、だから」と締めくくった。(10/17、asahi com よりコピー掲載)
日本語の用例に従うならば、「仏」という後は死者を指し、死者の霊が安らかに鎮まることを「成仏」と言うらしいが、仏教経典の中にはそのような用法を見ることはない。生理的死によってすべての人が「仏陀」になることを承認すれば、仏教の体系は無用となる。また、読経ないし念仏によって死者が成仏するということも仏典の中にその根拠を求めることは出来ない。
人間はすべて死によって消滅するのではなく、現在の生涯の総決算の結果として、生まれ変わって次の生涯を開始する。かくして生涯の連続は無限に続く、これを輪廻という。この輪廻から脱出するためには宗教の理論と実践が必要となる。輪廻から脱出することを解脱といい、解脱した人はもはや再生することはない。仏陀はこの世においてすでに解脱しているから死後に再生することはない。我々の住む世界に生まれて仏陀となった人間は釈迦牟尼ただひとりだけである。「仏陀となる」すなわち「成仏する」ことは仏教の理想ではあるが、それを実現することは極めて困難なことなのである。
我々大多数の日本人が死ねば仏教儀礼によって葬られ、遺族が定期的に墓参し法事を営む。そしてね大部分の家庭には仏壇が設けられ、必要があればいつでも仏具屋やデパートで購入することができる。さらには仏教に関する単行本や雑誌が数多く刊行されて、相当に売れているし、寺院及び寺院以外における説教や講演の集会も盛んに行われ、これによって大儲けしている俗物宗教家も見受けられる。座禅やその他の実践に参加する人々も多い。まあ、これらを観れば、仏教は日本人の生活に溶け込んでいるとも見られる。しかしながら、日本には仏教の立場に立つ政党と言うものはない。特定の宗教団体を背景とする政党があるにしても、実際の政治活動からみて、仏教の理想を実現するための政党であるとは思えない。言論界でも同じで、一流の新聞・雑誌における宗教の扱い方にそれが現れている。目にする新聞で宗教欄をもつものは殆んど見当たらず、仏教が記事になることもごく稀である。代表的な週刊誌や月刊してもご同様である。欧米の一般雑誌におけるキリスト教の扱い方と比較すると、わが国では公の場で仏教が如何に冷遇されているかは明らかである。概して、個人的ないし家庭的生活においては仏教は実際に重要な地位を占めているのだが、公的な場においては軽視されているといわねばならない。
今朝の朝日新聞4面に曰く、「『仏教 死ねばみな仏様』小沢氏、宗教・文明観を改めて観披露 ―― 民主党の小沢一郎幹事長が16日の記者会見で、仏教観と文明観を改めて披露した。/10日に和歌山県の高野山金剛峯寺を訪れた際に、キリスト教を「排他的」「独善的」と指摘。これに対し、「日本キリスト教連合会」が「キリスト教に対する一面的理解に基づく、それこそ『排他的』で『独善的』な発言」と抗議文を送っている。/これを受けて小沢氏は16日、「(仏教の世界観では)生きながら仏にもなれるし、死ねば皆、仏様。ほかの宗教で、みんな神様になれるところがあるか。根本的な宗教哲学と人生観の違いを述べた」と説明。さらに、エベレストに挑んだ登山家の「そこに山があるから」という発言を引用し「西洋文明は自然も人間のために存在する考え方。(エベレストの)地元では霊峰としてあがめられて、征服しようという考え方はアジア人にはほとんどない」と語り、西洋思想は人間中心だが、東洋思想は人間が自然の一部だと強調。最後は「僕も君も、死にゃ仏になれるんだ、だから」と締めくくった。(10/17、asahi com よりコピー掲載)
日本語の用例に従うならば、「仏」という後は死者を指し、死者の霊が安らかに鎮まることを「成仏」と言うらしいが、仏教経典の中にはそのような用法を見ることはない。生理的死によってすべての人が「仏陀」になることを承認すれば、仏教の体系は無用となる。また、読経ないし念仏によって死者が成仏するということも仏典の中にその根拠を求めることは出来ない。
人間はすべて死によって消滅するのではなく、現在の生涯の総決算の結果として、生まれ変わって次の生涯を開始する。かくして生涯の連続は無限に続く、これを輪廻という。この輪廻から脱出するためには宗教の理論と実践が必要となる。輪廻から脱出することを解脱といい、解脱した人はもはや再生することはない。仏陀はこの世においてすでに解脱しているから死後に再生することはない。我々の住む世界に生まれて仏陀となった人間は釈迦牟尼ただひとりだけである。「仏陀となる」すなわち「成仏する」ことは仏教の理想ではあるが、それを実現することは極めて困難なことなのである。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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