12月8日(土)、忘年会の日は5時半ごろNabeちゃんが家まで迎えに来てくれました。これも恒例の事になりますか、会の前にわざわざ車を出して、私を送ると駒形の家まで車を置きに帰るらしい。
ひさご通りの入り口で車から降りると会場のTAKEYAまではすぐです。ジャンバーを脱ぐのにTAKEYAの奥さんが傍に来て手伝ってくれます。若手の塾友が数名来ているだけでしたが、間もなく大森夫妻も到着します。会費を払って大森師と並んで席に着くと会が始まる前の潤いの生ビールで乾杯です。
大森師はご存知の通り、通称「ワンさん」で親しまれています。なんでも小学生の時や旧仲間でみんなから彼の王貞治に寄せてこのように呼ばれるようになったそうです。
夫人の美佐子女史は麻丘めぐみに似ているということで、カラオケでは「私の彼は左利き」を歌わされていましたっけ。
https://www.youtube.com/watch?v=h27mnsa5gzw
間もなくNabeちゃんが到着して、彼の司会で会が始まります。例年のことですが、塾長のスピーチから会が進みます。かつては結婚式の仲人スピーチで長すぎると顰蹙を買った塾長も今は年を取って思うように言葉が出ません。自分で何を話したかよく覚えていません。それでも、みんなは静かに聞いていてくれたようです。
大洗で指導員をお願いしていたF女史の紹介で、仁科での水泳部長を村井先生にお願いすることになりました。早稲田大学の教育学部体育科の学生でしたが、大洗では実現できなかった遠泳のスタイルなど、兼愛塾夏期学校の水泳部の基盤を作り上げて下さいました。
川鍋(Nabeちゃん)・栗原(Shingoちゃん)・永田(Chakiちゃん)の諸兄は、「花の二八組」のメンバーで、いずれも慶応ボーイです。
Nabeちゃんはいつの間にかChieちゃんを射止め、私が媒酌人を務めさせていただきました。
Shingoちゃんは皆さんが臨海で就寝前に歌った「仁科の海よ」の作曲者です。私が作詞した詩にわずか15分ばかりで曲をつけてくれたギターの名手です。
Chakiちゃんは医学部卒で、当時の医学の新しい分野「リハビリテーション」を目指し、つい最近まで市川市リハビリテーション病院の病院長を務めていました。
3番目の写真の木島敬夫氏・窪田公一氏(Kouちゃん)・佐藤隆哉氏(Takaya)は、昭和29年生まれ組で同期です。
木島氏は妹Misakoちゃんが小学4年で大洗時代から参加していたことから、高校時代から仁科の臨海に参加しました。当時は風呂もご飯も薪で炊いていました。薪割も指導員・高学年の仕事の一つでした。薪割で手に裂傷を負ったにも拘らず、毎年のように参加してくれて、Maichiの跡を継いで水泳部長も務めました。就職してからも毎年のように仁科を訪ねてくれました。
Kouちゃんは早稲田の理工学部化学科卒業後、医師を目指し、信州大学の医学部に在籍したため、普通より長く水泳部長・医務部長などで指導員を務めてくれました。私が42歳の年に櫓を新調した春には車を出してくれて仁科まで往復してくれました。その夜民宿「たつみ」で飲みすぎ、私は帰郷後腹痛を起こし、救急病院で十二指腸潰瘍と診断されました。
Takayaは、中学1年からの参加で、ブレストが得意だったと記憶します。ジャーナリスト志望で、私の従姉妹がその関係に勤めていたので、伝手を頼んだのでしたが力になれませんでした。荒井夫人(Minoちゃん)の紹介で現夫人と結ばれ、私が媒酌を務めさせていただきました。
荒木田一裕氏は「花の二八組」のメンバーです。両国中学では故北の湖と同期ということです。商船大学卒です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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