瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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  明日で姉の死から四七日〔しなぬか、28日目〕になる。追悼文集を出すと言うので、姉のアルバムづくりや、私の追悼文作成で、ブログもしばらくお休みしてしまった。はてさて、しばらく中断すると何をとりあげようかとまよってしまう。
 取りあえずブログでこれまでもしばしば取り上げてきた暴君の代名詞ともされている殷の30代の帝王「紂」について、史記の記述を調べてみた。


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 史記 殷本紀 第三 より
 帝乙長子曰微子啟、啟母賤、不得嗣。少子辛、辛母正后、辛為嗣。帝乙崩、子辛立、是為帝辛、天下謂之紂。
〔訳〕 帝乙の長子を微子啓といったが、啓の母はいやしい身分の出身だったので、啓は嗣子になることができなかった。少子を辛といったが、辛の母は正后であったので、辛が嗣子になった。帝乙が崩じて、その子の辛が経った。これが帝辛であるが、天下の人々は紂とよんだ。
※ 微子啓と辛の母は同一人物であるが、啓が生まれた時はまだ正后に立てられておらず、その後正后煮立てられてから辛を生んだので辛が嗣子に成ったという説がある。一説によれば、紂とは義を残(やぶ)り善をそこなう意で、死後に諡(おくりな)されたのだという。また、一説によれば、殷では生日を子の名とする習慣があり、辛の日に生まれたので辛となづけられたが、他に受という嘉名もつけられ、その受は紂と音が近いので天下の人々が紂と称したのだという。
 
 帝紂資辨捷疾、聞見甚敏;材力過人、手格猛獸;知足以距諫、言足以飾非;矜人臣以能、高天下以聲、以為皆出己之下。好酒淫樂、嬖於婦人。愛妲己、妲己之言是從。於是使師涓作新淫聲、北里之舞、靡靡之樂。厚賦稅以實鹿臺之錢、而盈鉅橋之粟。益收狗馬奇物、充仞宮室。益廣沙丘苑臺、多取野獸蜚鳥置其中。慢於鬼神。大聚樂戲於沙丘、以酒為池、縣肉為林、使男女裸相逐其閒、為長夜之飲。
cbae6c24.JPG〔訳〕 帝紂は弁舌さわやかで動作もすばしこく、見聞きしても物事の本質をつかむことに聡(さと)く、才能も腕力も人よりすぐれており、手で猛獣を打ち倒すこともできた。知恵は諫言をふさいでしまうほどよくまわり、言葉は非行を飾り立てるに充分であった。臣下に対しては己の才能を誇り、天下に対しては名声を得ているとして傲然とのぞみ、人々はみな自分以下だと思っていた。酒を好んで淫楽し、女好きで姐己(だっき)を寵愛し、姐己のいうことには何でも従った。音楽師の涓(けん)に命じて、新しい淫らな歌謡――「北里の舞」「靡々(びび)の楽」をつくらせた。賦税を重くして、鹿台〔ろくだい、都にあった台〕に金銭を満たし、鉅橋〔きょきょう、倉の名〕に穀物を満たし、狗(いぬ)、馬、珍奇な物品をどしどし没収して宮室を充満し、沙丘〔さきゅう、離宮の名〕の苑や台をさらに拡張して、野獣や飛鳥を大々的にとらえてその中にはなった。そして鬼神をあなどり、群臣官女を集めて沙丘でだだら遊びにふけった。すなわち、酒で池をみたし、その池の周囲に食肉をかけ、男女を裸にしてその間を追逐させ、夜を徹しての酒宴をはったのである。
 
 百姓怨望而諸侯有畔者、於是紂乃重刑辟、有炮格之法。以西伯昌、九侯、鄂侯為三公。九侯有好女、入之紂。九侯女不喜淫、紂怒、殺之、而醢九侯。鄂侯爭之彊、辨之疾、并脯鄂侯。西伯昌聞之、竊嘆。崇侯虎知之、以告紂、紂囚西伯羑里。西伯之臣閎夭之徒、求美女奇物善馬以獻紂、紂乃赦西伯。西伯出而獻洛西之地、以請除炮格之刑。紂乃許之、賜弓矢斧鉞、使得征伐、為西伯。而用費中為政。費中善諛、好利、殷人弗親。紂又用惡來。惡來善毀讒、諸侯以此益疏。
e7169523.JPG〔訳〕 〔このような状態だったので〕民は怨み、諸侯のうちには叛くものがあった。すると、紂は刑罰を重くし、「炮格(ほうらく)の法」をつくった。当時、殷では西伯昌〔せいはくしょう、後の周の文王〕・九侯(きゅうこう)・鄂侯(がくこう)を三公(3人の主要な大臣)としていた。九侯には美しい女(むすめ)があり、これを紂の室に入れていた。九侯の女は淫楽を好まなかった。紂は怒ってこれを殺し九侯をも醢〔ししびしお、しおから・肉の塩漬け〕にした。鄂侯は紂のそのような非を諌めて、言葉をつくして強く争った。すると、紂は鄂侯をも脯〔ほじし、ほしにく〕にしてしまった。西伯昌はこれを聞いて、ひそかに嘆息した。崇侯虎(しゅうこうこ)がこのことを知って紂に密告した。紂は西伯を羐里〔ゆうり、河南省〕に幽囚した。しかし、西伯の臣の閎夭(こうよう)たちが、美女、珍奇な物品、素晴しい馬などを求めて紂に献上すると、紂は精白を赦放した。西伯は羐里をでると紂に洛西の地(洛水の西の地)を献じて、それで「炮格の刑」を除去することを請うた。紂はこれを聴許し、弓矢・斧鉞を賜うて帝の命にそむくものの征伐を許し、西伯〔西方の諸侯の長〕に任じた。このように三公を廃した紂は、費中(ひちゅう)を登用して政治に当たらせた。費中は諛(へつらい)がうまく利益を好んだので、殷人が親しまなかった。紂はまた悪来(おらい)を登用した。悪来は人を讒言して傷つけることがうまかった。諸侯はこのためますますと殷と疎遠になった。
 
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