瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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92a64cad.JPG 石原慎太郎東京都知事「津波は天罰」発言 ―― 東京都の石原慎太郎都知事(78)の発言が波紋を呼んでいる。14日に都内で蓮舫節電啓発担当相と会談、節電への協力要請を受け、その後、記者団から東日本大震災の国民の対応について問われると、「我欲で縛られた政治もポピュリズムでやっている。それを一気に押し流す。津波をうまく利用して、我欲をやっぱり一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う。被災者の方々はかわいそうですよ」と述べた。/さらに、その後、都庁で神奈川県の松沢成文知事(52)などと会見、ここで記者団から先ほどの発言の真意を聞かれるも、「大きな反省の一つのよすがになるんじゃないですか。それしなかったら犠牲者たちは浮かばれない」などと釈明するも、発言の撤回、謝罪はなかった。/また、一部報道では、発言の際に石原氏は「被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが」との言葉を添えたと説明しているが、実際は話していなかったという。/今回の地震により、東京でも鉄道網の混乱や計画停電などで多くの都民も被害にあっている。石原氏は4月の都知事選への4選出馬を表明しているが、今回の“天罰”発言がどう選挙へ影響するのだろうか。  (リアルライブ、2011年03月15日 11時45分)

35f27f0b.JPG 東日本大震災:福島第1原発2号機で爆発 格納容器損傷か ―― 経済産業省原子力安全・保安院は15日、東日本大震災で被災した福島第1原子力発電所2号機で午前6時14分ごろ、水蒸気を水に変える原子炉格納容器につながる圧力抑制プール付近で爆発音があり、破損した恐れがあると発表した。同午前8時31分には同原発正門付近で、一般人の年間被ばく線限度の約8倍に当たる8217マイクロシーベルトを記録、東京電力は炉心への注水作業に必要な作業員以外を被ばく回避のため一時的に避難させた。/同原発1、3号機の水素爆発による原子炉建屋の上部外壁の破壊と異なり、格納容器自体が損傷した可能性があり、国内の原発事故としては最悪のケースとなった。一方、政府は15日未明、政府と東電が一体となって今回の事故に対応するため「福島原発事故対策統合連絡本部」(本部長・菅直人首相)を東京・内幸町の東電本店に設置、被害拡大阻止に全力で臨む方針だ。菅首相は自ら東電を訪れ、政府への報告の遅れなど一連の東電の対応を激しく批判した。東電は15日午前7時、地域別に順番に電力供給を停止する計画停電を再開した。/保安院によると、東電から15日午前6時14分に2号機で爆発音がしたと報告があった。その後、圧力抑制プールと呼ばれる格納容器とつながって水蒸気を水に変える設備の圧力が3気圧から1気圧に低下した。直後の同午前7時に正門で1時間当たり965.5マイクロシーベルトの放射能を計測した。2号機で作業をしていた従業員は一時的に避難した。/同午前8時半に記録した1時間当たり8217マイクロシーベルトは、一般の人が1年間に許容される放射線量の約8倍に上る。東電によると、同地点では、午前7時現在で1.9メートルの北西の風が吹いていた。保安院は「直ちに健康被害が出る値ではないが、周辺の放射能レベルは通常より上昇している」としている。同8時50分には2208マイクロシーベルトに低下した。/圧力抑制プールは格納容器内の圧力を下げるため、蒸気を取り入れて水に戻すためのプール。圧力容器内の蒸気を外部に放出する際に放射能濃度を下げる役割もある。穴が開いてたまっていた水がなくなっていれば、圧力容器内の気圧を下げるため放出している空気の放射能が水に吸収されず、そのまま外部に漏れる恐れがある。/2号機は14日、原子炉に水を入れることができなくなり同日午後6時半ごろから約2時間20分にわたって燃料棒がすべて水の上に露出した状態になった。注水を再開し水位が上昇したが、同日午後11時ごろから翌午前6時ごろまで、再び燃料棒(約4メートル)がすべて露出した状態になったとみられる。一方で爆発後に原子炉内の水位が上昇し、露出部分は2.7メートルになった。爆発の影響で炉内の圧力が下がったためと考えられる。/また、東電は15日、福島第1原発4号機で同午前6時ごろ異音がし、原子炉建屋5階が損傷したとみられると発表した。詳しい状況は分かっていない。東電は、同8時半ごろ正門付近で非常に高い放射線量が計測されたことと何らかの関係があるかもしれないとしている。作業員にけがはなかったという。/4号機は地震発生当時は定期検査中で運転しておらず、燃料は原子炉からすべて出され使用済みプール内にあった。5階は原子炉格納容器の上部にあたる「オペレーションフロア」と呼ばれる広い空間で、燃料の搬出入に使うクレーンがあり、使用済み燃料プールも5階に水面がある。   毎日新聞 2011年3月15日 10時46分(最終更新 3月15日 11時06分)

 蘇洵の「詩論」は現代でいう詩論ではない。『詩経』の効用についての議論である。蘇洵は儒家の基本的経典である『六経』のそれぞれについて独特の議論を展開した(易論・礼論・楽論・詩論・書論・春秋論)。これはそのなかの一篇である。かれの六経論は本文にも見られるように「礼」を軸として展開され、伝統的でオーソドックスな経典解釈に無い独特なものを含んでいる。そして作者の意図の如何に拘わらず、支配者側の立場が生々しく語られている。
73696f72.JPG     『詩経』論            蘇 洵
 人が欲するものの中には、命よりもさらに好ましいと思うものがある。そして腹立ち・無念さ・恨み・怒りなどため、己の死を顧みない者がいる。かくて「礼」という手段もゆきづまる。
 礼の法則によれば、「好色は行ってはならない。人の臣下として、人の子として、人の弟としては、その主君・父・兄にうらみを持ってはならない」という。
 天下の人々が、みな色を好まず、その主君・父・兄をうらまぬようになれば、それこそ「善」というものではないか。人々の感情が、すべてあっさりとして邪念を持たず、穏やかで物柔らかになり、そのことにつとめるようであれば、天下もよく治まるはずである。しかし、人の感情はみながそうなれるものでもない。色を好む心が、人を内側からつき動かし、批判と不満の気持ちが、人を外部から攻め立てて、燃え上がるように次々と起こって、損得を顧みず、死ぬまでやめようとしない。
 ああ、「礼」という手段の有効範囲は、死生の問題にまでは及ばない。世間の事で、生命をかけるほどでないものならば、人はあえて死を冒してまで「礼」の法則にそむこうとはしない。ところが、人の好色と批判・不満の心とは、勃然と内側から起こり、これは生命をかけてもよいと思うのである。そして己を詩の境地においているのだから、死か生かという転機は、もとよりすでになくなっている。生か死かの天気がなくなっておれば、「礼」の手段としての意味もないといえよう。しかるにこせこせと意味の無い「礼」をかかげて、人に無理強いをすれば、混乱はいよいよひどくなり、「礼」はいよいよ後退しよう。
いま私が人にこういったとする、「あくまでも色を好んではいけない。あくまでも主君・父・兄をうらんではならない」と。
 その人は結局私の言葉に従って、その心中にもつ感情を忘れようとするだろうか。それはできないであろう。その人が「礼」の法則をそのまま使い得ないからには、結局は全て打ち棄てて顧みないようになるだろう。わが「礼」の法則が全て打ち棄てて顧みられぬようになれば、人の好色とその主君・父・兄をうらむ心とは、あふれあふれて極限が無くなってしまうだろう。そして妻をとりかえ人妻を盗む異常事や、その主君・父・兄を殺す禍根事は、逆に必ず天下に横行することになろう。
 聖人はこれを心配して、こういわれた。「人の好色を禁じて、淫乱に至らしめ、人の主君・父・兄へのうらみを禁じて、反逆に至らしめる、その禍は人をあまりにひどく責めることからおこるのだ。好色を絶ち切らず、うらみを禁じないならば、その人はかえって世を乱すまでには至らないだろう」
 だから聖人の方法は、「礼」に厳格で、「詩」に融通性をもたせたのである。
 「礼」にいう、「あくまでも好色であってはならぬ。あくまでも汝の主君・父・兄をうらんではならぬ」と。
 「詩」にはいう、「色を好んでも、淫乱に迄派なるな。汝の主君・父・兄をうらんでも、反逆するまでにはなるな」と。
 厳格さで天下のすぐれた人たちに期待し、融通性で天下の凡人たちを守ったのだ。
 私の見るところでは、「詩経」の国風の詩は、みずみずしくたおやかだが、結局はすじを通しており、色を好んでも淫乱にまではならぬものである。小雅の詩は悲痛で非難をこめてはいるが、君臣の情は結局棄てる忍びず、うらんでも反逆にまでは至らぬものである。
 だから天下の人々は、それを見てこういっている。「聖人は当然のこととして、われわれが色を好むのを許し、われわれが自分の主君・父・兄をうらむのを、お咎めにならぬ。われわれに色を好むのを許されれば、淫乱にならなくてもすむ。われわれが自分の主君・父・兄をうらむのを咎められなければ、彼らがわれわれを虐待しても、われわれははっきりと非難し、はっきりとうらみ、天下の人々にはっきり知らせれば、わがうらみもはっきりはけ口が得られる。はんぎゃくしなくてもすむのだ」
 そもそも聖人の掟に背いて、自分から淫乱・反逆に身を投げるのは、決断が無ければできぬことである。決断のはじめは、耐え切れぬことからおこる。人は自分で怒りに耐え切れぬようになって、初めて無理にその身を棄ててしまうものだ。だから「詩」の教えは、人の感情を耐え切れぬまでにさせぬ所にある。
 そもそも橋が舟より安全であるとするのは、橋が存在しているときこそそういうのだ。ひどい洪水がやってくれば、橋はかならず壊れるが、舟は必ずしもつぶれるとはかぎらない。だから舟は、橋のたらぬ所を助けるためのものだ。
 ああ、「礼」という手段が、その判りやすさのゆえに行き詰まったときには、「易」がある。後世の人が信じなくなって行き詰まったときには「楽」がある。人に無理強いして行き詰まったときには「詩」がある。ああ、聖人の物事への配慮は、何と行き届いたものであろうか。


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董仲舒の天譴説復活^^
 さすが慎太郎さんで、いつも名言を連発していますネ。おかげで2000年前の後漢の天譴説は懐かしく復活しました!!^^
 ところで、さきほど静岡東部で地震が発生しましたね。でも瘋癲爺がすでにぐっすりお眠りになったでしょうネ?こちらは長く揺れましたよ。
 といえば、余震はいつ静まるだろうか?
 東北地方大地震が起きて以来、ぼくの神経が日々すり減らされています(>_<)。
シン 2011/03/15(Tue) 編集
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目高 拙痴无
年齢:
92
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1932/02/04
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