桜(さくら)を詠んだ歌1
桜(さくら)はバラ科サクラ属です。3月~5月に日本を北上しながら白・ピンクの花を咲かせる日本の春を代表する花です。
ちなみに、桜(さくら)の語源の一つの説として、「さ」が田の神、「くら」は神の座(くら)のことだという説があります。
万葉集は梅ばかり詠んでいるのかというと、そうでもなくて桜を詠んだ歌もかなりあるんですね。万葉集の時代にも桜は人々に愛されていたようです。
巻3-0257: 天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に.......(長歌)
※鴨君足人(かものきみのたりひと、生没年不詳)
鴨君足人についてははっきりしたことは分かりませんが、藤原宮大極殿の地を鴨公というそうなので、そこに居住した祭祀の氏族かと思われます。
巻3-0260: 天降りつく神の香具山うち靡く春さり来れば桜花.......(長歌)
巻5-0829: 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや
※張氏福子(ちょうしの-ふくし、生没年不詳)
奈良時代の医師。大宰(だざいの)薬師。渡来系氏族で,「藤氏家伝」にみえる方士張福子と同一人とみられます。
小楢(こなら)を詠んだ歌
小楢(こなら)は、ブナ科コナラ属のの落葉高木です。15メートルくらいのものもあります。薪(たきぎ)、炭、家具などに使われます。5月頃に黄色い花を垂れ下げるように咲かせます。
万葉集には1首だけに登場します。
巻14-3424: 下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ
児の手柏を詠んだ歌
万葉集には2首に登場しますが、現在のどの草木にあたるのかはよく分かっていません。ここでは、ヒノキ科のコノテガシワ属の「児の手柏(このてかしわ)」を紹介させていただきます。「児の手柏(このてかしわ)」は4月頃に白いこんぺいとうのような花を咲かせます。
現在の「児の手柏(このてかしわ)」は、江戸時代に日本に来たという説があります。他の説としては、次のようなものがあります。
・柏(かしわ)の若葉
・男郎花(おとこえし): オミナエシ科の多年草
・柞(ははそ): 小楢(こなら)、橡(つるばみ)などのブナ科の樹木のこと
巻16-3836: 奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴
※背奈 行文(せな の ゆきふみ、生没年不詳)
奈良時代の官吏。
幼少より学をこのみ明経第二博士となり、養老5年(721)学業優秀として賞されました。神亀(じんき)4年従五位下。「万葉集」にこの1首とられています。また「懐風藻」に従五位下大学助、年62とあり、五言詩2首が載っています。武蔵(むさし)高麗郡(埼玉県)出身。姓は消奈ともかきます。
巻20-4387: 千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ
三枝(さきくさ)を詠んだ歌
三枝(さきくさ)が何なのかははっきりしていません。三椏(みつまた)、福寿草(ふくじゅそう)、沈丁花(じんちょうげ)などの説があります。ここでは、三椏(みつまた)として説明します。
三椏(みつまた)はジンショウゲ科の落葉低木です。枝が先で3本ずつに分かれるので、この名前がついたとのことです。3月頃に、葉が出てくる前に黄色い毬(まり)のような花をつけます。樹皮は紙の原料としても有名です。
万葉集には2首に登場しますが、いずれも花そのものではなくて、枕詞として使われています。
0904: 世間の貴び願ふ七種の宝も我れは何せむに我が中の.......(長歌)
※山上憶良(660~733ころ)
奈良時代の万葉歌人。文武5 (701) 年遣唐少録として名を記録されたのが『続日本紀』の初出で,このとき 42歳で無位でした。霊亀2 (716) 年伯耆守し、養老5 (721) 年東宮 (のちの聖武天皇) 侍講となり、この頃『類聚歌林』を編纂したとされます。神亀2 (725) 年頃筑前守となり、同じ頃大宰帥となった大伴旅人らとともに盛んな作歌活動をし、いわゆる筑紫歌壇を形成しました。『万葉集』には長歌約 10首、短歌約 50~80首、旋頭歌1首があるが、彼の作とする歌の範囲については説が分れています。ほかに漢詩2首,漢文数編が収められています。『貧窮問答歌』に代表される社会や人生の問題を題材とした、思想性に富んだ歌が特色です。
1895: 春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹
枳(からたち)を詠んだ歌
枳(からたち)は、ミカン科カラタチ属の落葉低木です。4~5月頃に五弁の白い花を咲かせます。枝に大きいトゲがあります。温州みかんの台木として植えられたりするそうです。
中国が原産なので、中国の橘(たちばな)の意味の「唐橘(からたちばな)」の略で、「からたち」と呼ばれているそうです。漢字の「枳」は中国名の「枳殻(きこく)」からきているようです。
万葉集には、1首だけに詠まれていますが、あまり品が良い歌とは言えません。
巻16-3832:からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
※忌部子首(いんべの-こびと、?~719年)
飛鳥~奈良時代の官吏。壬申(じんしん)の乱のとき大海人(おおあまの)皇子方の大伴吹負(おおともの-ふけい)に属しました。天武天皇9年弟の色弗(しこぶち)とともに連(むらじ)、のち宿禰(すくね)の姓(かばね)をあたえられます。10年川島皇子らとともに歴代天皇の系譜などをまとめました。のち伊勢(いせ)神宮奉幣使、出雲守。従四位上。養老3年閏(うるう)7月死去。名は首(おびと)ともいい、子人とも書きます。
茎立(くくたち)を詠んだ歌
茎立(くくたち)は、菜薹(とう)のたったカブ、アブラナなどの菜のことを言うようです。古代の食料として重要だったようです。
福島県や山形県などでは、現在でも「クキタチ」という名で春の摘み菜を売っているようです。例えば福島県喜多方市では「クキタチ菜のおひたし(惣菜)」が販売されているようです。
万葉集ではたった一首だけにしか詠まれていません。
巻14-3406: 上野の佐野の茎立折りはやしあれは待たむゑ今年来ずとも
ウェブニュースより
藤井七段、最年少挑戦難しく 将棋連盟、一部対局休止を続行 ―― 日本将棋連盟は8日、新型コロナウイルス特措法に基づく緊急事態宣言の延長を受け、遠距離移動を伴う対局の休止を31日まで続行すると発表した。対局延期の影響で、最年少タイトル挑戦を目指す藤井聡太七段(17)の記録更新は難しくなった。
藤井七段が唯一、最年少挑戦の可能性があるのは6月初旬に5番勝負が開幕予定の棋聖戦。本戦準決勝へ進出しており、挑戦権獲得まで、あと2勝に迫っている。
最年少挑戦は1989年、屋敷伸之九段(48)の17歳10カ月24日。7月19日に18歳となる藤井七段がこの記録を上回るには、6月11日までに棋聖戦の5番勝負に出場しなければならない。 (東京新聞 2020年5月8日 18時16分)
堅香子(かたかご)を詠んだ歌
堅香子(かたかご)は、カタクリと言われています。ユリ科のコバイモという説もあるそうですが、ここでは、カタクリとして説明します。片栗(かたくり)はユリ科の多年草です。山林の中に生える小さな(高さ、15センチほど)花です。3月~4月にかけて、紫がかったピンクの花びらの可憐な花を咲かせます。片栗粉の材料として有名ですが、今ではほとんどの片栗粉はジャガイモの澱粉(デンプン)から作られます。
万葉集にはたった1首にしか登場しませんが、大伴家持(おおとものやかもち)が詠んだ歌として有名です。
巻19-4143:もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
櫻皮(かには)を詠んだ歌
櫻皮(かには)は、桜の木の樹皮(じゅひ)だと考えられています。桜、特に山桜や霞桜(かすみざくら)などの樹皮は、はがれにくい性質を持っているので、弓や家具などに巻いたり張ったりし、強く丈夫なものにすることができるのだそうです。
櫻皮(かには)は、白樺(しらかば)の樹皮だという説もあります。
万葉集には1首だけに詠まれていますが、その歌には「櫻皮(かには)巻き作れる舟」ということばがあり、この桜の皮を巻いて作った舟と考えられています。
0942: あぢさはふ妹が目離れて敷栲の…… (長歌)
巻19-4238: 君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
※久米広縄(くめの-ひろなわ)
生没年不明。奈良時代の官吏。天平20年(748)から3年あまり越中掾(じょう)。越中守大伴家持(おおともの-やかもち)らと布勢水海(ふせのみずうみ)(富山県氷見(ひみ)市)をたずね、内蔵縄麻呂(くらの-なわまろ)宅の宴に参加するなどして歌をよみました。「万葉集」巻18・19に、長歌1首、短歌8首があります。名は「ひろただ」「ひろつな」ともよみます。
巻19-4241: 春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
※藤原清河(ふじわらの-きよかわ)
生没年不明。奈良時代の廷臣。房前(ふささき)の4男。天平12(740)年従五位下、天平勝宝元(749)年参議、翌年遣唐使となり、同4年副使吉備真備 (きびのまきび)らとともに玄宗皇帝に謁し帰国の途中、暴風にあい安南に漂着、阿倍仲麻呂と長安に戻り、唐朝に仕え特進秘書監となりました。日本の朝廷では清河を帰国させるために使者をつかわしましたが、安史の乱に妨げられて帰国できませんでした。宝亀8(777)年、次の遣唐使が入唐したときも勅して清河に帰国を促しましたが、帰りませんでした。
巻19-4277: 袖垂れていざ我が園に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に
※藤原永手(ふじわらの-ながて)
[生]和銅7(714).奈良。[没]宝亀2(771).2.22. 奈良。
奈良時代後期の廷臣。藤原北家の祖房前の子。天平勝宝6 (754)年従三位、のち権中納言に任じ,恵美押勝 (藤原仲麻呂)の乱中に大納言に進み、道鏡の政権のもとにあっても、右大臣、左大臣となり、道鏡排斥の頂点に立ってこれを成功に導きました。また称徳天皇が後嗣を決めずに没すると、白壁王を立てて光仁天皇とし、その功により宝亀1 (770) 年正一位、山城国相楽郡に 200町の山地を賜わったといいます。
巻19-4278: あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ
巻19-4282: 言繁み相問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも
※石上宅嗣(いそのかみのやかつぐ、729~781年)
奈良時代の文人、政治家。古代の豪族物部氏の一族石上氏の出身で、祖父は左大臣の麻呂、父は中納言の乙麻呂です。宅嗣は才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えます。はじめ相模、三河、上総などの国守を歴任、761年(天平宝字5)に遣唐副使に任ぜられますが、翌年なぜかこの職を解かれています。このころ、藤原良継らとともに、当時の実力者藤原仲麻呂を除こうと企てますが、良継がひとり責を負って罪を許されたといいます。
巻19-4283: 梅の花咲けるが中にふふめるは恋か隠れる雪を待つとか
※茨田王(まんだのおほきみ)
生没年不明。奈良時代の官吏。
宮内大輔(たいふ)、越前守、越中守となります。従五位上。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)石上宅嗣(いそのかみの-やかつぐ)宅の宴でよんだ歌1首が「万葉集」巻19にみえます。
巻19-4287: 鴬の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪にうつろふらむか
巻20-4496: 恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける
※大原今城( おおはらの-いまき、生没年不詳)
奈良時代の皇別氏族出身の官僚です。歌人。姓は真人。もと今城王といいました。穂積皇子と大伴坂上女郎の子とにわれます。天平11(739)年高安王らと共に大原真人の氏姓を与えられました。同20年兵部少丞正七位下などを経て、天平勝宝9(757)年、従五位下、治部少輔。天平宝字7(763)年左少弁に任じられますが、藤原仲麻呂の乱に連座して官職位階を奪われたようです。宝亀2(771)年従五位下に復し兵部少輔になり、翌年駿河守に任じられたとあるのが史料にみえる官歴の最後です。『万葉集』に18首の歌を残し、大伴家持と親交のあったことが知られます。
巻20-4497: 見むと言はば否と言はめや梅の花散り過ぐるまで君が来まさぬ
巻20-4500: 梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ
巻20-4502: 梅の花咲き散る春の長き日を見れども飽かぬ礒にもあるかも
※伊香王(いかごおう、生没年不詳)
奈良時代の官吏。敏達(びだつ)天皇の子孫といいます。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)甘南備(かんなび)の氏をあたえられました。主税頭(ちからのかみ)、越中守(かみ)などをつとめました。大伴家持(やかもち)と親交があり、「万葉集」に和歌4首がのせられています。
以上で、「梅を詠んだ歌」をおわります。
巻10-2335: 咲き出照る梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこのころ
巻10-2344: 梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば
巻10-2349: 我が宿に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て
[題詞]追和大宰之時梅花新歌六首(巻17-3901~3906)
[題訓]太宰の時の梅花に追ひて和(こた)ふる新(あら)たしき歌六首
※「大宰(だざい)の時の梅花」は、天平2(西暦730)年1月13日、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で詠まれた歌(0815番: 正月立ち春の来らばかくしこそ……~)のことです。
巻17-3901: み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし
巻17-3902: 梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ
巻17-3903: 春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも
巻17-3904: 梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり
巻17-3905: 遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも
巻17-3906: 御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ
[左注] 右十二年十二月九日大伴宿禰書持作
[注訓]右は、十二年十二月九日、大伴宿禰書持作れり
※大伴書持(ふみもち)
没年:天平18(746) 生年:生年不詳
奈良時代の官人。旅人の子。家持の弟。天平10(738)年橘奈良麻呂の宴に家持らと共に列しました。11年妾の死を悲しむ家持の歌に和しています。13年には奈良の宅にあって恭仁京の家持に霍公鳥を詠む歌を贈りました。没後、佐保山(奈良市)に火葬され、越中(富山県)にいた家持は哀傷歌を詠んでいます。花草花樹を愛し、多く庭に植えたといいます。
巻18-4041: 梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてら
※田辺福麻呂(たなべのさきまろ)
生没年不明 奈良時代の官吏、歌人。
天平20 (748) 年造酒司(さけのつかさ)の令史(さかん)のとき、左大臣橘諸兄(たちばなの-もろえ)の使者として越中(富山県)の大伴家持(おおとものやかもち)の館におもむき、宴席などでよんだ短歌13首が「万葉集」にあります。別に「田辺福麻呂歌集」より長歌10、短歌21首が「万葉集」に採録されており、万葉最後の宮廷歌人とかんがえられます。
巻18-4134: 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも
巻19-4174: 春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
巻10-1883: ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる
巻10-1900: 梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり
巻10-1904: 梅の花しだり柳に折り交へ花に供へば君に逢はむかも
巻10-1906: 梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね
巻10-1918: 梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ
巻10-1922: 梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと我が松の木ぞ
巻10-2325: 誰が園の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる
巻10-2326: 梅の花まづ咲く枝を手折りてばつとと名付けてよそへてむかも
巻10-2327: 誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに
巻10-2328: 来て見べき人もあらなくに我家なる梅の初花散りぬともよし
巻10-2329: 雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね
巻10-2330: 妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝の露に濡れにけるかも
巻10-1840: 梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の羽白妙に沫雪ぞ降る
巻10-1841: 山高み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも
巻10-1842: 雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片付きて家居せる君
巻10-1853: 梅の花取り持ち見れば我が宿の柳の眉し思ほゆるかも
巻10-1854: 鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
巻10-1856: 我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
巻10-1857: 年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし春なかりけり
巻10-1858: うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも
巻10-1859: 馬並めて多賀の山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも
巻10-1862: 雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ
巻10-1871: 春されば散らまく惜しき梅の花しましは咲かずふふみてもがも
巻10-1873: いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む
ウェブニュースより
大相撲、夏場所中止へ 新型コロナに計7人感染 ――日本相撲協会が夏場所(24日初日、東京・国技館)を中止する方向で検討していることが3日、複数の協会幹部への取材でわかった。新型コロナウイルスの感染拡大による緊急事態宣言が延長される見込みの4日に臨時理事会を開いて最終決定するとみられる。角界では計7人の感染が確認されている。
本場所が中止されれば、旧両国国技館の修理工事が遅れたことが原因だった1946年夏場所と八百長問題が原因の2011年春場所に続き3度目。今年3月の春場所は無観客で開催していた。この夏場所は通常開催を目指しつつ、中止や無観客開催も視野に検討してきた。 (朝日新聞DIGITAL 2020年5月3日 22時25分)
巻8-1647: 梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る
※忌部黒麻呂(生没年不詳) 奈良時代の中級官僚。『万葉集』に短歌4首を遺します。天平宝字2(758)年8月正六位上から外従五位下に昇進。3年12月に忌部首から忌部連へ上位の姓を賜わった。6年1月に図書寮の次官。
巻8-1648: 十二月には淡雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして
※紀少鹿女郎(生没年不詳) 奈良時代の歌人。紀鹿人(しかひと)の娘。安貴王(あきのおおきみ)の妻。遊戯的な贈歌にたくみで,大伴家持(おおともの-やかもち)とたびたび歌をかわした。天平(てんぴょう)(729~749)のころの代表的な女流歌人のひとりにかぞえられ,「万葉集」に12首収録されている。紀小鹿,紀女郎ともいいます。
巻8-1649: 今日降りし雪に競ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり
巻8-1651: 淡雪のこのころ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ
巻8-1652: 梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり
※他田広津娘子(おさだの ひろつのおとめ、生没年不詳) 奈良時代の歌人。大伴家にかかわりのふかい女性か? 大伴家持の愛人のひとりかといわれます。作品は「万葉集」に2首おさめられています。
巻8-1653: 今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも
巻8-1656: 酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし
※この歌の次の歌(1657番歌)は「和(こた)ふる歌」ですが、その左注に、「お役所から禁酒の通達が出て『村人たちが集まって宴会をしてはならない。ただし、親しい人たちが一人二人で飲むのはかまわない。』とあります。そこで答えの歌を詠んだ人は、この上二句を作ったのです。」とあります。
和謌一首
標訓 和(こた)へたる謌一首
集歌1657 官尓毛 縦賜有 今夜耳 将欲酒可毛 散許須奈由米
訓読 官(つかさ)にも許(ゆる)したまへり今夜(こよひ)のみ飲まむ酒(さけ)かも散りこすなゆめ
意味 天皇は「酒は禁制」とおっしゃっても、太政官はお許しくださっている。今夜だけ特別に飲む酒です。梅の花よ、決して散ってくれるな。
右、酒者、宮禁制称京中閭里不得集宴。但親々一二飲樂聴許者。縁此和人作此發句焉。
注訓 右は、酒は、宮の禁制(きんせい)して称(い)はく「京(みやこ)の中(うち)の閭里(さと)に集宴(うたげ)することを得ざれ。ただ親々一二(はらからひとりふたり)の飲樂(うたげ)を許すは聴く」といへり。此の縁(えにし)に和(こた)ふる人此の發句(はつく)を作れり。
巻8-1660: 梅の花散らすあらしの音のみに聞きし我妹を見らくしよしも
巻8-1661: 久方の月夜を清み梅の花心開けて我が思へる君
巻10-1820: 梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鴬の声
巻10-1833: 梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消につつ
巻10-1834: 梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ
巻8-1423: 去年の春いこじて植ゑし我がやどの若木の梅は花咲きにけり
巻8-1426: 我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
巻8-1434: 霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ
巻8-1436: 含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも
巻8-1437: 霞立つ春日の里の梅の花山のあらしに散りこすなゆめ
巻8-1438: 霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと我が思はなくに
巻8-1445: 風交り雪は降るとも実にならぬ我家の梅を花に散らすな
巻8-1452: 闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや
巻8-1640: 我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
巻8-1641: 淡雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも
巻8-1642: たな霧らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代にそへてだに見む
※安倍奥道(あへの おきみち)=原文は、「安倍朝臣奥道」。「『続日本紀』には<息道>と記す。天平宝じ六年(762)正月従五位下。若狭守、大和介、左兵衛督、内蔵頭などを歴任。宝亀五年(774)三月、但馬守従四位で没。歌はこの一首のみ。」
巻8-1644: 引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも
※三野 石守(みの の いしもり、生没年不詳)は旅人の従者。天平2年(730年)大宰帥大伴旅人が大納言に任ぜられて帰京する際、別に海路をとって上京しました。『万葉集』に2首の歌が採録されています。
天平2年冬11月に帰京の旅を悲しみ痛んだ際の一首
わが背子(せこ)をあが松原よ見渡せば海人(あま)をとめども玉藻刈る見ゆ (巻17・3890)
巻8-1645: 我が宿の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも
sechin@nethome.ne.jp です。
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