瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
竪川の北側に架かっていた撞木橋は万治2(1659)年当時の本所奉行徳山五兵衛、山崎四郎左衛門両名によって墨田区江東橋一丁目より、同緑四丁目の大横川に架けられたという。最初は長さ10間、幅2間の木橋であったが、その後、幾度となく架け替えられ、昭和5年7月には、銅橋(トラス)になったが、大横川親水河川整備事業により、その役目を終えて昭和62年に撤去されたということじゃ。なお、ここは竪川・大横川の交差辻なので、北辻橋、南辻橋、新辻橋などが架けられたが、北辻橋西側の大横川河岸に「本所時之鐘」の鐘撞堂があったことから、これらの橋は俗称として「撞木橋」と呼ばれてきたという。その後、北辻橋が撞木橋を正式に名称とするようになったものと思われる。
北斎通りに架かる北中之橋は、大横川を挟んで長崎町と津軽中屋敷側をつないでいた橋であったという。元禄10(1697)年に橋架されたそうで、当時西側に隣接した本所長崎町の地名にちなんで長崎橋と呼ばれたということじゃ。
現在この公園は整備中で、所々で遮断され通行できなくなっている。何とか、浅草通りから東武橋まで辿り着いた。東武橋からみる東京スカイツリーは、先だって2月8日(日)に亀戸天神の帰りに見たときよりはさらに工事が進んでいるようであった。ここから総武線に沿って源森橋までくると、右折して言問通り出る。ここからは、言問橋を渡って、帰宅した。我が家の前は現在工事中で1日中騒音に悩まされている。仕事部屋に入ると婆様がいたので、新しい眼鏡をかけた写真を撮ってもらった。
昨日は日曜日。曇り空ではあったが、家の傍を通っている「めぐりん」バスを利用して出掛けることにした。
台東区北めぐりんの③停留所『隅田公園』発、午前10時17分発に乗車。⑬停留所「三ノ輪駅」で下車。



ここから金杉通りを南下しながら、左(東)側に下谷、右(西)側に根岸の町並みを見ながらゆっくりと歩いた。金杉通り沿いには、明治から昭和初期に建てられた古い町家が多く残っていて、金杉通りの北側にほぼ並行する通りは、大正10年に三業地(芸妓置屋、待合、料亭の営業が許可される区域のこと、行政用語であった)の許可が下った遊里だったところで、大正15年には、芸妓置屋40軒、芸妓139人、待合30軒があったと聞く。しかし、今はほとんどマンション化して古い町家や待合風・置屋風の家屋をを見つけるのは難しい。






途中、三島神社に立ち寄る。縁起によると、弘安の役の勇将、河野通有の発願によりその一族が伊豫国越智郡に鎮座する日本総鎮守大山積命を武蔵国豊島郡に勧請して金杉村上野山内の自宅に奉斎し、この地方一帯の守護神と定め社殿を建立したのに始まるといわれる。

路地越しに厳(いかめ」しい造りの寺が見えたので立ち寄ってみる。真言宗豊山派鐡砂山世尊寺。本堂は、現代風なデザインのコンクリート造りで、綺麗に整備されていて、かなり古い福智六地蔵尊が、古いお堂の中に奉られている。その前には珍しい石仏群があるが、謂れなどは判らない。




2・3日前に金美館通りを歩いたときに立ち寄った小野照崎神社に、再び立ち寄った。2・3日に立ち寄ったときには早朝でもあり、折角撮った説明板もよく読めなかったので、再度説明板を写すことにした。

金美館に通じる道を隔てて下谷七福神の大黒天を祀る英信寺がある。今年の正月は浅草七福神と谷中七福神を巡った。下谷七福神と小石川七福神も回るつもりでいたが、ついつい億劫になり、止めてしまった。来年は是非回ってみたいものだ――あれまあ、鬼に笑われそう。
言問通りに出たところに長寿庵という蕎麦屋があったので、早昼飯に天麩羅蕎麦を食って、さらに入谷口通りを通って上野に出る。



東西めぐりん上野公園口停留所まで来ると、公園入口の交番横の桜が早や開花している。カメラを翳(かざ)す人達で賑わっていたので仲間に入れてもらった。この桜は「大寒桜(おおかんざくら)」という品種であった。東西めぐりんで浅草松屋前にでて、江戸通りを北上、帰宅した。
台東区北めぐりんの③停留所『隅田公園』発、午前10時17分発に乗車。⑬停留所「三ノ輪駅」で下車。
言問通りに出たところに長寿庵という蕎麦屋があったので、早昼飯に天麩羅蕎麦を食って、さらに入谷口通りを通って上野に出る。
東西めぐりん上野公園口停留所まで来ると、公園入口の交番横の桜が早や開花している。カメラを翳(かざ)す人達で賑わっていたので仲間に入れてもらった。この桜は「大寒桜(おおかんざくら)」という品種であった。東西めぐりんで浅草松屋前にでて、江戸通りを北上、帰宅した。
今日は土曜日、バレンタインデー。朝のうちは雨がばらついていた。
ローマ帝国皇帝Claudius Gothicus(クラウディウス・ゴティクス、在位:268~270年)は、愛する人を故郷に残した兵士がいると士気が下がるという理由で、ローマでの兵士の婚姻を禁止したといわれる。キリスト教司祭だったValentinus(ウァレンティヌス、?~269年、英語ではValentine《バレンタイン》)は秘密裡に兵士を結婚させたが、これが露顕するところとなり捕らえられて、処刑されたという。処刑の日は、Juno(ユノ、ローマ神話の女神)の祭日であり、Lupercalia(ルペルカリア)祭(結婚の女神Junoを崇拝する祭)の前日である2月14日が敢えて選ばれた。ValentinusはLupercalia祭に捧げる生贄(いけにえ)とされたのだという。このためキリスト教徒にとっても、この日は祭日となり、恋人たちの日となったというのが通説になっている。

昼近くになってポカポカ陽気。飯前に隅田公園を一周りする。我が家から道路一つ隔てた公園内にピンクの幟が立った。2/29・3/1に行われる梅祭りのもよおしがおこなわれるとのことじゃ。春というより初夏を思わせるような陽射しである。言問橋の下ではユリカモメが漂い群れている。

枕橋茶やに立ち寄ってみる。今年になってはじめて立ち寄ったのであるが、2匹のワンちゃんは箱の中でおねんね。若女将が「こんなお酒があるのご存知ですか」と『隅田川諸白』の瓶を持ち出してきてくれた。
江戸の地誌を記した『御府内備考』という本によると、浅草並木町(現・台東区雷門二丁目内)の「山屋半三郎」という造り酒屋が、江戸時代前期の寛永年中(1624~44年)に、隅田川の水を汲んで酒を造り、浅草観音様(浅草寺)の本坊である伝法院の僧正の所へ持って行くと、僧正はご満悦で『隅田川諸白』という名を授けられたという。「諸白」は「清酒」のことをいうのだそうじゃ。

婆様に牛すじ饅とぶた饅を買って、茶やを出ると水戸庭園の前を通り言問橋を渡って帰宅した。言問橋は春の陽射しを受けて手摺欄干が熱くなっている。春というより初夏でとうとうジャンパーを脱ぎ、上シャツ1枚で還った。
江戸の地誌を記した『御府内備考』という本によると、浅草並木町(現・台東区雷門二丁目内)の「山屋半三郎」という造り酒屋が、江戸時代前期の寛永年中(1624~44年)に、隅田川の水を汲んで酒を造り、浅草観音様(浅草寺)の本坊である伝法院の僧正の所へ持って行くと、僧正はご満悦で『隅田川諸白』という名を授けられたという。「諸白」は「清酒」のことをいうのだそうじゃ。
今朝は隅田川から離れて、西の上野方面に向けて歩くことにした。まだ、明けやらぬ吉野通りを左折して。小松橋通りを西に進む。馬道通り、千束通りを横切り、国際通りに出る。国際通りを北上、最初の信号で「金美館通り」の標識が目に入り、ここを歩いてみることにする。
この通りに面して区立大正小学校があり、昭和通りをわたると、そこは下谷二丁目である。金杉通りに出るところに小野照﨑神社がある。小野照崎神社の祭神は、平安初期の漢学者・歌人として著名な小野篁(たかむら、802~853年)である。創祀の年代は不明だが次のような伝承がある。篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、小野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の風光を賞した。仁寿2(852)年篁が亡くなったとき、その風光を楽しんだ地に彼の霊を奉祀した。その後、江戸時代をむかえ、寛永2(1625)年忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたり、当社を移転することになり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷したというものである。また、一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4(1691)年頃に遷座したのではないかともいうそうじゃ。
小野照崎神社の裏に、富士山をかたどった築山がある。室町末期に始まった富士山信仰は江戸中期に盛んになり、多くの講中が組織された。講中は神仏参詣のために組織した団体で、神仏に詣でながら、おしゃべりを楽しんだのだそうじゃ。江戸時代には富士講、大山講が盛んであったが、富士講は富士山信仰の団体なのじゃ。富士登山は容易ではない、講中は江戸各地に模造富士を築いて登った。しかし今に伝わる富士塚は少なく、ここの富士塚は富士の溶岩で覆われ原型が良く保存されているということで、昭和54年5月、国の重要有形民俗文化財の指定を受けたそうじゃ。6月30日と7月1日には、山開きが行われるという。
言問通りを東進して、入谷鬼子母神(法華宗本門流の寺院で真源寺という)の前をとおり、昭和通り、左衛門橋通り、かっぱ橋道具街通り、国際通り、馬道通りを横切り江戸通りに出て、帰宅した。
昼飯前に山谷堀公園の吉野橋から北上し、地方橋通の1つ先の路地を入ったところにある春慶院を訪ねた。



ここには2代目高尾太夫の墓がある。この高尾太夫は世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉紋様があり、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」、その下に「万治二年己亥」、左に十二月五日」と戒名.忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。

春慶院と背中合わせに路地1つを隔てて東禅寺がある。この寺の正面に銅像地蔵菩薩坐像がある。宝永7(1710)年、江戸六地蔵の2番目に奥州街道の旅人の安全を祈願して建立されたものだという。

再び吉野通に出ると、昨日通ったあさひ会商店街を抜けると、左折して明治通に出る。白鬚橋を左に台東区側の遊歩道を南下。この道は午前中は陽だまりとなっていてポカポカと暖かい。桜橋脇のテニスコートはテニスをする人で賑わっているし、山谷掘水門の脇では何処かの保育園の園児達が保母さんに見守られながら元気良く楽しそうに遊んでいた。テレビの天気予報では今日は3月上旬の陽気だという。もう春なのだ。
ここには2代目高尾太夫の墓がある。この高尾太夫は世に万治高尾、あるいは仙台高尾と謳われ、幾多の伝説を生んだ。細部にまで意匠をこらした笠石塔婆で、戦災で亀裂が入り、一隅が欠けている。高さ1.5m、正面に紅葉紋様があり、中央から下に楷書で「為転誉妙身信女」、その下に「万治二年己亥」、左に十二月五日」と戒名.忌日が刻まれている。右面に遺詠、「寒風にもろくもくつる紅葉かな」と刻む。巷説に、仙台の大名、のちの伊達騒動の悲劇の主人公になる伊達綱宗とのロマンスがあり、高尾の綱宗にあてた手紙の一節、「忘れねばこそ、おもい出さず候」、「君はいま駒形あたりほととぎす」の句が伝えられている。
今日は「建国記念の日」。昭和20(1945)年までは四方拝・天長節・明治節とともに紀元節と呼ばれ、四大節(しだいせつ)の一つであった。
今朝は、山谷掘公園を抜けて、地方橋通り→吉野通り→アサヒ会商店街を通り、白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道(青御殿通り)を南下、桜橋を渡って帰宅した。



今戸橋から公園に入り、聖天橋、吉野橋から吉野通り突ききって公園はまだ続く。明治2年、新鳥越町(元の鳥越町の替え地として新鳥越町が出来た)は吉野町と町名変更になった。この町名は、この辺り一面は野原であったので、野の上にめでたい吉の字を冠して付けたもので、同時に山谷橋も吉野橋に改称されたそうじゃ。江戸時代は、浅草橋.蔵前.浅草.千住と続く奥州街道であり山谷堀の今戸橋から3つ目、吉野橋をまたいで南北に走り北進して日光街道(旧奥州裏街道)と合流する通りである。
さらに、正法寺橋・紙洗橋・地方橋から地方橋通りを進むと再び吉野通に出る。
浅草紙(あさくさがみ)は、江戸(現東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉(す)き返しの紙、今でいう再生紙である。墨が付いた屑紙(故紙・廃紙・反故《反故》紙、今の古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもので、墨などがよく除かれていないため鼠(ねずみ)色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあったという。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪で下等の紙質であったが安価な塵紙で、江戸庶民に親しまれ、主に鼻紙や落し紙(今のトイレットペーパー)などに常用されたと言われます。また、浅草紙は江戸の名産品の一つとなり、後に漉き返しによる質の悪い紙の代名詞ともなり、漉き返し紙を代表する総称にまでなったものじゃ。
「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)は江戸時代の百科事典であるが、そこには「ひやかし」の語源について、「山谷にはすきかえし紙を製するもの多く、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して帰るより出でる詞《ことば》なり)と解説されている。



吉野通りを北上し、アサヒ会通を西に進み、橋場に入る頃アサヒ会通の西端入口時計は午前7時を指そうとしていた。橋場にはいって、2つ目の路地に「お化け地蔵」が見えた。この地蔵は普通の地蔵の2倍もある大きさで、こんなに大きな地蔵は珍しいと地元の人たちは自慢するそうじゃ。確かに大きい点でもお化けだが、白井権八がこの地蔵の陰に隠れて辻斬りをやり、地蔵に向かって「知らんふりをしろ」といったら「お前こそ人に言うではないぞ」と地蔵が答えたというので、さずがの権八も度肝を抜かれたという伝説もある。



明治通りに出て白鬚橋を渡り、昔隅田川を行く船の燈台の役目をしたという常夜灯の付近で「あみ清」の釣り船? が上流を目指していた。ふと道端に可憐に咲く菜の花を見つけた。
桜橋を渡り、帰宅への道をたどったとき、桜橋から川を上る釣り船と下る荷役船がすれ違う所であった。
今朝は、山谷掘公園を抜けて、地方橋通り→吉野通り→アサヒ会商店街を通り、白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道(青御殿通り)を南下、桜橋を渡って帰宅した。
さらに、正法寺橋・紙洗橋・地方橋から地方橋通りを進むと再び吉野通に出る。
浅草紙(あさくさがみ)は、江戸(現東京)の浅草・山谷・千住などで製造された漉(す)き返しの紙、今でいう再生紙である。墨が付いた屑紙(故紙・廃紙・反故《反故》紙、今の古紙)を水に浸し、叩いて砕き、漉く程度の、非常に簡単なもので、墨などがよく除かれていないため鼠(ねずみ)色をしており、よく見ると紙全体にムラが多く、文字が書かれたままの紙片や、人の髪の毛なども混じっていることもあったという。悪紙(わるがみ)とも言われ、粗悪で下等の紙質であったが安価な塵紙で、江戸庶民に親しまれ、主に鼻紙や落し紙(今のトイレットペーパー)などに常用されたと言われます。また、浅草紙は江戸の名産品の一つとなり、後に漉き返しによる質の悪い紙の代名詞ともなり、漉き返し紙を代表する総称にまでなったものじゃ。
「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」(喜多村信節著、文政13(1830)年刊)は江戸時代の百科事典であるが、そこには「ひやかし」の語源について、「山谷にはすきかえし紙を製するもの多く、紙のたねを水に漬けおき、そのひやくる迄に、廓中のにぎはひを見物して帰るより出でる詞《ことば》なり)と解説されている。
吉野通りを北上し、アサヒ会通を西に進み、橋場に入る頃アサヒ会通の西端入口時計は午前7時を指そうとしていた。橋場にはいって、2つ目の路地に「お化け地蔵」が見えた。この地蔵は普通の地蔵の2倍もある大きさで、こんなに大きな地蔵は珍しいと地元の人たちは自慢するそうじゃ。確かに大きい点でもお化けだが、白井権八がこの地蔵の陰に隠れて辻斬りをやり、地蔵に向かって「知らんふりをしろ」といったら「お前こそ人に言うではないぞ」と地蔵が答えたというので、さずがの権八も度肝を抜かれたという伝説もある。
明治通りに出て白鬚橋を渡り、昔隅田川を行く船の燈台の役目をしたという常夜灯の付近で「あみ清」の釣り船? が上流を目指していた。ふと道端に可憐に咲く菜の花を見つけた。
桜橋を渡り、帰宅への道をたどったとき、桜橋から川を上る釣り船と下る荷役船がすれ違う所であった。
今日は、どうしたわけか隅田川を往来する荷役船や曳舟が多いように思える。毎年のことながら会計の年度末で、予算を使い切るための公共事業が活発化しているのかもしれない。加えて、隅田川の上流を迂回する水上バスとも出会った。台東区側のテラスではホームレスの小父さん達が、あちこちに屯(たむろ)して日向ぼっこをしている。
今日は日曜日、朝食後亀戸天神周辺を散策してみようということになり婆様と一緒に出掛けた。外は快晴ではあるが、北風が冷たい。花川戸公園を突き切り、浅草小学校の横の道を通っていると、いままで気付かずにいた「嬉の森稲荷」というのが目に付いた。馬道を横切りメトロ通りを抜けて、雷門通りに出る。雷門前のからくり時計が午前10時を知らせていた。
浅草雷門前からバスで亀戸天神前へ出る。風が冷たいせいもあってか、日曜日とはいえ参詣者は少なく、境内を漫(そぞ)ろ歩くには丁度良かった。梅は満開とはいかないまでもあちこちに綺麗な花を好い香りをはなっていた。境内に菅原道真五歳の像やうそ替え神事の石碑があるのは当然。歌川豊国(1769~1825年)の碑があり、説明板に「幹はみな老いを忘れて梅の花」の句が書かれているのも納得できるが、なんで国産マッチの製造者清水誠の顕彰碑があるのだろう。
東武橋を渡り、曳舟川通りを北上、昨日の朝に通った道と同じ道を歩いた。水戸街道と交わる角の蕎麦屋で昼食を食い、桜橋を渡って帰宅した。
今朝も、朝飯前に徘徊に出掛けた。
今朝は昨日とは逆に桜橋から台東区側の遊歩道を抜けて、白鬚橋を渡るとそのまま明治通りを真っ直ぐに突き切る。水戸街道との交差点近くに東武伊勢崎線の東向島駅がある。東武線のガードを潜り2つほど信号標識を抜けると、曳舟川通りである。曳舟川通りを南下、桜橋通りに入ったところが都立本所高校である。
1月27日付けで台東ケーブルからメールが入っていた。曰く、
「このたび、J:COM 台東の発足を記念といたしまして、平成21年2月23日「月」と2月25日「水」の2日間、『楽しいウォーキング』教室を開催いたします。ウォーキングの基礎から楽しく歩くための秘訣、そして健康への意識を高めるため、社団法人日本ウオーキング協会の主任指導員の西田富美子さんをお迎えして開催いたします。名所旧跡の多い台東区を楽しく歩いてみませんか。ご近所のお知り合いの方と一緒にふるってご応募ください」
【募集人員】の項目に 「60歳以上の男女各4名 計8名程度 *応募者多数の場合は抽選となります。」 とあったが、爺・婆のどちらかでもあたればと、メールで、申し込んでおいた所、昨日午後に電話があり、爺・婆とも参加できるとのこと、スケジュールは来週中にお知らせするとのことである。
こういう無料の催物にはあまり当たったことも無いのに、爺婆とも当たるとはほんに珍しいことである。






今朝は午前6時、朝飯前の徘徊にしてみた。まだ、暗く東の空がぼんやりと白んで見える。それに川風は冷たく、肌をさす。公園内を通って駒形橋まで出るころに、やっと明るくなり、歩いたせいか、体が温まってくる。墨田区側を遊歩道に沿って北上、白鬚橋をわたり、隅田川沿いに台東区側の遊歩道を我が家まで歩いた。白鬚橋を渡るころには、朝日も出て、背中が汗ばんでくる。
サクラはまだ堅いが、しっかりと沢山の花芽を付けている。桜橋近辺では見知らぬキク科らしい花が咲いていた。帰宅後、図鑑で調べると「ユリオプスディジー」という花で、12月から5月にかけて開化する花の時期の長い草花ということである。台東区の屋外プールから現在改装中のスポーツセンターにかけて、白木蓮の並木があるが、これはもうビロード上の花芽を沢山付けている。3月にはいればサクラに先駆けて大型の白い花を咲かせることだろう。
梅園の梅はもう満開に近く、好い香りを放っている。
「このたび、J:COM 台東の発足を記念といたしまして、平成21年2月23日「月」と2月25日「水」の2日間、『楽しいウォーキング』教室を開催いたします。ウォーキングの基礎から楽しく歩くための秘訣、そして健康への意識を高めるため、社団法人日本ウオーキング協会の主任指導員の西田富美子さんをお迎えして開催いたします。名所旧跡の多い台東区を楽しく歩いてみませんか。ご近所のお知り合いの方と一緒にふるってご応募ください」
【募集人員】の項目に 「60歳以上の男女各4名 計8名程度 *応募者多数の場合は抽選となります。」 とあったが、爺・婆のどちらかでもあたればと、メールで、申し込んでおいた所、昨日午後に電話があり、爺・婆とも参加できるとのこと、スケジュールは来週中にお知らせするとのことである。
こういう無料の催物にはあまり当たったことも無いのに、爺婆とも当たるとはほんに珍しいことである。
今朝は午前6時、朝飯前の徘徊にしてみた。まだ、暗く東の空がぼんやりと白んで見える。それに川風は冷たく、肌をさす。公園内を通って駒形橋まで出るころに、やっと明るくなり、歩いたせいか、体が温まってくる。墨田区側を遊歩道に沿って北上、白鬚橋をわたり、隅田川沿いに台東区側の遊歩道を我が家まで歩いた。白鬚橋を渡るころには、朝日も出て、背中が汗ばんでくる。
サクラはまだ堅いが、しっかりと沢山の花芽を付けている。桜橋近辺では見知らぬキク科らしい花が咲いていた。帰宅後、図鑑で調べると「ユリオプスディジー」という花で、12月から5月にかけて開化する花の時期の長い草花ということである。台東区の屋外プールから現在改装中のスポーツセンターにかけて、白木蓮の並木があるが、これはもうビロード上の花芽を沢山付けている。3月にはいればサクラに先駆けて大型の白い花を咲かせることだろう。
梅園の梅はもう満開に近く、好い香りを放っている。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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