途中汐入公園は北から吹きつける風が冷たかったが、陽だまりの堤防の上でユリカモメが日向ぼっこをしていた。
ユリカモメの日向ぼっこ
梅若堂の直ぐそばに「身代わり地蔵」ある。説明板は墨が剥れ、よく読めないので、書きとめておいた。
碑はすぐに見つけることが出来たが、9歳の清水孝なる坊やが書いたというのだが、この坊や何処の誰かは皆目わからない。
蛇身弁天
弁天は、古代インドにおける川の神(女神)でSaraswati(サラスヴァティ)といい、水神、農業神として崇拝されたという。仏教の守護神として日本に入ってきた当初は、8本の腕に宝珠・剣・弓矢・金剛杵等を持った姿(八臂像)だったが、鎌倉時代になると2本の腕(二臂)で膝を立て琵琶を弾く姿(像)が一般化し、芸能の神様ともいわれるようになった。弁天は、学問・弁舌・音楽・除災・財宝・至福を与える神で、農業神・海上神・福徳神などとして人々の願いを聞きとどけてくれる女神と信じられている。江戸時代には、当初の弁才天から、より現世利益の「財」を強調した弁財天と呼ばれて、七福神の一神ともされた。 神道では、天照大神との誓約(ウケイ)の際に須佐之男命の剣から生まれた三女神(宗像三女神=海上交通安全の神)、特に、そのうちの一人、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を弁財天として祀る。さらに、弁天は日本神道古来の神である宇賀神(日本で中世以降信仰された民間信仰の神)とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像やここ木母寺のように蛇身の弁天像もあるという。宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされるいうことじゃ。
今朝は朝から良い天気で、日当たりに出るとポカポカの小春日和。昼食後、浅草寺の羽子板市に行った。江戸時代から現代に至るまで浅草寺では12月17~19日までの3日間「羽子板市」が開催されており、毎年大勢の客が訪れることで有名である。押絵羽子板の産地としては埼玉県春日部市とさいたま市岩槻区(旧岩槻市)が有名。
まずは、浅草寺にお参り
羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは室町時代という。当時の「看聞御記(看聞日記、伏見宮貞成親王の日記、1416~1449年の33年間にわたる日記、54巻)という書物には、永亨4年(1432年)に宮中で、「こぎの子勝負」という羽根突きが催されたことが記録されている。公卿や女官が羽根つきをし、負けた組が酒を振舞ったという。中国の14世紀頃に硬貨をつけ錘とした羽根を蹴る遊びがあり、室町時代にこれが日本へ伝来、これが羽根つきの起源であろうとされているのじゃ。戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったということじゃ。
凧を専門に売っている店もある
羽子板(はごいた)は、長方形で柄のある板で、羽根突きに用いる競技用の羽子板と、飾り羽子板に分別(分 別)できる。当初は羽根突きの道具として用いられたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性に贈る習慣も出来たとされている。江戸時代に入ると、歌舞伎役者などをかたどった教え羽子板が流行し、現代では東京の伝統工芸品に指定されているという。また、羽子板市では株式会社久月が、その年に話題となった有名人を素材にした変わり羽子板を作成、出展している。
奥山風景も、平成中村座も取り払われ、この跡地で12月15~27日にはガサ市が開かれている。業者はこのガサ市で品物を取りそろえ、 大晦日が近づくと町角に店を出して一般の人に売り出す。品物にワラなどが多く、箱からの出し入れに「ガサガサ」と音を立てるところからこの名がついたという。
2・3日前に船橋に住むチャボから電話が入り、Kと浅草で「関西風」おでんを食いたいのだがというが、おでんの発祥はもともと関東。我々関東以西育ちのものは幼少時は「関東煮」と呼んでいた。はて? 関西風のおでんとは? 考えていると、電話の向こうで、「いつかお前に連れて行ってもらった店があるじゃないか?」という。「ああ、『ひょうたんなべ』か」ということで、その場所をメールで送っておいた。
チャボとK
メールで写真お送りしますよ
友路有の入り口
マスター「はい、チーズ」
浅草は17・18・19日と羽子板市。その所為でもあるまいが、早仕舞いの店が多い。
(2)JN君、通称ナルちゃん。奥さんも塾友。 (3)HO君、介護関係の仕事をしているらしい。 (4)YH君、(1)のMN君とは同期。 (5)TS君、通称セキちゃん。 (6)TKさん。通称タマちゃん。勤務先等不明。あまりしゃべりたがらない。 (7)KKさん、(4)のYH君の姉上。旦那は現在中国に出向中。 (8)HM君。毎年横浜から夫婦して自家用車で参加。帰途は爺婆を家まで送ってくれる。 (9)TN君、通称ナベちゃん、保険会社勤務。 (10)TK君、大手不動産会社勤務 (11)SK君、通称クリちゃん。臨海学校「仁科の海」の作曲者。埼玉では有名なM百貨店の重役さんになったとか。 (12)TS君、奥さんは家の婆様と体操教室で一緒らしい (13)YM君、通称マイチ。(9)のナベちゃん、(11)のクリちゃんと同期の花の二八組の中心的人物 (14)TY君、自性院さん。通称トールちゃん。現在幼稚園勤務。只今愛犬ココアに夢中。 (15)KH君、永年勤務したヤマケイも、来年は還暦で定年だそうだ。 (16)KK君、通称コウちゃん。東松山市立病院の外科部長さん。 (17)WO君、医王院さん。通称ワンさん。 (18)AKさん、今も看護師さんの仕事をしているらしい。 (19)MH、言わずと知れた爺のカミサン。 (20)KYさん、通称カヨちゃん。習字塾をしていたはずだが、いまもしているのかな? (21)CKさん、通称チエちゃん。(9)のナベちゃんのカミサン。 (22)MOさん、(19)のワンさんのカミサン。 (23)YMさん、(8)HM君のカミサン。 (24)この爺さん、このブログの管理者。
以下、忙しい中にもかかわらず、遅れて参加した方
(25)HI君、通称イケさん。IBM勤務。 (26)KM君、通称ゲゲさん。清川で整骨院の院長さん。 (27)KS君、通称コーシ。ディズニーランドでケーキ作りに専念している職人さん。 (28)MN君、通称チャキちゃん。市立リハビリテーション病院の院長さん。(1)のMN君の兄上。
「学は以って已むべからず、青はこれを藍より取って藍より青く、氷は水これをなして水よりも寒し」(荀子・勧学編)というが、爺は何も先生らしいことはしなかったのに、この瘋癲爺のところに、これだけの錚錚たるメンバーが集まってくれるのはありがたいこっちゃ。
TAKEYAさん、どうもありがとうございました。
梅若橋
入口に「境内の諸碑」という説明板が掲示されていた。
華笠文京翁之碑
天下之糸平之碑
三遊塚 右は浄瑠璃塚
この他歌曲「隅田川」の碑などもあったが、説明板にあった亀田鵬斎の「題隅田堤桜花」の碑が見つからない。また日を改めて探してみることにしよう。
昨日は、N兄推奨のNHK ドラマ「最後の戦犯」を見た。まあ、作品の中で断ってある通り、フィクションを交えてのことであろうが、我々の世代の心の琴線に響くドラマであった。
今日は風邪気味。一寸動くと鼻水がダラダラ。徘徊も止めた。
枕橋茶やに立ち寄り、コーヒーを飲む。
枕橋茶やの路地琴
明日は、この枕橋茶やのKさん夫妻が声の出演をするという「ふと木歩という名を思う」という映像作品の上映があるという。約20分の上映で、場所も東武線東向島駅の近くというから、徘徊もこれにあわせて、立ち寄ってみようと思う。
人力車の一団
鎌倉街道下の道
下の道の説明板
末広大明神
ユリカモメさん大勢寄って何の相談
保元寺
江戸時代に、うぐいすの名所として知られた鐘ヶ淵は、隅田川のうち、現在の区立鐘淵中学校のある堤通2丁目先をさす名称であるが、その地名の起りは、隅田川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったという。なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、特にその名が高くなった所でもある。後世、この名称からさまざまの伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘(ぼんしょう)が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現、保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせて、その鐘をみとどけさせたなどという話などが伝えられている。
深栄山長昌寺
梵鐘にある銘文
11月24日(月)付で、鳴尾のゆうさんから分厚い封書が届いた。曰く、
「早寝早起きの君に見せたくて浅草関係のTVを録画したビデオをお送りします。(中略)11/15(土)出没アド街ック天国『酉の市グルメ散策 浅草千束』 11/29(土)は三の酉ですね。三の酉のある年は火事が多いといわれています。どうぞ師走にかけお体には充分ご留意頂くとともに火災にもご注意下さい。」
はてさて、本日はその11月29日(土)、三の酉の日である。午前9時半に家を出て、聖横通(昔は聖天横丁と呼んでいた)を真っ直ぐ千束通まで突き抜け、千束小学校の横にあるCake House タカラヤで、オレンジチョコレートを贈答に送ってもらう。ここのオレンジチョコレートは他ではあまりお目にかかれないと見えて、申し込んで1月先でないと届かないという代物。到着日は来月の16日だという。
ここから、お酉さまにお参りする。昨年は境内にも入れないほど人波が道にはみ出していたが、混むには混んでいたが、どうやら境内に入ることが出来た。鳥居の下で両側からお祓いをうけ、境内に入る。
おおよそ千束といえば、千束通りがメインストリートなのであるが、町名標識変更があって、この千束通は浅草2・4.・5丁目になってしまった。土地の人は千束といえば、ひさご通もふくめて、この千束通を言うのであって、アドマチック何とかはどうも千束の一部を紹介したに過ぎないようなので、ひさご通・千束通をデジカメに納めてきた。まずは写真をご覧じろ。
①
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③
④
⑤
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写真説明 ①ロックにつづくひさご通りの入口 ②牛鍋で有名な米久 確かここの娘さんは女優さんだったはずだが ③江戸伝統工芸展示館 ④家庭料理 TAKEYA ついこの間ここで水門会関東支部の会合をやりました ⑤提灯の老舗 花藤 ⑥老舗田圃 竹松鶏肉店 ⑦通りから少し入った処にある浅香光代の住い兼事務所 ⑧デンキヤホール ここのオム焼そばは美味いよ ⑨星野銅銀銅器店 ⑩水源 和菓子屋さんで大福が美味しい ⑪聖愛クリニック 聖愛病院といっていた35年前、爺のお袋さんは帰らぬ旅に出たよ。
sechin@nethome.ne.jp です。
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