瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 郵便局に立ち寄り、先日来木母寺にあるという「題隅田堤桜花」の碑を探しに木母寺の境内に行った。
 途中汐入公園は北から吹きつける風が冷たかったが、陽だまりの堤防の上でユリカモメが日向ぼっこをしていた。
ユリカモメの日向ぼっこ
bda11ec1.jpg身代わり地蔵
4b8869b7.JPG題隅田堤桜花f0a1c892.JPG







 梅若堂の直ぐそばに「身代わり地蔵」ある。説明板は墨が剥れ、よく読めないので、書きとめておいた。
 碑はすぐに見つけることが出来たが、9歳の清水孝なる坊やが書いたというのだが、この坊や何処の誰かは皆目わからない。
蛇身弁天
7670b3d6.jpg 本堂の裏手の方に回ると蛇身女頭の像があった。どうやらこれは弁天様ということだ。
弁天は、古代インドにおける川の神(女神)でSaraswati(サラスヴァティ)といい、水神、農業神として崇拝されたという。仏教の守護神として日本に入ってきた当初は、8本の腕に宝珠・剣・弓矢・金剛杵等を持った姿(八臂像)だったが、鎌倉時代になると2本の腕(二臂)で膝を立て琵琶を弾く姿(像)が一般化し、芸能の神様ともいわれるようになった。弁天は、学問・弁舌・音楽・除災・財宝・至福を与える神で、農業神・海上神・福徳神などとして人々の願いを聞きとどけてくれる女神と信じられている。江戸時代には、当初の弁才天から、より現世利益の「財」を強調した弁財天と呼ばれて、七福神の一神ともされた。 神道では、天照大神との誓約(ウケイ)の際に須佐之男命の剣から生まれた三女神(宗像三女神=海上交通安全の神)、特に、そのうちの一人、市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を弁財天として祀る。さらに、弁天は日本神道古来の神である宇賀神(日本で中世以降信仰された民間信仰の神)とも習合して一体化し、弁天の頭上に宇賀神が載っている像やここ木母寺のように蛇身の弁天像もあるという。宇賀神は日本固有の神で、老人の頭を持ち身体は白蛇(人頭蛇身)の姿をしていて、農業・食物・財福の神とされるいうことじゃ。
 昨日は1日中雨。N兄に頼んでいた、みなと外誌のゲラ校正が届いたので、1日中プリンターのかけっぱなし。
 今朝は朝から良い天気で、日当たりに出るとポカポカの小春日和。昼食後、浅草寺の羽子板市に行った。江戸時代から現代に至るまで浅草寺では12月17~19日までの3日間「羽子板市」が開催されており、毎年大勢の客が訪れることで有名である。押絵羽子板の産地としては埼玉県春日部市とさいたま市岩槻区(旧岩槻市)が有名。
まずは、浅草寺にお参り
a891f13f.jpg豪華絢爛羽子板市
44f57464.jpgミニチュア飾り羽子板を購入
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 羽子板がお正月の遊戯や贈り物に用いられたのは室町時代という。当時の「看聞御記(看聞日記、伏見宮貞成親王の日記、1416~1449年の33年間にわたる日記、54巻)という書物には、永亨4年(1432年)に宮中で、「こぎの子勝負」という羽根突きが催されたことが記録されている。公卿や女官が羽根つきをし、負けた組が酒を振舞ったという。中国の14世紀頃に硬貨をつけ錘とした羽根を蹴る遊びがあり、室町時代にこれが日本へ伝来、これが羽根つきの起源であろうとされているのじゃ。戦国時代から羽根つきに厄払いの想いがあり、江戸時代は年末に邪気よけとして羽子板を贈ったということじゃ。
凧を専門に売っている店もある
36ae61a3.jpgミニチュア羽子板専門の店
23d219ff.jpgガサ市
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 羽子板(はごいた)は、長方形で柄のある板で、羽根突きに用いる競技用の羽子板と、飾り羽子板に分別(分  別)できる。当初は羽根突きの道具として用いられたが、徐々に厄払いとしても使われるようになり、魔除けとして正月に女性に贈る習慣も出来たとされている。江戸時代に入ると、歌舞伎役者などをかたどった教え羽子板が流行し、現代では東京の伝統工芸品に指定されているという。また、羽子板市では株式会社久月が、その年に話題となった有名人を素材にした変わり羽子板を作成、出展している。
 奥山風景も、平成中村座も取り払われ、この跡地で12月15~27日にはガサ市が開かれている。業者はこのガサ市で品物を取りそろえ、 大晦日が近づくと町角に店を出して一般の人に売り出す。品物にワラなどが多く、箱からの出し入れに「ガサガサ」と音を立てるところからこの名がついたという。
 一昨日15日(月)は、賀状作りに1日を費やした。
 2・3日前に船橋に住むチャボから電話が入り、Kと浅草で「関西風」おでんを食いたいのだがというが、おでんの発祥はもともと関東。我々関東以西育ちのものは幼少時は「関東煮」と呼んでいた。はて? 関西風のおでんとは? 考えていると、電話の向こうで、「いつかお前に連れて行ってもらった店があるじゃないか?」という。「ああ、『ひょうたんなべ』か」ということで、その場所をメールで送っておいた。
チャボとK
be7bbaa5.jpg3人で、シャッターお願い
911be08e.jpg お嬢さん方も忘年会
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 メールで写真お送りしますよ
02adbafb.jpg 14日(日)に、この爺も一緒に合流しないかということでチャボから電話が入り、16日(火)、雷門交番前で待ち合わせ、「ひょうたんなべ」に立ち寄った。隣の席に4人連れの客があったが、そのうちの女性の1人にデジカメのシャッター押しを頼んだ。チャボが「お礼に写真を撮って、送って上げたら? 」というので、写真2枚を写し、メールアドレスの入った名刺を戴いた。2時間ばかり経って何時もの「鉢の木」に行ってみたが、7時前というのに閉店、一寸先の喫茶も7時に閉店するという。じゃ、神谷バーで呑み直そうと、神谷バーまで行くがここも休業日で閉まっている。
友路有の入り口
124ec334.JPG昭和のブレンドコーヒー
449ae0e9.jpg 7時10分のいわれ6c0cf522.jpg






 マスター「はい、チーズ」
6a58f99f.jpg というわけで、観音通りから新仲見世に入ると、チャボとKが待ち合わせ前に立ち寄ったという喫茶店に行こうということで方々捜し歩いて、舟和の手前にある「友路有(トゥモロー)」という喫茶店に入った。ここの時計全て7時10分で止まっている。女の子にその謂れを聞いてみたら、貼紙をさしながら説明してくれたが、よく判らない。その貼紙をデジカメに納め、7時10分を指した時計も入れておこうと、チャボ・K・女の子3人をいれて写真を撮ろうとしていると、マスターがでてきて、4人と時計を入れてシャッターを押してくれた。東武線浅草駅の前で2人と別れて、家に着いたのは午後8時であった。
浅草は17・18・19日と羽子板市。その所為でもあるまいが、早仕舞いの店が多い。
 昨夕は、塾友会の忘年会。
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e12aa625.JPG(1)MN君、爺のパソコンの先生。90歳になる母上が入院されたばかりで、会に出席はできないが顔見世に立ち寄ったとのことで、早々に帰宅。
 (2)JN君、通称ナルちゃん。奥さんも塾友。 (3)HO君、介護関係の仕事をしているらしい。 (4)YH君、(1)のMN君とは同期。 (5)TS君、通称セキちゃん。 (6)TKさん。通称タマちゃん。勤務先等不明。あまりしゃべりたがらない。 (7)KKさん、(4)のYH君の姉上。旦那は現在中国に出向中。 (8)HM君。毎年横浜から夫婦して自家用車で参加。帰途は爺婆を家まで送ってくれる。 (9)TN君、通称ナベちゃん、保険会社勤務。 (10)TK君、大手不動産会社勤務 (11)SK君、通称クリちゃん。臨海学校「仁科の海」の作曲者。埼玉では有名なM百貨店の重役さんになったとか。 (12)TS君、奥さんは家の婆様と体操教室で一緒らしい (13)YM君、通称マイチ。(9)のナベちゃん、(11)のクリちゃんと同期の花の二八組の中心的人物 (14)TY君、自性院さん。通称トールちゃん。現在幼稚園勤務。只今愛犬ココアに夢中。 (15)KH君、永年勤務したヤマケイも、来年は還暦で定年だそうだ。 (16)KK君、通称コウちゃん。東松山市立病院の外科部長さん。 (17)WO君、医王院さん。通称ワンさん。 (18)AKさん、今も看護師さんの仕事をしているらしい。 (19)MH、言わずと知れた爺のカミサン。 (20)KYさん、通称カヨちゃん。習字塾をしていたはずだが、いまもしているのかな? (21)CKさん、通称チエちゃん。(9)のナベちゃんのカミサン。 (22)MOさん、(19)のワンさんのカミサン。 (23)YMさん、(8)HM君のカミサン。 (24)この爺さん、このブログの管理者。
以下、忙しい中にもかかわらず、遅れて参加した方
(25)HI君、通称イケさん。IBM勤務。 (26)KM君、通称ゲゲさん。清川で整骨院の院長さん。 (27)KS君、通称コーシ。ディズニーランドでケーキ作りに専念している職人さん。 (28)MN君、通称チャキちゃん。市立リハビリテーション病院の院長さん。(1)のMN君の兄上。
「学は以って已むべからず、青はこれを藍より取って藍より青く、氷は水これをなして水よりも寒し」(荀子・勧学編)というが、爺は何も先生らしいことはしなかったのに、この瘋癲爺のところに、これだけの錚錚たるメンバーが集まってくれるのはありがたいこっちゃ。
 TAKEYAさん、どうもありがとうございました。
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 今日ポカポカの小春日和、朝食を済ませると石浜通北上、汐入公園から水神大橋を渡り、木母寺へ。ここは何時も通る道なのであるが、朝早くは門が閉まっていて境内に入れない。
梅若橋
ed5cbb01.jpg梅若橋より木母寺を望む
2cb97646.jpg境内入口の碑の説明板
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 入口に「境内の諸碑」という説明板が掲示されていた。
華笠文京翁之碑
ff52947f.jpg 華《花》笠 文京(1785~1860年、仮名垣魯文の師匠)の碑は梅若堂の直ぐそばにあった。幕末期に活動した狂言作者 兼 戯作者である。江戸に生まれ、四世鶴屋南北に師事。別名に花笠魯助(魯介)、代作屋大作がある。弟子に仮名垣魯文がいる。1811年市村座の「厳島雪官幣」で狂言作者・花笠魯助の名が確認できるという。
天下之糸平之碑
ff2c61aa.jpg 田中平八(1834~1884年)は、天保5年7月11日、信州赤穂(長野県駒ヶ根市)に藤島卯兵衛の第三子として生まれた。生家は資産家であったが、米と綿相場で失敗し、没落。飯田の田中安兵衛の娘・田中はると結婚し、田中姓となる。慶応元年、横浜南仲通三丁目で、糸屋平八商店を開業し、両替商と生糸・茶などの輸出をはじめる。一時藤田小四郎らの筑波山挙兵に参加し、獄に在ったが、再び生糸・為替・洋銀・米相場で巨利を得る。明治の花柳界で遊び上手として、「糸屋の平八」「天下の糸平」の名は知られたという。どうして木母寺の境内にこんな碑があるのか、訊ねてみたが詳細は良く判らないらしい。

三遊塚 右は浄瑠璃塚
af6e1e97.jpg歌曲「隅田川」の碑
7c995a35.jpg 三遊亭円朝(1839~1900年)が明治22(1889)年に建立したという三遊塚があって、三遊派一門43名を集め、師匠である初代・2代円生の追福を祈念して建てたものだと伝えられている。この碑と並んで、浄瑠璃塚の碑も立っている。元落語教会会長であった三遊亭円歌は「三遊亭の謂れは?」と訊ねられて、「それは、飲む・打つ・買うに決まってるじゃないか」と応えるのを聞いたことがある。
この他歌曲「隅田川」の碑などもあったが、説明板にあった亀田鵬斎の「題隅田堤桜花」の碑が見つからない。また日を改めて探してみることにしよう。
現代美術製作所
39f976fd.jpg熱心な鑑賞者
e44f2e46.jpg 枕橋茶やのK氏との約束もあるので、12月7日(日)、現代美術製作所に撮影会を見学に行った。会場は若い人ばかりで、年寄りはこの爺と婆だけであった。その所為もあるのか、一般に理屈っぽくで爺婆には判りづらいことばかりであったが、その中にあって「ふと木歩という名をおもう」は秀逸であった。Sさんという30歳前後の新進女流作家の作品であるが、とても判りやすく、見事な作品であった。枕橋茶やのK氏夫妻のナレーターも一段と冴えていた。他の作品が理解しにくいものであっただけに、余計にそう思ったのかもしれない。
 昨日は、N兄推奨のNHK ドラマ「最後の戦犯」を見た。まあ、作品の中で断ってある通り、フィクションを交えてのことであろうが、我々の世代の心の琴線に響くドラマであった。
 今日は風邪気味。一寸動くと鼻水がダラダラ。徘徊も止めた。
 昼から徘徊に出かけた。
 枕橋茶やに立ち寄り、コーヒーを飲む。
枕橋茶やの路地琴
09d37d1d.jpg冨田木歩の版画
d0dd3848.JPG 茶やの旦那が、路地琴を置いたので、聞いてくれという。百花園にある水琴窟を据え置き型にしたもので、上から柄杓で水を入れると、壷の中で反響・共鳴してキーン・コーンときれいな音色を奏でる。
 明日は、この枕橋茶やのKさん夫妻が声の出演をするという「ふと木歩という名を思う」という映像作品の上映があるという。約20分の上映で、場所も東武線東向島駅の近くというから、徘徊もこれにあわせて、立ち寄ってみようと思う。
人力車の一団
2ca47c01.jpg 吾妻橋を渡り隅田公園を抜けていると、人力車の一団とすれ違った。最近は若い女性のお客さんが多いようだ。
 11月30日(日)、枕橋茶やのK氏よりメールを戴いた。「冨田木歩の映画について、上映予定が決まりましたので、お知らせさせていただきます。上映場所は、枕橋茶やではなく、現代美術製作所というところで、上映予定です。私と妻は、『ふと木歩という名をおもう』という作品の中で、ナレーションをやっております。もし、お時間ありましたら、足をお運びください。」とあり、日時12月7日(日)午後1時からということと、場所を知らせてきた。
鎌倉街道下の道19a9dd84.jpg
下の道の説明板
e9810d2f.JPG現代美術製作所?
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末広大明神
9a90226d.jpg場所の確認を兼ねて、午後1時半家を出ると、例の落書き横丁を通り、白鬚橋に出る。墨堤通を北上、東側の歩道に沿って、少し北上した所に鎌倉街道下の道が残っている所がある。その手前の道を白鬚橋病院の前を通り、明治通に平行な道(この道は「大正通」というのだそうだ)を東に進む。東武伊勢崎線のガードのところまでくると、およその場所がわかったので、写真に納めておいた。どうやら同じ敷地内に末広大明神という小さな社があったが、柵に囲まれて写真にはうまく入れることが出来なかった。
ユリカモメさん大勢寄って何の相談
366c26d0.jpg国土交通省のお舟
2307ae81.jpg 水戸街道を桜橋通りまで南下。桜橋上で、ゆりかもめが欄干に大挙して停まっていた。国土交通省の「ARAKAWA」号が桜橋を潜り抜けるところであった。帰宅したときは3時を過ぎていた。

砂尾不動院
652e0a37.jpg本堂
bd3fc94c.jpg 白鬚橋を渡り石浜河岸を南下すると、砂尾山不動院がある。砂尾山の名はこの地に住んでいた砂尾長者に由来するものという。宝亀四〈773〉年に良弁僧都が化寂すると、寂昇上人は良弁僧都自刻の一木三体不動尊像の一体を持って上総国へと向かったが、途中この浅茅の生い茂る砂尾の地に至って不動明王の夢告を受け、上人はここが有縁の地であることを知り、当地にこの尊像を安置する事を決心した。上人が村人達に呼びかけると、有難い尊像を前にして人々の尊崇熱意は高まり、たちまちに一宇の不動堂が建てられた。ここに当院の開創が成ったというのである。この縁により当院は「砂尾不動」と号したのであると、縁起は伝えているそうだ。
保元寺
af573684.jpg保元寺の縁起
c38e29e2.JPG 橋場1丁目4番にある保元寺は奈良時代の宝亀元(770)年にこの地に創建された都内でも数少ない古刹であるという。榎本武揚(1836~1908年)の菩提寺であるという。五稜郭の戦争で敗れた榎本武揚が明治五(1872)年一月に赦免されたあと数カ月謹慎生活を送った場所であるともいう。
 江戸時代に、うぐいすの名所として知られた鐘ヶ淵は、隅田川のうち、現在の区立鐘淵中学校のある堤通2丁目先をさす名称であるが、その地名の起りは、隅田川がこの辺で直角に曲り、これが大工の使う指矩(さしがね)に似ているところから「かねが淵」と呼ばれるようになったという。なお、ここは綾瀬川が合流することもあり、昔の舟人からは航路の難所として恐れられ、特にその名が高くなった所でもある。後世、この名称からさまざまの伝説が生まれ、たとえば台東区の石浜にあった普門院が亀戸村に移転する際、その梵鐘(ぼんしょう)が川に落ち、今にいたるまで引き揚げられずに沈んでいるという話や、その寺を石浜の法源寺(現、保元寺)といい、あるいは橋場の長昌寺とも称し、またある将軍が家臣を水中に潜らせて、その鐘をみとどけさせたなどという話などが伝えられている。
深栄山長昌寺
fef1058d.jpg梵鐘
dbe7d5e0.jpg説明板
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梵鐘にある銘文
a705bd92.JPG境内に立つ観音像
ac281fcd.jpg 長昌寺にも立ち寄ってみた。境内でご院家(いんげ)らしき方とであったところ、今月の4日午後1時に観音像のご開帳がありますので、是非お参りくださいということであった。

 11月24日(月)付で、鳴尾のゆうさんから分厚い封書が届いた。曰く、
「早寝早起きの君に見せたくて浅草関係のTVを録画したビデオをお送りします。(中略)11/15(土)出没アド街ック天国『酉の市グルメ散策 浅草千束』 11/29(土)は三の酉ですね。三の酉のある年は火事が多いといわれています。どうぞ師走にかけお体には充分ご留意頂くとともに火災にもご注意下さい。」
6941c7fa.jpg はてさて、本日はその11月29日(土)、三の酉の日である。午前9時半に家を出て、聖横通(昔は聖天横丁と呼んでいた)を真っ直ぐ千束通まで突き抜け、千束小学校の横にあるCake House タカラヤで、オレンジチョコレートを贈答に送ってもらう。ここのオレンジチョコレートは他ではあまりお目にかかれないと見えて、申し込んで1月先でないと届かないという代物。到着日は来月の16日だという。
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 ここから、お酉さまにお参りする。昨年は境内にも入れないほど人波が道にはみ出していたが、混むには混んでいたが、どうやら境内に入ることが出来た。鳥居の下で両側からお祓いをうけ、境内に入る。
 おおよそ千束といえば、千束通りがメインストリートなのであるが、町名標識変更があって、この千束通は浅草2・4.・5丁目になってしまった。土地の人は千束といえば、ひさご通もふくめて、この千束通を言うのであって、アドマチック何とかはどうも千束の一部を紹介したに過ぎないようなので、ひさご通・千束通をデジカメに納めてきた。まずは写真をご覧じろ。
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b97d5212.jpg写真説明 ①ロックにつづくひさご通りの入口 ②牛鍋で有名な米久 確かここの娘さんは女優さんだったはずだが ③江戸伝統工芸展示館 ④家庭料理 TAKEYA ついこの間ここで水門会関東支部の会合をやりました ⑤提灯の老舗 花藤 ⑥老舗田圃 竹松鶏肉店 ⑦通りから少し入った処にある浅香光代の住い兼事務所 ⑧デンキヤホール ここのオム焼そばは美味いよ ⑨星野銅銀銅器店 ⑩水源 和菓子屋さんで大福が美味しい ⑪聖愛クリニック 聖愛病院といっていた35年前、爺のお袋さんは帰らぬ旅に出たよ。

 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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