瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日は朝から雨。午後5時頃になって、ワンさんから電話で、「今日の集まりは7時からになっているが、家では何時も6時が夕飯なので、この時刻には竹屋に行きますが、宜しかったらご一緒しませんか」ということで、直ぐに外出の準備をして爺婆で竹屋に向かう。
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ワンさん夫妻と爺婆の4人で一足先に、宴会の始まり。7時になって全員が集まり、乾杯。
 婆様が持参した古いファイルに貼りつけた写真を見ながら、40年昔の思い出話に話が弾む。爺もついつい焼酎のお湯割りを3倍も過してしまった。アラリンがCOLOURS OF Britain という豪華本を贈呈してくれた。
 今朝は、明日の旅立ちを控えて、徘徊は中止した。午前9時前にアラリンがチップに保存した家族写真を持って爺の家を訪ねてくれた。早速爺のパソコンにこの60枚からの写真を取り込んでもらった。
爺の仕事場で
901ac81b.jpgアラリンの家族写真の中から
797b0fb2.JPG 今回の日本旅行は、仕事半分遊び半分だそうだ。話は何時までも尽きない。まだ仕事を残しているということで、10時ごろには左様ならしたのである。
 明日からは高校時代の同期会で門司に旅立つ。4・5日はブログもお休みになるだろう。

 

 朝5時は真っ暗気(け)だ。隅田公園を抜け吾妻橋の交番前から雷門通りを横切る。東武浅草駅前の江戸通りと馬道通りが交わる辺りは道路の補修工事中。朝が未だ明けぬうちから辺りには大きな騒音がひびきわたっている。工事の様子をカメラに収めたが、真っ暗闇でよく写っていないので載せるのはやめた。駒形橋を渡り、そのまま真っ直ぐ浅草通りを東進。路地の間から大変糞切れのよい巨大UNchiが空から降ってきたように思えるような異物が目に入った。珍しいのでカメラに収めたが、未だ辺りは明け切れていないので、よく見ないと何の写真かよく解らんじゃろうな。
浅草通りの路地
9e805086.JPG源森橋上にて
e012993a.JPG 何の石碑か?
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 三つ目通りまで来ると、辺りが白んでくる。源森橋から東京スカイツリーの工事現場を望むと、そこは朝焼けで染まって綺麗だ。源森橋を渡って水戸屋敷に入ると、今まで気付かなかったけれど今通ってきた道に沿うように庭園内部に大きな石碑があり、説明板が立っている。説明板は辛うじて「堀辰雄住居跡」と読めるが、どうやら巨大石碑とは関係なさそうである。ようやく明るくなりかけていたが、瞼をおぴろげて石碑の字面を辿ったが、何が書いてあるかよく判らない。最後の部分に「勝安房篆額」とある。こんど何時の日にか調べてみることにしよう。堀辰雄住居跡の説明板もカメラに収めてみたが、露出不足でよく読めない。これも次の機会にしよう。
5205dcc6.jpg 牛島神社前を横切って何時もの遊歩道に出る。白鬚橋を渡ると西詰めの所で、愛犬を連れたワンさん夫妻に出会う。このブログのコメントにもあったが日曜日には「浅草今昔展」を観に東京江戸博物館に行ってきたそうだ。明日のアラリンの歓迎会には出席するとのこと。
 というわけで、明日は徘徊はお休み。次の9日(木)は、翌日から九州行きになるので、とても徘徊どころじゃないだろう。



 今朝は朝から雨、徘徊にも出掛けられず、10月8日アラリンとあうことになっているので、想い出の写真でもあればと、アルバムを繰ってみた。
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920f6c36.JPG 古い臨海学校の写真は色があせてうまくとりだせない。婆様が、「これを拡大コピーしてもって行けば」といって取り出した写真2枚。花のニッパチ組みの高校卒業のとき、不忍池畔の東天紅で兼愛塾での同期会をやったときの不忍池を色あせた写真ではあったが、早速スキャンして編集してみた。まあ、どうやら見られる写真になったので、これを持参することにした。
 いやはや、皆若い。爺も婆もまだ40歳前後の頃であった。今から35年あまりも前の写真である。爺婆が頭を捻っても名前の思い出せない人物が4・5名はいた。8日に集まる連中に訊ねれば思い出すことであろう。


 町会の回覧で「みんな出歩こう、うぉーきんぐ」というチラシが配られてきた。婆様は早くから参加することを決めていたらしい。爺は皆さんのお荷物になっては迷惑になると、こんな会に参加したことはない。
コース図゛
81fc1d24.JPGS家玄関先にて
1e1a956a.jpg参加者の署名受付
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説明と諸注意
6de4f6fc.jpgでは準備体操を
65f77ff8.jpgいよいよ出発で
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バーベキュー広場で休憩

96c3f3f8.jpg世話人の方と一緒に709a1ddb.JPG
T氏と一緒に
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 爺婆
18f23263.JPGY氏ご夫妻
817fae5e.jpg千草園案内板
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草園
4f53f1df.JPG 今日は日曜日、何時もなら「うろつきどんたく」に出掛ける日である。婆様がウォーキングなら爺は東京江戸博物館へ「浅草今昔展」にでも観に行こうか思っていたが、このチラシを見直してみると、白鬚橋から千住汐入大橋のコースはよく歩くコースではあるが、柳原千草園はまだ行ったことがない。千住汐入大橋からは直ぐそこのコースらしいので、例の気まぐれで朝になって参加する気になった。
 秋晴れの好天気で陽気はよいし、何時もの早朝徘徊とはまた趣をことにするものと、金魚のウンコよろしく、お供することにした。集合は千束公園、9時15分、婆様と一緒にS氏夫人のMakiちゃんを誘いに行く。S氏の玄関先で夫妻の写真を撮る。S氏はお家でお留守番とのこと。千束公園で署名し、待機していると、松戸小金でご近所だったY氏ご夫妻にあった。9時50分頃、説明注意があって、準備体操。千束公園から千束通りを抜けて吉原大門、あさひ会商店街を抜けて、明治通りにでて、白鬚橋の西詰めから、汐入公園に入る。まあなんとチラシには「歩くことに自信のない年配の方、お子様連れの方でも大丈夫です」とあったにもかかわらず、爺の早朝徘徊に比べると随分早足で歩いているようだ。バーベキュー広場で休憩。日曜日とあって、大勢の人がバーベキューを楽しんでいた。ここで兼愛塾の塾生であったT氏に出会う。いやはや、何年ぶりの出会いであろうか。汐入大橋を渡り、狭い自動車1台が抜けられるかどうかの道を長い列をなしてぞろぞろと付いてゆく。柳原千草公園に着いたときはもう12時知覚出会った。小ぢんまりとした、趣のある公園であるが、あんまり広くは知られていないというのが気にいった。
奥山風景
44e47199.JPG平成中村座
0e022ef2.JPG奥山盤所にて
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  整理体操をして解散になった頃は12時をまわっていた。東武線牛田駅から東武浅草駅へ出た。Makiちゃんと一緒に昼飯をとり、今開催中の奥山風景と平成中村座を見て言問通りを通って帰宅した。
 北十間川に架かる5番めの橋「京成橋」は業平3丁目と押上1丁目を結ぶ橋で、この橋は昭和4年に架けられたが、現在の橋は昭和37年に架けられたそうじゃ。 名前は京成電鉄の本社があることから付けられたものじゃろな。京成線が都営地下鉄と連絡する前は、押上が終点で浅草方面へ歩いて行く人が多く、浅草通りの商店街も栄えたのじゃが、地下鉄が出来て以来芳しくない状態が続いているが、東京スカイタワー誘致に伴って明るい兆しが見え始めたと住民達は沸きかえっているようじゃ。
京成橋全体像
300633e4.JPG京成橋南詰
33134c32.jpg橋上より隅田川方面を望む右側がタワー建設地
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 京成橋北詰
3cdb2835.jpg橋上より亀戸方向をのぞむ
21f92217.jpg京成橋方向から工事現場を望む
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11月から交通止めになる標示
0e459653.jpg京成橋と東武橋の中間点で
291dc88b.jpg 塀には完成予想図が
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 朝まだきの真っ暗な隅田公園を抜け、吾妻橋を渡り、墨堤通と浅草通が出会う付近で明るくなる。浅草通を亀戸方面に向けて暫く歩く。業平橋を渡り、三つ目通を横切り、四つ目通まで来ると右手に京成橋が見える。京成橋の西側にかつては押上橋という橋があったというが、戦災で焼け落ちてしまったそうじゃ。今はきれいに整備されて跡形もない。大横川から中川までの北十間川は、掘削時には橋は3本しかなく、押上橋、堺橋、慈光院橋という3つの橋だけであったそうじゃ。なお、「押上」という地名は、京成橋の下を流れる北十間川から舟運の舟を「押し上げ」て、お隣の曳舟川へと移らせた事に由来するそうじゃ。
 北十間川の北側沿いの道を引き返し隅田川に向けて歩く。工事現場とこの道は今のところ板1枚の防御柵で囲まれているが、11月1日からはどうやらこの道は平成24年4月まで通せんぼになるらしい。塀に描いてある東京スカイツリーの完成予想図も見られなくなるわけじゃ。ここから浅草方面を見るとかの有名な金色に輝く「???塔」が垣間見える。源森橋から三つ目通りを北上し言問通りに出ると、昨日の「詩仏三碑」の最後の一つ三囲神社にある「本松齋一得翁之碑」を探しに行くことにした。境内で目的の石碑を探すがなかなか見当たらない。それにどの石碑も古いもので、表面が風化していてよく読めない。本殿を清掃している宮司?さんに「ここに、大窪詩仏の篆書の碑があると聞いてきたのですが?」と訊ねると、「ああ、それは百花園にあります」という、素気ない返事。最後に半分諦め気分で大国神・恵比寿神の社の左手にあった石碑群の中に辛うじて「本松斎一得翁之碑」と読み取れる碑を見つけた。読み取れない文面の最後にかすかに「天保三年 開溝南篆額 大窪行撰并書 廣群鶴刻」と読みとれた。はてさて、この「本松斎一得」とは如何なる人物なるや。帰宅後調べてみた。
本松斎一得之碑
25d16d52.jpg現代も続く遠州流
609ba70d.JPG 江戸後期に京都で創められた遠州流挿花はやがて江戸下谷常林寺の住職日寛(花号、本松斎一得)に伝えられ優美華麗な花形が浅草遠州ともてはやされ明治大正昭和と全国に流行し、人々は紳士の嗜みとして修得し、家を飾り又集って技を競いました。艶麗、清潔感、凛とした強さと気品等江戸前の「粋」が彼等の美意識でした。昨今の風潮や嗜好を考えると、往時の繁栄は望むべくもないが、現代も孤蓬遠州流生花としてつづいているということじゃ。
 ここから、桜橋を渡って帰宅した。今日も爽やかな秋晴れの一日になりそうだ。
 アラリンの歓迎の日取りが決まった。K嬢にメールで連絡しておいた。アラリンはもう日本へ着いているはずだが、携帯に電話しても電源がとどかなかったり、切れたりしていてなかなか通じない。今日明日は海へ(サーフィン?に)行っているのだろう。まあ、月曜日にでもまた電話してみるか。
 先日10月1日文化の日に白鬚神社で江戸の漢詩人佐羽淡斎(さば たんさい) が隅田川について詠んだ七言絶句を、大窪詩仏が記したという「墨多三絶之碑」を見た。1.5メートルほどの高さの自然石の表面に、3つの漢詩が刻まれていた。佐羽淡斎は、桐生の豪商で、江湖社市河寛斎(1749~1820年、儒学者で詩人)の孫弟子、大窪詩仏の弟子であり、文化文政期に漢詩や南画をよくした知識人であったという。その説明板によれば「この碑(草書)は三囲神社の『本松斎一得翁之碑(隷書)』、隅田川神社の『無琴道人墓銘(楷書)』の両碑を加えて、大窪詩仏の三書体、すなわち『詩仏三碑』として世に知られています。」とあった。
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06531417.jpg こんなことが少々頭に残っていたので、今朝の徘徊は桜橋から青色御殿通りを抜けて、白鬚公園内にある隅田川神社へと向った。夜が明けて明るくなったのは白鬚橋に出た頃であった。先だって隅田川神社で岸田吟香翁碑を訪ねたときは直ぐに判ったのであるが、鳥居を潜って丹念に調べてみたが、並んでいる碑の中には該当するものがない。本殿の横の木陰に隠れてひっそりと鎮座ましましていた。最後の部分は辛うじて「文化二年 亀田興撰 大窪行書 廣群鶴刻」と読める。白鬚神社の説明板には、楷書と記されているのに「大窪行書(ぎょうしょ)」とは、どうなっているんだ。よくよく調べてみると大窪詩仏(1767~1837年)は幕末の漢詩人で、書画もよくし、名は行(こう)、字(あざな)はは天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)といっぱいあったようじゃ。これで「大窪行書」は(大窪行が書いた)という意だということが判った。しかし、書いてある内容に付いては殆ど判らない。無琴道人が如何なる人物かも全く不明である。
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013fb23b.jpg 隅田川神社から木母寺の裏を通って、水神大橋に出た。今日は、橋の上流側の歩道を歩くことにした。橋の東詰め見る限り、曙町団地はどうやら出来上がったらしい。橋の上からは旧堤防の残滓がのぞまれた。汐入公園の遊歩道を通り、明治通りを横切って件の落書き横丁を通り、帰宅した。

 東京の日の出は5時30分頃である。まだ暗い隅田公園を抜け、吾妻橋にかかる頃からようよう白け始め、都営浅草線の本所吾妻橋駅手前の浅草通りに入る頃になって、あたり一面が明るくなり、東の空が朝焼けに染まり始める。
 浅草通りが大横川を渡るところが業平橋(なりひらばしである。業平橋)は『伊勢物語』の主人公であるとされている平安時代の歌人・在原業平に因んでいる。川は橋のある部分も含めて部分的に埋め立てられたが、橋は残っている。また、隅田川に架かる吾妻橋の別称とも言われているということじゃ。この橋のこの辺いったいの地域も業平と呼ばれている。おなじ名前の橋が埼玉県にもあるが、奈良県・兵庫県にもある。埼玉県の業平橋は同じ由来を持つものであるが、兵庫県のものは在原業平が芦屋市に住んでいたことから、また奈良県のものは八尾市に伝わる『業平の高安通い』に因むものであるそうじゃ。
業平橋
bd384776.jpg東武橋
4f4537a1.jpg業平駅
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東武橋と東部ビル
84bf12d4.jpg東武橋上より亀戸方向を撮る
80f7114e.jpg東京スカイツリーの工事現場
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 業平橋を渡って直ぐの通りの左手に東武橋がある。北十間川の4番目の橋が「東武橋」で、かつて、源森川(現・北十間川の隅田川から東武橋の間)は、ここで南に曲がり「業平橋(なりひらばし)」を経て大横川(現・大横川親水公園)に流れていたという。また、歌川広重の「小梅堤」(9月29日のブログ「小梅橋」参照)の題材になった曳舟川(現・曳舟川通り)も、ここから流れていたということじゃ。東武橋を渡ると東武伊勢崎線のガードがあり、その右手に業平橋駅がある。ちょうど、上り浅草行きの電車が出発するところであったので、カメラに収めた。この東武橋と次の京成橋の間に東京スカイツリー(新東京タワー)が出来るのだという。事業主体は、東武鉄道が出資する「東武タワースカイツリー株式会社」。2008年7月14日すでに着工しており、順調に進めば2011年12月竣工の予定という。
桜橋を潜る達磨船
f3e35674.jpg 東武橋から引き返し、北十間川の北側を源森橋迄進み、三つ目通りを北上、途中から水戸庭園を抜けて何時もの隅田川の遊歩道に出た。桜橋手前で、親船に曳かれて行く達磨船が桜橋を通過するところであった。桜橋を渡ると、言問橋までの遊歩道を南下し、隅田公園を抜けて、帰宅した。

 インターネットの毎日jpから次の記事を見つけた。
 卒業証書:戦後63年目の卒業式、7人が出席へ 門司高「最後の機会」
 ◇「右ハ昭和二十年三月三十一日本校ノ課程ヲ卒ヘタリ仍テ之ヲ證ス」
 戦時中、学徒動員などで卒業式に出席できなかった旧制門司中学校(北九州市門司区、現在の県立門司高校)の卒業生に来月7日、卒業証書が手渡される。「右ハ昭和二十年三月三十一日 本校ノ課程ヲ卒ヘタリ 仍テ之ヲ證ス」。戦後63年目にして初めて手にする卒業証書。大半が80代の卒業生たちは「証しがほしかった」と感慨を深くしている。
 門司高80年史によると、戦況の切迫で1944年5月から同校生徒も通年動員となり、8月からは1年生を除き軍需工場に動員された。翌45年3月に卒業式は開かれたが、多くが出席できなかった。
93650dca.JPG 同窓会などで卒業証書を受け取っていない人の話題が度々出る中、門司北高との統合で今年度で閉校となる門司高が「最後の機会」と企画。連絡可能な167人に案内状を送ったところ7人が出席することになった。
 柳田豊さん(80)=福岡県福津市=は40年に門司中に入学。4年生のころから飛行場建設などに駆り出され、5年生になってからは小倉の陸軍造兵廠で働き、一度も登校しなかった。その後、海軍に入り、終戦は神奈川県横須賀市で迎えた。
 卒業証書のことはずっと心残りだった。「お国のために働き、学校に行かなかったのではなく、行けなかった。あきらめていたが、門司中を出たんだという証しがほしかった」。既に亡くなった友人も多い。「代表という気持ちで受け取りたい」と語る。
 10月7日の「卒業式」には、最後の在校生となる3年生195人も列席する。出席者の一人で、戦後は母校・門司高教員として12年間勤めた久木田益さん(81)=山口県下関市=は「戦争末期は本当に悲惨だった。平和に勉学できる素晴らしさを今の子が分かってくれればいい」と話している。【佐藤敬一】(毎日新聞 2008年9月27日 西部夕刊)
 この記事の久木田益(すすむ)はこの爺の実兄なのじゃ。写真は海兵合格記念にとったもので、旧制の中学5年生(今でいえば高校2年生)のもの。
 

 昨日も今日も朝から雨。今日の徘徊は諦めたものの午後から雨も上がり薄日さえ射してきた。今日は都民の日で百花園は無料で入場できるし、萩も見ごろに違いないと、午後4時過ぎに家を出て百花園へと足を伸ばした。ハギを竹の柵にそわせてトンネル状にした園路は百花園の名物である。9月には全長約30mにわたって花のトンネルになるという。百花園に着いたのは4時半をすぎていて、園内には「七つの子」の曲が流れていて5時には閉園であることを知らせていた。
萩のトンネルの入り口で
c479b087.jpg秋の七草の碑
8212e581.jpg隅田川七福神の由来
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 ゆっくり秋の七草をカメラに収めようと思ったのだが、萩のトンネルを撮るのがやってであった。そばにいた中年の小母さんにシャッターを押してもらった。山上憶良の秋の七草の碑をカメラにおさめ、追い出されるように百花園を出ると入り口のところに隅田川七福神の由来の説明板があったので収めておいた。
鷲津毅堂碑
412af9ac.jpg鷲津毅堂碑の説明板
2ccee48c.jpg墨多三絶の碑
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墨多三絶の碑の説明板
53a1d3f7.jpg 百花園を出て白鬚神社の境内を通ると鷲津毅堂碑と「墨多三絶」の碑をカメラに収めた。
 墨堤通りを横切り、リバーサイド隅田の南側を通って件の青色御殿通りに出て、桜橋を渡って帰宅した。

 今朝は土曜日に続けて、北十間川の3番手の橋である「小梅橋」を回った。
北十間川は、江戸時代に人の手によって掘られた人口の河川で、もともとは源森川の一部であったが、洪水によって水害が発生したことを機に、寛永12~3年に堰きとめられて以来、現在の東武本社の近くの業平橋(江戸時代からあった橋)から旧中川までの水を通じていない川であったという。 一方、源森川は、隅田川から業平橋のあたりで分断されて南に曲がり、大横川につながっていたということじゃ。大横川は、現在では”大横川親水公園”になってる。その後、明治18年に堰を取り除き閘門(こうもん)ができるようになって、隅田川から旧中川まで水が通じるようになったということじゃ。この後、源森川という名称はなくなり、隅田川から旧中川までを、北十間川とよぶようになったんじゃろうな。 いまでも、堰があった部分は、東京都の浄水施設があり普通に川が流れているわけではない。東武橋から小梅橋までは川が処理場のなかを流れていて、ここに処理場があることも、当時北十間川を堰きとめていた歴史の名残なのであろう。
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 「小梅橋」は、新しいもので江戸時代や明治時代の地図にも出てこない。また、現在でも普通の地図では名前が書かれていない可哀そうな橋なんじゃと。江戸時代に描かれた隅田川向島絵図によると、現在の小梅橋を渡ったあたりのところに「小倉庵」(古地図で○で囲んで置いた)という料理屋があったらしい。江戸時代には、「今戸で大七 有明桜、小梅でおしるこ 小倉庵」とうたわれたほど有名だったそうです。 はじめておしるこを料理として出したのも小倉庵だそうですよ。“隅田川向島絵図”で、“小倉庵”の表記を見ることができます。ただ、残念なことに、幕末に旗本の青木弥太郎(やたろう・家禄二百石、元勘定衆)と強盗を働いた一味の一人に、この小倉庵の跡取り息子の長次郎がいたそうで、いろいろあって今では跡形もありません。古地図の右側の大きな川が、隅田川。地図の一番上を横に流れているのが、北十間川(きたじゅっけんがわ)。北十間川は業平橋(なりひらばし)のあたりで堰きとめられていたんじゃ。古地図の上の部分に「小梅村」と横に書かれているところが、新タワーの建設予定地なんじゃ。
9a09e91a.jpg
de0fd780.jpg いやはや小梅橋上で写真を撮っていると、ぽつりぽつりと雨が落ちだした。北十間川と浅草通りの間のみちを枕橋方向に進むと、源森橋の袂から路地の間から雲固様が黄色に輝いていた。急いで枕橋まで来ると、何時ものコースを桜橋まで進んだが、どうやら本格的に降ってきそうなので、桜橋をわたると、例の屋外プール脇の凸面鏡に写った長袖姿の己をカメラに収めると、そそくさと帰宅した。
 朝飯の時のNHKテレビで、工事に取り掛かった東京スカイツリーの現場のヘリコプターからの撮影が映っていた。間もなくして、そのヘリコプターの騒音が我家の今に流れ込んできた。今日からはじまる新しい朝ドラは、宍道湖の蜆とり漁師の娘と、祇園の舞妓の話らしい。双子の姉妹「佳奈・茉奈」が演じるのだそうじゃ。
 

 オーストラリアはシドニーに行っている婆さんの姪のMihoちゃんがホームステイ先のMr.Mとその両親を連れて、一時帰国した。すでに何日か前に来日して、京都・大阪・奈良・鎌倉見物を済ませて、明日は関空からオーストラリアに帰国するのだそうだ。
 Mr.Mは小さいながらも、塗装屋の社長さんだということである。両親は保険勧誘の仕事をしているらしい。なんでもMihoちゃんとMr.はメールをとおして知り合ったらしい。
雷門の交番横にて
37066fde.jpg宝蔵門にてMr.MとMihofa8cff41.jpg
宝蔵門にて全員で
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浅草寺境内で
6bf0af65.jpgむつみにてMr.の両親2d17f0d1.jpg
Mr.MとMihoちゃん
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むつみにて
44913c9c.jpgむつみにて両親を挟んで
ac4b2dcb.jpgこれから合羽橋へ
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 正午に雷門で待ち合わせて、浅草寺を1巡して、釜飯屋「むつみ」で昼食をとった。日本食ブームで今は何処にでも日本料理を食わす店があるそうじゃ。てんぷらやすき焼きは今は異国の人にとって珍しいものではないという。まさか、どぜう鍋というわけにもいかないので、釜飯ということになった。昼食後、Mr.Mのお袋さんが料理が趣味だということで、台所用品が見たいということで合羽橋に行きたいということである。Mihoちゃんの従姉にあたる前のお家のTちゃん夫妻と家の婆さまで案内することになり、爺は一足先に帰宅した。合羽橋を回って家に再度案内するということなので、家で待っている間に本日撮った写真を整理し、ブログを書くことにした。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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