瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 1週間以上もブログを休んでしまった。何のことはない、打ち込むのをサボり申した。
 昨夜のうちに久し振りのブログを打ち込む予定であったが、ブログの管理頁を開こうとしてもログインエラーとなって、やれパスワードを入れろとか、合言葉は何だとか訊ねてくる。こちとら、半分遊びでやっているから、そんなの覚えているはずはない。どうにもてにおえなくなって、Y社のS氏にメールを入れて助けを求めた。朝一番で返信メールが入り、昨夜のうちに新しいパースワードと合言葉をきめて、登録していただいたらしい。そのパスワードでログインエラーを修復できた。まあ、ブログも長期間休むとダダを捏ねるのだろう。
すみだ郷土資料館
c38783aa.jpg 早朝の徘徊を改め、朝食後乃至は夕食前の徘徊にしてからは、何となくパソコンに打ち込む間(ま)を外してしまい、電話やメールで問い合わせが来る始末で、皆さんに心配を掛けたようじゃ。昼間の徘徊となると、その辺の小さな博物館やお店にも立ち寄れるし、喫茶店があればコーヒーも飲める。まあ大変誘惑が多い。先日もすみだ郷土資料館に立ち寄り、「隅田川文化の誕生」という特別展を見てきた。また、珍しい店かあれば立ち寄って、買いもしないのに珍しい品物を除いたりする。そして、その分人間が横着になって、徘徊には出かけることは出かけていたのだが、ブログも1日伸ばしにして、とうとう休んでしまう。
 今日は、さる11月11日開いた水門会関東支部の会合の冊子が出来たので、朝食後、A医院で定期の検診を終えると、花川戸のクロネコヤマトから発送した。
警視庁の巡視艇か? 
ad300796.jpg高速道の下に坐します蝦蟇と亀
ff6d358e.jpg 吾妻橋を渡っていると、多分警察の巡回艇が東武線橋梁を潜って全速力で近付いてくる所であった。川下で何か事件でもあったのだろうか。
 吾妻橋を渡って、三つ目通りから、水戸街道に入り、桜橋通りを通って、高速6号線の下の桜橋に出る階段を上ると、そこに蝦蟇左大臣と亀右大臣が、鳩の屎を浴びながら鎮座ましましている。どうして、ここに蝦蟇と亀の像があるのか良く判らない。蝦蟇と亀の話は宋の蘇軾(1036~1101年)の戯撰であるといわれいる「艾子(がいし)雑説」の中に寓話が出ていたように思うが、ここ向島の地に何かいわれでもあるのだろうか。今度調べてみよう。
蝦蟇左大臣
505e3d17.JPG亀右大臣50fef4e5.JPG
漢和中辞典より
f633f0b8.JPG まあ、漢和辞典で調べると、亀も蝦蟇もあまり変わりないようで蝦蟇をあらわす「黽(ぼう)」から「龜」ができたらしく、古代中国人にとっては、どちらも同じ虫けらと考えていたのだろう。
 昨日は日曜日だというのに1日雨で家に閉じ込められてしまった。先日の水門会関東支部の会報作りに1日を費やした。
 本日会報のゲラをN兄に送るべく、8時半に家を出て花川戸のクロネコヤマトへ赴く。
隅田公園の落ち葉
85566ddc.jpg三囲神社
53d4b8d4.jpg日比翁輔の石垣の歌碑
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 隅田公園の桜並木もすっかり色づき、遊歩道は落ち葉で敷き詰められている。昼間の散策は誘惑が多い。墨田区役所の裏手、勝海舟の銅像の脇にカフェがあり、ここでコーヒーを飲む。源森橋に出て、言問橋東詰めから見番通りを北上する。途中、三囲神社の入口に日比翁助(1860~- 1931年、三越でパートの創始者)の石垣の歌碑がある。
日比翁助
b33bc1bf.JPG 『いしがきの/小石大石持合ひて/御代はゆるがぬ/松ヶ枝の色』「石垣には巨大な石塊が積み重ねられ、其間に小さな石があって空隙を.め、其上に大石が泰然として据へてある。石垣は大石のみで出来るものでない。小石は不要の様に見へるかも知れぬが、もしあの石の中から一の小石を抜き去って見よ、堅牢な石垣も少しの事故で崩壊し去るであらう。如何に巨大の石のみがあつても夫だけでは石垣の堅牢を期することが出来ぬ。小僧とか下足係と云ふ小石があつてよくその為すべきことを為せばこそ大石も始めて活用し堅牢な石垣となる」いうことを詠ったものだという。

桜橋の全景
d2f597f4.jpg高速巡視艇
e30c6c09.jpg  桜橋通りを抜けて、桜橋に出るとこれを渡り、帰路に着いた。山谷掘にかかる手前で、高速巡視船が川上を目指して滑るような速さで上っていった。
 
 昨日と同じく10時に江戸通りを南下する。須賀神社の少し南、JR浅草橋のすぐ北側に銀杏岡八幡神社がある。境内には大きな銀杏の木が4、5本植わってた。
銀杏岡八幡神社の鳥居
255b32d1.jpg本殿と銀杏の木
98747363.jpg由緒書き
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 柳橋由来碑
2a9f9e13.JPG蔵前橋を抜ける水上バス
3fe4f827.jpg 神田川の北岸を歩いて、柳橋に出る。両国橋を渡り、テラスを通って、北上。水上バスが今しも蔵前橋をぬけでるところをカメラに収めた。吾妻橋を右手に見て、枕橋茶やにて今朝ほどでがけに婆様から言われていた牛すじまんを2個買って、帰宅した。婆様は「牛すじまん2個ずつを買って来て」といったのだそうだ。昼飯代わりにする予定だったらしい。
 10時、江戸通りを南下、浅草橋手前に須賀神社がある。須賀神社(すがじんじゃ)という名前の神社は、日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。いずれもスサノオを主祭神とする神社で、社名は、日本神話において、スサノオが八岐大蛇を退治してクシナダヒメを妻とした後、出雲国須賀に至って「吾此地に来て、我が御心すがすがし」と言ってそこに宮を作ったことに由来するものである。須賀神社の多くは、明治の神仏分離まで「牛頭天王社」などと称していた。
須賀神社鳥居
7e988d9a.jpg須賀神社本殿
db5b054e.jpg江戸名所図会にある牛頭天王社
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 ここ蔵前の須賀神社の創建は「當社牛頭天王縁起」によれば推古天皇の御代(西暦600年)。御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)、御神徳は目的完遂、病気平癒など。上記縁起によると、推古天皇九年(601年)の夏、この地に疫病が流行した。ところが、このあたりの森に牛頭天王を祭った祠(ほこら)があったので、その祠に郷の人々は病気平癒を祈ると、尽く快気したと記してあるという。また「天王塚碑文」、「求涼雑記」、「江戸名所図会」、「新板御祭礼双六」などにも登場し、江戸時代には祇園社、蔵前牛頭天王、団子天王、笹団子天王などと呼ばれ、経済力のある氏子の札差らに支えられ 祭礼も盛大であったようだ。明治時代の神仏分離令により、天台宗東叡山寛永寺真鏡山宝現院大円寺より分離され、須賀神社と改名され、古社であるが、関東大震災の災失、第二次世界大戦の焼失のため 昭和36年造営の鉄筋コンクリート社殿であるという。
浅草橋上より柳橋を望む
f34e6c41.jpg浅草橋
d34d823d.jpg補修工事中の両国橋
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  浅草橋を渡り、神田川沿いに柳橋に出る。両国からテラスを通り、正午前に帰宅した。両国橋も言問橋と同じように補強工事が行われていた。いずれも昭和の初めに架橋されたものであるから、7、80年は経ていることになり、かなりガタがきているのであろうか。
あさ5時からの徘徊は暗く、それに寒い。今日から昼飯前の徘徊にした。
今朝は家の出掛けに関西のS兄から電話、長話をしているうちに、10時半。
鉄橋ですれ違う特急と普通
f9e2af05.jpg工事の現場横を荷役船が通過
e8987596.jpg言問橋下は工事中
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 警察署の無料講習会の準備
0a225f8b.jpgうさちゃんかなそれともくまさんか?
fcd55a52.jpg 公園を抜けて吾妻橋を渡る。東武線鉄橋の上で、下り特急と、上り普通電車がすれ違っていた。枕橋を渡り、テラスにおりる。言問橋の改修作業は今日も行われていた。その側を荷役船が大川を上って行く。今朝は雲ひとつない小春日和。ポカポカと汗ばんでくる。桜橋を渡り、山谷掘の水門前に来ると、何やらイベントの設営をやっていた。何でも浅草警察署主催の「高齢者のための電動車いす安全運転講習会」とやらがあるらしい。ぬいぐるみの熊とも兎とも見さかえの付かない恰好をしたビラ配りから、チラシを貰って帰宅した。今日の徘徊は1時間たらずであったか?

 今朝ほどは6時まで寝てしまった。
朝食を済ませ、花川戸のクロネコヤマトにメール便を出しに行く。明日は、水門会の関東地区の14名が集うことになっているので、長い距離の徘徊は止めにした。もちろん、明朝の徘徊もやすむつもりである。隅田公園を抜けると地下ギャラリーで「零の会」の展示会をやっていたので入ってみた。まあ、この近辺の風景が多く、ゆっくり落ち着いて観られるので心が休まる。中には小学生3年の作品もあったが、いや大人の作品顔負けの出来ばえであった。
隅田公園地下ギャラリー
676a7d9a.jpg小学3年生の作品f6ccf41c.jpg
工事の警戒船(川下)
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工事の現場
7130605d.jpg警戒船(川下)
c9d002b0.jpg今を盛りとみをつけた南天
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 吾妻橋を渡り、枕橋を過ぎた所で、テラスに降りて桜橋まで歩いた。何やら言問橋は補修工事らしい。川下、川上に警戒船をおいて、橋桁の所に作業船が停泊し何やら補強工事をしているらしい。テラスに南天が見事な実をつけていた。桜橋を渡って帰宅した。朝食後の散策も捨てたものではない。
 

 昨日の朝は雨で、徘徊は中止。午後雨はやんだが、出かけるのが億劫になった。
北風を突いて水神大橋へ
fe760f72.jpg晩秋の東白鬚公園
21913012.jpgいざ言問はむ
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 5時30分出発。桜橋を右手に見やりながら、白鬚橋に出る。西詰めで明治通りを横断、汐入の遊歩道に出る。明け染むるあたりは曇り空で、北風が頬につめたい。水神大橋を渡り、はや秋も終ろうかという東白鬚公園を抜けると明治通りを横断して、青御殿の通りを南下、桜橋を渡って帰宅した。桜橋の欄干に停まるユリカモメを写したが、どうやらピンボケのようだ。
 5時半に出発。桜橋を渡り、白鬚橋東詰めより明治通りを東進し、墨堤通りとの交差点で明治通りを横断。東白鬚公園に入る。公園内はすっかりあき深しの感。木母寺の前を抜け、梅若橋の袂を抜けて水神大橋へ。ポンプ場の前の遊歩道から見ると、大川の川面で数羽の水鳥が遊んでいるのが見えた。テラスへ降りてみると、直ぐ側で名前はわからないが4羽の水鳥が遊んでいる。昨日は水鳥の撮影に失敗したので、出来るだけ傍に近寄りアップで撮ってみた。
東白鬚公園入口
40a78ced.jpg秋深し木母寺
32ecddc3.jpg水神大橋場より撮影
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 川面で遊ぶ水鳥
782e13a6.JPGご来光を受ける石浜神社
3c50d406.jpg テラスをそのまま進むと、瑞光橋をくぐって、汐入水門の所まで来ると、現在工事中で通り抜け禁止となっている。脇道を通ってみたが、初めての道で、あっちうろうろこっちうろうろ、迷い迷って、どうやら石浜神社の横に出ることができた。遊歩道腰に今しもご来光。ご来光を浴びる石浜神社の鳥居を撮影すると、江戸通りに続く石浜河岸通りを南下し、帰宅した。
 明日は立冬。どうやら雨模様であるらしい。
今日は一の酉。
朝、起き抜けにメールを開くと昨日立ち寄った枕橋茶やのKさんからメールが入っていた。曰く、
「本日はご来店ありがとうございました。枕橋茶やの店主、Kと申します。早速日高さんのブログを拝見させていただき、石碑の件や、枕橋の由来など、疑問に持っていたことがすっきり整理されました。大変、勉強になってしまいました。
dca4d50d.JPG また、明け方の隅田川の川べりが綺麗ですね。昼や夜の姿ばかりみていたので、ぜひとも自分の目で味わってみたいなぁと思いました。
 さて、日高さんのブログの中で、「冨田木歩」さんの記事を読みました。
実は、ある若手の女性映画監督のたまごが、枕橋で非業の死を遂げた「冨田木歩」に焦点をあて、15分のショートフィルムをつくっています。わたしくしも、ナレーションで参加させていただく予定です。
映像が完成しましたら、枕橋茶や内で映像会をやろうと思っていますので、その時は、是非遊びに来てくださいませ。またお知らせさせてください。改めて本日はご来店ありがとうございました。お礼まで。」
 こういうメールはまた親しい友達が一人増えたようで嬉しいものである。
 5時半に家を出て駒形橋を渡り、墨田区側を大川沿って北上、白鬚橋を渡って、帰宅した。途中白鬚橋から桜橋の間のテラスで、川面に遊ぶ水鳥を撮影してみたが、川面がキラキラと反射して、何を撮ったか判らない画像になってしまったので削除した。

 今日は午前中に冊子「雁信随想」のゲラを仕上げた。昼食後、花川戸のクロネコ文書メールで、N兄にゲラを発送。東武浅草駅の北口前の床屋で散髪。先日来、水戸庭の堀辰雄邸の説明板の隣にある碑が気になるので、吾妻橋を渡り、墨田区観光案内所で、訊ねてみた。「二峯先生乃碑」というのだそうだ。早速水戸庭園へと足を向けた。
枕橋茶屋の旦那と女将
fa04fc26.jpg堀辰雄住居跡の説明板
7134b284.JPG二峯先生之碑
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 先だって婆さんと枕橋の袂にある茶屋で飲んだコーヒーの味を思い出したので、立ち寄って挽きたてのコーヒーを注文した。愛想の好い若い夫婦で開いている茶屋であるが、なかなか評判も好いらしい。先だってもテレビで墨田区の町おこしのポイントとして紹介していた。
 水戸庭園で、堀辰雄の説明板と「二峯先生之碑」をカメラに収めて、白鬚橋を渡って、帰宅した。
 二峯先生之碑:書家高林二峯の卒するを偲んで、倅で同じ書家の五峯高林寛が、二峯の墓所である円通寺の門前に建てた碑である。高さ450㎝に及ぶ大きなものであったから、安定も悪くなり、平成元年に移築されたものである。高林二峯は文政2(1819)年、榛名と妙義の山間、上野国(群馬県)碓氷郡下後間に生れたので二峯と号したという。諱(いみな)は信好、字は子述,多四郎といい、鵞翁とも号した。明治30年、齢79歳で没したという。篆額は勝海舟で碑の裏面には関係者名が数多く記されている。酒類販売店の金看板の文字にも気安く手を染めていたという彼の交流範囲の広さが窺われる碑である。
三囲神社の紅葉
450fdcd8.jpg 墨堤通越しにみる三囲神社の境内はすでに紅葉していた。
 


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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