昨夜のうちに久し振りのブログを打ち込む予定であったが、ブログの管理頁を開こうとしてもログインエラーとなって、やれパスワードを入れろとか、合言葉は何だとか訊ねてくる。こちとら、半分遊びでやっているから、そんなの覚えているはずはない。どうにもてにおえなくなって、Y社のS氏にメールを入れて助けを求めた。朝一番で返信メールが入り、昨夜のうちに新しいパースワードと合言葉をきめて、登録していただいたらしい。そのパスワードでログインエラーを修復できた。まあ、ブログも長期間休むとダダを捏ねるのだろう。
すみだ郷土資料館
今日は、さる11月11日開いた水門会関東支部の会合の冊子が出来たので、朝食後、A医院で定期の検診を終えると、花川戸のクロネコヤマトから発送した。
警視庁の巡視艇か?
吾妻橋を渡って、三つ目通りから、水戸街道に入り、桜橋通りを通って、高速6号線の下の桜橋に出る階段を上ると、そこに蝦蟇左大臣と亀右大臣が、鳩の屎を浴びながら鎮座ましましている。どうして、ここに蝦蟇と亀の像があるのか良く判らない。蝦蟇と亀の話は宋の蘇軾(1036~1101年)の戯撰であるといわれいる「艾子(がいし)雑説」の中に寓話が出ていたように思うが、ここ向島の地に何かいわれでもあるのだろうか。今度調べてみよう。
蝦蟇左大臣
漢和中辞典より
本日会報のゲラをN兄に送るべく、8時半に家を出て花川戸のクロネコヤマトへ赴く。
隅田公園の落ち葉
隅田公園の桜並木もすっかり色づき、遊歩道は落ち葉で敷き詰められている。昼間の散策は誘惑が多い。墨田区役所の裏手、勝海舟の銅像の脇にカフェがあり、ここでコーヒーを飲む。源森橋に出て、言問橋東詰めから見番通りを北上する。途中、三囲神社の入口に日比翁助(1860~- 1931年、三越でパートの創始者)の石垣の歌碑がある。
日比翁助
桜橋の全景
須賀神社鳥居
ここ蔵前の須賀神社の創建は「當社牛頭天王縁起」によれば推古天皇の御代(西暦600年)。御祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)、御神徳は目的完遂、病気平癒など。上記縁起によると、推古天皇九年(601年)の夏、この地に疫病が流行した。ところが、このあたりの森に牛頭天王を祭った祠(ほこら)があったので、その祠に郷の人々は病気平癒を祈ると、尽く快気したと記してあるという。また「天王塚碑文」、「求涼雑記」、「江戸名所図会」、「新板御祭礼双六」などにも登場し、江戸時代には祇園社、蔵前牛頭天王、団子天王、笹団子天王などと呼ばれ、経済力のある氏子の札差らに支えられ 祭礼も盛大であったようだ。明治時代の神仏分離令により、天台宗東叡山寛永寺真鏡山宝現院大円寺より分離され、須賀神社と改名され、古社であるが、関東大震災の災失、第二次世界大戦の焼失のため 昭和36年造営の鉄筋コンクリート社殿であるという。
浅草橋上より柳橋を望む
浅草橋を渡り、神田川沿いに柳橋に出る。両国からテラスを通り、正午前に帰宅した。両国橋も言問橋と同じように補強工事が行われていた。いずれも昭和の初めに架橋されたものであるから、7、80年は経ていることになり、かなりガタがきているのであろうか。
今朝は家の出掛けに関西のS兄から電話、長話をしているうちに、10時半。
鉄橋ですれ違う特急と普通
警察署の無料講習会の準備
今朝ほどは6時まで寝てしまった。
朝食を済ませ、花川戸のクロネコヤマトにメール便を出しに行く。明日は、水門会の関東地区の14名が集うことになっているので、長い距離の徘徊は止めにした。もちろん、明朝の徘徊もやすむつもりである。隅田公園を抜けると地下ギャラリーで「零の会」の展示会をやっていたので入ってみた。まあ、この近辺の風景が多く、ゆっくり落ち着いて観られるので心が休まる。中には小学生3年の作品もあったが、いや大人の作品顔負けの出来ばえであった。
隅田公園地下ギャラリー
小学3年生の作品
工事の警戒船(川下)
工事の現場
警戒船(川下)
今を盛りとみをつけた南天
吾妻橋を渡り、枕橋を過ぎた所で、テラスに降りて桜橋まで歩いた。何やら言問橋は補修工事らしい。川下、川上に警戒船をおいて、橋桁の所に作業船が停泊し何やら補強工事をしているらしい。テラスに南天が見事な実をつけていた。桜橋を渡って帰宅した。朝食後の散策も捨てたものではない。
東白鬚公園入口
川面で遊ぶ水鳥
明日は立冬。どうやら雨模様であるらしい。
朝、起き抜けにメールを開くと昨日立ち寄った枕橋茶やのKさんからメールが入っていた。曰く、
「本日はご来店ありがとうございました。枕橋茶やの店主、Kと申します。早速日高さんのブログを拝見させていただき、石碑の件や、枕橋の由来など、疑問に持っていたことがすっきり整理されました。大変、勉強になってしまいました。
さて、日高さんのブログの中で、「冨田木歩」さんの記事を読みました。
実は、ある若手の女性映画監督のたまごが、枕橋で非業の死を遂げた「冨田木歩」に焦点をあて、15分のショートフィルムをつくっています。わたしくしも、ナレーションで参加させていただく予定です。
映像が完成しましたら、枕橋茶や内で映像会をやろうと思っていますので、その時は、是非遊びに来てくださいませ。またお知らせさせてください。改めて本日はご来店ありがとうございました。お礼まで。」
こういうメールはまた親しい友達が一人増えたようで嬉しいものである。
5時半に家を出て駒形橋を渡り、墨田区側を大川沿って北上、白鬚橋を渡って、帰宅した。途中白鬚橋から桜橋の間のテラスで、川面に遊ぶ水鳥を撮影してみたが、川面がキラキラと反射して、何を撮ったか判らない画像になってしまったので削除した。
今日は午前中に冊子「雁信随想」のゲラを仕上げた。昼食後、花川戸のクロネコ文書メールで、N兄にゲラを発送。東武浅草駅の北口前の床屋で散髪。先日来、水戸庭の堀辰雄邸の説明板の隣にある碑が気になるので、吾妻橋を渡り、墨田区観光案内所で、訊ねてみた。「二峯先生乃碑」というのだそうだ。早速水戸庭園へと足を向けた。
枕橋茶屋の旦那と女将
堀辰雄住居跡の説明板
二峯先生之碑
先だって婆さんと枕橋の袂にある茶屋で飲んだコーヒーの味を思い出したので、立ち寄って挽きたてのコーヒーを注文した。愛想の好い若い夫婦で開いている茶屋であるが、なかなか評判も好いらしい。先だってもテレビで墨田区の町おこしのポイントとして紹介していた。
水戸庭園で、堀辰雄の説明板と「二峯先生之碑」をカメラに収めて、白鬚橋を渡って、帰宅した。
二峯先生之碑:書家高林二峯の卒するを偲んで、倅で同じ書家の五峯高林寛が、二峯の墓所である円通寺の門前に建てた碑である。高さ450㎝に及ぶ大きなものであったから、安定も悪くなり、平成元年に移築されたものである。高林二峯は文政2(1819)年、榛名と妙義の山間、上野国(群馬県)碓氷郡下後間に生れたので二峯と号したという。諱(いみな)は信好、字は子述,多四郎といい、鵞翁とも号した。明治30年、齢79歳で没したという。篆額は勝海舟で碑の裏面には関係者名が数多く記されている。酒類販売店の金看板の文字にも気安く手を染めていたという彼の交流範囲の広さが窺われる碑である。
三囲神社の紅葉
墨堤通越しにみる三囲神社の境内はすでに紅葉していた。
sechin@nethome.ne.jp です。
04 | 2025/05 | 06 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | ||||
4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 |
18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 |
25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |