瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[348] [349] [350] [351] [352] [353] [354] [355] [356] [357] [358]
 百花園園主鞠塢(きくう)は福禄寿の陶像を愛蔵していたが、ある初春の一日、百花園で風流に浸っていた文人たちが誰ともなく、その福禄寿に因む正月の楽しみ事はないものかという話になった。隅田村多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の長命寺に弁財天が祀られている事が判ると、何とか七福神を揃えたいものと頭を捻り、詮索を重ねていくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國の小祠があり、また、須崎村の弘福寺には黄檗禅(おうばくぜん)に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明した。残るは寿老人だが、それがなかなか見つからない。結局思案の挙句、百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は、白鬚と申し上げる以上、白い鬚のご老体のお姿であろうから、寿老人(神)には打ってつけだと、いかにも江戸人らしい機知を働かせ、ここにめでたく七福神が揃うことになった。
東京スカイツリー建設現場
57f8f43f.jpg 隅田川七福神めぐりの道順を略記すると、まず言問橋上流の土手下にある三囲神社(恵比寿・大國)から、社前の通称向島見番通りを真直に北に進むと、左側隅田公園寄りに大きな山門のある弘福寺(布袋尊)に至り、すぐ隣接して長命寺(弁財天)がある。ここから墨堤を約500mほど行って地蔵坂を下り、左に折れると百花園(福禄寿)である。墨堤畔に出て白鬚神社(寿老神)に詣で、再び堤上を北へ。白鬚橋の交差点を過ぎて、墨堤に沿って道なりに北に進み、左に白鬚防災団地、梅若塚や榎本武揚像をのぞみながら、鐘ヶ淵紡績工場の跡地(グラウンド)で右に曲がると多聞寺(毘沙門天)が在る。昨年は婆様と2人してこの順に巡った。
 今年は婆様は少々疲れたということで、昼飯後爺々一人だけで、東武伊勢崎線で鐘ヶ淵まで出た。途中業平橋で東京スカイツリーの建設現場が見下ろされる。今日は1月初め仕事始めで、現場の作業は既に始っていた。鐘ヶ淵で下車、多門寺まで北上し、昨年とは逆向きに隅田川七福神巡りをした。
cfdc3044.JPG
d200c02c.JPG
70b9fbfe.JPG






87f28cba.JPG
3a64c0cc.JPG
3bc0a034.JPG 七福神を祀る社寺を巡りながら、それぞれの分体をうけて宝舟にのせていく趣向があるといい、江戸の風流人らしい発想ともいえそうなので、これをやってみることにした。
e32d1902.jpg 各寺社で400円もする分体を買い求め(宝船は白鬚神社で1000円で売っている)多門寺(毘沙門)→白鬚神社(寿老人)→百花園(福禄寿)→長命寺(弁財天)→弘福寺(布袋尊)→三囲神社(大黒天・恵比寿)と凡そ2時間をかけて巡ってきた。
 帰宅後早速七福神の乗った宝船をセットし、婆様への土産とした。






田端駅前の太田道灌像
acd20259.jpg東覚寺にて
e2b4d5ea.jpg青雲寺にて
e1578a1d.jpg 





修性院にて
02b621f1.jpg天王寺にて5823945a.jpg   
 観音裏から午前10時40分発のバスで日暮里駅に出る。日暮里駅前で太田道灌さんにちょいとご挨拶。山手線で田端へ。お江戸で一番古いという谷中七福神めぐりのスタートである。スタートの東覚寺でもらった巡回案内図を片手に陽だまりの道を選んで不忍池の弁天堂まで3時間を要して歩いた。
七福神御朱印
ddbe559f.JPG
db29bb11.JPG東覚寺 福禄寿
d8f7076f.JPG




青雲寺 恵比寿
7697cd7b.JPG修性時  布袋尊 d8c9e09c.jpg
長安寺 寿老人
f463555b.JPG 





天王寺毘沙門 
60a9f97a.JPG大黒天            
8cea90c8.JPG不忍池 弁財天
9f705b2f.JPG








 東西メグリン(台東区の巡回バス)は浅草寺近辺はさけて、いずれも迂回しているので、京成上野駅から地下道を通って銀座線上野駅から地下鉄で帰宅した。家に着いたのは午後3時を過ぎていた。
 昨日は、午前中は大学箱根駅伝を見たが第2区では日大の20人抜きがあったし、最後の5区で往路優勝は早稲田のものと誰もが思った後での東洋大の大逆転があり、大変オモロカッタ。
faf2ac4c.jpg
ea9909b0.jpg
0fed7867.jpg





d27984d2.jpg 駅伝も終る頃になって、次々に年賀に見えてくれた。S・K、I・K、T・Kの諸兄とT・S夫妻が訪ねてくれた。I・K兄は、同期のY・Aさんとどこかで待ち合わせをしていたらしく一旦帰宅のあいさつを済ませたのだが、連れ立ってまた引き返してくれた。Y・Kさんは20数年、いや30年振りの対面かもしれない。いずれも塾友であるが、いずれも50歳という人生の半ばをすぎた熟年という年頃になり、年々暈けて世間知らずになってゆく爺にとっては教わることが多いのである。
 今日は婆さまの誕生日。昭和10(1935)年生れの亥年である。婆さま曰く「正月に生れると、誕生日なんて祝ってもらったことが無い」と。今更、面と向って「誕生日、おめでとう」なんて照れくさくていえたもんじゃない。一緒になったのは爺が27歳、婆が24歳見えぬ糸で結ばれていたのだろう。50年もの間、この我侭爺々の面倒をよう見てくれたもんじゃと感心する。

b6c9a43d.JPG 午前11時、家を出て、 待乳山聖天→今戸神社→橋場不動院→石浜神社→吉原神社→鷲神社→先崎稲荷→浅草寺→三社様 と『浅草名所七福神めぐり』をしてきた。長いこと、浅草に住んでいて、この浅草名所七福神めぐりは初めて。先崎稲荷なんていうのは初めてお参りした。
待乳山聖天
189eb624.jpg今戸神社
0fa3edab.jpg橋場不動院
1f1731a2.jpg




 石浜神社
cc3a55cf.jpg吉原神社
581884d2.jpg 鷲神社
a9a00246.jpg




 先崎稲荷
c89bef1b.jpg浅草寺
98bd8e04.jpg三社さま96d02c1e.jpg






吉原神社までは何ということは無かったが、鷲神社は人の本殿から一の鳥居まで長蛇の列で、仕方なく列のはずれでお参りし、振る舞ってくれた甘酒を飲んで、そこそこに矢崎稲荷へ。浅草寺は遠くからお屋根を拝むだけ、お隣の三社様も長蛇の列。列の脇から、2礼2拍1礼のご挨拶だけで、そそくさと帰宅した。時に午後2時。徒歩歩数は16200歩。
Air Mail が2通届いた。どちらも塾友からの便りである。
1通はイギリスのアラリンから、もう1通はアメリカのシアトルママから。
  
アラリンの便りは塾生の皆さん宛のよう。
acb0fdde.JPG もう1通はシアトルママさんから
  Wishing you  good cheer and merriment!
  日高先生、道子先生
  お元気でしょうか? 9月に長男のキンダーガーデンが始って以来すっかりブログは休んでしまっています。
  2009年も先生にとって良い1年になりますように!!
  お体に気をつけてください。2009年もどうぞ宜しくお願いします。
                       ジュシュ、仁美、K&M
 ここ3・4日鼻風邪気味で、立ち上がってチョット動くと鼻水がたれてくる。という訳で外に出かけることを差し控えている。昨日は爺の親父の命日。爺がまだ12歳だった1945年、やっと戦争が終った年の暮れ、廣島の山間部の木小屋の仮住まいで、ろくに医者に診せることもできず、死んで行った。死後の診断では肺結核ということであった。
eae2c246.JPG 今日は、晦日。関西のS兄から、年越し蕎麦として浪速は瓢亭の「夕霧そば」が送られてきた。いうまでもなく、年越し蕎麦(としこしそば)とは、12月31日大晦日に縁起をかついで食べられる蕎麦ことである。全国的に見られる風習であり、年を越す前に食べきらなければならず、蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないなどと言われる。江戸時代中期には月末に蕎麦を食べる「三十日(みそか)そば」という習慣があり、大晦日のみにその習慣が残ったものと考えられている。年越し蕎麦の由来とされる説は「細く長く達者に暮らせることを願って」というものがもっとも一般的である。ほかに、蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労を切り捨て翌年に持ち越さないよう願ったとか、金細工職人が作業場に散った金粉を蕎麦粉の団子で集めたことに因み、金運を願ったとかいわれている。

817689b4.jpg
c12b67fd.jpg
9c66cec7.JPG





 お昼前に、塾友のM・Fさんが、「31日には娘がカナダから帰国するので、大晦日・新年は失礼します」と挨拶に見えた。午後はM・Mさんが旦那さんと連れ立って、挨拶に見えた。今年も後1日、ブログも、今日が書き納めということになるだろう。ブログのアタック・カウンターもどうやら、10,000に達したようだ。
 午前。桜橋通りを真っ直ぐに見番通り・水戸街道・小梅通り・曳舟通りを通り抜けると東武伊勢崎線が走っている。線路沿いに曳舟駅の方向に進み、路地をあっちこっちと歩いていると飛木稲荷神社にぶち当たった。隣り合って、天台宗 圓通寺があった。
飛木稲荷神社
92247710.jpg大銀杏と鳥居
7f02e357.jpg神社説明板
98b22ae8.jpg




 戦災にあった大銀杏
2d1868ad.jpg銀杏の説明板
a08283f2.JPG奥の院
74ccc541.jpg 





 飛木稲荷の名は、ご神木の銀杏の木に由来する。墨田区一の大木であり、「社前に銀杏の大樹四囲許なるものあり」と伝えている。戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、一時は樹勢が衰えたが、現在は回復しているという。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝え、都内に残る被災樹木としても希少な存在となっている。祭神は宇迦神霊命(うかのみたまのみこと)という。
圓通寺山門
8ede4827.jpg本堂
de6bf281.jpg地蔵菩薩
c4f13db4.jpg




 地蔵菩薩説明板f51ad24b.JPG
大東亜戦争慰霊塔
e7b59e9d.jpg小僧さんの石像
bad8c61d.jpg





ぬれ仏
5d751103.JPG 圓通寺の境内に入ると右手に地蔵菩薩立像が立っている。一部破損はあるものの、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏という。顔は童顔に満ちていて江戸初期の佳作にふさわしいものである。また、この石仏は寺島村新田(旧称)の、「寒念仏」を修復した記念に、結縁衆の「菩薩」を弔うために造立・奉納されたものでもあるということじゃ。直ぐ隣には、「大東亜戦争殉難者之碑」がある。元吾嬬町西一丁目連合町会会長と役員一同によって昭和43(1968)年3月10日に建立されたものという。門と庫裡のあいだを入って裏の墓地に向かうと、おびただしい数の古い墓石や地蔵が安置されている。その中に、無縁仏を守るかのように通称「ぬれ仏」と呼ばれる地蔵が立っている。空襲時、隣の飛木稲荷の大銀杏とともに炎につつまれ、無惨にも半身が削り取られてしまい、焼けこげて、大変痛ましい姿になってござらっしゃる。庫裏の入口に可愛らしい小僧さんの石像が安置されていた。
高木神社
5765edee.jpg本殿
78fb272c.jpg 飛木稲荷神社と圓通寺にお別れして、曳舟通りに出る手前に高木神社というのがあった。應仁二年の創祀と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、古くは「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺が別当として管理してた。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)という。
 昼飯前に昨日と同じ道筋をもう1度歩いてみた。
ゲゲさんの整骨院
00c92c58.jpg 本性寺を過ぎて、間もなく出山寺がある。この寺は義弟の眠る寺であるが、境内に采女塚がある。門扉が閉ざされていたので、そのまま素通りして、清川1丁目と2丁目の堺の通りを渡って、ふと見ると塾友のゲゲさんがやっている整骨院が目に入った。先日の忘年会でちらりと聞いてはいたが、はじめてゲゲさんの店を確かめることが出来た。丁度忙しい時刻だと思ったので、訪ねることはせずにそのまま素通りした。
平賀源内の墓を示す碑
2df13598.jpg平賀源内の墓所
410ea2fb.jpg源内の墓所の説明板
e91d2cc9.jpg





源内の墓と肖像画
c168a791.JPG 一旦明治通りに出て白鬚橋方向に歩くと、「史蹟平賀源内先生之墓」という碑が目に入った。ここから再び南に路地を入ったところに、墓所があったが、ここも門が閉ざされていて中に入ることは出来なかった。ここは、総泉寺といい室町以来、江戸絵図にも出てくる禅宗の古刹であったが、昭和4年に板橋区に移転して今はない。この寺は当初浅草橋場にあり、京都の吉田惟房の子梅若丸が橋場の地で亡くなり、梅若丸の母が出家して妙亀尼と称して梅若丸の菩提を弔うため庵を結んだのに始まるという。その後、武蔵千葉氏の帰依を得、弘治年間(1555~1558年)千葉氏によって中興されたとされる。佐竹義宣(1570~1633年)によって再興され、江戸時代には青松寺、泉岳寺とともに曹洞宗の江戸三箇寺のひとつであった。1923年の関東大震災で罹災したため、昭和3年に現在地にあった古刹・大善寺に間借りする形で移転。その後合併して現在に至っている。
平賀源内(ひらがげんない、17281780)については、承知のように天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残し、また平賀焼などの焼き物を作成したり、多彩な分野で活躍した。男色家であった為、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名。『解体新書』を翻訳した杉田玄白(17331817年)をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや(貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬとき位は畳の上で普通に死んで欲しかった。)とあるそうで、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。酔って記憶があいまいだったとは言え、勘違いで人を殺してしまった源内、安永8(1779)年1121日、小伝馬町の牢獄につながれ、刑が確定しないまま、1218日に死亡してしまったそうじゃ。破傷風だったとも、自殺だったとも言われているそうじゃ。有名人の源内が殺人を犯し、牢獄で死亡… しばらくの間、江戸ではこの話で持ちきりだったそうじゃ。田沼意次が事件の黒幕だという小説が出たり、牢を抜け出し蝦夷に渡ってアイヌの英雄になったという噂がでたりもしたということじゃ。科学者としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。『エレキテル』は、故障していたオランダ製のものを修復したものであり、その原理については源内自身はよくわかっていなかったとする説が有力である。「夏バテ防止の為に土用の丑の日に鰻を食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告が元との説が文政5年(1822年)の『明和誌』にある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永41775)年には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらを以て日本におけるコピーライターのはしりとも評される。浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆。時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝(17491823年)の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764(明和元年) に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。鈴木春信(1725?1770年)と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会『東都薬品会』が開催されたということじゃ。爺達が文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す」の作者は源内である聞いたことがある。

 昼飯前に今戸から清川、石浜辺りを徘徊した。
清川町にある本性寺
5bf1ee02.JPG境内に立つ日蓮辻説法の像
005fe23f.jpg 清川1丁目の本性寺に立ち寄った。本性寺は池波正太郎の「剣客商売」で、秋山小兵衛の亡妻で大治郎の実母・お貞と、同門の剣客・嶋岡礼蔵の墓があることになっている。法華宗の当山がなぜ秋山家の菩提寺になったのだろうか。小兵衛がまだ青年時代の頃、悪質の痔疾に苦しんだ酒問屋の主の岡田某が、剃髪して当山で唱題修行に励んだがその甲斐なく遷化、法号を「秋山(しゅうざん)自雲」とした。池波正太郎先生 がこの自雲の掲示に目をとめ、「おや、秋山(あきやま)。これもなにかの縁」と小兵衛の女房で、大治郎の実母であるお貞をこの寺に葬ったのに違いあるまい。
亀田鵬斎の詩碑
560bcd9d.jpg詩碑の拓本
f4a0ef4b.JPG 石浜神社の境内に亀田鵬斎(ぼうさい)の詩碑があるというので立ち寄った。全面に隅田渡津の歴史を詠んだ七言律詩二首と稲垣成斉による建碑の由来を刻む
 亀田鵬斎については、前にも書いたと思うが、谷文晁(1763~1841年)、酒井抱一(1761~1829年)らとともに江戸時代後期を代表する儒学者で、宝暦2(1752)年、江戸神田に生まれた(異説では群馬県上五箇村が出生地という)。名は翼(よく)といい、のち長興といった。折衷学者井上金峨(きんが、1732~1784年)に学び、山本北山(1752~1812年)とともに荻生徂徠(そらい、1666~1728年)の古文辞学を排撃し、朱子学を批判したために、寛政異学の禁では異端の筆頭と目されていた。書をよくし、草書は近世を通じての名手といわれている。晩年は下谷金杉に暮らし、「金杉の酔先生」と呼ばれて親しまれた。文政9(1826)年、75歳で没したということじゃ。
 

 昼飯後、桜橋を渡り、水戸街道に出た。水戸街道を明治通りの向けて歩くと、路地の間から神社らしい建物があるので、立ち寄ってみた。墨田区向島4丁目にも秋葉神社があった。
 秋葉神社(あきばじんじゃ。地方によっては「あきはじんじゃ」とも読まれる。)は日本全国に点在する神社で、神社本庁(秋葉山本宮秋葉神社。浜松市天龍区春野町領家にある神社。秋葉大権現という)傘下だけでも約400社あるという。神社以外にも秋葉山として祠や寺院の中で祀られている場合もあるが、殆どの祭神は神仏習合の火防(ひよけ)・火伏せの神として広く信仰された秋葉大権現である。一般に秋葉大権現信仰は徳川綱吉の治世以降に全国に広まったとされているが、実際には各地の古くからの神仏信仰や火災・火除けに関する伝説と同化してしまうことが多く、その起源が定かであるものは少ない。祠の場合は火伏せの神でもあるため、燃えにくい石造りの祠などが見かけられる。小さな祠であることが多く、一つの町内に何箇所も設置されている場合もある。台東区松が谷にある秋葉神社は、電機街「秋葉原」の名称の由来として知られている。
向島秋葉神社
0216ab14.jpg秋葉神社由緒75ddc1f9.jpg
秋葉大神
0cc609bd.jpg





    石灯籠
1deb8185.jpg石灯籠説明板72ce5721.JPG 
 ここ向島の秋葉神社は由緒は説明板にある通りだが、「石灯籠」の説明にあるように、秋葉神社の紅葉は江戸中になりひびいていた。また境内に諸々の病に効く神泉が湧き出るとして多くの人が神泉をもらいに来ていたという。
東部橋から見た建設現場
5a7c7178.jpg 小布施牛乳はいかが
0713ff10.jpg 東武伊勢崎線の業平橋駅から曳船駅までは曳船川通りで一直線なのだが、小梅通りは曳船川通りとわずか家一軒か二軒隔てて平行した水戸街道寄りの裏通りである。この小梅通りを南下して東武橋上に出た。この業平橋駅と京成の押上駅の間が東京スカイツリーの建設地である。東武橋の上から見る限り、作業はまだそんなに進んでいる様子ではなかったが、土砂を積んだトラックの出入りが激しいようじゃ。
 北十間川の南側の沿道を通って枕橋に出た。枕橋を渡ると、枕橋茶やの女将さんが大声を上げて小布施牛乳を売っていた。挽きたてコーヒーを飲み、牛乳1パックを買って、言問橋を渡り帰宅した。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/