瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日は昭和の日。2007(平成19)年から加わった、現在のところ最も新しい国民の祝日である。

昨日徘徊した横十間川のさらに南を探索すべく、昨日と同じコースを取る。天神橋と錦糸橋の丁度中間辺りに「亀戸銭座跡」のモニュメントを見つけた。寛文8年に亀戸銭座で造られた「寛永通宝」をモデルに作成したもので、レリーフには、(銭座絵巻)(享保13 《1728》 年)より銭座で行われていた銅貨製造工程のうち、平研(銅貨の表面を磨く)作業をしている図(日本銀行貨幣博物館所蔵)の絵を参考にしたものが描かれている。江戸時代に銅銭が本格的に鋳造されたのは、寛永13《1636》年に始まるという。そのため、幕末までに造られた銅銭は全て寛永通宝と称し、「寛永通宝」の文字が打ち出されている。錦糸橋の袂に「うるおいの木かげ道路」のレリーフが作られていた。
横十間川の水際が遊歩道になっていて、公園を形成している。松代橋(まつしろばし) 全長39.2m・幅40mで、国道である京葉道路を通すこともあって国の管理 となっていて、 江東橋四丁目と江東区亀戸一丁目を結ぶ橋。現在の橋は昭和44年に架けられたものであるという。橋の名はこの辺が本所松代町と呼ばれていたので、付けられた。松代町は、江東区高橋辺に松代藩真田家の控え屋敷があった町で、公用地となつて竪川の北、今の江東橋四丁目に移ってきた。明治13年までは、元の地名の深川を入れて、深川北松代町と云っていたという。
旅所橋 (たびしょばし)は全長42.1m・幅12mで墨田区管理だという。松代橋と同じく江東橋四丁目から江東区亀戸一丁目に架かる橋。創架は万治2(1659)年で現在の橋は昭和51年製という。本所開拓のため、この横十間川が掘られたが、その時墨田区内はこの旅所橋と天神橋そして柳島橋の三本だけが架けられていた。 はじめこの橋の名は無かったのだが、寛文年間(1660~70年代)に東詰めに亀戸天神のお旅所(かりや)が出来たときに旅所橋と名付けられたという。お旅所とは、祭礼の時に御神輿が本宮から渡御して仮に暫く留まる所を云うのだそうで、本所二丁目の若宮公園には今なお、牛島神社のお旅所があるという。この橋の墨田区側の上流部には都立墨東病院がある。



高速小松川線の通る下が竪川になっている。向こうに松本橋が見える。この通りは、墨田区側は墨東病院に突き当り、左右に分かれます。江東区側は猿江恩賜公園に突き当り、左右に分かれている。清水橋、本村橋の下を潜り、とうとう小名儀側まで来てしまった。



横十間川と小名木川の合流地点にはクローバー橋が架かっており、おそらく四葉のクローバからとった名称だと思うが、4地点から架けられ交差する橋の中心部で結合しているいわばスクランブル橋である。
小名木川に並行する南岸の道を西に四つ目通りまで歩くと、このあたりは扇橋と言い、KYさんは確かこの辺りに住んでいることを思い出した。四つ目通りに出るとそこは小名木川橋であった。



小名木川橋は橋の幅も広く、 橋上に植え込みもある綺麗な橋である。橋のそばには五本松の石碑と松、五百羅漢の道標があり、欄干には五本松と小名木川を描いたレリーフがあるが、逆光なのでカメラには納められなかった。五本松は、江戸時代この付近から東(上流方向)にかけて小名木川の河畔に老松があり、 綾部藩(京都府)九鬼家の屋敷から水面に伸びた松を観て、徳川家光が感嘆したことから有名になり、地名となったという。 「江戸名所図会」に描かれ錦絵などにも取材されが、 明治時代になって枯れてしまったということじゃ。
四つ目通りを新大橋通りまで北上すると、東京メトロ半蔵門線の住吉駅から乗車して押上まで地下鉄で来た。A3出口から東武伊勢崎線に沿って業平橋までの間は線路越しに東京スカイツリーの建設現場である。言問橋通りから言問橋を渡り帰宅した。
本日の行程、12841歩、8.3kmを記録していた。
横十間川と小名木川の合流地点にはクローバー橋が架かっており、おそらく四葉のクローバからとった名称だと思うが、4地点から架けられ交差する橋の中心部で結合しているいわばスクランブル橋である。
小名木川に並行する南岸の道を西に四つ目通りまで歩くと、このあたりは扇橋と言い、KYさんは確かこの辺りに住んでいることを思い出した。四つ目通りに出るとそこは小名木川橋であった。
本日の行程、12841歩、8.3kmを記録していた。
昭和36年。東京都柳島の妙見山法性寺境内の地下から、「日本浄瑠璃歌舞伎稽戯作中祖、近松門左衛門藤原信盛。長州萩之家臣杉森某の男なり。賜笏六位云々」という、江戸時代の石碑が忽然と地下から現われたという。というわけで、境内には近松門左衛門の碑と葛飾北斎の顕彰碑が並んで建っている。
次の栗原橋と天神橋の間の路地を入ると、突き当りが亀戸天神である。何度も来たところであるが、我が家から意外に近いことが判った。藤が盛りの頃は境内はいつもいっぱいだというが、朝が早いので境内はガラガラ。それに温暖化のお蔭か藤はかなり丈を伸ばしていた。太鼓橋の付近の藤棚の下を散歩していた老夫婦がカメラで写真を撮っていたので、2人並んだところをカメラに納めてあげたら、この爺のデジカメにこの爺の呆けた姿を入れてくれた。早寝早起き3文の得というけれど、ゆっくりと境内が散策できた。
押上駅前を通り、東武伊勢崎線の踏切を渡って、桜橋通りに出るとそのまま曳舟川通り・小梅通り・水戸街道・見番通りを横切って、桜橋を渡り帰宅した。本日の記録は9896歩、6.4km。亀戸天神は我が家からそんなに遠くはなく今後徘徊のコースに入れることが出来る。
厩橋を過ぎたところで、クラブを振るT氏と数分話し、何時ものように吾妻橋東の昇降口から遊歩道へ出る。このまま、吾妻橋を渡って帰宅しようかとも思ったが、まだ6時10分。そのまま北上し、枕橋を渡り、桜橋へ向う。言問橋の手前で、今日はお一人のワンさんに出会う。桜橋を渡って、帰宅。本日の記録――11511歩、7.4km。
万歩計の記録は12698歩、8.2㎞。
昨日、タンポポについて書いた所、福岡の甥からコメントがあった。曰く、「叔父さんのブログに書いてあった在来種のタンポポはとても少なくなりました。福岡では、舞鶴城の周辺にちらほらと見ることができます。携帯で撮影した関西タンポポの写真をメールで送ります。在来種の代表的なタンポポです。小ぶりで、色が薄黄色です。花額が拡がっていないのが西洋タンポポとの違いです。友人に詳しい学者がいて、在来種がみられなくなったのは、土壌をアルカリにしてしまったからだそうです。人の手の入ったところでは、まず在来種は存在しないといっていました。」
今日は、天気もよいし、新宿御苑に出かけた。以下は写真を搭載する。
本日のomron万歩計は11313歩、7.3kmを示していた。ちなみに新宿御苑の周囲は3.5kmということである。
本日は朝から曇り空。気温も低いようなので、ジャンパーを突っ掛けて徘徊。
白狐祠(ほこら)は江戸後期の招来(おいで)稲荷社繁栄のころの狐の伝えはこの祠に因むものであるという。これと並んである富士遥拝所は宝暦8(1758)年の建立。当時普及を見た富士信仰・講の記念の一つである。
汐入公園遊歩道の下にある歩道を通って、瑞光橋に出ると此処からテラスに降りて汐入水門の前を通って、水神大橋の下に出た。汐入水門の傍の斜面には白詰草が葉っぱについた朝露の中で一面に咲いいる。和名の「ツメクサ」の由来は、江戸時代にオランダから輸入されたガラス器の梱包に、この草の乾したものが詰め物として使われていたことから「詰草」と呼ばれるようになったという。
瑞光橋から水神大橋にかけての親水テラスには遊歩道に沿っていろいろな種類の躑躅(つつじ)が植えられている。今まで緑一色であった土手の野草もいろいろな色の花を付けている。ところで、ツツジには躑躅(てきちょく)なんて難しい字を当てるようになったのだろうか? 中国で毒性のあるツツジを羊が誤って食べたところ、足踏みしてもがき、うずくまってしまったと伝えられ、このようになることを躑躅(てきちょく)と言う漢字で表したのだそうだ。従って、中国ではツツジの名に躑躅を当て、日本へもその中国で使われていた名称の躑躅が入って、つつじと読むようになったいう。
木母寺前の花壇では真紅の雛罌粟が際立って咲いていた。罌粟はヨーロッパ中部原産。ケシ科の二年草。花は朱・紅・白などがあり、一重と八重がある。楚王項羽の寵姫(ちょうき)虞(ぐ)氏が死後この花になったとの伝説から、虞美人草の名があることはご存知のことじゃろ。これも躑躅と同じで、漢字の罌粟(けし)は漢名からで、実の形が罌(もたい。液体をいれる口のつぼんだ甕《瓶》)に似ていて、種子が粟(あわ)に似ているから付いた名だという。ここ木母寺の前の花壇は地元民の協力で世話されよく整理されチューリップ・シクラメン・スイセンなどが咲き誇り、今が見所というところか。
言問団子の前を通って墨堤の遊歩道に出ると桜橋の傍の遊歩道に霧島躑躅が咲き誇っていた。広辞苑によれれば、霧島躑躅は常緑低木で、庭園などに栽培される。高さ1~5メートル。葉は倒卵形で互生、表面に光沢がある。4~5月頃散形花序の紅色などの花をつけるという。桜橋を渡り帰宅した。
昨日ははっきりしない天気で、とうとう徘徊しなかったが、今日のomron万歩計は11496歩、7.4kmを示していた。
昨日より、気温は低いく、東の空はどんよりと曇っているが、南天には下弦の月が輝いているから、どうやら天気はよくなるらしい。山谷堀水門の前から桜橋を渡り、言問団子の前を通り墨田区の少年野球場の横に出ると躑躅が色とりどりに咲いている。墨堤通りの歩道にはヨーロッパ原産といわれる長実雛罌粟(ながみひなげし)がサーモン色の花を付けている。帰化植物だというが、荒地に持つ良く近年雑草化してどこにでも見られるようになったらしい。
墨堤通りを北上し、東白鬚公園に入る。遊歩道の所々に設けられた花壇には息の長いパンジー、そして最近咲き始めたシクラメン・チュウリッブ・ディジーなどが咲き誇り綺麗だ。梅若橋を越えて、北出入口にくると墨堤越しに多門寺が見える。鐘ヶ淵中学の校庭越しにはシティヌーブ北千住30と新装のイニシア曙町のビルがその高さを競うかのように並んで建っている。
今日は千住汐入大橋の上流側を通り、テラスを通って白鬚橋まで歩いた。護岸にはいろいろな種類の躑躅や草花が花盛り、山吹等も咲き始めたようである。
明治通りを横切って、件の遊歩道を通って帰宅した。Omron万歩計は13074歩、8.4kmを示していた。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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