瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今朝は風が強かった。歩道の隅に積み上げられたゴミ袋が強風に煽られて、あちこちに散乱している。いつも通り、墨堤通りから、東白鬚公園わ抜けて水神大橋へ。水神大橋を渡ると、川沿いの遊歩道を北に向かって進む。旧綾瀬川・鐘ヶ淵の付近で川は大きく曲がるので、いつの間にか西にむかっていることになる。胡録神社に立ちより、汐入公園の西側の街の中の路地をあちこちと当てずっぽうに歩き、何とか石濱神社の脇に辿り着いた。明治通りを横切って、橋場・今戸の街中を通って帰宅した。本日の記録は12008歩、7.8㎞。
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4fe2f545.JPG 胡録神社は、永禄4年8月川中島合戦の折、上杉の家臣高田嘉左衛門(たかだかさえもん)なる者が戦(いくさ)に敗れ、図(はか)らずも集いし12名と共に、厄(えき)を逃(のが)れ落ちのびて、高田・杉本・竹内の参名当地に至り永住し、この地汐入を開拓し、その守護神(しゅごしん)として面足尊(おねだるのみこと)・惶根尊(かしこねのみこと)の両神を一祠(ほこら)に奉齋(ほうさい)崇敬(すうけい)したという。この後、嘉永(かえい)5(1852)年神殿(しんでん)を造営した神社だという。
明治以前では密教と習合して第六天と呼ばれており、明治2年に神仏分離によって胡禄神社と改称された。
現社殿は嘉永5年(1852)造営の様式で昭和2年に改築されたという。
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 汐入は胡粉(貝殻を粉にした顔料)の産地であり社内にその石臼が残っている。胡禄の呼称は胡粉と第六天からという説と弓の武具の呼称からという説があるが、類名社は千葉、埼玉、東京に分布しているのでなんらかの氏族が関与しているのかもしれない。胡粉の材料には縄文貝塚のカキ殻を用いていたらしい。「江戸紀聞」によれは道灌山(現:文京区千駄木3付近)は雪の降ったような小山で享保(1716~1735年)の頃までは馬で浅草の胡粉製造場所へ毎日運んでいたという。汐入も昔は海が入っていたところの地名であるから、貝塚があったのかもしれない。摂社に道祖神があり猿田彦を祀っている。足の病気治癒に草履、耳の病気治癒に2個のお椀に穴をあけて奉納して祈願していたという。周囲はマンション群の造成に囲まれてはいるが、社地にはいくらかの木立が残っているようである。
 桜橋を渡り、墨堤通りから東白鬚公園に入り、隅田川神社前を通り、水神大橋を渡る。汐入公園では胡録トンネルの上の展望台を越えて、公園内の「さくらばし」を渡って東京都水道局の西白鬚ポンプ場前に出る。瑞光橋を渡り、石濱神社横から白鬚橋西詰めでワンさんと出会う。ワンさんは白鬚橋を渡り、爺は川沿いの遊歩道を通って帰宅した。今日の記録は10565歩、6.8㎞。
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 隅田川神社のご祭神は、速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)、 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)、 鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)、 大楫木戸姫神(おおかじきどひめのかみ)で、隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称しいたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
 速秋津比古神・速秋津比売神は伊弉諾・伊弉冉二神の間に産まれた男女一対の神で、その総体として水戸神(みなとのかみ)ともいう。鳥之石楠船神はまたの名を天鳥船(あめのとりふね)といい、楠で造られた堅牢な速く走る船ということで、船神を表している。輸送や交通を司る神という意味もあるらしい。大楫木戸姫神については全く解らない。
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d6c42895.JPG 治承(1177~1180年)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられている。現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものであるという。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していたものが、高速道路が神域をかすめることとなって社殿に大修繕を加え、昭和50年6月に現在の位置に遷座ましました。新編武蔵風土記稿によれば御神体は龍神にて長七寸とあるそうだ。創建年代は不詳だが、水神が亀に乗ってこの地に上陸されたという伝承が残るという。古代ではこのあたりが利根川の河口であるから、海からやってきた人々がここに上陸していたかもしれない。
 1487年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行に「利根、入間の二河落ちあえる所に、かの古き渡りあり、東のなぎさに幽村あり、西のなぎさに孤村あり」とある。各地で戦国大名が旗揚げし、関東では北条早雲が伊豆を奪う頃である。西の孤村が石浜、東の幽村が関屋(旧関屋、新荒河橋付近)だろうか。
 隅田川神社は水神宮の前は「浮島の宮」とも呼ばれていたようで、入間川と古隅田川の水流がぶつかりあう関係で中洲が生じていたのであろう。中洲が東岸とつながってゆくのは利根川東遷によって古隅田川の水量が減り、ついには廃河となる1700年頃と思われる。江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という古典的な形を残したのかもしれない。
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1d18162f.JPG 江戸名所図会に隅田堤は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植えられて、スミレなどの野草も絨毯のごとくで賞するに壮観であったとある。また、木母寺の北にある内川がかっての古隅田川の名残りだったようで、新編武蔵風土記稿によれば、かっての内川の川幅は100間(約180m)あり、北国紀行にも入間川と劣らぬ様子であったことが書かれている。古隅田川と入間川はほぼ直角にぶつかっていて、たいへん複雑な水流になっていたと思われ、その川筋のせめぎ合いの間に洪水にならない中洲があってそこに水神社(浮島の宮)が作られたであろう。
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250f2ea0.JPG 江戸名所図会に、『昔は橋がなかったが今は浮橋がある、鹿島詣に浮橋を渡った「夫木和歌抄、1310年頃」』とある。名勝として全国的に知られた富山の船橋は、旧神通川(じんづうがわ)に架かっていた橋で、船と板と鎖によって造られていたが(安藤広重 富山の船橋)、多分このような情景だったのだろう。また、太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとある。ここでいう隅田川の渡しがどこかは判らないが、当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのだろうか。これが隅田川に最初に架けられた橋とみえるが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからかもしれない。現在は高架6号向島線道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影はまったくなくなっている。
 福岡在住の拙痴无爺爺の甥の娘が6月からアフリカはスーダンで勤務することになった。そして、現地の様子をブログにしている。時々開いてみてやってほしい。
http://happinesssharing-eric.blogspot.com/
 昨日は、出掛ける段になって、雨が降り出し、それに検診日でもあったので、徘徊そびれた。
 永井荷風の濹東綺譚「寺しまの記」に曰く
《……車はオーライスとよぶ女車掌の声と共に、……法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞こえる。……これと向かいになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影の見えない二階家が立ちつづいて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます。」と横に書いた灯りが出してある。……辻の向側には曹洞宗東清寺と刻した石碑と、玉の井稲荷の鳥居と公衆電話とが立っている。わたくしはお雪の話からこの稲荷の縁日は月の二日と二十日の両日である事や、縁日の晩は外ばかり賑やかで、路地の中はかえって客足が少ないことから、窓の女達は貧乏稲荷と呼んでいる事などを思い出し、……》
 
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b55071d0.jpg 一昨日の日曜日には、建て変わって様相を一変させた東清寺(玉の井稲荷)を徘徊したので、今日は一昨日の逆コースを取って、水戸街道を東向島6丁目のバス停まで北上、そこから50mばかり先の路地へ左折する。この辺の道は建て込んでいて何処をどう歩いたかわからない。気が付いたら、いろは通りの入口に当たる東武線のガードの近くまで来ていた。ここから、いろは通りを東に進むとGourmet Cityというスーパーがあり、その建物の陰にお寺の屋根らしきものが見える。スーパーの横道からその裏に進むと願満稲荷社と記した朱色の鳥居があり、この鳥居の奥に「日蓮宗・啓雲閣教会」というお寺があり、階段を昇った上に本堂があった。どうやらこのスーパーは「玉の井館」を改築したものであるらしい。
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c4e44183.jpg 啓雲閣教会の建物の壁に「濹東綺譚《寺しまの記》」の一節と「濹東綺譚」の中で永井荷風の描いたという旧玉の井の地図が貼り付けてあった。啓雲閣教会は日蓮宗の布教場で、関東大震災での死者をいち早くとむらったという縁でここに開創したという。身延山久遠寺には4月22日に「願満稲荷大明神祭り」というのがあるそうで、日蓮上人在住の折に衣食住の世話をした稲荷様と伝えられているから、願満稲荷社はおそらく身延山から勧請されたものであろう。
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b0aaa217.jpg いろは通りをさらに東に進んで、東清寺(玉の井稲荷)に立ち寄ってみたが、早朝のこととて門が閉まっていて、境内には入れなかった。東清寺からいろは通りと並行する路地を東武線の高架まで西進した。この路地は戦後、昭和34年売春禁止法が出来るまでは赤線地帯であり、売春カフェーが立ち並んでいた所である。もうすっかり古びてしまって店構えを変えてはいるが、昔のままの面影を残した建物が立ち並んでいる場所もある。
 東武線のガードに沿って南下し、いろは通りの入口から右折して大正通りを西進し、墨堤通りに出た。明治通りをさらに西進し、白鬚橋を渡り、件の川沿いの遊歩道を通って帰宅した。本日の記録は10465歩、6.8㎞。 
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dc8eda5b.jpg 桜橋から川沿いの遊歩道を北上、白鬚橋を渡って墨堤通りと明治通りの交差点から大正通りを東に向って進む。左側に区立白鬚公園があり、それと向かい合って右側に区立長寿庭園がある。白鬚公園に「岐雲園跡」の説明板がある。
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4c983b1f.JPG 向島岐雲園は岩瀬忠震(ただなり、1818~1861年、幕府の外交官)が不遇の晩年を過ごし、終の住処(ついのすみか、終焉の地)ともなったところである(白鬚神社境内に墓碑がある)。この大正通りは鐘ヶ淵通りまで続いていたらしいが、戦後東武線のガードより東はいろは通りと名称を変えたらしい。
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c7fe6bf0.jpg 東武伊勢崎線のガード下で、デジカメでいろは通りの標識を撮っていると、「小父さん! 僕たちもうつしてよ」と声がかかる。自転車に乗った若者たちがこちらに手を振っている。今日は日曜日、昨夜は何処かで夜っぴて語り明かしたのかもしれない。
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521e0040.JPG おやおや、ここは昨日鐘ヶ淵通りから西進して徘徊した所であった。このいろは通りの右手辺りは永井荷風の濹東綺譚の舞台となった処であったというが、昭和20年3月10日の東京大空襲で一掃されたらしい。戦後は左手一帯に淫売カフェが立ち並び、一大赤線地帯を形成していた所である。
a4aa87aa.jpg いろは通りの中間部から左にはいると東清寺がある。どうやらここが玉の井稲荷であるらしい。門をはいり階段を上がってみると左右にお狐様が鎮座ましましている。東清寺は昔は娼婦達の駆け込み寺であったそうだが、ピカピカの鉄筋コンクリートでそんな面影は何処にもない。曹洞宗東清寺は通称玉ノ井稲荷で通っているのは、大正4年、今通ってきた白髭橋のたもとから四ツ木橋近くまで斜めに抜ける道路を、町の開発のために通し、大正道路と呼んでいたのだが、その開発の時に、山梨県塩山からここに移り、同時に玉ノ井稲荷を祀ったものであるという。南葛弘法大師88ヶ所72番札所になっているそうだ。
 東清寺からいろは通りを引き返し東武伊勢崎線の線路伝いに南下して、東向島駅から水戸街道を下り、桜橋通りから、桜橋を渡って帰宅した。記録は9572歩、6.2㎞。
c3dad637.jpg 本日の早朝は雨。朝食後、水戸街道を北上、久し振りに荒川に架かる四つ木橋東に出る。ここから、土手を降りて、墨田4丁目にある隅田稲荷神社(すみだいなりじんじゃ)に往く。善左衛門稲荷とも呼ばれ、荒川放水路開削で消えた善左衛門村にあった社だという。

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f439f013.jpg ここから鐘ヶ淵通りを南西に下っているといろは商店街というのがあったので、ここを東武伊勢崎線の東向島駅に向って歩いた。東向島駅から東武浅草線で終点の淺草駅まで出た。北口から駅をでるとすぐ前がいつも行く理髪店である。
17cc2cc8.jpg 暫く髪を切っていないので、暑苦しくて仕方ない。理髪店で50分ほど待って、散髪してもらい、吾妻橋を渡り、墨田区役所まえから北十間川の南沿いの道を通り、源森橋を渡り、三つ目通りから水戸街道を北上。桜橋通りの手前に古平酒店というのがあって、ここに清酒オリジナルの「墨堤桜橋」「竹屋の渡し」を売っているというので、日頃から世話になってばかりいるKさんとNさんに送ることにした。桜橋を渡って、帰宅した。既に正午を30分過ぎていた。本日の徘徊は13361歩、8.6㎞となっていた。
 隅田川稲荷神社は稲荷だから、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)ということになる。ここの境内にはお稲荷さんというのにお狐様がいない。本殿前には狛犬さんが鎮座まします。社伝によれば、天文年間(1532~54年)伊豆の堀越公方・足利政知(将軍足利義政の弟、伊豆の堀越《今の韮山町》に居を構えたため、堀越公方とよばれた)の家臣であった江川善左衛門雅門は、主家滅亡後、一族郎党とともに当地に逃れ、土地を開墾して善左衛門村を開いた。善左衛門は信仰心篤く、伏見稲荷より御分霊を勧請し、村の鎮守としたという。その後、五代目善左衛門が伊勢神宮に参拝した折、悪鬼に襲われたが、8人の山伏が現れ、危難を救ってくれた。この山伏たちは善左衛門を村まで送ると、忽然と消えてしまったという。戦前までは、この霊験に因んで八僧稲荷、あるいは善左衛門の徳をたたえて善左衛門稲荷と称したという。大正2(1913)年荒川の改修工事のため、現在地に遷座。昭和7(1932)年村社に昇格した。現在の社殿は昭和18(1943)年の改築であるという。
98f4da68.JPG この改築に当たって、氏子でもあった日本画家の鴨下晁湖が本殿天井に描いたのが「板絵墨絵神竜図」である。縦270センチメートル、横300センチメートルのヒノキの板17枚からなる画面にほぼ墨一色で描かれた神竜は、雲間から半身を現し、鋭い表情と力強い姿が際立っている。鴨下晁湖は、東京浅草で生まれ、松本楓湖(1840~1923年、日本画家)に師事、17歳の時、第1回文展で3位に入賞して注目され、美人画や歴史小説の挿絵で定評があったという。大正から終戦にかけて、墨田区に住んでいたそうだ。
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a7500d5e.jpg 桜橋を渡り、墨堤通りを北上。白鬚神社に立ち寄り、境内を一巡。白鬚橋を渡って何時もの遊歩道を南下して、帰宅した。本日の記録は7568歩、4.9㎞。
 白髭神社(墨田区東向島3―5―2)の祭神は猿田彦大神。他に天照大神、高皇産霊神、神皇産霊神、大宮能売神、豊由気大神、建御名方神とある。境内内に三峯社、水神社、諏訪社などがある。
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4f4a6d26.JPG 由緒書きによれば天暦5年に慈恵大師(912~985年、良源)が近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊をここに祀ったとある。新編武蔵風土記稿によれば、「天暦5(951)年に元三大師(慈恵大師)が江州志賀郡打颪(うちおろし)より勧請し、天正19(1592)年社領2石。左右に諏訪と稲荷を安ず」とある。
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320a6958.JPG 名所図会では天暦5年に慈恵大師が関東下向のおりに近江国志郡打下より勧請とあり、近江国志賀郡打下とは現在の滋賀県高島郡高島町鵜川の白髭神社と思われる。近隣の蓮華寺は弘安3(1280)年に北条経時の菩提寺として所領の当地に創始され、周囲の寺島村の地名はこれに始まるとされる。これよりはるか以前に祀られていたことになるが、続日本紀(797)に書かれる奥州道がここを通っていたのあろう。社前の狛犬は浅草山谷の八百屋善四郎と吉原の松葉屋半左衛門が文化12(1815)年に奉納したものという。元禄の頃ではこの一帯は水田地域だったようだが、寺島は隅田川の運んだ土砂がよい畑となって寺島茄子でも有名だった。狛犬奉納は料理の食材への感謝だったのかもしれない。
8e1e9923.JPG 昨日は、雨で徘徊には出掛けなかったが、前日に通った飛木稲荷神社について調べていたら、墨田区の稲荷神社の一覧地図にぶち当たった。なんでも墨田区の稲荷神社はそのおもなものだけでも12社あるという。三囲神社や飛木稲荷神社はすでに訪ねたことがあるが、他のいずれもその気になれば、訪ねることができそうだ。


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f48252d3.jpg 本日も早朝は雨。朝食を終えて桜橋通りを押上商店街まで東進し、四つ目通りを明治通りまで北上し、さらに八広中央通りを北上して、こんにゃく稲荷とよばれている三輪里稲荷神社(墨田区八広3-6-13)を訪ねた。昨夜は茅の輪くぐりが行われたらしく、鳥居の下に茅の輪が設けられたままになっていた。
30e00d33.jpg 帰りは明治通りを西進し、曳舟通りを南下、東武曳舟駅から水戸街道に出て、桜橋通りから桜橋を渡って帰宅した。曳舟川通りから東武曳舟駅に入る路地のから東武伊勢崎線の高架越しにイーストコーナー曳舟の1番館と2番館が並んで見られる。
 三輪里稲荷神社はこんにゃく稲荷と言われている。それは初午の日に「こんにゃくの御符」を授与するかららしい。江戸時代、このあたりは大畑村という農村地帯だったが、流感がはやったとき、この神社でこんにゃくを竹串に刺してゆでた汁を村人に飲ませ、それで風邪が治ったところから、初午の日にこんにゃくの御符を授与するようになったと伝えられている。稲荷神社だから祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと)である。鳥居の傍に簡単な由緒を書いた立て札がある。

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331f9c12.jpg 桜橋を渡ると、桜橋通りを東武伊勢崎線の踏切まで東進。飛木稲荷神社にも、高木神社にも明6月30日の大祓に備えて、茅の輪が設けられていた。曳舟川通りに出ると、東武伊勢崎線の曳舟駅から、高架線に沿って、水戸街道に出ると、そこは地蔵坂通りへの入口であった。明治通りに入ると、同じ方向に歩いているお方があり、どちらからともなく話しかけて、問わず語りの雑談をしながら歩いた。話によると、茨城県出身の73歳になるお方で、どうやら曳舟あたりに住んでいらっしゃるらしい。結局、一緒に白鬚橋を渡り、川沿いの遊歩道を離しながら歩いた。桜橋碑東詰で別れて帰宅した。9195歩、5.9㎞を歩いていた。
e93f5fb2.JPG 高木神社は応仁2 (1468)年創建と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、江戸末期の地図では「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺(墨田区押上2-37-4)が別当として管理していたという。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。境内にある狛犬は左右同形で、阿・吽の区別がなく、どちらも阿形である。
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cfd995e2.JPG もとの第六天社は台東区の榊神社で見たように面足神・惶根神を御祭神とすることが多いが、江戸末期の国学者の平田篤胤は天神6代を祀ることはありえないとして神産巣日神や高御産巣日神(高木神)のことだとしているそうだ。ここ高木人神社の祭神を高皇産霊神とするのは、この平田篤胤の説に従ったものだろう。
 タカミムスビは古事記では高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と書かれ、葦原中つ国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で登場する。神社の祭神としては高皇産霊尊などとも書かれる。別名の通り、本来は高木の神格化されたものを指したと考えられている。天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が高皇産霊神の娘と結婚して生まれたのが天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)であるので、高皇産霊神は天孫瓊瓊杵尊の外祖父に相当することになる。古事記によれば、天地開闢の時、最初に天御中主神が現れ、その次に神皇産霊神(かみむすびのかみ)と共に高天原に出現したとされるのが高皇産霊神という神であったというわけ。天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神は、共に造化の3神とされ、いずれも性別のない神、かつ、人間界から姿を隠している「独神(ひとりがみ)」とされている。
90350ab0.JPG 江戸時代には田園と沼地が広がっていた曳舟地域。あちこちに水路が伸び、灌漑用水や舟運に利用されていた。現在の曳舟川通りも、かつては曳舟川が流れ、小舟の先に結ばれた綱を岸から人力で曳いて川を遡っていたといわれている。明治以後は大小の工場が立ちならぶ工場地帯として発展。現在でも優れた技術を持つ中小の工場や江戸切子、桐箪笥などの職人工房も健在。江戸の粋と先進の技がしっかりと息づいているようだ。
 

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 今日は日曜日。昨日・今日と淺草の象潟では植木市が立つ。最近は庭を持つ家屋は少なくなり、かつてのように大型の樹木は殆んど置いていない。市全体も年々小型化しているように思われる。本日は桜橋を渡り桜橋通りから水戸街道を北上。途中向島四丁目にある秋葉神社に立ち寄り、明治通りから白鬚橋を渡り帰宅した。隅田川の遊歩道の橋場テラス昇降口から見る東京スカイツリーの工事現場もクレーンの下の建物の骨組みが見えるようになった。今日の記録は8438歩、5.4㎞。
3854d13e.JPG 秋葉権現は古くから火難除け・火伏せの神として信仰の厚い神社で、祭神は迦具土神(かぐつちのかみ)。迦具土神は記紀神話における火の神で、古事記では、火之夜藝速男神(ほのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ほのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ;加具土命)と表記され、日本書紀では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記されている。総社は静岡県周智郡春野町の秋葉山にあり、江戸界隈では本所と亀戸にあったという。亀戸の秋葉神社は墨田区向島四丁目に現存し、社殿は昭和41(1966)年に再建されたものという。
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afa65167.JPG 江戸名所図会の秋葉権現社ではこの付近を庵碕(イホサキ)と称しているが、秋葉神社縁起では五百崎(いほさき)の千代世の森と称してる。五百もの洲や浅瀬や崎がある地域の意で、潮が引けばたくさんの島が遠浅の海面から顔を出す、そういう地形であることが想像できる。
44d59a27.JPG 新編武蔵風土記稿によれば、この地はもと大河に接する地なれば浮地(うきち)の名であったのを現在(いま)の字の「請地(うけち)」としたとあり、中州だったとみえる請地村には秋葉大権現があり、遠州秋葉権現を正応年間(1288~93年)に勧請して稲荷と合祀されたとされている。ここにも「水神」が祀られていて秋葉権現と合祀され、三圍神社同様に江戸の発達で稲荷が表面化したものが現在の秋葉神社とみることもできるのである。

732e7460.jpg 隅田公園を吾妻橋まで南下。言問橋の上のご来光が川面に反射して、美しい。吾妻橋を渡って、枕橋から三囲神社・弘福寺・長命寺の裏手にあたる墨堤通りの歩道を通って、墨田区少年野球場前に出る。ここから墨堤通りをさらに北上、白鬚橋を渡ると明治通りを少し西進し、橋場と清川の境の通りを南下帰宅した。9635歩、6.2㎞の徘徊であった。
 墨堤通りには白鬚神社の、橋場には石濱神社の「大祓」神事の貼紙が目に付くが、今戸神社の境内には未だ「茅の輪」は設置されてはいなかった。しかし、夏越の祓の神事は行われるようである。
ae899b5b.JPG 大祓には「形代」(撫物ともいい、紙を人の形に切り抜いたもの)に、名前と年齢を書き、さらにその形代で身体を撫でて息を吹きかける。そうすることにより、自分の罪穢(ざいあい)を移し、それを海や川などに流しわが身の代わりに清めてもらうのだという。また、合わせて、疫病や罪穢を祓う「茅の輪くぐり」を行う。
16bbee34.JPG 「茅の輪くぐり」は、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方《うらべかねかた、生没年不詳》著、鎌倉時代中期に出来た日本書紀の注釈書)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅(ちがや)の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めをどんどん焼(路上での飲食に適した小麦粉主体の焼き物料理)で焚くと筆が上達するといった行事と対応しているという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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