瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 江戸通りを南下、蔵前橋通りとJR総武線の中間辺りに須賀神社がある。
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 須賀神社の祭神は素蓋鳴尊。当社の「嘗社牛頭天王線起」(1642年当社別当による奥書あり)によれば、当社は尾張国津嶋牛頭(ごず)天王の勧請とある(愛知県津島市の津島神社と思われる)。推古天皇時代に疫病が流行ったが、このあたりに神詞があり在郷の人々がこれに祈ったところ病が治ったそうで、これを創祀としている。当社に所蕨される「天王塚碑文」には、《推古天皇9年に疫病が流行ったとき、当地に法喜という隠者がいた。あるとき白衣の異人が海岸に現れ(身長三丈余という、約9m)、「我は牛頭天王なり我を祀れば疫病を避けることができる」と言った。法喜が顔をあげると異人は消えており、どのように祀ったらよいのか思案してると、旅僧がやってきてこの話を聞き、『有合う木』で牛頭天王の像を彫って去った》とあるという。江戸中期の「求涼雑記」には、誰が勧請したかわからず、明和元(1764)年頃から700年前であるから天暦(947~957年)であろうと書かれている。江戸名所図絵でも天暦年中の鎮座であるとしているから同じ情報源かもしれない。これらが正しいなら当社が牛頭天王を祀るようになるのは950年頃とみるのが妥当であるようだ。推古時代に法喜という隠者がいたというのはそれ以前からなんらかの祭祀が行われていたことを示すものであろう。隅田川上流の隅田川神社には往古に海神が上陸したという伝承がある。
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edd61bab.JPG 鎌倉初期には江戸重長が現在の皇居付近に江戸城を初めて築いている。吾妻鏡、源平盛衰記、義経記などによると江戸重長は「八ケ国の大福長者」であり、多数の漁民を支配して西国の船数千艘があったという。数千艘は誇大にせよ、少なくとも鎌倉初期では近畿や九州方面と交易していたことが窺がえる。推古時代になんらかの有力豪族が太平洋航路で交易していた可能性も十分ある(輸出したのは鉄、硫黄、馬といったところか)。 当社では海岸に異人が現れたとしており、尾張の津嶋牛頭天王社が海部郡(往古の津島市付近は海)にあることから海人系とのつながりによる祭祀がまずはあり、後に津嶋の牛頭天王が運ばれて重なった可能性がみえる。 八坂神社(祇園社)縁起によれば、656年に高句麗の使者が新羅の牛頭山の素盞鳴尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀って八坂姓(馬養部)を賜ったことを縁起としいる。牛頭天王の登場はこれ以降と見るのが妥当と思われる。
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6486b7dc.JPG 千住の素盞鳴神社でも延暦14(795)年に黒珍なる者の前に老翁が現れて牛頭天王を名乗る縁起がある。また法喜や黒珍といった名が残るところからは牛頭信仰の広まりには僧侶等が介在している可能性もみえる。江戸時代での当社は、祇園社、蔵前牛頭天王、江戸神社、団子天王様、団子様などと呼ばれていた。蔵前は武士の禄米を金に換えるなど米商人(札刺)が多数いて祭礼も盛んで、当時の江戸十社に含まれていたらしい。明治の神仏分離令によって社名が須賀神社に改名されている。当社の祭事に笹団子があるが、病治癒を感謝して団子が供えられたことが由来である。
944ebc4b.jpg 須賀神社の裏手に学制発布よりも先に開校したという東京で最も早い公立小学校といわれる育英小学校がある。須賀神社と育英小学校の間辺りを歩いていると「玩具会館」というビルの植え込みの中に石碑のようなものがあったので覗いてみると「閻魔堂跡」とあった。江戸名所図会にある閻魔堂のあった場所なのだろう。それにしても折角ある石碑もこれでは何の役にも立っていないようだ。
a2e1cf63.jpg 神田川の北側を通り、柳橋から両国橋を渡り、何時ものようにテラスを北上し、吾妻橋を渡って隅田公園を抜けて帰宅した。公園の方々には彼岸花が見られた。本日の記録は11650歩、7.5㎞となった。


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1e56989d.jpg 言問通りを西へ、かっぱ橋道具街(淺草通りを横切ると新堀通りとなる)を蔵前橋通りまで南下。鳥越神社の前で、蔵前橋通りの1つ南の道に入ると、道が微妙に曲がっている。何でもここは鳥越川(いまは全て暗渠)が流れていた所だという。この道を西に向って進むと甚内神社というのがあった。
62f5d2bf.jpg 戦国時代から江戸時代初期の忍者であるという高坂甚内(こうさか じんない、 ?~1613年)は苗字は向坂、勾坂(読みは同じ)、向崎(こうざき、こうさき)だともいわれる。武田氏に仕えた甲州流透破(とっぱ)の頭領。武田家臣の高坂氏(香坂氏)の出で、一説には高坂昌信(1527~1578年)の子であるとも孫であるとも言われる。江戸の吉原を仕切った庄司甚内、(甚右衛門)、古着市を仕切った鳶沢甚内と共に三甚内と呼ばれたという。徳川幕府は関ヶ原の戦いに勝利し、関東一円の支配に乗り出したが、関東には北条氏の残党がまだ残存勢力として残っており、治安を安定させるところまでは手が回らなかった。そのため関東の闇社会に詳しい甚内からの申し出を受け、関東の治安回復の責任者に任命した。甚内は、北条氏の滅亡後は盗賊に身を落して江戸の町を荒らし回った風魔小太郎(生没年不詳、北条氏忍者風魔一党の頭領)とは対立関係にあったため、風魔一党の隠れ家を密告し、慶長8(1603)年に風魔小太郎は捕縛処刑された。しかしその甚内も関東一円に散らばる盗賊を糾合し、幕府の治安を脅かしかねない巨大な存在に成長したため、ここに来て幕府は甚内と縁を切り、追討の手を向けた。その後は逃亡を続けたが、10年後の慶長18(1613)年に捕縛され、市中引き回しの上浅草鳥越の刑場で磔にされた。その際、瘧(おこり、マラリア)を煩っていたと言われ、死に際には「瘧さえなければ捕まることはなかったのに。瘧に苦しむ者は我に念ぜば癒してやろう」ということを言い残したという。ここ浅草橋にある甚内神社では瘧に利益のある神として高坂甚内を祀っている。高坂甚内の生涯については数多くの俗説がある。剣豪宮本武蔵の弟子であったが破門されたともいうが、前述の高坂昌信の子や孫という出自も含めて信憑性は薄い。また、有名な怪談『番町更屋敷』ではお菊の父親という設定になっている。
 因みに、姓は違っても名は同じく甚内と称した高名高い賊が江戸市中を徘徊した記録が残っている。日本、支那、朝鮮に輩出した巨盗大賊の伝記『緑林黒白』に曰く、「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃れたるを起こし、剣鎗に一流を極め、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。/飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極め、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身軽く、ゆえに自ら飛沢と号す。/勾坂甚内の生長は…(以下、前述事項と重複のため略)」 庄司甚内(1575~1644年)は詳細は定かではない(父の又左衛門は北条家臣であったという)が、1617(元和3)年、自ら発起人となって幕府に遊郭の設置を要望し、幕府の許可が下りたという。自らは江戸日本橋に遊郭を開設し、一代で財を成したという。1644(正保元)年に70歳で没したが、その後も「甚右衛門」の名跡は庄司家に代々受け継がれていったらしい。飛沢甚内は元は小田原浪人で江戸で盗賊宿を営んでいたが、後に盗品があれば届け出ることを条件に幕府より古着の専売権を得た。その仲間たちも古着商を営み、その一帯は日本橋鳶沢町(富沢町)となったのだという。
b25bef70.jpg 甚内神社を後にして、鳥越川名残の道を西に進んでいると、甚内橋遺跡という碑が立っていた。ここに鳥越川にかかる甚内橋というのがあったということである。甚内橋の名は、先ほど見た甚内神社に基ずくものであるといわれている。さらに西に進むと江戸通りへの出口近くに「加賀美久米森稲荷神社」というのがあった。
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83f8c144.jpg 鳥居を潜った突き当たりは民家の出入り口のようである。他に玄関があるのかどうかは不明だが、ちゃんと呼び出しのチャイムのボタンまで備え付けてあった。神社については由緒書きなどの碑もないし説明板もない。鳥居の横に上部の折れた石塔が立っていたが、辛うじて「天保壬歳甲午春二月初午」の刻字が読まれる。帰宅後「加賀美久米森稲荷神社」について調べてみたが、由緒由来などについては全く不明である。
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cceaf233.jpg 江戸通りに出ると、そのまま北上して帰宅した。蔵前橋通りとの交差点に台東教育委員会の案内板「天文台跡」と台東区旧町名由来板「旧 淺草蔵前」が並んで立っていた。本日の記録10218歩、6.6km。



 鳥越神社を訪ねるべく、江戸通りを南下、蔵前通りを西へ進む。
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 鳥越神社の祭神は日本武尊、天兒屋根命、徳川家康。天兒屋根命は武蔵国の国司となった藤原氏がその祖神を祀ったものといわれている。徳川家康は蔵前にあった松平神社が関東大震災で焼失したために当社に合祀されたものである。境内社として、福寿神社:祭神は倉稻魂命 大黒天神 惠比壽神 菅原道眞/祖霊社:氏子の祖霊を祀る/志志岐神社:祭神は豊玉姫命。対馬国下懸群久田村、藩主宋対馬守が江戸藩邸にあったものを現台東2-1付近に勧請、安産の神として祀られていたそうで、こちらへの移転は近年のことらしい。
5ed69afa.JPG 日本武尊が東国平定のみちすがら、当地の白鳥村に滞在し、後に村民が白鳥明神として白鳥山の山頂に奉祀したことを起源とし、白雉2(652)年の創建とされる(1185年までこの辺りは「白鳥村」と呼ばれていたという)。 永承年間(1046~52年)奥州の安倍貞任(あべのさだとう)の乱(前九年の役)鎮定のためにこの地を通った源頼義と義家の軍勢は大川(隅田川)を白鳥の渡るのを見てそこが浅瀬であることを知って渡ることができ、白鳥大明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉じ、社名も鳥越神社となったという。図は現在の地形から推定される江戸初期の鳥越周辺地形の推定図である。

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3f801c9a.JPG 隅田川の西岸は古利根川の運ぶ砂や砂利が堆積して標高3m~4mほどの丘が南北に続いている。貝塚もあることから縄文時代から陸地であったことが窺える。そこに浅草神社、石浜神社などの古社が並んでいる。河川のカーブする外側には砂利など流れにくい土砂が堆積して自然堤防を作るが、鳥越~浅草~石浜にはその堆積丘ができている。その内側も陸地化するはずなのだが、ここでは入間川(後に荒川)の浸水地域で鎌倉時代では長江の入江と呼ばれており、沼ようであったと思われる。入間川が運ぶ泥は流れ出ることがなく、堆積して江戸初期では千束池や姫ケ池の沼地となっていた(近世では蓮根の栽培地)。図の現在1mの標高になっている部分が沼池で江戸初期に埋め立てられた地域と推定できる。江戸市街開発のために隅田川西岸の堆積丘が取り崩されてこれらの沼地が埋め立てられ、江戸名所図会によれば七つあった山がひとつになってしまったいう。真土山(現:待乳山聖天の丘)は沖から入る船の目当てになっていたとあり、これがひとつだけ残った山(丘)とみえる。鳥越の丘も同様に取り崩されているが、当時の鳥越の丘がどのような状態だったのかは不明である。天正日記(家康腹心の内藤清成の日記)に「大水の時には不忍池と姫ケ池がつながっているように見えた」とある。図の標高2mのあたりまで水没したのだろう。それを防ぐために築堤されたのが日本堤であり、排水路が山谷堀ということになる。不忍池から流れ出る忍川(鳥越川)が開発以前にどのようなルートで隅田川へ流れていたかは判らないが、姫ケ池を経由して鳥越の丘を横断していたのではないだろうか。
 出土由来が不詳ではありるが当社の社宝に高坏、勾玉、銀環、蕨手刀がる。蕨手刀は明治24年に出土して当社に奉納されたもので、この付近に古墳があった可能性を示す(東京の蕨手刀出土はここと武蔵野市吉祥寺の武蔵野八幡宮に伝えられる2本のみ)。
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5e98ceec.JPG かっての境内は広大で末社として三味線堀に熱田神社、森田町に榊神社があって鳥越三所明神と呼ばれていた。しかし、これらの社地は旗元や大名屋敷の御用地とされ、三味線堀付近の熱田神社は山谷へ、森田町の榊神社(第六天)は堀田堀へ移転している。当社は現在地に残ったが、江戸末期の地図では隣接して神主屋敷と別当屋敷が明示されているところから、社殿の部分だけが旧地に残されたのだろう。熱田神社の移転先を新鳥越町(現:清川1丁目~東浅草1丁目)と称したので、江戸時代では現在地を元鳥越と称している。三味線堀は埋め立てられた千束池(姫ケ池)の名残りで、もとは御手洗池と呼ばれていたという。ただし、江戸地図と重ねると三味線堀の位置は姫が池とその西の小さい池の間の標高2mの位置にあり、江戸時代に土砂を取ったとしてもデコボコにするとは考えにくく、三味線堀が姫が池の中心とは思われない。三味線堀は姫が池とその西の小さい池を埋め立てる時の排水用の堀で、忍川と鳥越川を接続するために残されたものではないかと推測される。幕府の御家人は薄給で内職をしていたが(表向きは禁止)、三味線堀の御家人はここで金魚の養殖を行って他よりずっとよい稼ぎだったということだ。鳥越神社の東に天文屋敷測量所があり、葛飾北斎が鳥越の不二で描いている。頒暦調所ともいい、暦や測量、地誌編纂や洋書翻訳を行っていた。江戸城や大名屋敷など幕府施設の絵は軍事機密のためか浮世絵などに描かれていないが、ここは大丈夫だったのだろうか? 手前の屋根の上に蛎殻がおいてあるが、板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたようでその名残りだろう。
 江戸時代では奥州へ向かうには根岸、下谷から北上して千住大橋で隅田川(荒川)を渡る(奥州道あるいは日光道中)。鎌倉時代では隅田川西岸の土手沿いに北上して石浜社あたりで渡し船で渡河し、亀有から下総台地にそって北上する道が古奥州道(東海道)だったようである(江戸時代ではこれが水戸道中となる)。新編武蔵風土記稿の牛御前社に、源頼朝が隅田川を渡るとき洪水で増水して渡れなかったので船筏で渡り、これを謝して牛御前社に領地を奉納したとある。増水して渡れない、ということは軍勢の通常渡河なら牛島あたりの浅瀬を直接渡渉していたものとみえる。鳥越神社の源頼義と義家の渡河伝承も、潮が引いて浅瀬となった隅田川河口の白鳥が餌をついばむところを渡ったのだろう。はるかに遡って、日本武尊もここを渡ったことが白鳥の丘で祀られた源になったのかもしれない。
4e94458d.jpg 鳥越神社を後にして、蔵前橋通りから左衛門橋通りに入ると、おかず横丁というのがあり、此処では惣菜関係の品物は安く手に入るということで近辺の主婦に人気のある商店街だと聞く。左衛門橋通りを言問通りまで北上。言問通りを東に進んで帰宅した。本日の徘徊記録は10264歩、6.6㎞。

 江戸通りを南下して、春日通りを渡った1つ目乃至は2つ目の路地を右折すると蔵前神社がある。正面鳥居の左に「蔵前神社由緒沿革」の案内板が立っているが、写真に撮っては見たが字が細かくて読み辛い。凡そ次のようにあった。
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22fb730f.jpg 当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6(1693)年、山城國(やましろのくに=京都)男山(おとこやま)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を当地に勧請したのが始まりという。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤(アツ)く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進されたという。文政年間(1818~1830年)の『御府内備考続編』(ごふないびこうそくへん)ならびに『寺社書上』(じしゃかきあげ)に曰く、「御祭神/誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)/息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)/姫大神(ヒメノオオカミ)/倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)/菅原道真公(スガワラミチザネコウ)/塩 土 翁 命(シオツチノオキナノミコト)//石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数2271坪6合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。」すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていたが、その12年後の延享元年、元地である藏前(八幡町)に還幸した。当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていた。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見ることができる。正式な社号は『石清水八幡宮』であるが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者が多く関東地方における名社の一つに数えられたという。また、天保12(1841)年には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=なりたさんおたび)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優(ただやす)の達を受けて、当社境内に遷さた。幕末の安政2(1855)年10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見たが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔=おおせがきとう)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめたという。明治に入ると、その3月に『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となった。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移された。明治6年、郷社に列格し、同11年、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに同19年、再び『石清水八幡宮』と改称した。其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竈(しおがま)神社』(陸奥國のち陸前國宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。
74600354.JPG また、当社は相撲と深い関係がある。江戸時代、当境内で勧進大相撲が開催された。その回数は宝暦7(1757)年を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その勧進大相撲の3大拠点の一つであった。とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍したという。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られたが、なかでも、天明2(1782)年2月場所7日目、安永7(1778)年以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を大騒ぎさせたという。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたもので、財団法人日本相撲協会では本興行をもって、従来、京・大坂に従属した江戸相撲の独立形態とみなしている。そして、当社で開催された宝暦11(1761)年10月場所より、従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、財団法人日本相撲協会の直属機関でもある相撲博物館には、一部の勝負付けは欠落してはいるが、当場所以来の『殆どの勝負付け』が現存・所蔵されている。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていた。このような史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されているのである。
境内社(末社)に福徳稲荷神社があり、祭神は倉稲魂命。商売繁昌、五穀豊穣、家内安全に新得ありとされる。例祭は2月の初午の日である。
 蔵前神社を後にして、蔵前警察署の横から榊神社、淺草中学校の前をとおって、隅田川沿いの道を南下する。総武線のガードを潜って、柳橋へ向う途中に「石塚稲荷神社」というのがあった。
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 元和6年、2代将軍秀忠の頃、隅田川沿いに「浅草御蔵」が作られ柳橋(旧名・旅籠町)は急に賑やなったという。旅籠町の人々は町内の安全と火除けを祈り、石塚稲荷神社をお祭した。数度の御蔵拡張で、元禄・享保のころ、御蔵森田町・片町などが今の柳橋1丁目1番あたりに移って、この地は「柳橋代地」と呼ばれるようになった。その中心が石塚稲荷なのである。総武線の高架線沿いをまっすぐに東に進むと隅田川にぶつかる。河岸通りを右に回ると石塚神社がある。江戸、明治、大正、昭和の中頃まで、料亭や芸者衆でにぎわった柳橋代地。石塚稲荷神社の鳥居の左側には柳橋料亭組合、右には柳橋芸妓組合の大きな文字が彫られている。地元花柳界で大事にされてきたことが良く判る。玉垣の内側に「台東区旧町名由来板」があり、旧淺草柳橋の説明が書かれている。
柳橋を渡り、両国橋東からテラスに降りて、吾妻橋まで南下。吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。本日の徘徊記録歩数10264歩、距離6.6km。
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eff2c37b.jpg 朝まだきの言問通りを西進。今年は例年より早く秋が来た感じで家を出るときは肌寒い感じである。一昨日は満月だった月が、まだ暗い観音裏の西空に輝いている。かっぱ橋道具街を南下。かっぱ橋本通りから2つ目か、3つ目の路地を右折したところに、矢先稲荷神社がある。この辺りはかつては松葉町と呼ばれたところであり、江戸時代の初め淺草三十三間堂があったところだと聞く。
b7e8f4fa.jpg 弓師備後が天海僧正の取り次ぎで、三代将軍徳川家光より下賜金をもらい、武士の弓の稽古をするために、京都三十三間堂を模して、各武家の協力で浅草三十三間堂が建てられた。この堂の守護神として稲荷大明神を建立する際、三十三間堂の端から矢を通す「通し矢」の先に祀られたお稲荷さんのため、「矢先稲荷神社」と命名された。『武江年表』の寛永19(1642)年の項に「三十三間堂始て浅草に建つ」とあって、建立の経緯を記して曰く、「基立人新両替町弓師備後は、天海僧正につかへたる人なり。諸士稽古のため、御当地三十三間堂造営したき志願に付き、僧正の執奉により、御金若干を給はり、其の上諸家の施財をつのりてつひに成就す」 新両替町は現在の銀座通りの1~4丁目に当たり、通りの北側には弓作りの職人・弓師が多く住む弓町があったという。江戸の三十三間堂は、信仰より弓道発展のために建立されたものだった。京都の三十三間堂の通し矢は有名な行事だったのだろうし、天海僧正のとりなしもあって幕府も武術振興のためならと“補助金”を出したのだろう。完成した江戸の三十三間堂では、当然通し矢が行われた。
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82bfb1b0.jpg ところが、この三十三間堂は元禄11(1698)年9月の大火で焼けてしまった。『武江年表』に「此の時浅草三十三間堂焼けて、元禄十四年に至り深川に建つ」と記されている。浅草の三十三間堂の歴史は56年間で幕を閉じたことになる。三十三間堂の浅草での再建はできず、深川富岡八幡宮隣に再建され明治5年まであったという。その鎮守である当社は信仰心の篤い地元町民の要望で当地の産土神として残り、昭和35年に再建された。祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀り、神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進され、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっているという。
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cd124395.jpg 矢先稲荷神社を後に、かっぱ橋道具街を淺草通りまで南下。淺草通りを東進、駒形橋から業平橋にかかる手前に墨田区教育委員会の案内板を見つけた。大岡政談で知られる縛られ地蔵の南蔵院はこの辺りにあったという。四つ目通りから左手に東京スカイツリーをながめながら、京成橋を渡ると桜橋通りを西進、桜橋を渡り帰宅した。10715歩、6.9kmと記録されていた。
 早朝のこととて本殿の扉が閉まっていて、拝見することはできなかったが、帰宅して矢先稲荷神社について調べていると、拝殿の格天井には、神代から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた絵が奉納されているといういうことを知った。人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが精密な考証のもとに描き上げられていて、馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解できる貴重なものであるという。ネットあった写真を借用編集して、掲載しておこう。
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7cbbb2b0.jpg 昨日と同じく、江戸通りから春日通りを通った。佐竹商店街に入り、2つ目か3つ目の横道に眼をやると、石の鳥居と玉垣が眼に入った。「秋葉神社」というのだそうだ。おやおや、此処から歩いて30分足らずの南入谷公園の近くにも秋葉神社というのがあったことを思い出し、帰りに立ち寄ってみることにした。
e33d67f8.jpg 秋葉神社の隣は竹町公園となっていたので、中に入ってみると、台東区の旧町名説明板が立っている。何でもこの辺りは明治維新までは秋田の雄藩久保田藩主の佐竹邸があったところだという。秋葉神社の由緒説明によれば佐竹邸の守護神であったとあるが、明治22年に秋葉ヶ原から勧請したとある。明治の初めには佐竹邸はなくなっているはずだから、おかしな話である。おそらく、古くから佐竹邸にあった小祠が残っていて、そこに町民達が秋葉ヶ原にあった火除けの守り神を勧請したものであろう。
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 春日通りから、左折して左衛門橋通りを北上する。淺草通りから左衛門橋通りのこの辺りは現在は東上野6丁目に当たり、以前は「淺草北清島町」といった。左衛門橋通りを隔てて西側一帯が松ヶ谷である。昭和38(1963)年吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名になった南入谷公園の南に「秋葉神社」がある。境内に入ると年取った禰宜さんが掃除をされていた。竹町の秋葉神社との関係を訊ねてみたが、直接の関係はないようである。当社の縁起についていろいろと話をうかがい、最後に「11月6日には午後4時30分より、火渡り神事がありますので、好ければ是非いらしてください」ということであった。裏参道から神社を後にして、言問橋通りに出るとそのまま真っ直ぐ東進して帰宅した。10581歩、6.8kmと記録されていた。
 墨田区にもおなじ名前の神社があるので帰宅後、秋葉神社について調べてみた。江戸時代から方々にあった秋葉大権現は、ここ松ヶ谷の秋葉神社とはあまり関係がないようである。当初の名は鎮火社といって、明治2(1869)年暮れの大火を受け、明治天皇の勅命により翌明治3(1870)年に現在のJR秋葉原駅構内(神田花岡町)の地に、火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神の三柱を祀神として勧請したのが始まりである。江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山、静岡県浜松市)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はないようである。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21(1888)年日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地(台東区松ヶ谷)に移転した。その後昭和5(1930)年に秋葉神社と改名された。跡地の駅を、下町訛りを知らない官吏たちが「あきはばら」と名付けたことが、今日世界的に知られる電気街「秋葉原」の名の由来なのである。
2d6e6256.jpg 江戸通りを南下、春日通りを西に進み、清洲橋通りを渡った所に佐竹商店街というのがあるので、ここを通り抜けてみた。北出入口から入り、南出入口まで300m前後を南下。右折して台東2丁目の路地をジグザグに歩いていると『金刀比羅神社』があった。
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 高松城を築城し、城下町の建設に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正 (1526~1603年)である。この社は慶長年間に高松藩17万3千石の生駒家2代藩主一正(1555~1610年)が拝領した竹町中屋敷に領国の讃岐象頭山・金比羅大権現から勧請したという。東京に金比羅神社はいくつか有るが最古の神社である。生駒一正の孫高俊(1611~1659年)の時代に生駒騒動《藩主高俊は暗愚なため、外祖父の藤堂髙虎の家臣が国政を専断し、そのため反対派の家臣が幕府に提訴し、幕府は高俊を出羽矢島1万石に移封された》が発生し、改易され、出羽国由利郡矢島1万石へ減転封された。生駒家はやがて8千石の交替寄合となったが、社は産土神として残ったのだという。
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ad4e9a5a.jpg 金刀比羅神社を後に台東2丁目と3丁目の境の通りを昭和通りに向って西進。今度は台東3丁目の昭和通り寄りの路地をジグザグに歩いていると、硬く閉ざされた門扉に朱の鳥居を描いた倉庫らしき建物がある。見上げると上にはお稲荷さんらしきものがあり、お狐様まで見える。閉まった門の端には頑丈な梯子段がおいてある。ここにお参りするには門を開けこの梯子を使って上がらねばならないのだろうか。とにかく、帰宅後にしらべてみることにして、春日通りに出ると、昨日と同じように清洲橋通りを北上、東京メトロ稲荷町駅から地下鉄で浅草駅まで出ると、江戸通りを北上して帰宅した。本日の記録は9861歩、6.4km。
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bbe33726.JPG 帰宅後本立ての片隅に積み上げてあるパンフ類の中から、「台東区ウォーキングマップ」というのを探し出して、本日たずねたお稲荷さんが『矢場稲荷』ということを知った。『矢場稲荷』の「矢場」とは楊弓場の事であろう。そこはもともと別の名のついた稲荷で、神主もいるそれなりの大きさの神社だったに違いないが、そばに矢場が出来てから、ある理由により次第に『矢場稲荷』と呼ばれるようになっていったのだろう。楊弓とは二尺八寸(約80cm)程の小さな弓で、七間(12・3m)程先の的を射るという遊びで、時代劇でもよく見かけるように江戸時代から明治にかけて民間で盛んに行なわれた。矢場は料金を取ってその楊弓を遊ばせた店の事で、そこでは矢を取る役目を若い女にやらせ客を引いていた。中にはその矢取り女たちに、ひそかに売春をさせていた店もあった。『矢場稲荷』に隣接する矢場もその内の一つであった。普通、店の二階などで客を取るのだが、ここはそうではなかった。当時でも矢場での売春は違法であったから、店の親父は一計を案じて、気に入った娘がいたなら、別に料金を支払うことで、「店の外へ連れ出すことを許しましょう、その後どうなるかは二人の問題です」と。しかし、当然ながら売春が前提であった。そしてその待ち合わせ場所として、隣の稲荷の境内が利用された。こうして、その稲荷は『矢場稲荷』と呼ばれるようになっていったのであろう。明治に入り取締が厳しくなった事により、矢場そのものが下火になって、矢場は消えていく。だが、矢場がなくなっても『矢場稲荷』の名前はなくならなかった。そこが売春の待ち合わせに使われる事はなくなり、民衆がその名の由来を忘れてしまっても、それまでに培われた独特の信仰は失われなかった。すなわち、『矢場稲荷』は性愛の神様になっていた。境内が売春の待ち合わせに使われ、中にはその場でコトを始める者もおり、当時の神主が怒らぬ筈がない。だが、神主と矢場の主人が争ったという話はない。正確な記録は残っていないが、このころから、白狐の面をかぶった巫女が現れる。その巫女は年代が下がっても、常に若さを保ったままであったというから、おそらく中の女がある程度のサイクルで入れ変わっていたのだろう。その巫女の正体は矢場の女だったのではないか、そして神ではなく神主にその身を捧げていたのではないかといわれていた。それ以来、矢場がなくなるまでその関係は続いていた可能性が高い。そののち戦争の混乱に乗じてか、大正の頃には正式に『矢場稲荷』に名称が変わっており、あまつさえ、祭神が倉稲魂神、猿田毘古命、天宇受売命(アメノウズメノミコト)へと変えられている。それから、通常もっとも重要である筈の倉稲魂神が軽んじられ、猿田毘古命と天宇受売命の夫婦神への信仰が徐々に比重を増してきた。猿田毘古命はその雄々しい姿と巨大な鼻から陽物神として、天宇受売命はその官能的な肉体と、最初の娼婦とされている事から、陰物神として庶民から崇拝されていった。こうして、『矢場稲荷』の眷属である狐は次第に、矢場の廃絶と共に姿を消した白狐面の巫女と同化していった。そうして「矢場のお稲荷さんは、みぃんな美人の白狐」と謳われ、広く人気を獲得していった。「恋しくば/たずねきてみよ/矢場稲荷」という江戸川柳は今も『矢場稲荷』に伝えられる歌で、絵馬に白狐と共に書かれているものだが、これは明らかに「恋しくば/たずねきてみよ/和泉なる/信太の森の/恨み葛の葉」という葛葉伝説に引っ掛けたものである。その後、歌だけが生き残り、白狐への信仰と葛葉伝説とが交ざりあった結果、元来の意味を離れ、純粋な恋の歌へと昇華していった。こうして、もともとは鎮守の為にこの地に建てられた稲荷は、江戸から明治にかけて売春の片棒を担ぐという時代を経て、性愛の神に、そして現在の縁結びの神へと移行することで生き残っていったのだろう。今でも『矢場稲荷』には若い男女の参拝客が後を絶たないという。ここ二長町の矢場稲荷も今でこそビルの2階に押しこめられてはいるが、昔は男女の逢引に利用されるぐらいの広さの境内を持っていたお稲荷さんであったに違いない。傍に近寄っての本殿の撮影は出来なかったが、ウェブに2月の初午祭の写真が出ていたので借用することにした。
 昨日と同じく江戸通りを南下、蔵前橋通りを西へ。昭和通りの少し手前台東2丁目の蔵前通り面したところに朱色の鳥居が立っている。潜り口が狭く、馬鹿にのっぽの鳥居に見える。鳥居から奥は路地になっていて、その奥に本殿(拝殿)がある。「櫻稲荷神社」というらしい。縁起を書いたレリーフがあったので写真に収めたが、大変読みづらいので、ここに書きとめておく。
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60215bf7.jpg 曰く「桜稲荷神社縁起/大正十二年東京大震災の後当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社の放置荒廃ヲ案ジ岡本悟一氏世話人トナリ現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ昭和三年十一月新ニ神祠ヲ建立遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称今日ニ至ル/以後 大東亜戦争ノ末期昭和二十年二月二十五日空爆ニヨリ神祠破壊焼却サルモ昭和二十四年岡本悟一氏再建ス/次デ昭和二十七年四月隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社に詣デ奉受シコゝニ改メテ鎮座を拝ス/昭和五十五年五月川西催隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並二防災用具ノ倉庫構築/昭和五十六年四月祠屋ノ修理改築ヲ行フ/以上は岡本いせ氏ノ記憶ニ基キ山室利夫縁起ヲ確認ス/御本体ハ伏見稲荷大明神/行事 新年初詣祭一月十日(川西催隆氏発祥)/大祭 四月中旬金、土曜日/役員講元、講中世話人(省略)/昭和五十九年一月十日記 山室」
 清洲橋通りを淺草通りまで北上。東京メトロ銀座線の稲荷町駅より、地下鉄にて浅草駅まで来ると、ここから隅田公園を通って帰宅した。以上、9249歩、6.0㎞を記録。
 帰宅して櫻稲荷神社について調べるも、掲示板の記事のほかは詳しいことは判らず。
 一昨日の日曜日は衆議院選挙、昨日月曜日は台風11号の北上で1日中荒れ模様。2日間徘徊をお休み。
 今朝の東京の日の出は5時13分。5時に家を出たときはまだ暗い。
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1fb201df.jpg 江戸通りを南下→ 蔵前通りを西に進む→ 台東1丁目→ 清洲橋通りを南下→ 台東1丁目と神田和泉町の境の通りを西へ(台東区旧町名由来板・二長町)→ 凸版印刷敷地(市村座跡地碑・千代田稲荷神社)→ 蔵前橋通りを西へ→ 浅草通り→ 東京メトロ銀座線末広町駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通りを北上→ 言問橋5叉路(言問橋越しに東京スカイツリー)→ 自宅  以上、9628歩、6.2㎞
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 ここ下谷二長町(現台東1丁目)に市村座が開場したのは明治25(1892)年のことである。市村座は寛永11(1634)年に日本橋葺屋町に創設され、後に「森(守)田座」「中村座」と共に江戸三座とよばれるようになる。天保13(1842)年に淺草猿若町2丁目に移り、ついでここ二長町に再転するが、明治26年2月に焼失する。翌年明治27年7月に再建して東京市村座と呼ばれる。再建の劇場は煉瓦造り3階建てでその舞台では6世尾上菊五郎・初代中村吉衛門らの人気役者が上演して、満都の人気を集めたという。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅したという。現在はその面影を伝えるものは殆んどなく、石碑(凸版印刷の正面玄関)の裏手にある菊五郎・吉右衛門が信仰したという千代田稲荷が現存する程度である。明治25年から昭和の初期にかけて450坪ほどの敷地に収容人数千数百人という大劇場が存在していたとは驚くべきことではある。
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899239ff.jpg 千代田稲荷神社の祭神は宇賀御魂神といわれ、その昔長禄元(1457)年太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を場内に遷座し、守護神としたのが始まりであるという。その後、徳川家康が慶長8(1603)年入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し、江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当たり渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。
 歌舞伎との関連は、天保の改革によって猿若町に芝居町が形成されてから数十年が経過した頃、物価騰貴などの理由で世相は暗く猿若三座の顔見世狂言も取りやめになったためこの千代田稲荷を分社して、一陽来福と繁昌を祈願するに至った。その後明治25年に市村座が移転。同27年には近代建築に再建され、この神社も劇場の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、 昭和7年の市村座の焼失時に奇しくも類焼を免れたため、地元町会により現在地に再建され、現在に至っているという。
 本日は、少々ルートを変えて北コースで上野公園迄行き辺りを徘徊してみることにした。
d4985ed7.jpg 本日の徘徊ルート 言問通り→ 昭和通→ 両大師橋→ 公園大噴水→ 上野公園8丁目(上野東照宮)→ 動物園通り→ 上野中央通(上野公園正面出入口)→ 東京メトロ上野駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通り→ 自宅 以上 本日の記録は8530歩、5.5㎞。
 1616年、2月4日、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎(とうどうたかとら、1556~1630年)と天海僧正(1536~1643年)は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作って欲しいという遺言を受けた。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営した。1646年には正式に東照宮の宮号を授けられた。1651年に三代将軍・(1536年~1643年)徳川家光公(1604〜1651年)が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿である。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれている。当時は東叡山寛永寺の一部であったが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立した。その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物である。
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28a35e0a.jpg 東照宮とは、徳川家康公(東照大権現、1542〜1616年)を神様として祀る神社である。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くある。そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれているが、正式名称は東照宮であるという。春はぼたん・桜の名所として、秋は紅葉狩り、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の人々で大変賑わい、開運・学業などの祈願成就を願う人が後を絶たないという。また、本格的な江戸建築を間近で見られる神社として、この頃は外国人観光客も多く見かけられるという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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