瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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孔子(こうし)曰(いわ)く、君子(くんし)に三戒(さんかい)有(あ)り。少(わか)き時(とき)は、血気(けっき)未(いま)だ定(さだ)まらず。之(これ)を戒(いまし)むること色(いろ)に在(あ)り。其(そ)の壮(そう)なるに及(およ)びてや、血気(けっき)方(まさ)に剛(ごう)なり。之(これ)を戒(いまし)むること闘(とう)に在(あ)り。其(そ)の老(お)いるに及(およ)びてや、血気(けっき)既(すで)に衰(おとろ)う。之(これ)を戒(いまし)むること得(う)るに在(あ)り。 論語 季子篇

 

 孔子先生のお言葉。「君子に三つの戒がある。青年時代はまだ血の気がおさまらないもので、この時は色情について戒めなければならない。壮年に達すると、血気はいまや充実するので闘争心をいましめなければならぬ。老年に達すると血の気はもう衰えるので、この時は物欲について戒めなければならぬ。

 

 爺が少年の頃聞いた話に拠りますと、三戒とは『194111月に日本陸軍の北支那方面軍司令官・岡村寧次(やすじ)大将(18841966年)が北支那方面軍に対して訓令した「焼くな」「殺すな」「犯すな」の三つの戒めである。』といいました。この訓令はそれなりに効果を上げたとする資料もあるということですが。中国では現在でも日本軍の行動を「三光」と呼んでいます。その内容は「殺光、焼光、搶光」つまり、殺し、焼き、奪うことを示しているのだそうです。

 

 唐の柳宗元の寓言形式を借りた「三戒」という警世の文章があります。彼自身に対する戒めの意味も込められていたのでしょうが、彼はこれに類した箴誡(しんかい)の文を4つほど書いています。何れも『柳河東集・巻19』で見られます。

 孔子(こうし)曰(いわ)く、君子(くんし)に侍(じ)するに三愆(さんけん)有(あ)り。言(げん)未(いま)だ之(これ)に及(およ)ばずして言(い)う、之(これ)を躁(そう)と謂(い)う。言(げん)之(これ)に及(およ)びて言(い)わず、之(これ)を隠(いん)と謂(い)う。未(いま)だ顔色(がんしょく)を見(み)ずして言(い)う、之(これ)を瞽(こ)と謂(い)う。 論語 季子篇

 

 孔子先生のお言葉。「目上の方のお側で仕える場合、三つの過ちがある。〔その方が〕まだ口を出しておられないことを此方からしゃべる、これを慌て者と呼ぶ。〔逆に〕話題に出されたのに黙っている、これを隠し立てと呼ぶ。〔その方の〕顔色を窺い、〔お気持ちを察しもせず〕意のままにしゃべる。これを盲目(めくら)と呼ぶ。

列子には栄啓期(えいけいき)の三つの楽しみについての記事がある。この一文とほとんど同じ文章が『説苑(ぜいえん)雑言篇』、『孔子家語・六本篇』などにも見えます。また、『淮南子・主述篇』に「栄啓期、一たび弾じて孔子は三日楽しみ、和に感ず」、同じ『淮南子・斉俗篇』には『林類・栄啓期、衣は蓑を県(か)くるが若(ごと)きも而も意は慊(うら)まず』とあります。

 

 孔子泰山(たいざん)に遊び、栄啓期の郕(せい)の野に鹿裘(ろっきゅう)帯索(たいさく)琴を鼓(なら)して歌うを見る。孔子曰く、先生何を以って楽となすと。曰く、吾(わ)が楽甚(はなは)だ多し、而して至れるもの三(みっつ)、天(てん)万物(ばんぶつ)を生(しょう)ず、ただ人を貴(とうと)しとなす、吾(われ)人たるを得たり、一楽なり。男は貴く女は賎(いや)し、吾(われ)男たるを得たり、二楽なり。人生まれて日月を見ず、繦瞀(むつき)を免れざるものあり、吾が年九十なり、これ三楽なり。貧は士の常、死は人の終り、吾(われ)何ぞ憂えんや。 列子天瑞篇

 

※鹿裘(ろっきゅう)=鹿の皮で作った衣

※帯索(たいさく)=ロープの先を二つに裂いて先端を結び、輪にしたもの


 孔子が泰山に遊んだ折、栄啓期(えいけいき)という老人が郕(せい)の町の遠
郊を歩いていのに出会った。鹿の皮衣に縄の帯といういでたち、琴をかきなでながら歌っている。孔子が「ご老人、何が楽しくてそのようにしておられるのですか?」と訊ねると老人は答えた。

「わしの楽しみはとても多いが、天が万物を生じた中で、人間こそが一番貴い。ところで、わしはその人間に生まれることができた。これか第一の楽しみだ。また人間には男女の別があるが、男尊女卑で男が貴い。ところでわしはちゃんと男に生まれられた。これが第二の楽しみだ。また、同じ人間と生まれても、日や月を拝まずに死に、赤子のまま死ぬものもある。ところで、このわしは、もう齢九十歳にもなる。これが三つ目の楽しみだ。貧乏は男の定め、死は人生の終り、その定めに安んじておわりを全うすることができれば、何をくよくよすることがあろうか。」

 孟子も三楽について言っています。

 

 孟子(もうし)曰(いわ)く、「君子に三楽有り、而(しか)して天下に王たるは、与(あずか)り存(そん)せず。父母(とも)に存し、兄弟(けいてい)故無(ことな)きは、一楽なり。仰(あお)いで天に愧(は)ぢず、俯(ふ)して人に怍(は)ぢざるは、二楽なり。天下の英才を得て、これを教育するは、三楽なり。君子に三楽有り、而して天下に王たるは、与り存せず。」 『孟子』尽心章句上

 

 孟子がいうには、「君子には三つの楽しみがあるが、天下の王者になるということは、その楽しみの中には、はいらない。両親がどちらも健在で、兄弟に事故がないというのが一つの楽しみである。仰いで天に対しても何の恥ずかしいこともなく、伏して人に対しても恥じることのないのは、二つの楽しみである。天下のすぐれた人物を集めて、これを教育してりっぱな人材に作り上げるということは、三つの楽しみである。以上のように、君子には三つの楽しみがあるが、天下の王者になるということは、その楽しみの中には、はいらない。」

孔子(こうし)曰(いわ)く、益者(えきしゃ)三楽(さんらく)、損者(そんしゃ)三楽(さんらく)。礼楽(れいがく)を節(せっ)するを楽(たの)しみ、人(ひと)の善(ぜん)を道(い)うを楽(たの)しみ、賢友(けんゆう)多(おお)きを楽(たの)しむは益(えき)なり。驕楽(きょうらく)を楽(たの)しみ、佚遊(いつゆう)を楽(たの)しみ、宴楽(えんらく)を楽(たの)しむは損(そん)なり。 〔論語 季子篇5〕

 

 孔子先生のお言葉。「為になる好みが三つ、為にならぬ好みが三つある。動作が礼楽のリズムに合うことを好み、人の美点を語ることを好み、多くの賢人を友とすることを好むのは為になる方だ。我儘一杯が好き、ぶらぶら遊ぶのが好き、宴会が好きというのは為にならない方だ。

 孔子(こうし)曰(いわ)く、益者(えきしゃ)三友(さんゆう)、損者(そんしゃ)三友(さんゆう)。直(ちょく)を友(とも)とし、諒(りょう)を友(とも)とし、多聞(たぶん)を友(とも)とするは益(えき)なり。便辟(べんぺき)を友(とも)とし、善柔(ぜんじゅう)を友(とも)とし、便佞(べんねい)を友(とも)とするは損(そん)なり。 〔論語 季子篇4〕

 

 孔子先生のお言葉。「為になる友達が三種、ためにならない友達が三種ある。率直な友達、誠実な友達、物識りの友達は為になる方だ。人擦れした友達、表面(うわべ)だけ〔で腹黒〕の友達、口の巧い友達は為にならない方だ」
※便辟:人の機嫌を取る。または、その人。辟は避で人のにくむところを避ける意。
※善柔:人に諂うだけで誠意の無いこと。または、その人。
※便佞:口先の巧いこと。佞(女+仁)はおもねることで、口先だけで誠意のないこと。


「一」から「十」に至る漢数字のモデル=原形は、『河図』と『洛書』にあると考えます。漢数字の「三」は、『河図』・『洛書』では、陰陽の陽を意味する白丸(白点)3個を、直線的に並べて記されています。これを文字で「三」と表記する時点で、より認識しやすい3本の横線で書かれたと考えます。また、「三」が示す3本の横線は、「易」の“八卦(はっけ)”を示しているものと考えられます。

“八卦(はっけ)”というのは、陽《―》もしくは陰《--》を意味する線を三本重ねてできる8通りの組み合わせのことです。「易」を八卦(はっけ)とも称するのは、これに由来します。そして、八卦(はっけ)を上下に並べたものが易卦(えきか)でありまして、その組み合わせが64通りになることから六十四卦と呼ばれます。

このように、“八卦(はっけ)”は“六十四卦”で構成される「易」の基本であり、「三」という漢数字にも、その意味が込められているのです。漢和・漢字の辞典には、「三」という漢字を使った熟語が多くあります。

 その一部を列記するだけでも、「三界」、「三計」、「三省」、「三権」、「三元」、「三綱」、「三才=(天・地・人)」、「三上」、「三世」、「三尊」、「三多」、「三知」、「三」、「三本」、「三昧」、「三位一体」、「三楽」等など、多く挙げることができます。

 そして、これらの熟語の多くに、「三」種類の要素、要件、条件・バランスなどのニュアンスが込められているのです。というわけで、「三」という漢字は「易」の基本であるだけでなく、世の中に存在する多くのものの要素や要件を意味する漢字でもあるのです。

 「三」は一を3つ重ねて表わした指示文字といわれています。また、三には多いという意味もあります〔再三〕。

 

・この世界の空間の次元数は3であるとひろく信じられています。縦、横、高さの3方向に広がりをもつ空間を3次元空間といいます。

・故障や障害の許されない重要なシステムでは、冗長性を高めるために正・副・予備の三重構成が取られる事が多いようです〔Fault tolerant system(フォールトトレラントシステム)といいます。〕

・ヘーゲル哲学の辨証法における統合の過程では、2から3を生み出すと言われています。〔原文:The process of synthesis in Hegelian dialectic creates three-ness from twoness

・日本の裁判制度は三審制であであります。

 

中国語では、三 sān は生 shēng に音が似ているので、四が死に似ているのに比べて、縁起の善い数字だと考えられているようです。

【将東遊題壁(将〈まさ〉に東遊せんとして壁に題す)】 月性

男児立志出郷関  男児志を立てて郷関(ごうかん)を出ず

学若無成不復環  学若(も)し成る無くんば、復環(かえ)らず

埋骨何期墳墓地  骨を埋(うず)むるに何ぞ期せん 墳墓の地

人間到処有青山  人間到る処青山有り

 

(意訳)男子たるもの、志を立てて故郷を出るからには、学問が成就するまで二度と帰らない覚悟である。骨を埋めるのに、どうして故郷の墓に固執することがあろうか。広い世間には、どこへ行っても青々とした墓地があるではないか。

 

※ 結句の「人間」は、普通『じんかん』と読んで、人の間(あいだ)のことと解釈されていますが、意味としては『にんげん』としてもいいでしょう。むしろ、個人と考えたほうが旅立つ者を鼓舞してくれるかもしれません。

人間(にんげん)=人、人間(じんかん)=世の中・世間


蘇軾が獄中で死を覚悟し、弟の蘇轍に贈った詩二首のうちの二つ目です。自分が死んだ後に妻子が路頭に迷わぬよう、面倒を見て遣ってほしい、そんな気持ちが伝わってきます。

 

  柏臺霜氣夜淒淒  柏臺の霜氣 夜淒淒たり

  風動琅儻月向低  風は琅儻を動かし 月は低きに向ふ

  夢繞雲山心似鹿  夢は雲山を繞(めぐり)り 心は鹿に似たり

  魂驚湯火命如鶏  魂は湯火を驚かし 命は鶏の如し

  眼中犀角真吾子  眼中の犀角 真に吾が子

  身後牛衣愧老妻  身後の牛衣 老妻に愧づ

  百歳神游定何處  百歳の神游 定めて何れの處ぞ

  桐郷知葬浙江西  桐郷は知る 浙江の西に葬らるると

 

御史台(柏臺)には霜の気配が忍び寄り夜が寒々と更けわたる、風が緊縛の縄を吹き揺らし、月が西の彼方へと沈んでいく、夢はふるさとの山々を駆け巡り、まるで鹿になった気分だ、魂は死を恐れ、鶏のようにはかない命を嘆く

 まぶたの裏にみるわが子は賢い相、死後に妻子たちに待っているだろう極貧を恥じるばかり、自分の死後に魂はどこをさすらうのか、わが死体が浙江の西に葬られることだけは、みんな知っているようだが

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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