蘇軾は元豊2年(1079)7月28日に逮捕され、8月18日に御史台の獄に投ぜられます。だが獄中の蘇軾は、そんなにひどい待遇は受けなかったといいます。というのも、獄卒の一人が蘇軾を非常に尊敬していまして、彼のために何かと便宜を図らってくれたからだということです。そのひとつに、毎夜足を洗う樽を持ってきてくれたことがあげられます。そしてこれは今でも四川人の風習とされているものであるといいます。
獄中の蘇軾を息子の邁が毎日のように見舞い、食べ物などを差し入れました。その邁との間で、蘇軾はひとつの取決めをしていました。普段は野菜と肉を差し入れ、何か悪いことが起きたら、魚をそのしるしに送るというものだったということです。ところがある日、邁は用事ができたために差し入れを友人に頼みました。その友人は魚を差し入れたが、秘密の取決めのことは何も聞かされていなかったので、何も言わずに魚を贈ってしまいます。送られた蘇軾は、てっきりそれが自分の運命に悪いことが及んでいることの証拠なのだと勘違いしてしまいます。そこですっかり死を覚悟するとともに、その気持ちを二片の詩にして弟の蘇轍に送ったのです。〔南宋の葉夢得(しょうぼうとく)の『右林避暑録話』の説話より〕
予以事繋御史台獄獄吏稍見侵自度不能堪死獄中不得一別子由故作二詩授獄卒梁成以遺子由
予事を以て御史台の獄に繋がる、獄吏稍や侵さる、自ら度る、堪ふる能はずして獄中に死し、子由に一別するを得ざらんと、故に二詩を作り、獄卒梁成に授け、以て子由に遺る
其一
聖主如天万物春 聖主天の如く 万物春なるに
小臣愚暗自亡身 小臣愚暗にして 自ら身を亡ぼす
百年未満先償債 百年未だ満たざるに 先ず債を償い
十口無帰更累人 十口帰するところ無く 更に人を累せん
是処青山可埋骨 是(いた)る処の青山 骨を埋む可し
他年夜雨独傷神 他年の夜雨 独り神を傷(いた)ましめん
与君世世為兄弟 君と世世 兄弟と為りて
又結来生未了因 又来生 未了の因を結ばん
聖天子の恵みは広大で 万物は春のようだ
愚かな臣下である私は 自ら身を滅ぼそうとしている
人生百年にも満たない内に 罪をつぐなうことになり
家族十人は頼るあてもなく 君に面倒をかけるだろう
わたしの骨は どこの山に埋めてもよいが
君は雨の夜に ひとりで心を痛めるだろう
いつの世にあっても 君とは兄弟に生まれ合わせて
終わりのない因縁を 結びつづけていようではないか
今朝は蘇軾の「石蒼舒の酔墨堂」という漢詩を紹介します。蘇東坡は四川省の峨眉山のあたりに生まれた文人官僚で、政治的な抗争に巻き込まれて、二度も流罪に会い、最後は海南島に流されてしまいます。そのような波乱の生涯を送った人物ですが、その詩も書も、一貫して突き抜けたところがありました。中国の文人たちのなかでも、蘇東坡ほど人生の栄達と悲嘆を体験しつくした人はいないでしょう。この「石蒼舒酔墨堂」という詩にはそんな境涯がよくあらわれていると思えます。「石蒼舒」というのは、蘇東坡の友人の名前で、古い筆跡の収集家であったということです。その友人を訪ねたときの詩で、半分はふざけて「石蒼舒の酔墨堂」を揶揄(からか)って作ったものだといわれています。蘇軾34歳の作だといいます。
石蒼舒酔墨堂(石蒼舒の酔墨堂) 蘇軾
人生識字憂患始 人生 字を識るは 憂患の始め
姓名粗記可以休 姓名 粗(ほ)ぼ 記すれば 以て休(や)む可し
何用草書誇神速 何ぞ用いん 草書の神速を誇るを
開卷戃怳令人愁 卷を開けば戃怳(しょうきょう)として人をして愁えしむ
我嘗好之毎自笑 我嘗て之を好み 毎(つね)に自ら笑う
君有此病何能瘳 君に此の病有り 何ぞ能く瘳(いや)さんや
自言其中有至樂 自ら言う 其の中に至楽有りて
適意無異逍遙遊 意に適すること逍遙の遊に異ること無しと
近者作堂名醉墨 近者(ちかごろ) 堂を作りて醉墨と名づく
如飲美酒消百憂 美酒を飲んで百憂を消するが如しと
乃知柳子語不妄 乃ち知る 柳子の語の妄ならざることを
病嗜土炭如珍羞 病んで土炭を嗜んで珍羞の如しとす
君於此藝亦云至 君 此芸に於いて 亦た至れりと云う
堆牆敗筆如山丘 牆に堆(つ)める敗筆は山丘の如し
興來一揮百紙盡 興来って一たび揮えば 百紙盡く
駿馬倏忽踏九州 駿馬 倏忽(しゅっこつ)として 九州を踏む
我書意造本無法 我が書は意造にして 本 法無し
點畫信手煩推求 点画 手に信せて 推求を煩わす
胡為議論獨見假 胡為(なんす)れぞ 議論 独り仮されて
隻字片紙皆藏收 隻字 片紙 皆藏收せらる
不減鍾張君自足 鍾・張に減ぜざるは 君自ら足れり
下方羅趙我亦優 下 羅・趙に方(くら)ぶれば 我も亦優ならん
不須臨池更苦學 須(もち)いず 池に臨んで更に苦学することを
完取絹素充衾裯 絹素を完取して 衾裯(きんちゅう)に充てよ
今朝の朝日新聞より
「授業、まず家で」試行へ 動画見て予習→教室では応用 佐賀・武雄市が「反転授業」―― 佐賀県武雄市教育委員会は小中学生全員に1台ずつ配るタブレット端末で「反転授業」に取り組む方針を決めた。子どもは授業の動画を入れた端末を持ち帰り、家で宿題として予習。実際の授業ではわからない点を教え合ったり、議論しながら応用問題を解いたりし、学力の定着を目指す。11月貮小学校1校で試行し、順次広げる。/反転授業は、これまで学校の授業で教えてきた基礎的な内容を家で学び、家で取り組んでいた応用課題を学校で学ぶよう「反転」させる方法だ。米国で2000年代から広がった。日本では教員個人が取り組んでいる例はあるが、自治体単位で導入するのは初めて。/武雄市は10年度から、小学校2校の4~6年生に1人1台ずつiPadを貸与し授業で使っている。来年4月には小学生全員、15年春には中学生全員にタブレット端末を配る予定で、計約4200台を貸与する。/反転授業は先行して端末を使っている市立武内小で理科と算数の一部単元を選び、11月から始める。実証実験を重ねながら全校に順次広げ、全教科で試みる。/端末に入れる授業の動画は、まずは塾や出版社の開発したものを利用。それを参考に学校現場でもつくり、増やしていく。/市教委の目指すイメージはこうだ。まず教師自らが教科書をわかりやすく説明する動画を撮影する。教材映像専用のサーバーから選んでもよい。それらを10分ほどの映像にし、子ども一人ひとりの端末に入れる。理解度チェックの簡単なテストも入れておく。/子どもはその端末を持ち帰り、自宅で動画を見て問題を解くのが宿題となる。保護者の携帯電話には、宿題の内容を連絡し、家で勉強するよう促してもらう。/そして実際の授業。教師はまず全員の端末のデータを集め、予習をしてきたか、テストの出来具合はどうかをチェック。そのうえで、多くの子がつまずいている箇所を説明する。子どもがわからないところを教えあったり、1人の解き方を全員の端末で見て共有したり、学んだことを議論したりする場面をつくる。/授業後は、レベルに応じた復習問題をまた端末に入れて持ち帰らせ、わかっているかどうか確認する。/市教委が狙うのは、一人ひとりの理解度をその都度確認して進むことで、落ちこぼれをつくらないようにすること。もう一つは子どもが話し合い、教え合う対話型の授業でコミュニケーション力を養うことだ。
■自分のペースで学習、保護者の協力不可欠 : 反転授業の導入は、ICT(情報通信技術)が授業方法を変える可能性を帯び始めたことを意味する。/反転授業の長所の一つ目は、一人ひとりが自分のペースで学べることだ。説明の映像を家で見ることで、わからない子は何度でも繰り返し勉強でき、理解の早い子は、早い再生速度で聞くことができる。/二つ目は、それに続く教室での授業で議論したり、知識を応用する課題に取り組んだりと受け身ではない活動ができることだ。結果として、子どもの学習時間は増えることになる。/10月から市教委の教育監としてICT教育に取り組む代田昭久・東京都杉並区立和田中前校長は「教員や家庭の協力を得ながら、落ちこぼれをつくらない公教育を目指したい」と話す。
ただ、課題も大きい。/一つ目は子どもがどこまで意欲を持って予習に取り組むかだ。教材の魅力を高めることがカギを握る。/二つ目は低学年ほど、大人が映像を見るよう促す必要があり、保護者の協力が欠かせないことだ。家庭環境の厳しい子どもには、放課後に学習の場を設けるなどの工夫が要る。/三つ目は教師が「教え込む人」から、「子どもとともに考え、話し合う人」へという、役割の変化にどこまでついていけるかだ。/他の自治体に広がるかどうかも未知数だ。反転授業の導入には1人1台の端末が必要だが、大規模な自治体の場合、財政負担が重くなる。佐賀県は来春入学の県立高校の全新入生に5万円でタブレット端末を購入してもらう。だが、自己負担が重いと負担撤回や軽減を求める声が出ている。
◆基礎と活用、両立 : 山内祐平・東京大学大学院情報学環准教授(学習環境デザイン論)の話 「反転授業」は、近代の学校の基本である一斉授業のスタイルをICTを用いて変えるものだ。10年後の教室では本命になり得る。武雄市の目指す方向性を評価したい。これまでの学校教育は基礎知識の習得か、活用力重視かの間を振り子のように動いてきたが、このスタイルだと両立できる。教材をどう充実させるか、教員がどこまでついていけるか、保護者の理解をどう得るか、といった課題もある。教員同士で経験を共有し、一歩一歩進めてほしい。
◆キーワード :<反転授業「Flipped Classroom」>
旧約聖書の『伝道の書』に「智恵多ければ憤り多し」と言う言葉があります。知恵がつけばつくほど、世の中の矛盾や欠点も見えるようになり、憤慨することも多くなるということでありましょう。
はてさて、爺の周りにも何かと言えば、世の中の矛盾を見つけ出しては、怒ってばかりいる人がいます。いやはや、爺の知っているほとんど人達がそうではないでしょうか。爺もよくよく振り返ってみると、世の中の出来事に憤ってばかりいたように思えます。
老子様は次のようにおっしゃっています。
老子:道経:異俗第二十
絶學無憂。唯之與阿、相去幾何。善之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人煕煕、如享太牢、如春登臺。我獨怕兮其未兆、如孾兒之未孩。乘乘兮若無所歸。衆人皆有餘。而我獨若遺。我愚人之心也哉。沌沌兮。俗人昭昭。我獨若昬。俗人察察。我獨悶悶。忽兮若海、漂兮若無所止。衆人皆有以。而我獨頑似鄙。我獨異於人、而貴食母。
学(がく)を絶(た)てば憂いなし。唯(い)と阿(あ)とは、相(あい)去ることいくばくぞ。善と悪とは、相去ることいかん。人の畏(おそ)るるところは、畏れざるべからず。荒(こう)としてそれいまだ央(つ)きざるかな。/衆人煕煕(きき)として、太牢(たいろう)を享(う)くるがごとく、春台に登るがごとし。われひとり怕(はく)としてそれいまだ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)のいまだ孩(わら)わざるがごとし。乗乗(じょうじょう)として帰(き)する所なきがごとし。衆人はみな余りあり。而(しこ)うしてわれはひとり遺(わす)るるがごとし。われは愚人(ぐじん)の心なるかな。沌沌(とんとん)たり。/俗人は昭昭(しょうしょう)たり。われはひとり昏(くら)きがごとし。俗人は察察(さっさつ)たり。われはひとり悶悶(もんもん)たり。忽(こつ)として海のごとく、漂(ひょう)として止まるところなきがごとし。衆人はみな以(もち)うるところあり。而(しこ)うしてわれはひとり頑(かたくな)にして鄙(ひ)に似る。われはひとり人に異なりて、母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。
訳) 学ぶことを止めれば,悩みも消える。「惟(はい)」というのと、「阿(ああ)」というのとではこの隔たりはどれほどであろうか。善〔美しい〕と言ったり、悪〔醜い〕といったり、その隔たりもどれほどあろうか。人びとの慎むところは〈こちらも〉慎まないわけには行かないが、さても広々として〈どこまで従ったらよいのか〉果てしもないことだ。
多くの人はうきうきと楽しそうにして、まるで大御馳走を受けているようであり、春の日に高台から見晴らしているようだ。わたしはひとりじっと静かにして、何の兆しも見せず、ぼんやりまろやかでまだ笑うことも出来ない赤ん坊のようであり、疲れ果てた有様で身を寄せるところもないかのようでようだ。さてもわたしは愚か者のこころなのだ。
今朝の朝日新聞より
ウェブニュースより
豊田英二氏死去 トヨタ最高顧問 世界企業へ礎築く ―― トヨタ自動車最高顧問で元経団連副会長の豊田英二(とよだえいじ)氏が十七日午前四時三十二分、心不全のため愛知県豊田市のトヨタ記念病院で死去した。百歳。名古屋市西区出身。自宅は愛知県豊田市。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は長男でアイシン精機会長の幹司郎(かんしろう)氏。後日、「お別れの会」を開く。/発明王として知られた豊田佐吉のおい。豊田章男トヨタ自動車社長の祖父で、トヨタ自動車の創業者、故豊田喜一郎氏はいとこに当たる。トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)とトヨタ自動車販売の「工販合併」を実現。トヨタを日本最大の自動車メーカーに育て上げた。/一九三六年に東京帝国大学(現東京大)工学部卒。豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)に入り、三七年、トヨタ自動車工業設立とともに転籍。六七年から八二年まで社長を務めた。初の本格的乗用車「クラウン」(五五年発売)の開発に取り組み、トヨタ発展の基礎を築いた。/社長時代には米ゼネラル・モーターズ(GM)との合弁事業をまとめるなど海外展開の足場も固め、トヨタを世界有数の企業に育て上げる礎を築いた。九四年にはホンダ創業者の本田宗一郎氏(故人)に次ぎ日本人として二人目の米自動車殿堂入りを果たした。九〇年十一月、勲一等旭日大綬章を受章。 (東京新聞 2013年9月17日 夕刊)
爺が国民学校の5年か6年の頃、豊田英二氏の伯父に当たる、豊田佐吉の功績がたたえられた次の一文が国定教科書(国語読本)に掲載されていた。
十一 世界一の織機 (旧仮名遣いで表記)
「機ばかりいじつてゐて、をかしなやつだ。男のくせに。」
豐田(とよだ)佐吉は、村の人々から、かういつてあざけられた。佐吉は、父の大工の仕事を助けて働いてゐたが、ひまさへあれば、織機のことを調べ續けてゐたのである。
「いよいよ、あれは氣違ひだ。」
村中にこんなうはさがひろがると、父も、だまつてはゐなかつた。
「おまへは大工のせがれだ。ほかのことを考へないで、みつしり仕事をやつてくれ。」
とさとしたが、佐吉のもえるやうな研究熱は、どうすることもできなかつた。父は、とうとう佐吉をよその大工の家にあづけてしまつた。
この間に立つて、佐吉を勵ましたり、慰めたりしてくれたのは、母であつた。佐吉は、「今にきつと成功してみせます。しばらくお許しください。」と、心の中で深く兩親にわびた。
佐吉の考へは、かうであつた。人間の衣食住といふものは、みんな大切なものであるから、布を織る仕事も、決してゆるがせにしてはおかれない。今のやうな仕方では、みんながきつと困る時が來るに違ひない。それには、どうしても、織機をもつともつと進歩させなければならないといふのである。
佐吉が、最初目をつけたのは、布を織る時、たて糸の間を縫つて行くよこ糸であつた。よこ糸は、杼(ひ)によつて、右から左、左から右へと往復するのであるが、これを人の手によらず、機械の力で動かすやうに工夫したかつた。機械で動かせば、もつと早く往復するやうな仕組みになるだらう。更に進んでは、ひとりでに、布がずんずん織られて行くやうにもなるであらう。次から次へと、佐吉の考へは高まつて行つたが、わづか小學校を出ただけのかれには、ややもすれば、手のとどきさうもない空想になりがちであつた。
たまたま、そのころ東京に博覧會が開かれた。佐吉は上京して、目をかがやかしながら、その機械館へ毎日通つた。銀色に光つたたくさんの機械は、まるで生き物のやうに動いてゐた。かれは、その精巧な機械を見て感心するとともに、何ともいへない肩身のせまい思ひがした。機械は、どれ一つとして、わが日本製のものでなかつたからである。
「こんなことでいいのか。日本の將來をどうするのだ。」
佐吉は、もうじつとしてゐられなくなつた。
せめて自分のめざしてゐる織機を仕あげて、いつかは、外國を見返してやらうと固く決心した。
それからは、ほとんど晝も夜もなかつた。設計圖を引いては、組み立てた。組み立てては、それを動かしてみた。だが、思ふやうに動くものは、なかなか生まれて來なかつた。佐吉は、一軒の納屋に閉ぢこもつて、一心に考へぬき、これならといふ一臺の織機を作りあげたが、これもまんまと失敗であつた。世間からは、ますます笑はれて、だれ一人相手にさへしなくなる。貧しさは、ひしひしと身にせまつて來る。しかし、佐吉は、「このくらゐのことで弱るものか。」と、新しい勇氣をふるつて立ちあがつた。
鐵材を使ふことができなかつたために、すべて木材によつて、こまかなところまで作り直して行つた。今までの失敗の原因を、みんな取り除いて、面目を一新した設計圖ができあがつた。さつそく、その組み立てに取りかかり、苦心の末、やつと思ひ通りの織機ができあがつた。驗してみると、はたしてよく動いた。
この織機を、村の人々の前で、試運轉する日がやつて來た。黑山のやうに集つた人たちは、布をみごとに織つて行くふしぎな機械に目を見張つた。
「よくやつた。えらいものだ。」
みんなは、かういつてほめたたへた。この日、佐吉の織機を操つて、りつぱに布を織つてみせた人こそ、佐吉の母であつた。明治二十三年、佐吉が二十四歳のことである。
翌年、特許を得た。豐田式人力織機は、盛んに國内に使用されるやうになつた。しかも、かれはこれに滿足せず、すぐ動力機械の製造にとりかかつた。人の力から、機械の力に移すといふ、多年の夢(ゆめ)を實現しようといふのである。そこで、更に七年間の工夫が續けられ、みごと佐吉の自動織機が完成された。これが、日本における自動織機の始祖である。
明治三十八年は、佐吉にとつて忘れることのできない年である。そのころ、わが國で使はれてゐた外國製の自動織機と、左吉の自動織機と、どちらがすぐれてゐるかを驗すことになつたのが、この年であつた。いはば、日本と外國との腕比べである。英國製のものを五十臺、米國製のものを十臺、佐吉のものを五十臺すゑつけて、一年にわたる嚴しい比較試驗が行はれた。だが、その結果は、惜しいことに佐吉の負けであつた。かれは、愛機の敗因を根氣よく調べ、更に新しい工夫をこらして行つた。
それから四年め、再び外國製のものと腕比べをする日が來た。努力はつひに報いられた。何千本といふたて糸のうち、一本でも切れると織機はおのづから止り、よこ糸がなくなれば、新しい杼が代つてとび出して行くなど、まことに簡にして巧みなものであつた。機械の取扱ひがたやすく、故障が少く、絶えず正確に動くことにおいて、佐吉のものに及ぶものはなかつた。
押しも押されもしない「世界一の織機」といふ光榮が、かれの上にかがやいた。この自動織機の出現によつて、日本は、あつぱれ綿布工業國として、世界に乘り出すやうになつた。
陶淵明の詩に次のようなのがあります。
人生無根蒂 人生は根蒂(こんたい)無く
飄如陌上塵 飄(ひょう)として陌上(はくじょう)の塵の如し
分散逐風轉 分散し風を追って転じ
此已非常身 此れ已に常の身に非ず
落地爲兄弟 地に落ちて兄弟と為る
何必骨肉親 何ぞ必ずしも骨肉の親のみならん
得歡當作樂 歓を得ては当(まさ)に楽しみを作すべし
斗酒聚比鄰 斗酒 比隣(ひりん)を聚(あつ)む
盛年不重來 盛年 重ねて来たらず
一日難再晨 一日 再び晨(あした)なり難し
及時當勉勵 時に及んで当に勉励すべし
歳月不待人 歳月 人を待たず
訳) 人の命は繋ぎとめる根も蔕(へた)もなく
さっと散る路上の塵(ちり)のようなもの
ちりぢりに風のまにまに転(まろ)びゆく
そのときははや変わらぬ姿は保ちえぬ
生れ落ちれば誰もが兄弟
肉親の間だけの事ではない
歓楽の時を得たなら楽しむのが当たり前
器(うつわ)の酒に近所の人を集めよう
若い世代は二度とはこない
一日に二回の朝は訪れまい
時にのがさず むだに過ごすな
年月は人を待ってはくれまいぞ
※ 爺はこの詩の「時に及んで当に勉励すべし 歳月人を待たず」を、ずっと「過ぎた時間は二度ともどってこないのだから一生懸命勉強せよ」という意味に教わってきました。なんてツマンナイ意味なんでしょう。
確かにこの部分だけ取れば「勉励すべし=努め励め」と取れるのですが、詩全体の文脈を見ると、「何に努め励むのか?」ハッキリしているじゃありませんか? 酒を飲んで、おおいに楽しむことに「努め励め」と奨めているのじゃありませんか。こんな「断章取義」には騙されないことですね。
このアホな解釈をした人は、詩全体の意味を読み取っていないか、意図的に解釈を捻(ね」じ枉(ま)げたかのどちらかなのでしょう。
どうやら、原寸大の写真ならば、ブログの本文に挿入できそうなので、実験的に今日のプログにデンマークの写真をいれて見ることにした。
本日のウェブニュースより、
「幸せな国」番付、トップ5は欧州が独占 日本は43位 ―― (CNN) 世界各国の国民が日々の暮らしに満足し、幸せを感じているかどうかを調査した新たな報告書が発表され、ランキング首位のデンマークをはじめ、欧州北部の5カ国が上位を独占した。/報告書は米コロンビア大学地球研究所が9日、昨年に続く第2弾として発表した。世界156カ国で2010~12年に調査を実施し、国民の幸福度を10段階で示した。/それによると、上位5カ国はデンマークに続いてノルウェー、スイス、オランダ、スウェーデン。これにカナダ(6位)、オーストラリア「10位」、イスラエル「11位」、アラブ首長国連邦「14位」、メキシコ「16位」などが続き、米国は17位だった。/そのほかの主要国では英国が22位、ドイツ26位、日本43位。ロシアは68位、中国は93位だった。/幸福度が最も低い5カ国はルワンダ、ブルンジ、中央アフリカ、ベナン、トーゴと、アフリカのサハラ砂漠以南に集中している。/幸福度の世界平均は過去5年間でわずかに上昇したものの、経済的、政治的問題を抱える国で下落が目立った。/下落幅が最も大きかったのはエジプトで、07年の5.4から12年には4.3まで下がった。また、ユーロ圏債務危機の影響でギリシャやイタリア、ポルトガル、スペインが順位を下げた。/反対に中南米やアフリカ諸国では上昇が目立った。上昇幅が大きいのはアンゴラ、ジンバブエ、アルバニアの各国だった。/報告書は国民が不幸を感じる要因として貧困や失業、家庭崩壊、身体疾患などを挙げたうえで、特に大きな影響を及ぼしているのは慢性的な精神疾患だと指摘。各国政府による取り組みを促している。
1.デンマーク 2.ノルウェー 3.スイス 4.オランダ
5.スウェーデン 6.カナダ 7.フィンランド 8.オーストリア 9.アイスランド 10.オーストラリア
爺は余り見ることはないが、朝ズバッの「みの もんた」がセクハラ疑惑で問題となった矢先、今回は次男の窃盗未遂容疑で苦境に立たされているという。まあまあ踏んだり蹴ったりというところ。
ウェブニュースより日刊サイゾーの記事を2つ
「抱きついたり、ブラのホックをいじったり……」みのもんた“生セクハラ”常態化は、妻の死が影響か ―― 生放送の情報番組『みのもんたの朝ズバッ!』(TBS系)のセクハラ疑惑が問題となったみのもんたについて、5日発売の「週刊文春」(文藝春秋)がセクハラの常態化と、妻の病死との関係を報じている。/事の発端は、先月30日放送のCM明け。隣に立つTBSアナウンサー・吉田明世の腰付近にみのが手を伸ばし、吉田アナがその手を払うような映像が一瞬放送され、「セクハラでは?」と騒動に。これにTBS広報部は「セクハラ行為があった事実はありません。誤解されるような場面が放送されたことについて、番組担当者に注意しました」とコメントした。/しかし、文春の記事によれば、「CM中に女子アナの腰を触るなんていうのはしょっちゅう。後ろから抱きついたり、ブラのホックをいじったり」(番組関係者)と常態化しており、「セクハラはいけないという感覚がみのさん本人にない」(別の番組関係者)と伝えている。/だが、この時間帯で安定した数字を持つみのは、番組内で“神様”のような存在であるため、誰も注意できる雰囲気ではないという。/さらに記事では、セクハラ行為に拍車がかかったのは、昨年5月に妻の靖子さんを亡くしてからだと報じている。/みのといえば、靖子さんを失った以降、「あと2年でアナウンサー歴50年。しゃべる商売をやめようかなと思っている」と周囲に引退をほのめかすほど憔悴しきっていたが、一転、10月頃から銀座で頻繁に目撃されるようになり、「“銀座の帝王”復活」と報じられた。/その証拠に、今年1月発売の「フライデー」(講談社)に、銀座の老舗高級クラブ「クラブ・グレ」の美人ホステスY子さんをお持ち帰りする様子がスクープされ、記者の直撃に「あっそう。俺も年貢の納め時だな」と余裕の対応を見せている。/「最近のみのさんは、奥さんの死を乗り越え、かわいい愛人もでき、自分自身のために人生を楽しもうと必死に努めているようにも見える。セクハラ行為に拍車がかかったのも、そういった心の起伏が関係しているのでは?」(芸能事務所関係者)/昨年は週刊誌に「最愛の妻・靖子さんの死から7カ月。いまだ納骨せず、夜毎のひとり酒」と報じられたこともあるみの。この頃から比べ、元気を取り戻したのは間違えなさそうだが、もし本当にセクハラ行為が日常的に行われていたとすれば、断じて許されることではないだろう。 (日刊サイゾー2013.09.06 金)
水門会の朋友(ポンユウ)から、メール・手紙等を頂いた。
9月5日〈木〉11:31受信 横浜のN氏よりメール ―― 原稿添付
日高 節夫 様/今朝は、関東じゅう、すごい雷鳴と豪雨だったが、ご尊家は異常はないか。お見舞い申しあげます。わたしは夢うつつで雷様のお怒りを聞いていた。朝ドラの最後の部分が一瞬、途切れたと思ったら、これが停電。あちこちの我が家の古い電気製品の時計がみんなゼロに戻って、正しい時刻を示さなくなった。バッテリーで動いている電気製品は、電気炊飯器ですら、停電に強いのに、交流電源に繋いでいる古い時計はいの一番に影響を受ける。/さて、きのうは半年待って、ようやく平常の興行形態に戻った新しい歌舞伎座に行ってきました。夜の部を見ました。/歌舞伎では、義太夫の床(ゆか)と長唄、清元、常盤津などの下座音楽がないと、それらしくないのだが、これからの新しい歌舞伎愛好家の層を開拓するつもりとかで夢枕獏に書かせた「陰陽師」全3幕の新作ものを夜の部にかけた。戦後、昭和26年、戦災の鉄骨をそのまま生かして復興させた歌舞伎座で、当時の市川海老蔵(のちの11代目市川団十郎)に光源氏を演じさせた「源氏物語(桐壺から明石まで)」のはとえらい違い。「人肉喰い(カニバリズム)」で人間離れした力を得た平将門が主人公。/それに娘の滝夜叉姫がからむ。滝夜叉姫は歌舞伎の1ジャンルで、おなじみで、杮落しの今年4月以降も、玉三郎が古御所の場をやっていた。/大工事で据え付けた廻り舞台はスピードも自由自在。確かに舞台転換は早くなった。照明も強弱自由自在、生火(かがり火など)は消防庁のお許しが出ないのでいまだに作りものだが、炸裂の照明効果は大きく進歩した。/幕間の食堂はまえの第四期歌舞伎座のほうが、断然よかった。そば、うどん、おでん定食、から吉兆まであったが、第五期の今回は花籠と吉兆のみ。吉兆なんかに行く身分ではないから花籠にいってみたが、3階昭和通りにの面した大部屋、ひとりだと近頃流行りの窓ぎわのカフェみたいな席、向かいの客と相席にはならない工夫。/舞台前の客席の数は1800席。80席ほど少し減らして全部で見よくし、場内の柱を取り払って、舞台を見るのに邪魔になる欠点は全部取り除いている。1階2等席で見るときにはこの2本の柱が邪魔になったことを思い出す。ただ、それだけに2階席が頭上にせり出していて台詞が聞こえにくくなったと感じるのは、当方が聴力減退を来しているからだとあきらめよう。/なんにせよ、3階席のおでん定食とビールの小瓶1本を懐かしがっている古い客は、まもなく死に絶えるから、今ふうに改造するのが「老いては子に従え」という世代間のあきらめかな。/来月は、ぜったいに義太夫と長唄のある芝居を見るぞ。/「八十路の水門」の原稿添付ファイルでお届けします。
9月6日〈金〉封書受領 福岡市在住のHH氏より―― 八十路の原稿添え書き
前略/先日は久々電話して貴兄のお元気そうな様子なによりでした。みなと外誌最後の投稿からはや7年を過ぎ、まるで「光陰矢の如し」の感が強く、この間、何をしていたのか思い出せないくらいの時の過ぎ行く早さです。/われら全員80才を過ぎ80路(イソジ)の晩年に入りました。Sから80路に入る最後の思いを文集にしようと、電話が二度もあり、東京の皆さんもその気になっていると聞いて、貴兄に電話で様子を聞いて確かめた次第です。60才、70才の区切りでも記念文集を出しているのだから、80路は最後の文集となるから、それもいい事だと思い、何か書いてみたいと思った。/私の原稿ですが、以前のように、一人旅・海・島の子とでも書いていれば無難ですが、その様なものを書く気になれず、やはり80才の今の思いを書いた。できるだけ短くしたのですが、なにか雑然とした線香くさいことばかりになりました。/諸兄の皆さんが現在どのような思いで生きられているのか気になり、また楽しみにしております。何分宜しくお願いします。/H25.9.5/HH
9月8日(日)9:28 携帯メール受信 宝塚市在住KS氏より
sechin@nethome.ne.jp です。
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