瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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礼記〔小戴礼〕の孔子閒居〔孔子と子夏との問答。君主の徳について論じたもの〕第二十九に次の記述があります。

孔子閒居、子夏侍。子夏曰:「敢問《詩》云:『凱()弟君子、民之父母』、何如斯可謂民之父母矣?」孔子曰:「夫民之父母乎、必達於禮樂之原、以致五至、而行三無、以橫於天下。四方有敗、必先知之。此之謂民之父母矣。」

 子夏曰:「民之父母、既得而聞之矣;敢問何謂『五至』?」孔子曰:「志之所至、詩亦至焉。詩之所至、禮亦至焉。禮之所至、樂亦至焉。樂之所至、哀亦至焉。哀樂相生。是故、正明目而視之、不可得而見也;傾耳而聽之、不可得而聞也;志氣塞乎天地、此之謂五至。」

 孔子が家でゆっくり休んでいると、側に子夏が控えておって、問うた。

「お尋ねしたいのですが、――詩に『凱弟(がいてい)の君子は、民の父母なり〔かの心楽しく人に逆ら輪ざる君は、また良き民の父母、君主なり〕』とございますが、どのような徳を備えましたら民の父母といえましょう?

 すると、孔子は答えた。

「ああ、民の父母ということか。――必ず礼楽の根本を心得、それに基いて五至三無(ごしさんむ)を実行し、その効を広く天下に及ぼし、もしその治める世の片隅にでも手落ちがあれば、すぐ君主にわかる、というよであれば、こうした君主を民の父母と言うのである」

 そこで子夏が、

「民の父母ということは、これで知る事ができました。ではお尋ねいたしますが、五至とは何でございますか?」

 孔子が答えた。

〔わが志の至る所に詩も至り、礼も楽も、そして悲哀の情も至る、というのが五至である。

 

()弟君子、民之父母

 詩経 大雅 生民之什 泂酌篇

 泂酌彼行潦、 行潦(にわたずみ)(とお)く酌()
 挹彼注茲、
 
 抱()みとりてここに注がば
 可以餴饎。
  またもちて飯
(いい)を蒸してむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之父母。
  民びとの父母

 

 泂酌彼行潦、 行潦泂く酌み
 挹彼注茲、
  抱みとりてここに注がば
 
可以濯罍。  またもちて罍(もたい) (あら)わむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之攸歸。
  民びとの帰するところ

  洞酌彼行潦、 行潦泂く酌み
 挹彼注茲、
  抱みとりてここに注がば
 
可以濯漑  またもちて樽(たる)を濯わむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之攸
  民びとの息(いこ)うところ

 

※ 詩や礼楽にはそれぞれ教育上の目標があり、例えば詩は温柔敦厚の心を養い、礼は恭倹荘敬の態度を養うのですが、ここに至るというのはそうした目標を指しています。すなわち、わが志の至る所、わたしはこうしよう、これを成し遂げようと狙うことが、自然と詩や礼楽の教育の狙う所と一致し、かつ礼楽の教育中には悲哀の情操の指導も含まれているのですが、わたしの政治の文教政策中でも、人間のそうした情操の処理や指導が重視されているというのです。そこでこの、わが志の至る所、詩の至る所、礼、楽、哀の至る所を合わせて「五至」といったのであります。

凡棄妻。須有七出之状。一無子。二泆〔淫〕。三不事舅姑。四口舌。五盗竊。六妬忌。七悪疾。皆夫手書棄之。与尊属近親同署。若不解書。畫指為記。妻雖有棄状。有三不去。一経持舅姑之喪。二娶時賎後貴。三有所受無所帰。即犯義絶。泆〔淫〕。悪疾。不拘此令。  養老律令より

 

《意訳》妻を棄てるには、以下の7つの理由(「七出の状」)に該当する必要がある。

1. 子(男子)がない。

2. 泆〔淫〕〔いんしつ/いんしち〕(=淫乱)。

3. 舅姑(ここでは夫の父母)に仕えない。

4. 口舌(推問を被ったり罪に至る類の悪言)。

5. 盗竊〔とうせつ/とうせち〕(=窃盗)。

6. 妬忌〔とき〕(=嫉妬やいじめ)。

7. 悪疾(=ハンセン病)。

皆、夫が(棄妻文書を)手書して棄てること。尊属・近親が同じく連署すること。もし文字を解さない場合は、畫指〔かくし〕(=画指=自署の代用に人差し指の長さ・関節の位置を点で写し記す方法)によって証拠の印とすること。

妻を棄てる状況にあるといえども、棄てることのできない3つの理由(「三不去」)がある。

1. 妻が舅姑(ここでは夫の父母)の喪をつとめ終えた場合。

2. 結婚したときには賤しかったけれども、後に貴い身分となった場合。

3. 帰す実家がない場合。

しかしながら、義絶、淫乱を犯したり、悪疾である場合は、この令の三不去を適用しない。

 ※ 離婚の際には三行半とも称される離別状が書かれた。

今朝のウェブニュースより

海峡道路構想、復活の動き 「無駄」批判、08年に凍結 ―― 「無駄な公共事業」と批判を浴び事実上凍結されていた、全国6海峡をトンネルや橋で結ぶ構想「海峡横断プロジェクト」の復活をめざす動きが始まった。うち一つの「関門海峡道路」(北九州市―山口県下関市)では、福岡県が事業化に向けた調査を6年ぶりに再開する方針を固めたことが21日、関係者への取材でわかった。目的には「防災」などを掲げるが、識者からは必要性を疑問視する声もある。

 「夢みたいな計画」期待再燃:プロジェクトは1987年、第4次全国総合開発計画で原案が示され、国などが調査を進めてきた。しかし2008年、国会で批判されたことを受け、冬柴鉄三国土交通相(当時)が「個別プロジェクトに関する調査は今後行わない」と表明。国や関係自治体の多くが調査を打ち切った。その後、「コンクリートから人へ」を掲げる民主党政権下で、事実上の凍結状態が続いていた。/関門海峡道路は、関門トンネル、関門橋(いずれも北九州市門司区―下関市)に続く第3のルートとして北九州市小倉北区と下関市を結ぶ構想。橋かトンネルかなどは未定だが、総工費は400億~2千億円に上るとの見方もある。/この道路について、福岡県は、大規模災害時に現行の2ルートの代替機能を確保するなどとして、国に調査再開を求める方針を21日までに確認。今年度、道路が整備された場合の経済面や防災面の効果について、約100万円をかけて調べることを決めた。/山口県も今年度、この調査のため5年ぶりに予算を復活し、約200万円を計上。11月貮も調査をする業者が決まる予定だ。7月には安倍晋三首相の地元・下関市で、建設促進協議会が7年ぶりに開かれ、麻生太郎副総理の実弟の麻生泰(ゆたか)・麻生グループ代表が新会長に選出された。

 別ルートでは、和歌山、兵庫、大阪、奈良、徳島、愛媛、大分など10府県知事が今年9月下旬、「紀淡海峡道路」(和歌山市―兵庫県洲本市)や四国新幹線の実現を目指す協議会を設立。和歌山県の仁坂吉伸知事は9月の県議会の答弁で「政権交代し、国土強靱(きょうじん)化というチャンス。挑戦しよう」と述べた。

 「豊予海峡道路」(愛媛県・佐田岬半島―大分県・佐賀関半島)では、九州と四国選出の自民党国会議員が11月貮も計画を進めるための議員連盟を立ち上げる。衛藤征士郎・衆院議員(大分2区)は「防災・減災のため、なんとしても進めたい」と話す。

 「紀淡」「豊予」両ルートでは、地元自治体も建設促進団体への予算の支出を続けている。また、「島原天草長島連絡道路」(長崎県―熊本県―鹿児島県)では、3県が年間計900万円を出して調査を続けているほか、建設促進協議会を運営している。

 

  〈元経済産業省官僚の古賀茂明さんの話〉 人口が減っていく時代に、膨大な建設費用と維持費を後世に課すことになる大型公共事業を進める姿勢はおかしい。今やるべきことは、将来の負担を減らすため、必要な資産を見極め、必要性が低く維持費のかかる資産を減らしていくこと。右肩上がりだった時代に作られた構想を今進めるのは、時代の要請に逆行している。いったんできた国の事業は凍結されても、その時々のはやり言葉を添えられてよみがえる。そのことに国民は気づくべきだ。

 〈法政大法学部の五十嵐敬喜教授(公共事業論)の話〉 「防災」という名目ならば、道路でも何でも事業着手が許されるというのが、今の世の中の雰囲気だ。採算性や、事業費を負担する国、自治体の財政は大丈夫なのかという観点が、なおざりになっている。今後、事業の評価や情報公開、住民参加が担保されるよう、国会や地方議会がチェック機能を果たしていく必要がある。 〔朝日新聞デジタル201310220415分〕

 古代中国の少年少女教育は少年少女に対しての集中的な識字教育に始まり、倫理道徳、三綱五常、典章礼節、勤勉勤労、質素倹約知足(質素倹約して足を知る)を中心とした封建思想教育を施すと同時に詩文や一般知識などをも包括した一連の初等教育であったのですが、それは封建社会の安定的な統治を目的とする政治的な色彩の極めて強いものでした。階級に対する意識は極めて強烈で、過度な忠孝や男尊女卑を生み、更には厳格な長幼之序や門閥による貴賤の違いや区別を厳しく強いられることになりました。

 

 女温柔典雅、四徳三従、孝順父母、惟令是行  閨訓千字文より

 女子は温和で柔順、その立ち居振る舞いは端正優雅でなければならない。女子は四徳三従を心に銘記して常に遵守しなければならない。女子は父母に考を尽くし、その命には唯々諾々として従わなければならない。

 

※四徳:女子は婦徳(節義を守り品徳を保つこと)、婦言(言葉遣いに気を配り、言い訳や悪口を言わない)、婦容(身を清潔にして常に容姿や挙止を端正に保つこと)、婦功(裁縫、料理、接客などの家事を司り、音楽、礼儀などの女性の美徳にも精通すること)の四つの徳を指す。

※三従:嫁ぐ前には父兄に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死して後は子に従うこと。〔出典は礼記(らいき)郊特牲(こうとくせい)第一一〕

 

【婦人三従の道】

婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行ふべからず。

父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。身を終はるまで、わがままに事を行ふべからず。必ず人に従ひてなすべし。

【婦人七去の法】

婦人に七去とて、悪しき事七あり。女子に教え聞かすべし。一には父母に従はざるは去る。二に子なければ去る。三に淫なれば去る。四に妬めば去る。五に悪しき病あれば去る。六に多言なればさる。七に盗みすればさる。此の七の内、子なきは生まれ付きなり。悪しき病はやまひなり。此の二は天命にて、力に及ばざる事なれば、婦のとがにあらず。  〔いずれも、貝原益軒の『和俗童子訓』巻5【女子を教ゆる法】より〕

 

※『和俗童子訓』は、寺子屋の教科書として重用されましたが、特に巻5【女子を教ゆる法】は、後に編集され、「女大学」として、戦前まで女子教育の規範とされました。 

 

マヌの法典第5章の婦人の義務のところには「幼いときは父の、若いときは夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべし。女は独立を享受してはならない。」(妻の貞節・5148))とある。

 

※マヌの法典は紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典(ダルマ・シャーストラ)。世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の四種姓(カースト制度)の維持に貢献したとされます。

 

 孔子は春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年~紀元前479年)は魯国に生まれたとあるから、間違いなくマヌの法典の方が早いようです。とすれば正確にはマヌの法典が古代中国にとりこまれ風習となり儒教に取り入れられたのかもしれません。

 昨日は、T:家の法要で、雨の中を家内と連れ立って大井町の光福寺まで出かけました。家内の叔母の納骨と、その連れ合いの17回忌の法要であった。叔母上は献体していた遺体が大学から戻ってきたというので、納骨がおくれてしまったということでした。大井山光福寺は由緒ある寺で、江戸名所図会にも載せられているさいいます。

 

浄土真宗 系単立の光福寺は、大井山と号し、延暦 元年(78211月、顕教房栄順律師が天台宗 神宮寺として開創したと伝えられています。1200年以降に関東六老僧の一人了海上人が父の俗名光福の名をとり、浄土真宗光福寺として再興し、現在に至っているとのことです。

 挿絵(江戸名所図会 )には寺の全景のほかに「大井」という井戸が描かれています。これは本堂裏の墓域のなかに「大井」と刻銘された横穴式の井戸があり、かたわらの石碑には「開基了海上人産湯井(かいきりょうかいしょうにんうぶゆのい)」と書かれています。昔、この寺に身を寄せていた了海上人の父が子授けを祈願したところ男の子を授かりました。そのとき寺の境内から忽然と泉が湧き出したので、この水で産湯をつかわせたと伝えています。

 また、光福寺の境内は大井の台地を背にして位置し、本堂の前に実に堂々とした銀杏の巨木が立っています。その太さは品川区内最大なのですが、高さも都内の立木としては最大級の40mもあり(むろん銀杏の中ではずば抜けた高さでしょう)江戸時代には海を行き来する船の目印にもなっていたそうです。樹齢は約800年と推定されていますが樹勢は旺盛で、多数の乳根を垂らした樹観から麻布善福寺の銀杏の兄弟木ともいわれています。

孔子(こうし)曰(いわ)く、君子(くんし)に三畏(さんい)あり。天命(てんめい)を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏(おそ)れ、聖人(せいじん)の言(げん)を畏(おそ)る。小人(しょうじん)は天命(てんめい)を知(し)らずして畏(おそ)れざるなり。大人(たいじん)に狎(な)れ、聖人(せいじん)の言(げん)を侮(あなど)る。 論語 季子第三六 より

 

 孔先生のお言葉。「君子に畏敬することが三つある。天命を畏敬し、〔天命を受けて天下国家を治める〕大人(たいじん)を畏敬し、〔伝承された〕聖人のお言葉を畏敬する。〔これに反して〕小人は天命などには無頓着で平気であり、大人の権威を小馬鹿にし、聖人の言葉を侮るのである」

 

※天命とは

「論語」に天命として出てくるのは、「為政第二」の『子(し)曰(いわ)く、吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学(がく)に志(こころざ)す。三十(さんじゅう)にして立(た)つ。四十(しじゅう)にして惑(まど)わず。五十(ごじゅう)にして天命(てんめい)を知(し)る。六十(ろくじゅう)にして耳(みみ)順(したが)う。七十(しちじゅう)にして心(こころ)の欲(ほっ)する所(ところ)に従(したが)いて、矩(のり)を踰(こ)えず。〔先師が言われた。「私は、十五の年に聖賢の学に志し、三十になって一つの信念を以って世に立った。しかし、世の中は意のままに動かず、迷いに迷ったが、四十になって物の道理が分かるにつれ迷わなくなった。五十になるに及び、自分が天の働きのよって生まれ、又何者にもかえられない尊い使命を授(さず)けられていることを悟った。六十になって、人の言葉や天の声が素直に聞けるようになった。そうして七十を過ぎる頃から自分の思いのままに行動しても、決して道理を踏み外すことがなくなった〕→「志学」「而立」「不惑」「知命」「耳順」「従心」」として知られています。』と、上の「季子第三六」の『三畏』の部分だけであります。

 また、孟子には天命について、万章上に、次のように述べています。

之を為すこと莫(な)くして為る者は、天なり。之を致すこと莫(な)くして至る者は、命なり。

 こうしようと思わないのに、そうなっていくのは、天の働きである。招き寄せようと思わないのに、やってくるのは、命の働きである。つまり、「天命」は、人知人為を超えた存在の作用であり、絶対的な存在とも言えるし、俗に運命と言う事もできるのです。

永に某氏(ぼうし)なる者有り。日を畏(おそ)れ忌(き)に拘(かかは)ること異(こと)に甚し。

以為(おも)へらく己(おのれ)の生歳子(ね)に直(あた)る。鼠は子の神なり。因りて鼠を愛し猫を畜(か)はず、又僮(どう)に禁じて鼠を撃つこと勿(な)からしむ。倉廩庖廚(きんりんはうちゆう)、悉(ことごと)く鼠を恣(ほし)いままにするを以て問はず。是(これ)に由(よ)りて鼠相ひ告げて皆某氏に来(きた)る。飽食して禍無し。某氏の室に完器無く、椸(い)に完衣無し。飲食は大率(たいそつ)鼠の余(あまり)なり。昼は累累(るいるい)と人と兼行し、夜は則ち窃囓闘暴(せつげつとうぼう)す。其の声万状にして、以て寝(い)ぬるべからざらるも。終(つひ)に厭はず。

数歳にして某氏徒(うつ)りて他州に居る。後人来り居るに、鼠の態たるや故(もと)のごとし。其の人曰はく、「是れ陰類の悪物なり。盜暴尤(もつと)も甚し。且(か)つ何を以て是に至るや。」と。五六猫を仮(か)り、門を闔(と)ぢ瓦を撤し穴に灌(そそ)ぎ、僮を購(あがな)ひて之を羅捕す。鼠を殺すこと丘のごとし。之を隱処に棄(す)つるに、臰(くさ)きこと数月にして乃(すなは)ち已(や)む。嗚呼(ああ)、彼其の飽食して禍無きを以て恒(つね)にすべしと為(な)したるか。

 

 永州(湖南省零陵)に某氏がいた。彼は日々の吉凶を気にかけ、物忌みに拘ること異常なものがあった。己の生まれ年は子であり、鼠は子の神であると思っていた。それ故、鼠を可愛がって猫を飼わず、その上、下男が鼠を打ち殺すことを禁止した。倉庫や台所は、全く鼠の好き勝手のままにまかせた。そのため、鼠は互いに語らって某氏の家に移り住み、しこたま腹に詰め込んだが、何の咎めもない。某氏の部屋には完全な器具は無く、衣桁(いこう)にかかる着物は、いずれもまともでないものばかり。飲食物のほとんどは、鼠の食べ残しである。昼は人間とともにぞろぞろと歩き、夜は盗みを働き、物を齧(かじ)り、狼藉の限りを尽くす。その音はたとえようがなく、とても寝られたものではないが、某氏は終始懲りたそぶりを見せなかった。

数年して某氏は他の州に転居した。その後別の人が引っ越してきたが、鼠の態度は従来通りであった。そのひとは、

「こいつは暗闇に棲む悪い奴で、盗みや乱暴の程度は相当なものだが、一帯どうして、これほどまでになったのであろうか」

と言い、猫を五、六匹借り、門を閉め切り、屋根瓦を外して、穴に水を注ぎ、下男を雇って、すっかり絡め捕った。小山のようになった鼠の死骸を、物影に捨てたところ、死臭は数ヶ月も消えなかった。

 ああ! 鼠どもは、しこたま腹に詰め込んでも、なんの咎めもないことが、当たり前だとおもいこんでいたのであろうか。  〔以上、訳は平凡社「中国古典文学大系23」に拠る〕

 

作者はこの寓話で、人民の塗炭の苦しみを顧みず、飽食し好き放題の封建支配階級の醜悪な行状を鼠を借りて風刺し、やがては滅亡する驕者久しからずの理を説いているのでしょうね。

黔(けん)に驢(ろ)無(な)し。事(こと)を好(この)む者(もの)有(あ)り。船載(せんさい)して以(もっ)て入(い)り至(いた)れば則(すなわ)ち用(もち)う可(べ)き無(な)し。之(これ)を山下(さんか)に放(はな)つ。虎(とら)之(これ)を見(み)るに尨然(ぼうぜん)として大物(だいぶつ)なり。以(もっ)て神(しん)と為(な)す。林間(りんかん)に蔽(かく)れて之(これ)を窺(うかが)う。稍(やや)出(い)でて之(これ)に近(ちか)づくに、憖憖然(ぎんぎんぜん)として相(あい)知(し)る莫(な)し。

他日(たじつ)驢(ろ)一(ひと)たび鳴(な)く。虎(とら)大(おお)いに駭(おどろ)きて遠(とお)く遁(のが)れて、以為(おも)えらく且(まさ)に已(おのれ)を噬(か)まんとす。甚(はなは)だ恐(おそ)る。然(しか)れども往来(おうらい)して之(これ)を視(み)るに異能(いのう)無(な)き者(もの)に覚(おぼ)ゆ。益(ますます)其(そ)の声(こえ)に習(な)れ、又(また)近(ちか)づきて前後(ぜんご)に出(い)ずれども、終(つい)に敢(あ)えて搏(う)たず。稍(やや)近(ちか)づきて益(ますます)狎(な)れて蕩倚(とうい)衝冒(しょうぼう)す。驢(ろ)、怒(いか)りに勝(た)えずして之(これ)を蹄(け)る。虎(とら)因(よ)りて喜(よろこ)びて之(これ)を計(はか)りて曰(いわ)く、技(ぎ)此(これ)に止(とど)まるのみ、と。因(よ)りて跳踉(ちょうりょう)大闞(たいかん)して其(そ)の喉(のど)を断(た)ち、其(そ)の肉(にく)を尽(つ)くして乃(すなわ)ち去(さ)る。

 

黔中(けんちゅう)の驢馬(ろば)

 黔中(道名。四川省彭水県が中心)には驢馬はいなかった。物好きな人が船に載せて移入した。しかし連れてきたものの使い道がなかった。山の麓で放し飼いにしておいた。虎が驢馬を見つけたが、ムクムクとしたでっかい奴なので、てっきり霊獣だろうと思った。暫くは林の中から様子を窺い、そろそろ出て近付いた所、慎ましやかに装うだけで、知らん顔をしている。

或日、驢馬が一声嘶(いなな)いたところ、虎は大いに驚き、遠くまで逃げ去った。虎は今にも自分が噛み付かれると重い、非常に恐れたのである。しかし、行き来して観察するうちに、さして異常な能力を具えたものとも思われず、その泣き声にもいよいよ馴れてきた。そこでさらに、その前後まで近付いたものの、突っかかってゆくことは、けっきょくできなかった。しかし、だんだん近付くにつれ、益々馴れてきて、乱暴に身を寄せ掛けたり、ぶつかったりするようになった。驢馬は我慢しきれず腹を立てて、虎を蹴(け)りつけた。虎はこれを喜び、「奴の技能はこれだけしかないんだな」と判断した。そこで飛び掛って思い切り噛み付き、喉を食いちぎって、肉をすっかり平らげ、立ち去った。

ああ! 姿かたちのムクムクと大きいことは、いかにも有徳者のようであり、声がデッカイのは、いかにも有能者のようであった。そうしてあの時までは己の技能を示すことをしなかった。(以前のままならば、)虎は猛々しい獣ではあるが、遅疑逡巡(ちぎしゅんじゅん)して、とても襲い掛かれなかったであろうに。それが、いまやこのような状態になってしまった。悲しいことではある。

 以上、訳は平凡社「中国古典文学大系23」に拠る

 昨夜は一晩中雨。徘徊できず、6時半まで寝床にいた。風雨が強くなり始めた。今朝のウェブニュースより。

 
 「10年に一度」首都圏緊迫 気象庁「十分警戒を」 ―― 〔10年に一度〕の強い勢力とされる台風26号が16日朝、首都圏に近づく。関東に上陸すれば2005年8月依頼、8年ぶり。最接近は通勤・通学時間帯と重なる見通しで、関東各地では多くの学校が休校を決めた。/ 観光名所の東京・浅草寺では15日羐、本堂と宝蔵門にかかる二つの大提灯(ちょうちん)をたたんだ。重さはそれぞれ約600キロと約400キロ。担当者は「多くの参拝客に見てもらいたいが、安全第一です」と話した。元に戻すのは早くても16日夕になる見通しだ。/同程度の強さで関東に台風が近づくのは、0410月の22号以来。この時は伊豆半島に上陸し、死者7人、行方不明2人、住宅の全半壊約440棟の大きな被害が出た。上陸直前の中心気圧は950ヘクトパスカル、最大風速は40メートルだった。/26号が強い勢力を保っているのは、南海上の海面水温が2627度と高めで、上昇する水蒸気がエネルギーを送り込むからだ。そのまま偏西風に乗って加速するため、衰える前に列島に迫る。/仮に上陸すれば、統計史上、関東では最も遅い上陸となり、全国でも8番目の遅さになる。平年ならこの時期はもっと東寄りの進路をとることが多い。気象庁によると、今年は太平洋高気圧の勢力が強いため、西寄りの進路となったとみられるという。/東京都教育委員会によると、16日は都内の幼稚園、小中高校など全公立2399校のうち、計818校が休校、709校が始業時間を繰り下げる。都が運営する上野動物園や多摩動物公園なども閉園する。/企業も対応に追われた。三菱電機は、静岡製作所(静岡市)で15日夜から16日朝に掛けての残業や夜勤を中止。シチズンホールディングスは、関東にある三つの事業所の計1300人について、16日の始業時間を午前9時から午後0時45分以降に遅らせる。/IHIは、関東にある本社や工場を16日は休業することを決定。三菱ふそうトラック・バスは、トラックなどを製造している川崎製作所(川崎市)の16日午前中の操業をやめる。日産自動車は、横浜市の本社に勤務する約2千人の社員について、16日午前は自宅待機とすることを決めた。追浜工場(横須賀市)と横浜工場(横浜市)については、16日早朝の操業をとりやめるという。/「セブン-イレブン」は16日の配送トラックの台数を増やし、各店舗に弁当やおにぎりを確実に届けられるようにする。   〔朝日新聞デジタル 201310152133分〕

三つの戒め   柳 宗元

 私はかねがね世間の人が、自己本来のものを追求せず、現象を利用して勝手気ままにふるまうことをにくんでいた。彼らは権勢に寄り掛かって、セクト以外の者を圧迫したり、すきを見つけては暴力の限りをつくしたりする。しかし、最後には禍(わざわい)にあって身を滅ぼすのである。ある客人が私に、麇(なれしか)・驢馬(ろば)・鼠(ねずみ)の三動物についてはなしてくれたが、これらの動物の行動は世間の人のそれによく似ている。ここに三つの戒めを作る次第である。

 

臨江(りんこう)の麇(なれしか)

 臨江(江西省清江)の人が、狩をして麇(なれしか)の子を捕縛した。その人、これをいとおしみつつ家の門に入ると、犬共が涎(よだれ)を垂らし、尻尾を振りながら寄って来た。その人は怒って、犬どもを脅した。それ以来、毎日のように麇(なれしか)の子を抱いては、犬に慣れさせ、麇(なれしか)の子を見ても、手出しをせぬように躾け、次第に遊び戯れるように導いた。時日が経過し、犬どもは主人の意の如くになった。麇(なれしか)の子も大きくなるにつれ、自分が麇(なれしか)であることを忘れ、犬こそ誠にわが友であると思い込み、身体をぶつけたり、転げ回ったりして、ますます馴れ親しんだ。犬は主人を恐れ、麇(なれしか)と大変上手に調子を合わせていた。しかし、時には舌なめずりをすることもあった。三年経ち、麇(なれしか)が門を出たところ、道路によその犬が大勢いたので、走りよっていっしょに遊びたわむれようとした。よその犬は麇(なれしか)を見て喜ぶとともに腹も立て、みなで殺して食べてしまい、道路にさんざん散らかした。麇(なれしか)は死ぬ時まで、自分が何故そのような目にあうのか、理解することができなかった。    〔以上、平凡社「中国古典文学大系23」より転写〕

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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