瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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   昨日、横浜のIN氏よりメールが入った。曰く、

2月4日1421分着信 誕生日おめでとう。 日高節夫様/誕生日おめでとう。/きょうは君の82回目の誕生日、元気で誕生日を迎えられて心からお祝い申し上げます。/新しいパソコンは調子はいかが?/私のパソコンは、Vista からの引っ越しがなかなかうまくいかない。要は慣れが問題。/ほんとうにパソコンというやつはややっこしいいね。あれこれ、市販の雑誌を買ってきては弄り回している。/しかし、インターネットだけは自由に見られるように元に戻ったから、当面の目的は達成できている。/どうぞ今年も元気でいてください。

 

 3日のブログについたkanami 女史のコメントをみて、ラスト アライアンスの「プロメテウス」という曲をインターネットで探し出し、聞いてみたが爺には歌詞も良く聞こえないし、演奏もただの喧騒にしか聞こえず、この曲のどこが良いのか理解できなかった。

http://www.youtube.com/watch?v=UyeYMzRVuuI

 

午後3時近くにkanami 女史 より電話があり、「生ものだけれど、先生にプレゼントしたいものがあるのでお伺します」ということで、昨日に続いて女史の訪問を受けた。「オバから聞いて、私と同じ名前のイチゴを手に入れたので、先生にも召し上がって頂きたくて持参しました。」ということで、「かなみひめ」というイチゴを戴いた。昨日と同じようにまたまた6時近くまで、話し込んでしまった。

 

  パソコンのワードとメモ帳の違いの話が出て、爺が小学生のときに習った「修行者と羅刹」の文章をインターネットより取り出し、これを女史のパソコンに送り、メールの文章をメモ帳にコピーする方法などを説明しておいた。

今朝のパソコンを開くと女史からメールが入っていた。曰く、

先生、無事に届いています。/さっそくメモ帳にうつしたいと思います。/ありがとうございます。 K

 

何かの弾みで携帯を開くとメールが入っていた。1138分に着信したもので、塾生のYM女史からであった。誕生日ケーキの図からの中に、曰く、

「日高先生、お誕生日/おめでとうございます。/楽しい一年になりますように。」とあった。

 昨日は節分、今日は立春で爺の誕生日。

 昨日藤沢市に住むyanto氏から携帯にメールが入った。曰く

2月3日1214発信 誕生日おめでとう 今日は節分ですがとても暖かい。確か君の誕生日ですね。おめでとうございます。/パソコンも新調されブログも再びスタートし好調のようで何よりです。また帯状疱疹も治癒された由良かったですね。/朝の徘徊で隅田公園の各種の梅の花が咲き始めたとありました。我が家の庭の小さな紅梅も今満開です。/明日から又寒さが厳しくなるとか、ご自愛ください。/蛇足ですが今謡曲は隅田川を習っています。

 早速返事を送った。曰く

早々の誕生日祝いのコメントありがとう。実は1932年の節分は2月4日でした。/今朝も4時に起き出して白鬚橋~駒形橋の間を一巡して来ました。家につくころやっと明るくなります。/山谷堀水門広場で撮った携帯の写真を添付します。今朝は薄い霧が立ちこめていますが、この柳もまもなく青々し色づくことでしょう。君のメールを明日のブログに転写させいただきます。あしからず。 セッチン

 

 

節分の豆まきをして、立春を迎えて、少し暖かくなったように感じます。

 

   府西池        白居易

柳無気力枝先動   柳 気力無くして 枝先ず動き

池有波紋氷尽開   池 波紋有りて 氷尽(ことごと)く開く

今日不知誰計会   今日知らず 誰か計会するを

春風春水一時来   春風春水 一時に来る

 

柳は力無さそうにして 枝の先が風に揺れ

池には波紋が広がって 氷が皆とけてゆく

今日のこの様子は誰が一体計算したのか

春の風と春の水が一度にやって来るなんて

 

※「府西池」の「府」とは白居易の任地河南府。白居易が河南尹(河南府の長官)に叙せられたのは太和四(830)年、五十九歳のこと。以後太和七年四月までを同地に過ごした。『和漢朗詠集』巻上「立春」の部に引用されています。

 

 昨日の午後2時 ksnsmi 女史が「1日早いですが、誕生日祝いです」とチョコレート持参でお祝いに来てくれた。女房も含め6時近くまで話し込んでしまった。


再和楊公濟梅花十絶  蘇軾

  湖面初驚片片飛  湖面初めて驚く片片と飛ぶを

  樽前吹折最繁枝  樽前に吹折す最も繁き枝を

  何人會得春風意  何人か會し得たる春風の意を

  怕見梅黃雨細時  怕れ見る梅は黃に雨は細やかなる時を

 

再び楊公濟の梅花に和す十絶  蘇軾

気が付けば湖面には花びらが散り飛んでいる、

酒樽を前にして葉っぱの良く茂った枝を折ろう、

誰が春風の気持ちを察してやれるだろう、

梅が黄ばみ雨が降り込めるのを見るのはいやなものだと

 

元祐六年(1091)、杭州在任中の作。楊公濟はこの時杭州通判(副知事)、詩を良くした人で、蘇軾は彼の書いた梅花の詩に和して十首の絶句を作ったといいます。

 

梅花      王安石

牆角數枝梅、  牆角(しゃうかく)數枝の梅、

凌寒獨自開。  寒を凌(しの)ぎて  獨(ひと)り自(みづから 開く。

遙知不是雪、  遙かに知る  是(これ) 雪ならず、

爲有暗香來。  暗香(あんかう)の來きたる 有るが 爲(ため)なり。

 

   梅花    王安石

垣根のかどの数本の梅の枝。

寒さをものともせずに、ひとり花を咲かせている。

遠くからでも、それが雪ではないとわかるのは、

漂って来るほのかな香りがあるからだ。


 月日の経つのは早いもので今日はマイチの3回忌です。未だに彼が鬼籍にあるとは思えません。明日にでも我が家を訪ねてくれるような気がしています。

 早朝の冷え込みもいくらか和らぎ始めたので、目覚めた時の様子で、早朝徘徊に出かけてみることにしています。まあ、ゆっくり歩いて2時間ばかりの散策で、朝のひんやりした空気が1日を引き締めてくれるように思えます。

 隅田公園の我が家から、石浜通りを渡ったところに小さな梅園がありますが、徘徊の終りに此処を通ると、甘酸っぱい梅の香りがふわっと漂ってきます。紅梅、白梅、一重、八重、さまざまな種類の梅が、まだ冷たい風の中、がんばって可憐な花を咲かせているのを見ると、ついアップで写真を撮りたくなります。

 

  梅花      高啓

瓊姿只合在瑤臺  瓊姿(けいし)只合(まさ)に瑤臺(ようだい)にあるべきに

誰向江南處處栽  誰ぞ江南に向いて処処に栽(う)うる

雪満山中高士臥  雪満ちて山中高士臥(が)し

月明林下美人来  月明らかにして林下(りんか)美人来たる

寒依疎影蕭蕭竹  寒は依る疎影(そえい)蕭々たるの竹

春掩残香漠漠苔  春は掩(おお)う残香漠々たるの苔

自去何郎無好詠  何郎去りて自(よ)り好詠無し

東風愁寂幾回開  東風愁寂(しゅうせき)幾回か開く

 

玉のような美しい姿をした梅花は月の仙宮にあるべきなのに、誰がこの梅の木を江南の処処に栽えたのだろう。

  梅花が咲くと雪が山を真っ白にしたように見え、袁安の故事から高士が梅花の雪中に臥しているように思われる。

  月明らかな時には趙師雄が樹下に芳香の美人と共に酒を酌み,醒めれば梅花の大樹下に横たわっていたという故事を思って梅花を見る。

  寒中に竹は蕭蕭として梅枝の疎影により添い、春 吊残の香が一面の苔を被っている。

  梅花を賞賛した何孫が去って以来、梅に就いての好い歌は生まれない。

  ただ東風は年ごとに愁いを帯びて吹くばかり、梅の花は何回咲き、また散ったであろう。

 

※高啓(こう けい、13361374年):中国・明代初期の詩人。字は季廸(きてき)、号は青邱(せいきゅう)。江蘇省蘇州の出身。明の詩人では最も才能に恵まれ、この世のあらゆる対象を約2000首の詩に表した。詩の意味は平明、表現は淡泊であるが、夭折のため独自の風格を示していない。日本では江戸時代と明治時代を通じて愛唱された。著に『高太史大全集』18巻、『高太史鳧藻(ふそう)集』5巻、『扣舷集(こうげんしゅう)』1巻がある。「青丘子歌」には自己の文学論が述べられており、森鴎外に文語調の訳詩がある。

※何郎: 何遜(かそん、518没)のこと 南朝梁の鄙(たん)の人で梅を好んだ 「郎」は男子 青年  わかもの


 ここのところ、早朝の徘徊は冷え込みがひどいので、朝食後にしています。

 早や今年も2月。11月頃から、隅田川の遊歩道を彩る草木が少ない中、山茶花(さざんか)の艶やかな花が眼を楽しませてくれていましたが、これも終わりに近づいたと見えて花の数もめっきり減ってきたようです。山茶花は、花の無い時期に咲く貴重なツバキ科ツバキ属の耐寒性常緑高木です。 花の色には桃色、赤、白等がありますが、同属同科の椿 (ツバキ)と似ており、見分け方が難しいようです。 山茶花は、葉の縁がギザギザしており、花弁がバラバラに散るので、地面に落ちた花びらで確認するのも一つの方法です。山茶花も、椿と同様に、実がなり、油も採取されます。

 

天保期の俳人成田蒼虬(なりたそうきゅう)の句に、「山茶花を椿ときくも草枕」というのがあります。

冬の旅にでかけた蒼虬宗匠は、とある町を散策していたところ、真っ赤な花を咲かせる垣根の横にさしかかります。通りすがりの人の声が聞こえてきました。「きれいな椿が咲いている。寒椿だな」宗匠が見ると葉は縁がぎざぎざとして、落ちた花びらはバラバラと散っています。「これは椿じゃありませんよ。さざんかですよ」と教えてやりたいのだが、(まぁ、せっかく風情を感じておられるのに、口出しすることもなかろう。これも旅の思い出、黙ってることにするか…) とはいえ、どこか気になって仕様がない。……というような場面が想像できます。

※成田蒼虬〔1761(宝暦11)~1842(天保13)年〕:江戸後期の俳人。通称は彦助。本名は久左衛門利定。加賀藩士で、金沢の人。弓馬術の達人であったといいます。1790(寛政2)に京都の高桑闌更(らんこう、172698年)に師事し,洛東山双林寺中に住みました。師の没後遺志に従い,芭蕉堂2世を継ぎました。のち南無庵と称し,桜井梅室(17691852年)とともに京俳壇を二分する地位につき,田川鳳朗(ほうろう、17621845年)を加えて天保の三大家と言われました。

  台東区立台東病院は旧東京都立吉原病院で、191121日、娼妓の治療をなすため、警視庁が吉原遊廓ほか5カ所に警視庁病院を設けたのが始まりです。これは明治43年勅令第310号「風俗上取締を要する稼業を為す者及行政執行法第3条の患者の治療施設に関する件」に根拠を有するもので、警視庁は「警視庁病院設置の件」を公布しました。1942年に東京府に経営移管され、1980年に台東病院と台東産院が合併、のちにスポーツ整形外科を新設したそうです。1996年に休止しましたが、二次医療圏における病床数が過剰であるため増床は見込めず、「旧都立台東病院あり方検討委員会」では、東京都保健医療公社による運営を考えるべきだとの答申が出されましたが、8年後の20043月に廃止となりました。跡地は台東区が取得し、2009年に東京都台東区立台東病院が建設されたのです。台東区は指定管理者制度を導入し、経営・運営を100%地域医療振興協会にゆだねているということです。

 

皆さんご存知の通り、吉原(よしわら)は、江戸時代に江戸郊外に作られた、公許の遊女屋が集まる遊廓(吉原遊廓)、およびその地域の名であります。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にあたります。

江戸幕府開設間もない1617年、日本橋葺屋町(現在の日本橋人形町)に遊廓が許可され、幕府公認の吉原遊廓が誕生しました。「吉原」の語源は遊廓の開拓者・庄司甚内の出身地が東海道の宿場・吉原宿出身であったためという説と、葦の生い茂る低湿地を開拓して築かれたためという説があります(葦=悪しに通じるのを忌んで、吉と付けたといいます)。いずれにせよ、徳川家康の隠居地である駿府城城下に大御所家康公認の公娼があり、そこに七カ丁もの広大な面積を誇る遊郭があったのですが、吉原はその内五か丁を大御所家康亡き後に駿府から移したのが始まりであるといいます。庄司甚内へ5か条の許可の条件が示されましたが、徳川幕府は遊興にふけり犯罪を犯す者、浪人悪党の逮捕を考慮したものといわれています。

※庄司甚内(15751644年):江戸前期の町人で、通称は甚右衛門で、初め甚内といったそうです。もと小田原北条家の家臣で、主家没落後江戸に出て道三河岸で妓楼を営んだといいますが、出自には異説もあります。元和3(1617)年吉原開設とともに惣名主となり、江戸町1丁目で妓楼西田屋を営み,「おやじ」と呼ばれたそうです。子孫は代々名主職を継ぎ、同地で妓楼を経営しました。

明暦の大火(1657年)で日本橋の吉原遊廓も焼失。幕府開設の頃とは比較にならないほど周囲の市街化が進んでいたことから、浅草田圃に移転を命じられた。以前の日本橋の方を元吉原、浅草の方は正式には新吉原(略して吉原)と呼ぶ。

 

周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には縮小され幅2間(約3.6m)、明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていました。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があったそうです。

 大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともあります。一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったといいます。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなりました。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもありませんが、文化の発信地という側面も持っていたのです。

遊客には武士や町人らがいましたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあったといいます。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とあります(傾城とは国を傾けるような美女のことで、ここでは遊女を指します)。武士は編み笠をかぶり顔を隠していたといいます。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていきました。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊國屋文左衛門や、十八大通(じゅうはちだいつう、江戸時代の代表的な通人と呼ばれた人々のこと)と呼ばれた札差(金貸し)たちの豪遊が知られ、語り草にもなっています。

 今日は台東病院のヘルペス(帯状疱疹)の検診日。朝一で、診察を受けました。

 

 通院は今日で終了とのことで、2週間分の飲み薬を貰って帰宅しました。塗り薬は以後使用しなくても自然に治るとのことでした。

 

 最近のウェブニュースより転写します。

細川陣営 都知事選の大逆転に向けた秘策は「東京電力解体」――  29日の東京都知事選投開票に向けて首都決戦が盛り上がっている。知事選の選挙期間は17日間と長い。細川護熙元首相を担ぐ小泉純一郎元首相の狙いは無党派層を大きく動かすことに向けられており、23日からの選挙最終週に、大逆転に向けた秘策を繰り出す戦略を練っている。そのひとつが、「原発即時ゼロ」に対する「抵抗勢力」東京電力の解体である。/「千葉にメガソーラー発電所、東京臨海部に画期的に低コストのガス火力発電所建設を打ち出す。もともと東京都には自前の発電所建設構想があったが、日本のメーカーは東電の支配下にあるから、高い見積もりになっている。/そこで、海外メーカーからの機材調達でコストを大幅に引き下げ、東電支配を打破すれば、原発ゼロでも電力コストを下げることができることを、具体的な数字を交えて示す。そのうえで都民に高い電気代を払わせている元凶の東電は分割・解体すべきだと掲げる」(細川選対関係者)

 細川陣営は、告示前後から、すでにブレーンを欧米に派遣し、海外メーカーとの交渉に当たらせている。/ 東電=原子力ムラに「抵抗勢力」とレッテル張りをするのは、小泉氏が郵政民営化で反対派を抵抗勢力と呼んだのと同じ手法だ。/細川氏の対抗馬の舛添要一元厚労相は、東京電力労組出身の大野博・連合東京会長と政策協定を交わし、電力総連などの支援を受けて戦っている。細川氏の東電解体論は、舛添氏への強烈なカウンターパンチになる。 〔※週刊ポスト201427日号 2014.01.28 07:00

 

 昨日メールを開いてみると横浜のIN氏よりメールが入っていました。曰く、

日高節夫様/ご無沙汰しております。毎日寒いね。寒さに負けないで、毎朝、元気に散歩をしているのかい。君の根気強さは、老いてなお少しも衰えることがないね。/継続は力なりだね。/さて、一方私は、三日坊主の典型で、なにごとも長続きしない。/最近は、なにかを思いついても、もう一人の私が「また、思いつきで始めても、三日坊主で長続きしやしないから、止めといたら?」と己の心が囁いて、自分で動こうとしなくなるのがおかしいね。外資系の生命保険のテレビCMに白鳥と黒鳥が出てきて、保険にはいるか、はいらないかを主張するのを見ると、私のやる気を笑われているように思えるよ。/新しいパソコンの飼いならしもそんなふうですよ。/古いパソコンの方が、手に慣れていて使いやすいけど、新しいのに慣れなきゃしようがないよね。/そんな毎日です。歌舞伎座もこう寒くっちゃ、行く気がしない。/どうぞ、君は風邪を引かないように、朝の散歩もほどほどにしてくださいね。/最近、ご無沙汰しておりますので、ちょっとだけお詫びのメールで、ご機嫌伺いまで…。 (12716:54

 

 メールを読んでいるところで、IN氏から電話が入りました。私が新設したPCでもたつき返事を出せなかったので心配しての電話でした。

 今日、病院から帰宅してPCを立ち上げたところ、IN氏からメールが入っていました。曰く、

 元気な声を聞かせてくれてありがとう:日高節夫様/元気な声を聞かせてくれてありがとう。やはり信用できる友達と話すのがいちばん安心する。/臣さんは、旧正月で大連に帰っているのかもしれないね。/昨日のBSフジの番組で久々に、いまは川崎市立の研究所にいる君の兼愛塾のお医者さんを見た。/君のヘルペスも快方に向かっている由で本当によかったね。あれは話に聞くと、相当に痛いらしいから心配していたよ。/それに比べると、わたしの食欲不振なんかは阿呆みたいな病気だが、とにかく医者に行かないと家内がうるさい。/まあ、いまの朝ドラの主人公のお舅さんみたいに、うまいものを食って、寝てる間にこと切れるというような死に方はなかなかできないものだね。/まあ元気に生きられるだけ生きようぜ。 129日 1538
 昨年の秋頃から使用していたパソコンの調子が思わしくなくなり、立ち上げも時間がかかるようになっていました。それに、201449日よりWindows XPのサポートがなくなるということです。また、4月からは消費税がUPされるというので、パソコンの入れ換えを検討していました。

 出来れば今までのWindows XPと操作が大きく変わらないものがほしいので、知り合い数人に問い合わせたところ、どうやらが操作上Windows XPとあまり違わないということらしい。

 例によって私のパソコンの先生MN氏に相談して、手頃なものを見繕って購入してもらうことにした。忙しい仕事の合間をぬってのことなので、2月に入っても構わないと言って置いたのですが、125日(土)にWindows7 搭載のPC Diginnosをもって来訪し、ほぼ1日がかりで接続し立ち上げてくれました。

 

 はてさて、翌日の日曜日にブログの書き込み使用としたのですが、今までインターネットのお気に入りから導入していたのですが、はてさて今までのPCのお気に入りが見当たらない。MN氏に連絡すると、日曜出勤でいないということなので、別の方法で何とか忍者ブログを探し出しどうやら管理ページに到達することはできたのですが、記事の書き込みまでは出来ず、その日のブログ書き込みは諦める事にしました。

 夜、MN氏から電話があり、会社から帰宅したばかりなのに、我が家に駆けつけてくれました。前のPCから「お気に入り」の項目を拾い出し、新しいパソコンに移してくれました。

 という次第で、27日(月)にやっとブログの再開が出来たのです。

 正月3が日はどうやら無事に、過ごせましたが、3が日が過ぎた頃、キャラメル状の飴を噛んでいると、左上の.刺し歯(数年前に入れたもの)が飴に絡み付いて抜けしまいました。正月休みでやっと歯医者に通い始めたのですが、今度は右脇腹に湿疹を生じ、いつものようにオロナミン軟膏を付けいましたが、一向に効き目がなくそのうち痛みを生じ始めました。2・3の病院を訪ねたが皮膚科のある病院は少なく、七草明けになってようやく台東病院に行ったところ、皮膚科の診療は火・木・金しかやっておらず、1月9日朝一で出かけまはたが正午過ぎになって漸く診療を受けるという始末でした。結果『帯状疱疹』であることが判りました。

 

 というわけで、20日間以上もブログをお休みしてしまいました。数名の方々から問い合わせがあり、病気ではないかと心配をお掛けしましたが、お蔭様で帯状疱疹のほうも落ち着いてきましたので、ブログも再開できそうです。

 まずは、本日はお詫びまで。

 昨日2日は午前中は箱根駅伝を見た。午後に塾友が年賀に見えた。まず、IK氏とSI氏続いて、TS夫妻、そしてかTK氏が見えた。

 

 今日は我妻の79歳の誕生日。

 

 今朝のウェブニュスより

 

有楽町駅前の火災で新幹線止まる Uターンラッシュ大混乱 ―― 3日午前6時35分頃、JR有楽町駅〔東京都千代田区〕近くの建物から出火、パチンコ店やゲームセンターなど4棟〔約900平方メートル)が燃えた。けが人はなかった。この影響で、JR東海は火災発生直後から東海道新幹線の東京―品川間で運転を見合わせ、5時間余り後の正午前に運転を再開した。/この間、折り返し運転ができないため、品川以西でも上下線ともほぼ発着できなくなった。各駅ではUターンラッシュの乗客らが足止めされ、大きく混乱した。/JR東日本は山手線の全線と東海道線、京浜東北線の一部を一時運休した。   【共同通信 2014/01/03 12:23
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