瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
この切り抜きは、ついぞ日の目をみなかったが、われわれの世代は幸せだったのだろうか。」
ウェブニュースより
今朝の朝日新聞より
歴史認識、解決を探る 国家の謝罪研究、リンド准教授に聞く紙面で読む ―― 歴史認識を巡る韓国や中国との対立が収まらない日本。安倍晋三首相が15日の戦没者追悼式の式辞で、加害責任に触れなかったことも、両国から反発を受けた。問題は、袋小路に入り込んでしまったかのようにも見える。国際政治における「謝罪」について研究する、米ダートマス大のジェニファー・リンド准教授に聞いた。
■「責任を明確化、和解したドイツを手本に」「隣国への行為認め、若者に真実を伝える」
――「日本は戦後のドイツに学ぶべきだ」という意見をどう思いますか?
ドイツから学ぶのであれば、日本はアデナウアー首相時代に学ぶべきだというのが私の主張です。過去に起きたことを認め、真実を語ると同時に、国内で反発が起きないよう配慮するやり方です。/ドイツが謝罪したから独仏は和解したというのは、非常に広く受け入れられている物語ですが、実際は違います。西ドイツは50年代にフランスとの和解を進めましたが、当時はきちんと謝罪をしていなかったのです。犠牲者の碑や非常に誠実な教科書をつくったのは後のことです。
――では、何が和解を可能にしたと考えますか。
当時の和解は、独仏が一つになれる形で歴史を語るときに起きたのです。ドイツは「自分たちは恐ろしいことをした。その責任を取る」と明確にしました。/米国は当時、ソ連の侵攻には核兵器で応じるつもりだったので、核戦争を避けたかった独仏は、ほかの道を探したのです。
――著書では「謝罪にはリスクもある」と指摘しています。
私の考えでは、謝罪という概念は(和解の)入り口にはなりません。間違った方向に行く危険があるのです。外国への謝罪はしばしば国内の反発を引き起こします。どの国にも、戦争を戦った人や遺族がおり、国のためにやったと信じています。相手側の記憶よりも、自分たちの記憶を重視するのです。
――和解はどう達成されるものですか。
世界各国の和解の事例を見ると、安全保障上であれ経済的な理由であれ、お互いを必要とする状況がまずあります。通常は、そこから過去についての交渉が始まります。/その結論が謝罪かもしれませんし、何らかのセレモニーかもしれません。たとえば独仏首脳がベルダンで手を取り合ったのは非常に重要な瞬間でしたが、謝罪ではありませんでした。/過去をどう扱うかについて国内で議論があること自体は正当なことです。ただ、日本はまず、真実を語る必要があります。日本が隣国への歴史上の行為を認め、自分たちが受け入れられる言葉で、何が起きたのかを若者に伝えるのです。 (ハノーバー〈米ニューハンプシャー州〉=大島隆)
■国内の反発にも配慮を
謝罪の問題は難しい。/2007年に米下院が採択した慰安婦決議は、日本政府による「公式な謝罪」を求めた。韓国や中国からも度々、「真に謝罪していない」との主張が出る。これに対し、日本には「何度謝れば気が済むんだ」という、いらだちの声がある。/リンド氏は、倫理的視点とは別に、国際政治の「謝罪」を分析し、「和解のためには謝罪が不可欠というわけではない」と説く。/ただ、その主張は「日本は間違ったことはしていない」という謝罪不要論とは異なる。「過去に起きたことを認め、真実を語ると同時に、国内で反発が起きないよう配慮するやり方」――。謝罪はしなくとも、過ちを認める「ミドルグラウンド(中間の道)」を模索すべきだとの考えだ。/日本と近隣諸国の緊張は、米国にとっても重大な関心事だ。特に、同盟国である日韓関係について、米政府当局者は「日韓は過去ではなく未来に目を向けるべきだ」と懸念する。
ところが、日韓には「過去には触れず未来を語る」姿勢と「過去を乗り越え未来を語る」姿勢との間で埋めがたい溝がある。「未来に向かうためには過去を振り返る必要がある」とするリンド氏は指摘する。/「和解のために大事な点は、相手の痛みを認識していることを示し、『我々はあなたを傷つけた。我々は自国民にそのことを伝えている。将来二度とこうしたことを起こさないと約束する』と言うことなのです」
*
ジェニファー・リンド准教授:マサチューセッツ工科大で博士号(政治学)を取得し、独仏や日韓を中心に、戦争後の国家の和解努力や謝罪を研究テーマの一つにする米政治学者。著書に「ソーリー・ステーツ/国際政治における謝罪」がある。フォーリン・アフェアーズといった専門誌やワシントン・ポストなどの米紙に関連論文を寄稿している。
◆キーワード
<アデナウアー元首相> 1949年から14年間、西ドイツの初代連邦首相を務めた。51年から4年間は外相も兼任し、旧連合国との和解を進めた。特にフランスのドゴール元大統領とは個人的に親しい関係も築き、63年に和解を確認する独仏協力条約(エリゼ条約)を締結した。 (8月22日 朝日新聞朝刊)
歴史認識、解決を探る 国家の謝罪研究、リンド准教授に聞く紙面で読む ―― 歴史認識を巡る韓国や中国との対立が収まらない日本。安倍晋三首相が15日の戦没者追悼式の式辞で、加害責任に触れなかったことも、両国から反発を受けた。問題は、袋小路に入り込んでしまったかのようにも見える。国際政治における「謝罪」について研究する、米ダートマス大のジェニファー・リンド准教授に聞いた。
■「責任を明確化、和解したドイツを手本に」「隣国への行為認め、若者に真実を伝える」
――「日本は戦後のドイツに学ぶべきだ」という意見をどう思いますか?
ドイツから学ぶのであれば、日本はアデナウアー首相時代に学ぶべきだというのが私の主張です。過去に起きたことを認め、真実を語ると同時に、国内で反発が起きないよう配慮するやり方です。/ドイツが謝罪したから独仏は和解したというのは、非常に広く受け入れられている物語ですが、実際は違います。西ドイツは50年代にフランスとの和解を進めましたが、当時はきちんと謝罪をしていなかったのです。犠牲者の碑や非常に誠実な教科書をつくったのは後のことです。
当時の和解は、独仏が一つになれる形で歴史を語るときに起きたのです。ドイツは「自分たちは恐ろしいことをした。その責任を取る」と明確にしました。/米国は当時、ソ連の侵攻には核兵器で応じるつもりだったので、核戦争を避けたかった独仏は、ほかの道を探したのです。
――著書では「謝罪にはリスクもある」と指摘しています。
私の考えでは、謝罪という概念は(和解の)入り口にはなりません。間違った方向に行く危険があるのです。外国への謝罪はしばしば国内の反発を引き起こします。どの国にも、戦争を戦った人や遺族がおり、国のためにやったと信じています。相手側の記憶よりも、自分たちの記憶を重視するのです。
――和解はどう達成されるものですか。
世界各国の和解の事例を見ると、安全保障上であれ経済的な理由であれ、お互いを必要とする状況がまずあります。通常は、そこから過去についての交渉が始まります。/その結論が謝罪かもしれませんし、何らかのセレモニーかもしれません。たとえば独仏首脳がベルダンで手を取り合ったのは非常に重要な瞬間でしたが、謝罪ではありませんでした。/過去をどう扱うかについて国内で議論があること自体は正当なことです。ただ、日本はまず、真実を語る必要があります。日本が隣国への歴史上の行為を認め、自分たちが受け入れられる言葉で、何が起きたのかを若者に伝えるのです。 (ハノーバー〈米ニューハンプシャー州〉=大島隆)
■国内の反発にも配慮を
謝罪の問題は難しい。/2007年に米下院が採択した慰安婦決議は、日本政府による「公式な謝罪」を求めた。韓国や中国からも度々、「真に謝罪していない」との主張が出る。これに対し、日本には「何度謝れば気が済むんだ」という、いらだちの声がある。/リンド氏は、倫理的視点とは別に、国際政治の「謝罪」を分析し、「和解のためには謝罪が不可欠というわけではない」と説く。/ただ、その主張は「日本は間違ったことはしていない」という謝罪不要論とは異なる。「過去に起きたことを認め、真実を語ると同時に、国内で反発が起きないよう配慮するやり方」――。謝罪はしなくとも、過ちを認める「ミドルグラウンド(中間の道)」を模索すべきだとの考えだ。/日本と近隣諸国の緊張は、米国にとっても重大な関心事だ。特に、同盟国である日韓関係について、米政府当局者は「日韓は過去ではなく未来に目を向けるべきだ」と懸念する。
ところが、日韓には「過去には触れず未来を語る」姿勢と「過去を乗り越え未来を語る」姿勢との間で埋めがたい溝がある。「未来に向かうためには過去を振り返る必要がある」とするリンド氏は指摘する。/「和解のために大事な点は、相手の痛みを認識していることを示し、『我々はあなたを傷つけた。我々は自国民にそのことを伝えている。将来二度とこうしたことを起こさないと約束する』と言うことなのです」
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◆キーワード
<アデナウアー元首相> 1949年から14年間、西ドイツの初代連邦首相を務めた。51年から4年間は外相も兼任し、旧連合国との和解を進めた。特にフランスのドゴール元大統領とは個人的に親しい関係も築き、63年に和解を確認する独仏協力条約(エリゼ条約)を締結した。 (8月22日 朝日新聞朝刊)
今朝のウェブニュースより
【社説】アベノミクス、限界に近づく ―― 日本の最新の経済統計に絡む主な疑問と言えば、消費税引き上げを実行できるほどに十分に経済が成長しているのかどうかということだ。しかし、少しばかり掘り下げてみると、今年第2四半期(4-6月)の国内総生産(GDP)の年率2.6%の成長率は、より大きな疑問を生じさせる。つまり、経済は一体いつまで成長できるのか、という疑問だ。/12日に発表された成長率がエコノミストの予想に達しなかった大きな理由は、企業投資の不振で、この部門は誇大にもてはやされてきた安倍晋三首相の経済再生計画の水準に達していない。投資の伸びのほとんどは、政府の刺激策と東日本大震災の復興支出によるものだ。これはアベノミクスが約束したものではない。/この統計は数週間後に改定される。9月に出てくる改定数字はそれほど暗いものではないかもしれない。しかし、その他の最近の統計は、経済がどこかに泳ぎ進んでいるというよりは、元気に立ち泳ぎしているというだけの状態であることを示唆している。/金額ベースでなく数量ベースでみた輸出も回復しており、3カ月移動平均で見ると、6月は2月以降12%伸びている。だが、オリエンタル・エコノミスト・アラートのリチャード・カッツ代表によると、これは2008年の水準を依然25%も下回っている。そしてこの伸びの大部分は、中国向け輸出によるものだ。両国間貿易は昨年の政治的緊張で減少したあと、やっと部分的に回復している。この点において、日本は引き続き、米国と欧州という主要な輸出市場から経済的弱さを輸入している。/こうしたことは全て、これまでに実施されたアベノミクスの弱さを示している。予想されたように、財政拡大は期待された乗数効果をもたらしていない。また、急激な金融緩和とこれに伴う円安も持続的成長を促していない。日本の企業は海外で値下げして市場シェアを拡大しようとしておらず、同じ外貨建て価格で販売して得られた収入を円建てに換算して利益を膨らませている。/超円安が持続しないことが分かったことから、円の対ドル相場が1ドル=約102円に下落してから3カ月もたたないうちに96円程度にまで上昇したことは驚きではない。円安で輸出と輸出利益が増え、その主たる結果として考えられていた賃金上昇は、そのほとんどが1回限りのボーナスによるもので、基本給は小幅減少した。これも企業は景気拡大が長続きするとは確信していないことをうかがわせる。/日本の経済政策をめぐる議論は、第2四半期のGDP統計が安倍首相が来年4月に消費税を現在の5%から8%に引き上げるに十分なだけ強力かどうか、という点ばかりに終始している。増税は経済がまずまず健全な時にしか実行できない。しかし、最近の経済指標を全般的にみると、持続的な成長を促すには安倍首相が広範囲で深みのある構造改革に焦点を当てる必要があることを示唆している。 (ウォールストリート・ジャーナル2013年 8月 13日 10:07 JST)
海外から批判続出 「アベノミクスは失敗だ」 外資は売り越しに転じた ―― 海外からアベノミクス批判が相次いでいる。米ウォールストリート・ジャーナル(13日アジア版)は「アベノミクス、限界に近づく」という社説で、「賃金上昇は、そのほとんどが1回限りのボーナスによるもので、基本給は小幅減少した」と書いた。/欧州の投資銀行サクソバンクのヤコブセン最高運用責任者のリポート〈参院選後の日本経済〉は、もっと具体的だ。昨秋以降に上昇した日経平均について、「上場企業が日本経済に占める割合は20%にも満たず、それらの企業の株主は日本の人口の5%以下に過ぎない」とバッサリ。中小企業抜きの成長戦略を批判している。/日銀の異次元緩和は「人工マネー」「貨幣幻想」だから効果は期待できない、2%のインフレ目標も「高齢者はインフレよりデフレを望む」と苦言のオンパレード。まとめると、「安倍首相の認識は現実と大きく乖離(かいり)」しているので、「アベノミクスは失敗するでしょう」となる。/「選挙までバラ色の経済政策を煽(あお)っておいて、勝ったら知らんぷり。そこを見透かされた」と、株式アナリストの黒岩泰氏はこう言う。/「外国人がアベノミクス批判を始めたのは、日本株を売るための号砲です」
<株価暴落 10月1万円割れも>:実際、海外勢は7月第4週から、3週連続で「売り越し」に転じている。今年に入り1兆6000億円を「買い越し」ているだけに、一気に売ってきたら大暴落も起こり得る。/「海外勢は、すでにアベノミクスの嘘を見破っています。この先、ハゲタカが売り浴びせてくる危険がある。9月に日経平均は1万1000円台まで下落する恐れがあります。そうなったら10月の1万円割れもあり得ます」(黒岩泰氏)/これだけ海外からの批判が続いても、国内大手証券は日経平均の年内1万8000円目標を変えていない。/個人投資家は8月第1週に約2000億円を「買い越し」た。大損するのは誰か。ババ抜きは始まっている。 (日刊ゲンダイ 2013年8月19日 掲載)
<株価暴落 10月1万円割れも>:実際、海外勢は7月第4週から、3週連続で「売り越し」に転じている。今年に入り1兆6000億円を「買い越し」ているだけに、一気に売ってきたら大暴落も起こり得る。/「海外勢は、すでにアベノミクスの嘘を見破っています。この先、ハゲタカが売り浴びせてくる危険がある。9月に日経平均は1万1000円台まで下落する恐れがあります。そうなったら10月の1万円割れもあり得ます」(黒岩泰氏)/これだけ海外からの批判が続いても、国内大手証券は日経平均の年内1万8000円目標を変えていない。/個人投資家は8月第1週に約2000億円を「買い越し」た。大損するのは誰か。ババ抜きは始まっている。 (日刊ゲンダイ 2013年8月19日 掲載)
今朝のウェブニュースより
ドイツが世界一韓国嫌いなワケ 「恩を仇で…」過激な嫌韓行為も〜日韓は意外に友好的? ―― 日韓関係が冷え込んで久しい。思えば、2012年8月10日、李明博大統領が竹島に上陸したことをきっかけに、両国の関係はいっそう悪化の一途を辿ったと見ることができる。それを表すように、韓国を訪れる日本人観光客数は、同年3月に月間36万人と過去最高に達したものの、9月以降は前年割れが続いている。/現在の日韓関係は、世界的に見ても、険悪ムードなのだろうか。そして日本人の多くが“嫌韓”なのだろうか。/それを知る客観的なデータとして、イギリスBBC放送が行っている世界16カ国とEUを対象にした“国家イメージアンケート”が参考になる。全25カ国を対象にした同アンケートを見ると、日本人の韓国に対する評価は、肯定派19%、否定派28%。意外にも、どちらでもないと考えている層が過半数を超えており、“嫌韓層”ともいえる否定派は、2割台にすぎなかった。韓国否定派が約5割のフランス(47%)やメキシコ(45%)、4割のカナダ(41%)やイギリス(40%)と比較すると、日本人の韓国に対する評価は、相対的に悪くないのだ。/ では、最も韓国を否定的に評価した国はどこかというと、2位フランスに大差をつける、否定派65%のドイツである。
●ドイツ人が韓国を嫌う理由
なぜドイツは、それほどまでに韓国を嫌うのだろうか。ドイツ留学経験を持つある韓国人は自身のブログで、「ドイツの人たちはとても秩序があり、規則的。それに比べて韓国人は、無秩序で、ラフな人が多い。私たちは、我の強い国民性をどんなときでも堅持する。さらに、自分たちの非を直そうとしないから嫌われていると思う」と、その理由を分析。/また、韓国のネチズン(ネット上の市民)たちは、「韓日ワールドカップで韓国がドイツと対戦した際、『ヒットラーの子孫たちは去れ!』というプラカードを掲げたことを根に持っているのでは」「ロンドン五輪のとき、ドイツのフェンシング選手のフェイスブックに、韓国人がサイバー攻撃をしたことが原因」などと憶測している。/しかし、ドイツの韓国嫌いには、もう少し複雑な社会背景があるという見方もある。ドイツ在住のある日本人女性は、こう話す。/「ドイツの知人らの話を総合してみると、一つは、韓国企業がドイツ経済に影響を与えているという点にあると言えます。『経済至上主義』に映る韓国企業のイメージは、ドイツではあまり好まれません。もう一つ挙げるとすると、分断国家であるということ。統一を果たしたドイツにしてみれば、分断状況にあるコリアには『何か問題がある』という印象を持つ傾向があります」/そもそも韓国は1960年代、ドイツの協力を受けて経済発展を実現し、90年代後半IMF経済危機に陥ったときも、ドイツに大規模な経済使節団を派遣してもらった過去を持っている。それが昨今、グローバル事業を展開する韓国企業が増え、ドイツの輸出業を脅かしているというのだから、ドイツからすれば恩を仇で返されたように映るのかもしれない。ドイツと韓国は世界的に見ても輸出依存度が高い国家であるため、経済面での対立は容易に想像できる。/また先述の通り、朝鮮半島が分断状況にあるということも、イメージが悪い一因だという。戦後補償を真摯に履行するドイツからすると、韓国はいまだに“戦後問題を抱えたままの国”と見えてしまうわけだ。ちなみに、韓国は戦後補償問題について日本を非難する際、「日本に比べて、同じ敗戦国のドイツは……」と、ドイツをロールモデルとして議論する傾向が強い。前出したBBCアンケートでも、韓国人のドイツ否定派はわずか8%にすぎず、肯定派は76%にも上っている。
にもかかわらず、ドイツにおける“嫌韓行為”は犯罪にまで発展しているのだから皮肉だ。例えば、2011年7月、ドイツのマグデブルクに住む韓国人女性が2人の子どもを連れて遊園地に向かう途中、とあるドイツ人女性からタバコを投げつけられるという事件があった。韓国人女性が抗議すると、そのドイツ人女性は彼女を殴打。さらに大声で「目が小さい!」と叫びながら、韓国人女性の首を絞めたという。当然だが、そのドイツ人女性は、警察に逮捕されている。日本のいわゆる嫌韓層は、主にネットを通じて韓国を誹謗・中傷することが多いが、ドイツでは犯罪まで起きているため、事態はより深刻と言わざるを得ない。
世界一、韓国を嫌う国・ドイツ。それに比べると、韓国否定派が25カ国中13位タイにすぎない日本は、まだまだ“韓国嫌いな国”とは言えなそうだ。今年も終戦記念日を前後して、日韓でひと悶着ありそうだが、ドイツをはじめとした世界各国は、「それほど仲が悪いわけでもないのに…」と冷めた目で両国を見ているのかもしれない。 (文=呉承鎬) (ビジネス ジャーナル 2013.08.13)
呉 承鎬(オ・スンホ):1982年5月7日、東京都出身。大学校卒業後、出版社にて青年誌編集などを経て、現在は韓国・朝鮮関係の企画、編集、執筆、翻訳、雑誌寄稿などを行なっている。スポーツ&エンターテインメントはもちろん、競馬、政治経済、社会問題などにも詳しく、自己啓発分野にも明るい。尊敬するのは養老孟司。訳書に「つねに結果を出す人の勉強脳のつくり方」(日本文芸社)など。
●ドイツ人が韓国を嫌う理由
なぜドイツは、それほどまでに韓国を嫌うのだろうか。ドイツ留学経験を持つある韓国人は自身のブログで、「ドイツの人たちはとても秩序があり、規則的。それに比べて韓国人は、無秩序で、ラフな人が多い。私たちは、我の強い国民性をどんなときでも堅持する。さらに、自分たちの非を直そうとしないから嫌われていると思う」と、その理由を分析。/また、韓国のネチズン(ネット上の市民)たちは、「韓日ワールドカップで韓国がドイツと対戦した際、『ヒットラーの子孫たちは去れ!』というプラカードを掲げたことを根に持っているのでは」「ロンドン五輪のとき、ドイツのフェンシング選手のフェイスブックに、韓国人がサイバー攻撃をしたことが原因」などと憶測している。/しかし、ドイツの韓国嫌いには、もう少し複雑な社会背景があるという見方もある。ドイツ在住のある日本人女性は、こう話す。/「ドイツの知人らの話を総合してみると、一つは、韓国企業がドイツ経済に影響を与えているという点にあると言えます。『経済至上主義』に映る韓国企業のイメージは、ドイツではあまり好まれません。もう一つ挙げるとすると、分断国家であるということ。統一を果たしたドイツにしてみれば、分断状況にあるコリアには『何か問題がある』という印象を持つ傾向があります」/そもそも韓国は1960年代、ドイツの協力を受けて経済発展を実現し、90年代後半IMF経済危機に陥ったときも、ドイツに大規模な経済使節団を派遣してもらった過去を持っている。それが昨今、グローバル事業を展開する韓国企業が増え、ドイツの輸出業を脅かしているというのだから、ドイツからすれば恩を仇で返されたように映るのかもしれない。ドイツと韓国は世界的に見ても輸出依存度が高い国家であるため、経済面での対立は容易に想像できる。/また先述の通り、朝鮮半島が分断状況にあるということも、イメージが悪い一因だという。戦後補償を真摯に履行するドイツからすると、韓国はいまだに“戦後問題を抱えたままの国”と見えてしまうわけだ。ちなみに、韓国は戦後補償問題について日本を非難する際、「日本に比べて、同じ敗戦国のドイツは……」と、ドイツをロールモデルとして議論する傾向が強い。前出したBBCアンケートでも、韓国人のドイツ否定派はわずか8%にすぎず、肯定派は76%にも上っている。
にもかかわらず、ドイツにおける“嫌韓行為”は犯罪にまで発展しているのだから皮肉だ。例えば、2011年7月、ドイツのマグデブルクに住む韓国人女性が2人の子どもを連れて遊園地に向かう途中、とあるドイツ人女性からタバコを投げつけられるという事件があった。韓国人女性が抗議すると、そのドイツ人女性は彼女を殴打。さらに大声で「目が小さい!」と叫びながら、韓国人女性の首を絞めたという。当然だが、そのドイツ人女性は、警察に逮捕されている。日本のいわゆる嫌韓層は、主にネットを通じて韓国を誹謗・中傷することが多いが、ドイツでは犯罪まで起きているため、事態はより深刻と言わざるを得ない。
世界一、韓国を嫌う国・ドイツ。それに比べると、韓国否定派が25カ国中13位タイにすぎない日本は、まだまだ“韓国嫌いな国”とは言えなそうだ。今年も終戦記念日を前後して、日韓でひと悶着ありそうだが、ドイツをはじめとした世界各国は、「それほど仲が悪いわけでもないのに…」と冷めた目で両国を見ているのかもしれない。 (文=呉承鎬) (ビジネス ジャーナル 2013.08.13)
爺は今、Omar Khayyám(ウマル ハイヤーム)の『Rubaiyat(ルバイヤート)』を、小冊子に製本すべく、電子図書館「青空文庫」から収録編集中である。
今朝の朝日新聞の社会面に小さな記事であるが青空文庫の創設者の訃報が出ていたので、早速ウェブニュースで調べてみた。
富田倫生さん死去 「青空文庫」世話人 ―― インターネット上の電子図書館「青空文庫」の世話人で、著作権の保護期間延長に反対を訴えつづけた富田倫生(とみた・みちお)さんが16日正午過ぎ、肝臓がんのため岐阜県内の病院で死去した。61歳だった。葬儀は近親者のみで営む。/広島市生まれ。編集プロダクション勤務を経て、ライターとして独立。自著「パソコン創世記」が絶版となり電子版を作った経験から、電子テキストの共有サービスを構想、97年に仲間と青空文庫を始めた。2011年には著作権が切れた本を中心に登録数が1万点を超えた。/30代でC型肝炎を発症し、闘病しながら青空文庫の運営にあたった。近年は、著作権の保護期間を死後50年から70年に延長する動きに対し、「過去の作品を利用しにくくなり、文化の発展が阻害される」として反対運動に力を注いだ。著書に「本の未来」などがある。 (朝日新聞 2013年8月17日0時59分)
富田倫生の略歴
・1952年(昭和27年)4月20日 - 広島市に生まれる。
・桜幼稚園、広島大学教育学部付属小・中・高から、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
・編集プロダクションのオメガ社に入社。
・1983年(昭和58年) - ライターとして独立。
・1985年(昭和60年)2月 - 旺文社から『パソコン創世記』を出版。
・1990年(平成2年)4月 - アイザック・アシモフにインタビュー。
・1993年(平成5年)2月 - ボイジャージャパンのエキスパンドブックを知る。
・1995年(平成7年)2月 - マックワールドエキスポで『パソコン創世記』をエキスパンドブックとして出版。
・1997年(平成9年)7月7日 - 青空文庫を設立。
・1997年(平成9年)9月11日 - 青空文庫を公開。
・2013年(平成25年)8月16日 - 死去。
なお、このブログのプロフィールにある、爺のアドレスにメールしてくだされば、爺の手作り小冊子『Rubaiyat(ルバイヤート)』が、貴方のお手許に届くかもしれません。
今朝の朝日新聞の社会面に小さな記事であるが青空文庫の創設者の訃報が出ていたので、早速ウェブニュースで調べてみた。
富田倫生さん死去 「青空文庫」世話人 ―― インターネット上の電子図書館「青空文庫」の世話人で、著作権の保護期間延長に反対を訴えつづけた富田倫生(とみた・みちお)さんが16日正午過ぎ、肝臓がんのため岐阜県内の病院で死去した。61歳だった。葬儀は近親者のみで営む。/広島市生まれ。編集プロダクション勤務を経て、ライターとして独立。自著「パソコン創世記」が絶版となり電子版を作った経験から、電子テキストの共有サービスを構想、97年に仲間と青空文庫を始めた。2011年には著作権が切れた本を中心に登録数が1万点を超えた。/30代でC型肝炎を発症し、闘病しながら青空文庫の運営にあたった。近年は、著作権の保護期間を死後50年から70年に延長する動きに対し、「過去の作品を利用しにくくなり、文化の発展が阻害される」として反対運動に力を注いだ。著書に「本の未来」などがある。 (朝日新聞 2013年8月17日0時59分)
富田倫生の略歴
・桜幼稚園、広島大学教育学部付属小・中・高から、早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。
・編集プロダクションのオメガ社に入社。
・1983年(昭和58年) - ライターとして独立。
・1985年(昭和60年)2月 - 旺文社から『パソコン創世記』を出版。
・1990年(平成2年)4月 - アイザック・アシモフにインタビュー。
・1993年(平成5年)2月 - ボイジャージャパンのエキスパンドブックを知る。
・1995年(平成7年)2月 - マックワールドエキスポで『パソコン創世記』をエキスパンドブックとして出版。
・1997年(平成9年)7月7日 - 青空文庫を設立。
・1997年(平成9年)9月11日 - 青空文庫を公開。
・2013年(平成25年)8月16日 - 死去。
なお、このブログのプロフィールにある、爺のアドレスにメールしてくだされば、爺の手作り小冊子『Rubaiyat(ルバイヤート)』が、貴方のお手許に届くかもしれません。
Khayyám(ハイヤーム)はまた、当時のペルシア暦をどのように改正するかの計算を行った。1079年3月15日に、Malik Shāh(マリク・シャー)は、Khayyám(ハイヤーム)が改正した暦法を施行させた。暦法の改正は、欧州においては、Sosigenes〔ソシゲネス、BC1世紀頃〕の修正に基づきユリウス・カイサルが紀元前46年に暦法を改正しており(ユリウス暦)、更にローマ教皇Gregorius(グレゴリウス)13世〔1502~1585年、第226代ローマ教皇(在位:1572~1585年)〕が、Aloysius Lilius〔アロイシウス・リリウス、1510~1576年〕の修正暦に基づき、1552年2月に改正した暦(グレゴリウス暦)と並ぶ業績であった(グレゴリウス暦は、しかし、グレート・ブリテンにおいては、1751年に至るまでユリウス暦から切り替えられることなく、またロシアにおいては、1918年に至るまで切り替えが行われなかった)。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は、ペルシア人やイスラム世界にあって、天文観測の業績で有名であった。彼は天空の星の図を作成したが、今日それは失われているという。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の哲学は、公的なイスラム教の教義とはかなりに異なるものであった。ウマルが神の存在を信じていたのかどうか明確でないが、しかし彼は、すべての個別の出来事や現象が神的な介在の結果であるという見解には異議を唱えていた。また、最後の審判の日や、死後の報償や懲罰なども信じていなかった。Omar(ウマル)はむしろ、自然の法則が、生命について観察されるすべての現象を説明するという見解を支持していた。イスラムの宗務当局は、イスラム教に関する彼の異説についての説明を幾たびもOmar(ウマル)に求めた。最終的にOmar(ウマル)は、当局からの追及が激しくなり建前上正統的なMuslim〔ムスリム、イスラーム教徒〕を装わざるを得なくなり、Makkah〔マッカ、サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca (メッカ) から Makkah (マッカ)に改めた]へのḥajj〔ハッジ、Makkah(マッカ)への巡礼のこと〕を行った。
Omar(ウマル)が試みた解法のアプローチは、彼以前にすでに、古代ギリシアの数学者であり、アレクサンドロス大王の教師で「数学に王道はない」と述べたとも伝わっているMenaechmus〔メナイクモス、BC380~320年〕などによって試みられていたというが、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)はこの方法を発展させて一般化し、三次方程式一般の解法を提示した(左図参照)。更にハイヤームは、二項展開を発見し、Eukleides(エウクレイデス)の平行線の理論に対する批判書を著し、これは欧州に伝わり、結果的に非ユークリッド幾何学の発展に寄与した。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の数学上の貢献は広範囲にわたっている。彼の多くの著作は1070年代に書かれたと考えられている。この中には『代数とw'almuqabala(アルムカバラ)の証明について』『算術の困難』などとともに『代数の解法』『代数学者』さらにユークリッドのStoikheia〔ストイケア、原論〕の注解がある。
当時、代数や算術の間には正確な区別がなく、既知数の関係から未知数を求めるのがこれらの分野の仕事と考えられていた。Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は代数についての著作の中で、代数方程式の解法だけを取り上げた。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は3次方程式の解法を発見こそしなかったが、後の世の人がこの解放を見つけるだろうと書いている。 Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の死後もイスラム諸国の数学者は3次、4次の方程式の幾何学的解放をくわしく研究したが、一般的解法は発見できなかった。16世紀になって、イタリアの数学Scipione del Ferro〔シピオーネ・デル・フェッロ、1465~1526年〕やNiccolò Fontana Tartaglia〔ニコロ・フォンタナ・タルタリア、1499年または1500年~1557年〕によって一般的解法が見つけられた。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の著作は、いずれもみな、式を言葉で表し、最初にはアラーの神に捧げる言葉から始っている。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の幾何学の研究は、彼のEukleides(エウクレイデス)の注釈に述べられているが、そこには比の理論、連続性、平行線の問題などが取り上げられている。イスラム諸国での平行線の研究は『Stoicheia(ストイケア)』がアラビア語に訳されてから盛んになった。
『Rubsiyst (ルバーイヤート)』とはアラビア語で「四行詩」を意味する「Rubaiy(ルバーイイ)」の複数形であるので、直訳すると「四行詩集」という題になる。
Rubaiy(ルバーイー)詩形とはペルシア語詩の形式の一つである。ペルシア語詩はアラビア語詩の詩形と韻律に負うところが大きいが、miṣra〔ミスラーウ、半句〕とbayt〔バイト、対句〕からなり、半句ふたつで1対句となることを基本とする。これに各々の半句および対句での脚韻や押韻によって様々な詩形が形作られるが、例えばアラビア語詩の詩形に由来するqaṣīda(カスィーダ)詩形は、最初の対句の両方の半句で同じ脚韻をつくり、ふたつめの対句から最後の対句まで、後半の半句は最初の対句の脚韻と同じにする。また、mathnawī(マスナヴィー)詩形では、最初の対句での両方の半句の脚韻を同じにし、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏み、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏む、という具合に脚韻をどんどん変えることによって、変化に富んだ韻律によって場合によっては数万対句におよぶ長大な詩となる。ペルシア語詩独自の詩形である。
Rubaiy(ルバーイー)詩形の場合もペルシア語詩として独自に発展したもので、4つの半句からなるが、第1、第2、第4半句は同じ脚韻で押韻するが、第3半句の脚韻は押韻しなくても良いことになっている。ルバーイー詩形は長大なものが多いペルシア語詩のなかで、起承転結を有する簡潔な詩形であることを特徴としている。簡潔にして要を得た表現に最も適しており、素朴でありながら余韻や余情のこもった表現形式と言える。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)が存命していた時代のRubaiy(ルバーイー)は、基本的にSufism(スーフィズム)的思潮〔イスラム教の神秘主義哲学に基く思潮〕の濃いものが大半を占めていた。世の無常観や飲酒への讃美、時には神へのironical〔アイロニカル、cynical〈シニカル〉が 人の誠実さを軽蔑する のに対して、ironical(アイロニカル) は 当てこすりの,皮肉 を言う〕な心情を吐露するOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubaiy(ルバーイー)は、(Jāhiliyyah(ジャーヒリーヤ)時代〔イスラーム以前の時代を指す〕のアラブの飲酒詩や世の無常を嘆くニヒリスティックな詩の伝統を組むものとも理解出来るが、当時のRubaiy(ルバーイー)の傾向からすると、やや特異な位置づけにあるものと言える。そのため、彼よりもJalāl ad-Dīn Rūmī〔ジャラールッディーン・ルーミー、下記の※印の説明を参照〕などに代表されように酒による酩酊をSufism(スーフィズム)的な陶酔境になぞらえたり、恋人同士が互いを求める心情をSufism(スーフィズム)的な神への専一的な求道に喩えることがSufism(スーフィズム)的な神秘主義詩のセオリーとなっていったように、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のルバーイーでの文言もSufism(スーフィズム)的なものを含意しているのではないかという解釈も生まれた。

※ Jalāl ad-Dīn Rūmī(ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207~1273年)はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人である。同時代のIbn al-Arabi〔イブン・アル=アラビー、1165~1240年、中世のイスラム思想家。存在一性論・完全人間論を唱えてイスラム神秘主義(Sufism)の確立に寄与し、後世に影響を与えた〕と並ぶ、イスラーム神学、Sufismの重要な人物の一人と見なされている。「沈黙」を意味するKhamoosh(ハムーシュ)を雅号とした。/Rūmī(ルーミー)の思想の一つとして、旋回舞踏によって「神の中への消滅」という死に似た状態に陥る神秘体験の実行が挙げられる。1273年のRūmī(ルーミー)の没後、Konya〔コンヤ、トルコの都市、左の地図参照〕の墓廟を拠点としてかれの弟子によってコマのように回って踊るサマーウ(セマ)という儀式で有名なMevlevilik(メヴレヴィー)教団が形成された。Mevlevilik(メヴレヴィー)教団では同教団の始祖と仰がれている。主な著書はペルシャ語の詩集『精神的(Masnavī-ye(マスナヴィー)』。
この詩集はOmar(ウマル)の死後公表されたが、それまで彼は詩人としてはほとんど知られていなかったという。しかし数学、天文学、史学など数々の分野における多くの偉業を遺した学者としては著名であった。(近年、天文学者のウマル・ハイヤームと『ルバーイヤート』の作者ウマル・ハイヤームとは同名の別人であるとの説を唱えている学者もあるという。)
19世紀、Edward FitzGerald〔エドワード・フィッツジェラルド、1809~1883年、イギリスの詩人〕に拠る英語訳で一躍名が知れるようになった。その英訳版は近代イギリス文学に大きな影響を与えた。
日本語版では、エドワード・フィッツジェラルド(1809-83年)による英訳版から蒲原有明が訳したのが最初で、『春鳥集』(本郷書院、明治38年)に収む。森亮訳で多く知られるようになった。
日本語版のペルシャ語の原典からの初訳は小川亮作に拠る(昭和24年初版、岩波文庫)。訳者小川亮作は解説で、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)をペルシアのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビンチ、1452~1519年〈ユリウス暦〉)と評している。
※小川亮作:1910(明治43)年~1951(昭和26)年。新潟県荒川町海老江に生れる。昭和3(1929)年村上中学校(現村上高校)卒業。その後、外交官となり日露協会(中国黒龍江省ハルピン)でロシア語を修め、外務省留学生としてテヘラン(イランの首都)でペルシャ語を学ぶ。このことを契機として「ルバイヤート」の原典と運命的に出会う。「ルバイヤート」は、11世紀のペルシャ(現イラン)で活躍した天才的な天文学者、科学者、数学者にして哲学者、そしてなにより詩人として知られているOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)(1048~1121)によって書かれた詩集である。小川亮作は「ルバイヤート」をペルシャ語の原典から口語に直訳し、四行詩集「ルバイヤート」(岩波書店・昭和24年初刊)が発行される。
Rubaiy(ルバーイー)詩形とはペルシア語詩の形式の一つである。ペルシア語詩はアラビア語詩の詩形と韻律に負うところが大きいが、miṣra〔ミスラーウ、半句〕とbayt〔バイト、対句〕からなり、半句ふたつで1対句となることを基本とする。これに各々の半句および対句での脚韻や押韻によって様々な詩形が形作られるが、例えばアラビア語詩の詩形に由来するqaṣīda(カスィーダ)詩形は、最初の対句の両方の半句で同じ脚韻をつくり、ふたつめの対句から最後の対句まで、後半の半句は最初の対句の脚韻と同じにする。また、mathnawī(マスナヴィー)詩形では、最初の対句での両方の半句の脚韻を同じにし、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏み、つぎの対句の両方の半句の脚韻は別の韻を踏む、という具合に脚韻をどんどん変えることによって、変化に富んだ韻律によって場合によっては数万対句におよぶ長大な詩となる。ペルシア語詩独自の詩形である。
Rubaiy(ルバーイー)詩形の場合もペルシア語詩として独自に発展したもので、4つの半句からなるが、第1、第2、第4半句は同じ脚韻で押韻するが、第3半句の脚韻は押韻しなくても良いことになっている。ルバーイー詩形は長大なものが多いペルシア語詩のなかで、起承転結を有する簡潔な詩形であることを特徴としている。簡潔にして要を得た表現に最も適しており、素朴でありながら余韻や余情のこもった表現形式と言える。
この詩集はOmar(ウマル)の死後公表されたが、それまで彼は詩人としてはほとんど知られていなかったという。しかし数学、天文学、史学など数々の分野における多くの偉業を遺した学者としては著名であった。(近年、天文学者のウマル・ハイヤームと『ルバーイヤート』の作者ウマル・ハイヤームとは同名の別人であるとの説を唱えている学者もあるという。)
日本語版では、エドワード・フィッツジェラルド(1809-83年)による英訳版から蒲原有明が訳したのが最初で、『春鳥集』(本郷書院、明治38年)に収む。森亮訳で多く知られるようになった。
日本語版のペルシャ語の原典からの初訳は小川亮作に拠る(昭和24年初版、岩波文庫)。訳者小川亮作は解説で、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)をペルシアのLeonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ビンチ、1452~1519年〈ユリウス暦〉)と評している。
この時代は政治的に混乱していて、そのため、Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は長い間放浪生活を強いられた。Samarqand(サマルカンド)、Merv(メルブ)、Eṣfahān(イスファハン)など中央アジア、イランのあちこちに住んで、研究を続けていたという。
1074年、Khayyám(ハイヤーム)は数学・天文学に通じた学者としてセルジューク朝のスルタンであるMalik Shāh〔マリク・シャー、1055~1092年〕の宮殿に招聘され、君主や大臣のNizam al-Mulk〔ニザム アル=ムルク、1017~1092年、セルジューク朝の政治家、学者〕の庇護をうけてIsfahan〔イスファハン、テヘランの南約340kmに位置する〕に新しく作られたの天文台の長に任じられ、暦法改正にたずさわり、現在のイラン暦の元となるJalali(ジャラーリー)暦を作成した。33年に8回の閏年を置くもので、グレゴリウス暦よりも正確なものであったという。しかし、Nizam al-Mulk(ニザム アル=ムルク)が殺害され、Malik Shāh〔マリク・シャー〕も死んだために、暦の改正は中止となり、この後、間もなく天文台も閉鎖されたという。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の同時代の人々は彼を偉大な学者として高く評価していたが、それ以上に彼の名声を高めたのは有名な四行詩『Rubsiyst(ルバイヤート)』であった。この中でOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)は自由と愛を称賛し、全て地上に存在するものの無常なことを、また生活のままならぬことを憂えた。Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のRubsiyst(ルバイヤート)はペルシア・タジック語韻文の古典的な作品であったが、19世紀と20世紀にヨーロッパ諸国の言葉に訳されてから、世界中で広く知られるようになった。
神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。
右手に教典、左手に酒杯、
ときには如法、ときには不如法、
我らは紺碧の大空のもと、
まったくの異教徒でなし、回教徒でなし。
Omar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)の自由思想は次第に迫害されるようになり、彼は老年になって、メッカの巡礼の旅に出かけた。1934年、Nishapur〔ニーシャープール〕にOmar Khayyám(ウマル・ハイヤーム)のオベリスクが建立された。
宝塚在住のKS氏が、娘さんの招待で東京湾大華火祭(8月10日実施)を見物のため上京した。神奈川県の3人組と爺とで会食の話が進んでおり、KS氏に合流してもらって彼を囲んでのすき焼会を開くことになった。判りやすい場所ということで、雷門の並びの「ちんや」に決めた。
「有朋自遠方来 不亦楽(朋有り遠方より来る亦楽しからずや)」昨日の8月8日(木)正午に、横浜在住のIN氏、藤沢在住のMY氏、海老名在住のYS氏とこの爺とで彼の歓迎パーティを催すことと相成った。
5人が揃うと、はじめから、話が弾み楽しい2時間半を過すことができた。
午後2時30分「ちんや」の玄関先で誰かが、「この店はなんで『ちんや』というのだろうか?」店の由来を訪ねていた。仲居さんが「江戸時代、ここは諸大名や豪商に中国産の「狆」などの愛玩動物を納め、獣医もかねていたことから『狆屋』と呼ばれており、明治13年料理屋にかわったのだが、『狆屋』をそのまま屋号にした。そののち、明治36年にすき焼の専門店になった」ということを説明してくれた。

話の続きをするべく、筋向いにある浅草観光文化センターの最上階にある喫茶室に向かったが、『リニューアルのため休業中』ということで、スカイツリーのバックに写真を撮っただけで、再び街中に出た。この淺草観光文化センターはたったこの間建築されたばかり――なんでリニューアルの必要ありや?
以前から行きつけの甘味喫茶「鉢の木」でお駄弁りを続けた。午後4時56分、みんなの携帯電話が一斉に鳴り響いた。「奈良県で地震発生」の緊急メールが入った。ここで、話は中断となり、各自帰宅することとなる。まあ、スカイツリーでもエレベーターが運転中止となったというから致し方あるまい。
今朝のテレビニュースによるとあの緊急メールは誤報であったという。
朝徘徊から帰宅。パソコンを開くと横浜のIN氏から、昨日の写真と寄せ書きが送られてきていた。




「有朋自遠方来 不亦楽(朋有り遠方より来る亦楽しからずや)」昨日の8月8日(木)正午に、横浜在住のIN氏、藤沢在住のMY氏、海老名在住のYS氏とこの爺とで彼の歓迎パーティを催すことと相成った。
5人が揃うと、はじめから、話が弾み楽しい2時間半を過すことができた。
今朝のテレビニュースによるとあの緊急メールは誤報であったという。
朝徘徊から帰宅。パソコンを開くと横浜のIN氏から、昨日の写真と寄せ書きが送られてきていた。
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目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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