今日は新聞の休刊日です。ウェブニュースより
ミャンマー総選挙、投票終了 開票作業が進む ―― ミャンマーで8日、2011年春の民政移管後初の総選挙が実施され、即日、開票された。地元メディアの出口調査ではアウン・サン・スー・チー党首率いる最大野党、NLD(国民民主連盟)が優勢で、大統領の指名が可能になる国会議席の過半数を得られるかが焦点となる。NLDのティン・ウー名誉議長は投票終了後、最大都市ヤンゴンで演説し「勝利を確信している」と述べた。
総選挙の投票は午前6時(日本時間同8時半)から午後4時まで全国で実施された。ヤンゴンではスー・チー氏も自邸のあるバハン地区の投票所を訪れ、1票を投じた。早朝から市民が長蛇の列をつくった投票所では、押し寄せたNLD支持者が「私たちは勝利する」と歓声を上げた。
同日夕、ヤンゴンのNLD本部前で演説したティン・ウー名誉議長は「すべての支持者に感謝したい。全国から集まる情報から判断すれば、大勝は間違いない」と述べた。ティン・ウー氏は1988年のNLD設立当初からスー・チー氏とともに同党を率いてきたナンバー2。ティン・ウー氏の演説終了後も多くの支持者が路上に残り、勝利を目指す党のテーマソングを合唱。周囲の交通は一時まひした。
総選挙では上下両院の全664議席の内、国軍司令官が指名する軍人議員の議席などを除く491議席が改選される。NLDの勝敗ラインは単独で大統領を指名できる国会議席の過半数の獲得。そのためには改選議席の3分の2超を得る必要がある。
投票前の各種世論調査や在外投票での出口調査では、NLDが旧軍事政権の流れをくむ政権与党の連邦団結発展党(USDP)をリード。地元大手紙のイレブンメディアグループなどが8日、全国の投票所で1638人を対象に実施した出口調査では、NLDに投票した人は全体の81%を占め、USDP(6%)や、アラカン民族党(4%)などの主要少数民族政党を上回った。
ミャンマーの現行憲法は外国籍の親族のいる人物に大統領資格を認めないため、2人の息子が英国籍のスー・チー氏は大統領になれない。スー・チー氏は5日の記者会見で「選挙に勝利すれば、大統領以上の存在になる」と自身の政権主導に強い意欲を示している。
ミャンマー選管は9日、選挙結果の速報値を公表する予定だが、国軍の権限縮小など“真の民主主義”の実現を掲げるNLDが大勝すれば、政治関与を続ける国軍との緊張が高まる可能性もある。国軍トップのミン・アウン・フライン総司令官は、無条件で選挙結果を受けいれる方針を表明しているものの、選挙後の混乱を懸念する声も出ている。 (日本経済新聞 2015/11/8 23:53)
Hēraklēs(ヘーラクレース)の第7の難事はKrētē(クレ-テー)島の牡牛を連れてくることでした。 この牡牛はクレーテー島王Mīnōs(ミーノース)にPoseidōn(ポセイドーン)が贈ったとか、 彼の妻Pāsiphaë(パーシパエー)が恋した牡牛とも言われています。
またAcusilaus(アク-シラ-オス、紀元前6世紀後半に活躍した古代ギリシアの神話学者)説ではEurōpē(エウロ-ペ-)を乗せて海を渡った牡牛だと主張している。 つまりZeus(ゼウス)自らが牡牛に化けたのではなく、エウローペーの前に本物の牡牛を遣わしたことになります。とにかく、この牡牛はとても狂暴な性格であったいいます。
ヘーラクレースはMīnōs(ミーノース)に協力を要請しましたが、彼は自分でやれとなげやりな態度で取り合いません。 結局ヘーラクレース単身でその牡牛を捕まえて、Eurystheus(エウリュステウス)の元に連れ帰ったといいます。
Sikhelia(シケリア、現在のSicilia〈シケリア〉島)のDiodooros(ディオドロス、BC1世紀、シケリア島で生まれた古代ギリシアの歴史家)によれば、ミーノースは毎年生まれた牛の中で最も良いものをポセイドーンに捧げていましたが、ある年に生まれた牡牛は特に優れていましたので、惜しくなったミーノースは別の劣った牡牛を捧げてしまいました。このためポセイドーンは怒って、パーシパエーを牡牛に恋させたのだといいます。その後、ヘーラクレースはミーノースと協力してこの牡牛を捕らえ、牡牛の背に乗って海を渡り、エウリュステウスのところに連れて行ったと述べています。
Hyginus(ヒュギーヌス、BC64~AD17年、ラテン語の著述家)はパーシパエーが恋し、ヘーラクレースに退治された牡牛はAphrodītē(アプロディーテー)の牡牛だったとしています。アプロディーテーはパーシパエーが自分を崇めないので、牡牛への恋を起こさせたというのです。
パーシパエーは思いを遂げるため工匠Daidalos(ダイダロス)に相談しました。するとダイダロスは木で牝牛の像を作り、内側を空洞にし、牝牛の皮を張り付けました。そして像を牧場に運び、パーシパエーを中に入れて牡牛と交わらせたといいます。この結果、パーシパエーは身ごもり、牛の頭を持った怪物Mīnōtauros(ミーノータウロス)を生みます。ミーノースは怒ってダイダロスを牢に入れますが、パーシパエーはダイダロスを救い出してやったともいわれています。
※ Giulio Romano(ジュリオ・ロマーノ):ルネサンス中期の建築家・画家。幻想的、官能的なマニエリスム(極度に技巧的・作為的な傾向をもち,時に不自然なまでの誇張や非現実性に至る美術様式)芸術を展開しました。
一方、Acusilaus(アクーシラーオス、BC6世紀後半に活躍した古代ギリシアの神話学者)はエウローペーをさらってクレータ島に連れ去った牡牛だったとしています。
その後、この牡牛はPelopónnēsos(ペロポンネソス)半島に放たれ、Spártā(スパルタ)とArcadia(アルカディア)全土を通ったあとKorinthos(コリントス)海峡を渡ってAttika(アッティカ)のMarathon(マラトン)に棲みつきました。 マラトンの住人は、この牡牛に悩まされることになるのです。実はこの牡牛、ミーノースの息子Androgeōs(アンドロゲオース)を殺してThēseus(テーセウス)に退治された牛なのであるともいいます。
Hēraklēs(ヘーラクレース)の第6の難行はStymphalides(ステュンパーリデス)の森にいる鳥を追い払うことでした。ステュムパーリデスの鳥は、Pelopónnisos(ペロポネーソス)半島のStymphālos(ステュムパーロス)湖畔の鬱蒼たる森に棲んでいたとされます。嘴・爪や翼の先が青銅で出来ており、集団で生活していました。人間を襲ったり、田畑に毒性の排泄物を撒き散らしたりしていました。この鳥達はかつては軍神Arēs(アレース)のペットであったといいます。
Hēraklēs(ヘーラクレース)はこの恐るべき怪鳥どもを驚かせて飛び立たせるため、Athēnā(アテーナー)に頼んで、Hēphaistos(ヘーパイストス)からとてつもなく大きな音を立てるガラガラ(彼の工房のKýklōps〈キュクロープス、卓越した鍛冶技術を持つ単眼の巨人であり、下級神である1族〉達の目覚まし用の青銅製の鳴子)を借り受け、音に驚いた鳥が飛び立ったところをHydrā(ヒュドラー)の毒矢で射落としたとも、矢が効かないので彼に襲い掛かってくるところを1羽ずつ捕らえて絞め殺したともいいます。
一説によれば、ヘーラクレースが退治したステュムパーロス湖の怪鳥はStymphālos(ステュムパーロス、アルカディアの同名の町ステュムパーロスを建設し、王となって支配した)がOrnith(オルニス)との間にもうけた娘たちで、彼女たちはヘーラクレースを拒んでMolione(モリオネ、ギリシア神話の人物で、エーリス地方の英雄)を歓迎したため、ヘーラクレースに殺されたといいます。
※ Albrecht Dürer(アルブレヒト・デューラー、1471~1528年):ドイツのルネサンス期の画家、版画家、数学者。
Hēraklēs〈ヘーラクレース〉の第5の難行はAugeiās(アウゲイアース)の家畜小屋を1人で、尚且つ1日で掃除をすることでした。 アウゲイアースはĒlis(エリース、Pelopónnisos〈ペロポネソス〉半島にあり、北をAchaia〈アカイア〉、東をArcadia〈アルカディア〉、南をMessenia〈メッセニア〉、西をIónia〈イオニア〉海とそれぞれ接しています)王でHēlios(ヘーリオス、ギリシア神話の太陽神)の子、またはPoseidōn(ポセイド-ン)の子、 あるいはPhorbas(ポルバース)の子とも言われています。
今までの苦行に比べるとかなり生活じみた難事でありましたが、アウゲイアースの所有する家畜小屋の広さは半端ではありません。 おまけにその小屋は1度も掃除をしたことがないという汚さです。そんな衛生状態でよく家畜が病気にならないものでした。
※ Honore Daumier(オノレ・ドーミエ):マルセーユ出身。パリでルイ・フィリップ王政を批判する石版画を発表し、投獄されます。その後も、風刺の精神を貫きました。現実から目をそむけず、痛烈な観察眼を持って政治漫画などを描いていましたが、晩年になってから、画家として重要視されるようになります。多様な文学的主題を取り扱った点でも、ロマン派の画家であった。
アウゲイアースを訪れたHēraklēs(ヘーラクレース)は、Eurystheus(エウリュステウス)には内緒でちょっと汚い交渉をしました。
「もし俺が1日でこの小屋を掃除できたら、家畜の10分の1を分けてくれるか?」
「まさか、この広さを1日で掃除なんて。できっこないだろう。もし本当に出来たら約束は果たそう。」
「よし、じゃあ証人を立てよう。」
「私の息子Phȳleus(ピューレウス)でよいかな。」
「いいだろう。王子ピューレウスよ、今の話聞いたな。」
「はい。神に誓って。」
交渉成立。まず家畜小屋の土台の両端に大きな穴をあけて、Alpheus(アルペイオス)川とPeneios(ペネイオス)川から水を引いてきました。 そして小屋の中に大量の水を流し込み、あっという間に家畜の糞は川に流れていったのでした。価値小屋はピカピカ。牛も馬もご機嫌。 不機嫌なのはアウゲイアースです。
アウゲイアースは吃驚仰天開いた口がふさがりませんでしたが、報酬を与えることを拒み始めたのです。
「報酬だと? そんな約束をした覚えはない。大体この仕事はMykēnai(ミュケーナイ)王エウリュステウスの命令だというではないか。 そんな、私が報酬などと…… 寝ぼけるのもいい加減にしたまへ。」
「なに? それとこれとは関係ない。俺は証人として貴様の息子ピューレウスまで立てたのを覚えてないと言うのか。訴えてやる!」
そして裁判が始まりました。父アウゲイアスは、息子は自分の味方をすると思っていたのでしょうか。 残念ながらピュレウスは信義を重んじる性格だったようで、正直に父の証言を否認したのです。 逆切れしたアウゲイアスは投票が行われる前に、ピュレウスとヘーラクレースをエリースから追放してしまいます。 居場所を失ったピューレウスはDulichion(ドゥ-リキオン)島に腰をすえることにしました。
このことを恨んだヘーラクレースは、Īlios(イリオス)攻略ののち、Arcadia(アルカディア)人の軍勢を集めてエーリスを攻撃した。アウゲイアースはこれに対してMolione(モリオネ、Eurytos〈エウリュトス〉とCteatus〈クテアトス〉で、アクトールとモリオーネーの息子。腰から下はひとつの身体という双子の兄弟)を将に任じます。この兄弟はPoseidōn(ポセイドーン)の子ともいわれ、怪力の持ち主で、エーリス地方の英雄と言われます。ヘーラクレースは遠征中に病を得て休戦したが、休戦の理由を知ったエウリュトスとクテアトスがこれを襲い、ヘーラクレースは退却を余儀なくされました。その際多くの兵が倒され、ヘーラクレースの異父兄弟Īphiklēs(イーピクレース)もこのときの傷がもとで死んだといいます。
しばらくしてIsthmia(イストミア)大祭が開かれ、これにエウリュトスとクテアトスが参加することを知ったヘーラクレースは、二人を待ち伏せして殺し、エーリスを陥落させました。アウゲイアースは息子たちとともに殺されました。一説には、命だけは助けられたともいいます。ヘーラクレースは追放されていたピューレウスを呼び寄せてエーリスの王としました。
Pausanias(パウサニアス、115年頃~180年頃、2世紀ギリシアの旅行家で地理学者で、『ギリシア案内記』の著者として知られています)はこの話に加えてその後日譚について触れています。ヘーラクレースが報復のためにエーリスを攻撃して占領したさい、ヘーラクレースはピューレウスをドゥーリキオンから呼び寄せ、エーリスの王としました。しかしピューレウスはエーリスの国制を制定した後に、再びドゥーリキオンに戻り、エーリスは兄弟のAgasthenēs(アガステネース)が後を継いだといいます。
一方ヘーラクレースはAchaia(アカイア)西端にあるOlenos(オレノス)領主Dexamenos(デクサメノス)の館に赴きました。 ちょうどCheirōn(ケイローン)が亡くなった後Pholoe(ポロエ)山に戻ったはずのKentauros(ケンタウロス)のEurytiōn(エウリュティオン)が、 王女Mnesimache(ムネシマケ)にあれやこれやとちょっかいを出していて王はかなり困り果てていたのです。館ではちょうど、王女ムネシマケを花嫁として送り出すところだったのです。先にヘラクレスと戦って散り散りに逃げた、乱暴なケンタウロス族の一人、Eurytiōn(エウリュティオン)が、こんなところにやって来て、ムネシマケに激しく恋慕、是非妻にくれと脅迫していたのです。生贄同然の花嫁を前に、単純なヘーラクレースは断固、義侠心を発揮。早速、エウリュティオン待ち伏せて、花嫁を受け取りに来たところを、とっとと殺してしまいました。
ヘーラクレースはこんなふうに、難業の往路、帰路の先々で、人々を困らせる人間やら半人半獣やら猛獣やらを一掃しながら進んでいるのです。
今朝のウェブニュースより
「あさが来た」モデル、広岡浅子ゆかりの資料1万点発見 ―― NHKの連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデル、広岡浅子(1849~1919)が嫁いだ大阪の豪商・加島屋(かじまや)が幕末に各地の藩に貸した金の借用書や、浅子の手紙など約1万点の資料が、奈良県橿原市の民家で見つかった。加島屋の分家を切り盛りしていた浅子が、新政府との交渉に向けて旧藩の借用書の整理を手がけた可能性もあるという。
見つかったのは江戸時代以来、奈良県で山林経営をしている岡橋家。加島屋の10代当主・広岡正直の娘が嫁いでおり、太平洋戦争の際に広岡家が加島屋関係の古文書を「疎開」させたものという。
借用書は仙台、長州など藩別に封筒に入れられて整理されていた。明治政府は旧藩の借金を新設の県に引き継がせる際、金を貸した両替商らに借用書などの提出を求めており、その際に整理したとみられる。中津藩(今の大分県中津市)の借用書には、大阪の蔵屋敷に勤めていた福沢諭吉の父、百助(ひゃくすけ)が署名したものもあった。
加島屋では、本家の親戚の「分家」や奉公人が独立した「別家」の債権も、すべて本家に集めて整理。浅子は、夫が継いだ分家の経営を仕切っていたと自伝に記していることから、宮本又郎(またお)・大阪大名誉教授とともに資料を調べた神戸大経済経営研究所の高槻泰郎(やすお)・准教授は「浅子も債権整理に関わった可能性が高い」とみる。また、浅子が義弟の妻にあてた「浅」の署名がある手紙も見つかった。
明治政府は1843年以前の旧藩の借金を帳消しとしたため、大阪の両替商は大打撃を受けたとされてきたが、両替商らは水面下では借金の扱いを交渉していたことも明らかになりつつある。高槻さんは「大阪の両替商が明治維新で受けた打撃の実態がつかめるかも」と期待する。
資料は9日、神戸大である公開講座「豪商たちの近世・近代」(すでに受け付けは終了)で報告される。
〈広岡浅子〉 京都の三井家の出身で、加島屋8代目当主広岡久右衛門の次男、信五郎と結婚。明治維新後に危機に陥った加島屋の経営を立て直し、筑豊の炭鉱経営も手がけた。日本初の女子大、日本女子大学校(現在の日本女子大)の創設にも尽力した。座右の銘は「九転十起」。
(朝日新聞DIGITAL 2015年11月5日11時39分)
Hēraklēs(ヘーラクレース)の第4の難行はArcadia(アルカディア)地方Erymanthos(エリュマントス)に棲む猪を生け捕りにすることでした。この猪は山から下りてきてはPsophis(プソピス)町に害を与えていたのです。 ヘーラクレースは途中でアルカディア西部にあるPholoe(ポロエ)山を通ったとき、Pholos(ポロス)と知り合い世話になります。 彼はSeilēnos(セイレノス)とトリネコの木のNymphē(ニュンペー)Melias(メリアス)との子といわれ、Kentauros(ケンタウロス)族でした。
※ Kylix(キュリックス):二つの大きな取っ手のついた平らな皿の下に脚台をつけた杯
ケンタウロス族は生肉を食べる習慣だったのですが、わざわざヘーラクレースのために肉を焼いて接待してくれました。酒癖のよくないヘラクレスは、気分が良くなってくると、わがまま放題に酒が呑みたいと騒ぎ出すのでした。
「酒のフタをあけると他のケンタウロスたちがやってくるから、止めたほうがいいですよ。」
「ケンタウロスがなんでぇ~い。」
「ケンタウロスを甘く見ないほうがいいですよ。ホントに彼らは酒を飲むとタチ悪くなりますから。」
「大丈夫だって、ちょっとだけちょっとだけ。」
そういって勝手にふたを開けて酒を飲み始めたヘーラクレースでしたが、案の定、酒の匂いにつられて他のケンタウロスたちが集まってきました。
「なんだ、お前は。なに勝手にここで酒を飲んでいるんだ。」
「まあそういきり立つなよ。俺はヘーラクレースだ。お前は?」
「Anchios(アンキオス)だ。」
「Agrios(アグリオス)という。それは俺達の酒だぞ。ポロスも勝手にこんな人間に俺達の酒を出すなよ!」
「ケチくせーやつらだな。うるせぇからあっちに行けよ。」
ヘーラクレースは燃え木を彼らに投げつけたのです。そして大喧嘩が始まってしまいました。 しかしどれだけの人数をしてもヘーラクレースにはかないません。ケンタウロスたちはMalea(マレア、Pelopónnisos〈ペロポネーソス〉半島南部)方面に逃げ出します。
※ Odilon Redon(オディロン・ルドン):19世紀~20世紀のフランスの画家。印象派の画家たちと同世代てすが、その作風やテーマは大いに異なっています。光の効果を追求し、都会生活のひとこまやフランスのありふれた風景を主な画題とした印象派の画家たちに対し、ルドンはもっぱら幻想の世界を描き続けたといいます。
マレアには、Pelion(ペリオン)山を出てそこに居を構えていた賢人Cheirōn(ケイローン)がいるのです。 ヘーラクレースが追いながら射た矢がElatos(エラトス)の腕を射抜き、 そのままCheirōn(ケイローン)の膝に刺さってしまいました。
「先生、大丈夫ですか!?」
当惑しながらヘーラクレースはケイローンの元へ走りより、急いで矢を抜きます。そしてケイロンの持っていた傷薬を塗ったのですが、全く効き目はありません。 ヘーラクレースが以前倒したHydrā(ヒュドラー)の血は強力で、 医術に長けているケイローンでさえ治すのは不可能だったのです。
ケイローンはあまりの激痛に死を望みますが、彼自身が不死身の体でしたので死ぬことすらできません。 そのため、この能力をPromētheus(プロメーテウス)に与えてこの世から去り、苦痛から逃れることができたのでした。この時にケイローンの不死の力を受け入れてもらうために、ヘーラクレースがカウカーソス山に縛り付けられていたプロメーテウスを解放したとされています。この後、ケイローンの死を惜しんだゼウスは、彼を射手座にしたということです。
結局ケンタウロスたちはこのマレア山に居座ることになり、Poseidōn(ポセイド-ン)の庇護を受けてEleusis(エレウシス)山中に住まうものもいました。 他のNessos(ネッソス)はヘラクレスを怨みつつEuēnos(エウエノス)河で川渡しをして生計を立てることにし、Eurytion(エウリュティオン)はポロエ山に戻りました。 あとを追ってきたポロスは毒矢を取り上げてしげしげとながめていたのですが、つい手が滑って自分の足に刺して命を落としてしまいます。 ヘーラクレースは彼をポロエに葬り、エリュマントスへ向かいます。
エリュマントスに到着したヘーラクレースはさっそく猪を発見。まず大声を出して茂みからおびき寄せて追いかけました。 深い雪の中で足を取られた人食いの怪物大猪は、瞬く間にヘーラクレースに捕らえられてMykēnai(ミュケナイ)に連れて行かれたのでした。
ヘーラクレースのattribute(アトリビュート)
添付の甕の絵はギリシャ神話においてヘーラクレースが猪を生け捕りにして、Eurystheus(エウリュステウス)へ献上したというエピソードに由来します。ヘーラクレースが猪を担いでいるモチーフです。同じようにライオンや牡牛もヘーラクレースのアトリビュートとされることがあります。本作品では、右の男性が甕の中に入っていますが、これはヘーラクレースが猪をエウリュステウスに献上した際に、王がおびえて青銅の甕の中に逃げ込んだということが由来となっているのです。
※ attribute(アトリビュート):西洋美術において伝説上・歴史上の人物または神話上の神と関連付けられた持ち物。その物の持ち主を特定する役割を果たします。持物(じぶつ)ともいいます。
Hēraklēs(ヘーラクレース)の第3の難行はCeryneian(ケリュネイア)の鹿を生け捕りにすることでした。Achaia(アカイア)地方のケリュネイアの鹿は、ギリシア神話に登場する巨大な雌鹿で、女神Artemis(アルテミス)の聖獣でもあります。その鹿はOinoe(オイノエ)に生息し、黄金の角と青銅の蹄(ひずめ)を持っており、矢よりも素早く動くことができたといいます。この鹿は、Artemis(アルテミス)がLykaion(リュカイオン)山中で草を食べているのを見つけ、自ら捕まえた鹿で、全部で5頭おり、内4頭はアルテミスが自分の戦車に繋ぎました。残りの1頭は脚が速すぎる為、狩猟の神でもあるアルテミスでも捕まえることができなかったというものです。その後、Hērā(ヘーラー)の命令でその鹿はHēraklēs(ヘーラクレース)を試すために、ケリュネイアの山中に放されたのです。
ヘーラクレースは前の2つの功業(ネメアーの獅子退治とヒュドラー退治)を成し遂げたので前回よりも難しい3番目の試練を考え出すのには多くの時間を費やさねばなりませんでした。その為、Eurystheus(エウリュステウス)は大いに腹を立てたのですが、エウリュステウスは第3の試練をケリュネイアの鹿を捕らえさせることに決めたのです。しかしこの鹿はアルテミスの捧げ物なので生け捕りにすること、とされました。
ケリュネイアの鹿はあまりにも足が速かった為、ヘーラクレースはまる1年間もギリシア、Thracia(トラーキア、バルカン半島南東部の歴史的地域名)、Istria(イストリア、アドリア海の奥に位置する三角形の半島)、Hyperboreios(ヒュペルボレイオス、Cthulhu〈クトゥルフ〉神話に登場する架空の地名)を通って徒歩で雌ジカを追い続けるのでした。そして1年後ヘーラクレースはやっと雌ジカがLādōn(ラードーン)川の水を飲むために止まったときに矢(この矢にはHydrā〈ヒュドラー〉の血が塗ってある)で脚を射て、捕らえることができました。
エウリュステウスはアルテミスの聖獣を捕まえるという試練を課すことによって、アルテミスを激怒をさせることを望み、ヘーラクレースにこの試練を与えたのですが、雌ジカを捕らえ、家路を急いでいるとヘーラクーレスは偶然、アルテミスの双子の兄、Apollōn(アポローン)に遭遇しました。アルテミスとアポローンは鹿が殺されていると思い込み、激怒したのですが、これがエウリュステウスの命令であり罪は彼の方にあること、ヘーラクレースが苦行の一環として鹿を捕らえねばならなかったこと、まだ鹿が生きていることを説明しアルテミスに鹿を絶対返すことを約束するとアルテミスの怒りは静まったといいます。こうして、アルテミスにヘーラクレースを罰させるエウリュステウスの計画は挫かれたのでした。 その後ヘーラクレースは無事Mykēnai(ミュケーナイ)につき、第3の試練も無事終了しました。その後、この鹿はアルテミスに返されたといいます。
※ amphora(アンポラ):陶器の器の一種で、2つの持ち手と、胴体からすぼまって長く伸びる首を持ちます。アンポラは最初、紀元前15世紀ごろのレバノンからシリアの海岸に現れて古代世界に広まり、古代ギリシア・ローマにおいては、ブドウ、オリーブ・オイル、ワイン、植物油、オリーブ、穀物、魚、その他の必需品を運搬・保存するための主要な手段として用いられました。
Hēraklēs(へーラレース)の第2の難行はLerna(レルネ)の水蛇Hydrā(ヒュドラ)を退治することでした。
ヒュドラーはTyphon(テューポーン)とEchidna(エキドナ)の子で、Hērā(ヘーラー)がヘーラクレースと戦わせるために育てたとされます。草食恐竜のような巨大な胴体と9つ(5から100までの異説がある)の首を持ち、一本の首を切り落としても、すぐにそこから新しい2本の首が生えてくる。絵画などでは前足と後ろ足、翼を持った姿で表される事もあります。
ヒュドラーは、Lerna(レルネー)の沼に住み、触れただけで全生命体を絶命させる宇宙最強の猛毒を有していました。ヘーラクレースはヒュドラーの吐く毒気にやられないように口と鼻を布で覆いながら戦わねばならなかったのです。
※ Gustave Moreau(ギュスターヴ・モロー):フランスの象徴主義の画家です。パリに生まれパリで亡くなりました。聖書や神話に題材をとった幻想的な作風で知られます。印象派の画家たちとほぼ同時代に活動したモローは、聖書やギリシャ神話をおもな題材とし、想像と幻想の世界をもっぱら描きました。彼の作品は19世紀末のいわゆる『世紀末』の画家や文学者に多大な影響を与え、象徴主義の先駆者とされています。
ヘラクレスは助っ人として、甥のIolāos(イオラーオス、双子の兄弟Īphiklēs〈イーピクレース〉の子)を連れて行きました。
そしてAmȳmōnē(アミュモネ)の泉でヒュドラを発見します。まず火矢を放って、そこからヒュドラー追い出します。しかしヒュドラはヘーラクレースの片足にまきついてきます。 ヘーラクレースは棍棒で頭を勝ち割ったが、2つに分裂しただけでした。 またそこにはヘーラーが送り込んだ大カニも潜んでいて、思い切りヘラクレスの足をはさんでヒュドラを援助します。 しかしカニはヘーラクレースに踏み潰されて、あっけなく昇天してしまいました。その後かに座となったのだといいます。
ヘーラクレースは始め、ヒュドラーの首を切っていきましたが、首を切っても切っても埒の明かないヒュドラ相手に、ヘーラクレースはイオラーオスの援護を求めました。 ヘーラクレースが切った首の切り口に、イオラーオスが松明で焼いて再生を不可能にしたのです。
※ lekythos(レキュトス)とは、油の貯蔵に使われた古代ギリシアの陶器の一種で、特にオリーブ油を貯蔵しました。
こうして首を全て切り取り、残るは不死身の首1本になりました。ヘーラクレースは首の上に重い大岩を乗せて、永遠に動けないように押さえつけたのでした。 またヒュドラの体を裂いて、自分の矢じりにヒュドラの血を塗りたくりました。この後ヘーラクレースはヒュドラーの猛毒を矢に塗って使うようになったといいます。
最後に残った不死の頭は岩の下に埋め、見事ヒュドラーを退治しました。そしてヒュドラーはうみへび座となったいいます。
Eurystheus(エウリュステウス)は、従者から助けられたことを口実にして、功績を無効としたため、難業が1つ増えることになったのだといいます。
本日より、ヘーラクレースの12の功業(難行)の1つずつについてみていくことにしましょう。
Nemea(ネメアー、ペロポネソス半島北東部)の谷に住み着き、人や家畜を襲ったとされる獅子は、母はEchidna(エキドナ、上半身は美女で下半身は蛇で背中に翼が生えた姿をしている怪物。「蝮の女」がその名の意味です)、父はその子Orthros(オルトロス、テューポーンとエキドナの子で、姿は黒い双頭の犬で、鬣〈たてがみ〉一本一本と尻尾が蛇になっているといいます)とも、Tȳphōn(テューポーン、ギリシア神話に登場する神、あるいは怪物たちの王。体躯は宇宙に到達するほど巨大とされ、地球を焼き払い、天空を破壊し、灼熱の火炎と共に暴れ回って全宇宙を崩壊させた。その力は神々の王ゼウスに比肩するほどであるといいます)ともいわれています。
皮は分厚く、さらにその皮膚の下に筋肉が変化して出来た甲羅があるといわれます。ヘーラクレースの12の難行のうち、最初の難行がネメアーの獅子を倒す事でありました。ヘーラクレースはネメアーの森にライオンを探しに行きましたが、皆ライオンに食べられてしまって、 ライオンのことを知る人に出会うことが出来ず、 ヘラクレスは20日以上もネメアの森をさ迷いました。ある日ヘラクレスはKleonai(クレオーナイ、Mykēnai〈ミュケーナイ〉の一地域)の日雇い人Molorchos(モロルコス)の客となりました。 彼は自分の子供をライオンに食べられた貧乏人でした。 モロルコスはヘラクレスを歓迎して1頭しかいないメスの羊を殺して接待しようとしたとき、 ヘラクレスはそれを止めてこう言いました。
※ Andrea Mantegna(アンドレア・マンテーニャ):イタリアルネサンス期の画家。ゴシック期、ルネサンス期のイタリアの絵画は、都市ごとに独自の発達をとげ、シエナ派、ヴェネツィア派などと都市の名を冠して分類されます。マンテーニャはパドヴァ派の代表格と見なされる画家です。
「30日の間にネメアのライオンを退治できたらこの羊はゼウスに捧げて下さい。 もし30日たって私が帰らなかったら、死者(ヘーロース)として私に供えて下さい。こうしてヘラクレスは旅立ち、ついにライオンを見つけたのです。
ヘラクレスはライオンに向って矢を放ちましたが2本とも跳ね返ってしまい、 3本目を射ようとしたとき、ライオンは猛然と襲い掛かってきました。 ヘラクレスは棍棒で人食いライオンに殴り掛かかったのですが、 なんと棍棒は真っ二つに折れてしまいました。
しかしライオンは堪らず2つ穴のある洞穴に逃げ込んだのです。 ヘラクレスは片方の穴を大岩で塞ぎ、もう一方の穴から入り 無双の腕力で3日3晩ライオンの首を絞めて窒息させました。
※ Francisco de Zurbarán(フランシスコ・デ・スルバラン):バロック期のスペインの画家。スペイン絵画の黄金時代と言われる17世紀前半に活動した画家であり、宗教画、静物画に優れていました。
その後、ヘーラクレースによって、あらゆる武器を弾く毛皮は獅子の爪で引き裂かれて加工されて、ヘーラクレースは皮を頭からかぶり、鎧として用いたといいます。または獅子の肉はヘーラクレヘスによって食べられたといいます。
モロルコスは30日経ってもヘラクレスが戻らないので、 ライオンに殺されてしまったと諦めて、 死んだヘラクレスに羊の捧げ物をする準備を始めておりました。 丁度そこにヘラクレスが帰ってきてライオンを退治したことをモロルコスに告げたので、 羊はゼウスに捧げられました。
ライオンを退治してきたヘーラクレースを市民は歓喜の声で迎えました。 ヘーラクレースがライオンを退治してきたことを聞いたEurystheus(エウリュステウス)王は、 ヘラクレスの恐ろしい力を知り、殺されてはたまらないと、 鍛冶屋に命じて頑丈な青銅の壷を作りヘーラクレースがやってくるとその中に逃げ込み、 ヘラクレスを王宮に入れることを許さないで、 命令は使者を通じて言い渡すようになりました。
その後、ネメアーの獅子の魂は、ゼウスによって星座の一つである『獅子座』になったと言われています。獅子が英雄のシンボルになったのもこのためだといわれいます。
一説によると、ヘラクレスを憎むゼウスの妻Hērā(ヘーラー)は、よくぞヘラクレスを苦しめてくれたと、 このライオンを星座にしたという事です。
人の子として地上に生まれたHēraklēs(ヘーラクレース)でしたが、その父は、最高神Zeus(ゼウス)です。Árgo(アルゴス)の王女であった彼の母は、夫に化けたゼウスに誘惑され、騙されて彼を身ごもったために、彼の肉体は半分は神となったのです。ゼウスが彼を人として誕生させたのは、来るべきGigantes(ギガンテス)との戦いに備えてのことでした。オリュンポス神族を滅ぼすためにガイアが遣わしたこの怪物は、「神には殺せぬ」身体をもっていたのです。実際、ヘーラクレースは成長後、これを撃退し、父の期待に応えています。
が、「Hērē(ヘーラー)の栄光」を意味する彼の名が、自分を称えているにも関わらず、ゼウスの正妻ヘーラーは、夫の不貞の証である彼を憎んだのでした。
ヘーラクレースはThēbai(テーバイ)とOrchomenos(オルコメノス)王Erginos(エルギーノス)との戦争でエルギーノスを討ち取り、オルコメノスの軍勢を潰走させました。さらにテーバイはオルコメノス王Klymenos(クリュメノス)を殺した賠償として、20年間の貢物を課されていましたが、ヘーラクレースはオルコメノスにテーバイに対してその2倍の貢物を支払うことを認めさせたのです。これらの功績がKreon(クレオーン)に認められ、Megarā(メガラー)はヘーラクレースの妻として与えられたのです。
ヘーラーは、ヘーラクレースが最初の妻メガラーと幸福な家庭を築いたそのときを見計らって、彼を狂わせ、彼自身に妻子を惨殺させてしまいます。正気に戻った彼は、自らの行為におののき、絶望したといいます。
メガラーについては異説が多く、メガラーとヘーラクレースの子供の数は2人、8人とも言われています。彼女の子供たちは気が狂ったヘーラクレースによって殺されますが、その死はヘーラクレースの12の難行以前とも、難行後であると言われ、特に前者の場合は12の難行および、ヘーラクレースがOichalia(オイカリアー)王Eurytos(エウリュトス)を滅ぼすきっかけとなっています。一方、後者の説ではメガラーも子供たちと一緒に殺されたことになっています。
そんな彼に「12の功業」を遂げることで罪を贖うよう助言したのは、太陽神Apollōn(アポローン)でした。ヘーラクレースはそれに従い、9頭の水蛇Hydrā(ヒュドラ)、黄金の角を持つ大鹿、怪鳥Stymphālos(ステュンパーロス)、冥府の番犬Kerberos(ケルベロス)など、数々の怪物と戦い、功業を積んでゆきます。そして12年をかけて、彼はすべての功業を達成、晴れて自由の身となったのです。
紀元前472年から456年にかけてOlympia(オリンピア)に建設されたZeus(ゼウス)神殿の装飾は、ペルシア戦争直後のギリシア彫刻を活気付ける新しい才気を反映していますが、これらmetope(メトープ、建築用語の浮彫石板)はCrete(クレタ)島の牡牛捕獲などのヘラクレスの12の功業を描いています。
その後、2番目の妻Dianeira(デーイアネイラ)を娶り、束の間の平和を得たヘーラクレースでしたが、それも長くは続きませんでした。妻は彼の敵に騙されて、毒を塗った下着を彼に着せてしまうのでした。ヘーラクレースは自らを火葬に臥し、壮絶な死を遂げます。そのとき、彼の半神の部分が、ゼウスによって召し上げられ天上に引き上げられます。
天上で彼は、ついにへーラーと和解し、彼女の娘Hēbē(へべ)を3番目の妻として迎え、以後、正式に神となったといわれています。
昨日は、浅草寺病院で定期健診の日でした。区の無料検診も受けましたし、インフルエンザワクチンも打ってきました。
Hēraklēs(ヘーラクレース)はAmphitryōn(アムピトリュオーン)から戦車の扱いを、Autolykos(アウトリュコス)からレスリングを、Eurytos(エウリュトス)から弓術、Kastōr(カストール)から武器の扱いを、Linos(リノス)から竪琴の扱いを学びました。リノスはヘーラクレースの覚えの悪いのに業をにやして彼を打擲しますが、反対に大石で打ち殺されたともいわれています。また、Kentauros(ケンタウロス)族のCheirōn(ケイローン)に武術を師事して、剛勇無双となりました。Kithairon(キタイローン)山のライオンを退治し、以後ライオンの頭と皮を兜・鎧のように身につけて戦うようになります。
ヘーラクレースは義父アムピトリュオーンが属するThēbai(テーバイ)を助けてOrchomenos(オルコメノス)の軍と戦い、これを倒しました。テーバイはオルコメノス王Klymenos(クリュメノス)を殺した賠償として、20年間の貢物を課されていましたが、ヘーラクレースはオルコメノスにテーバイに対してその2倍の貢物を支払うことを認めさせたのです。これらの功績がKreon(クレオーン、テーバイ王妃イオカステーの実弟であり、後のテーバイ王。8月30日のブログ「Oidipūs(オイディプース)王」を参照)に認められ、クレオーン王は娘Megarā(メガラー)を妻としてヘーラクレースに与えました。二人の間には3人の子供が生まれます。
しかし、Hērā(ヘーラー)がヘーラクレースに狂気を吹き込み、ヘーラクレースは我が子とĪphiklēs(イーピクレース)の子を炎に投げ込んで殺してしまい、これを悲しんだメガラーも自殺してしまいます。正気に戻ったヘーラクレースは、罪を償うためにDelphoi(デルポイ)に赴き、Apollōn(アポローン)の神託を伺ったのです。神託は、「Mykēnai(ミュケーナイ)王Eurystheus(エウリュステウス)に仕え、10の勤めを果たせ」というものでした。
ヘーラクレースはこれに従い、本来なら自分がなっているはずのミュケーナイ王に仕えることになったのです。「ヘーラクレースの選択」といえば、敢えて苦難の道を歩んでいくことをいいます。
Annibale Carracci(アンニーバレ・カラッチ、1560~1609年)の絵画に英雄ヘーラクレースが岩の上に座り、「美徳」と「悪徳」を擬人化した二人の立ち姿の女性の間で、どちらに従うべきか迷っている様子を描いているものがあります。
左側の地味な服装をした女性は「美徳」の象徴で、足元には月桂冠の冠を戴き書物を持つす詩人の姿も描かれています。彼女が指し示す方向は、岩だらけの狭い道が続いていますが、これを頑張って登れば、名声を象徴する有翼のPēgasos(ペーガソス)が待っていると示しています。一方、右側の薄い衣を身にまとった女性は「悪徳」の象徴で、足元に置かれた仮面は「欺瞞、淫欲」、楽器は「地上的な快楽」の象徴として描かれています。彼女の示す道はなだらかで、その先は陽の当たる牧場に至り、池では裸の男女が遊び戯れています。
双方の言葉に耳を傾けた後、神の子ヘラクレスがどちらの女性の手を取ったかは言うまでもありません。
※ Annibale Carracci(アンニーバレ・カラッチ):バロック期のイタリアの画家です。イタリア美術における初期バロック様式を確立した画家の一人であり、イタリア北部のBologna(ボローニャ、イタリア共和国北部にある都市)を中心に活動したボローニャ派の代表的画家です。アンニーバレを中心とするカラッチ一族の門下からは多くの著名画家が育っており、後世への影響も大きいものがあります。
sechin@nethome.ne.jp です。
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