一昨日、インターネットのウェブニュースで次のような記事を見つけました。
東京都・浅草で"夜の公園"をとり続ける写真家・山下晃伸氏の個展 ―― 東京都・浅草のGallery HATCHでは、写真家・山下晃伸氏の個展「山下晃伸展 -moving still life-」を開催している。会期は11月1日まで。開場時間は16:00~20:00(土・日・祝日は14:00~)。入場無料。
同展は、限定したモチーフで夜光写真を撮り続ける写真家・山下晃伸氏の個展。夜の公園のオブジェを中心に撮り続けた作品「-moving still life-」が展示されている。
また、10月31日 12:00~15:00には、同氏の世界で塗り絵を行う「夜光性静物に塗り絵しよう」と、同氏の作品から夜の公園のイメージを広げてスクラッチで絵を描く「夜の公園を描こう」といった、ふたつのワークショップが開催される。どちらも幼児から大人を対象とし、会場はHATCH EKIMISE(浅草駅直結の駅ビル エキミセ7階)。 ワークショップの参加費は500円。
なお、山下晃伸氏は1984年東京生まれ。2013年東京工芸大学 大学院 芸術学研究科メディアアート専攻 博士後期課程 修了・博士号(芸術学)取得。日本写真学会会員・日本写真芸術学会会員。 [マイナビニュース 2015/10/27]
Gallery HATCHの場所を調べてみますと、我が家より吉野通りを隔てたバス停「隅田公園」の所です。昨夕4時早速女房と一緒に訪ねてみました。こんな近くにgalleryがあるということも気が付かなかったほどの狭くて、一般商店の店構えの2階で開催されていました。狭くて急な階段を上り会場に入って、ニュースにあった写真を見ていると、丁度居合わせた撮影者の山下晃伸(やましたあきのぶ)氏が近づいて来て、丁寧に写真の説明をして下さいました。
来年のカレンダー「moving still life~夜光性静物観察記~」を買い求めて帰宅しました。
いやはや、デジカメに山下晃伸氏と撮った写真もこのブログに載せようと思ったのですが、いつものような操作を繰り返し行いましたが、旨くパソコンに移すことができません。残念。
ここのところ、メールの送信ができなかったり、今回の写真の取り込み不能などパソコンのトラブルが多くて困ったことではあります。またまた、塾友にMN氏に助けをお願いしなくてはならないのでしょうか。
Hēraklēs(ヘーラクレース)はZeus(ゼウス)とAlkmēnē(アルクメーネー、ペルセウスの孫に当たる)の子です。アルクメーネーを見初めたZeus(ゼウス)は、様々に言い寄ったが、アルクメーネーはAmphitryōn(アムピトリュオーン)との結婚の約束を守り、決してなびきませんでした。そこでゼウスはアムピトリュオーンが戦いに出かけて不在のおり、アムピトリュオーンの姿をとって遠征から帰ったように見せかけ、ようやく思いを遂げ、1夜を3倍にして楽しんだ。アルクメーネーは次の日に本当の夫を迎え、神の子ヘーラクレースと人の子Īphiklēs(イーピクレース)の双子の母となったのです。
アルクメーネーが産気づいたとき、Zeus(ゼウス)は「今日生まれる最初のPerseus(ペルセウス)の子孫が全Argos(アルゴス)の支配者となる」と宣言しました。それを知ったゼウスの妻Hērā(ヘーラー)は、出産を司る女神Eileithyia(エイレイテュイア)を遣わして双子の誕生を遅らせ、もう一人のペルセウスの子孫でまだ7カ月のEurystheus(エウリュステウス)を先に世に出しました。こうしてヘーラクレースは誕生以前からヘーラーの憎しみを買うことになったのです。
ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘーラーの母乳をヘーラクレースに飲ませようとしていました。しかし、嫉妬深いヘーラーはヘーラクレースを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしませんでした。一計を案じたゼウスはヘーラーに眠り薬を飲ませ、ヘーラーが眠っているあいだにヘーラクレースに母乳を飲ませました。ヘーラクレースが乳を吸う力が強く、痛みに目覚めたヘーラーは赤ん坊を突き放します。このとき飛び散った乳が天の川(galaxy〈ギャラクシー〉は「乳のサイクル」、Milky Wayは「乳の道」)になったといいます。
※ Peter Paul Rubens(ピーテル・パウル・ルーベンス):バロック期のフランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残しました。
これを恨んだヘーラーは密かに二匹の蛇を双子が寝ている揺り籠に放ちます。赤ん坊のイーピクレースは蛇を見て、逃げ出しますが、ヘーラクレースは素手でこれを絞め殺したといいます。
ギリシア神話の英雄伝に話を戻します。暫くはギリシア神話に登場する最大にして最強のヘーラクレースの英雄譚が続くものとご承知下さい。
Hēraklēs(ヘーラクレース)はギリシア神話の半神半人の英雄であり、ギリシア神話に登場する多くの英雄たちの中でも最大最強の存在です。腕力だけで山脈や大陸を破壊したり、銀河が散りばめられた天空を持ち上げたりするなど、神々にも引けを取らぬ宇宙規模の怪力を誇りました。のちにÓlimpos(オリュンポス)の神々の一員になったとされます。Perseus(ペルセウス)の子孫であり、Mykēnai(ミュケーナイ)王家の血を引くといいます。幼名をアルケイデース(Alkeidēs)といい、祖父の名のままAlkaios(アルカイオス)とも呼ばれてもいます。
後述する12の功業を行う際、Tiryns(ティーリュンス、ペロポネソス半島あるミケーネ文明の遺跡)に居住するようになった彼をDelpho(デルポイ)の巫女が 「Hērā(ヘーラーの栄光)」を意味するヘーラクレースと呼んでからそのように名乗るようになりました。Cynosarges(キュノサルゲス)等、古代ギリシア各地で神として祀られ、古代ローマに於いても盛んに信仰されました。その象徴は弓矢、棍棒、獅子の毛皮であります。
※ Cynosarges(キュノサルゲス):アテーナイの城壁の外に隣接し、Ilios(イリッソス)川の南の丘にあった公共のgymnasion(ギュムナシオン、体育場)です。名称は cynos(キュノス) と argos(アルゴス) に由来し、「白い犬」または「すばしこい犬」を意味します。伝説によれば、Athēnai(アテナイ)のDidymos(ディディモス) がたくさんの生贄を捧げていたとき、白い(またはすばしこい)犬が現れて捧げ物を盗んで逃げた。ディディモスが驚いていると神託があり、その犬が捧げ物を落とした場所にヘーラクレースの神殿を建てよ、と告げたといいます。
Hēródotos(ヘロドトス、BC484~425年、古代ギリシアの歴史家で、今日まとまった形で伝承された最初の歴史書『歴史』により「歴史の父」とも呼ばれます)によれば、紀元前490年ごろにはそこに神殿があり、それがヘーラクレースの有名な聖地となり、その母Alkmēnē(アルクメーネー)、妻Hebe(ヘーベー)、ヘーラクレースを助けたIolāos(イオラーオス)も祀られていたといいます。そこにギュムナシオンが建設されたのでしょう。
※ Jean-Jacques-François Le Barbier(ジャン=ジャック・フランソワ・ル・バルビエ):フランスの歴史作家であり、イラストレーター、画家でもありました。彼の最も有名な作品は、人間と市民の権利を表現した人権宣言であり、彼は芸術家の父と言われました。
キュノサルゲスは主に私生児 nothoi(ノトイ) のためのギュムナシオンとされたといいます。また、キュノサルゲスはCynicos(キュニコス)派(Socrates〈ソクラテス、BC469年頃 - 紀元前399年〉 の弟子であるAntisthenes〈アンティステネス、BC444~365年〉を祖とするHellenism〈ヘレニズム〉期の古代ギリシアの哲学の一派)のアンティステネスが講義をした場所と言われており、キュニコス派という名称の由来の1つとされています。
ローマ神話でのラテン語名は Hercules (ヘルクーレス)で、星座名のヘルクレス座はここから来ています。英語名はギリシア神話ではHeracles(ヘラクリーズ)、ローマ神話ではラテン語名と同形ですが 「ハーキュリーズ」 というように発音されます。
昨夜、エウリピデスの『メディア』〈中村善也訳〉を読み上げました。
『メディア』はギリシア神話に登場するコルキス王女メディア(メーデイア)の晩年におこったとされるコリントスでの逸話、すなわち夫イアソン(イアーソーン)の不貞に怒り、復讐を果たして去っていく話を劇化したものです(10月8日のブログ「イアーソンの末路」を参照)。
あらすじ:
コルキスの王女メディアは夫イアーソーンと共に互いの故郷を捨てコリントスで暮らしていました。だが、コリントス王クレオンが自分の娘婿にイアーソーンを望み、権力と財産に惹かれたイアーソーンは妻と子どもたちを捨て、この縁組みを承諾します。
怒りと悲しみに暮れるメディアの元に、クレオンから国外追放の命令が出ます。一日の猶予をもらったメディアはイアーソーンとクレオン父娘への復讐を決意します。
アテナイ王アイゲウスを口説き落として追放後の擁護を約束させたメディアは、猛毒を仕込んだ贈り物をクレオンの娘の元に届けさせ、王と王女を殺害します。更には苦悩と逡巡の果てに、自身の幼い息子二人をも手にかけるのです。すべてを失って嘆き悲しむイアーソーンを尻目に、メディアは息子たちの死体を抱き、竜車に乗って去っていくのであります。
毎晩、布団に入ってから眠気が催してくるまでの20~30分程本を読むことにしています。先週の日曜日頃から、ギリシア悲劇の3大詩人の一人エウリピデス(世界古典文学全集・筑摩書房刊)を読み始めました。
Eurīpidēs(エウリピデス、BC480年頃~406年頃)はソフィストと自然哲学の影響を受け,伝統的悲劇を合理主義精神によって改革して、神話の世界を日常の世界にまで引降ろし,悲劇を人間情緒の世界と化したといわれています。
布団に入って本を読み始めると、すぐに眠くなって、なかなか先に進めませんが、やっと『アルケスティス』(呉茂一訳)を読み終わりました。
Alkēstis(アルケスティス)はギリシア神話に登場するテッサリア地方ペライの王であるAdmētos(アドメトス)の妻であり、アドメートスが、アポローンの好意によって身代わりを出せば命が助かることとなり、最終的に妃のアルケスティスが身代わりとなって死ぬのですが、ヘーラクレースが彼女を救い出すという神話を題材としています。
あらすじ:
アポロンとタナトスによる懸け合いで、下界に追放されたアポロンを助けたアドメトスが、報徳として身代わりを立てることで早世を免れる機会を得て、その身代わりとなったアルケスティスの命をついにタナトスが受け取りにきた、というこれまでの経緯が説明されます。
老人たちによる嘆きの後、死を目前にしたアルケスティスが床からアドメトスに最後の別れを告げます。アドメトスの励ましも空しく、アルテスティスは事後のことを頼んで息を引き取ります。そこへトラキアのディオメデスのもとへ向かう途中のヘラクレスが訪れてきます。アドメトスは友人歓待の伝統に従い、アルケスティスの死を隠してヘラクレスを厚くもてなします。一方でアドメトスはアルケスティスの悔み事を言いに来たぺレスと口論になります。アドメトスは老いて行く先少ない身でありながら実の息子のために命を惜しんだ両親を責めるのです。対してぺレスは今日まで育てた恩と豊かな財産を残してやった上に、さらに命までよこせとは暴慢だと責め立てます。
その頃、ヘラクレスは召使いからアドメスティスが隠していたこと、アルケスティスが亡くなったことを知るのです。アドメトスの友情に感激したヘラクレスはアルケスティスを取り戻すため急ぎ冥府へ向かいます。
アルケスティスの葬儀が終わり、その帰り道、アドメトスは老人たちに妻を失った深い悲しみを語ります。そこへヘラクレスが現れ、アドメトスに被衣をした女を預けるから引き取るように言います。アドメトスはヘラクレスの好意に礼を言いつつ、アルケスティスへの思いから引き取りを拒みます。そこでヘラクレスはアドメトスに女の手を取らせ、被衣を取って顔を見せ、彼女こそ自分が冥府から連れ戻してきたアルケスティスであることを示します。最後に、アルケスティスがこれから三日間は声を発してはならないことを告げると、ヘラクレスはトラキアへと旅立って行きます。ヘラクレスを見送った後、アドメトスと老人たちが喜びを歌って物語の落着となります。
今日もウェブニュースからの記事ですが、今日の記事は全く情けない記事です。
安倍内閣の新閣僚に「下着ドロボー」の過去! 警察で取り調べ受けるも敦賀市長の父親と原発利権の力でもみ消し ―― 安倍改造内閣の新閣僚スキャンダルが止まらない。本サイトがスクープした新閣僚の森山裕農水大臣の暴力団交遊、そして馳浩文部科学大臣の体罰自慢は大きな話題となった。森山氏に関しては複数のメディアが後追いし、馳氏は会見で体罰問題の釈明に追われる事態となった。
だが、第三次安倍内閣のスキャンダル劇はそれでは止まらなかった。今日発売の「週刊新潮」(新潮社)と「週刊文春」(文藝春秋)が、同じく初入閣組の高木毅復興・原発事故再生担当大臣のとんでもない過去を暴いている。/その過去とは下着ドロボー。信じられないような話だが、れっきとした事実だ。
事件が起きたのは30年ほど前。当時30歳前後だった高木氏は地元福井県敦賀市の住宅に住む20代女性の下着を盗むべく、家に上がり込みタンスの中を物色したというのだ。高木氏は当時福井銀行敦賀支店に勤めていた被害女性を一方的に気に入り、家を突き止めて下着ドロボーをするという犯行に及んだのだ。
「週刊新潮」では被害者女性の妹がこうはっきりと証言している。
「はい。被害者は私の姉です。近所のおばさんが"家の斜め前に車を停めて中に入っていく人を見たけど、知り合いか"って? 通報したのはわたしだったかな。(略)教えてくれた近所のおばさんが車のナンバーを控えとってくれたんで、すぐにやったのは高木さんやと分かった」
しかも、妹の証言によると、家への侵入方法は計画的なものだった。
「合鍵を勝手に作っとったんです。田舎やから、無防備に小屋にカギ置いといたりするでしょ。それをいつの間にか持っていって、自分のカギを作っとったみたい。それにしても、どうして勝手に家に上がり込んだりするのか。急に家の人が帰ってきたら、とか思わんかったんかな......」
当時高木氏は30歳前後で、結婚もしていたというが、これが事実なら下着ドロボーだけでなくカギの窃盗や家宅不法侵入にも問われる事態だ。実際、高木大臣は、当時、敦賀署で窃盗と住居侵入容疑で取り調べを受けたという。
だが、なぜか、高木氏は逮捕もされず、事件が立件されることはなかった。
「当時、高木氏の父親は敦賀市長で、地元の名士。そこから、警察に手を回したんだろうというもっぱらの噂でした。また、高木氏の父親はバリバリの原発推進派で、電力会社や原発関連企業とべったりでしたから、その筋から被害者の勤務先に圧力が加わったという話もあります」(地元関係者)
しかし、事件化していないとはいえ、「週刊新潮」は今回、被害者の妹だけでなく、近所のおばさんの目撃証言も掲載しており、高木氏に言い逃れする余地はなさそうだ。
しかも高木大臣の下着ドロボーはこれだけではかった。「週刊文春」では前出の被害者に対する下着ドロボーだけでなく、こんな証言も記されている。
「青山学院大学に通っていたときも、帰省した際に元カノのパンツを盗んだそうです」(被害者知人のコメント)
こうした高木氏の"下着ドロボー癖"は永田町にも知れ渡っており、"パンツ大臣"と揶揄されるほど常習犯だったと記されている。もちろん地元敦賀ではもっと露骨だ。
「地元では、若い頃の高木氏はパンツ泥棒の常習犯だったというのは、有名な話です」(「週刊文春」福井県議のコメント)
そのためか、選挙の度に下着ドロボーについて記された怪文書が出回るだけでなく敦賀気比高校の敷地に立つ高木氏の父親の銅像に、"ある異変"が起こるという。
「その銅像に、高木氏が選挙に出るたびに、パンツが被されるんです。パンツの色はたいて自民党のイメージカラーの青」
しかも、信じられないのは、こうした高木氏の下着ドロボー癖を官邸は事前に知っていたということだ。
「あまりに有名すぎる話ですから、もちろん官邸もそれを把握していたはず。しかし高木氏は安倍首相の出身派閥の細田派所属で、細田派と原発ムラからかなり強いプッシュがあった。「昔のことだし時効だろう」と、人事を強行してしまったようです」(大手紙政治部記者)
"どんな人間を大臣にしようが、俺たちには誰もさからえない"という、安倍政権の驕りが伝わってくるような話だが、実際、安倍内閣の不祥事は他にも、続々と明るみに出ている。
前述した森山農水相は暴力団との関係だけでなく、14日には不正献金疑惑までが発覚している。これは森山氏が代表を務める自民党鹿児島県第5選挙区支部が、談合で公正取引委員会から指名停止処置を受けた複数の建設業者から約690万円の献金を受け取っていたというもの。これに対し森山氏は「談合した企業だから献金を受けられないわけではない」などと主張したが、結局事実関係を認め全額返金することを表明している。
同様に馳氏もまた問題献金疑惑が発覚している。これを報じた「週刊文春」(10月22日号)によると、馳氏はボトリングシステムの製造で国内トップシェアを誇る金沢市の澁谷工業から165万円の献金を受けていた。澁谷工業は馳氏の後援会会長が社長を務める会社だが、一方で1億1400万円の国庫補助金を受け取っている企業でもある。
「政治資金規正法では、試験研究目的などの例外を除き、一年以内に国から補助金を受けている企業からの献金を禁じている」(「週刊文春」より)
体罰問題に対し釈明会見で大ウソをついた馳氏だが、今回の問題献金にしてもはなから規則やルールを守るつもりなどなかったのだろう。
だが、新聞やテレビにはこうした不正、スキャンダルを本格的に追及しようという姿勢はほとんど見られない。週刊誌やネットがいくら追及しても、新聞・テレビがこの体たらくでは、問題閣僚を辞任に追い込むことなどできないだろう。日本の政治報道は本当にこれでいいのか。 (BIGLOBEニュース 10月15日(木)21時0分)
ウェブニュースより
芭蕉さん、旅の始まりどこでした? 足立・荒川区が論争 ―― 松尾芭蕉が「奥の細道」の旅を始めた地点をめぐって、東京都足立区と荒川区が熱い論争を繰り広げている。隅田川にかかる千住大橋周辺とされるが、はっきりとした記録はない。どっちが「本家」なのか。
今月11日、論争の渦中にある千住大橋で芭蕉が歩んだとされる足跡をたどろうと、荒川区民約30人が芭蕉に扮して、橋を渡るイベントがあった。荒川区の南千住地区商店街の企画。あいさつで、西川太一郎・区長は「今までは芭蕉と言えば、足立区が優勢だったが、最近は荒川区も出発の地として認められてきた」と自信をのぞかせた。
「奥の細道」によると、旅立ちは1689年3月27日。江戸・深川から船に乗って隅田川を北上、「千住といふ所にて船をあが」り、そこで「矢立て初めの句」として知られる「行春(ゆくはる)や 鳥啼(なき) 魚の目は泪(なみだ)」を詠んだとされる。ただ、川の北側にある足立区・北千住か、それとも荒川区・南千住なのかの記述はない。
そんな中で、両区は「証拠」をアピールする。
足立区は1974年、千住大橋の北側にある大橋公園に、出発点を意味する「矢立初の碑」を設置。2,004年には足立市場前に芭蕉の石像を設け、翌年、橋付近に芭蕉の壁画を描いた。
一方の荒川区。素盞雄(すさのお)神社にある「行春や」の句碑は1820年建立と、碑に関しては断トツに早かったが、その後は足立区にリードを許してきた。最近は巻き返しに懸命で、今年3月には南千住駅西口に芭蕉のブロンズ像を建てた。
論争の発端は、1989年の「奥の細道」300年記念事業にさかのぼる。旅立ちの再現イベントで、芭蕉に扮した江東区長が屋形船で千住大橋北側に到着し、足立区長が出迎えた。これに対し、「荒川区が呼ばれないのはおかしい」と荒川区民から横やりが入ったのだ。
「当時の江戸は隅田川の南岸までだった」と、荒川区立荒川ふるさと文化館の野尻かおる館長(56)は言う。「いったん南側で下り、江戸を去る心境を一歩一歩かみしめながら、橋を渡ったはずだ」と話す。しかし、足立区立郷土博物館の学芸員・多田文夫さん(52)は「宿泊を手配する問屋場も北側に集中していた。長旅で北に行くのだから北岸に下りるのが普通だろう」と指摘する。
昨年11月には、「芭蕉旅立ちの謎に迫る」と題したシンポジウムが荒川区で開かれたが、両区の議論は平行線のままだった。
果たして、決着はつくのか。両区は、この「論争」を町おこしにつなげようともくろむ。
足立区は06年、全国のゆかりの自治体が集まる「奥の細道サミット」を誘致するなど、芭蕉グッズの開発やスポットをめぐる街歩きイベントなどを積極的に実施してきた。一方、荒川区も08年から、芭蕉が旅を終えた「結びの地」の岐阜県大垣市の児童を招いて「俳句相撲大会」を開き、今年3月には「俳句のまち」を宣言した。
こうした中、最近は地元のファンが、芭蕉ゆかりの地をまとめた両区の共通マップを作るなどの動きも出てきた。足立区のNPO法人「千住文化普及会」の櫟原(いちはら)文夫理事長(64)は「論争は芭蕉さんのプレゼント。決着がつかない方がロマンがある」。荒川区の郷土史家、杉山六郎さん(79)も「千住はもともと一つ。論争を楽しみながら、ともに盛り上げていければ」と話している。 (朝日新聞DIGITAL 2015年10月16日02時30分)
ウェブニュースより
蕪村、未知の212句 長く所在不明の句集見つかる ―― 江戸中期の俳人で俳画を確立した与謝蕪村(よさぶそん、1716~83)の、これまで知られていなかった俳句212句を収めた句集が見つかった。天理大付属天理図書館(奈良県天理市)が14日発表した。句集の存在は戦前から知られていたが、長らく所在不明だった。
蕪村は松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸期の俳人だが、これほど多くの俳句が一挙に見つかるのは極めて異例だ。
見つかったのは、蕪村存命中に門人がまとめた「夜半亭(やはんてい)蕪村句集」(夜半亭は蕪村の俳号のひとつ)の写本2冊。
図書館が4年前に書店から購入。「蕪村全集」(全9巻、講談社)と照合するなどし、四季別に所収されている1903句のうち、「我焼(やき)し野に驚(おどろく)や屮(くさ)の花」「傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)」など212句が未知のものと確認した。
句集は以前から研究者の間では知られ、1934年発行の専門誌「俳句研究」が「新蕪村句集の再発見」と題し、35句を紹介していたが、句集はその後所在不明になっていた。
蕪村はこれまで約2900句が確認されている。関西大の藤田真一教授(近世俳諧)は「蕪村は研究し尽くされたと思われていた存在。その知られていない句がまとめて出てきたのは衝撃的で、『やっぱり、あったか』と感動した。蕪村に関する新たな発見ができるかもしれない」と話す。
句集は19日~11月8日、初公開となる句会稿の原本とともに天理図書館(0743・63・9200)で公開される。入場無料。
〈与謝蕪村〉 摂津国毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)の生まれ。若い頃に江戸へ出て俳諧や書、漢詩などを学び、丹後、讃岐などを経て晩年は京都に住んだ。俳風は写実的、浪漫的。与謝は母の生地にちなむとの説も。著名な句に「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」。明治の俳人、正岡子規が高く評価した。
■新たに見つかった句
○蜻吟(かげろう)や眼鏡をかけて飛歩行(とびあるき)
(とんぼが眼鏡をかけたような大きな目玉でふらふら飛んでいる、「吟」は「蛉」の誤字の可能性)
○我焼(やき)し野に驚(おどろく)や屮(くさ)の花
(ちょっと前に自分が放った火が燃え広がり、一面の草の花が焼けている)
○傘(からかさ)も化(ばけ)て目のある月夜哉(かな)
(唐傘にあいた穴から、夜空に浮かんだ月の明かりが差し込んでくる)
*ふりがなとカッコ内の解釈は藤田真一・関西大教授による (朝日新聞DIGITAL 2015年10月14日20時09分)
ウェブニュースより
政府、14日に不服審査請求=辺野古取り消し、無効化狙う-法廷闘争不可避に ―― 沖縄県の翁長雄志知事が米軍普天間飛行場(宜野湾市)の移設先となる名護市辺野古沿岸部の埋め立て承認を取り消したことを受け、政府は移設継続に向けて対抗措置を急ぐ方針だ。防衛省沖縄防衛局は14日、行政不服審査法に基づく審査請求と、裁決までの間の効力停止の申し立てを石井啓一国土交通相に行う。政府と県の対立は、法廷闘争に発展することが不可避の情勢となった。
中谷元防衛相は13日の記者会見で、辺野古沖で実施しているボーリング調査などの作業を当面中断する方針を示す一方、「埋め立て承認取り消しは違法だ」として、不服審査請求と効力停止申し立ての手続きを速やかに行う考えを示した。
菅義偉官房長官も会見で、「普天間の危険除去、閉鎖を政府として何としても実現したい」と強調。法廷闘争も辞さないかとの質問に「しっかり対応したい」と述べた。
防衛局が申し立てを行えば、公有水面埋立法を所管する国交相は、県による承認取り消しが適法か違法かを判断する。裁決には数カ月かかる見通しのため、政府はまず効力停止を認めさせて移設作業を再開したい考えだ。効力停止の是非は数週間程度で決まるが、国交相は政府方針に沿って効力停止を認めるとの見方が支配的だ。
沖縄県幹部も、承認取り消しの効力が停止されるのは「想定の範囲内」とみている。政府が工事再開に踏み切れば、県側は国地方係争処理委員会に不服申し立てを行う構え。また、承認取り消しが違法と裁決されれば、県は裁決無効や工事差し止めを求めて裁判所に提訴するとみられる。
逆に、可能性は小さいものの、国交相が県による承認取り消しを適法と認める場合、政府は取り消しの無効を求めて訴訟を提起する見通しだ。
翁長知事が3月、辺野古のサンゴが損傷したとして移設作業中止を沖縄防衛局に指示した際、同局は林芳正農林水産相(当時)に不服申し立てを行った。最終的な審査結果は出ていないが、知事の指示は効力が停止された。 (jijicom 2015/10/13-20:22)
辺野古移設、参院選争点に=政府・沖縄の対立長期化-普天間 ―― 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設をめぐる政府と県の対立は長期化が必至で、来年夏の参院選でも争点の一つとなるのは確実だ。移設を阻止したい翁長雄志知事と、工事続行の姿勢を崩さない安倍政権はともに選挙を重視、新たな民意を求めて攻防を繰り広げることになりそうだ。
「これから節目節目でいろいろなことが起きる。一つ一つの選挙でチェックされていくのではないか」。翁長知事は埋め立て承認の取り消しを発表した13日の記者会見で、年明けから沖縄で重要な選挙が相次ぐことに触れ、民意を通じて移設阻止へつなげていく意向を強調した。
来年は1月に宜野湾市長選、夏に県議選、参院選と続く。特に参院選沖縄選挙区は、辺野古移設反対派で元宜野湾市長の伊波洋一氏が野党統一候補として現職の島尻安伊子沖縄担当相(自民)にぶつかる。宜野湾市長選も保守系の現職と、辺野古移設に反対する元県幹部の一騎打ちの構図となる見通しだ。
移設問題では、昨年11月の知事選で辺野古案に反対する翁長氏が当選したのに続き、同12月の衆院選の沖縄4選挙区で反対派が全勝。だが、安倍政権は辺野古移設が「唯一の選択肢」として工事を進めている。知事側は一連の選挙でも勝ち続けることで移設反対の民意を突き付けていく考えで、政権側は危機感を強めている。
自民党の谷垣禎一幹事長は13日の記者会見で、承認取り消しに関し「承服しがたい。私どもは(移設を進める)政府の手順をバックアップしていく」と強調。同党は参院選で、沖縄選出議員として初めて沖縄担当相に就いた島尻氏の勝利に向け全力を挙げる方針だ。
一方、民主党の岡田克也代表は党常任幹事会で「政府・与党には沖縄県にしっかり寄り添う姿勢を求めたい」と政権に苦言。維新の党の今井雅人幹事長は記者会見で「地元の理解を得る努力をした上で進めないと問題が大きくなる」と懸念を示し、共産党の志位和夫委員長は「圧倒的な民意を一顧だにしない安倍政権の暴走は絶対に認められない」とする談話を発表した。 (jijicom 2015/10/13-19:18)
今朝のウェブニュースより
「平和賞より安全・食料を」 市民は受賞に戸惑い チュニジア ―― 民主化を促したとしてチュニジアの「国民対話カルテット」へのノーベル平和賞授与が決まったことに、市民から戸惑いの声が上がっている。相次ぐテロや高い失業率など、目の前の現実は「民主化の成功」とはほど遠く、街に祝賀ムードはない。
首都チュニスのハビブ・ブルギバ通り。2011年に23年続いたベンアリ独裁ログイン前の続き政権が倒れた「ジャスミン革命」のデモの中心地だ。しかし受賞決定から一夜明けた10日も、厳戒態勢が続いていた。
車道は閉鎖され、遊歩道には多数の警察車両が止まる。通り沿いにある内務省へのテロを警戒しているためだ。同省は有刺鉄線や柵で囲まれている。
5年間失業中というウィサーム・サギールさん(38)は「『国民対話カルテット』など知ったことではない。まるで絵空事を見せられているような気分だ」とぼやいた。
イドリス・ベンモーメンさん(17)は「賞を受けるのは名誉だが、実際の生活は悲惨だ。政府は言うだけで何もしないし、民主化の実感はない」と話した。博士号を持つ友人もろくな仕事がない。勉強は無意味だと思って学校をやめたという。「欧州に移住したいが難しい。賞よりも、安全と食料がほしい」
国際労働機関(ILO)によると、チュニジアの失業率は若年層で約40%に達する。多くの若者がイラクやシリアで過激派組織「イスラム国」(IS)に加わった。3月のバルドー博物館襲撃事件に続き、6月には北東部スースの高級ホテルが襲撃され、外国人観光客ら38人が殺された。8日にも、世俗派政党所属の国会議員への暗殺未遂事件が起きたばかりだ。 (朝日新聞DIGITAL 2015年10月11日05時00分)
今日のウェブニュースより
中東民主化のモデルに 平和賞にチュニジア組織 ―― 【カイロ=押野真也】今年のノーベル平和賞は、北アフリカのチュニジアで平和的な政権移行に貢献した対話組織「国民対話カルテット」への授与が決まった。チュニジアは2011年の民主化運動「アラブの春」の先駆けとなり、民主的な手続きを踏んで安定した政権移行を実現した唯一の国だ。ノーベル平和賞の授与は成功モデルとしてこれを後押しし、世界の地政学リスクの焦点となっている中東の安定につなげる狙いもある。
「国民対話カルテット」はチュニジアの労働組合や人権組織などの4者で構成し、イスラム勢力と、政教分離を重視する世俗派が対立する中、双方を説得した。新憲法の制定と議会・大統領選挙を実現させ、今年2月に双方が政権に参加する形で正式政府が発足するための原動力となった。
■予想の声少なく
チュニジア関係者の受賞を予想する声は多くなかった。中東政治に詳しいチュニス大学のアブドルラティフ・ハナーシー教授は「予想外だったが、(中東や北アフリカ)地域で対話の重要性を認識させる大きな機会になる」と述べ、期待を寄せた。
シリア内戦が欧州の難民問題や米ロ対立の深刻化につながるなか、中東の安定に向けた「希望のともしび」としてチュニジアへの期待が大きいという認識が授賞決定の背景にある。
「アラブの春」ではリビアやイエメン、シリアがその後、激しい内戦状態に陥る一方、エジプトは軍がクーデターで政権を掌握し専制的な体制に後戻りした。一連の政変が中東・北アフリカに民主化をもたらすという夢を破り、かえって地域に混乱をもたらした。
しかも権力の空白は「イスラム国」(IS)のような過激派が勢力を増す土壌となった。チュニジアで「国民対話カルテット」が機能したのは幸運だった。同国では11年1月に独裁のベンアリ政権が崩壊した後、イスラム原理主義組織「アンナハダ」を中心とする連立与党が暫定統治にあたった。
■難民の発生防ぐ
世俗派とイスラム勢の対話は、政権崩壊後の権力闘争が暴力に転じるシナリオを回避して、リビアやシリアのように大勢の難民を出さずにすんだ。「国民対話カルテット」は議員や有力なイスラム勢力の指導者らと面会を重ねたほか、一般国民を対象とした集会なども開催した。人権の尊重や男女平等、信教の自由などを明記した新憲法が14年1月に成立した。
ただ、チュニジアにも課題はある。今年は外国人観光客を狙ったテロ事件が相次いでおき、日本人観光客も犠牲になった。経済低迷も続き、隣国のリビアからは戦闘員が流入し、国内では今でもテロが大きな脅威になっている。今回の授与は、チュニジアの民主化と安定が揺らぐことを防ぐ狙いもある。
日本にとっても、ひとごとでない。過激派ISは日本も標的にすると明言しており、実際に日本人が拘束され、殺害される事件も起きている。ISにはチュニジアから3000人以上が戦闘員として加わっているとされ、戦闘員の供給国の一つになっている。ISの弱体化にはチュニジアの安定が不可欠だ。日本政府はインフラ整備などを通じてチュニジアへの経済援助を続けてきた。
▼アラブの春 中東と北アフリカで相次いで独裁的な長期政権を倒した民衆運動。2010年12月、チュニジアで青年が警察官から嫌がらせを受けたことに抗議して焼身自殺をはかった。この事件を契機にチュニジアでは、当時のベンアリ大統領の強権体質や腐敗、所得格差の拡大などに反発する民衆の反体制運動が高まり11年1月に政権が崩壊。チュニジアの代表的な花になぞらえて「ジャスミン革命」と呼ばれた。 (日本経済新聞 2015/10/10 1:10)
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