早朝徘徊は2日続けてお休みしたので、今朝は蔵前橋まで足を伸ばしました。携帯の万歩計の記録は、14137歩9.7㎞とありました。
Mīnōs(ミーノース)王はMīnōtauros(ミーノータウロス)の食料としてAthēnai(アテーナイ)から9年毎に7人の少年、7人の少女を送らせることとしたのです。その事を知って強い憤りを感じたThēseus(テーセウス)は、Krētē(クレーテー)島に乗り込んでミーノータウロスを退治するため、父王Aigeus(アイゲウス)の反対を押し切り、自ら進んで生贄の一人となるのです。ミーノース王の娘Ariadnē(アリアドネー)がテーセウスに恋慕してしまい、テーセウスを助けるため、彼に赤い麻糸の鞠と短剣をこっそり手渡したのです。アリアドーネは無事に脱出するための方法として糸玉を彼にわたし、迷宮の入り口扉に糸を結び、糸玉を繰りつつ迷宮へと入って行くことを教えたのです。3度目の生贄を運ぶ船も、国民たちの悲しみを表す印として黒い帆が張られていました。テーセウスは他の生贄たちと共にその船に乗り込み、クレーテー島へ向かいました。
※ Herbert Draper(ハーバート・ドレイパー):ロンドン生まれのラファエル前派の画家です。
テーセウスはlabyrinthos(ラビュリントス、迷宮)に侵入しアリアドネーからもらった毬の麻糸の端を入口の扉に結び付け、糸を少しずつ伸ばしながら、他の生贄たちと共に迷宮の奥へと進んでいきました。そして一行はついにミーノータウロスと遭遇できたのです。皆がその恐ろしい姿を見て震える中、テーセウスはひとり勇敢にミーノータウロスと対峙し、迷宮の一番端にいたミーノータウロスを見つけ、アリアドネーからもらった短剣で見事ミーノータウロスを討ち果たしたのです。脱出不可能と言われたラビュリントスからはミーノース王の娘アリアドネーからもらった糸玉によって脱出できたのです。糸玉からの糸を伝って無事、迷宮から脱出することができたのです。そして、アリアドネーは彼とともにクレーテー島を脱出したのです。
ミーノータウロスはDante(ダンテ、1265~1321年、イタリア都市国家Firenze〈フィレンツェ〉出身の詩人、哲学者、政治家)の『神曲』では「地獄篇」に登場し、地獄の第六圏である異端者の地獄においてあらゆる異端者を痛めつける役割を持つものと記述されています。
この怪物の起源はかつてクレーテー島で行われた祭りに起源を求めるとする説があり、その祭りの内容は牛の仮面を被った祭司が舞い踊り、何頭もの牛が辺り一帯を駆け巡るというもので、中でもその牛達の上を少年少女達が飛び越えるというイベントが人気であったそうです。また、古代のクレーテー島では実際に人間と牛が交わるという儀式があったとされています。
しかし、彼は帰路の途中、Naxos(ナクソス)島(エーゲ海中部・Kyklades〈キクラデス〉諸島に属するギリシャ領の島)に寄った際に、アリアドネーと離別してしまいます。これは、アリアドネーに一目惚れしたDionȳsos(ディオニューソス)が彼女をLímnos(レームノス)島(エーゲ海北部にある島)に攫ってしまったために、行方が分からなくなり、止むを得ず船を出港させたとも、薄情なテーセウスがアリアドネーに飽きたため、彼女を置き去りにしたとも言われています。
テーセウスは生贄の一人としてクレーテー島へ向かう時、無事クレーテー島から脱出できた場合には喜びを表す印として船に白い帆を掲げて帰還すると父王アイゲウスに約束していました。しかし、テーセウスはこの約束を忘れてしまい、出航時の黒い帆のまま帰還したのです。これを見たアイゲウスは、テーセウスがミーノータウロスに殺されたものと勘違いし、絶望のあまり海へ身を投げて死んでしまいます。その後、アイゲウスが身を投げた海は、彼の名にちなんでEgéo(エーゲ)海と呼ばれるようになったといいます。
今朝も雨、早朝徘徊はお休みです。
神話によるとMīnōs王(ミーノース王、Krētē〈クレーテー〉島の王)は後で返すという約束でPoseidōn(ポセイドーン)に願って海から美しい白い雄牛(一説では黄金)を得ます。しかし、雄牛の美しさに夢中になった王は、ポセイドーンとの約束を違え、白い雄牛を生け贄に捧げず、代わりの雄牛を生け贄として捧げ、白い雄牛を自分の物にしてしまいます。これに激怒したポセイドーンはPāsiphaë(パーシパエー、ミーノースの妻)に呪いをかけ、后は白い雄牛に性的な欲望を抱くようになります。Daidalos(ダイダロス、ギリシア神話に登場する有名な大工、工匠、職人、発明家です。「聡明な働き手」という意)に命じて雌牛の模型を作らせた彼女は、自ら模型の中へと入り雄牛の身近へと訪れるのでした。結果、パーシパエーはMīnōtauros(ミーノータウロス)を産むこととなったといいます。星、雷光を意味するAsterios(アステリオス)と名づけらますが、「ミーノース王の牛」を意味するMīnōtauros(ミーノータウロス)と呼ばれました。
ミーノータウロスは成長するにしたがい乱暴になり、手におえなくなったミーノース王はダイダロスに命じてlabyrinthos(ラビュリントス、迷宮)を建造させ、そこに彼を閉じ込めてしまいます。
Apollodoros(アポロドーロス、ギリシャの著作家で、『Biblioteke〈ビブリオテーケー、ギリシア神話〉』の編纂者として知られます。1世紀から2世紀頃の人物と推定されています)によると、Androgeōs(アンドロゲオース、ミーノース王の子)はアテーナイを訪れて、Panathēnaia(パンアテーナイア)祭(全アテーナイの祭り)の競技で全ての参加者に勝利しました。そこでアテーナイの王Aigeus(アイゲウス)はアンドロゲオースにMarathṓn(マラトーン)の牡牛(クレーテーの牡牛、ポセイドーンがクレーテー島の王ミーノースの王権を保証するために海中から送った牡牛で、アッティカのマラトーンに行って暴れ、人々を苦しめました。)の退治を依頼しましたが、アンドロゲオースは牡牛に殺されてしまいます。あるいはThēbai(テーバイ)の競技に参加する途中、他の参加者に嫉妬されて殺されたといいます。
アンドロゲオースの死を知ったミーノース王はAthēnai(アテーナイ)と戦争を始め、さらにアイゲウスの兄弟のNisosz(ニーソス)が支配するMégara(メガラー)を攻め落としましたが、アテーナイを攻め落とすことができませんでした。ミーノース王はアテーナイに罰が下ることをZeus(ゼウス)に願います。するとアテーナイでは飢饉や疫病といった災いが起こり、アテーナイ人はこの災いから逃れる術を見い出せなかったので、神託に従ってアンドロゲオースの死に対するミーノースの要求を受け入れることになりました。そしてミーノースはアテーナイ人に、ミーノータウロスの生贄をKrētē〈クレーテー〉島に送ることを要求したといわれます。
画家Pablo Picasso(パブロ・ピカソ)は、1933年頃から作品のモチーフに好んでミーノータウロスを取り上げています。男を嬲り殺し、女を陵辱し快楽の限りを貪るこの怪物に、ピカソは共犯者意識を持ちつつも、倒されねばならぬ絶対悪の役割を与えました。自分の辿った総ての道を集約するなら、それはミーノータウロスに繋がるとの趣旨の言葉すら残しているのです。
※ 画家Pablo Picasso(パブロ・ピカソ):スペインのMálaga(マラガ、地中海に面し、スペイン第6位の都市)に生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家。正式な妻以外にも何人かの愛人を作りました。生涯に2回結婚し、3人の女性との間に4人の子供を作ります。1927年、ピカソは17歳のMarie-Thérèse Walter(マリー・テレーズ・ワルテル)と出会い、密会を始めます。ピカソは妻のOlga(オルガ)と離婚しようとしますが、資産の半分を渡さねばならないことがわかり中止します。ピカソとオルガの結婚は、1955年にオルガが亡くなるまで続きました。ピカソはマリー・テレーズと密会を続け、1935年に娘Maia(マイア)が生まれます。1977年、ピカソがMougins(ムージャン、地中海から6㎞離れた、フランス南部の都市)で亡くなった4年後に、69歳のマリーは自殺をとげています。娘のマイアは「母は父の面倒をみなければならないと思い込んでいました。死んだあとまでも――。母は父が独りで寂しそうにしているのが耐えられなかったのです」と語っています。
昨夕から雨、今朝も降り続いています。早朝徘徊はお休みしました。
大相撲秋場所は12日目にして、全勝の照ノ富士に土が付くという波乱がありました。今朝のウェブニュースより
照ノ富士、栃煌山に敗れ初黒星 大相撲秋場所12日目 ―― 大相撲秋場所12日目(24日・両国国技館)全勝で単独トップの大関照ノ富士が関脇栃煌山に寄り切られて初黒星を喫した。栃煌山は7勝目。横綱鶴竜は大関琴奨菊を上手投げで下し、2敗をキープした。2敗目を喫した平幕の勢とともに1差で照ノ富士を追う。琴奨菊は4敗目。/他の大関は稀勢の里が関脇妙義龍を押し倒して9勝目を挙げ、豪栄道は6勝6敗と星を五分に戻した。/十両は松鳳山が1敗で単独トップに立った。 〔2015/9/24 18:53 共同〕
Thēseus(テーセウス)が陸路で討ち果たした山賊や怪物とは、
Epídauros(エピダウロス、Pelopónnisos〈ペロポネソス〉半島東部に位置する古代ギリシアの港湾都市)ではPeriphētēs(ペリペーテース、別名をCorynētēs〈コリュネーテース、棍棒使い〉ともいう)を、
Korinthos(コリントス、ペロポネソス地方にある都市)地峡ではSinis(シニス、怪力の盗賊で旅人にひどい乱暴をしていました)を、
Crommyon(クロミュオーン)ではPhaia〈パイア〉と呼ばれた猪(クロミュオーンの猪、ギリシア神話の怪物、あるいは女性)を、
Mégara(メガラ、Attikḗ〈アッティカ〉西部にあった都市国家)ではSkeirōn(スケイローン、スケイローン岩に陣取り、旅人に無理やり自分の足を洗わせて、旅人が洗っている最中に海に投げ込み、岩の下の海中に棲む大きな海亀のえさにしていました)を、
Eleusis(エレウシース、アテーナイに近い小都市)ではKerkyōn(ケルキュオーン、旅人にレスリングの試合を強い、負けた者を殺していました)を、
Hermaeus(ヘルメウス、アッティカの小都市)では山賊Procrūstēs(プロクルーステース)を倒しました。
残虐な方法で人を殺めていたこの者達に対し、テーセウスはいずれも同じ目に遭わせて殺したのです。
道中、テーセウスが倒したプロクルーステースは「プロクルーステースのベッド(寝台)」(Procrustean bed)の逸話で有名です。この山賊は旅人に寝台を勧め、大きな寝台より背が小さければ、旅人の手足を無理やり引っ張ることで殺してしまったのです。また、小さな寝台から手足がはみ出せば、旅人の手足を切り落として殺してしまいました。そこから「無理矢理、基準に一致させる」という意味になったそうです。
コルキスの王女Mēdeia(メーディア)は冥界の女神であるHekátē(ヘカテー、ギリシア神話の女神の1人)の神殿に仕える女神官で、ヘカテーの魔術に長(た)け、イアーソーン率いるアルゴナウタイの冒険を成功に導いたといいます。このメーデイアはAthēna(アテーナイ)を訪れたとき、アテーナイのAigeus(アイゲウス)王は喜んで迎え、魔女Mēdeia(メーデイア)と結婚したといいます。
テーセウスがアテーナイについたとき、アイゲウスの妻になっていた魔女メーデイアは自分の権勢を奪われることを恐れて、テーセウスを毒殺しようとしますが、テーセウスはこの陰謀から逃れ、身に着けていた剣とサンダルによって身の証しを立て、アイゲウスから息子と認められ、メーデイアはアテーナイから追放されるのです。
早朝徘徊は足を伸ばして、桜橋~厩橋間を一回りして帰宅しました。万歩計の記録は12523歩、8.6㎞でした。
ギリシア神話の英雄伝は昨日でMeleagros(メレアグロス)を一応終わりましたので、次はMīnōtauros(ミーノータウロス)退治で有名なThēseus(テーセウス)について調べてみようと思います。
Thēseus(テーセウス)はAthēnai(アテーナイ、ギリシャ共和国の首都アテネの古名)の王Aigeus(アイゲウス)とTroizḗn(トロイゼーン、ペロポネソス半島北東部の古代ギリシアの都市国家)の王女Aithrā(アイトラー)の子とされます。海神Poseidō(ポセイドーン)とアイトラーとの間に生まれた子であるという伝説もあります。
アイゲウスは二人の妃を娶りましたがどちらも子がなく、このままでは次の王位継承者を得ることが出来ず、困っていました。そこでアイゲウスは、Delphoi(デルポイ)に赴き、神託に頼りました。神託は「この地からアテーナイに帰るまで、汝が所持する酒袋の口を決して開けるてない」というものでした。アイゲウスはその意味がよく呑み込めず不思議に思ったものの、神託に従ってデルポイからアテーナイに帰ることにしました。
※ Delphoi(デルポイ): 古代ギリシアのPhocis(ポーキス)地方にあった都市国家。Parnassus(パルナッソス)山のふもとにあるこの地は、古代ギリシア世界においては世界のへそと信じられており、Phoibos Apollōn(ポイボス・アポローン、ポイボスはアポローンの別名で、Homerus〈ホメーロス〉では作品ではこの形で記述されることが多い)を祀る神殿で下される「デルポイの神託」で知られていました。
その途中、アイゲウスはTroizḗn(トロイゼン、ペロポネソス半島北東部に位置する歴史的なArgolis〈アルゴリス〉地方にあった都市国家)に滞在しましたが、トロイゼン王Pittheus(ピッテウス)はアイゲウスを大変歓待しました。そして例の神託の話をアイゲウスから聞くと、ピッテウスはその意味をすぐに理解したのです。そこで、まずピッテウスはアイゲウスに大量の酒を飲ませ、ぐでんぐでんに酔わせました。彼が人事不省になって寝室で横になっている所へ、ピッテウスは娘のAithrā(アイトラ)を向かわせます。そして、アイトラは見事懐妊したのです。
しかし、アイゲウスはもうアテーナイに帰らなくてはなりません。アイゲウスは甥のPallas(パラース)の息子たちが自分を快く思っていないことを知っていたので、Mīnōs(ミーノース)がAndrogeōs(アンドロゲオース、ミーノースの子)を通じて彼らを援助し、自分の王権を奪わせるかもしれないと考えていました。彼は、パラースの息子たちを恐れて、テーセウスをアテーナイに呼ぼうとしませんでした。そこで身重のアイトラーに、言葉を残します。「生まれてくる子が息子であったならば、父の名を明かさずに育てて欲しい。そして、大岩の下に隠した剣と靴をその子が自力で取り出すことができたら、その時こそ父の名を明かし、アテーナイへ来るように言って欲しい」と。
やがて月満ちて、テセウスが誕生するのでありました。そのままテーセウスはトロイゼーンで育てられ、すくすくと育ちました。そして16歳になった時、母アイトラはテセウスに父の名を明かします。そして大岩を自力でどけて、剣と靴を手に入れ、アテーナイへ行くように命じたのです。テセウスは素手で大岩をどけて、アイゲウスの息子である証拠の剣と靴を手に入れ、アテーナイへの旅へと出立するのです。アゲウスに息子として認めさせるために、アテーナイに向かいます。アテーナイには安全な海路を取ることも可能でありましたが、テーセウスは敢て危険な陸路を選び、道中の山賊や怪物を討ち果たしたのです。
今朝の早朝徘徊は桜橋~駒形橋間を一周して帰宅しました。ちなみに、携帯の万歩計は、10950歩、7.6㎞を示していました。
Meleagros(メレアグロス)は殺した猪の皮を剥ぎ、一番の手柄はAtalantē(アタランテー)であるとして皮をアタランテーに与えました。これに対して、メレアグロスの叔父Plexippos(プレークシッポス)は、とどめを刺したメレアグロスが手柄をだれかに譲るのなら、名誉の皮はOineus(オイネウス)の義弟である自分のものだと主張し、プレークシッポスの兄弟も、はじめに猪の血を流したのはアタランテーではなくĪphiklēs(イーピクレース)だったとして、同調しました。この争いの結果、ついにメレアグロスは叔父の二人を殺してしまったのです。Althaiā(アルタイアー)には他にも兄弟がいまして、メレアグロスと戦いとなってしまいました。
息子が自分の兄弟たちを殺したと知ったアルタイアーは、メレアグロスを呪い、仕舞ってあった薪を燃えさかる炉に投げ入れるのでした。このときメレアグロスは、戦いの最中でありましたが、たちまち焼け付くような痛みを感じました。メレアグロスは痛みに耐えながら戦いましたが、薪が燃え尽きたとき、ついに敵に殺されてしまうのです。
※ Johann Wilhelm Baur(ヨハン・ヴィルヘルム・バウア):シュトラースブルク出身の細密画家・素描家・版画家、ローマ、ナポリ、ウィーンで活躍しました。
アルタイアーとKleopatrā(クレオパトラー、メレアグロスの妻)は首を吊って自死し、Meleagrid(メレアグリデス、メレアグロスの姉妹たち6人)は声を上げて嘆き悲しむのでした。そこでArtemis(アルテミス)はメレアグロスの姉妹たちをほろほろ鳥の姿に変えてしまいます。このとき、Dionȳsos(ディオニューソス)はアルテミスに対し、Deianeira(デーイアネイラ、Hēraklēs〈ヘーラクレース〉の3番目の妻となりますが、ヘーラクレースの死の原因をなした人物とされます)が自分とアルタイアーの子であると告げ、彼女と仲のよいGorgē(ゴルゲー、メレアグリデスの1人)の二人だけは鳥にされなかったといいます。
今朝の早朝徘徊も控えめに、桜橋~吾妻橋間を一回りして帰宅しました。携帯の万歩計によれば、歩数8995、距離6.2㎞とありました。
Kalydon(カリュドーン)の猪の由来については、一般には女神Artemis(アルテミス)が野に放ったとする以外の言い伝えはありません。Strábôn(ストラボン、BC63年頃~23年頃、古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者)は、この猪をKrommyon(クロムミュオーン、昨日添付の地図2→c12、図内30)地方を荒らした雌猪Phaia(パイア、Echidna〈エキドナ〉とTȳphōn〈テューポーン〉の子ともいわれ、Thēseus〈テーセウス〉によって退治されました)の子であるとしていますが、他にこの説を採り上げるものはありません。イギリスの詩人Robert Graves(ロバート・グレーヴス、1895~1985年、イギリスの詩人、小説家、評論家)は、その著書『ギリシア神話』のなかで、猪は三日月型の牙を持つことから月の聖獣とされ、同時にArēs〈アレース〉の聖獣でもあるとしています。
狩が始まると、一隊から距離を置いて進んでいたAtalantē(アタランテー)を犯そうと、かつて山野で狩りしていたアタランテーを見初めていたKentauros(ケンタウロス)のHylaios(ヒューライオス)とRhoikos(ロイコス)が、この時とばかり襲いかかてきましたが、二人ともアタランテーに射殺されてしまいます。
猪はNestōr(ネストール)を襲い、ネストールは木の上に逃れます。そこをJason(イアーソーン)とĪphiklēs(イーピクレース)が狙って槍を投げましたが、イーピクレースの槍が猪の肩をかすめただけでした。Telamōn(テラモーン)とPēleus(ペーレウス)が進み出ますが、テラモーンは木の根につまずいてしまい、ペーレウスがテラモーンを抱き起こそうとするところに猪が突進してきました。Atalantē(アタランテー)が矢を放つと、矢は猪の耳のうしろに刺さりました。猪は一旦逃げたものの、まもなく再び突進してきます。Ankaios(アンカイオス)がその前に立ちはだかって斧を振り下ろしましたが間に合わず、猪に腹を突かれて殺されてしまいます。動転したペーレウスが槍を投げつけたところ、手元が狂ってEurytion(エウリュティオーン)に当たって彼を殺してしまいます。そのときAmphiarāos(アムピアラーオス)の矢が猪の眼を射抜き、Thēseus(テーセウス)とMeleagros(メレアグロス)が槍を投げました。テーセウスの槍は外れましたが、メレアグロスの槍は猪の脇腹を貫き、痛手と刺さった槍のために猪がぐるぐる回るところをメレアグロスが手槍でとどめを刺し、ようやく猪は退治されました。
この神話は「カリュドーンの猪狩り」として、古代ローマでは彫刻の題材として好んで採り上げられました。後世においても著名な神話のひとつであり、バロック期のRubens(ルーベンス、1577~1640年、フランドルの画家、外交官。祭壇画、肖像画、風景画、神話画や寓意画も含む歴史画など、様々なジャンルの絵画作品を残しました)や現代ではPicasso(ピカソ、1881~1973年、スペインのマラガに生まれ、フランスで制作活動をした画家、素描家、彫刻家)などが絵画や挿絵の題材としているといいます。
退院後1週間ばかりは、運動も控えめにしろということなので、今朝の徘徊は1時間ほどにしました。桜橋~白髭橋間のテラスを往復して帰宅しました。
あるとき、 Meleagros(メレアグロス)父のOineus(オイネウス)がArtemis(アルテミス)への生贄を忘れたことで、アルテミスはその罰として巨大な猪をKalydon(カリュドーン、ギリシア西部の古代都市)に放ちます。猪はオイネウスの家畜や使用人を殺し、作物に大損害を与えました。オイネウスが猪狩りの仲間を募ると、ギリシア全土から続々と勇士たちが集まってきました。狩の参加者は次のような顔ぶれでした。オイネウスは彼らを9日の間饗応したといいます。Apollodoros(アポロドーロス、1世紀~2世紀頃のギリシアの著作家。Biblioteke 〈ビブリオテーケー、日本語訳は『ギリシア神話』ですが、原題は『文庫』の意〉の編纂者として知られています)によれば、HēraklēsヘーラクレースはこのときOmphalē(オムパレー、ギリシア神話に登場するLydia〈リューディア〉の女王)の奴隷として仕えていたために参加しなかったということです。
Spártā(スパルタ、地図1→K16、図内45)からKastō(カストール)とPolydeukēs(ポリュデウケース)の双子、
Messene(メッセネ、地図1→e14、図内43)からĪdās(イーダース)とLynkeus(リュンケウス)、
Athēnai(アテーナイ、地図2→h11、図内1)からThēseus(テーセウス)、
Larissa(ラリッサ、地図2→a2、図内41)からPeirithoos(ペイリトオス)、
Iolkós(イオールコス、テッサリアに属し、パガシティコス湾の北にあったイオールコスは、ギリシア神話におけるアルゴー船の出航地として知られます)からJason(イアーソーン)、
Perai(ペライ、地図1→g16、図内40)からAdmētos(アドメートス)、
Pylos(ピュロス、地図1→d12、図内30)から若きNestōr(ネストール)、
Phthía(プティア、テッサリアの最南部)からPēleus(ペーレウス)とEurytion(エウリュティオーン)、
Thēbai(テーバイ、地図2→e8、図内13)からĪphiklēs(イーピクレース)、
Árgos(アルゴス、地図1→m10、図内1)からAmphiarāos(アムピアラーオス)、
Salamís(サラミース、アッティカに属する島)からTelamōn(テラモーン)、
Magnisía(マグネシア、テッサリア地方のエーゲ海沿岸地域)からKaineus(カイネウス)、
Arkadia(アルカディア、ペロポネソス半島中央部にある古代からの地域名)から、Ankaios(アンカイオス)とKēpheus(ケーペウス)、そして「紅一点」のAtalantē(アタランテー)などでした。
※ それぞれの地域・都市は地図1、2を参照してください。ただし、テッサリアは両地図の北部に位置し、両地図上にはありません。
アンカイオスとケーペウスは狩に女を加えることに異議を唱えました。しかし、メレアグロスはアタランテーに恋心を抱いていたので、彼女の参加を認めることにしました。Althaiā(アルタイアー、メレアグロスの母)の兄弟たちは、甥のメレアグロスが妻を持つ身にもかかわらず、このような振る舞いをすることを不吉と見て、アタランテーを警戒するのでした。
カリュドーンの猪を退治するためにギリシア全土から勇士が集まりましたが、このような英雄たちの集結は、ギリシア神話中でもイアーソーン率いるArgonautai(アルゴナウタイ)及びTroia(トロイア)戦争などでも見られますが、カリュドーンの猪退治は物語の登場人物の関連から、時系列的には「アルゴナウタイ」の後、トロイア戦争以前に位置するといえます。
今日、三井記念病院から退院してきました。早速、ギリシャ神話の英雄Meleagros(メレアグロス)のお話に入ります。
Meleagros(メレアグロス)はAitōlía(アイトーリア、ギリシア中央部の山岳地方を指します)のKalydon(カリュドーン)王Oineus(オイネウス)と王妃Althaiā(アルタイアー)の子ですが、実の父はĀrēs(アレース)であるともいいます。Hēraklēs(ヘーラクレース)の妻となったDeianeira(デーイアネイラ)はメレアグロスの妹です。
メレアグロスが生まれて7日目に、アルタイアーの寝室に3人のMoirai(モイライ、ギリシア神話における「運命の三女神」、幾つかの伝承がありますが、Klōthō(クロートー)、Lachesis(ラケシス)、Atropos(アトロポス)の3柱で、姉妹とされます)が現れました。クロートーは「メレアグロスが高貴な人物となるであろう」と、ラケシスは「メレアグロスが武勇に優れた英雄となるであろう」とそれぞれ予言しますが、アトロポスは薪を炉に投げ入れ、「この薪が燃え尽きないうちはメレアグロスは生きているであろう」と言うのでした。アルタイアーは炉から薪を取り出して火を消し、誰にも見つからないように箱の中に隠しました。
メレアグロスが成人すると、剛勇無双とうたわれるようになり、Iāsōn,(イアーソーン)率いるArgonautai(アルゴナウタイ)にも参加します。とくに槍投げを得意とし、アルゴナウタイの冒険から帰還後、olkós(イオールコス、ギリシア神話におけるアルゴー船の出航地)でPeliās(ペリアース、イオールコス王)の葬礼を記念した競技会では槍投げで優勝するほどでした。
メレアグロスは同じくアルゴナウタイの一人Īdās(イーダース)の娘Kleopatrā(クレオパトラー)を妻としました。
明日から大腸ポリープ除去のため、三井記念病院に入院することになっています。従って、ブログも暫くお休みになります。
ギリシア神話のベレロポーンのお話は今日で終わりますが、退院後はギリシア神話の英雄伝を続けて、カリュドーンの猪退治をしたメレアグロス、怪物ミーノータウロス退治したテーセウスとお話を続ける予定です。
Bellerophōn(ベレロポーン)はめでたくLycia(リュキア)の王となったわけですが、ここで彼の人間像に暗い影を落とす事件が発生します。彼は、嘘をついて自分を陥れたArgo(アルゴス)王女Stheneboia(ステネボイア)に復讐しようとしたのです。彼はステネボイアのもとを訪れて、「自分は本当はあなたのことを愛していたのです。今から二人で駆け落ちしましょう」と、心にもないことを持ちかけたのです。まだベレロポーンのことが諦めきれなかったステネボイアは二つ返事で了承し、ベレロポーンとステネボイアはPēgasos(ペーガソス)に乗って駆け落ちしたのであります。ところが、ベレロポーンはここぞとばかりにステネボイアをペーガソスの背から突き落とし、彼女を殺してしまったのです。
ベレロポーンは次第に増長して傲慢になり、とうとう神になることまで望み始めます。彼は神々の食物であるAmbrosia(アンブロシア)を食べて不死になるために、ペーガソスを駆ってÓlimpos(オリンポス)へ向かったのでした。しかし、これはさすがに人間の分を超えた要求でした。Zeus(ゼウス)は一匹の虻を送ってペーガソスを刺させたのです。驚いたペガサスはベレロポーンを振り落とし、彼を地上に墜落させてしまいました。ペーガソスはそのまま、天に昇って、星座(Pegasus〈ベガスス〉座)になり、ベレロポーンは墜死したといいます。
一説によると、落下した時の怪我がもとで彼は足が不自由になってしまい、その上両目を失明してしまい、結局晩年のベレロポーンは神々からも人間からも憎まれる存在となり、人々の目を避けて国々をさまよい、荒野をさすらっているうちに寂しく死んだといいます。なんとも悲惨な結末ではありませんか。
明日から大腸ポリープ除去のため、三井記念病院に入院することになっています。従って、ブログも暫くお休みになります。
ギリシア神話のベレロポーンのお話は今日で終わりますが、退院後はギリシア神話の英雄伝を続けて、カリュドーンの猪退治をしたメレアグロス、怪物ミーノータウロス退治したテーセウスとお話を続ける予定です。
Bellerophōn(ベレロポーン)はめでたくLycia(リュキア)の王となったわけですが、ここで彼の人間像に暗い影を落とす事件が発生します。彼は、嘘をついて自分を陥れたArgo(アルゴス)王女Stheneboia(ステネボイア)に復讐しようとしたのです。彼はステネボイアのもとを訪れて、「自分は本当はあなたのことを愛していたのです。今から二人で駆け落ちしましょう」と、心にもないことを持ちかけたのです。まだベレロポーンのことが諦めきれなかったステネボイアは二つ返事で了承し、ベレロポーンとステネボイアはPēgasos(ペーガソス)に乗って駆け落ちしたのであります。ところが、ベレロポーンはここぞとばかりにステネボイアをペーガソスの背から突き落とし、彼女を殺してしまったのです。
ベレロポーンは次第に増長して傲慢になり、とうとう神になることまで望み始めます。彼は神々の食物であるAmbrosia(アンブロシア)を食べて不死になるために、ペーガソスを駆ってÓlimpos(オリンポス)へ向かったのでした。しかし、これはさすがに人間の分を超えた要求でした。Zeus(ゼウス)は一匹の虻を送ってペーガソスを刺させたのです。驚いたペガサスはベレロポーンを振り落とし、彼を地上に墜落させてしまいました。ペーガソスはそのまま、天に昇って、星座(Pegasus〈ベガスス〉座)になり、ベレロポーンは墜死したといいます。
一説によると、落下した時の怪我がもとで彼は足が不自由になってしまい、その上両目を失明してしまい、結局晩年のベレロポーンは神々からも人間からも憎まれる存在となり、人々の目を避けて国々をさまよい、荒野をさすらっているうちに寂しく死んだといいます。なんとも悲惨な結末ではありませんか。
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