瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日のウェブニュースより
莫言氏ノーベル賞が政治化され、検閲制度が強化される可能性も ―― 10月11日夜、中国作家莫言氏が入賞したニュースが伝わると、中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」で多くの人が何とも言えない、やりきれない、どうしようもない気持ちを表した。しかし、一部の中国の作家たちは正直にこの日を中国文学の哀れな一日と言っている。なぜ、中国の作家たちは莫言氏の入賞を反対するのか。/人々はウェイボーで莫言氏に入賞の資格はないということを必死に伝えようとする。しかし、事実、単に文学の角度から見ると、莫言氏は確かに中国で最も優れた作家である。筆者は彼の『紅高粱(赤いコーリャン)』は好きではないが、『豊乳肥臀』は確かに中国で最も勇気を持って書けた作品の一つだと思う。/莫言氏が入賞したのはやはり他の人が努力せず、実力がないからだ。だから天を恨み人を咎めてはならない。/しかし、中国の作家たちは海外の作家たちに比べて、不満が多く嫉妬に満ちている。公開されている反対意見以外に、公の場では儀礼的には賛美しているが、プライベートでは審査委員会の決定に疑問を持っている。これはなぜだろうか。/一般的な嫉妬心以外に、重要な原因がある。それは、莫言氏の入賞によって自分たちの生存状況が改善されるどころか、逆に悪化するとの懸念からだ。/中国の出版業の無残な状況は人々の想像を超える。ある友人を例に取ると、彼の書いた一冊目の本は伝記であるが、内容は台湾人を書いたものだけに、出版される直前に新聞出版署の検閲を受け、一年余り経った今も消息がないままだ。彼の書いた三冊目の本は小説で、内容も敏感なものではないが、一部ストーリーの展開上、チベットが出てくるというだけで、またも検閲されてしまった。出版には不確定性が付きもの。彼の二冊目の本だけが無事に順調に出版されたが、しかし、その本は全く文学的価値のない企業伝記である。そのような本なら検閲されないどころか、速やかに出版することができる。/検閲制度の下で中国の出版業は自らの安全を考慮し、真面目で批判的な文学を徐々に放棄し、浮ついた、人々の歓心を買うものしか扱わなくなってしまった。良い作品を書こうとする殆ど全ての作家がこの検閲制度に引っかかり、本を書き上げても出版できなかったり、あるいは作品が骨抜きにされたりする。そういった環境の中で作家たちもますます現実的になり、真面目な作品を追求しなくなってしまった。/この分野に足を踏み入れた全ての人が無力感を感じているが、莫言氏は例外である。/莫言氏が例外であると言ったのは、彼が比較的緩和された時代(1980~90年代)を生き、抜きん出たからだ。もし現在の審査基準で彼の作品を見たら、到底通るはずがない。勿論それまでによっぽど知名度や地位が高ければ話は別だが。/検閲制度さえなければ全ての作家が成功するとも限らないが、少なくとも彼らが自分の言いたいことが言えて、中国文壇全体のレベルが高くなる。しかし、実際には莫言氏のように早くから有名になった極少数の作家しか成功していない。/現在は政治改革の微妙な時期に来ている。人々の検閲制度廃止への期待も高まっている。完全には廃止されなくても、少しは緩和されればと期待している。この目的を達成するためには当局に圧力をかけると同時に、検閲制度の荒唐無稽さが中国文学をだめにしていることをより多くの人に分かってもらうべきである。より多くの批判が当局に集中し、当局が自信を無くせば、検閲は緩和されるはず。/しかし、莫言氏の入賞はこのような圧力を逆転させてしまうかもしれない。政府は彼の入賞を政治化し、中国の制度が勝ち取った賞だとしてしまったら、今の検閲制度が緩和されるどころか、逆に強化されてしまうかもしれない。/莫言氏は政府の検閲審査制度の協力者で、言葉の上での支持者でもある。彼の本意は我々には知る由もないが、分かっていることは、彼は同業者たちのために何かを勝ち取ろうとはしないこと。/このように、思いがけないノーベル文学賞が進歩ではなく、後退をもたらすかもしれない。もしこの予測が現実となれば、それこそ「中国文学の哀れ」である。勿論、入賞が既成事実となった以上、我々はその背後の危機に目を向け、莫言氏のノーベル文学賞入賞が過去の永遠の歴史にならないように、より多くのいい作品が現れることを期待するべきである。 〔サーチナー 012/10/15(月) 10:59 〕
爺の長兄は平成2(1990)年11月5日に亡くなった。膀胱癌が、全身に転移したものであり、長年勤めた、高校の社会科教師を定年退職し、これからは好きな研究や旅行を思い存分やるのだと張り切っていた矢先であった。
本日は浅草寺五重塔の参詣日であり、申し込めば、回向供養も行なってくれるという。今年は長兄の23回忌に当たるので、回向供養を申し込んだ。
午前10時に婆様と連れ立って、回向供養に参加し、五重塔に収めてある爺の両親と長兄夫婦の位牌にお参りして帰宅した。
莫言氏ノーベル賞が政治化され、検閲制度が強化される可能性も ―― 10月11日夜、中国作家莫言氏が入賞したニュースが伝わると、中国版ツイッター「微博(ウェイボー)」で多くの人が何とも言えない、やりきれない、どうしようもない気持ちを表した。しかし、一部の中国の作家たちは正直にこの日を中国文学の哀れな一日と言っている。なぜ、中国の作家たちは莫言氏の入賞を反対するのか。/人々はウェイボーで莫言氏に入賞の資格はないということを必死に伝えようとする。しかし、事実、単に文学の角度から見ると、莫言氏は確かに中国で最も優れた作家である。筆者は彼の『紅高粱(赤いコーリャン)』は好きではないが、『豊乳肥臀』は確かに中国で最も勇気を持って書けた作品の一つだと思う。/莫言氏が入賞したのはやはり他の人が努力せず、実力がないからだ。だから天を恨み人を咎めてはならない。/しかし、中国の作家たちは海外の作家たちに比べて、不満が多く嫉妬に満ちている。公開されている反対意見以外に、公の場では儀礼的には賛美しているが、プライベートでは審査委員会の決定に疑問を持っている。これはなぜだろうか。/一般的な嫉妬心以外に、重要な原因がある。それは、莫言氏の入賞によって自分たちの生存状況が改善されるどころか、逆に悪化するとの懸念からだ。/中国の出版業の無残な状況は人々の想像を超える。ある友人を例に取ると、彼の書いた一冊目の本は伝記であるが、内容は台湾人を書いたものだけに、出版される直前に新聞出版署の検閲を受け、一年余り経った今も消息がないままだ。彼の書いた三冊目の本は小説で、内容も敏感なものではないが、一部ストーリーの展開上、チベットが出てくるというだけで、またも検閲されてしまった。出版には不確定性が付きもの。彼の二冊目の本だけが無事に順調に出版されたが、しかし、その本は全く文学的価値のない企業伝記である。そのような本なら検閲されないどころか、速やかに出版することができる。/検閲制度の下で中国の出版業は自らの安全を考慮し、真面目で批判的な文学を徐々に放棄し、浮ついた、人々の歓心を買うものしか扱わなくなってしまった。良い作品を書こうとする殆ど全ての作家がこの検閲制度に引っかかり、本を書き上げても出版できなかったり、あるいは作品が骨抜きにされたりする。そういった環境の中で作家たちもますます現実的になり、真面目な作品を追求しなくなってしまった。/この分野に足を踏み入れた全ての人が無力感を感じているが、莫言氏は例外である。/莫言氏が例外であると言ったのは、彼が比較的緩和された時代(1980~90年代)を生き、抜きん出たからだ。もし現在の審査基準で彼の作品を見たら、到底通るはずがない。勿論それまでによっぽど知名度や地位が高ければ話は別だが。/検閲制度さえなければ全ての作家が成功するとも限らないが、少なくとも彼らが自分の言いたいことが言えて、中国文壇全体のレベルが高くなる。しかし、実際には莫言氏のように早くから有名になった極少数の作家しか成功していない。/現在は政治改革の微妙な時期に来ている。人々の検閲制度廃止への期待も高まっている。完全には廃止されなくても、少しは緩和されればと期待している。この目的を達成するためには当局に圧力をかけると同時に、検閲制度の荒唐無稽さが中国文学をだめにしていることをより多くの人に分かってもらうべきである。より多くの批判が当局に集中し、当局が自信を無くせば、検閲は緩和されるはず。/しかし、莫言氏の入賞はこのような圧力を逆転させてしまうかもしれない。政府は彼の入賞を政治化し、中国の制度が勝ち取った賞だとしてしまったら、今の検閲制度が緩和されるどころか、逆に強化されてしまうかもしれない。/莫言氏は政府の検閲審査制度の協力者で、言葉の上での支持者でもある。彼の本意は我々には知る由もないが、分かっていることは、彼は同業者たちのために何かを勝ち取ろうとはしないこと。/このように、思いがけないノーベル文学賞が進歩ではなく、後退をもたらすかもしれない。もしこの予測が現実となれば、それこそ「中国文学の哀れ」である。勿論、入賞が既成事実となった以上、我々はその背後の危機に目を向け、莫言氏のノーベル文学賞入賞が過去の永遠の歴史にならないように、より多くのいい作品が現れることを期待するべきである。 〔サーチナー 012/10/15(月) 10:59 〕
爺の長兄は平成2(1990)年11月5日に亡くなった。膀胱癌が、全身に転移したものであり、長年勤めた、高校の社会科教師を定年退職し、これからは好きな研究や旅行を思い存分やるのだと張り切っていた矢先であった。
本日は浅草寺五重塔の参詣日であり、申し込めば、回向供養も行なってくれるという。今年は長兄の23回忌に当たるので、回向供養を申し込んだ。
午前10時に婆様と連れ立って、回向供養に参加し、五重塔に収めてある爺の両親と長兄夫婦の位牌にお参りして帰宅した。
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プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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