蕨(わらび)を詠んだ歌
蕨(わらび)はイノモトソウ科の多年草で、早春に山野で巻いた新芽が特徴です。この新芽は早蕨(さわらび)と呼ばれ、食用になります。万葉集には1首だけに登場です。
1418: 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
※志貴皇子(しきのみこ、?~715/716年)
天武朝~奈良時代初期の皇族政治家、万葉歌人です。施基,芝基,志紀とも記します。天智天皇の第7皇子で、母は越道君伊羅都売 (こしのみちのきみいらつめ) 。光仁天皇、湯原王、榎井王の父です。天武8(679)年の吉野での盟約に加わり、持統3(689)年に撰善言司(よきことえらぶつかさ)。大宝3(703)年太上天皇の御葬送の造御竈長官。慶雲4(707)年文武天皇崩御のとき殯宮 (ひんきゅう)に供奉します。霊亀元(715)年二品(律令制で、一品から四品まである親王の位階のうち第二等)。のちに春日宮御宇天皇と追尊され,田原天皇とも称されました。『万葉集』に短歌6首を残します。歌数は少いが流麗明快で新鮮な感覚をもつ歌風は高く評価されています。
ウェブニュースより
藤井七段「開き直って踏み込んだ」大逆転王位戦連勝
将棋の最年少プロ、藤井聡太七段(17)が大逆転で連勝した。初防衛を目指す木村一基王位(47)に先勝した、第61期王位戦7番勝負第2局が14日、札幌市「ホテルエミシア札幌」で行われ、13日からの2日制での対局は午後7時40分、劣勢の後手藤井が、自玉の詰みをかわして粘った末に反撃し、144手でひっくり返した。16日に控えた、渡辺明棋聖(36)との棋聖戦5番勝負第4局での最年少タイトル獲得へ、大きく弾みを付けた。なお、王位戦の第3局は8月4、5日、神戸市で行われる。
◇ ◇ ◇
苦しい対局で、藤井が大きな2勝目をもぎ取った。初日から1手のミスも許されない、スローペースの相掛かりに持ち込まれた。2日目となったこの日の夕方は、明らかに劣勢だった。各8時間の持ち時間もどんどん削られる。「収拾がつかなくなって、苦しくしてしまった」。午後5時の段階で、木村が1時間16分もあったのに対し、藤井は20分しかなかった。
前局、棋聖戦5番勝負第3局の渡辺戦で敗れた時と同様、先に時間を使わされる。必死の防戦から最善を尽くし、逆転への糸口を探り出した。木村が寄せ損ねたのも味方した。「最後まで分からなかった。開き直って踏み込んだ」。形勢は覆り、30歳年長の王位が、投了を告げていた。
初日の封じ手場面、先輩棋士に「一日の長」を見せつけられた。初めて体験した封じ手。用紙の入った封筒の署名を忘れ、木村に指摘を受けた。立会人の深浦康市九段(48)からは封筒を差し出す向きも指導された。初の2日制7番勝負で、初々しさを見せたのは、この場面だけだった。
開幕局、ペース配分という課題も感じた。「初めてで分からないところが、経験できて分かった」と話していた。土壇場で集中力を発揮した。
19年度まで、史上初の3期連続「勝率8割超え」を誇る。収録日と放送日の異なるテレビ棋戦を除けば、連敗は17年8月棋王戦の豊島将之八段戦と9月加古川青流戦の井出隼平四段戦、18年9月棋王戦の菅井竜也王位戦と王位戦予選の山崎隆之八段戦(肩書、段位は当時)しかない。勝負強さを、粘りが身上の「将棋の強いおじさん」に見せつけた。
15日には札幌から大阪へと移動し、16日の棋聖戦第4局に備える。「どの対局もいいコンディションで迎えられるようにしたい」と、抱負を口にした。
四段デビュー時、扇子には「大志」と揮毫(きごう)した。明治時代、札幌農学校に招かれたクラーク博士が発した「少年よ、大志を抱け」の名言の一部だ。七段扇子には、「飛翔」と書いている。北の大地からタイトル獲得という大志を抱いて勇躍、飛翔する。 「日刊スポーツ2020年7月14日21時49分]
弓絃葉(ゆづるは)を詠んだ歌
ユズリハ科ユズリハ属の常緑高木です。葉は革質で光沢があります。4月から5月にかけて花をつけます。新葉が出てから古い葉が落ちるので、譲り葉と考えられてもいます。
万葉集には二首だけに登場します。
巻2-0111: いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
※弓削皇子(ゆげのおうじ、?~699年)
天武天皇の第6子で、母は天智天皇の女大江皇女です。693年(持統7)浄広弐を授けられ、697年(持統11)8月以前に、高市皇子の死後、次の皇太子をきめる会議の席上、軽皇子(のちの文武天皇)でなく同母兄長皇子を推すような発言をしようとしたらしく、葛野王に退けられました。699年7月に没しましたが、その間《万葉集》に8首の歌をのこしました。
巻14-3572: あど思へか阿自久麻山の弓絃葉のふふまる時に風吹かずかも
ウェブニュースより
トルコ、世界遺産アヤソフィアをモスクに 世俗主義象徴
トルコ最高行政裁判所は10日、世界遺産の建築物アヤソフィアを宗教的に中立な博物館にするとした1934年の内閣決定を無効と判断した。エルドアン大統領は同日、イスラム教の礼拝の場であるモスクとして開放するとの大統領令に署名した。
アヤソフィアはローマ帝国時代の537年、キリスト教の大聖堂として建立された。1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現イスタンブール)を征服した際、モスクに改装した。1935年、博物館としてオープンし、現代トルコの世俗主義や親欧州の外交方針を象徴する存在だった。
トルコではイスラム教保守派を中心にアヤソフィアをモスクに戻すべきだとの意見があり、エルドアン氏の宿願でもあった。判決は政権の意向を色濃く受けたものとみられる。同氏は10日夜の演説で、イスラム教徒以外にも門戸を開き続けるとしたうえで「祈りの場とすることは我々の主権に基づく」と述べた。
東方正教会の中心だったアヤソフィアのモスク化には、ギリシャなどの正教国が強く反対していた。欧州連合(EU)のボレル外交安全保障上級代表は10日「残念な決定だ」と述べた。米国務省も失望を表明した。
アヤソフィアにはキリストのモザイク画などが展示されており、扱いをどうするかが課題となる。国連教育科学文化機関(ユネスコ)は声明で、事前の相談なしにトルコが行った決定に「深い遺憾」を示したうえで、建築物の保存や運営方法などについて協議が必要だとした。
裁判所は判決理由で、アヤソフィアを博物館とすることは、所有者だったオスマン帝国のスルタン、メフメト2世が設立した管理財団の規約に反すると指摘した。
アヤソフィア ローマ帝国時代の360年に創建し、現在の建物はユスティニアヌス帝が537年に再建した。ギリシャ語由来のハギア・ソフィア(聖ソフィア)としても知られる。長く東方正教会の総本山だったが、1453年にコンスタンティノープルを陥落させたオスマン帝国のスルタン、メフメト2世が尖塔(せんとう)の追加やモザイク画の塗りつぶしなどでモスクに改装した。
世俗主義と欧化を掲げるトルコ共和国の建国に伴い、1935年に宗教性のない博物館と位置づけられ、中での礼拝ができなくなった。コンスタンティノープルの征服は預言者ムハンマドが望んでいたとされており、その象徴であるアヤソフィアのモスク化はトルコの宗教保守派や右派が長年主張してきた。1985年に世界遺産登録された。
【日本経済新聞 2020/7/11 0:42 (2020/7/11 6:29更新)
山吹を詠んだ歌6
巻20-4302: 山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつ
かざしたりけり
巻20-4303: 我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむ
いや年の端に
巻20-4304: 山吹の花のさかりにかくの如君を見まくは
年にもがも
標題:三月十九日、家持之庄門槻樹下宴飲謌二首
標訓:三月十九日に、家持の庄(たどころ)の門(かど)の槻(つき)の
樹の下にして宴飲(うたげ)せし謌二首
原文:夜麻夫伎波 奈埿都々於保佐牟 安里都々母 伎美伎麻之都々
可射之多里家利
万葉集 巻20-4302
作者:置始連長谷(おきそののむらじはつせ)
よみ:山吹は撫でつつ生(お)ほさむありつつも
君服(き)ましつつかざしたりけり
意味:山吹は大切に育てましょう、このように貴方が身に付けられて、
かざしにされたのですから。
左注:右一首、置始連長谷
注訓:右の一首は、置始連長谷(おきそののむらじはつせ)
※置始長谷(おきそめの-はつせ、生没年不詳)
奈良時代の女性。天平(てんぴょう)11年(739)光明皇后の維摩(ゆいま)講で歌い手をつとめました。大伴家持の別宅の宴でよんだ歌が「万葉集」巻20におさめられています。
原文:和我勢故我 夜度乃也麻夫伎 佐吉弖安良婆 也麻受可欲波牟
伊夜登之能波尓
万葉集 巻20-4303
作者:大伴家持
よみ:吾(わ)が背子が屋戸(やと)の山吹咲きてあらば
やまず通はむいや毎年(としのは)に
意味:私の尊敬する貴方の屋敷の山吹が咲いたらならば、
とだえることなく通いましょう。今年だけでなく、毎年ごとに。
左注:右一首、長谷攀花提壷到来、因是、大伴宿祢家持作此謌和之
注訓:右の一首は、長谷の花を攀(よ)ぢ壷を提(さ)げて到来(きた)れり、
是に因りて、大伴宿祢家持の此の謌を作りて之に和(こた)ふ。
標題:同月廿五日、左大臣橘卿、宴于山田御母之宅謌一首
標訓:同月廿五日に、左大臣橘卿の、山田の御母(みおも)の
宅(いへ)にして宴(うたげ)せし謌一首
原文:夜麻夫伎乃 花能左香利尓 可久乃其等 伎美乎見麻久波
知登世尓母我母
万葉集 巻20-4304
作者:大伴家持
よみ:山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年(ちとせ)にもがも
意味:山吹の花の盛りに、このようにわが君を拝見することは、
千年の末までもと思います。
左注:右一首、少納言大伴宿祢家持、矚時花作。但未出之間、大臣罷宴、
而不攀誦耳
注訓:右の一首は、少納言大伴宿祢家持の、時の花を
矚(なが)めて作れり。 但し未だ出(いだ)さざる間に、
大臣の宴(うたげ)を罷(まか)りて、攀(よ)じて誦(よ)まざるのみ
藤井七段「ミスあった」時間差に泣きタイトルお預け ―― 将棋の藤井聡太七段が17歳11カ月と史上最年少での初タイトル獲得に王手をかけた、第91期ヒューリック杯棋聖戦5番勝負第3局が9日、東京都千代田区「都市センターホテル」で行われた。午前9時から始まった対局は、午後7時12分、142手で渡辺明棋聖(36)の勝ち。連敗の渡辺が藤井の持ち時間を削る指し回しで優位に立ち、かど番をしのいだ。タイトル戦初黒星を喫した藤井のタイトル奪取は、第4局(7月16日、大阪市「関西将棋会館」)以降に持ち越された。
◇ ◇ ◇
初タイトルを前に足踏みしてしまった。朝9時の対局開始から90分で65手も進む超ハイペース。いきなり終盤に突入した。実は、渡辺の術中にはまる局面だった。「こちらがうまくまとめられなかった。いくつかミスもあった」。長考を重ね、みるみるうちに4時間の持ち時間が減らされていく。終盤、もっとじっくり考えたい局面で残りは3分。1時間30分はあった渡辺との差は開く一方だ。時間差に泣き、タイトル戦挑戦4局目で初黒星を喫した。
「形勢判断が甘い」「読みの正確さが必要」「実力をつけて強くならないと」など、対局を経て自らの課題も見つけていった。コロナ禍で4月から対局がつかなくなった約2カ月、それを修正するいい機会になった。「自分の将棋を見つめ直すことができた」と振り返る。人工知能(AI)搭載ソフトを使いこなしながら研究を重ね、今までの定跡では考えられなかったような手も披露した。
もう1つ挙げていた「時間の配分」は、局面ごとに違ってくるため実戦で身に付けていくしかない。今局は何度も頂上対決を経験してきた渡辺のうまさを見せつけられた。「今回の内容を反省して次につなげられたら」と前を向いた。
ここまでテレビ棋戦を除く連敗は、18年9月の棋王戦(菅井竜也王位=当時)と王位戦(山崎隆之八段)までさかのぼる。大きな崩れは考えにくい。
13~14日の王位戦7番勝負第2局の直後の16日、第4局がある。過密日程は続くが、「いい状態で臨めるようにしたい」。初タイトル獲得に向け、出直しだ。 [日刊スポーツ 2020年7月9日19時54分]
山吹を詠んだ歌5
巻19-4184: 山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
※留女女郎(るめのいらつめ、生没年不詳)
大伴旅人の娘です。母は丹比郎女で、大伴家持の同母妹です。「りゅうじょのいらつめ」、「とどまれるむすめのいらつめ」と読む説もあります。天平勝宝2年(750年)以前に、藤原南家の二郎(藤原継縄)に嫁いだといわれます。継縄の子藤原真葛の母と考えられています。万葉集に1首があります。
巻19-4185: うつせみは恋を繁みと春まけて思ひ繁けば............(長歌)
標題:詠山振花謌一首并短謌
標訓:山振(やまぶき)の花を詠(よ)める謌一首并せて短謌
原文:集歌4185 宇都世美波 戀乎繁美登 春麻氣氏 念繁波 引攀而 折毛不折毛 毎見 情奈疑牟等 繁山之 谿敝尓生流 山振乎 屋戸尓引殖而 朝露尓 仁保敝流花乎 毎見 念者不止 戀志繁母
万葉集 巻19-4185
作者:大伴家持
よみ:うつせみは 恋を繁(しげ)みと 春まけて 思ひ繁けば 引き攀(よ)ぢて 折りも折らずも 見るごとに 心(こころ)なぎむと 茂山(しげやま)の 谷辺(たにへ)に生ふる 山吹を やどに引き植ゑて 朝露に にほへる花を 見るごとに 思(おも)ひはやまず 恋し繁しも
意味:生きてこの世にある人はとかく人恋しさに悩みがちなもので、春ともなるととりわけ物思いがつのるものだから、手許に引き寄せて手折ろうと手折るまいと、見るたびに心がなごむだろうと、木々茂る山の谷辺に生えている山吹を、家の庭に移し植え、朝露に照り映えている花、その花を見るたびに、春の物思いは止むことなく、人恋しさが激しくなるばかりです。
巻19-4186: 山吹を宿に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ
巻19-4197: 妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし
山吹を詠んだ歌4
巻17-3976: 咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの山吹を見せつつもとな
標題:昨暮来使、幸也以垂晩春遊覧之詩、今朝累信、辱也以貺相招望野之歌。一看玉藻、稍寫欝結、二吟秀句、已蠲愁緒。非此眺翫、孰能暢心乎。但惟下僕、稟性難彫、闇神靡瑩。握翰腐毫、對研忘渇。終日目流、綴之不能。所謂文章天骨、習之不得也。豈堪探字勒韻、叶和雅篇哉。抑聞鄙里少兒、古人言無不酬。聊裁拙詠、敬擬解咲焉
(如今、賦言勒韵、同斯雅作之篇。豈殊将石間瓊、唱聾遊之曲欤。抑小兒譬濫謡。敬寫葉端、式擬乱曰)
七言一首
杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自軽
来燕銜泥賀宇入 帰鴻引蘆迥赴瀛
聞君肅侶新流曲 禊飲催爵泛河清
雖欲追尋良此宴 還知染懊脚跉䟓
標訓:昨暮(さくぼ)の来使は、幸(さきは)ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信(るいしん)は、辱(たかじけな)くも相招(さうせう)望野(ぼうや)の歌を貺(たま)ふ。一たび玉藻を看(み)て、稍(やくや)く欝結(うつけつ)を寫(のぞ)き、二たび秀句を吟(うた)ひて、已(すで)に愁緒(しうしよ)を蠲(のぞ)く。此の眺翫(てつぐわん)あらづは、孰(たれ)か能く心を暢(の)べむ。ただ、惟(これ)、下僕(やつかれ)、稟性(ひんせい)彫(ゑ)り難く、闇神(あんしん)瑩(みが)くこと靡(な)し。翰(ふで)を握(と)りて毫(がう)を腐(くた)し、研(すずり)に對(むか)ひて渇くことを忘る。終日(ひねもす)に目流(もくる)して、綴(つづ)れども能(あた)はず。所謂(いはゆる)文章は天骨にして、習ひて之を得ず。豈(あに)、字を探り韻を勒(ろく)すを堪(あ)へ、雅篇に叶和(けふわ)するや。抑(そもそも)鄙里(ひり)の少兒(せうに)に聞くに、古人は言(こと)に酬(こた)へぬこと無しといへり。聊(いささ)かに拙詠を裁(つく)り、敬みて解咲(かいせう)に擬(なぞ)ふ。
(如今(いまし)、言を賦し韵を勒(ろく)し、斯(そ)の雅作の篇に同ず。豈、石を将(も)ちて瓊(たま)に間(まじ)へ、聾に唱(とな)へこの曲に遊ぶに殊ならめや。抑(よそもそも)小兒の濫(みだり)に謡(うた)ふが譬(ごと)し。敬みて葉端に寫し、式(も)ちて乱に擬(なぞ)へて曰はく)
杪春(びょうしゅん)の餘日媚景(びけい)は麗(うるは)しく
初巳(しょし)の和風は拂ひて自(おのづか)らに軽し
来燕(らいえん)は泥(ひぢ)を銜(ふふ)みてを宇(いへ)を賀(ほ)きて入り
帰鴻(きこう)は蘆(あし)を引きて迥(はる)かに瀛(おき)に赴く聞く君が侶(とも)に肅(しゅく)して流曲を新たにし
禊飲(けいいん)に爵(さかづき)を催(うなが)して河清に泛(うか)び追ひて良く此の宴(うたげ)を尋ねむとすれども
還りて知る懊(やまひ)に染みて脚の跉䟓(れいてい)なることを
標訳:昨日夕刻の使者はうれしくも晩春遊覧の詩を届けてくれ、今朝の重ねてのお便りは、有り難くも野遊びへの誘いの歌を下さいました。最初の御文を見て多少憂うつな心の晴れるのを感じ、再び秀れた歌を吟じてすでに愁いの気分が除かれました。この風光を眺め楽しむ以外に、なにがよく心をのびやかにするものがありましょう。ただ、私は生まれつき文章を起こす素質がなく、愚鈍な心は磨くところがありません。筆を取っても筆先を腐らせるだけですし、硯に向かっても水が乾くのもわからないほどに考えるばかりです。一日中眺めていても文を綴ることができません。いわゆる文章というものは天性のもので、習って得られるものではありません。どうして、言葉を探し韻を踏んで詩を起こし、あなたの風雅な詩にうまく応じられましょうか。しかし、そもそも村里の子供に聞いても、昔の人は贈られた文章には答えないことはないと云います。そこで拙い詩を作り、謹んでお笑い草といたします。
(今、詩を起こし韻を踏み、貴方の風雅な御作に答えます。どうして、それが石をもって玉の中に雑じえ、声を上げて詠って自分の歌を喜ぶことと他なりましょうか。そもそも子供がやたらに歌うようなものです。謹んで紙の端に書き、それを乱れの真似ごととし、云うには)
暮春の残影の明媚な景色はうららかに、
上巳のなごやかな風は吹き来て自ずから軽やかである
飛来した燕は泥を口に含んで家に入り祝福し、
北へ帰る雁は蘆を持って遠く沖へ赴く
聞くに貴方は友と共に詩歌を吟じ曲水の歌を新たにし、
上巳の禊飲に盃を勧め清き流れに浮かべ
出かけて行ってこの佳き宴を尋ねようと思うが、
還って知る。病に染まり足がよろめくのを
左注:三月五日大伴宿祢家持臥病作之
注訓:三月五日、大伴宿祢家持、病に臥して之を作れり
山吹を詠んだ歌3
巻17-3974: 山吹は日に日に咲きぬうるはしと我が思ふ君はしくしく思ほゆ
題詞:昨日述短懐、今朝汗耳目。更承賜書、且奉不次。死罪々々。
不遺下賎、頻恵徳音。英雲星氣。逸調過人。智水仁山、既韞琳瑯之光彩、潘江陸海、自坐詩書之廊廟。騁思非常、託情有理、七歩成章、數篇満紙。巧遣愁人之重患、能除戀者之積思。山柿謌泉、比此如蔑。彫龍筆海、粲然得看矣。方知僕之有幸也。敬和謌。其詞云
標訓:昨日短懐(たんくわい)を述べ、今朝耳目(じもく)を汗(けが)す。更に賜書(ししょ)を承(うけたまは)り、且、不次(ふじ)を奉る。死罪々々。
下賎を遺(わす)れず、頻(しきり)に徳音を恵む。英雲星氣あり。逸調(いつてう)人に過ぐ。智水仁山は、既に琳瑯(りんらう)の光彩を韞(つつ)み、潘江(はんかう)陸海は、自(おのづ)から詩書の廊廟(ろうべう)に坐す。思(おもひ)を非常に騁(は)せ、情(こころ)を有理に託(よ)せ、七歩章(あや)を成し、數篇紙に満つ。巧みに愁人の重患を遣り、能く戀者(れんしゃ)の積思(せきし)を除く。山柿の謌泉は、此(これ)に比(くら)ぶれば蔑(な)きが如し。彫龍(てうりゅう)の筆海は、粲然(さんぜん)として看るを得たり。方(まさ)に僕が幸(さきはひ)あることを知りぬ。敬みて和(こた)へたる謌。その詞に云ふに、
標訳:昨日、拙い思いを述べ、今朝、貴方のお目を汚します。さらにお手紙を賜り、こうして、拙い便りを差し上げます。死罪々々(漢文慣用句)。
下賤のこの身をお忘れなく頻りにお便りを頂きますが、英才があり優れた気韻があって、格調の高さは群を抜いています。貴方の智と仁とはもはや美玉の輝きを含んでおり、潘岳や陸機の如き貴方の詩文は、おのずから文学の殿堂に入るべきものです。詩想は高く駆けめぐり、心は道理に委ね、たちどころに文章を作り、多くの詩文が紙に満ちることです。愁いをもつ人の心の重い患いを巧みに晴らすことができ、恋する者の積る思いを除くことができます。山柿の歌はこれに比べれば、物の数ではありません。龍を彫るごとき筆は輝かしく目を見るばかりです。まさしく私の幸福を思い知りました。謹んで答える歌。その詞は、
左注:三月五日大伴宿禰池主
注訓:三月五日大伴宿禰(すくね)池主
山吹を詠んだ歌2
巻11-2786: 山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ
巻17-3968: 鴬の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも
標題:忽辱芳音、翰苑凌雲。兼垂倭詩、詞林舒錦。以吟以詠、能蠲戀緒。春可樂。暮春風景、最可怜。紅桃灼々、戯蝶廻花舞、 翠柳依々、嬌鴬隠葉謌。可樂哉。淡交促席、得意忘言。樂矣、美矣。幽襟足賞哉。豈慮乎、蘭恵隔藂、琴無用、空過令節、物色軽人乎。所怨有此、不能點已。俗俗語云、以藤續錦。聊擬談咲耳
標訓:忽(たちま)ちに芳音(ほういん)を辱(かたじけな)くし、翰苑(かんゑん)は雲を凌(しの)ぐ。兼ねて倭詩(やまとのうた)を垂れ、詞林(しりん)錦(にしき)を舒(の)ぶ。以ちて吟じ以ちて詠じ、能く戀緒を蠲(のぞ)く。春は樂しむべし。暮春の風景は、最も怜(あはれ)ぶべし。紅桃は灼々(しゃくしゃく)にして、戯蝶(ぎてん)は花を廻りて舞ひ、 翠柳(すいりう)は依々(いい)にして、嬌鴬(けうあう)葉に隠りて謌ふ。樂しむべきや。淡交に席(むしろ)を促(ちかづ)け、意(こころ)を得て言(ことば)を忘る。樂しきや、美しきや。幽襟賞(め)づるに足るや。豈、慮(はか)らめや、蘭恵(らんけい)藂(くさむら)を隔て、琴(きんそん)用(もちゐ)る無く、空しく令節を過(すぐ)して、物色人を軽みせむとは。怨むる所此(ここ)に有り、點已(もだ)をるを能はず。俗俗(ぞく)の語(ことば)に云はく「藤を以ちて錦に續ぐ」といへり。聊(いささ)かに談咲に擬(なぞ)ふるのみ。
標訳:早速に御便りを頂戴し、その文筆の立派さは雲を越えています。併せて和歌を詠われ、その詠われる詞は錦を広げたようです。その歌を吟じ、また詠い、今までの貴方にお逢いしたい思いは除かれました。春は楽しむべきです。暮春の風景は、もっとも感動があります。紅の桃花は光輝くばかりで、戯れ飛う蝶は花を飛び回って舞い、緑の柳葉はやわらかく、声あでやかな鶯は葉に隠れて鳴き歌う。楽しいことです。君子の交わりに同席し、同じ風流の意識に語る言葉を忘れる。楽しいことですし、美しいことです。深き風流の心はこの暮春の風景を堪能するのに十分です。ところが、どうしたことでしょうか、芳しい花々を雑草が隠し、宴での琴や酒樽を使うことなく、空しくこの佳き季節をやり過ぎて、自然の風景が人を楽しませないとは。季節をやり過ごすことを怨む気持ちはここにあり、語らずにいることが出来ずに、下々の言葉に「藤蔓の布を以て錦布に添える」と云います。僅かばかりに、貴方のお笑いに供するだけです。
万葉集 巻17-3967
作者:大伴池主
原文:夜麻我比尓 佐家流佐久良乎 多太比等米 伎美尓弥西氏婆 奈尓乎可於母波牟
よみ:山峽(やまかひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
意味:山峡に咲いた桜を、ただ一目、病の床に伏す貴方に見せたら、貴方はどのように思われるでしょうか。
左注:沽洗二日、掾大伴宿祢池主
注訓:沽洗(やよひ)二日、掾大伴宿祢池主
巻17-3971: 山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも
題詞:更贈謌一首并短謌
題訓:更に贈れる謌一首并せて短謌
標題:含弘之徳、垂恩蓬軆、不貲之思、報慰陋心。戴荷未春、無堪所喩也。但以稚時不渉遊藝之庭、横翰之藻、自乏于彫蟲焉。幼年未逕山柿之門、裁謌之趣、詞失于聚林矣。爰辱以藤續錦之言、更題将石間瓊之詠。因是俗愚懐癖、不能黙已。仍捧數行、式酬嗤咲。其詞曰 (酬は、酉+羽の当字)
標訓:含弘(がんこう)の徳は、恩を蓬軆(ほうたい)に垂れ、不貲(ふし)の思は、陋心(ろうしん)に報(こた)へ慰(なぐさ)む。未春(みしゅん)を戴荷(たいか)し、喩(たと)ふるに堪(あ)ふることなし。但、稚き時に遊藝(いうげい)の庭に渉(わた)らざりしを以ちて、横翰(わうかん)の藻は、おのづから彫蟲(てんちゆう)に乏し。幼き年にいまだ山柿の門に逕(いた)らずして、裁謌(さいか)の趣は、詞を聚林(じゅうりん)に失ふ。爰(ここ)に藤を以ちて錦に續ぐ言(ことば)を辱(かたじけな)くして、更に石を将ちて瓊(たま)に間(まじ)ふる詠(うた)を題(しる)す。因より是俗愚(ぞくぐ)をして懐癖(かいへき)にして、黙已(もだ)をるを能(あた)はず。よりて數行を捧げて、式(も)ちて嗤咲(しせう)に酬(こた)ふ。その詞に曰はく、 (酬は、酉+羽の当字)
標訳 貴方の心広い徳は、その恩を賤しい私の身にお与えになり、測り知れないお気持ちは狭い私の心にお応え慰められました。春の風流を楽しまなかったことの慰問の気持ちを頂き、喩えようがありません。ただ、私は稚き時に士の嗜みである六芸の教養に深く学ばなかったために、文を著す才能は自然と技巧が乏しい。幼き時に山柿の学風の門に通うことをしなかったことで、詩歌を創る意趣で、どのような詞を選ぶかを、多くの言葉の中から選択することが出来ません。今、貴方の「藤を以ちて錦に續ぐ」と云う言葉を頂戴して、更に石をもって宝石に雑じらすような歌を作歌します。元より、私は俗愚であるのに癖が有り、黙っていることが出来ません。そこで数行の歌を差し上げて、お笑いとして貴方のお便りに応えます。その詞に云うには、
左注:三月三日、大伴宿祢家持
注訓:三月三日に、大伴宿祢家持
山吹(やまぶき)を詠んだ歌1
山吹はバラ科の落葉低木です。低い山地や水辺に生えます。一重山吹、八重山吹、などがあります。3月から5月にかけて、鮮やかな黄色の花がきれいですね。なお、八重山吹には実ができません。
巻2-0158: 山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
※十市皇女(とおちのおうじょ、?-678)
飛鳥(あすか)時代、天武天皇の皇女です。母は額田王(ぬかたのおおきみ)。大友皇子(弘文(こうぶん)天皇)の妃となり、葛野王(かどののおう)を生みます。壬申(じんしん)の乱で夫が父の大海人(おおあまの)皇子(天武天皇)に攻められ、自殺したのち父のもとにもどります。天武天皇7年4月7日宮中で急死。「万葉集」に高市(たけちの)皇子のよんだ挽歌(ばんか)3首があります。
※高市皇子(たけちのおうじ、654~696)
天武天皇の第1皇子。母は胸形君徳善の娘、尼子娘 (あまこのいらつめ)です 。壬申の乱には、大海皇子 (天武天皇) のもとに走り、軍を統率して大いに活躍します。持統3(689)年皇太子草壁皇子が死ぬと、翌年太政大臣になります。持統天皇を助けて政治万般にあたり、藤原京の建設にも貢献しました。食封 (じきふ)も5000戸に上り、香具山のふもとに広大な宮殿を営んだといいます。『万葉集』には十市皇女の死を哀傷した短歌3首が収められています。柿本人麻呂が,皇子の死をいたんだ挽歌は有名です。その墓所は明らかではありません。
巻8-1435: かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
※厚見王(あつみのおおきみ、)生没年不詳)
奈良時代の官吏。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)6 (754) 年太皇太后藤原宮子の葬儀の御装束司(みそうぞくし)となります。7年伊勢(いせ)大神宮奉幣使(ほうへいし)となりました。「万葉集」に久米女郎(くめの-いらつめ)とのあいだの相聞歌(そうもんか)がみえます。
巻8-1444: 山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり
※高田女王(たかだのおおきみ、生没年不詳)
奈良時代の歌人。「万葉集」巻4に大原今城(いまき)におくった歌6首、巻8に1首がおさめられ、注に高安王(大原高安)の娘とあります。
巻10-1860: 花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花
巻10-1907: かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば
ウェブニュースより
球磨川氾濫、家流され10人安否不明、土砂崩れも ――大雨特別警報が発表された熊本県と鹿児島県では4日、各地で土砂崩れが発生、球磨川は熊本県人吉市から八代市にかけ、少なくとも7カ所で氾濫した。熊本県は、芦北町で家が流されるなどして約10人の安否が不明だと説明した。津奈木町でも、土砂崩れによる行方不明者の情報がある。
八代市や人吉市、水俣市、鹿児島県阿久根市など11市町村が約9万2200世帯、約20万3200人に避難指示を出した。熊本県は陸上自衛隊に災害派遣を要請した。
熊本県の芦北町や津奈木町など4町は、避難指示より強い警戒を求める「災害発生情報」を約1万6100世帯、約3万8600人に出した。
熊本県などによると、球磨村では、球磨川が氾濫して住宅が浸水したとの通報が多数あり、逃げ遅れた住民が救助を求めているという。また、球磨川に架かる八代市内の鉄骨橋「深水橋」が流失した。
消防によると、芦北町女島で午前3時40分ごろ、80代女性が住宅で土砂に埋もれたと119番があり、間もなく救助された。意識はあるという。
JR九州によると、九州新幹線は始発から熊本-鹿児島中央の上下線で運転を見合わせた。また、九州自動車道や、国道3号の一部区間などが通行止めになった。
九州電力によると、熊本県内では一時約8840戸が停電した。(共同) [日刊スポーツ 2020年7月4日12時12分]
山たづを詠んだ歌2
巻6-0971: 白雲の龍田の山の露霜に色づく時に.......(長歌)
標題:四年壬申、藤原宇合卿遣西海道節度使之時、
高橋連蟲麻呂作謌一首并短謌
標訓:(天平)四年壬申、藤原宇合卿の西海道節度使に遣さえし時に、
高橋連蟲麻呂の作れる謌一首并せて短謌
原文:白雲乃 龍田山乃 露霜尓 色附時丹 打超而 客行公者 五百隔山 伊去割見 賊守 筑紫尓至 山乃曽伎 野之衣寸見世常 伴部乎 班遣之 山彦乃 将應極 谷潜乃 狭渡極 國方乎 見之賜而 冬木成 春去行者 飛鳥乃 早御来 龍田道之 岳邊乃路尓 丹管土乃 将薫時能 櫻花 将開時尓 山多頭能 迎参出六 公之来益者
万葉集 巻6-0971
作者:高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
よみ:白雲の、龍田の山の、露霜(つゆしも)に、色づく時に、うち越えて、旅行く君は、五百重山(いほへやま)、い行きさくみ、敵(あた)守る、筑紫に至り、山のそき、野のそき見よと、伴(とも)の部を、班(あか)ち遣(つか)はし、山彦の、答へむ極(きは)み、たにぐくの、さ渡る極み、国形(くにかた)を、見したまひて、冬こもり、春さりゆかば、飛ぶ鳥の、早く来まさね 、龍田道(たつたぢ)の、岡辺の道に、丹(に)つつじの、にほはむ時の、桜花、咲きなむ時に、山たづの、迎へ参ゐ出む、君が来まさば
意味:白雲の龍田の山が露(つゆ)や霜(しも)で色づく頃に、旅行くあなたは、いくつもの山々を越えて進み、敵から守るために筑紫に着き、山の果てや野の果てを見るように、兵隊たちを分けて派遣し、山彦が聞こえる限りまで、ひきがえるが行く限りまで、国の様子をご覧になり、春になったら飛ぶ鳥のように早くお帰りください。龍田の道の岡辺の道に真っ赤なつつじが咲き誇り、桜が咲くときに、お迎えに参ります。あなたがお帰りになったら。
左注:右檢補任文八月十七日任東山々陰西海節度使
注訓:右は、補任の文を検するに、八月十七日、東山山陰西海の節度使に任けらえき
◎天平4年(西暦732年)8月17日、藤原宇合(ふじわらのうまかい)が西海道節度使(さいかいどうせつどし)として派遣されたときに高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)が詠んだ歌です。節度使(せつどし)は、地方の軍事などのチェックをするために派遣される人で、この制度はこの歌が詠まれた天平4年からスタートしたようです。
※高橋虫麻呂(たかはしの-むしまろ、生没年不詳)
奈良時代の万葉歌人です。天平4(732)年に藤原宇合(うまかい)に歌を贈ったことを除いては、正確な経歴は不明です。地方官として東国に下り、常陸国に住んでいたと推定されます。宇合の下僚として『常陸国風土記』の編纂に関係していたとする説もあります。『万葉集』に長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首を残しますが、その多くは「高橋連(むらじ)虫麻呂之歌集中出」「高橋連虫麻呂歌中出」の形で収められ、その範囲に異説があります。作品の大部分が旅行中につくられた点、伝説、説話を素材にした作品が多く、しかもその叙述が詳細な点、身辺のことを歌わず叙景歌もない点などが特色です。
ウェブニュースより
藤井聡太七段が先勝 木村王位を押し切る 将棋・王位戦 ―― 将棋の高校生棋士、藤井聡太七段(17)が木村一基王位(47)に挑戦している第61期王位戦七番勝負(新聞三社連合主催)の第1局は2日、藤井七段が95手で勝って初タイトル獲得に向け好スタートを切った。第2局は13、14日、札幌市で行われる。
王位戦は持ち時間が各8時間で、藤井七段にとっては初めての2日制。愛知県豊橋市のホテルアークリッシュ豊橋で1日朝に始まった対局は、藤井七段の先手で角換わり腰掛け銀の戦型に進み、藤井七段の攻めを木村王位が堂々と受けて立ったことで1日目から激しい戦いになった。2日朝の再開早々から藤井七段の攻め、木村王位の受けという互いの持ち味を発揮する戦いとなり、午後5時37分、藤井七段が押し切った。
https://www.youtube.com/watch?v=ADux1YN9-FE
終局後、藤井七段は「2日制の対局は初めてで、充実感もあったが、体力面ではちょっと課題が残った。次回はそのあたりに気をつけたい。いいスタートが切れたと思うので、第2局もしっかりと指したい」、木村王位は「どこかで対応を間違えたかもしれない。苦しいと思っていた。結構頑張ったつもりだったが、鋭い寄せだった。次は早く気を取り直して準備を進めて頑張りたい」と話した。
藤井七段は9日、渡辺明棋聖(36)に挑戦している第91期棋聖戦五番勝負第3局に臨む。現在2連勝しており、あと1勝すれば史上最年少の17歳11カ月で初タイトルを獲得する。 (朝日新聞DIGITAL 2020年7月2日 20時32分)
山たづを詠んだ歌1
山たづは、スイカズラ科ニワトコ属の落葉低木の接骨木(にわとこ)です。4~5月に枝の先に円錐状に淡い黄色の花をつけます。山で見かけることができますが、最近はなかなか見られないですね。
万葉集では、「山たづ」は「迎へ」を導く枕詞として使われています。これは、葉が対生することからという説と、神を迎するための木として使われたからという説があります。
巻1-0090: 君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
標題:古事記曰、軽太子、奸軽太郎女。故其太子流於伊豫湯也。此時衣通王、不堪戀暮而追徃時謌曰
標訓:古事記に曰はく「軽(かるの)太子(ひつぎのみこ)、軽(かるの)太郎女(おほいらつめ)に奸(たは)く。故(かれ)、その太子を伊豫の湯に流す」といへり。此の時に衣通(そとほしの)王(おほきみ)、戀ひ暮らすことに堪(あ)えずして追ひ徃く時の謌に曰はく、
標題の大意:古事記にはこう書かれている。
「軽太子(かるのひつぎのみこ=木梨軽皇子、允恭〈いんぎょう〉天皇の皇太子)が妹の軽太郎女(かるのおおいらつめ)を犯した。そこでその太子を伊予の湯(愛媛県松山市の道後温泉)に追放した。このとき衣通王(そとおりのおおきみ=軽太郎女)は恋しさに堪え切れずあとを追った」
そのときに歌った歌
※木梨軽皇子(きなしのかるのみこ、生没年不詳)
允恭天皇の第一皇子、皇太子でした。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)などがあります。
『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流されました。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれます(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとあります。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされています。
※衣通姫(そとおりひめ、伝承上の人物)
『日本書紀』では、允恭(いんぎょう)天皇の皇后の忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫、『古事記』では同じ皇后の子の軽大郎女(かるのおおいらつめ)の名とします。もとは古代の美人伝承の主人公なのでしょうか。衣通姫の名の由縁(ゆえん)は、その美しさが衣を通って輝いていたゆえといいます。記では、太子の木梨之軽王(きなしのかるのきみ)が、禁じられた姫との同母兄妹婚のために支持を失って道後(どうご)温泉(愛媛県松山市)の地に移され、後を追ってきた姫とともに自害します。紀では、天皇のお召しを拒みえなかった姫が、寵愛(ちょうあい)を受けつつも姉の心情を思って和泉(いずみ)の茅渟(ちぬ)(大阪府)に退きます。物語はともに歌謡を含み、人物、展開を異にしつつも、逆らいえない愛を生きた運命の人として美しく姫を語っています。
左注:云山多豆者、是今造木者也。
右一首謌、古事記与類聚歌所説不同。謌主亦異焉。因檢日本紀曰、難波高津宮御宇大鷦鷯天皇廿二年春正月、天皇、語皇后、納八田皇女将為妃。時皇后不聴。爰天皇謌以乞於皇后云々。卅年秋九月乙卯朔乙丑、皇后遊行紀伊國到熊野岬取其處之御綱葉而還。於是天皇、伺皇后不在而娶八田皇女納於宮中。時皇后、到難波濟、聞天皇合八田皇女、大恨之云々。亦曰、遠飛鳥宮御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇廿三年春正月甲午朔庚子、木梨軽皇子為太子。容姿佳麗、見者自感。同母妹軽太娘皇女亦艶妙也。云々。遂竊通、乃悒懐少息。廿四年夏六月、御羮汁凝以作氷。天皇異之、卜其所由、卜者曰、有内乱。盖親々相奸乎云々。仍移太娘皇女於伊与者。今案二代二時不見此謌也。
注訓:ここに、やまたづと云ふは、今の造木(みやつこぎ)なり。
右の一首の謌は、古事記と類聚歌と説く所同じからず。謌の主もまた異なれり。因りて日本紀を檢(かむが)みて曰はく「難波高津宮に御宇大鷦鷯天皇の廿二年春正月、天皇、皇后に語りて『八田皇女を納(めしい)れて将に妃と為(な)さむ』といへり。時に皇后、聴(ゆる)さず。ここに天皇、謌を以つて皇后に乞ひたまひしく。云々。卅年秋九月乙卯の朔の乙丑、皇后の紀伊國に遊行(いで)まして熊野の岬に到りて、その處の御綱葉(みつなかしは)を取りて還りたまひき。ここに天皇、皇后の在(おは)しまさざるを伺ひて八田皇女を娶(まき)きて宮の中(うち)に納(い)れたまひき。時に皇后、難波の濟(ほとり)に到りて、天皇の八田皇女を合(ま)きしつと聞かして、大(いた)くこれを恨みたまひ。云々」といへり。また曰はく「遠飛鳥宮に御宇雄朝嬬稚子宿祢天皇の廿三年春正月甲午の朔の庚子、木梨軽皇子を太子(ひつぎのみこ)と為したまひき。容姿(かほ)佳麗(きらきら)しく、見る者自ら感(め)でき。同母妹(いろも)軽太娘皇女もまた艶妙(いみじ)。云々。遂に竊かに通(たは)け、すなはち悒(おほ)しき懐(こころ)少しく息(や)みぬ。廿四年夏六月、御羮(みあつもの)の汁凝(こ)りて以ちて氷と作(な)す。天皇の之を異(あや)しびて、その所由(ゆゑ)を卜(うらな)へしむるに、卜者(うらへ)の曰(もう)さく『内に乱れ有り。盖し親々(しんしん)相(あひ)奸(たは)けたるか。云々』といへり。よりて太娘(おほいらつめ)皇女(ひめみこ)を伊与(いよ)に移す」といへる。今案(かむが)ふるに二代二時(ふたとき)にこの謌を見ず。
左注の大意:この一首の歌は古事記(90)と類聚歌林(85)とで内容が異なっていて作者も違う。そこで日本書紀を見てみると、
「仁徳天皇の二十二年正月、天皇は皇后に、八田皇女(やたのひめみこ=仁徳天皇の異母妹)を妃として迎え入れたいとお話しになった。しかし、皇后はお許しにならなかった。そこで天皇は皇后に許しを乞うために歌をお詠みになった。…三十年九月十一日、皇后は紀伊の国に旅行して熊野の岬までおいでになり、そこの御綱葉(みつながしわ)を取ってお帰りになった。ところが天皇は、皇后の留守の隙をねらって八田皇女を迎え入れ、妃にしてしまわれた。皇后は難波の港に着いたときに『天皇が八田皇女を召された』と聞いて、深くお恨みになった」と書かれている。また、
「允恭天皇の二十三年三月七日、木梨軽皇子が太子になった。容姿が整って美しく、見るとだれもが心惹かれた。同母妹の軽太娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)もまたあでやかな美人だった。…ついに二人はひそかに通じ、日頃の思いを少し晴らした。二十四年六月、天皇の熱いスープが固まり氷になった。天皇は不思議に思ってそのわけをお占わせになった。占い師は、『家内が乱れています。おそらく肉親同士が私通しているのでしょう』と言った。そこで太娘皇女を伊予に追放した」
と書かれている。日本書紀では、仁徳、允恭の二つの時代にこの歌は見えない。
sechin@nethome.ne.jp です。
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |