このブログを書き始めて、1ヶ月有余になる。毎日のように書いているので、いつかは満タンになり、最初のほうは削除することになる。まあ、CDに保管することも出来るのだろうが、いっそCD保管するのなら、直ぐに印刷製本できるようにと、自分の書いたブログを片っ端からマイドキュメントにコピーしてきた。
1月有余で早、160ページ近くになった。
まあ、ここらで、一区切りしようと冊子に纏めることにした。内容は、今までのブログの丸ごとコピーである。校正も何もない。丸ごとコピーだから、間違って書いたところもそのまんまである。
コピー中のミスで抜かした部分があるやも知れぬ。また、ダブりでコピーした部分があるやも知れぬ。
一度読んだこんな代物を繰り返し読むこともなかろうが、どうも爺の年代になると、デスプレ―で記事を読むというのは疲れる。まあ、いわば活字人間なのである。いまでこそ、新聞はテレビ欄だけという日も多々あるが、若きころは新聞を端から端まで全部読み通したって疲れなかった。
北小金から浅草に通うころは2日に1冊のペースて新書版を買っていた。それが、今ではすっかりテレビ人間になり、それも殆どケーブルテレビの時代劇コーナーばかり。
この、ブログ集の編集・製本もいわば爺にとっては時間つぶしの遊びなのである。
桜橋のところまで来ると、何となくグラウンド(野球場)の脇道を通る気になり、その昔「兼愛doves(ダヴス)」というチームがあって、この場で早朝野球をやっていたこと、チームはいつも最下位に近い成績であったが、チャボ女史の旦那がピッチャーで鳴らしたことなどを思い出していた。
リバーサイドスポーツセンター前までくると、兼愛塾の発祥の地がみたくなり、通りを渡って、山谷堀公園の横道をとおって、待乳山聖天下、待乳山公園の裏入り口に来た。今は駐車場になっているが、ここに古い木造の二階建てがあり、上はアパート、下は倉庫であった。
この倉庫を借り受けて改装し、ここに2教室を設置したのである。待乳山公園は塾が始る前、また勉強が終ってからの恰好の遊び場所であったわけである。
しばらく、立ち話。息子さんはすでに家業の歯科医を継ぎ、今は親父殿と一緒に診療に当たられているらしい。娘さんも実家の歯科の手伝いに来ていらっしゃるとのことである。娘さんの舅さんはかのベストセラー『死体は語る』の上野正彦氏であるという。
朝食を終えて、メールを開くと島根県邑南町のMH氏より、メールが入っていた。きのう下関市のKH氏に送ったメールをカーボン・コピー(CC)しておいてものを読まれたのであろう。曰く、
節夫様の手記を読ませていただきました。すざまじい内容で言葉になりません。私は、島根県で育っているせいか原爆ドームや資料館には10回以上訪れておりますが、実際に体験されている方の言葉は重く感じます。
私も子供の頃、当時のことを祖母等に聞いたことがあります。母方の祖母は当時は邑南町の隣町の川本町で、朝から畑仕事をしていたところ広島方面の空に閃光が走ったそうです。
また、父方の祖母は邑南町の家の中で掃き掃除をしていましたが、家の中まで光を感じたそうです。邑南町から原爆ドーム付近まで7、80キロもあり、昼間にかかわらず家の中でも光ったそうですので、その凄まじさが慮れます。
節夫さんが汽車に揺られている頃、私の祖母達は南の空を見上げていたのでしょう。同じ日、同じ時に様々な瞬間を迎えた多く人達がいたのですね。
生きようとして生きれなかった人、一所懸命生き抜いた人、硫化水素の自殺ブーム、無差別通り魔殺人。命の重さは今も昔も同じなのでしょうか? わからなくなります。 MH
とあった。
雨で徘徊には行けず、質問に答えるには少々記憶もあいまいだし… 2001年の夏、中学高校の先輩、今は亡きKN氏に勧められて、製作した「賢人の愚劣なる軌跡」を思い出し、その中の爺の文8頁分をスキャンして、添付メールで送った。
きのうの朝のブログで、クロネコヤマトの宅急便か、メール便(速達)か、メール便(普通)かは知らぬが、ゲラはこっちへ向かってるらしいと読んだが、結局、本日、15:47現在、ゲラは未着。昨日の朝出して、宅急便か速達メールなら、翌日には届くから、普通メールで来るんだろう。従って、校正は、明日のお仕事にしましょう。とりあえず、まだ届かないよと、ごあいさつ。
きのうの朝9時には速達便で出しているのに、まだ着かぬとは… まあ、別に急ぐ必要はない。日頃からIN兄の信頼厚きクロネコなれど、こんなこともあるんだろうな。
きのうは土曜日でいつも受付にいるお姐さんお休みであったから、配送の仕事をしている男性の方が受け付けてくれた。そんなことで、何時もは封筒に貼りつけるシールも貼っていなかった。そんなこんなで、遅れたのかもしれない。
硯友会(高校の同窓会)のKY氏からメールが入った。曰く、
日高先輩 ブログ拝見しました。盛りだくさんの内容で先輩のエネルギーには感服いたします。みなと外誌の編集、海外の方との交流など興味あるないようです。できましたら先輩のブログ わがホームページからリンクを貼らせて頂ければとおもいます。いかがでしょうか。
ブログはみんなに見てもらうために書くもの。OKの返信を出したのはいうまでもない。
朝は雨。雨が降ろうが、風が吹こうがお目々が開くのは決まって4時。
夕べのうちに朱を入れた部分をパソコンの保存原稿に修正記入。これで、何時もの徘徊の時間はつぶれた。朝飯をくうと、早速このゲラと、ほかの写真コピーしたもの4冊を花川戸の「クロネコ」へ持参。テレビの報道とは違って、雨は上がり、薄日さえ射してきたので、吾妻橋を渡り、何時もは朝早くてまだ開いていない墨田区役所に行ってみる。
他にも、区民のためのイベントや小学生や中学生のための勉強コーナーなどが設けられている。今日は、トンボの研究室が設けられていた。土曜日とあって、父母同伴の小学生達が、来ていて、少々うるさい。
区役所を出て枕橋にかかると、前後を青い幟で挟まれた一団がやって来た。
ゴミ袋とゴミばさみを持った老若男女がぞろぞろと列を組んで歩いていた。
これも一つのボランティアなんだろうけど、のんびりしたもので、あのホームレスの空き缶集めの凄まじさはどこにもない。
榎本其角(1661~1707年、宝井其角ともいう)あたりは、この渡しを使って吉原通いをしたのかもしれない。
吾妻橋からは嫌でも目に留めなければならないかの黄金の塊について、質問があったので、昨夜のうちに答えておいた。
今朝はメールが2つ入っていた。一つは昨夜の回答に対する再コメントが入ったことの知らせと、もう一つはGoogleアラームから、新しく缶ビールが発売されるというニュースである。
朝の徘徊では昨夜のコメントに応える意味からも、吾妻橋の上から件(くだん)の「炎のオブジェ」をカメラに収めることにした。
墨田区役所、アサヒビール、高層マンションと立ち並び、こちとらは今回の東北地震など思い出し、関東大震災級の地震でもあったらと、心配しているのに、今度はこの向こうに東京スカイツリーという600メートルもあるバベルの塔を建設するのだという。
Googleアラームによれば、
アサヒビールは、東京・墨田区に建設される新東京タワーの名称が「東京スカイツリー」に決まったことを受け、アサヒスーパードライ缶350ml「東京スカイツリー」を2008年7月23日から東京都で発売する。
同社は、墨田区の地元企業として、タワー周辺を開発する同じ墨田区の東武鉄道の応援と地元墨田区の発展への貢献を目指して、「東京スカイツリー」缶を発売することにしたという。オープン価格。
とある。まあ、抜け目なき商魂よ。
どうせ、中身が変ったわけじゃあるまい。何も宣伝に乗ることはなかろう。
桜橋から白鬚橋の間は墨田区側も川沿いの道は単調そのもの、高速6号線の騒音を聞きながら歩くことになる。大川側はコンクリートの壁が続き、墨堤通り側はブルーシートの御殿が並ぶ。頭上は大きなカーネズミが行き交う天井。
ここで、ワンさんと出会う。最近奥さんは多忙でここ1週間ほどは一人での散策らしい。
白鬚橋を渡って桜橋に向う途中で、何処かで会ったような紳士と出会う。ヤントよ、チャボさんよ、ワン・ノブさんよ、この方はKS君ではありませんぞ。まだ、お名前は存じあげぬが、地蔵坂に住んでいらっしゃる、爺の徘徊のときの顔馴染みなのじゃよ。
ところ、KS君は九州旅行から帰ったのかな。
マイチは小学生のころから今に至るまで、このグループの中心的存在なのである。リーダーではない。我ら塾友にはリーダーなんていらない。何となく人を惹き付けてその場の中心となっている不思議な人物である。マイドキュメントから彼の写真を探したところ、一昨年の忘年会で写した「もてもてマイチ」の写真があったので、取り出した。
そもそもKENAIJUKU(「けないじゅく」ではありません。「けんあいじゅく)と読みます)で、ホームページを立てたらという話が前々からあったのだが、この爺々があまり積極的でなかったので、未だに実現していない。まあ、この爺々のブログを活用してくだされ。
メールで、想い出、家族のこと、何でもいいからブログに載せてもらいたいと一言添えてくだされば、うれしいね。写真等も添付してくれれば尚嬉しいよ。
いやいや、塾友だけでなく、このブログは爺に繋がる方々のブログだと思って戴いてよい。
燈台下暗し。まだこの対鴎荘跡碑の写真はブログに入れていなかったワイ。
今日は朝の徘徊コースを変更して、言問団子の前を通って、墨堤通り沿いに水神大橋まで歩いてみた。
言問団子の隣にある少年野球場は、王選手の少年時代ここで野球をしていたそうである。入り口には1本足打法のレリーフが飾られている。
このレリーフの撮影はまたの機会にして、アサヒビールの200mばかり続く配送場の前で、何時もは帰途で出会い朝の挨拶を交わす、紳士にばったり出会う。
「おはようございます」「おや、何時もとは随分違う場所でで遭いましたな」「私の家は地蔵坂なんですよ」なんていう会話を交わすが、デジカメに収めさせていただくのを忘れた。
水神大橋を渡り、いつもみる同じような風景を眺めながら、とうとう山谷掘の水門前まで来てしまった。何時ものように、お犬様たちの井戸端会議が始っていた。
どうやら、毎日毎日同じような写真をとって、同じようなことを書いていたのでは、能無しをさらけ出しているようだ。さりとて、徘徊以外のほかのテーマを取り上げるほどの才覚もない。いやはや、困ったものだ。
誰か、面白いテーマを写真と共にメールで送ってくれないもんかなあ。
まあ、メールをはじめて1月。今までのブログを冊子に纏めてみるか。
隅田公園駐輪場の花川戸入口のところで体操に来ていらっしゃるお二方が紫陽花をご覧になっていたので、カメラに収まっていただいた。
吾妻橋を渡って北上。白鬚橋でワンさんに出会う。先日の酸化チタン瓦の回答のお礼を言う。
白鬚橋から桜橋の間は剃刀堤防にそって、単調な道が続く。
誰が書くのかは知らないが、この絵を公園の管理者が消しているのを見かけたことがある。
白乃至クリーム色の1色の塗料で消すのだが、幾日もしないうちにその上からまた新しい芸術作品が描き出される。まあ、この繰り返しで、イタチごっこですなぁ。
子規は根岸に住んでいたので、この界隈には多くの句碑が建てられている。
sechin@nethome.ne.jp です。
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