瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨日、今日と爺のパソコンはプリントで大働き。会報「水門」をプリントアウトするためである。1組8面で編集し、150部の依頼であるから、8×150=1200(面)のプリントである。
ポンポン蒸気の荷役船
38d8dae7.jpg ディーゼルエンジンの曳船か
f092f7e9.jpg プリントアウトしている間も他の作業ができるのであるが、そこは慎重を期して、プリントだけに専念させた。というわけで、ブログはおろそかになってしまう。
今朝は昨日のコースを逆回りした。白鬚橋を渡る頃にやっと、白け始める。青御殿通りを桜橋に向けて歩いていると、ポンポンと小気味よい音を立てて、荷役船が大川を昇ってゆく。何処かのだるま船を引きに急いでいるようである。桜橋を正に抜けようとする荷役船があったが、こちらの方はポンポンて音を立ててないところをみると、ディゼルエンジンの曳船かもしれない。昨日の下弦の月はやや痩せ細り、西の空から中天に差し掛かろうとしていた。
駒形橋を渡り、川沿いに北上して、隅田公園を抜けて、帰宅した。
午後7時、やっと1200面のプリントをおえて、このブログを仕上げた。
 昨日は、会報「水門」の編集に追われて、徘徊を休んでしまった。
 今朝は4時に起床。昨日仕上げた会報「水門」をA兄に添付送信する。水門会での写真をいれたCDは届いたのだろうか。CD発送をメールで知らせたのだが、この音沙汰もない。
 5時徘徊に出かける。時計を忘れたが、駒形橋を渡るときはまだ暗い。墨田区側の遊歩道を北上。枕橋付近で白み始める。桜橋を潜り抜けた曳船が対岸のリバーサイドスポーツセンターの前を下ってくる。桜並木の中で顎をう~んと突き出して、中天を見上げると桜の枝葉の間に下弦の月が輝いている。
桜橋を抜けた曳船
c8a1657c.jpg言問橋にかかる曳船
37678045.jpg中天に下弦の月高し
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 白鬚橋を渡り、例の落書き横丁を通って帰宅した。

枕橋茶屋
1bee1b87.JPG 九州旅行から帰って、水門会の会報作りや写真整理に追われて、ブログを書く時間が割(さ)かれてしまう。18日(土)は旅行で世話になった人々へのお礼の品物選びで上野松坂屋へ。10時に出かけ、松坂屋の彼方此方を回る。すべて宅配郵送してもらう。
 7階のレストラン街で食事。東京メトロ銀座線で浅草へ。吾妻橋を渡って、墨田区役所前を通り、枕橋茶屋でコーヒーを飲む。店頭に墨田区内案内の貼紙もあったので、ここの若旦那に先日の水戸庭園の「勝安房篆額」の碑について訊ねてみるがよく解らないと言う。牛すじまんを買って帰宅。
両国橋上で
a6acc992.jpg動く歩道の前で
10fc037d.jpg浅草今昔展
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水上バスで
caf5f828.jpg 昨19日(日)は午後から東京江戸博物館へ「浅草今昔展」を観に行った。早昼を食って、墨田公園前から都バスで浅草橋へ。神田川を北側沿いに歩き、柳橋を渡って、両国橋上に立つ。橋の直ぐ下で、上りの水上バス「ひみこ」が下り水上バスとすれ違うところであった。一つ目どおりをとおって両国駅へ。東京江戸博物館で動く歩道を通って3階切符売り場で爺婆半額券を求め、エレベーターで6階までのぼり、5階の展示室に入る。まあ、今までよく観てきた風物ではあるが、このように纏めてみると浅草の地誌がよく理解できる。午後4時40分、両国発の水上バスで帰宅した。
 

白鬚橋西詰より
555cb5df.jpg白鬚橋東詰より
07d36fd1.jpg言問橋をバックに U氏
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 今朝は、昨日とは逆のコースを回ってみた。月は昨日よりやや痩せて、西空のやや高い位置に明るく輝いている。白鬚橋にかかる頃からだんだんしらみはじめ、白鬚橋を渡りながら正面の高速6号線の上ではかぎろひが立っている。かえりみすれば、下弦に近い月が西空にいまださまよっている。桜橋にかかる頃にはすっかり明るくなっていた。言問橋にかかるてまえで猿若にすむU氏と出会う。あたりを見回していた所為か声を掛けられたときは、一瞬何方かわからなかった。
駒形橋
ca5abc90.jpg山の宿の渡し跡
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 枕橋を渡って何時もは右折吾妻橋に出るのだが、今朝はそのまま直進、墨田区役所の前を通って、吾妻橋の東詰に出る。吾妻橋を渡って帰路に着こうと思ったが、何となくそのまま駒形橋まで下ってしまった。駒形橋を渡って、吾妻橋の西詰めから隅田公園に入る。昨日は暗くて判らなかったが、なんでも東京芸大が「みずたたまギャラリー」とやらをやっていて、公園中水玉模様だらけだ。写真を撮るのも馬鹿馬鹿しい。
 東武伊勢崎線のガード付近はごく最近まで橋梁補修のため板塀で囲んであったのだが、補修工事が終ったらしく、板塀が取り除かれてスッキリした。ガードを潜ると今まで板塀に隠れて見えなかった山の宿の渡し跡の石碑が姿を見せていた。
 九州旅行、2泊3日の積りが、S氏に誘われて博多にもう1泊することになり、帰京が1日伸びた。
 久方ぶりの旅行で、帰京後も疲れてしまって徘徊も1週間ほどお休みになった。
西空に十六夜月が
30b7bd28.jpg東(ひんがし)にかぎろひ
d8f95de5.jpg 今朝は5時10分に家を出て、隅田公園、吾妻橋(渡橋)、枕橋、桜橋、白鬚橋(渡橋)と、件(くだん)のコースを少々省略して帰宅した。吾妻橋を渡り東武伊勢崎線のガードを潜るころやっと白んでくる。対岸の台東区側の西空に十六夜月(いざよいづき)がかかり、北東方向アサヒビールの配送所の方に目を移すと、かぎろひが立っている。桜橋を過ぎる頃になるとやっと明るくなった。
白鬚橋を抜けた曳船
42f1fea3.jpg力いっぱい曳きながら下る
ec9471d7.jpg 1週間の休みで、なまった所為(せい)か何となく足が重く桜橋を渡って帰宅しようかと思ったが、腕時計を見るとまだ6時前。そのまま何時ものコースを進むことにした。川面には何処ぞの工事場で掘り出した土砂を山積みにした2艘の達磨船を曳っ張った親船が白鬚橋を潜(くぐ)って、あらん限りの力を振り絞りながら隅田川を下っている。東の空に立つかぎろひが薄く赤色に染めた西空で十六夜月が大川を見おろしながら姿を消すところである。
 広島で生まれ、門司で育った爺には広島にはもはや知り合いはだれもいないし、門司には一緒に学んだ友人はいても血肉を分けた親戚は一人もいない。この大川の畔で骨を晒すほかはなさそうだ。

 昨日は朝から雨。午後5時頃になって、ワンさんから電話で、「今日の集まりは7時からになっているが、家では何時も6時が夕飯なので、この時刻には竹屋に行きますが、宜しかったらご一緒しませんか」ということで、直ぐに外出の準備をして爺婆で竹屋に向かう。
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ワンさん夫妻と爺婆の4人で一足先に、宴会の始まり。7時になって全員が集まり、乾杯。
 婆様が持参した古いファイルに貼りつけた写真を見ながら、40年昔の思い出話に話が弾む。爺もついつい焼酎のお湯割りを3倍も過してしまった。アラリンがCOLOURS OF Britain という豪華本を贈呈してくれた。
 今朝は、明日の旅立ちを控えて、徘徊は中止した。午前9時前にアラリンがチップに保存した家族写真を持って爺の家を訪ねてくれた。早速爺のパソコンにこの60枚からの写真を取り込んでもらった。
爺の仕事場で
901ac81b.jpgアラリンの家族写真の中から
797b0fb2.JPG 今回の日本旅行は、仕事半分遊び半分だそうだ。話は何時までも尽きない。まだ仕事を残しているということで、10時ごろには左様ならしたのである。
 明日からは高校時代の同期会で門司に旅立つ。4・5日はブログもお休みになるだろう。

 

 朝5時は真っ暗気(け)だ。隅田公園を抜け吾妻橋の交番前から雷門通りを横切る。東武浅草駅前の江戸通りと馬道通りが交わる辺りは道路の補修工事中。朝が未だ明けぬうちから辺りには大きな騒音がひびきわたっている。工事の様子をカメラに収めたが、真っ暗闇でよく写っていないので載せるのはやめた。駒形橋を渡り、そのまま真っ直ぐ浅草通りを東進。路地の間から大変糞切れのよい巨大UNchiが空から降ってきたように思えるような異物が目に入った。珍しいのでカメラに収めたが、未だ辺りは明け切れていないので、よく見ないと何の写真かよく解らんじゃろうな。
浅草通りの路地
9e805086.JPG源森橋上にて
e012993a.JPG 何の石碑か?
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 三つ目通りまで来ると、辺りが白んでくる。源森橋から東京スカイツリーの工事現場を望むと、そこは朝焼けで染まって綺麗だ。源森橋を渡って水戸屋敷に入ると、今まで気付かなかったけれど今通ってきた道に沿うように庭園内部に大きな石碑があり、説明板が立っている。説明板は辛うじて「堀辰雄住居跡」と読めるが、どうやら巨大石碑とは関係なさそうである。ようやく明るくなりかけていたが、瞼をおぴろげて石碑の字面を辿ったが、何が書いてあるかよく判らない。最後の部分に「勝安房篆額」とある。こんど何時の日にか調べてみることにしよう。堀辰雄住居跡の説明板もカメラに収めてみたが、露出不足でよく読めない。これも次の機会にしよう。
5205dcc6.jpg 牛島神社前を横切って何時もの遊歩道に出る。白鬚橋を渡ると西詰めの所で、愛犬を連れたワンさん夫妻に出会う。このブログのコメントにもあったが日曜日には「浅草今昔展」を観に東京江戸博物館に行ってきたそうだ。明日のアラリンの歓迎会には出席するとのこと。
 というわけで、明日は徘徊はお休み。次の9日(木)は、翌日から九州行きになるので、とても徘徊どころじゃないだろう。



 今朝は朝から雨、徘徊にも出掛けられず、10月8日アラリンとあうことになっているので、想い出の写真でもあればと、アルバムを繰ってみた。
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920f6c36.JPG 古い臨海学校の写真は色があせてうまくとりだせない。婆様が、「これを拡大コピーしてもって行けば」といって取り出した写真2枚。花のニッパチ組みの高校卒業のとき、不忍池畔の東天紅で兼愛塾での同期会をやったときの不忍池を色あせた写真ではあったが、早速スキャンして編集してみた。まあ、どうやら見られる写真になったので、これを持参することにした。
 いやはや、皆若い。爺も婆もまだ40歳前後の頃であった。今から35年あまりも前の写真である。爺婆が頭を捻っても名前の思い出せない人物が4・5名はいた。8日に集まる連中に訊ねれば思い出すことであろう。


 町会の回覧で「みんな出歩こう、うぉーきんぐ」というチラシが配られてきた。婆様は早くから参加することを決めていたらしい。爺は皆さんのお荷物になっては迷惑になると、こんな会に参加したことはない。
コース図゛
81fc1d24.JPGS家玄関先にて
1e1a956a.jpg参加者の署名受付
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説明と諸注意
6de4f6fc.jpgでは準備体操を
65f77ff8.jpgいよいよ出発で
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バーベキュー広場で休憩

96c3f3f8.jpg世話人の方と一緒に709a1ddb.JPG
T氏と一緒に
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 爺婆
18f23263.JPGY氏ご夫妻
817fae5e.jpg千草園案内板
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草園
4f53f1df.JPG 今日は日曜日、何時もなら「うろつきどんたく」に出掛ける日である。婆様がウォーキングなら爺は東京江戸博物館へ「浅草今昔展」にでも観に行こうか思っていたが、このチラシを見直してみると、白鬚橋から千住汐入大橋のコースはよく歩くコースではあるが、柳原千草園はまだ行ったことがない。千住汐入大橋からは直ぐそこのコースらしいので、例の気まぐれで朝になって参加する気になった。
 秋晴れの好天気で陽気はよいし、何時もの早朝徘徊とはまた趣をことにするものと、金魚のウンコよろしく、お供することにした。集合は千束公園、9時15分、婆様と一緒にS氏夫人のMakiちゃんを誘いに行く。S氏の玄関先で夫妻の写真を撮る。S氏はお家でお留守番とのこと。千束公園で署名し、待機していると、松戸小金でご近所だったY氏ご夫妻にあった。9時50分頃、説明注意があって、準備体操。千束公園から千束通りを抜けて吉原大門、あさひ会商店街を抜けて、明治通りにでて、白鬚橋の西詰めから、汐入公園に入る。まあなんとチラシには「歩くことに自信のない年配の方、お子様連れの方でも大丈夫です」とあったにもかかわらず、爺の早朝徘徊に比べると随分早足で歩いているようだ。バーベキュー広場で休憩。日曜日とあって、大勢の人がバーベキューを楽しんでいた。ここで兼愛塾の塾生であったT氏に出会う。いやはや、何年ぶりの出会いであろうか。汐入大橋を渡り、狭い自動車1台が抜けられるかどうかの道を長い列をなしてぞろぞろと付いてゆく。柳原千草公園に着いたときはもう12時知覚出会った。小ぢんまりとした、趣のある公園であるが、あんまり広くは知られていないというのが気にいった。
奥山風景
44e47199.JPG平成中村座
0e022ef2.JPG奥山盤所にて
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  整理体操をして解散になった頃は12時をまわっていた。東武線牛田駅から東武浅草駅へ出た。Makiちゃんと一緒に昼飯をとり、今開催中の奥山風景と平成中村座を見て言問通りを通って帰宅した。
 北十間川に架かる5番めの橋「京成橋」は業平3丁目と押上1丁目を結ぶ橋で、この橋は昭和4年に架けられたが、現在の橋は昭和37年に架けられたそうじゃ。 名前は京成電鉄の本社があることから付けられたものじゃろな。京成線が都営地下鉄と連絡する前は、押上が終点で浅草方面へ歩いて行く人が多く、浅草通りの商店街も栄えたのじゃが、地下鉄が出来て以来芳しくない状態が続いているが、東京スカイタワー誘致に伴って明るい兆しが見え始めたと住民達は沸きかえっているようじゃ。
京成橋全体像
300633e4.JPG京成橋南詰
33134c32.jpg橋上より隅田川方面を望む右側がタワー建設地
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 京成橋北詰
3cdb2835.jpg橋上より亀戸方向をのぞむ
21f92217.jpg京成橋方向から工事現場を望む
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11月から交通止めになる標示
0e459653.jpg京成橋と東武橋の中間点で
291dc88b.jpg 塀には完成予想図が
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 朝まだきの真っ暗な隅田公園を抜け、吾妻橋を渡り、墨堤通と浅草通が出会う付近で明るくなる。浅草通を亀戸方面に向けて暫く歩く。業平橋を渡り、三つ目通を横切り、四つ目通まで来ると右手に京成橋が見える。京成橋の西側にかつては押上橋という橋があったというが、戦災で焼け落ちてしまったそうじゃ。今はきれいに整備されて跡形もない。大横川から中川までの北十間川は、掘削時には橋は3本しかなく、押上橋、堺橋、慈光院橋という3つの橋だけであったそうじゃ。なお、「押上」という地名は、京成橋の下を流れる北十間川から舟運の舟を「押し上げ」て、お隣の曳舟川へと移らせた事に由来するそうじゃ。
 北十間川の北側沿いの道を引き返し隅田川に向けて歩く。工事現場とこの道は今のところ板1枚の防御柵で囲まれているが、11月1日からはどうやらこの道は平成24年4月まで通せんぼになるらしい。塀に描いてある東京スカイツリーの完成予想図も見られなくなるわけじゃ。ここから浅草方面を見るとかの有名な金色に輝く「???塔」が垣間見える。源森橋から三つ目通りを北上し言問通りに出ると、昨日の「詩仏三碑」の最後の一つ三囲神社にある「本松齋一得翁之碑」を探しに行くことにした。境内で目的の石碑を探すがなかなか見当たらない。それにどの石碑も古いもので、表面が風化していてよく読めない。本殿を清掃している宮司?さんに「ここに、大窪詩仏の篆書の碑があると聞いてきたのですが?」と訊ねると、「ああ、それは百花園にあります」という、素気ない返事。最後に半分諦め気分で大国神・恵比寿神の社の左手にあった石碑群の中に辛うじて「本松斎一得翁之碑」と読み取れる碑を見つけた。読み取れない文面の最後にかすかに「天保三年 開溝南篆額 大窪行撰并書 廣群鶴刻」と読みとれた。はてさて、この「本松斎一得」とは如何なる人物なるや。帰宅後調べてみた。
本松斎一得之碑
25d16d52.jpg現代も続く遠州流
609ba70d.JPG 江戸後期に京都で創められた遠州流挿花はやがて江戸下谷常林寺の住職日寛(花号、本松斎一得)に伝えられ優美華麗な花形が浅草遠州ともてはやされ明治大正昭和と全国に流行し、人々は紳士の嗜みとして修得し、家を飾り又集って技を競いました。艶麗、清潔感、凛とした強さと気品等江戸前の「粋」が彼等の美意識でした。昨今の風潮や嗜好を考えると、往時の繁栄は望むべくもないが、現代も孤蓬遠州流生花としてつづいているということじゃ。
 ここから、桜橋を渡って帰宅した。今日も爽やかな秋晴れの一日になりそうだ。
 アラリンの歓迎の日取りが決まった。K嬢にメールで連絡しておいた。アラリンはもう日本へ着いているはずだが、携帯に電話しても電源がとどかなかったり、切れたりしていてなかなか通じない。今日明日は海へ(サーフィン?に)行っているのだろう。まあ、月曜日にでもまた電話してみるか。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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