瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 昨年12月29日のブログで記したように、日本の七福神と同じような「八仙」というのがある。中国の民間に伝えられている8人の仙人のグループのことで、漢鍾離(かんしょうり)、張果老、韓湘子(かんしょうし)、李鉄拐(りてっかい)、曹国舅(そうこくきゅう)、呂洞賓(りょどうひん)、藍采和(らんさいわ)、何仙姑(かせんこ)の8人をいう。

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 漢鍾離:正しくは鍾離権(しゅうりけん)といい、漢代(あるいは唐代ともいう)の人で団扇を持っている。道教の一派全真教では「正陽祖師」として尊ばれている。李鉄拐から仙術を学んだ。点金の術を使い石を金に変え貧しい人々を救ったという。死者の魂をよみがえらせる扇を持っているという。
 張果老:張果の尊称で、唐代の人。驢馬に跨り(あるいは徒歩で)、漁鼓と簡板(ともに楽器)を持つ。伝説によれば、久しく中条山に、唐の武則天のころには数百歳であったという。武則天が彼を宮中に招こうとしたが、死んだふりをして断った。いつも白いロバに後向きにまたがり、一日に数万里を旅し、休むときにはロバを小さく折りたたんで、小箱にしまっておいたということじゃ。
 韓湘子:韓湘子は韓湘の尊称で、唐代の人といわれる。有名な韓文公(韓愈、768~824年)の姪(おい)あるいは姪孫(てつそん)であるといわれている。笛を吹いている。韓愈が潮州に左遷される旅の途中、大雪にあい、そこに韓湘子が現れ藍関の駅舎に泊まった。別れ際に韓愈の将来を予言したが、それがすべてあたったというということじゃ。
 李鉄拐:鉄拐李ともいわれ、びっこでいつの世の人か判らない。瓢箪と杖(つえ=拐)を持っている。太上老君(老子)から仙術を授かったという。彼が太上老君に会うために天宮に赴いた時に弟子がその肉体を誤って焼いてしまい、仕方なく乞食の遺体にもぐりこんで行き返ったという。その乞食は足が不自由だったが、李鉄拐はその後をその姿ですごしたという。乞食が持っていた竹の杖を仙術で鉄の杖に変えそれを持っている。
 曹国舅:宋の曹太后の弟で紹興4(1134)年に仙人になったという。雲陽板(陰陽版とも言う、一種の楽器でカスタネットのようなもの)を持つ。下の弟が権勢を借りて悪事を働くのを見て、災いが自分に及ぶのを恐れ、私財を散じて貧民を救い、自分は山に入って修道したという。
 呂洞賓:呂祖ともいい、唐代の人。背に剣を負い、手に払子(ほっす)を持っている。放浪の途中漢鐘離に出会い、丹薬の製法を教わり、後に終南山に篭って仙術をおさめた。10の誘惑に打ち勝って魔法の剣を授かりそれを背負っている。なぜだか理髪屋の職業神であるという。
 藍采和:韓湘子と共にこのグループにおける2人の青年で、花籠を持っている。破れた青い長衣をまとい、片足ははだし、大きな拍板を持ち、物乞いをしていたという。酒に酔えば歌い、天下を巡り歩いた。ある日空から音楽が聞こえてきて、天にのぼったという。
 何仙姑:名は瓊(けい)、唐代の人で、グループ中たった1人の女性。手に蓮の花や葉をもつ。広州の雲母渓に住んでいて、14・5歳のときに雲母の粉末を食べ仙人になり、空中を飛ぶように歩き、毎日山中深く入って柔らかい筍を探し病気の母に食べさせたので、人々の尊敬を受けたという。
 八仙のメンバーが今のようになったのは、宋末から元初のことだろうということじゃ。
 百花園園主鞠塢(きくう)は福禄寿の陶像を愛蔵していたが、ある初春の一日、百花園で風流に浸っていた文人たちが誰ともなく、その福禄寿に因む正月の楽しみ事はないものかという話になった。隅田村多聞寺の本尊は毘沙門天、須崎村の長命寺に弁財天が祀られている事が判ると、何とか七福神を揃えたいものと頭を捻り、詮索を重ねていくうちに、小梅村の三囲稲荷には恵比寿・大國の小祠があり、また、須崎村の弘福寺には黄檗禅(おうばくぜん)に関係の深い布袋和尚の木像を蔵することが判明した。残るは寿老人だが、それがなかなか見つからない。結局思案の挙句、百花園のある寺島村の鎮守白鬚明神は、白鬚と申し上げる以上、白い鬚のご老体のお姿であろうから、寿老人(神)には打ってつけだと、いかにも江戸人らしい機知を働かせ、ここにめでたく七福神が揃うことになった。
東京スカイツリー建設現場
57f8f43f.jpg 隅田川七福神めぐりの道順を略記すると、まず言問橋上流の土手下にある三囲神社(恵比寿・大國)から、社前の通称向島見番通りを真直に北に進むと、左側隅田公園寄りに大きな山門のある弘福寺(布袋尊)に至り、すぐ隣接して長命寺(弁財天)がある。ここから墨堤を約500mほど行って地蔵坂を下り、左に折れると百花園(福禄寿)である。墨堤畔に出て白鬚神社(寿老神)に詣で、再び堤上を北へ。白鬚橋の交差点を過ぎて、墨堤に沿って道なりに北に進み、左に白鬚防災団地、梅若塚や榎本武揚像をのぞみながら、鐘ヶ淵紡績工場の跡地(グラウンド)で右に曲がると多聞寺(毘沙門天)が在る。昨年は婆様と2人してこの順に巡った。
 今年は婆様は少々疲れたということで、昼飯後爺々一人だけで、東武伊勢崎線で鐘ヶ淵まで出た。途中業平橋で東京スカイツリーの建設現場が見下ろされる。今日は1月初め仕事始めで、現場の作業は既に始っていた。鐘ヶ淵で下車、多門寺まで北上し、昨年とは逆向きに隅田川七福神巡りをした。
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3bc0a034.JPG 七福神を祀る社寺を巡りながら、それぞれの分体をうけて宝舟にのせていく趣向があるといい、江戸の風流人らしい発想ともいえそうなので、これをやってみることにした。
e32d1902.jpg 各寺社で400円もする分体を買い求め(宝船は白鬚神社で1000円で売っている)多門寺(毘沙門)→白鬚神社(寿老人)→百花園(福禄寿)→長命寺(弁財天)→弘福寺(布袋尊)→三囲神社(大黒天・恵比寿)と凡そ2時間をかけて巡ってきた。
 帰宅後早速七福神の乗った宝船をセットし、婆様への土産とした。






田端駅前の太田道灌像
acd20259.jpg東覚寺にて
e2b4d5ea.jpg青雲寺にて
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修性院にて
02b621f1.jpg天王寺にて5823945a.jpg   
 観音裏から午前10時40分発のバスで日暮里駅に出る。日暮里駅前で太田道灌さんにちょいとご挨拶。山手線で田端へ。お江戸で一番古いという谷中七福神めぐりのスタートである。スタートの東覚寺でもらった巡回案内図を片手に陽だまりの道を選んで不忍池の弁天堂まで3時間を要して歩いた。
七福神御朱印
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db29bb11.JPG東覚寺 福禄寿
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青雲寺 恵比寿
7697cd7b.JPG修性時  布袋尊 d8c9e09c.jpg
長安寺 寿老人
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天王寺毘沙門 
60a9f97a.JPG大黒天            
8cea90c8.JPG不忍池 弁財天
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 東西メグリン(台東区の巡回バス)は浅草寺近辺はさけて、いずれも迂回しているので、京成上野駅から地下道を通って銀座線上野駅から地下鉄で帰宅した。家に着いたのは午後3時を過ぎていた。
 昨日は、午前中は大学箱根駅伝を見たが第2区では日大の20人抜きがあったし、最後の5区で往路優勝は早稲田のものと誰もが思った後での東洋大の大逆転があり、大変オモロカッタ。
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d27984d2.jpg 駅伝も終る頃になって、次々に年賀に見えてくれた。S・K、I・K、T・Kの諸兄とT・S夫妻が訪ねてくれた。I・K兄は、同期のY・Aさんとどこかで待ち合わせをしていたらしく一旦帰宅のあいさつを済ませたのだが、連れ立ってまた引き返してくれた。Y・Kさんは20数年、いや30年振りの対面かもしれない。いずれも塾友であるが、いずれも50歳という人生の半ばをすぎた熟年という年頃になり、年々暈けて世間知らずになってゆく爺にとっては教わることが多いのである。
 今日は婆さまの誕生日。昭和10(1935)年生れの亥年である。婆さま曰く「正月に生れると、誕生日なんて祝ってもらったことが無い」と。今更、面と向って「誕生日、おめでとう」なんて照れくさくていえたもんじゃない。一緒になったのは爺が27歳、婆が24歳見えぬ糸で結ばれていたのだろう。50年もの間、この我侭爺々の面倒をよう見てくれたもんじゃと感心する。

b6c9a43d.JPG 午前11時、家を出て、 待乳山聖天→今戸神社→橋場不動院→石浜神社→吉原神社→鷲神社→先崎稲荷→浅草寺→三社様 と『浅草名所七福神めぐり』をしてきた。長いこと、浅草に住んでいて、この浅草名所七福神めぐりは初めて。先崎稲荷なんていうのは初めてお参りした。
待乳山聖天
189eb624.jpg今戸神社
0fa3edab.jpg橋場不動院
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 石浜神社
cc3a55cf.jpg吉原神社
581884d2.jpg 鷲神社
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 先崎稲荷
c89bef1b.jpg浅草寺
98bd8e04.jpg三社さま96d02c1e.jpg






吉原神社までは何ということは無かったが、鷲神社は人の本殿から一の鳥居まで長蛇の列で、仕方なく列のはずれでお参りし、振る舞ってくれた甘酒を飲んで、そこそこに矢崎稲荷へ。浅草寺は遠くからお屋根を拝むだけ、お隣の三社様も長蛇の列。列の脇から、2礼2拍1礼のご挨拶だけで、そそくさと帰宅した。時に午後2時。徒歩歩数は16200歩。
 あけましておめでとうございます
 月並みな挨拶で、去年は目出度いことなんていうのはあまり無かった。ニュースは概して暗いものが多く、衆人の不安をそそるものばかりで、うんざりさせられた。毎年毎年念頭には同じようなことを考え、今年こそは今年こそはと思うが、意に沿うようなことはなく、成るようにしか成らぬと半分諦め気分で、爺の頭だけが、年々お目出度くなるようじゃ
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b2d01394.JPG 尚書(書経)・武成篇に「馬を崋山の陽(みなみ)に帰し、牛を桃林の野に放ちて、天下に用いざるを示す」とある。周の武王が殷を滅ぼし天下を平定したときのことで、戦いが止んで平和になり、不用に成った牛や馬を山野に放ち再び用いないことを宣言したという。すなわち「戦備を解いて戦争放棄の有様」を『帰馬放牛』と云う様に成ったらしい。
 エジプトが仲介したハマスとイスラエルの停戦はハマス側が「イスラエルが停戦合意に違反してガザ地区に対する封鎖をほとんど緩和しなかった」として、停戦延長を拒否したためだという。実際、イスラエルはさまざまな“口実”を設け、実質的な封鎖緩和措置は取らず、ハマスだけでなく仲介者のエジプト政府も失望させた。結局、医薬品や食糧など生活必需品の不足は続き、国連や欧州連合(EU)もガザ住民の生活困窮に強い人道上の懸念を示す状況になっているという。
9cf5d3ca.JPG という訳で、今年は丑年でもあるし、賀状のテーマをこの地球上からの戦火の終結を願って、『放牛于桃林之野』とした。叶わぬ願いとは知りつつも、少しでも戦禍がおさまることを願うものにした。メールは判っていても、住所不詳の方が何人かいらっしゃるので、このブログで挨拶に代えさせていただきます。
 叶わぬ時の神頼りで、浅草名所七福神にでも出掛けることにしようかな。


Air Mail が2通届いた。どちらも塾友からの便りである。
1通はイギリスのアラリンから、もう1通はアメリカのシアトルママから。
  
アラリンの便りは塾生の皆さん宛のよう。
acb0fdde.JPG もう1通はシアトルママさんから
  Wishing you  good cheer and merriment!
  日高先生、道子先生
  お元気でしょうか? 9月に長男のキンダーガーデンが始って以来すっかりブログは休んでしまっています。
  2009年も先生にとって良い1年になりますように!!
  お体に気をつけてください。2009年もどうぞ宜しくお願いします。
                       ジュシュ、仁美、K&M
 ここ3・4日鼻風邪気味で、立ち上がってチョット動くと鼻水がたれてくる。という訳で外に出かけることを差し控えている。昨日は爺の親父の命日。爺がまだ12歳だった1945年、やっと戦争が終った年の暮れ、廣島の山間部の木小屋の仮住まいで、ろくに医者に診せることもできず、死んで行った。死後の診断では肺結核ということであった。
eae2c246.JPG 今日は、晦日。関西のS兄から、年越し蕎麦として浪速は瓢亭の「夕霧そば」が送られてきた。いうまでもなく、年越し蕎麦(としこしそば)とは、12月31日大晦日に縁起をかついで食べられる蕎麦ことである。全国的に見られる風習であり、年を越す前に食べきらなければならず、蕎麦を残すと翌年金運に恵まれないなどと言われる。江戸時代中期には月末に蕎麦を食べる「三十日(みそか)そば」という習慣があり、大晦日のみにその習慣が残ったものと考えられている。年越し蕎麦の由来とされる説は「細く長く達者に暮らせることを願って」というものがもっとも一般的である。ほかに、蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労を切り捨て翌年に持ち越さないよう願ったとか、金細工職人が作業場に散った金粉を蕎麦粉の団子で集めたことに因み、金運を願ったとかいわれている。

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 お昼前に、塾友のM・Fさんが、「31日には娘がカナダから帰国するので、大晦日・新年は失礼します」と挨拶に見えた。午後はM・Mさんが旦那さんと連れ立って、挨拶に見えた。今年も後1日、ブログも、今日が書き納めということになるだろう。ブログのアタック・カウンターもどうやら、10,000に達したようだ。
 来年の年の初めは、浅草七福神めぐりをしてみようと、下調べしてみると、浅草名所七福神は九社寺あって、その由来は「九は数のきわみ、一は変じて七、七変じて九と為す。九は鳩でありあつまる意味をもち、また、天地の至数、易では陽を表す」という故事に由来するということである。何だかよく判らないが、数について調べてみる。
cc245b19.JPG Pythagoras(ピタゴラス、BC582~496年)は「この世のものはすべて数字で表すことができる。その数字の真の意味を理解すれば、その背後にある隠された真実を知ることができる」と説いた。その大まかな内容とは
1: 開始・自立・革新・独創性唯一の存在、「絶対」を表す。
2: 協調・親愛・知恵・受容性二つの関係性を持つ「相対」を表す。
3: 閃き・開放・歓喜・創造性方向性を生み出し、「発展」を表す。
4: 基盤・形態・信頼・現実性4つの柱を持ち、「安定」を表す。
5: 自由・進歩・活動・自発性動きを生み出す「変化」を表す。
6: 慈愛・献身・結合・完全性陽性と陰性のバランスである「調和」を表す。
7: 変革・探求・直観・精神性大いなる変革であり、「飛躍」を表す。
8: 統率・繁栄・活力・現実性物質性と精神性のバランスである「秩序」を表す。
9: 変容・共感・治癒・神秘性完成へ向けてすべてを結実させる「完結」を表す。
10(または0):全包括・全宇宙・神の栄光すべてを含む「完全」を表す。
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65951c99.JPG 数に対して神秘的な意味を与え、これにより特定の数を嫌ったり、あるいは吉とする概念は各民族の間にみられる。中国では古代から奇数を陽数として尊んだのに対して、偶数は陰数として忌み嫌った。この風習は日本にも移入されて現在に及んでいる。しかし、大陸文化が移入される以前にはかえって偶数が尊ばれたこともある。これらの概念は必ずしも一定しておらず、条件によって左右されることが多い。一般に吉とされる奇数の中にも三などのように忌数とされることもある。3人で写真を撮れば中のものが死に、3軒長屋の中の家は祟りがあり、食物の三切れは「身を切る」と考える俗信などがそれである。四は南方諸民族などでは聖数として重要な意味を持っているといわれるが、日本では「死」に通ずるとしてとくに忌ま和、病院や刑務所などでは4号室は避けられた。42は「死に」に音通するために嫌われている。この爺の御袋さまは爺の42歳の厄年の正月に東京に遊びに来ていて倒れ、4月2日にあの世に旅立ったので、こんなこと迷信だと思っても、42「死に」の数は忘れられない。しかし、運送店などでは「しじゅう荷」として好まれているという。また、七は七福神あるいは七賢人等として尊ばれると同時に、月の7日に船出することは忌む。偶数の場合には日本ではとくに八が末広がりで幸運な数とされる。古代日本ではこの「8」は神聖な数とされ、八咫鏡(やたのかがみ)、大八洲などの用例がある。中国でも同様に八が縁起が好いとされるが、理由は「発財」(金持ちになる)の「発」と「八」の発音がおなじであることからで、末広がりの概念は無いらしい。八は中国文化の中で吉祥を表わす数字で、“八卦”“八段錦”“八仙”など目出度いものに八という字を採用している。日本では、九の「く」という読みが「苦」を連想させる事から、凶運とされ、宿泊施設・集合住宅・入院施設の室番号等で9が避けられることがあるが、中国では、九の発音が「久」に通ずる点と、漢字一文字で書ける数字の中で最大の奇数(奇数は吉数、偶数は凶数とされる)である事から、幸運の数字とされるのである。
 午前。桜橋通りを真っ直ぐに見番通り・水戸街道・小梅通り・曳舟通りを通り抜けると東武伊勢崎線が走っている。線路沿いに曳舟駅の方向に進み、路地をあっちこっちと歩いていると飛木稲荷神社にぶち当たった。隣り合って、天台宗 圓通寺があった。
飛木稲荷神社
92247710.jpg大銀杏と鳥居
7f02e357.jpg神社説明板
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 戦災にあった大銀杏
2d1868ad.jpg銀杏の説明板
a08283f2.JPG奥の院
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 飛木稲荷の名は、ご神木の銀杏の木に由来する。墨田区一の大木であり、「社前に銀杏の大樹四囲許なるものあり」と伝えている。戦災のために、根本から梢まで部分的に焦げてしまい、一時は樹勢が衰えたが、現在は回復しているという。焦げ跡は、東京大空襲の凄まじさを伝え、都内に残る被災樹木としても希少な存在となっている。祭神は宇迦神霊命(うかのみたまのみこと)という。
圓通寺山門
8ede4827.jpg本堂
de6bf281.jpg地蔵菩薩
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 地蔵菩薩説明板f51ad24b.JPG
大東亜戦争慰霊塔
e7b59e9d.jpg小僧さんの石像
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ぬれ仏
5d751103.JPG 圓通寺の境内に入ると右手に地蔵菩薩立像が立っている。一部破損はあるものの、ほぼ原形を保ち、区内でも最古に属する石仏という。顔は童顔に満ちていて江戸初期の佳作にふさわしいものである。また、この石仏は寺島村新田(旧称)の、「寒念仏」を修復した記念に、結縁衆の「菩薩」を弔うために造立・奉納されたものでもあるということじゃ。直ぐ隣には、「大東亜戦争殉難者之碑」がある。元吾嬬町西一丁目連合町会会長と役員一同によって昭和43(1968)年3月10日に建立されたものという。門と庫裡のあいだを入って裏の墓地に向かうと、おびただしい数の古い墓石や地蔵が安置されている。その中に、無縁仏を守るかのように通称「ぬれ仏」と呼ばれる地蔵が立っている。空襲時、隣の飛木稲荷の大銀杏とともに炎につつまれ、無惨にも半身が削り取られてしまい、焼けこげて、大変痛ましい姿になってござらっしゃる。庫裏の入口に可愛らしい小僧さんの石像が安置されていた。
高木神社
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78fb272c.jpg 飛木稲荷神社と圓通寺にお別れして、曳舟通りに出る手前に高木神社というのがあった。應仁二年の創祀と伝えられ、旧寺島村新田の鎮守として尊崇されており、古くは「第六天社」と称えられ、天台宗正圓寺が別当として管理してた。明治初年、神仏分離の制度が定められ、社名を「高木神社」と改め、昭和15年6月村社に列格したという。祭神は高皇産霊神(たかみむすびのかみ)という。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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